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Copyright(C) 2001 Keiichirou Koyano

 家族の場は、生活の場である。消費の場である。

 家族は、家という空間を共有する。この空間は、必ずしも物理的空間を意味しているわけではない。この家という空間(住空間)に、人間関係という力が加わって、家庭という場が形成される。この家庭が、家計の基礎となる。

 現代人は、生産することばかり考えて消費することを軽視してきた。大量に生産をすれば消費の問題は解決すると、それ故に、生産力主導の経済を築き上げ、生産性や効率のみを追求してきたのである。それが資本主義であり、近代工業主義、産業革命である。

 現代社会は、消費を経済とは見なしていない。それが、現代社会の最大の問題点である。消費は不経済だ。だから、消費に関する経済学は存在しない。これは片手落ちである。それが現代経済の不均衡を引き起こしている。
 消費は、必要性から生まれる。必要もないのに、消費することが不経済なのである。ところが、この不経済を現代社会は、奨励しているのである。ところがこの価値観が転倒してしまった。経済を活性化するためには、大量消費が必要なのである。市場の必要性の前に、節約や倹約の必要性は失せてしまったのである。その結果が、環境破壊であり、資源問題である。

 生病老死は、家計の問題である。家計の場は、人生の場、消費・生活の場である。

 また、家計の場は、労働力の供給源である。更に、家計の役割で見逃せないのは、家計の場は、家族の健康管理の場であり、資産形成の場でもあるという事である。特に、資産形成の場という意味は、重要で、預貯金や保険、投資という形で金融経済で重要な働きをしている。労働の供給の場、社会の後方支援の場、資金の供給源といった機能を考え合わせると会計は、経済機構における基礎、基盤を形成する場だと言っても過言ではない。経済の下部半身なのである。

 財政も消費経済である。財政も生産者側が主導する。その為に、財政上の大量消費も止まらない。結果、人類は、無尽蔵に資源を使い尽くす事になる。生産の暴走が止まらないのである。
 政治は、生活者の延長で捉えるべきである。そう、政治は、消費労働の最たるものである。つまり、政治の世界には、家事労働の担い手である主婦がどんどん進出すべきなのである。特に、生活に密着した地方行政は、本来の女性が担うべきなのである。ゴミ処理問題、公害問題、交通問題、治安問題、都市問題、教育問題、介護問題、育児問題と地域行政サービスのほとんどが生活者の問題なのである。そのわりに、政治の世界に女性がまだまだ少ない。それも生活者・母親としての女性が少ない。

 家事には、炊事・洗濯・掃除・火の用心の他に、育児と介護が加わる。現代社会は、これらを基本的に仕事と見なしていない。要は、雑事として蔑んですらいる。蔑まないまでも、生産の場よりも一段低く見る傾向がある。しかし、これらも歴とした仕事である。その証拠に家事か滞るととたんに障害が派生する。
 しかも、家事労働は、無制限な生涯労働である。それは、消費労働が生涯労働だからである。生産に関係した仕事は、必要がなくなれば止めればいい。しかし、消費に関連した労働は、止めるわけにいかないのである。それだけ重要なのである。また、労働の原点でもある。
 衣食住は、人間の根源的問題である。また、炊事、洗濯、掃除は、食糧問題、資源問題、環境問題に直結している。育児は、人口問題、教育問題そのものである。介護は、高齢者問題、福祉問題、年金問題である。この様に、社会問題の多くは、消費労働に直結しているのである。

 現代社会の問題点は、家事労働・消費労働の貧困化にある。それは、人間性の崩壊も意味する。家事労働が、人間の生活全般に関わっているからである。我々は、生産面ばかりから人間の価値を考えている。そうなると子供も老人も主婦も無価値になってしまう。しかし、人生において最もその価値を問われるのは、彼等である。なぜならば、彼等こそ人間性、倫理の問題を担っているからである。
 消費労働の軽視が、消費空間の衰弱化や貧困化を招いている。消費空間、則ち、生活空間は、人生空間である。儲けること、作ること以上に使い方の問題こそ人間性が問われるのである。少子高齢化が進んでいる今日、消費サイドの労働の見直しが急務である。そして、その延長で地域コミニティや教育システム、環境保護、介護制度などの仕事を充実することこそが経済を活性化させるために不可欠なのである。

 外で華々しく活躍する者は、目立つ。しかし、縁の下で生活を支えている者は、忘れ去られている。そのような社会が繁栄し続ける事は難しい。日々地道な努力を続けている家事労働者を軽視したら経済は成り立たないのである。

 しかし、家事労働者側から家事労働を否定する動きすら出始めている。育児の否定、家事の否定、そして、これらの仕事を家庭の外に移してしまう。家庭の空洞化である。それがどのような結果を招くか。家庭の崩壊・家庭の喪失以外のなにものでもない。
 家事労働の外注化、外在化を進めようとしている。しかし、これは、消費労働の崩壊を意味する。この様な消費労働の崩壊は、財政、行政サービスに顕在化してきている。つまり、行政サービスが市場経済に呑み込まれようとしているのである。結果的に、国民のニーズ、必要性ではなく、市場のニーズだけで物事の価値判断が下されようとしている。これは、倫理観の崩壊ももたらす。

