経済原理
economic principle



 経済というのは、生きる為の活動を言う。
 経済は金儲けを指して言うのではない。

 経済の話というのは金儲けの話ではない。人の生き様の話してある。経済は生きるための活動を言うのである。
 何を食べて、どんな家に住み。どんな仕事をするのか。そんな話しが経済についての話である。
 では、お金の話は関係ないのか。そうではない。
 今日、生きていく為に、お金は、必要不可欠な物である。だから、お金の話も大切である。
 ただ、経済の目的は、金儲けにあるわけではないと言いたいのである。
 今日、金のためなら、人を殺したり、騙すことを平然とする者がいる。この様なことは本末転倒である。

 一方で飢えに苦しみ餓死していく人々がいるというのに、もう一方で、何万人も食べられるだけの食料が倉に蓄えられ、或いは腐り、捨てられているとしたら。
 又は、住む家もない人々が、貧しいあばら屋で生活し、ホームレスが増えていながら、もう一方で、何十万人もの人々の家を建てるだけの資材と土地が余っていて、また、多くの空き室、空き家があるとしたら、それこそ、経済の仕組みがおかしいのである。
 だから経済について話し合う必要があるのである。

 経済とは生活である。

 経済は、生きる為の活動である。
 だから、蟻や犬、猫にも経済はある。経済とは、ごく身近な物事なのである。

 経済は、人生である。
 故に、経済を考える事は、人生を考える事である。
 経済学は、人の一生を考える学問である。
 経済学は、金儲けの術を学ぶ事が本旨なのではない。
 経済学を学ぶ事は、人生、即ち、生き様や生き方を学ぶ事である。

 たとえて言えば、老後の生活に関して、介護制度や介護設備を整えることを考えるのが経済学の目的ではない。
 老いた後、如何に生きるかを考えるのが経済である。
 介護を学ぶ事は、老いを学ぶ事である。
 そして、老後の生活を如何に精神的にも肉体的にも物質的にも豊かに暮らせるようにするかを考える事が経済学の目的である。
 介護制度や介護設備を如何に整えても、老後の生活が精神的にも肉体的にも貧しいものであれば、経済的には失敗なのである。
 生まれて、成長し、家庭を持って、年をとり、そして死んでいく。それが経済の道筋である。
 生病老死。
 その過程が経済を成り立たせている。
 如何に、人間らしく心豊かに人生を送れるかを考えるのが経済学である。

 科学では、視点が大事なのである。視点は立場で決まる。
 立場とは、自分が依って立つところである。人は、立場に依って意識、認識に差が生じる。多くの科学者が地動説によって殺されかけたが、視点を変えれば、地動説も天動説も成り立ってしまうのである。
 逆に、視点を決めなければ何も定まらずに混沌とした状態に戻ってしまうのである。
 これが相対主義の正体てある。
 相対主義というのは、絶対的視点を否定する事によって成り立っている。
 視点を定める事によって物と物との関係が定まり、森羅万象の現象を認識する事ができる。それが科学の視点、立場なのである。
 この様な視点、立場によって意識も認識も変わるというのは経済も同じである。むしろ、観念的所産である経済の方が視点、立場によって意識、認識に差が出るのは当然の事である。
 そうなると立ち位置が重要となる。

 同一視と言う行為は、数学の淵源となる。

 同一視というのは、幾つかの対象、事象を同じ事、或いは、物と見なすという事である。この事が数を考える場合の根本である。
 つまり、数の性格の背後には、共通の要素や性格が隠されていることを意味している。
 そして、この同一性は、共通性に繋がり、そして、その共通性から抽象化が始まり数の概念を構成していくのである。
 この抽象化は、象徴化を派生され、貨幣概念の核心部分を形成する。
 つまり、貨幣は、交換価値を象徴化した物なのである。
 そして、同一性が貨幣の働きを性格付けている。

 二つの事象、対象を一対一の関係に於いて同じ物、同じ事と見なす。
 それを敷衍することに於いて、同じ要素の集合を構成する。
 その集合が数の概念の根源となる。
 数学の根幹をなす重要な概念である。
 この同一性という概念が数学の根幹をなしているのである。
 つまり、同一という概念が数の概念の根底に暗黙に存在することを忘れてはならない。
 そして、この同じという概念は存在に対する認識に基づいている。

 同一性は、等しいという概念に結びつく。
 等しいというのは、二つの対象や事象を同一の事象、対象と見なすのである。
 この様な場合の等しいは、等しくなると言うよりも等しいとすると言う意味の方が強いのである。
 なぜなら、等しくなると言うのは結果であって前提ではないからである。
 数学では何を前提とするかが、根本でなければならない。
 故に、何と何を等しくするのかが、数学の始まりになるのである。
 一とは何かは、何を一とするのか。
 何を一と見なすのか。
 何の何処を同じと見なすのか。
 それが始まりなのである。

 一軒の家と一人の人間を一という概念で同じ物と見なす事は可能である。しかし、実際には余り意味がない。
 なぜならば一軒の家と一人の人間を同じ物と見なす必要性が認められないからです。
 一軒の家と一人の人間を等しいとする必然性がないのである。
 故に、一軒の家と一人の人間を等しいとする意味がない。
 では、何をどの様に考えれば等しいとする二つの事象や対象を蓋然性が生じるのか。
 そこに、経済では交換という概念を導入する事になる。それが貨幣価値である。

 貨幣単位と掛け合わせることで、交換価値に還元し、一定の値に基づいて等しいとするのである。
 それが、貨幣経済における経済計算の基本となる。
 それ故に、貨幣経済は市場取引を前提とせざるを得なくなるのである。

 同一性を表す記号は、等号である。

 等号は、ゼロ和を成立させる。
 ゼロ和を成立させる事象は、一つの事象を完結させる。
 ゼロ和は、正と負の関係を成り立たせる。
 即ち、足すと零の関係である。
 この足すと零の関係は、対称非対称の関係を判定する。

 経済的指標は足してゼロになる点を原点としている場合が多い。
 その場合、基本的に足してゼロになる関係になる。
 そして、足してゼロになる関係は経済的基準を表している。
 又、足してゼロになる値は、負を意味している。
 貨幣的空間が成立した瞬間に負の空間も成立する。

 基準には、絶対的基準と相対的基準がある。相対的基準には、物理的基準と操作的基準がある。
 例えば、温度である。絶対零度と相対的零度がある。絶対零度は、負の温度を前提としていない。温度は全て正の値である。
 更に暑いとか寒いと言った体感的基準があり、それから一度上げてとか下げてという操作がある。ただ、この場合にも原則的にはマイナスという概念は生じない。
 マイナスという概念、負という概念は、ある一定の基準点を超えた時に生じる概念である。
 しかし、現金収支は残高を変える事はない。
 借金というのは現金収支とは別次元の問題であり、借金が負の点を形成するとは限らないのである。
 借金が形成するのは負の空間である。現金収支の延長線上で借金を捉える事はできないのである。
 借金は借金である。借金は独自の空間を形成するのである。

 物理的基準は、外的基準でもある。操作的基準は内的基準でもある。
 物理的基準は、ある一点からある一点まで、或いは、何々に対してと言った何らかの要素間を比較する事によって成立する。
 相対的基準は、基準点以外の単位要素だけで次元を持つ。逆に言えば、次元数足す一の要素を持つ。
 経済で言えば、貨幣単位(単価)、一人、一個、一時間(単位時間)、単位量(単位重量、単位長さ、単位幅等)等が構成要素となる。

 操作的基準は、主観、意識、感覚によって設定される。

 操作的基準は、操作、取引、手続きによって決める原点を設定する。例えば、コイントスで先攻後攻を決めるとか、サイコロによる親決めするような事である。
 経済は、取引によって基準が決められる。そして、物と金との交換によって物理的空間と貨幣的空間において逆方向の流れを生じる。物の空間は性の価値を「お金」の空間は負の価値を形成する。「お金」の空間では、「お金」は物としての属性を持たない。
 この操作的基準が経済的基準である場合が多い。
 即ち、ゼロ和関係である。

 ゼロ和は、ゼロ均衡である。
 ゼロ和において平均はゼロである。
 総和がゼロとなった時、市場は単一になる。
 ゼロは一になる。

 ゼロ和は。負の領域を作り出す。
 経済は、負の勘定を出現させる事で負の数を設定せずに負の概念を実体化して負の領域を実現した。

 市場はゼロ和である。市場取引もゼロ和である。
 故に、市場はゼロにおいて均衡する。市場がゼロにおいて均衡するという事は、黒字があれば赤字が存在する事を意味する。
 ゼロ和という事は黒字がいいか、赤字がいいかと言うのではなく。如何に全体的に、時間的に均衡させるかが問題であり。
 最初から黒字が是か赤字が否かという議論は成り立たないのである。

 均衡によって静止し、不均衡によって動く。
 市場は、均衡によって安定し、不均衡に流動になる。

 市場取引をゼロ和に設定する事で市場は常に均衡に向かう力が働くようになる。均衡とはゼロである。ゼロに至ると経済は静止する。
 故に、経済を動かすためには不均衡を継続的に引き起こす仕組みを人為的に作り出す必要がある。

