日本では、金融市場が発展して、資本市場の発展は遅れているといわれている。その原因の一つが、資本という考え方が、日本では、今一つ確立され点に移転にあると思われる。
 元々、資本というのは、返済する必要のない資金という考え方が支配的である。ではなぜ、返済される必要のない金、翻って言えば、返される当てのない金を提供しなければならないのかというのが、多くの人には、わかっていない。つまり、投資の意味がわかっていない。故に、株式投資をするのは、株価の相場にかけるいわば投機、博打だという認識が一般には強い。要するにまともな取り引きではないのである。

 資本とは何か。不思議なことに、現代社会は、資本主義社会だと言われながら、資本という概念ほど曖昧にされ続けている概念は他には、あまり見受けられない。資本という概念は、曖昧なだけでなく、多様でもある。立場や論者の都合によって姿を変えさせられてしまう。
 教科書の中には、資本とは、返済する必要のない資金と説明しているものがある。だから、自己資本とも説明される。
 ところが、なぜ返済される必要のない資金なのか、また、なぜ、返済される可能性がない資金を集めることが可能なのかが不明なのである。
 そんな質問をすると、面倒臭そうに、投資家は、配当を当てにしているからだと言われ、配当と言ったって利益が上がってないときは、配当はないし、決まった金利をもらった方がいいではないかと言われると、投資家は、実際は、キャピタルゲインを当てにしているからだという。しかし、最初からキャピタルゲインを当てにして、投資家は、資金を提供するのであろうか。大体、市場で取り引きできる株というのはかぎられているし、最初から、市場で取り引きされているわけでもない。なぜ、返済される当てのないのに、投資家は、資金を投資するのか。それを理解しないと資本主義の根本理念は理解されない。

 資本は、株主取り分だと言う解釈もある。では、株主取り分とは何か。しかし、返済する必要がないならば取り分を決め手も仕方がない。
 返済する必要のない資金と言うところが、資本の味噌なのである。返済する必要がないというのは、どう言うことを意味しているのか。なぜ、返済する必要のない資金を投資家は、提供するのか、それが、資本主義を理解するための鍵を握っている。

 資本は、株式会社の成立動機が、重要な意味を持つ。返済する必要がなかったのではなく。元々は、返済していたのである。株式会社の前身は、当座企業だったのである。

 1602年、「オランダ東インド会社」が、「イギリス東インド会社」の10倍の出資金にあたる訳650万ギルダーの資本を集め発足した。それが、世界最初の株式会社といわれる。
 「イギリス東インド会社」は、「オランダ東インド会社」に先立つ1601年に6万8373ポンドで発足したが、16050年頃までは、数航海をまとめた「合本企業」であり、その都度、資産を分割する「当座企業」だった。それが、1605年、ピューリタン革命によって成立したクロムウェルの共和制下で「合同合本制」になり、その都度、資本を分割するのではなく、収益分のみを株主に与える「配当」制がとられるようになる。これらの改革の結果、「株式」(シェアー)は、売買が自由な証券となったのである。発足は、イギリスの東インド会社の方が早いのに、オランダの東インド会社の方が世界最初の株式会社だと言われるのは、イギリスの東インド会社は、当座企業だったからである。(「東インド会社」浅田 實著 講談社現代新書)
 「オランダ東インド会社」が世界最初の株式会社と言われる由縁は、投資家の有限責任を明らかにした点、永続的な海商企業だと言う点である。出資は、10年間固定され、10年後に「一般的清算」が行われ、以後希望者にのみ入退社が許された。(「東インド会社」浅田 實著 講談社現代新書)
 
 資本市場は、第一に、この様な株式会社の起源による部分が大きい。次ぎに考えられるのが、近代会計制度の影響である。また、三番目に重要なのは、国債からはじまる債権制度の成立である。そして、第四に、貨幣制度である。また、第五に産業革命による資金需要である。
 株式会社の起源は、第一には、冒険商人による当座企業である。第二に、東インド会社のような国家的事業。また、この様な国家的事業以外の私的事業は、身内や志を同じくする者が、資金や資源、労力と言った持てる者を出し合って設立した。第三に、身内や志を同じくする者達が、持てる資源、資金、労力を出し合ったことである。ただ、本家本元のイギリスでは、南海バブルの後遺症のために、長い間、小規模の株式会社の設立は、制限されていた。

 株式会社は、第一に、有限責任制度の確立。第二に、継続会社。第三に、期間損益の確立と配当度の確立。第四に、証券市場の確立と株式売買の自由。第五に近代会計制度の確立と言った要素によって確立されたのである。そして、株式会社という制度は、資本主義の成立を準備したのである。

