少子高齢化が最近問題になっている。それも深刻な問題として語られている。その大前提は、少子高齢化は、悪いことだと言うことである。与野党揃って、少子高齢化は悪い事だとしている。しかし、少子高齢化は、悪い事なのだろうか。
 本来、少子高齢化は、良い事なのである。何処の国でも人口の増加が深刻な問題を引き起こしている。中国やインドでは、一人っ子政策をしてまで人口抑制に必死である。それなのに、日本では、少子化を悪い事だと決め付けている。
 また、高齢化というのは、それだけ長生きをしている人が多いという事である。つまり、死ななくなったのである。だとしたら、高齢化が悪いというのならば、早く死ねというのであろうか。
 問題なのは、少子高齢化に適合できる社会体制、社会構造でないという事であって、少子高齢化自体が悪いという事ではないのである。

 少子高齢化は、悪い事だと決め付け、それを前提としているから、経済社会の本質が見えてこないのである。

 今、採られようとしている政策は、矛盾に満ちている。温暖化問題にせよ、資源エネルギー問題にしても、食糧問題や南北問題、貧困、失業、いずれにしてもその根本に人口爆発の問題がある。それなのに子供が少ないことが問題だという。高齢化していることが問題という。為政者は、子供たくさん作って早死にすればいいと言うのであろうか。
 アメリカのアル・ゴア元副大統領は、その著書で、16万年から16万年かけて2億5000万人まで紀元元年ぐらいの時代までに増えた。それから2000年足らず、第二次世界大戦ぐらいまでに、20億人まで増え、100年程たった現代、65億人にまで増えている。更に、後数年で90億人にまで増加すると言っている。こんな時に、少子化問題と言って人口の増加政策をとろうとしている者の気が知れない。(「不都合な真実」アル・ゴア著 枝廣淳子訳 ランダムハウス講談社)

 少子化対策と称して、働く女性のために、育児施設を増設するというのは、滑稽なことである。喜劇的である。そんな事をしても、少子化は防げないし、かえって家庭を崩壊させ、少子化を促進するのがオチである。少子化の原因は、共稼ぎによって育児をするゆとりがなくなったからではない。そんな短絡的な話ではない。根本的な価値観や社会体制に起因している問題である。

 もう一度確認しておこう、少子高齢化は、悪い事ばかりではない。むしろ、少子高齢化は、理想的な社会ですらある。つまり、人口を抑制しつつ、高齢化する事なのであるからである。それを悪い事だと問題視するのは、国家構想が欠落しているからである。即ち、どの様な国にするのかという視点が欠けているのである。我が国の将来をどの様な社会にするのか、それは、生産性の問題や効率の問題だけでは片づかない。国民の幸せ、国家目標とは何かという問題なのである。もっと言えば国民生活をどの様なものにするのかという事であり、国力がどうのこうのという問題ではないのである。例え、世界から怖れられるほどの軍事力を持ったとしてもその為に、国民生活が犠牲となり、国力が衰えては何にもならない。いくら、企業業績がよくてもその為に、環境汚染が進み、労働条件が劣悪となっては意味がないのである。いくら海外に債券があり、配当や金利による収入があったとしても国の産業が衰えれば、必然的に経済は衰退するのである。節約節約と必要な経費まで節約してしまったら、国家の発展は期待できない。そのことをよく考えて国家構想を立てる必要があるのである。その上で、何に、どれくらい投資するかを決めていく必要があるのである。

 現代社会では、付加価値の高い産業を奨励している。しかし、一言に付加価値の高い産業と言っても、労働集約的産業と資本集約的産業とでは、まったく違ったものになる。労働集約型産業において付加価値を高めようとしたら、高度な技術や多年の経験による熟練を必要とする。しかし、資本集約的産業になると個人個人の技術や熟練度は問題とならなくなる。つまり、同じ付加価値と言っても労働集約的産業と資本集約的産業では、産業の在り方は、対極に位置するのである。この点を踏まえて、高齢化社会においては、いずれの産業を選択すべきかを考えなければならない。

