日本人には、成長産業のみが景気をリードしているという錯覚がある。経済、景気を支えているのは、成長産業だけではない。産業全般が景気を下支えしているのである。

 成長というのは、経済全般から見ても、特定の産業から見ても、企業から見ても状態ではない。むしろ、成熟して成長が鈍化、停滞、あるいは衰退している産業や企業の方が多いくらいである。しかし、だからといってそれらの産業は不必要かと言えばそうではない。むしろ、それらの産業が雇用や景気を支えていることが多いのである。
 経済の本質は、実物である。実際のものの動きや働きが経済の実相を決めるのである。

 経済の実態を知ろうとしたら、貨幣価値だけでは把握する事は不可能である。我々が、住宅投資の見通しを立てようとした場合、「新設住宅着工統計」を把握しておかなければならない。また、自動車産業の動きを理解するためには、個々の企業の収益のみならず自動車の「新車新規登録・届台数」を知る事は有効な事である。
 この様に、現実の経済の実体を知るためには、実物の動きを知る必要がある。貨幣の動きは、実物経済を写像した影に過ぎない。

 貨幣経済の実相は、金融経済に現れる。しかし、金融経済は、経済全体の実相を現すわけではない。経済の一断面を示しているのに過ぎない。

 経済は、第一に緩やかなインフレ基調である事。第二に、できるだけ低い失業率。第三に、高い経済成長率の三つが実現する事が望ましいとアメリカの経済学者のスティグリッツが述べている。(「経済データの読み方」鈴木正俊著 岩波新書)この点からも資本主義経済体制が目指しているのは、緩やかなインフレと高度経済成長である。そして、この様な経済体制は、大量生産、大量消費体制によって裏付けられている。

 経済成長の原動力は、需要の拡大である。需要の拡大は、購買力によって支えられる。購買力の源泉は、所得と通貨の供給量である。生産力が増強されることによって、生産が増大し、その生産の増大が雇用、即ち、労働を増進させ、その結果所得が増加し、所得が増加することによって購買力が増し、その購買力が、新たな需要を創造して、市場が拡大すると連鎖を起こす。この様な連鎖反応を引き起こすために、適度な競争が必要なのである。それが経済成長の構造である。
 問題は、この経済成長の起爆剤である。つまり、離陸させるための推進力である。初期の経済成長を主導するのは、おおむね、現状以外からの力である。生産力の増強のキッカケは、主として外部の力に依存する場合が多い。経済の自律的な発展は、末端の購買力の裏付けが付いた時に始動する。つまり、経済を成長させるための起爆剤は、生産力の増大による雇用の拡大であるが、この生産力を誘発するためには、ある程度の設備投資を先行させなければならない。その設備投資には莫大な資金、資本が必要となり、その投資を引き出す為には、予め、ある程度の需要が見込めなければならない。それが公共投資であり、海外の市場である。しかも、経済成長を持続させるためには、初期投資が拡大再生産を続ける必要がある。海外からの投資を呼び込むためには、生産拠点の転移を促す必要がある。生産拠点の転移の条件は、安くて質のよい労働力の存在と社会資本、社会インフラストラクチャーである。
 それ故に、経済成長の前提条件は、廉価で豊富な労働力の存在、社会的インフラ、社会資本の整備とその為の適切な公共投資、市場の拡大、特に、国外に良質な市場が存在している事である。それに、技術革新やエネルギー革命と言った急激な変化が伴った時、経済は、急速に成長を始める。逆に、これらの要件を満たさなくなると急速に競争力を失っていく。

 また、経済成長には、適度な競争が不可欠である。それが市場の原理である。もともと、市場は、需要と供給の調整の場であるから、需要の側に選択肢がなくなると市場は硬直化し、調整機能を喪失する。また経済成長の原動力には、技術革新が不可欠であるが、その技術革新を誘発するのが、競争の原理である。故に、競争の原理は、成長を促す触媒として不可欠な要素である。