 ゼロ和に設定された空間は、慣性系を形成する。
 市場の拡大と収縮は、市場を動かす力を生み出す。

 市場、経済を動かすのは、基本的には差である。
 差には、時間的差と距離差、量的差がある。
 期間損益は、時間価値を生み出す事によって成り立っている。
 即ち、如何に生み出させるかによって市場は成り立っているのである。
 即ち、期間損益は、単位期間に区切る事で時間的不均衡を生み出し、その不均衡を原動力として市場を動かす仕組みなのである。

 貸し借り、売り買いは、ゼロ和である。
 支出と貯蓄は収入に対してゼロ均衡である。
 現金収支は、経済の本質の働きを実現する。即ち、生産、分配、消費を直接制御するのは現金収支である。

 現金収支によって生じた差は、貸し借りで補う。
 貸し借りの元は、預金と借金である。
 貸し借りは、通貨のフローとストックを制御する。

 取引は、ゼロ和である。
 故に、放置すれば市場取引によって生じる経済的価値の総和は、ゼロに収束する。
 ゼロになれば一となる。つまり一で均衡する。それが独占市場である。

 運動の基本は、回転運動と直線運動の二つである。
 循環運動の根本も周期運動の根本も波動の根本も回転運動である。

 故に、経済事象で問題なのは、正と負の関係が継続的な事象なのか、一過性の事象かである。
 それは、事象が回転運動に基づく事象か、直線運動に基ずくかを判定する。

 その上で規則性の有無が問題となる。
 規則は、周期性の根拠となる。

 同一性は、周期性の根拠となる。同じ事を繰り返す事によって周期は定まる。

 この周期性を人為的に設定し、経済的運動を測定しているのが期間損益である。
 期間損益は、現金収支に結びつく事で意味を持つ。
 複式簿記に基づく経済的価値、零に対して均衡している。均衡するとは等しい事を意味する。
 零に基づいて均衡する事によって複式簿記によって成立する正の空間と負の空間は、常に、零に対して均衡する。

 複式簿記によって構成される勘定は、自然数の集合であり、足し算、掛け算、引き算に対して閉じている。

 等号によって正と負が生じる。
 等号に結ばれた正と負の勘定は、足して零になる勘定である。
 正は、+、負は−。
 正は、左、負は右。
 正は、借方、負は貸方。
 正は、実質勘定、負は名目勘定。
 正は債権、負は債務。
 正は、生産物や資産、負は、金融と収益。
 金融と収益は収入と支出を構成する。

 収入は支出の上限を画定する。収入とは、視点を変えると資金の調達である。
 故に、収入は、資金の調達手段によって制約を受ける。
 資金の調達手段は、生産手段と金融手段、資本的手段に基づく。
 資金の流通量は支出と資金の回転によって決まる。
 収入は負に基づき、支出は負を正に転化する。

 支出には時間が関係する。支出と時間が掛け合わさる事で長期負債が成立する。
 長期負債は、固定的支出となる。

 収入は最大値を求められ、支出は最小値を求められる。
 拡大と抑制、両極への働きが経済効率を高める。

 経済の作用の本質は分配であり、原則は、正と負の均衡である。
 正の均衡の基礎は、費用と資産の比率によって形成される。
 負の均衡の基礎は、負債と収益の比率によって形成される。

 負と正の働きは、利益に反映し、利益は、資本に蓄積される。

 費用と負債が連動し、収益と資産が連動する。
 資本と利益が連動している。
 費用の増加が負債の増加に結びつく場合がある。
 費用は、所得に転換される。所得は収益の根拠となる。
 所得の上昇は、物価と費用の上昇を招く。
 所得の上昇は、費用を押し上げ、費用の削減圧力となる。
 費用の削減は、所得の低下に結びつく。

 現金残高は、利益に連動している。
 現金収支の残高を、常に、一定、かつ、正の値に保つ。

 現金は、公的負債によって供給される。
 故に、現金を供給すると社会全体の負債の水準は上昇する。
 即ち、社会全体の負債水準が上昇すると資金の流量が増加する。
 資金の流量が上昇すると資産、収益、費用の水準が資産水準、収益水準、費用水準の順で順次、上昇する。
 収益の上昇は、生産力を高める。生産力が高くなると生産物の供給が過剰になる。
 市場が成熟してくると市場は、飽和状態となり、収益の上昇にブレーキがかかる。
 収益の上昇が停滞は、費用と負債の比率を高める。結果的に、費用と負債の比率が上昇し、収益と資産の比率が下降する。
 収益と資産価値が低下すると結果に資金の調達能力が低下する。

 社会全体の金利負担は、個々の企業の金利の水準を本とするだけでなく。
 社会全体の負債の総和の水準を基としている。
 故に、部分的影響だけでなく、全体的影響も勘案する必要がある。

 労働には、正の労働と、負の労働がある。
 正は、生産的労働、負は、非生産的労働である。
 非生産的労働には、金融労働と消費的労働がある。

 黒字を生み出すのは、正の労働であり、赤字を補填のは負の労働である。
 現金収支は、正と負の労働の均衡によって安定する。
 故に、経済全体は、現金の動きと損益の動きを調和させる事によって完結する。

 経常収支を考えた場合、一定期間で黒字と赤字を振幅する運動と見るのか、短期的に均衡する運動としてみるのか、直線的に蓄積する運動と見るのかでとるべき施策は変わる。その点を見極めないで黒字が是か、否かを論じるのは愚かである。

 現代経済の問題は、生産経済に傾いて消費経済が確立されていない事である。

 銀行は高利貸しではない。ただ担保を取って金を貸すことが仕事なのではない。負の勘定を制御して産業や事業を育成し、市場を正常に機能させることが仕事なのである。目先の利益に拘泥し、大局を見失ったら金融は国を滅ぼす。

 百万円という価値が自然界にあるわけではない。百万円という価値を生み出したのは、人である。経済は、人間が生み出した事である。経済は、生きる事である。経済学は、認識の問題である。
 猫や豚は、経済を考えていないと人は言う。猫に小判、豚に真珠と言って猫も豚も経済的価値が解らないと猫や豚を人は小判や真珠のために同類と争ったり、殺したりはしない。 ならば、小判や真珠の真の経済的価値を知っているのは、人であろうか、それとも、猫や豚であろうか。

 付加価値というのは、経済にとって重要な意味を持っている。しかし、一頃、付加価値と言う言葉が意味もなく広まって、何でもかんでも付加価値がなければと多くの人が言い出した事がある。
 あの時、多くの人が、付加価値、付加価値と事ある毎に言っていたが、その大部分の人は、付加価値の意味をわかっていたとはとても思えない。
 付加価値、付加価値と何かにつけて言う人の多くは、付加価値というのを何か特殊な知識や技術、技能を指していると思い込んでいる節がある。そして、付加価値ある仕事というのを特殊な仕事や特別な仕事だと錯覚していた。

 しかし、付加価値のある仕事というのは、特別な仕事を指して言うのではない。何らかの資源に人為的な価値を付け加えて事象である。例えば地代、家賃、金利も付加価値である。

 ただ付加価値の中で一番重要なのは労働である。
 また、便所掃除をすれば、便所にだって付加価値を付けることはできる。
 木を削って箸を作っても木に付加価値は付けられる。
 要するに、付加価値というのは、人間が汗水垂らして働いたところに生じる。
 SE、デザイナーのような仕事だけが付加価値をもたらすわけではない。

 どんな先進国だって三割の人間は、読み書きもろくすっぽできない人間だ。そういう人間に正職を与えて真っ当な生活を送らせるのが、実業家の仕事であり、政治の仕事でもある。
 世の中は、コンピューター技術者や特殊技能者だけで成り立っているわけではないのである。何の取り柄もない大多数の人々の暮らし向きをどうするのか。彼等の仕事を如何に確保するかが経済の重要な課題の一つなのである。

 大体、単調な単純反復繰り返し的な肉体労働を特殊な技能を持つ人間にできるであろうか。又、できたとしても彼等にやらせる事が経済的であろうか。
 プロスポーツは、スタープレイヤーだけで成り立っているわけではない。
 プロにもなれない多くのスポーツファンがいてプロスポーツは成り立っているのである。そして、その全体を理解することが経済学の仕事なのである。

 金になる仕事ばかりを尊ぶから経済が成り立たなくなるのである。経済の本質は、より多くの人に、より豊かな人生を実現することにあり。経済学は、どうしたら多くの人により豊かな生活を暮らせるようにできるかを考える事なのである。
 その点を見落としたら、経済の意義も経済学の目的も失われてしまう。

 自由主義経済は、市場経済、貨幣制度の上に成り立っている。
 この様な自由主義経済は、収入と支出を基盤としている。
 収入と支出は、現金収支に基づく概念である。

 支出は、過去から現在に至る収入の範囲内で成立する。収入も支出も自然数で表現されなければならないからである。
 故に、収入が自由主義経済の核となる。ところが、収入は、不確実、不規則、不定期な事象である。