 中でも、株式の売買の自由と証券市場の確立、及び、近代会計制度は、資本市場を準備したのである。返される当てのない事業に誰が資金を提供するであろうか。その様な発想は、資本主義が確立される以前には、見あたらない。所謂、何等かの慈善事業や宗教団体に対する募金、拠出金のような性格のものである。当座企業から発展したからこそ、資本は成立できたのである。返される当てのない事業に投資すると言うためには、株主の有限責任と株の売買が可能であることが前提となる。当初は、当座企業である株式会社というのは、極めて運命共同体的傾向の強い機関だったのである。それが、会計制度の確立に伴って期間損益の確立、株式の売買の自由などが成立し、はじめて資本主義の土台が出来上がったのである。

 資本は、最初から返済する必要がなかったのではなく。返済する必要がなくなったと考えるべきなのである。そして、返済する必要がなくなったことで、資本主義は確立されたと見るべきなのである。そして、資本主義を準備したのが資本市場である。

 最初から儲からないと思うことに投資する者はいない。投資するからには、初めは儲かると思っているのである。しかし、儲かるか儲からないかは、はじめてみないとわからない。そこにリスクがある。資本主義は、そのリスクをだけが負うのかによって成り立っている。

 創業者利益や投資家利益はリスクに対する配当である。日本では、投資家や創業者というのは、博打打ちか、利益を搾取する者のように捉える傾向がある。それが企業の持ち主は、株主だという発想に対する反発になるのである。しかし、創業者や投資家は、最初にリスクを承知で資金を提供しているのである。なぜ、危険を承知で資金を投入するのか。そこに重大な意義が隠されている。それが資本主義の原動力であり、資本主義を成立させた大前提なのである。

 投資家や後援者、篤志家のような者がいなければ、皆、事業をはじめる時は、貧しい。だから、かつては、親族や仲間が資金を出し合ったのである。それが、資本の始まりである。だから、成功した暁には、儲けを皆に分け合ったし、事業は、資金を出し合った者の物だという意識が高かった。

 事業は、志である。事業家や投資家が何を志すかである。ただ、金儲けだを目的とした事業は、長続きしない。一時的に栄えたとしても、結局は、求心力を失うからである。資本の問題も行き着くところ志にある。そして、資本の根底にあるのが定款なのである。事業において志が見失われてから久しい。その原因は、経済の根本理念を確立しなければならないはずの経済学が、人間に対する洞察を欠いているからである。
 企業が人間集団であることを見落としてはならない。そして、創業当初の志が失われると企業は、ただ単なる金儲けのための機関に過ぎなくなる。つまり、事業の実体は失われ金儲けだけが問題となるのである。そうすると資本市場の基本的性格も変質してしまう。

 物的市場も人的市場もそれだけでは成り立たない。貨幣市場が媒体となって成り立つのに対し、貨幣市場は、貨幣市場として成り立つ。それがいろいろな問題を引き起こしている。その顕著な例が資本市場に現れている。

 2005年から2006年にかけては、ライブドア問題、2007年は、サブプライム問題で資本市場が揺れた。いずれも、今日の資本市場を象徴するような出来事だった。

 ライブドア問題やサブプライム問題は、制度の持つ欠陥をあらわにした。それ以前には、バブルやエンロンの問題がある。

 株の暴落は、時として大恐慌の引き金を引いてしまう。それ故に、人々は、資本市場の動向を注視するのである。恐慌は、単に経済だけではなく。失業を増やしたり、また、インフレやデフレの原因となって人々の生活に直接的な影響を及ぼすのみならず、戦争という惨禍の原因ともなる。
 制度や政策が及ぼす影響力の方向性、ベクトルが重要であり、間違うと、景気の波動を増幅してしまうことすらある。そして、常に、経済の大変動の震源地は資本市場である。
 ではなぜ、資本市場は、この様な作用を経済及ぼすのであろうか。それは、資本市場の本質にかかる問題である。
 資本市場とは何か。資本市場というのは、基本的に資本を取り引きする市場である。それでは、資本とは何かという事になる。会社法の改正によって資本の部が純資産の部に変えられた。ならば、資本は、純資産なのかというとそうとも言い切れない。純資産という意味は、総資産から負債総額を引いたものである。それに対し、資本には、純資産という意味の他に、元手、出資金、内部留保、累積(未処分)利益、株主持ち分、会計上の資本の部、資本金などの意味が加わる。
 そして、それぞれの概念が、資本の意味の断面を現している。その為に、一概に資本を定義することが困難なのである。ただ、資本市場においては、資本というのは、株主持ち分を指して言う。株主持ち分というのは、企業の所有権を指して言う。