 失業問題や雇用対策が示すように、労働と分配こそ経済の本質である。働かざる者、喰うべからず。それこそが原則なのである。つまり、経済問題の根本には。労働問題が存在する。労働をどう評価するかの問題である。
 労働には、所得労働と非所得労働がある。社会的労働は、分配の権利を派生させる。分配の権利は、所得となる。しかし、全ての社会的労働が所得となるわけではない。経済主体内部の仕事の何割かは、非所得労働となる。つまり、労働には、所得労働と非所得労働がある。つまり、所得労働だけで経済全体を捕捉しているわけではない。所得労働は、経済全体から見ると氷山の一角に過ぎない。故に、経済の全貌を捉えるためには、所得労働だけでは捉えきれない。ただ、貨幣経済、市場経済に限って言えば、所得労働を捕捉すればほぼ全容を捕まえる事ができる。故に、総所得が重要なのである。しかし、もし仮に、非所得労働も含めた労働全体を基礎にした経済構造を構築する必要が生じた場合、所得労働のみを対象としていると自ずと限界が生じる。その実例が、家内労働である。中でも、出産、育児、介護、年金は深刻な問題となっている。

 貨幣経済になれた我々は、所得を貨幣で受け取ることを当然として受け止める様になっが、ほんの一世紀ほど前には、自給自足、物々交換が当たり前だった時代が我が国にも存在したのである。大体、税そのものが物納が普通だった。
 家だって自分達で建て、服も布から自分達で織り、それを縫って仕立てるのが当然だったのである。家などは、地域住民総出で建てたものである。それが地域コミュニティである。現在これを貨幣価値に換算したら途方もない数字になる。地域コミュニティだからこそ可能だったのである。それ故に、家にも衣装にも地域性や民族性が色濃く現れた。それが工業製品が広く出回ると瞬く間のうちに、標準化、平準化してしまった。それが大量生産と言う事である。
 しかし、大量生産方式に依存した経済体制は、生産性、成長性の追求を前提して、更に大量消費型社会、開発型経済を前提として成り立っている。これは、使い捨てに代表される資源の浪費や環境破壊、ゴミ処理問題、温暖化と言った諸問題の根因となっており、これからは、大量生産から節約型経済へと移行する必要がある。その場合、社会の分配機構、物流機構を確立しておく必要が出てくる。その為には、労働の全貌を整理体系化する事が不可欠な要件となるのである。

 私の父は小学校しか出ていないし、祖母は、物心ついた頃には、子守に出されていた。だから字を読むこともできなかったのである。それが普通だったのである。飢餓や貧困を知らず、貨幣経済や市場経済、資本主義経済を所与のものとして当然のように受け止め、平和になれてしまった現代日本人は、貨幣経済以外の世界の経済を理解することができなくなっている。しかし、貨幣経済が浸透していない時代があり、現在も機能していない国があることを忘れてはならない。

 しかし、貨幣経済が浸透していない時代にも、貨幣経済が確立していない国でも、経済は機能しているのである。貨幣がなければ経済は、機能しないと言うわけではないのである。経済は、基本的に物流である。生活実態である。経済の本質は貨幣ではない。生活があれば、経済は成り立つのである。

 高齢化を深刻な問題としながら、年金の支払い年齢の繰り上げをしたり、また、給付金の減額をする。また、企業の生産性や効率を上げるために、早期退職やリストラを推奨する。それで、熟練者が不足するとあわてて、熟練工の育成を計ろうとする。滑稽なことである。熟練者が短期間で育成できるならば、苦労はしない。個々の企業が営々と築き上げてきた技術や知識をいとも簡単に捨ててしまい。それで、高齢者対策もあるまい。高齢者から仕事場を奪い、生き甲斐や生きる目的を奪っておいて長生きしろはない。真の高齢者対策とは、高齢者に対して生き甲斐のある生活空間を生み出すことで、厄介者扱いをしておいて、ただ、介護すればいいと言うのとは違う。

 労働は苦役であり、家族は邪魔だとする欧米流個人主義の悪弊である。なるべく長く働き、なるべく家族と一緒に暮らせる環境を整える。それこそが高齢者対策である。その為には、職場環境の整備と、事業や技術の継承と高齢者の名誉、体面を保持できる状況を作り出すことこそが高齢化対策なのである。年をとったら、何もしないで遊んで暮らせと言うのは、年寄りを馬鹿にした話である。

