現代社会は、家族に優しくない。

 現代人は、社会を個として自己の集合としてしか見ていない。現実の社会は、自己と他者との関係の上に成り立っている。そうした繋がりを一つの単位として社会は構成されている。自己は、集団の中に位置付けてはじめて、個としての意味を持つ。言葉が、一つの単語だけでは、成り立たないようにである。その関係付けられた個の集合体の典型が家族である。個としての自己を関係付けた集団を共同体という。社会は、いくつかの共同体によって成り立っている。故に、家族は、社会を構成する共同体の一単位である。

 自己と他者との関係を絶ち、個としての集合としてしか共同体を見なさなかったら、共同体は、個々の要素間を結びつけている力を失い、バラバラになる。社会の構成が社会を個人の集合体としてしか見れなくなったら、その社会は、解体へと向かう。その兆候は、もっも最初に、端的に家族に現れる。

 家庭の崩壊。育児放棄。犯罪の低年齢化。離婚率の増加。少子化。高齢者問題。疎外。引き籠もり。文化、伝統の喪失。過疎化。都市問題。公害。ゴミ処理問題。女性差別。現代社会は、多くの問題を抱えている。しかし、その大本をたどると、家族の問題にたどり着く。多くの問題の根っ子は一つなのである。それは、共同体の喪失である。

 生活の基盤は、家族にある。この点を、忘れてはならない。この生活の基盤が揺らいでいる事が、現代社会の問題をより複雑に、かつ深刻にしているのである。

 政治の基本単位は、個人である。経済の基本単位は、共同体である。なぜなら、経済のベースは、生活だからである。その共同体として最も基本となる単位が家族である。その家族を経済単位として現したのが、家計である。故に、経済の基本単位の一つが家計である。この家計が、喪失の危機にある。そして、それが、現代社会の危機の根源でもある。

 職住の分離は、市場経済成立の契機である。職場と、住居、則ち、生活の場は、本来一体であった。それが分離されることによって生産性や効率が高まる一方、消費の機能が衰弱した。それが今日のアンバランスの根源である。経済性の追求は、もっぱら、市場の効率性に求められる。しかし、本来は、生産と消費のバランスから推し量るべき問題なのである。食欲のない時にいくら料理を作っても無駄である。反対に、飢えている時に料理の材料がないのは、悲惨である。必要な時に、必要な物を必要なだけ生産し、供給することが効率的なのである。

 元々、自給自足的な体制では、家族が共同体の主な単位であった。つまり、生産的部分を担う共同体と消費的部分を担う共同体は、同一のものであり、家計が共同体会計の中核を担い、外部からの収入は補助的なものにすぎなかったのであった。生産と消費が分離するにつれ、会計も分離し、一方が市場経済の発展に伴って企業会計、商業会計に発達し、他方の家計は、発達から取り残されていった。

 共同体内の労働は、本来、市場価値に換算できない物が多い。企業でも俗に言う管理会計が、これに相当する物であり。必ずしも、定型的な形があるわけではなく。また、市場価値に全てが還元できるわけではない。ここに錯覚がある。全ての価値は、市場が決めるわけではない。また生産的局面によってのみ決められる物でもない。経済は、生産活動と消費活動の両輪からなり、それを仲介しているのが市場である。生産と消費との間を巡るダイナミックな循環運動によって経済は成り立っている。近代経済学は、市場のみに注目しているが故に、経済の実相・全体像を捕捉できないのである。経済の実態は、むしろ生産や消費の現場にある。生産や消費の現場を捕捉しない限り、経済の全体像を知る事はできない。

 家計は、共同体サイドから見ると内部会計であり、市場サイドから見ると外部会計である。市場サイドから見ると外部会計になるので、市場に情報を開示、公開する必要がない。むしろ、プライバシーという観点からすると機密を保持すべき性格のものである。そして、共同体サイドからすると分配の問題であり、分配の範囲も情報を開示しなければならないほど、広いものではない。故に、会計は、公的な制度としては発達しなかった。
 また、会計は、単式簿記、現金主義的なものである。また、基本は、管理会計である。この点も、市場をベースのした会計制度とは異質である。