 つまり、資本市場においては、資本とは、企業の所有権を表す。企業の所有権を取り引きするのであるから、企業価値が重要になる。企業価値を測ると言う時に、また、資本の持つ意味が問題になる。
 何が問題となるのか、企業価値を測る尺度が、立場によって違うと言う事である。それが資本の概念に関わるからである。債権者にとって重要なのは、債権の回収であり、将来にわたって貸した金を回収できるだけの収入を維持し続けるだけのキャッシュフローが保障されているかである。投資家にとっての企業価値は、投資に見合うだけの配当、また、収益力である。それに対して、投機家にとっての企業価値は、資本市場における価値、即ち、株価である。つまり、視点が立場によって違ってくるのである。

 市場には、財的、実物市場と人的、労働市場、金銭的、貨幣市場の三つの市場がある。実物市場とは、財を扱う市場で、労働市場は、労働を扱う市場である。そして、三番目の貨幣市場は、貨幣を扱う市場である。
 また、それぞれの市場には、取引を仲介する対象が必要となる。その対象は、物であったり、貨幣であったり、情報であったりする。貨幣市場が未発達な段階では、物が仲介物として使われた。つまり、基本的には、物々交換市場である。それに対し、貨幣経済が浸透した今日では、貨幣が仲介物として使用されている。つまり、市場の構成は、実物市場では、財対金、労働市場では、人対金、貨幣市場では金対金の市場である。

 先物市場は、現物ではなく、交換の権利を取り引きするのであるから、貨幣市場の一種といえる。

 貨幣市場は、金対金という事で裏付けとなる実体を持たない。それ故に、金が金を生むという性格を帯びると歯止めが効かなくなり、俗に言うバブル現象を引き起こすことになる。つまり、何らか実体を持てば実体は有限であるから、その限界点でそれ以上の拡散は、抑止される。しかし、貨幣は観念の所産で際限がない。故に、かつてドイツで起こったような狂気じみたハイパーインフレが発生するのである。

 その様な、貨幣市場の暴走を抑止する目的で、かつては、本位制度を採用していた。本位制度下では、実物市場と貨幣市場とを基準となる物によって繋いでいた。金本位制度では金がその基準物である。それが金本位制度の崩壊以後は、貨幣市場は、実物市場と切り離されたところで成立することとなった。つまり、財は財、貨幣は貨幣として独立した動きをするようになったのである。
 この様に、今日、実物市場から切り離されたところで貨幣市場は、成立している。そして、その貨幣市場の一翼を担っているのが、資本市場である。

 資本というのは、本来、清算価値という性格を持つ。つまり、一つの事業が終了した時点で、儲けを分配するための権利だと言う事である。つまり、かつての企業は、当座企業であり、清算時点で相当の利益、最大限の利益を持っているという事が前提にある。それに対し、今日の企業は、継続企業であり、清算というのは、破産、ないし、倒産であり、債務超過である場合が多い。つまり、清算時点では無価値である場合が多いのである。
 それなのに、なぜ、資本市場が成り立つのか。それは、資本市場が成立した歴史的背景もある。つまり、資本市場は、それが成立する過程で、本来の目的が失われ、資本そのものが商品価値を持つ様になったのである。そして、投機的な価値、と言うよりも、賭博的な価値が加味されるようになったのである。いわば、株が馬券と同じ働きがあると見なされるようになったのである。資本市場には、当事者がなんと言おうと一種の博打性があるのである。そして、その資本市場の性格を増長させたのが負債の概念である。

 負債と資本は、会計上は、総資本の中に含まれる。つまり、資金の調達手段である。つまり、負債の資本も資金の調達手段であるという点では同じなのである。この点を注意しなければならない。つまり、負債と資本は、手段の違いであり、目的は同じだと言うことである。

 市場経済においては、借金、即ち、負債が重要な要素である。つまり、負債の概念が資本主義経済を成立させたとも言える。そして、その負債の概念の対極にあるのが資本である。そして、この負債と資本のバランスによって資本主義は成り立っている。
 なぜ、企業は、借金をするのかである。事業を自前の資金だけで経営できるのならば、借金をする必要はない。借金には、大別して、運転資金と投資資金、更に、非常・緊急の資金がある。これらの資金を自前の資金で賄うのには、限界がある。その為、資本や金融市場が整備される以前は、家内制工業までしか発展しなかったのである。
 つまり、初期投資が巨額な事業は、単年度での収支は、均衡しない。最初から資金が続かなくなる。そこで投資市場、資本市場が生まれ、同時に期間損益に基づく会計制度が確立されたのである。しかしそれでも、経営過程で生じる運転資金や更新、再投資資金の需要も賄えない。また、期間損益が確立されたことで、実際の現金の動きを示す収支と利益を計算する損益の間に時間差が生じた。その為に、その時間を埋めるための資金が必要となったのである。特に、急激な社会変動は、単年度の損益上では均衡できない場合が生じる。その場合は、資本に含まれている内部留保を取り崩すことによって不足分を補填することになる。それが資本の重要な役割の一つであり、利益の必要性でもある。利益は、搾取だという思想で、何が何でも利益をなくしてしまえと言う事になると、企業は、急激な社会変化に対応できなくなる。いずれにしても、自前の資金だけでは対応できない。そこで金融市場が成立したのである。この資本市場と金融市場は、資本主義体制の両輪である。同時に、この資本市場と金融市場が、資本主義経済の諸々の問題の元凶ともなるのである。