 貨幣制度が確立する以前は、貨幣的概念である収入ではなく、収穫という物的概念を基としていた。最も原始的な収穫は、狩猟による獲物や採取である。
 この様な獲物や採取は当初は保存もできず、極めて不安定、不確実な物であった。それが、遊牧や農耕、そして、保存技術の進歩によって安定化してきたのである。
 それでも物としての特性から切り離すことはできなかった。最終的に貨幣を仲介する事によって収穫を収入に置き換える事によって年間を通じて一定の資源を確保することが可能となったのである。
 それでも市場取引に依ってばかりいたら収入は安定しない。
 収入を安定化するのは、企業や家計、公的機関といった経済主体である。企業や家計、公的機関は、組織化されることによって賃金という形で不規則な収入を定収化する。そのための仕組みが会計制度であり、期間損益である。
 現金は、正と負の勘定の間を揺れ動き波打つように流れる。
 基本的に現金の流れは循環運動である。
 又、生産にも周期がある。特に、食料生産には環境に基づく周期がある。
 又、支出にも固定的な部分と不確実な部分とで成り立っている上は、住宅投資や教育投資のように大きな支出を伴う事象は不定期であり、予測不可能な部分を多く含んでいる。
 また、物や貨幣、需給によって市場は、収縮運動を繰り返す。つまり、市場環境は一定ではない。
 故、に現金や物の流れは不安定になる。
 この現金や物の流れを整える働きをするのが経済主体である。言うなれば、会計や期間損益に基づくは、経営主体は、整流機関のような仕組みである。
 企業のような機関を仲介する過程で収入は、収益に化し、定収入化する。

 収入に対して支出の多くは、固定的である。支出は消費に直結している。特に、食料や水のように生存に必要な資源は欠かす事はできない。収入の安定化の要請は、支出の固定的性格に依る。貨幣は、資源の過不足を調整する働きがある。定収入化は、市場経済の前提となる。

 また、定収入が長期借入金の原資を保証する。
 即ち、定収入化によって将来の収入を担保して借金をする事が可能となるのである。定収入が保証されることで計画的な借入金が可能となるのである。定収入化が保証される社会にあって負の経済は、確立される。

 名目的勘定である負債は、社会に累積する性格がある。
 負の勘定は、集積すると市場の資金を寝かせ、流動性を悪化させる。流動性の悪化は、景気を滞留させる。

 経済の底辺は、所得の水準と借入金の水準によって形成される。そして、所得の水準と借入金の水準が市場の基調を形作っていく。

 問題は、所得の水準が負の水準を常に上回っているとは限らない点にある。

 買うか借りるか。これは自由主義経済の本質的質問である。
 ただ、買うにしても、大抵の場合、借金をする事になる。つまりは負の勘定をどうするのかが肝心だという事を意味している。
 住宅投資が好例である。自分の所得に見合う範囲で賃貸住宅がいいか、それとも持ち家がいいかを判断する。
 先ず、月々の支払が問題となる。家をローンで買えば、一定期間支払続ける事が可能かどうか。ローンを支払い終わった後はどうなるのか。
 その間、住宅の修繕費はどれくらいかかるのか。それに対して同じ間取りで、条件が同じ賃貸住宅の家賃の相場はどれくらいなのか。地価の動向はどうか。
 かつては、所得も右肩上がり、地価も高騰していた。だから、無理をしてでも持ち家にした方が良かった。それが土地神話を生んだのである。
 しかし、バブルが崩壊すると真反対の事象が起こっている。つまりは、正と負の水準が景気を左右しているのである。
 借金をして家を買った場合、失業をして収入がなくなったら、失業しないまでも収入が減っただけで生活は破綻してしまうのである。
 これは今日の自由主義経済の本質でもある。だから、社会全体の所得の水準と借入金の水準が問題となるのである。所得の水準と借金の水準、そして所得の分散と借金の分散は、経済の動向に決定的な働きをしている。

 社会全体の所得の水準が負の水準を常に下回っている様な状態は、社会を富裕階級と貧困階級に分裂させてしまう。
 そうなると、富む者はますます富み、貧しい者はますます貧しくなる。
 必然的に経済の成長は止まる。

 現代の経済は、数学である。現代の経済は会計である。現代の経済は、科学である。
しかし、現代の経済学において、会計を基礎としているのは、一部の分野に限られている。又、数学も確率統計に偏りすぎている。
 現代経済が貨幣制度を基礎とし、貨幣価値が数値的価値である以上、現代経済を基礎数学と切り離して考える事はできない。
 経済学が数学や会計学とかけ離れたところにある限り、経済学は科学的にはなり得ない。なぜならば、現代の経済にとって数学や会計は前提となっているからである。

 現代経済は、市場経済と貨幣経済を基礎としている。

 貨幣経済は、交換価値に貨幣という実体を持たせることによって貨幣価値を数値化し、流通させることを可能とした経済体制である。
 貨幣経済は、交換価値に貨幣という実体を持たせる事によって物の流れに対して反対方向に流れる貨幣の流れを作る出したのである。
 そして、貨幣の流れによって物の流れを促す働きを成立させたのである。この事が貨幣経済の根本的活力である。
 一度貨幣経済が成立すると経済は、貨幣によって表現され計られることになる。
 貨幣は象徴である。

 数には、任意の性格で対象を集合化するという性格がある。この性格は、逆に、任意の性格に依って対象を等しくすると言う働きもある。
 また、特定の性質や要素を抽出し、その性格に依って対象を類型化するという働きが数にはあり、数の性格を基礎とする貨幣にもこの性格は継承されている。
 この作用は、貨幣を考える上で重要な働きとなる。
 即ち、貨幣の本質は自然数であり、自然数は、負のない離散数という性格に則って対象を類型化し、一旦、貨幣価値に換算した上、異質な対象を貨幣価値によって演算する事を可能にするという働きがある。
 これが貨幣の働きで最も重要な要素である。

 貨幣価値は、数と値からなっている。この関係は、経済の根本的性格を表している。
例えば、コインやお札の数と合計額の関係はお札の数と合計額という値からなっている。そして、金種と数、金額は、単位と構成の組みあわせを表している。
 また、金額は、物の数量と単価という値を掛け合わせる事によって決まる。

 財は、貨幣価値に換算される事によって価値の基準が統一され演算が可能となる。例えば、サービスと商品を足したり、時間と労働量と人数を掛け合わせるなどという計算が可能となる。

 貨幣価値は、数値化される事で物としての属性が削ぎ落とされてしまう。
 例えば、一万円の料理も、お酒も、音楽会の切符も、機械も、一万円という価格によって統一的に表現されその内容は消し去られてしまう。
 例えば、料理の味、形とか、機械の働きとか形状、材質、音楽の感動といった事柄は全て剥ぎ取られてしまうのである。その上で全ての経済的価値が貨幣価値によって一元化されてしまう。
 又、遺産を相続した場合、住んでいる家に相続税がかかり、土地を売らなければ相続税が支払えなくなったり、また、遺産の分与ができなくなるのは、住居用という土地の属性が失われるからである。

 お金は、天下の回り物。お金は社会を循環することで機能を発揮する。

 市場経済を動かしているのは資金の流れである。資金はただ流れれば良いというのではなく、循環する必要がある。資金は循環することによって財を動かし、分配する。この循環運動が社会を成り立たせているのである。
 資金の流れは、市場を動かし、また、市場を維持する働きがある。
 資金の流れがある事によって経済体制のみならず、国家体制も維持されるのである。この資金の流れが変調すると経済は円滑に機能しなくなり、そのまま放置すれば、国家体制も崩壊してしまう。

 経済的価値の上下運動によって経済の正と負のエネルギーを回転運動に転換することで物流を起こし、市場の交換を通して資源を分配する。それが市場経済である。
 問題となるのは、直線運動を回転運動、循環運動、周期運動に変換できなくなることである。直線運動を回転運動に変換できなくなると負の連鎖が始まる。

 貨幣の循環を引き起こす仕組みの一つがゼロ和関係である。ゼロ和関係によって作り出される正と負の関係が回転運動の原動力になる。

 ゼロ和関係にある要素を抽出し、その働きを明らかにする必要かある。
 ゼロ和関係にある要素には、水平的関係にある要素と垂直関係にある要素がある。
 例えば、経常収支の総和と個々の国の経常収支は、水平的関係にある。
 又、民間収支、財政収支、経常収支、家計収支は水平的関係にある。それに対して、経常収支と資本収支は垂直的関係にある。

 直線運動を上下動によって回転運動に変換していく。
 例えば、為替の上限運動が経常収支を調整し、経常収支の上下動が為替相場に影響を及ぼす。

 経済では、因果関係よりも相関関係の方が重要である場合が多い。
 為替や経常収支の関係もどちらが原因でどちらが結果というのではなく、連動しているという事である。

 現金収支は直線運動であるが、期間損益によって一定周期の運動に置き換え、回転運動に転換するのが会計制度である。
 故に、会計制度は、複式簿記を基盤とするのである。
 会計制度は直線運動を回転運動に変化する仕組みなのである。 