 経済の目的の一つに完全雇用があるが、完全雇用が実現しなくても経済が成り立つのは、生活の基盤が家計にあるからである。つまり、生産の拠点の一部は、依然と家計に一部がとどまっており、それによって、外部からの所得の不足を補っているからである。このことから見ても市場を経由して消費される生産物に費やされる労働量だけが社会的労働量の総量を意味しているのではない事がわかる。特に、消費に費やされる労働の多くは、市場を経由していない。その典型が、育児や家庭内労働である。
 家計は、市場経済の外にある。だから、市場経済を基礎にした完全雇用が、(実際には、ほとんど実現しないが、)実現しなくても経済は成立する。それは、家計が経済の基本単位の一つであることを証明している。

 最近、共稼ぎをしている夫婦が、家計を別にしているケースがある。それは、家計の分裂を顕著に現している。それが直ちに、家族の崩壊に結びつくものではないが、共同体としての意義を失わせている事は、紛れもない事実である。一家族に家計は本来一つである。稼ぎは、家族全員に還元されるべきものである。稼ぎ手、一人が独占すべきではない。

 本来は、家計が主であり、賃労働は、従だったのである。ところが、その立場が逆転している。その結果、家計が分裂する危機に見舞われているのである。家計の崩壊が、共同体としての存在意義を喪失させようとしている。

 そして、より深刻な問題は、家内労働の喪失である。
 家計は、非市場型産業の典型である。家計は、つまり、市場の外にある産業である。家内労働の産出する価値は、貨幣価値に換算できない。しかし、家内労働の価値は、存在しないわけではない。ただ、貨幣価値に換算されていない、できないだけなのである。

 女性差別の問題は、家内労働の喪失が引き起こした問題、そして、現代社会の構造的問題の典型である。
 女性差別は、職場内の問題として片づけられるほど単純な問題ではない。働く女性の為に保育園を増やしたり、産休をとれるようにすれば、解決できるような皮相な問題ではない。

 女性蔑視の根底にあるのは、女性自身に対する蔑視と言うよりも、本来、女性が、主として担ってきた仕事に対する蔑視なのである。だから、男女同権論者が目の敵にするのが、家事や育児である。彼女たちにとってこれらの仕事は、女性を縛るとんでもない仕事だという事になる。だから、男女同権が叫ばれれば、叫ばれるほど、これらの仕事は排斥されることになる。その結果、家庭は、崩壊し、子供達は居場所を失って非行に走り、育児は放棄される。
 問題は、女性を尊重とか、フェミニズムとかのレベルの問題ではなく、家族という根元的な問題なのである。家族愛の問題なのである。

 男女の性差別は、男と女の差ではなく、家計が従属的な地位に落とされたことに起因している。この点を理解しないと、真の男女平等はあり得ない。男女平等がむしろ女性の男性化を招きかねない。また、男性社会の優位を裏付ける結果になる危険性がある。

 市場経済、貨幣経済の急速な発展が、家計を従属的に地位へ追いやった。その結果、外部収入の担い手である男性の家庭内での地位が相対的に強くなり、女性の男性に対する依存が強まったのである。

 出産・育児というのは、差別ではなく。動かしがたい事実であり、現実なのである。出産育児というのは、女性にのみ許された崇高な仕事である。それを否定する事は、女性の存在そのものを否定する事に繋がる。現在主張されている男女同権論の多くが、男性社会への同化思想に基づいている。本来の男女同権論は、性差を認めた上で差別を否定するものでなければならない。それが正当的在り方である。

 かつて、女性は太陽だった。
 力を基礎とした武士階級における男尊女卑的傾向を普遍化している。農家や職人、商人の世界では、必ずしも女子の地位は低くなかった。

 男女同権というのは、女性の男性化、同化を意味しているのではない。お互いの差を正しき認識する事によってはじめて成立する。
 家内労働は、市場化できない、賃金化できない労働である。しかし、その労働の必要性重要性は、損なわれてはいない。問題なのは、外部からの収入を稼ぎ手である者だけの成果として見なす事である。家族は、本来、一体である。ところが、それを稼ぎ手だけが、独占しようとしている。それが、問題なのである。