 土地の高騰を例にして考えてみよう。
 実際の土地取引で動く資金には限りがある。しかし、実際の土地取引は、周辺の土地の潜在的価値、時価に影響を与え相続税や担保価値を設定する上での算出根拠となる。それは、固定資産、地価税、相続税と言った不動産関連税の納税額や担保価値を上昇させる。担保価値は、負債の裏付けとなる上、それに時間的価値が加わるとレパレッジ効果を引き出す。それが、乗数効果を引き起こす。この乗数効果は、公共投資よりも大きい。
 また、税制度は、負債を促進する効果がある。また、貨幣経済下では、不動産のような財は、放置すると、金利分、減価する。
 土地取引で言えば、実際の土地取引までが実物市場で取引され、その先は、貨幣市場で取引されることになる。
 そして、土地を担保して得た資金が投資にまわされ、資本市場に流入するのである。

 この様に、資本市場と金融市場は資本主義の両輪である。そして、資本市場と金融市場は、相互に依存している。資本市場は、借金の技術によって支えられているのである。資本市場の需要を賄えるだけの資金は、借金をしなければ、供給できないからである。

 借金をする時、問題になるのは、資金源である。つまり、資金の源であり、裏付けである。つまり、担保となる物件、資産である。担保となる物件は、非貨幣性資産である。主として、会計上には、取得原価で示される。しかし、実際は、非貨幣性資産には、各々、独自の相場があり、一定していない。つまり、担保が設定した時点から担保価値と負債とは、遊離していく。担保価値が常に負債価値を上回って変化していればいいが、これが逆転すると債務超過状態になる。こうなると債権者は、債務を回収しようとする。それが更に担保物件の価値を引き下げるという結果を招く。
 それを回避するためには、担保価値が上昇し続ける環境であればいいのであるが、その為には、経済成長、市場の拡大が不可欠なのである。しかし、経済成長にも市場の拡大にも限りがある。少なくとも、調節局面が波状的に来る。それは、市場は、実体経済の実需に基づいているからである。また、国際情勢にも左右される。
 借金があるから、手持ち資金を増殖させ、事業を拡大することができる反面、借金があるから事業や資金が廻らなくなり破産するとも言えるのである。それ故に、全てを借金で賄うわけにはいかない。故に、自前の資金が必要となる。それが資本である。その資本を特定の人間や、機関から調達する場合と、広く不特定多数から公募する場合がある。前者が未公開企業であり、後者が公開企業である。資本市場は、公開企業の資金調達の場として成り立っている。
 負債によって、資本主義経済は、成立発展したが、反面、負債があるために、資本主義経済においては、絶え間なく市場経済を発展成長させなければならなくなる。つまり、資本主義経済というのは、元々、自転車操業経済なのである。回転や成長を止めれば、とたんにひっくり返って、大混乱を引き起こす。

 さらに、借金の技術は近年急速に進歩している。手形や小切手、預かり証、ローンやリース。売掛金。買掛金。国債。社債。また、最近は、資産・債権の証券化の技術が急速に普及しつつある。それに、先物取引。つまり、将来のある時点での権利を担保とするのである。それに加速を付けているのが金融工学である。この様に借金の技術の発達が近代経済を育んだとも言える。
 借金の技術は、貨幣経済が発達するのにともなって進化してきた。つまり、借金は、貨幣経済、金融経済の申し子とも言える。

 例えば、自前の金で株を買った場合と借金して株を買った場合、特に、信用取引のようにレバレッジ効果を最大限活用して株取引をした場合を考えてみればいい。
 自前の資金で株取引をしたら、一時的に損をしても、換金しない限り表に出てくるわけではないし、俗に言う塩漬けにして利益がでるまで持っていればいい。企業の場合では、会社が倒産しない限り、損が確定するわけではないし、返済を迫られるわけではない。大体、自前の資金で株取引をする者は、生活費をつぎ込んでまで株を買っているわけではない。かつての投資家の多くは、自前の資金で投資をしてきたのである。ただ、儲かるとわかると欲がでる。欲がでると借金をしても株を買うようになる。しかし、自前で株取引をするのと借金で株を取り引きするのとは本質が違う。自前の資金ならば、返済する義務がないが、借金は、一定の時期が来ると返済しなければならない。もし返済できなければ担保した物全てを取り上げられる。しかも、債務者主義の場合は、返済しきれなければ借金が残る。つまり、借金で株取引をした者は、常に、株が下落し大損をしたら破滅である。自分の財産全てを返済に充てなければならなくなる。
 しかも、信用取引をしていた場合、更に、実体のない、裏付けのない部分にまで損が及ぶことになるしかも、この裏付けのない資金は、一定期間を過ぎ、限度額を超えると追い証を支払わなければならなくなる。待ったなしに、返済が迫る。そうなるとレバレッジをかけただけリスクが発生することになる。投資ではなく、投機であり、博打なのである。