 ただ、この競争力というのが問題なのである。競争力の根源は、良質で安い労働力と言うが、人件費というのは、元来が相対的なものであり、水準が問題なのである。この水準が単純ではなく。生活水準や物価水準、所得水準などを勘案しながら、その国の文化や生活スタイル、生活環境、消費構造などを見ないと理解できない。そして、為替相場が決定的な要素を持っている。こういう要素を複合的に計算しながら、賃金ベースが安いかどうかを判断しなければならない。生活水準が低ければ、単純にただコストが低いから競争力があるに過ぎないのである。商品格差があまり派生しない産業は、購買力平価に基づき、コスト水準が均衡したら、必然的にかつての日本の繊維産業同様、競争力を失ってしまうのである。

 軍事費というのは、消費一方なのであり、拡大再生産には基本的に結びつかない。軍事費を拡大再生産に結びつけるためには、他国を軍事的圧力下に置く為に侵略するか、戦争状態に置くかしかない。軍隊というのは、それ自体の目的が破壊にあるのであるから、生産的なものではないのである。たとえ、一時的に他国を侵略する事によって富を得たとしても恒久的な収入、持続的な収入には結びつかない。軍を維持するだけで国費を費やしてしまう。国防費は、自立独立に必要なだけで充分であり、その為には、他国が、侵略することによって受ける損失が大きすぎることを自覚せしめればいいのである。国防費によって国が亡ぶようでは、何のための国防費か意味がない。それは、国民一人一人の国防に対する意志に基づく。家事同様、国防を外注化すれば、その費用は際限がなくなる。

 戦争によって資本主義経済は、発展した。それは、インドのシバ神のように、創造と破壊の二面性を資本主義体制が持っていたからである。 軍隊が産業の発展寄与してきたことは否定できない事を銘記しなければならない。しかし、軍隊は凶器なのである。凶器と言っても、いわば、包丁のような物ではなく。刀のような物である。つまり、包丁は、使い方を誤れば凶器となりうるがその本来の目的は違う。しかし、刀は、本来人切り包丁、殺人を目的とした武器だと言う事である。軍も同様、本来の目的が武力の行使なのである。だからこそ、軍は厳しく監視下に置かれ続かなければならないのである。

 日本の軍国主義は、独裁的と言うよりもむしろ無統制であった。無統制であるが故に、弊害が強かったのである。つまり、統制の強弱だけで体制の在り方を判断すべきではない。何でもかんでも統制が悪いと決め付けるのは危険である。逆に何でもかんでも民主主義は正しいと決め付けるのも短絡的である。必ず物事には両面がある。と言うよりも、元々、良し悪しは認識上の問題であり、良しと悪しは、作用反作用の関係にあり、良い事は、同量の悪い事を反面に含んでいる。その均衡上に成り立っているのである。故に、その時点、時点の状況を構造的に捉えて判定する必要があるのである。

 今日の日本経済は、経済成長によって支えられてきた。この事によって経済成長が常態であるような前提に立って政策運営がなされている。その為に、経済成長が経済状況の全てであるように錯覚している。しかし、経済成長というのは、経済状況の一局面に過ぎない。経済は、成長状況を経て成熟期に移行する。成熟期には、成熟期に適合した政策や構造が採用されなければならない。
 現代の我が国の経済で問題なのは、成長期を過ぎて成熟期に入ったのに、成長を前提とした政策を採り続けていることである。経済の構造そのものが成熟した構造に変化してきているのである。いつまでも子供で居るわけにはいかない。大人には、大人としての行動が求められる。経済も、成長期から成熟期が移ったら成熟した政策に変わらなければならないのである。大人になったら大人の服を着なければならないのである。

 経済成長は、ある一定の段階を過ぎると市場が飽和状態に陥る。賃金水準が高止まりする。成長力が鈍化する。これは、経済が成熟した状態を指している。成長型経済では、この状態を経済の不活性状態とする。確かに、そのまま放置したら、経済体制は維持することができなくなり、国家体制そのものの崩壊の危機に直面することになる。
 皮肉な事だが、成長型経済は、成熟を目指して発展していながら、経済が成熟すると経済の成長活力が奪われてしまうのである。つまり、ただ、経済成長のみを経済目的とすると目的を目指していながら、目的を達成すると目的を喪失するという自己矛盾を最初から孕んでしまうことになる。それが現代の資本主義経済である。
 これは、競争原理に端的に現れる。競争は、企業、経済を活性化し成長を促すが、競争の結果企業が淘汰されて寡占、独占状態に陥ると企業、経済の成長活力は奪われる。