 現代の経済は、直線運動を回転運動に変換できないが故に、負の連鎖を起こしているのが最大の問題なのである。

 一方的にエネルギーが蓄積され、市場を歪め、富の偏在を促してしまっている。それによって公正な分配ができなくなり、物流が阻害されている。
 又、生産と消費を結びつけることができなくなる。それは生産手段と生産力の結びつきを断ってしまう。

 資産価値の下落によって資金の調達能力が低下し、資金不足に陥り、負債が増加し、資金が流出し、内部資金か減少する。内部の資金が枯渇することによって再投資の原資を失う。

 負の連鎖は、期間損益と現金収支の不整合によってももたらされる。
 
 過大な利益がでいるのに資金不足に陥る。最悪は黒字倒産をしてしまう。
 これは企業に限ったことではなくて国家財政も同じである。企業だって国家だって現金が回ることによって成り立っている。
 利益があっても資金が回らなくなれば経済的に行き詰まるのである。

 負の連鎖を引き起こすのは、現金収支と期間損益との間にある不整合である。
 そして、その不整合を引き起こすのは、償却、配当、役員報酬、納税資金、現金の流出、借入金の返済、利益、費用といった現金収支と期間損益との間にある認識の違いである。

 償却が終わると利益は、過大になってくる。
 しかし、それは現金収支と直接結びついていない。償却が終わっていながら借入金の返済が残っていると納税額と借入金の返済額を合算した値が現金収入を上回る場合が出てくる。
 過剰な利益を上げていながら、現金不足という事態に陥るのである。現金収支と期間損益の不整合によって起こる資金不足の分岐点をデッドクロスという。

 今日の貨幣制度と金本位制度時代の貨幣制度とは本質が違う。今日の貨幣制度では、貨幣が貨幣としての固有の価値を持っているわけではない。
 今日の貨幣制度の特徴は、貨幣が独自の空間を形成している点にある。
 貨幣空間が成立するためには、第一に、一つの通貨体系によって統一されていなければならない。一つの通貨体制は一つの通貨圏を形成すると言える。
 第二に、信用貨幣が基軸通貨であり、貨幣の働きが特化されている。
 第三に、中央銀行、或いは、中央銀行の機能を持つ一つの機関が存在し、通貨の発行権が統一的に管理されているという事。
 第四に、国債の発行手続きが確立されており、国債の引受機関が存在する事。
 第五に、通貨を循環させる機構、決済制度が整っている事である。
 第六に、金融市場が確立されている。
 第七に、税が金納である。
 第八に、複式簿記を基礎とした会計制度が確立されている。
 貨幣空間か確立されていれば経済的負の空間が形成され、その対極に物の空間、正の空間が形成される。経済的な負の空間と正の空間が形成される事によって物と金のが独立した運動をし、双方向の作用が確立される。
 貨幣空間が形成されると、貨幣が形成する空間と物が形成する空間とが分離され、独立した空間を形成する。
 独立した空間が形成されると物と貨幣とは、別々の基準によって測られる事になる。お金と物とは同じ単位では計測されなくなるのである。そうする事で貨幣は貨幣の働きに特化されるのである。

 物理学において、物自体の運動にのみ囚われるのではなく。その背後にある空間や場の歪みによって物の運動が引き起こされていると捉えることも可能である。そして、その物の運動と空間や場の歪みを映像として捉え、それを方程式に置き換えられる様になる必要がある。
 この事は、経済現象も同じである。空間や場の歪みが通貨の流れにどの様な作用を及ぼすのかによって景気の動向を予測する必要がある。

 経済は、交換によって社会性を帯び、そして、分配によって完結する。

 貨幣の供給は、需要を喚起する。又、貨幣の流れが、生産手段と結びつく事によって経済行為を連鎖させる。

 貨幣空間は差を比に変換することで成り立っている。つまり、貨幣空間とは基本的に閉じた空間であり、一つの全体と部分からなり、部分が専有する比率がその人の取り分を規制するのである。
 この貨幣空間と物の空間を結びつけているのが人であり、人は、生産主体であると同時に消費主体でもある。つまり、生産手段の担い手であると同時に消費者である。この個人の働きを理解しないと貨幣経済の本質は理解できない。

 費用は、人件費の塊だと言える。費用を削減する事は、総所得を削減する事を意味し、消費の後退を招く。この作用反作用の関係が、経済を制御しているのである。
 反対給付のない生産手段は経済的効用を測定する手段を持たない。公共事業が経済的合理性を持たない原因がそこにある。

 一方で費用は価格に反映し、価格は、物価に反映する。もう一方で費用は所得に反映し、所得は購買力に反映する。購買力は物価に影響する。
 費用の増加は、価格の上昇を招き、価格の上昇は、物価を押し上げる。
 又、価格の上昇は費用を押し上げ、所得を上昇させる。この様な圧力は市場全体に物価の上昇圧力をもたらす。
 反対に、逆の流れは、市場全体に下降圧力をもたらす。そして、これらの変化の根底にある空間は、複利的空間である。
 これらの要素の働きは場に働く力の方向性を形成する。要素間の変化の速度によって場に働く力は規制され、市場は常に均衡を求めている。

 ここで問題になるのは、平均と分散である。平均は水準を表す。物価水準、生活水準、所得水準、そして、その水準と物価の分散、所得の分散が経済環境を形成していく。

 経済が停滞する原因の一つは極端な格差の存在である。極端に貧しい国にはえてして極端な金持ちがいるものである。要するに金が回っていないのである。金が回っていないから偏りが生じ、経済状態を悪くしているのである。
 反対に総ての所得を平均化、均一化してもお金は回らなくなる。個人にも、環境にも違いがある。その違いを前提として平等は成り立っている。違いを認めなければ平等は成り立たないのである。

 政府や中央銀行等の公的機関が、お金を市場に供給し、その上で、民間企業、家計、政府が金を出し入れする事によって結びつき、お金と物とを循環させる。
 お金を循環させる事によって経済の仕組みを動かしている。それが自由主義経済である。自由経済体制とは、金を循環させる事によって経済主体を結びつけ、生産財を分配する仕組みである。
 お金と物とは別々の独立した市場を形成している。そして、金融機関だけが、金を循環させるという特別な役割をしている。
 表の家計、民間企業、政府が実物によって成り立っているのに対して、金融機関は金だけで成り立っている産業である。そして、実物市場が表の市場とすれば、金融市場は裏の市場である。物の市場と金の市場を重層的に介する事によって物の経済とお金の経済は、表裏の関係にあるのである。
 市場に働いているのは場の法である。法と法則の違いは、法は合意に基づいて人為的に設定された規則なのに対して、法則は、所与の一定の規則を持った働きである。

 場の働きは、財を介して関連づけられている。

 経済とは、生きる為の活動を言う。つまり、基本は、生きる為に必要な資源、食料や水、衣服、住居などを調達し、それを消費する事を言う。
 生きる為の活動なのだから、動物にだって経済はある。経済は、人間だけに限った事象ではない。
 人間は、社会的動物である。故に、生きる為に必要な資源を集団で行い、それを、皆で分かち合う。それらをひっくるめた活動を経済という。
 具体的に言えば、基本に、生産と消費がある。次、生産した物を如何に消費者に分配するか。即ち、分配がある。つまり、経済の基本は、生産と消費と分配である。
 生産や消費は、生産した時点や消費した時点では社会的効用を発揮していない。故に、経済の現場は主として分配の場にある。
 生産した財を市場を通じて消費者に分配する。それが市場経済である。
 その手段として貨幣を用いるのが貨幣経済で、市場経済と貨幣経済は、別物ではあるが、同時に相互補完的関係でもある。
 貨幣経済とは、生産し、或いは調達した資源を分配する際、仲介手段として貨幣を用いる経済を言う。
 生産と消費は、非対称である。生産された物、全てが消費されるわけではなく。消費に必要な物全てが生産されるとは限らない。生産と消費との間には過不足が生じる。生産と消費との間にある過不足を市場取引という間接的手段によって調節する仕組みが、市場である。
 市場取引は、売り買い、貸し借りを通じて経済行為を対称化する働きがある。