 現在の資本市場は、レパレッジ効果を利用し、また、株価操作などで、時価総額を膨らませるだけ膨らませ。ぱんんぱんに膨らんだ風船の上に乗っているような危うさがつきまとう。一度弾けてしまうと、実体がないだけに、バブル崩壊後の日本経済のように、一気に萎んでしまう危険性がある。

 資本市場は、実物市場ではない。資本・金融・為替市場は、貨幣価値間の取引によって成り立っている市場である。つまり、貨幣が貨幣を生み出す構図の中で成立している市場である。資本市場が過熱すれば、それだけ余剰の資金が生み出されることになる。
 そして、負債が生み出すレパレッジ効果によって生み出された余剰資金が、投資先を求めて世界の資本市場や金融市場、先物市場を徘徊する。それが、急激に流れ込んできたと思うと、流れ込んできたときと同じように、急激に逃げ出していく。その急激な変動が世界経済を震撼させるのである。

 資本市場、株式市場には、ある種のアウトロー的いかがわしさが付いてまわる。それは、投機や相場にあるギャンブル性、賭博性によっている。ライブドア問題やエンロン、又、それに絡んだアーサー・アンダーセン会計事務所の破綻は、所謂(いわゆる)株取引のいかがわしさを象徴する出来事だった。それは、資本が、資本、本来の目的によって機能するのではなく。資本が投機の対象として、あるいは、資金調達をの見目的化する事によって生じる。
 資本は、本来、事業の元手である。事業内容こそが重大なのである。株は、博打(ばくち)ではない。しかし、資本市場は、その成立当初から投機市場としての性格を持っていたのである。そして、それが、時として大恐慌の引き金にもなったのである。

 株式市場においても、また、債券市場や先物市場においても問題が起こるたびに、市場の是非が問われる。2007年においても株式市況の悪化を受けてサブプライム問題が表面化した。しかし、サブ・プライム問題や証券化の問題は、問題の所在が明らかにされないままに、ただ、犯人探しが先行しているように思える。
 サブ・プライム問題は、利益を得る者と損失を被る者が同一でないと言うことに問題がある。むろん、サブ・プライムローンそのものの在り方も今後見直す必要がある。サブプライムローンを証券化することによって受益者と保障者を分断してしまったことにある。要は、モラルハザードの問題である。責任の所在が不確かになることで市場が機能不全に陥るのである。
 証券化の問題もしかりである。証券化の是非を問題とする以前に、どの様な仕組み、制度でも悪用しようとすればできると言うことである。制度上の問題なのか。運用上の問題なのかを明らかにしなければならない。そして、その様な悪用をどの様にして防ぐかが重要なのであり、ただ、証券化を悪用する者がいるから、証券化は止めてしまえと言うのは、短絡的で、乱暴な話である。(「サブプライム問題の教訓」江川由紀雄著 鰹、事法務)

 資本市場は、資本の概念が確立されることによって成立する。資本の概念は、所有権と経営権の分離よって成り立つ。所有権と、経営権が分離する事を可能たらしめたのは、近代会計制度の成立である。故に、資本市場と会計制度は不離不可分の関係にある。

 資本市場は、市場経済の確立によって成立する。つまり、資本は、商品としての一面を持つのである。それが資本主義の根本的原理でもある。資本は、売買、取引が可能なのである。

 又、会計制度の成立は、株式会社の成立を促し、株式会社の成立は、資本市場の確立に不可欠な要素でもある。
 歴史的に見ると東インド会社の成立と南海バブル事件が株式会社と資本市場の草創期の出来事だと言える。

 資本市場は、貨幣経済の確立によって成立する。つまり、資本市場は、金融制度の確立が前提となる。

 貨幣の時間価値は複利である。故に、貨幣の時間価値は、かけ算的な価値であり、足し算的なものではない。

 資本は、投資と裏腹の関係にある。投資とは、ある一定の資金を提供することで、利益の分配と経営への参画の権利を手に入れることである。そして、会計制度は、この投資家に対する説明責任として発展した。故に、本来は、投資家は、出資者であり、企業の所有者であり、利益の分配を受けることを目的とした者である。つまり、実業家の資金の調達の手段として資本は、確立された。