 家計の崩壊は、家族の崩壊を招いている。家族の絆のが失われることによって共同体としての凝集力、求心力、結束力が失われつつある。

 家内労働は、市場価値で換算できない労働である。ある意味で奉仕活動である。奉仕活動という側面を理解しなければ家内労働本来の意義は解らない。現在のように全てを貨幣価値・市場価値で推し量ろうとする社会では、奉仕活動は、無価値な労働と見なされがちであるが、実際は、貨幣価値に換算されないから崇高なのである。事実、社会奉仕は、家内労働の延長線上に置いて捉えるべきである。さほど、家内労働というのは、崇高なのである。貨幣価値に換算できないと言うよりも、換算できないほど高価な活動といえるのである。その家内労働を市場価値に還元できないと言う理由だけで切り捨てようとしている。
 更に、生産的労働のみを是とし、消費的労働を非とする傾向が、家内労働を衰退させるのに輪をかけている。人間社会で重要なのは、生産的活動だけではない。むしろ作った物の使い道、使い方、則ち、消費活動こそ重要なのである。今日、大量生産に引きづられた無意味な大量消費が環境問題や資源問題を引き起こし、人間の心まで退廃させている。消費の在り方から生産の在り方を決めるのが経済の本来の姿、本筋なのである。
 市場価値は、交換価値、貨幣価値を意味している。交換価値や貨幣価値は、価値総体ではなく部分に過ぎない。その部分である市場価値が価値総体を規定するようになってきた。この価値転倒がいろいろな障害を引き起こし、社会を狂わせはじめている。
 その結果、世の中は、市場価値一辺倒となり、人間の尊厳、人間の存在すら市場価値に還元しようとしている。好例が愛である。愛は市場価値では計れない。しかし、その愛までも金で買えると思う人間が現れつつある。そこに、現代社会の病巣がある。現代社会の荒廃、人間性の退廃の根源が潜んでいるのである。

 消費を不経済だというのが、間違いなのである。消費も、また、経済である。経済の一部である。無駄な消費は不経済である。言い換えれば、経済的であるか、否かの基準は、必要であるか否かである。つまり、必要以上の生産や消費が不経済なのである。この必要性という概念が、資本主義経済、市場経済には、欠落している。市場では、需要がある物は、必要な物として見なす。それに道徳的な判断は、差し挟まない。極端な話、麻薬や売春も需要があるのだから、必要なのだと言うことを言う者すらいる。麻薬も習慣性がなければ解禁すべきだという議論が成り立ってしまう。倫理的な価値観は、そこでは、用をなさない。倫理的価値観は、どちらかというと、消費的局面でこそ成り立つ。例えば、使うか、使わないか、買うか、買わないかは、消費サイドの問題だからである。売春で問題になるのは、悪いのは、売春なのか、買春なのかの問題である。作るから悪いのか。消費するから悪いのか。これは、資源問題や環境問題で常に問われる問題である。しかし、これを経済の問題として考える者は少ない。なぜならば、それは、市場の問題ではないからである。しかし、実際は、経済の問題である。だから、市場を規制すべきだという議論が成り立つのである。消費こそ経済の問題なのである。その視点を欠いていることが現代経済、資本主義経済の最大の欠陥なのである。

 野生の猛獣でも必要以上に他の動物を殺したりはしない。遊びで狩りをするのは、人間だけである。必要以上の物を生産し、必要以上の物を消費する。それが経済的動機だとしたら、経済的システムによるものだとしたら、その経済システムは、どこか狂っている。現代資本主義においては、必要性という概念が欠落しているように思える。必要性という歯止めを経済が失えば、経済は、制御する事ができなくなり、暴走する。その結果が、環境破壊であり、資源の浪費である。消費主導の経済体制を再構築しないと、人類は、底なしの欲望の淵に沈む。それを防げるのは、経済の構造化しかない。

 経済機構は、共同体の集合体である。経済機構を構成する個々の共同体は、自律的でなければならない。経済機構を構成する共同体から自律性が失われれば、経済は自壊するのである。経済機構を成立させている共同体の基礎単位の一つが家計である。

 共同体としても存在意義を失った時、社会は、その存立基盤も同時に喪失する。残されるのは、個人のエゴだけである。それは、個人主義ではなく、利己主義である。
 人間の幸せとは何か。それは、共同体の在り方によって決まる。共同体そのものを否定してしまったら、幸福になりようがない。共同体の喪失、それが、現代人の不幸の源なのである。
 我々は、今一度、家族を取り戻さなければならない。そうしなければ、幸福にはなれない。そのためには、今一度、家計の構造について明らかにする必要があるのである。


 

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