 成長期には、適度な競争が不可欠である。しかし、成熟期に競争を放置すれば、寡占、独占体制になり、かえって市場の活力を奪ってしまうのである。

 なぜ、競争の原理を働かせる必要があるのか。その意味、目的も理解しないで、闇雲に競争の原理が正しい、競争の原理が良いというのは、馬鹿の一つ覚えに過ぎない。

 成長型経済というのは、変化を前提とした経済なのである。つまり、変化のない市場、技術革新が終わったり、市場が飽和する事で変化が止まった市場、技術革新の余地がない老舗の産業のような変化が元々ない市場や産業は、成長を前提とした経済体制では、活力を失い、衰退してしまう。

 また、必要以上に変化を求める事に、意味があるのかという問題もある。変化や技術革新を前提とせざるを得ないのは、大量生産、大量消費型経済だからである。

 変化を求めるのいい。しかし、変化だけが全てではない。
 今の料亭は、新しい味を追い求めることに汲々としているが、かつての老舗は、同じ味を守ることを重視したのである。それが歴史であり、伝統であり、文化だとも言える。その歴史、伝統というものを一切否定し、新しい物だけに価値を見出そうとするから、壮大な浪費が生まれるのである。古きを温めて新しきを知る。古い物を再生し、新しい物を生み出していくという生き方も尊重すべきなのである。

 成長を唯一無二の経済目的としている限り、経済の恒久的均衡は望めない。拡大均衡しかないのである。
 成長型経済体制から、成熟型経済体制へ移行させる必要があるのである。

 問題なのは、経済成長を経済の常態だとしていることにある。成長経済というのは、本来が常態ではない。定常的状態に移行するまでの過渡期に現れる状態である。本来、経済は停滞するものであり、停滞した状態こそが均衡した、安定した状態なのである。
 いくら所得があっても消費意欲がなければ、購買力は付かない。逆に、いくら所得があっても必要な財がなければ、手に入れることができない。江戸時代、享保の飢饉の時、首から百両の金を下げた餓死者がいたという記録もある。いくら、百両という大金を持っていたとしても、食料を売ってくれる者がいなければ、餓死する以外にないのである。この様に購買力というのは、単に所得が増えれば増すという性格のものではない。

 企業は、常に利益を上げられる事が、常態なのではない。増収増益を至上命題とされたら、企業経営は、安定しない。むしろ利益を上げられなくなった時にどうするのかが、企業にとって重要なのである。利益は、本来、企業を継続していくための原資として蓄えられておくべきなのである。企業経営には、リスクはつきものであり、非常時・緊急時のための備えは不可欠である。企業経営は、儲かったり、儲からなかったりするものなのである。

 収益を上げる事ばかりを目的としているように錯覚しているが、収益は、本来結果に過ぎない。雇用や財の創造こそ、産業主体の本来の機能、目的なのである。

 経済体制を構築する目的は、必要物資が常時、万遍なく、均衡して、隅々まで循環している状態を作り出し、維持することである。経済成長にあるわけではない。過度な経済性の急成長は、社会のいろいろな部分に矛盾や障害、弊害、歪みを引き起こす。その好例が、社会秩序の乱れや公害である。高度成長の華やかさの裏にあるその様な弊害を忘れ、成長ばかりを追い求めると社会の歪みは、修正が効かないほど大きなものになってしまう。根本にある問題は、人間にとって、また、国民にとっての幸せである。大きいばかりが良いのではない。問題は内容である。重要なのは均衡であって過剰な生産や消費は、環境の破壊や資源の浪費に繋がるのである。
 

成長経済は、経済の常態なのか

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