 資本は、株式会社においては、株という形式をとり。株は、売買できる。また、投資家は、有限責任である。つまり、自分が投資した金額の範囲内で責任を負えばいいのである。
 そして、株が売買できることによって資本市場は成立したのである。また、資本市場が成立することによって投資家は、配当だけでなく、株の売買益、即ち、キャピタルゲインを受け取ることが可能となった。この事によって、資本は、経営主体に資本が果たす機能・役割以外に独自の価値を形成ことになる。つまり、企業は、経営実績による価値以外に資本市場によって形成する企業価値を持つことになる。これが、資本価値の二重性、多重性をもたらすのである。

 資本が独自の価値を形成すると言う事は、資本は、独自の市場を持つと言う事を意味する。それは、資本が、所有権と経営権を分離する事が可能だと言うところに依拠している。
 資本は、経営の循環とは違うところで資本市場価値を形成する。つまり、企業そのものが売買されるのである。
 そして、投資が、本来の企業価値から乖離して、投機に置き換わってしまうことがある。資本市場が成立した直後から資本の持つ投機性、資本市場の持つ賭博性は、問題を引き起こしてきた。結局、企業の実績を上げるよりも資本市場から資金を調達することのみを目的とした企業が現れたのである。

 企業の格付けは、この資本市場の特徴をよく示している。企業を格付ける事自体、所謂企業価値を測ることになるのである。又、資本市場は、この企業の格付け、企業価値の評価によって成り立っているとも言える。ただ、その価値付けは、あくまでも貨幣的価値であり、定量的なものである。そこに、資本主義社会が数値的な社会体制であることを運命付けているのである。

 そして、資本市場が熱気を帯びるに従って企業本来の価値よりも企業の市場価値の方が重視されるようになってきた。そして、それが会計的情報によって裏付けられていることによって会計制度が資本市場の目的に適合するように歪められてきた。つまり、企業の経営実績を正しく評価するための会計ではなく。株価を形成するための会計制度に変質してきたのである。

 資本市場の投機性は、巨額の資金を資本市場に引き寄せた。確かに、それによって、経済現象を左右するほどの影響力を資本市場にもたらし、時には、国家経済を奈落の底に落とすような事象をも引き起こしたのである。しかし、同時に資金の運用の自由ももたらした。そのことは忘れてはならない。資本市場に資金が集まることによってより大きな事業を成立させるための資金的基盤が準備されたのである。それによって近代企業の資金的礎が固まったのである。

 企業価値の証券化は、株の本質を表してもいる。同時に貨幣価値の本質にも関係している。貨幣そのものが交換価値の権利を証券化した者とも言えるからである。株は、ある意味で企業価値を担保として貨幣の一種だとも言えるのである。

 証券化やデリバティブが、今の経済の鍵を握っていると言われている。金融商品や証券が引き起こす経済事件は、一国の経済のみならず、世界経済を揺り動かすほどの影響力を発揮するようにすらなってきた。それは、貨幣の特徴をデリバティブほど表しているものはないからである。今日の経済は貨幣経済を基礎としている。貨幣価値に直接的な影響を与える金融商品や証券が経済に重大な影響を与えるというのは、当たり前すぎると言えば当たり前なのである。デリバティブは、貨幣の性格をよく表している。
 先ず貨幣は、その時点での市場で貨幣に表示された価値と同等の財と交換する権利を表象したものだと言うことである。つまり、貨幣とは権利の表象なのである。それ自体が価値を有する実体があるわけではない。市場における財の価値は一定ではない。つまり、貨幣が表象する交換価値も一定ではなく。その時点時点の市場の価値に左右されるのである。
 究極的には情報なのである。情報化することによって市場取引が数値化、デジタル化され、信号化された空間に、さらには、数学的、抽象的空間へと変貌したのである。反面において、実物的な市場から乖離し、純粋に投機的市場にも変化してしまった。

 資本と経営の分離は、巨額の資金調達を可能にし、産業の大規模化を促した反面、経営主体、つまり、企業から主体性を奪う結果にもなった。そして、企業から主体性が失われた結果、企業の組織としての自律性が脆弱となり、無機質化、機関化させることになる。それが、組織と組織を構成する構成員との人間的関係を絶ち、疎外感を生み出すことになる。企業における人間関係は、単なる雇用関係に置き換わってしまった。そして、それは、金銭的関係、契約的関係で敷かなく。全人格的関係ではなくなってしまったのである。そこには、企業に属する者の生活感や人生観が奪われ、単に、所得を得る場でしかなくなってしまった。