 貸し借りは、貨幣の供給と回収を担い、売り買いは、分配を実現する。貸し借りは、債権と債務を生じさせ、売り買いは、物や用益、権利の交換と移動を実現する。

 貨幣経済が機能するためには、消費者に予め貨幣が配分されている必要がある。貨幣の本質は交換手段であり、数値情報である。
 貨幣の配分は、生産手段に対する対価か、貸出による。
 主たる生産手段は、労働である。生産手段は労働以外に土地や機械設備、資本などがある。
 貨幣の配分は所得によって為される。所得は、主として生産手段に対する対価である。所得は分配のための手段である。
 生産と消費は、非対称であるため、分配が効率的に行われないと財やお金の配分に偏りが生じる。その偏りを是正する為には、所得を適正に配分する必要がある。
 貨幣の特性の一つに貨幣の持つ数値情報は、保存できるという点がある。そのために、市場で権利を行使した余りを貯金する事ができる。
 市場取引では、物と金は過剰な分、余り、余剰が生じる。物の余りを在庫になり、お金の余りは貯金となる。この余剰な資金がストックを形成する。余剰な資金は、投資となって資金が不足している部分を補う。投資は、資金の貸し借りを通じて為される。投資は、第一段階として資金の調達、第二段階として生産設備と資金との交換の二段階によって実現する。

 金、金、金、金の世の中だ。経済は、所詮、金の問題だと言うが、本当に金、金、金が経済の問題なのであろうか。お金の流れというのは、経済の実態を映す影である。つまり、金は影に過ぎない。経済の実態は、人と物にある。

 収入とは何か。所得は、第一に、人件費、即ち、費用である。第二に、所得、即ち、分配である。第三に、生活費、即ち、消費である。

 企業の目的は、第一に、投資をして、費用に見合う利益を上げる事。第二に、社会に有益な財を市場に供給する事。第三に、従業員を養う事、即ち、雇用の三点である。
 この三点は、費用、分配、生活に対応している。
 同様に家計は、第一に、労働力を提供し、第二に、成果の配分を得る事。第三に、家族を養う事である。
 公共は、第一に資金を市場に供給する事。第二に、税を徴収して公共の福利に対する投資をする事。第三に失業対策である。

 その国の経済状況は、産業構造に依って決まる。産業構造は、人的資源、物的資源、金融資源のあり方によって定まる。そして、各々の資源には、質と量がある。
 経済状況は単純にその国の生産量によって定まるわけではない。
 生産、分配、消費の相互作用によって経済状況は定まる。生産、分配、消費の働きは、市場の基礎にある産業構造と消費構造、金融構造に制約されている。
 また、産業構造は、生産手段の有り様、分散によっても制約を受ける。

 例えば、新興国の多くは、経済を離陸させる段階で低賃金による労働集約的産業に基礎をおいた成長を計る。
 それから暫時、資本集約型、知識集約型産業へと移行していこうとする。
 経済は、通常一定の段階を経て発展していく。
 即ち、労働集約的産業から資本集約的産業、そして、知識集約的産業へと段階的に移行していく。
 しかし、段階をステップアップする際に、何らかの支障が生じると経済は失速する。
 最も障害となるのは急速な格差の拡大である。急速な格差の拡大は、市場分裂させ、政治状況を不安定化する。
 経済が成熟してくると人件費が高騰し、それに従って労働集約的産業が衰退する場合がある。
 労働集約的産業が衰弱している時に、資本集約型産業、知識集約型産業に移行していくと雇用に偏りが生じ、その結果、格差が更に拡大し、政治が不安定となる。
 なぜならば、資本集約型産業、知識集約型産業は、労働の質に偏りがあり、限定的な雇用しか生み出さないからである。
 労働集約的市場を軽視せずに労働集約的産業を一定程度維持できる環境を予め予定しておく必要があるのである。

 費用は、景気の下降圧力となり、分散は、均衡圧力となり、生活費は、景気の上昇圧力となる。この三つの均衡点が景気の動向を規制する。

 費用は、生産手段でもある。収入は労働の対価でもある。
 費用というのは、生産手段と言える。所得は、分配手段。生活費は生活手段である。
 分配手段は、消費と貯蓄と税に区分される。そして、分配から投資が生まれ、分配から投資に転換される過程で貸借関係が生じて長期的資金の流れの枠組みを作る。
 投資には、経済主体に応じて公共投資と民間投資があり。
 民間投資には、企業投資と家計投資がある。
 さらに、消費が短期的流れを形作る。社会のストックとフロー、即ち、長期的資金と短期的資金の比率が景気の動向を左右する。
 生活手段によって個々の財の価格が定まり、個々の財の価格の変化が社会構造を変動させる。
 この様に、生産と分配と消費の動きが景気を形作るのである。即ち、生産は、収入の上限を決め、所得は、収入の分散を定め、消費は収入の下限を規制する。生産、所得、生活の相互作用によって景気の動向は形作られていくのである。

 費用を決める要素は市場における競争力であり、一定一率であるか。
 可能ならば逓減する事が求められる。費用を決めるの基準は費用対効果に求められるからである。
 所得は、能力に応じたものである事が本質である。
 そのために、所得は、その人の能力や実績の限界に応じて決まる。
 スポーツ選手は、二十代から三十代でピークに達する。
 生活費は、家計費でもある。生活費は、その人その人の家族構成やライフサイクルに沿って形成される。生活費としての収入の基準は、必要性だからである。

 費用である人件費は常に市場の競争に晒されている。所得は、能力の限界に制約を受けている。消費は、所得の範囲内に限定される。
 所得は、必要性から導き出されるものではない。費用は、市場の需給の関係から求められ、生活費は、消費に基づく必要性から求められる。

 費用には、相対費用逓減の法則、機会費用逓減の法則、限界生産力逓減の法則がある。

 経済というのは、人、物、金の三つの要素から成っている。そして、この三つの要素は、個々独立した働きをしている。
 例えば、生産手段である費用は、常に合理化の対称であり、一律一定の方が良い。人件費は固定費なのである。
 それに対して所得は高ければ高いほど良い。又、結果や成果に直結しておいた方が評価もしやすい。
 生活費は、消費に直結していて物価に反映する。
 この様に三つの要素は個々独立した性格を持っている上に相反した働きをする場合がある。
 所得は、生活水準に直結している。生活費というのは、可処分所得の範囲内で収められる。故に、消費活動は、総所得、或いは、総可処分所得の範囲内で行われることになる。

 例えば、年収と結婚には相関関係があることが知られている。
 一定の年収以上がないと結婚率が低い。
 また、正規雇用と非正規雇用でも結婚に影響が出ている。
 結婚と関係する要素は、必然的に住宅計画にも関係してくる。
 重要なことは、正規雇用と非正規雇用の決定的さは、正規雇用は借金に対し有利にはたくのに対して非正規雇用は不利に働き。そのことが負債構造を薄く不安定にする事である。借金ができない社会は貨幣の流通と蓄積が円滑に働くなり、景気を不活性化する。
 市場経済というのは、貨幣、即ち、負の部分の裏付けがあって成り立っている。

 収入は、支出でもある。

 貨幣価値が浸透すると換金できるか、否か、即ち、貨幣価値に換算できるか、否かが、経済的価値を左右するようになる。

 賃貸住宅が良いか、持ち家が良いかと言う問題は、住宅問題の本質に関わっている。そして、我々は、賃貸住宅を貸し借りで捉え、持ち家を売買として捉えるがちである。
 しかし、賃貸住宅と持ち家というのは、表裏の関係にあり、物の貸し借り、売買と「お金」の貸し借り、清算の関係に関わっている。
 この様に貨幣経済では、物と「お金」が表裏の関係にある。
 賃貸住宅というのは、物件を貸し借りするという事であり、持ち家というのは、金銭を貸し借りするという場合が隠されている事を見落としがちである。
 賃貸住宅と持ち家は、清算と所有権の問題である。賃貸住宅というのは、必要に応じてその時点その時点で使用した分、或いは、消費した分が清算される形式である。

 経済というのは、生きる為に必要な活動を言うと定義した。
 では、貨幣経済では何が、生きていく為に必要かというとお金である。
 貨幣経済下では、お金がなければ生きていく為に必要な資源を手に入れる事ができないからである。
 故に、貨幣経済では、お金を手に入れる事が一番最初に求められる。つまり、何よりもお金が必要となる。
 そのために、お金を手に入れるために、必要な事を創造する事さえある。お金を手に入れる手段は、生産手段による。個人が固有の生産手段とは、労働か権利である。故に、雇用が持つとも最初に求められるのである。失業すると何らかの利権がない者は、お金を自分の力で調達する事ができなくなるからである。
いずれにしても生きていく為には、お金が必要となる。
 それが、貨幣経済なのである。この貨幣経済の有様が、物と金との関係を時に転倒させてしまう事がある。
 本来は、生きていく為に必要な資源は、食べ物や着物、建物と言った物である。ところが、貨幣経済では先立つものとして「お金」がなければならない。
 故に、貨幣経済では、金を手に入れるために必要な事、金儲けに必要な事が経済を生み出すのである。そのために、経済とは金儲けの手段だと錯覚しがちである。
 そして、一番大切なのはお金であって他の物は、お金に従属している様に錯覚してしまうのである。
 しかし、それは錯誤である。経済は生きていく為に必要な活動なのだという前提を忘れたら、経済の本質を見誤る事になる。
 経済は、お金が総てなのではない。経済の本質は、生きていく為に必要な事なのである。