 家計の場に働く力に影響を及ぼすのは、その場を支配する行動規範や支配的なライフスタイルである。つまり、消費の場で働く作用は、個人個人の趣味趣向、人生観なのである。消費こそ、哲学的なのである。
 今の経済には、人生観が欠落している。つまりは、哲学がないのだ。結果的に弱者切り捨ての論理に貫かれている。
 人は、生まれた時、一人で生きていくことができない。そして、老いた時も、止んだ時も、死に逝く時も、人の世話にならなければならない。一人で生きていけなくなったときにどうするのかを考えるのが、本来の経済である。
 
 消費の場である家事労働を考えるのは、人生を考えることにも繋がる。ゆえに、家計の場は、ライフステージ(生活・人生の場)、ライフサイクル(生活、人生の周期)、ライフスタイル(生活や人生の形)といった空間や機能・構造面からも考察する必要がある。
 
 原資的共同体は、生産の場と消費の場が一体であった。この時点での経済の問題は、生産と分配に集中していた。やがて、共同体の規模が拡大し、他の共同体との交流が始まると、生産の場と消費の場は分離することになる。これは、生産の場と消費の場の分離をも意味する。そして、生産と消費の義が分離する過程で市場経済は成立した。共同体内で生産と消費の循環が成り立っていたならば、市場は派生しないのである。
 生産の場と消費の場が分離し、やがて、生産の場は、原始共同体の外部に移行し、共同体内部には、消費の場が残った。
生産の場と消費の場が分離するのに従って、生活の場と職場が分離した。更に、それが物理的空間、職住の分離に発展する。職住の分離が市場経済を更に発展させ促進した。
 この様な生産と消費の場の分離は、社会を機能化し、進んで社会構造を進化させてきた。

 中世の都市は、消費・生活の場を都市の内部に取り込むと同時に、都市の周囲に生産の場を移した。されに近代になると都市内部に残されていた工業も都市の外部へと移しつつある。そして、いよいよい、都市は大消費地へと変貌するのである。

 近年まで、農耕民族や放牧民族は、職住を一致させてきた。それに対し、海洋民族や狩猟民族は、早くから職住の分離を進めてきた。

 消費は生産に従属的な位置に追いやられている。それが、経済のアンバランスを招聘し、制御機能を低下させている。その結果、消費に歯止めが掛からなくなってしまった。大量生産による大量消費である。つまり、消費が生産側から要求によって為される状況が現出したのである。食べたいから食べるのではなく。作られたから食べるのである。
 必要性という概念は、市場の必要性に置き換えられ、本来の意味を失ってしまった。つまり、市場が必要としているから必要なのである。たとえそれが有害な物や情報でも市場がそれを必要としているならば、必要な物になってしまうのである。
 質素とか倹約という言葉は、美徳ではなくなってしまった。計画的な消費も意味がない。その結果資源の浪費や環境の破壊が生じても結局、供給サイドの論理が優先されてしまう。将に、全ての正義は、市場が決めるのである。

 資源の絶対量の不足と分配の偏向が貧富の格差を生む原因である。前者は、生産性の問題であり、後者は、分配制度の問題である。つまり、貧困は、生産と消費その両方から働きかけないと解決しない。

 社会を構成しているのは、大小さまざまな共同体である。原始共同体は、一つの共同体自体で自己完結型であった。それが拡大するにつれ、生産の場と消費の場が分離し、機能化してきた。それによって共同体そのものが総合力を失ってきたのである。自分達が所属する共同体は、全知全能ではなくなった。その結果、全人格的な性格を共同体は失い。機関化してきたのである。その過程で人間的な繋がりも稀薄になり、個としての機能しかなくなりつつある。それが、現代人の疎外である。

 職場をまるで地獄のように表現し、殺伐とした、冷たい世界のように思いこんでいる、思いこませたいと思っている人達がいるみたいだ。しかし、職場は、本来、共同体であり、相互に助け合い、生活を向上させていくべき場である。同様に、家庭も同じである。家庭は、墓場だとのたまった人がいるが、家庭を寒々とした者にしているのは、家族の人間関係であり、一人一人の気持ちである。だから、価値観が大切なのである。そして、共同体意識が不可欠なのである。経済の根本は、この共同体意識である。人類、皆、兄弟とは、人類を一つの家族、共同体と見なす事である。
 つまり、バラバラに機能化された共同体の意識を再統一することなのである。

 国家が悪いのではない。国家の在り方が悪いのだ。家族が、悪いのではない。家族の在り方が悪いのだ。その在り方を変えるのは、国民一人一人、家族一人一人の意識と行動である。国民一人一人の意識や行動、家族一人一人の意識と行動を反映することができるような制度や社会構造を作る事、それが、民主主義であり、構造主義なのである。
 

家族の場・家計の場