 経済は、本来、労働と分配が根底になければならない。つまり、経済の基礎構造は、労働と分配でなければならない。されが、雇用関係や所得関係、契約関係、金銭関係、即ち、労使、労資関係の対立関係を土台としたものになると経済は、その本質を見失うのである。企業が機関化してしまえば、資本家と労働者、使用者と労働者の間には、対立関係しか生まれない。それが資本主義経済の最大の欠点である。
 企業内部において要求されるのは協調関係である。企業内部では、経営者も労働者も自重することが要求されるのである。つまり、経営主体は、人間集団であり、本質的に運命共同体であり、運命共同体でなければ機能しないのである。
 その意味で、経済体制は、共同体の集合体でなければならない。共同体の集合体であるからこそ、その共同体を構成する人々の幸せを実現し、尚かつ、社会的存在として機能しうるのである。
 経営の所有権、主体が、経営主体、企業の外にあれば、経営に実際に携わる人間の意志は無視されることになる。魂が体の外にあるようなものである。それでは、いくら経営効率が高まり、収益が上がったとしても従業員や社会に還元されるものは少ない。
 会社は、働く者にとって人生そのものであり、家族、生活の延長線上にあるものなのである。企業は、家族と国家の間にある共同体なのである。だからこそ、会社は、家計や国家を代行することが可能なのである。例えば、福利厚生であり、手当である。

 資本市場は、投資を基本とした市場なのである。投資とは、一つの事業に対しその目的に共鳴、共感した者が、資金を提供し、利益が上がった場合は、その利益を投資した価値に比例した分だけ分配を受け取る行為である。そして、会計制度によって期間損益が確立することによって期間利益を算定して、それに相応する利益を分配する事が可能となったのである。それによって資本市場は、形成されたのである。

 企業利益は、利息程度、所得は、物価上昇程度しか望めないものである。投資に対する配当利回りは、利息と同じものである。故に、配当は、国債利回りが重要な指標となるのである。そして、資本の価値は、本来は配当性向によって測られるべきなのである。

 資本市場は、厳しく律せられるべきであり、資本市場に求められるのは規律である。資本市場が賭博場と化したら、単に経済的に悪影響を及ぼすだけでなく。政治的にも、文化的にも、社会的にも悪影響がでるのである。

 資本は、根本的には、投資なのである。投機ではない。つまり、短期的に利益を得ようとするものではない。投資した企業から長期的に収益から回収すべきものなのである。つまり、投資とは、投資した先の事業が問題なのであり、株価の動向ではない。それ故に規律が求められるのである。

 資本の概念は、企業の持つ共同体性を奪い取った。そして、企業をただ単なる利益を追求するだけの機関に堕してしまったのである。また、資本の論理は、企業から社会性すら奪い取ってしまった。そして、企業を一部の資本家の私有物にしてしまった。
 そして、資本は、人間の欲望を最大限に引き出す装置と化したのである。その結果、恐慌が周期的に繰り返し起こり。国民生活が疲弊し、破綻していったのである。
 資本主義のキーワードは、資本、株式会社、会計と言った言葉である。元々、株式会社は、貿易商が、資金を募り、集めて資金を元手にして、船を調達し、船荷を買い、船員を雇って、航海をして得た利益を出資者に出資比率に分配したことに発するといわれている。その為に威力を発揮したのが、当時の複式簿記である。ここで、重要なのは、出資者、船主の関係である。しかし、問題なのは、肝心な船員達は、単なる雇用人に過ぎないという事である。しかし、実際に危険を冒して、航海をし、船荷を売って、又その金で戻りの荷を買うのは、船員達である。本当に汗水を垂らし、危険を冒して働くのは船員である。その船員達は、雇用人に過ぎず。利益の分配に預かることも権利もない。契約で決められた仕事を決められた賃金の範囲内でこなすしかないのである。だから、船員達は、船員組合を作り、自分達の権益と身分を守る以外になかったのである。その為に船員という横断的組合が成立した。
 この関係は、現代でも生きている。ただ、期間損益という考え方が制度化されることによって、航海毎に清算していた関係が、継続的、恒久的な関係に置き換わっただけである。皮肉なことに、継続的、恒久的な雇用関係に置き換わったことで、より運命共同体としての性格は逆に強まったのである。
 肝心の労働者は、経営の現場から排除している限り、雇用関係からは対立関係しか生じない。我々は、戦後、労働の現場で背き合い、逆らう関係しか教えられてこなかった。組織の人間が一致団結し、一つの目的や事業を成就するという考えは生まれてこない。それでは、お互いの幸せを願うという関係もできない。最終的には、力でぶつかるしかなくなる。もともと、今の関係に否定的な人間が考えた思想を土台としているからである。

 確かに、組織が機関化し、人間性を削除したことにより組織の大規模化や合理化が進んだ。それによって生産性が向上したのも事実である。しかし、それは、大量消費、大量生産を前提した社会において妥当、至当なのである。それが行きすぎた結果、温暖化が始まり、また、乱獲、乱開発による環境破壊、資源の浪費が極まったのである。つまり、個人の幸せと共同体の利益が一致しなくなり、社会性が失われてしまったのである。