 生産要素は、資本、労働力、設備である。資本とは金を基本とした生産手段であり、労働力とは人を基本とした生産手段であり、設備とは、物を基本とした生産手段である。

 経済状況を決めるのは、物の量と人の量、金の量である。
 物の観点から見た貨幣価値、人の観点から見た貨幣価値、金の観点から見た貨幣価値は、貨幣単位によって表されるが、同じではない。

 貨幣価値は、数量と金額からなる。数量は物を表し、金額は金を表す。
 数量は、物の空間を表し、金額は、数の空間を表す。
 数量は、物の集合を表し、金額は、数の集合を表す。

 二十一世紀に入って原油の生産量は、横ばいであるのに対して、石油価格は、急騰した。 これは、原油市場に投機マネーが流入した事が原因である。(「日本の経済の奇妙な常識」吉本佳生著 講談社現代新書)
 このように経済は、物の生産、金の流れ、人の消費の三つの要因によって引き起こされる。

 生産量や消費量というのは物の経済を表し、価格の変動は金の経済を表す。価格は、人の欲求に基づいて市場取引によって形成される。
 市場取引は、価格に収斂する。価格は、需要と供給によって定まる。需要は、人の欲求を基とする。
 貨幣経済現象は、物の要因と金の要因、そして、人の要因が複合されて起こる現象である。

 市場取引は、過剰なところから不足しているところへ資源(人、物、金)を配分する事を目的として成り立っている。
 経済の役割は、必要な資源を、必要なだけ、必要なところへ配分する事である。

 この様な貨幣のはたきは、経済的価値を平準化する。

 資金の流れを作り出しているのは、取引であり、取引の根本は交換である。交換は、差によって生じる。故に、資金の流れを作り出しているのは差である。差には、金利差や時間差、価格差などがある。

 貨幣価値というのは幻覚である。相対的な価値である。絶対的な価値ではない。
 貨幣価値そのものがあるわけではない。
 一億円の土地があるわけではない。その時点で一億円と交換できる土地があると言うだけである。一億円の土地というのは幻覚である。
 貨幣というのはそれ自体で成り立っているわけではない。貨幣は尺度である。貨幣は貨幣が指し示す対象があって成り立っているのである。
 貨幣は影である。

 映画や小説で黄金郷の話が出てくる。
 しかし、黄金があれば豊かになれるというのは、幻想である。
 最初から黄金に価値があるわけではない。黄金に人間が交換価値を見いだしたから価値が生じたのである。
 なぜならば、黄金があるから豊かなのではない。
 黄金は象徴なのである。黄金と交換する物がなければ人間は、豊かにはなれない。
 江戸時代、飢饉の時に大量の小判を持っていながら餓死した商人がいたという。いくら大金を持っていても食料を売ってくれる者がいなければ生きていけないのである。
 猫に小判と言うけれど、猫は、小判に価値を見いださない。
 いくら黄金が沢山あったとしても猫には、魚一匹の価値もないのである。
 猫は、小判のために殺し合いはしない。
 ならば人と猫どちらが黄金の真の価値を知っていると言えるであろうか。
 黄金郷が存在してもそこに住む猫にとって石ころほどの価値も、黄金は、猫にとって価値がないのである。
 黄金に目がくらむ者にとって黄金は命より大切に思えるかもしれない。しかし、それは幻覚なのである。
 同様に貨幣は幻覚である。
 人の生活にこそ真実は隠されている。

 人生夢幻の如くと言うが、お金の価値も幻なのである。
 その幻に囚われて人生を台無しにすることは無意味なことである。

 多くの人は、貨幣経済の役割目的を誤解している。貨幣経済は、金を儲ける事が目的なのではない。人間が、人間らしい生活を実現し、更に自己実現をするために必要な資源の生産を促し、生産された財を公正に分配することが目的なのである。
 その目的を果たすためには、何らかの基準に基づいて貨幣を予め全ての国民に分配しておく必要がある。そのための仕組みが貨幣経済の仕組みなのである。その仕組みの一つが市場である。

 貨幣経済というのは、ギャンブルに似ている。胴元がチップをプレイヤーに配分するところからゲームは始まり、チップがなくなればゲームオーバーとなる。そして、プレイヤーは基本的にチップを借り、必要に応じて物と交換するのである。
 最初、プレイヤーは、チップを胴元から借りることになる。謂わば、中央銀行は胴元のような存在なのである。そして、貨幣の本質は借金が元となっている。この事は、貨幣経済の本質を象徴している。
 最終的に経済が成り立たなくなるのは、デフォルト、支払い不能に陥る事であり、それは残高が枯渇する事を意味する。

 プレイヤーにチップを予め渡しておかなければゲームは始まらないように、貨幣を消費者に予め渡しておかないと貨幣経済は成り立たない。如何に、どの様にして貨幣を消費者に配分するかが、貨幣経済の根本なのである。

 プレイヤーは、賭け事に参加するためには、予め胴元からチップを借りてお金を賭け事に掛け儲かった時に儲かった中から返す。
 商売というのは、金を借りて、買って、売って、利益を上げて返す。この繰り返しである。取引は貸し借り、売り買い、受け払いが基本であり、貸し借り、売り買いが会計上の取引を意味し、受払は、物品や現金の流れを意味する。

 お金をどの様にして、何を基準、根拠にして国民に満遍なく配分するかが、経済の根本的問題となる。
 基本的に根拠とされるのは、生産手段の能力と成果である。
 貨幣経済は、総ての経済的価値を貨幣価値に換算される事によって成立する。貨幣が貨幣としての働きのみに特定されずに、物の価値を持っていると貨幣経済は、不十分なものとなる。

 そして、生産手段と配布されたお金の量と、財に対する欲求の人々の度合いが経済の状況を決めるのである。

 紙幣は、中央銀行、或いは、政府の借金を基にして発行される。

 資金の流れの基底を作るのは、借金と収入である。或いは、借金と所得の組みあわせである。
 つまり、収入と借金によって資金は調達され、支出と貸出によって資金を供出、運用されるのである。
 収入は、フローの始点にあり、借入は、ストックの始点にある。収入は、対極に支出があり、借入は、対極に貸出がある。つまり、誰かの収入は、その誰か以外の主体の支払を意味する。誰かの借入は、その誰が以外の主体の貸出を意味する。この様に、取引は対称的な行為である。
 個々の取引を構成する要素は、売り買い、貸し借りであるが、売り買い、貸し借りは基本的に対称している。故に、取引の総和はゼロ、即ち、取引を集計した値は、ゼロ和になる様に設定されているのである。

 経済の実質、実体、正の働きは、物と人にある。金は経済の影、負の働きである。物の経済の基本は生産と消費であり、人の経済の基本は生産手段と分配にある。労働は、生産手段の一種である。

 実体的な物や人は、正の勘定の素となる。名目的な貨幣は、負の勘定の素となる。
 正と負の働きが市場を形成し、通貨の流通を促し。通貨の流れによって市場は機能し、物流を促して分配を実現する。
 貨幣経済は、正と負の働きによって動かされているのである。負の働きを生み出すのは貨幣である。

 実体的取引は、財の売買によって実現し、清算される。貨幣、物の交換を仲介する事で物の流れを促す。
 生産的働きは、貨幣を生産手段と交換に分配する。それによって社会的生産を促し、又、生産量を調整する。

 名目的価値である貨幣価値は、あると言えばあるし、ないと言えばない。要するに、貨幣は、情報の伝達手段の一種であって実体を持たないのである。

 情報技術が発展するのに従ってコードが重要な役割を担うようになってきた。
 コードの起源は貨幣だとも言える。そして、それは、貨幣の本質的な性質をも暗示している。
 コードには意味のあるコードと意味のないコードがある。
 しかし、コードというのは、本来意味のない符号を指す場合が多い。
 意味のあるコードというのは、意味のないコードに意味を後で関連づける、結びつけられたものと解釈する事ができる。つまり、原始的なコードは無意味な符号、符丁、記号、数、表彰の集合だと言える。
 コードとは、任意の対象、又は、事象を指し示す記号や数、表象だと定義する。
 数はコードの一種だと言える。その延長で貨幣もコードの一種だと言える。

 コードというのは、何らかの名称だと言える。
 名称によって形成される価値であるから、貨幣を本として表される貨幣価値は、名目的価値だと言える。それに対して、何らかの実体、事象を本として形成される貨幣価値を実質的価値とするのである。

 データには、四種類の尺度がある。
 第一が名義尺度。第二に、順序尺度、第三に、間隔尺度、第四に、比尺度である。
 この尺度の基準は、数の性格を表すと同時に経済にも重要な意味を持っている。
 名義というのは、数以外の表象、外形的区分を言う。
 順序尺度から位置が生じ、間隔尺度から単位が成立する。比尺度から配分が成立する。比尺度はゼロの概念を前提として成立している。
 これらの四つの尺度は、数の持つ性格に依って形成されている。
 即ち、第一の性格は、他と区分される事によって数は成立するという事を表している。
 第二に、数には順序があるという事を示している。
 第三には、数は、間隔の有無、幅によって性格が規制される事を意味している。即ち、量的な事象か、数的な事象か。連続体か、不連続体かが定まる。
 第四に、数は零の有無と位置によって性格が異なっている事を表している。そして、この四つの性格に依って数の体系は形作られている。(「ビックデータに踊らされないための統計データ使いこなし術」(株)マクロミル 上田雅夫著 宝島社)