 少子高齢化時代に備えるためには、単に、福祉を充実させればいいと言うわけにはいかないのである。人口を抑制しながら、長生きをしていくという事は、人生をより長く有意義に生きられる環境を整備すると言う事に他ならない。生産性や効率を重視し、高齢者を早い時期に第一線からしりぞけるのではなく。むしろ、生き甲斐の持てる仕事を長く続けられる環境を整備することが肝要なのである。そして、その為に、産業の空洞化を防ぎ、社会資本の充実させ、効率のよい社会を築き上げることである。
 休め休め、早く引退して年金生活に入ればいいと言う考え方は、通用しなくなる。休め休めと言うのは、欧米流の労働は奴隷のする苦役であるという、労働を蔑視する思想による。欧米人のように、他民族を支配したり、奴隷にすることを当然とする歴史を持たない我が国では、そぐわない思想である。休めばゆとりが生じるのではない。休むから、ゆとりがなくなるのである。働く喜びこそ生きる力であり、働く喜びが奪われるのは、劣悪な労働環境と労働条件によるのである。働くための環境がよければ、仕事は、自己実現となり、健康のためにも良く、生き甲斐ともなるのである。

 少子化問題というのは、家族の問題だある。家庭が家庭としての機能を果たしていないことに問題がある。貨幣経済下では、収入は、所得に頼らざるを得ない。その為に、所得を握る者の地位が相対的に強くなる。反面において、家内労働の地位が低くなり、家内労働に従事する者の立場が相対的に低くなる。また、保証もされなくなる。そこに問題がある。特に、地域コミュニティ崩壊し、核家族化すると弱者を共同体が保護することができなくなる。それによってますます、家内労働従事者の立場が弱まるのである。だから、家内労働をなくして良いかというとそう言うわけにはいかない。家庭は、人間関係の核でもある。家内労働が衰退すれば、必然的に家族の絆も弱くなる。極端な話、ただの同居人に過ぎなくなる。そうなれば、忍耐力や家族に対する求心力が薄れ、ちょっとした事件で家族は解体してしまう。その様な危うさの中で出産、子育てというリスクを女性が負うであろうか。根本はそこにある。家内労働に社会性がないというのは、間違った偏見である。それを言えば企業内労働にも社会性は乏しい。かえって家内労働の方が、地域コミュニティに密着している。少子化対策は、共同体としての機能を経営主体化が回復する以外にないのである。

 少子高齢化対策は、根本は、国家ビジョンである。即ち、我々が自分の国をどの様な国にしたいかである。誰が、少子高齢化が悪いと言ったのか。先ず、そのことを確認する必要がある。少子高齢化が問題になるのは、決まって、財政問題であり、年金問題である。つまり、高齢者が所得を得られなくなることを前提としているのである。しかし、現在人は、以前に比べてかなり高齢になるまで現役で仕事を続けることが可能である。政治家が良い例である。六十を過ぎてもまだ若手だと自分達は言っているのに、世間一般の者は年をとったら早く引退しろと言うのは、虫がいい。まだまだ、現役で働ける人間を無理矢理引退させて、やれ介護が大変だ、年金が破綻すると早く死ねとばかり厄介者扱いすることが高齢化対策なのか。高齢者の仕事場とそれに伴う所得の確保こそ高齢化対策としてやるべき事である。

 これからの時代は、これまでの高度成長、大量生産、大量消費、使い捨て、効率や生産性重視といった量の経済体制から低成長、高品質、省エネルギー、リサイクル、少量生産といった質の経済へと転換していかなければならない。大きいことは良い事だと言う時代ではないのである。量から質。そして、密度、内容が重要なのである。重厚長大ではなく、軽薄短小の時代。つまり、拡大均衡から縮小均衡の時代のはじまりなのである。

 日本人が大切にしてきた美徳、質素倹約を旨とした社会。華美や贅沢を排し、質実素朴な生活、習慣。手作りで、使い捨てではなく、物を大切にし、愛情を持って直し直し使っていく姿勢、態度、それこそが大事なのである。その上での経済である。日本人は、自らの原点に帰るべきなのである。

 今までのような高度成長、大量生産、大量消費型社会体制を捨て、これから目指すべきなのは、低成長、省エネルギー型社会なのである。そして、その為の構造変革こそが為すべき事なのである。



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