 社会は、所詮人間の集まりなのである。そして、経済は、人間の営みなのである。そして、経済や社会の目的は、人々を幸せにすることである。それを考えると、社会、経済は、共同体の集まりであるべきなのである。そして、その一つ一つの共同体によって人と人とが関係付けられ、お互いに助け合っていくべきなのである。
 一人では解決のできない問題や状況をお互いに助け合って打開し、目的を成就していく。結局、お互いが助け合い、協力し合う場が資本市場であったのである。それがいつの間にか、賭博場と化した。そこに資本主義の根本的な病巣があるのである。
 我々は、外在化した資本を内在化するような仕組みを考えなければならない。資本を内在化することによってはじめて企業を構成する人々は一体となりうるのであるからである。

 なぜ、企業は、M&Aをしようとするのか。それは、企業の側に、M&Aをしなければならない事態が発生しているからである。巷間言われているように、企業家の際限なき欲望によるものとは限らないのである。それ以前に、M&Aをしなければ企業が存続できないような状況が発生していると考えるべきなのである。
 M&Aというのは、高度な知識や技術を必要としている上、精神的負担もリスクも大きい。人間関係や会社に対する愛着も強く容易く決断、実行できる事柄ではない。
 業績が悪化したから、また、将来に不安があるからか、余程の動機やインセンティブがない限りM&Aを経営者は、やろうとは思わない。リスクが大きい上、得る者が実際は少ないからである。事業再編などと言うと格好は良いが、実際は、追いつめられてM&Aを行うのである。ただ、一度、M&Aに成功すると、味を占め弾みがつくとは言える。しかし、それはあくまでも結果論である。本業を台無しにしてまで、M&Aにかけるなどと言う事は思いもつかないし、また、しない。大体、成功した人間が、未知の挑戦などしないものである。
 独占を悪だと決め付ける前に、独占的市場がなぜ発生するのか、その構造を明らかにすることが大事なのである。独占的な状態になるのは、独占的にならざるをえない事情が隠されているのである。

 M&Aで問題となるのは、時価総額だが、時価総額が必ずしも企業の事態を表しているわけではないことを忘れてはならない。

 上場企業の時価総額は、資本市場が作りだした市場価値に基づいているのだと言う事を忘れてはならない。つまり、資本は、何等かの企業実績や純資産に基づいて算出されるのではなく。資本市場の需給、資本取引によって決まるのだと言う事である。

 市場は価値の均一化をする。つまり、原油と労働力と言った異質の価値を貨幣価値に変換することによって均一にする。当然この事による弊害も考慮に入れる必要がある。例えば、鉄鋼。電力、鉄道のような重厚長大型企業、設備投資が巨大な企業とコンピューターのソフトのような軽薄短小型企業、設備投資よりも知的財産を重視した企業の企業価値を均一化し、同一の次元に還元してしまうことからくる弊害である。

 そして、今日、進行している産業の再編が、企業実体を必ずしも反映したものではなく。また、産業のと規制かを目指したもの、社会的要請に根ざしているとは言えないない、むしろ苦し紛れの産物だという点である。そこに、何等かのビジョンがあるかというと構想に基づくと言うよりも実利的な損得勘定の上に成り立っている点である。ビジョンや構想を立てれば陰謀・謀略と言われるのであろうが。ただ、言えることは無原則に産業の再編は、禍根だけを残すと言う事である。

 謀略があると言えばあるし、ないと言えばない。株取引は、勢いである。利益を求めて、時流を作ろうとするのは当然の帰結である。そして、株取引の勢いや流れを一時的に作り出すことは可能かもしれない。時流を創り出そうとしたものに、何等かの策謀や思惑があったかと言えばあったであろう。また、過去にもあったであろう。しかし、それをいつまでも思うがままに操れるかと言えば、それは不可能であると言わざるを得ない。
 資本取引は勢いである。多くの者は、趨勢に従わざるを得ないのである。個人の力や何等かの機関の力で抗えることのできるような力ではない。ダムを造り、水の流れを作り出したとしても、一度、流れ出した水を押し止めることができないようなものである。

 洪水のように溢れ出した資金が、市場間を移動して産業に壊滅的な被害を及ぼしているのである。堤防を築いたり、川の流れを制御して洪水を防ぐような処置をして何が悪いのか。ただ、手をこまねいてみていればいいと言うのか。市場原理主義者の言うように、ただ、規制を緩和し、資金の流れのままにすれば良いというのは、文明を頭から否定するのと同じ行為である。

 今日、必要とされているのは、勢力争いではなく。人類のいく末を見据えた、世界構想であり、その構想に対する、思想や信条を超えた実際的な議論・検討なのである。
 

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