 正の勘定が是で負の勘定が否だというのではない。
 正の働きと負の働きが問題であり、常に、正と負を均衡し、解消する事を前提とした仕組みなのか。それとも正と負が累積する事を前提とした体制なのかが重要なのである。
 つまり、負債の蓄積が問題なのではなく、通過の流量を調節する仕組みにするのか。常に、正と負の割合を一定に保つ仕組みにするのかの問題なのである。
 それは純粋に技術的問題である。技術的問題だからこそ解決手段を見いだす事が可能なのである。

 貨幣経済を成り立たせているのは負の勘定であり、負の勘定、即ち、借金を肯定的に捉えないと負の勘定を制御する事ができなくなる。負の勘定を否定的に考えるのではなく、肯定的に考え、積極的に活用する事で負の勘定を制御すべきなのである。
 そのために考案されたのが複式簿記である。複式簿記を土台とした期間損益主義、会計制度である。

 負の勘定を考える上で、負の勘定の持つ性格を明らかにする必要がある。負の勘定の性格を考える上で正と負が一定の期間で清算されるか、それとも一方的に積み上がるのかが、重要になる。正と負は、一定の対称性を持つ。また、正と負の関係は、時間と密接に結びついている。つまり、短期的に均衡、清算される勘定なのか。長期的に均衡、清算される勘定なのかそれによっても違いができる。

 負の勘定の中には、正の働きが消滅しても負の働きは残存する場合がある。この残存した負の勘定の処理を間違うと経済は制御不能の状態に陥る。
 又、負の勘定は、梃子の原理によって正の価値を増幅したり、圧縮したりする。
 負はそれ自体で固有の空間を作り出すことができる。

 負の働きは、蓄積されると独自の空間を生み出し、負が持つ属性であり金利や借入金の返済と言った固有のやりとりを生み出す。

 先物取引というのは、貨幣経済の特徴をよく表している。
 先物取引というのは本来リスクヘッジを目的とした取引である。基本的にゼロ和である。
 現物と将来の価格との差を均衡させる手段が目的である。つまり現在と未来との間にある経済的歪みを現在と今との価格を等価値にすることで是正する取引である。
 この様に市場的歪み、時間的歪みが利益を生むのである。

 人は、金の奴隷になると言うより、借金に囚われるのである。資産と借金は表裏を為すのである。借金がなければ、金に追い回されることはないのである。借金だからこそ人は金に使わされてしまうのである。

 投資は、基本的に先行している。投資は、負の勘定を伴う。

 貨幣は、負の空間、マイナスの空間を作り出す。

 負の勘定を制御しているのが金融機関、金融システム、決済システムである。

 金融機関は、借金によって成り立っている。金融機関の事を金貸しとか、高利貸しと考える人がいるのは、金融機関が借金で成り立っている事の裏付けである。金融機関は預金と言う概念は、金融制度が確立する過程で形成された事で、金貸し業から金融業は、始まったと言える。つまり、金融の源は、借金なのである。
 何かというと金融機関は、悪者にされ、裏で経済を牛耳っているように見なされるのは、借金は、悪い事だという考え方がある事に影響されている。
 金融業には、高利貸しという印象がつきまとっているのである。しかし、借金がある事で貨幣制度、信用制度、金融制度は成り立っている事を忘れるべきではない。

 貨幣制度の発展は、信用制度の発展と表裏を為している。信用制度が確立される事によって為替制度や資本、そして、金銭の貸借などが成立する。

 そして、資本が形成される事によって金融制度が形成される。資本は、資金が集積する事によって形成されるのである。

 資本は蓄えから生じる。
 貨幣は、保存ができる。貨幣の保存性は、貨幣その物の名目的価値を保存する。名目的価値が保存できるという事は、名目的価値を蓄えることができる。それが貯蓄、貯金である。この様な蓄えが可能となると蓄えから貸し借りが派生する。貸し借りは、債権と債務を成立させ、投資行為が可能となる。

 本来、名目的価値は実質的価値に裏付けられる事によって成り立っている。しかし、名目的価値の働きだけを抽出したのが資金であり、資金を集積したのが資本である。

 物としての価値と貨幣に換算された価値が乖離し、お金が資金化する事によってお金自体が価値を持ち始めた事で資本が形成された。
 つまり、お金の働きだけを特化してそれを集積する事で資金化する事によって資本は形成される。
 また、お金を資金化する事は、物としての価値と取引によって生じる貨幣価値を分離する事を可能とする。物としての価値と取引によって生じる貨幣価値を分離する事によってそれまで個々の物自体が固有に持つ交換価値を一般化し、標準化する事が可能となったのである。

 資産価値には、物としての価値と取引によって貨幣に換算された時の価値がある。
 物としての価値は実質的価値を形成し、取引によって貨幣に換算された時の価値は名目的価値を形成する。そして、表面上は、実質的価値と名目的価値は均衡している事になっている。会計上、帳簿では、債務があってもそれと同量の債権がある事が前提となって成り立っている。

 名目的価値は数式的変化をするのに対して、実質価値は確率的変化をする事が前提となる。

 それは名目的価値は、環境や状況の変化に対応する必要がないからであり、実質的価値は、環境や状況の影響を受けているからである。

 名目的価値は一定の規則を持った自然数の数列として現れる。この様な名目的価値は、数式によって予め計算する事が可能である。この様な名目的価値には、金利や資金計画などの時系列的数列が上げられる。
 この様な名目的価値に対して実質的価値は、不規則、不確実な変化として現れる。

 利益は、期間損益主義おいて、また、会計上、経営活動を測る中心的指標である。
 利益は、実質的価値と名目的価値から生じる歪みによって生み出される。実質的価値と名目的価値の間に生じる歪みの原因には、時間差、物理的距離、生産性等がある。

 収益、売り上げは、お金を集計として名目的な価値を構成し、費用は、物としての価値、実物的な価値を集計した値である。物としての価値である費用を売り上げによって調達した資金が上回れば利益となって資本に組み込まれていく。逆に、売り上げが費用を下回れば、資本を毀損する。資本は、物として価値の裏付けがあって成り立っている。つまり、名目的価値だけでは、実体を伴っていないと見なすのである。それによって名目的価値を制約することによって信用制度を保障しているのである。

 お金は、本来、お金、単体で成り立っているわけではない。お金が指し示す対象があって実体を持つ。お金だけでは、名目的価値しかもてないのである。お金は、交換を媒介する事によって効力を持つのである。

 貨幣というのは交換価値を特化した物だという点である。貨幣を有効にするためには、交換と言う事象を分離独立させて機能させる必要がある。その場が市場であり、行為が市場取引である。
 ジョン・ローが「貨幣の価値は財と交換される事ではなく、財の交換を媒介する事に於いて現れる」と言ったのはこの点を言う。(「金融vs国家」倉都康行著 ちくま新書)

 そして、今日、貨幣は、物としての実体もうしない。表象、情報、信号へと変質しつつある。

 資本の機能を有効にする事象が投資である。投資をするためには、資本が必要であり、そのためには、資金を集積しなければならない。

 一般に投資というのは先行投資なのである。即ち、最初に投資、つまり、出資、支出がある。元手にしろ借入にしろ、その根本は、貸し借りである。貸し手が自分であれば、元手になり、他人であれば借入になる。また、返済条件を予め決めておかなければ資本であるが、貸し借りという行為を下敷きにしている事に変わりはない。
 投資とは、最初に出資した資金を回収する過程を言うのである。資金を回収できなければ投資は失敗したことになる。
 投資とは、長期間かけて投入した資金を回収する事を意味する。

 貨幣経済は、最初に負の働きがあって正の働きは機能するのである。

 物と金には、正と負の違いがある。物が表なら、お金は裏である。
 元々、負の概念は、負債に由来している。信用貨幣は造り出すのは、負の空間である。
 紙幣の前身は、借用証書だという事が何よりもその証拠である。

 政府が直接、実物貨幣を発行しただけでは、貨幣は、政府の借金にならないのである。
 また、紙幣は返済を前提とするから回転する。返済義務のない紙幣は、負の空間を作れないのである。その意味で、政府が直接発行する紙幣は、返済義務を負わないが故に、負の空間を作れないのである。
 政府発行の紙幣は、回収を前提としていないから双方向の働きを発揮させない。
 貨幣は、返済を前提とした借金の延長線上にある事によって負の働きを作り出したのである。その負の働きによって貨幣経済は動かされているのである。言い換えれる貨幣の負の働きが、市場経済を動かす原動力なのである。

 実物貨幣は、交換の手段道具に過ぎない。金貨などの実物紙幣は、金貨そのものに価値がある。それ故に、実物貨幣は、交換価値を表象する働きしかなかった。それに対して、信用貨幣は、貨幣そのものに価値がない故に、負の空間を作り出したのである。
 信用貨幣である紙幣が成立する事によって独立した空間である信用空間、貨幣空間が作られる。
 信用貨幣とは、物的な裏付けのない、言い換えれば、必要としない貨幣である。
 故に、信用貨幣は絶対的な価値を持たない相対的な貨幣である。信用貨幣は、それ自体が価値を持っているのではなく、貨幣が指し示す対象があって価値が生じる。つまり、働きに価値があるのである。紙幣それ自体は、ありふれた印刷物に過ぎない。紙幣の本質は、価値にあるのではなく働きにあるのである。その本質を理解しないと絶対額に目を奪われて働きを忘れてしまう事となる。

 借金は、資金調達の手段であり、また、資金を市場に供給するための手段でもある。
 借金を兎角、世の中は、悪者にするが、借金が悪いのではない。借金を制御できないことが悪いのである。現代経済は、借金がなければ成り立たないのである。問題は、借金の働きや構造、構成比率である。そして、借金の性格をよく知ることなのである。

 経済を成り立たせているのは、人の欲求と物の生産量、そして、市場に出回っている「お金」の量である。
 借金が悪いと言うが、貨幣経済は、借金があって成り立っている。借金を頭から否定したら経済は成り立たなくなるのである。
 故に、借金で問題となるのは、借金の是非や多寡の問題なのではなく、借金の水準である。借金の水準の適否は、生活水準、物価水準、所得水準から求められる。
 国債や企業、家計で問題になるのは、借金の多寡ではなく。借金が累積し、返せなくなる水準をどう見極めるかなのである。
 そして、この水準は、家計と企業と政府、そして海外との貸し借り、売り買いによって定まるのである。

 政府の借金、民間(個人、企業)、国民の借金の借金の働きや性格は違う。
 政府の借金の裏側には、通貨の供給という働きが隠されている。
 政府の借金は貸し手が誰かが重要となる。
 国民の借金は、交易に影響する。
 企業の借金は、生産手段、ストックの実質的裏付けかある。
 個人の借金は、定収によって保証されている。
 政府の借金、国民の借金、民間(個人、企業)の借金の働きや性格は違う。
 そして、その貸し借りの総和はゼロなのである。

 経済環境の根底には、政府と民間(個人、企業)と海外との間の貸し借りの関係があるのである。債務と債権が形骸化して累積的に債権と債務の残高が上昇すると予測できない事態が起こりやすくなる。また、資金の流動性が低下し、決済のための資金が不足する事態を招く怖れもある。それが問題なのである。

 経済政策を考える場合、生産者側に基盤にして考えるか、消費者を基盤にして考えるかによって根本的思想が違ってくる。
 現代の経済は、生産者側に偏っている。そのために、消費者の必要性や効率性が軽視される傾向にある。大量生産、大量消費は生産側から見た効率である。しかし、消費者の欲求は、多種多様である。
 生産効率ばかりを追求すると生産過剰、供給過剰に陥る危険性がある。生産過剰、供給過剰は、乱開発や資源の浪費に結びつきやすい。ひいては、それは、環境保護や資源保護に逆行する。また、生産効率ばかりを追求すると雇用にも影響が出る。
 市場は成熟するに従って量から質への転換を計る必要がある。
 そのためには、経済が成熟するに従って市場は、生産と消費に対してより中立的、或いは、消費者よりに重点を移していく必要がある。

 個人は、消費者でもあり、生産者でもある。
 個人は、消費者でもあると同時に生産者でもある。
 全ての個人は、消費者であるが、全ての個人が生産者であるのではない。生産者であるのは、個人全体の中の一部である。
 生産と消費は非対称である。
 また、消費にも生産にも量的、質的な個人差がある。また、嗜好にも好き嫌いに個人差がある。能力にも適不適、向き不向きがある。

 経済事象を予測する際、フローとストックを明確に区分する必要がある。経済現象は生産と消費の過程で生じる。フローは、現金の流れによって形成され、ストックは、生産手段と権利によって形成される。

 人、物、金の軸に時間軸が加わって経済は時空間的な動きをするのである。

 経済の基盤は、人と物によって形作られるのであり、「お金」によるわけではない。
 市場の規模は、生産財の量に制約を受け、市場の広さは、人口に制約を受ける。
 市場の構造は、生産の仕方と社会構造、人口の分布によって形成される。
 市場経済は、予め経済主体に「お金」を何らかの基準や要因に基づいて配分しておく事によって成立する。市場取引によって生産財を配分する仕組みを土台として成り立っているのである。

 貨幣経済を有効に機能させるためには、貨幣価値の働きを知る必要がある。
 貨幣の働きは貨幣の属性に依存しているからである。
 貨幣価値の働きを知るためには、貨幣の属性を明らかにする必要がある。
 貨幣は、第一に価値を表す数値情報である。
 第二に、貨幣価値は、自然数、離散数である。
 第三に、対象の貨幣価値を確定する。
 第四に、貨幣価値の単位を実体化する。
 第五に、物質化することが可能である。
 第六に交換が可能である。
 第七に、所有することができる。
 第八に、移動、運搬することが可能である。
 第九に、保存することができる。退蔵することが可能である。
 第十に、基準を統一する事によって価値を一元化し、異質な物の演算を可能とする。
 第十一に、任意の機関が、製造、発行することが可能である。
 第十二に、貨幣は、任意の単位によって独立した体系を構築することが可能とする。
 第十三に取引のための手段、道具である。
 第十四に、物や用益の流通を促す働きがある。
 第十五に、売り買い、貸し借りのための手段である。
 第十六に、労働を評価する手段になる。
 第十七に、貨幣は、信用制度の基づく権利、証憑である。
 第十八に、人造物である。

 集合を構成する要素は、その働きが重要であり、働きの方向も重要となる。

 貨幣経済は、貨幣価値の集合として見なすことができる。

 集合というのは、何らかの前提や条件に基づいて集められた点や数と言える。点や数の根底には、何らかの素材がある。と言うよりも集合を構成する点や数は、何らかの対象を象徴している。
 そして、集合を構成している点や数には、何らかの偏りや特性がある。
 一見、平らに見える数の集合にも凸凹がある。しかも、その凸凹には特性や偏りがある。集合を構成する点や数、即ち、要素は、現実の事象を反映したものである。

 大量生産、大量消費は、商品を単一化、標準化させる働きがある。即ち、大量生産や大量消費は、商品を平均化するのである。
 大量生産、大量消費には、平均化することで個々の製品の持つ個性を相殺する働きがある。
 そして、この点が大量生産、大量消費の欠点なのである。
 個人の欲求を一元一様のものとするか、多種多様なものとするかによって経済に対する考え方は決まる。大量生産主義も共産主義も方向性は共通している。即ち、大量生産主義も共産主義も生活の均一化の方向に向かっているのである。

 人間の欲求は、一律一様ではない。それが大前提である。生活の均一化は、人間性に背いている。故に、経済の自律性に背いているのである。
豊かさとは、多様さにある。市場の成熟は、多種多様化させる事である。

 個々の部分を比べる場合は、差が重要となり、全体の働きを調べる時は、比率が重要となる。

 全体的な均衡と部分的な均衡は必ずしも一体ではない。
 自由経済では、部分的不均衡が全体的均衡の前提でもある。
 部分的不均衡をどう全体的に調和させていくか、それが自由主義経済の要諦である。

 今日の、貨幣経済は市場経済によって機能している。
 市場経済は、市場を通じて財の分配をする仕組みによって成り立っている。市場は、生産手段と生産を結び付ける事によって、また、交換手段と消費を結びつける事によっても成り立っている。
 生産手段と生産を結びつけているのは対価、或いは、報酬である。
 交換手段と消費を結びつけているのは、所得である。交換手段は生産手段による結果に対して配分される事を前提としている。市場は、この様な結びつきによって需要と供給を制御し、生産と消費を調節する仕組みである。
 交換手段の一つが貨幣なのである。

 経済は、双方向の働きによって制御される。一方向の働きでは、経済は、一方的に拡散してしまう。双方向の力が働くから周期的運動、回転運動、循環運動が起こるのである。
 経済に双方向の働きが生じるのは、市場経済がゼロ和を基本としている事による。
 ゼロ和を基本とする空間では、変化はゼロを核とする。変化は、ゼロを基点として均衡する。故に、ゼロ和では、平均が特別な意味意味をもつのである。それがゼロの圧力である。典型的なのは裁定取引である。

 経済を成り立たせている原則によっても経済の有り様は違ってくる。

 現在の自由主義経済は、複式簿記を土台にした会計制度の上に成り立っている。

 現金出納を記録する手段である単式簿記は一定方向の「お金」の流れ、即ち、出納しか測定、記録できない。また、税の物納は、反対給付のない物の一定方向の流れでしかない。物の流れと金の流れの関係を表すためには、複式簿記によらなければならない。
 複式簿記の仕組みは、金の流れと物の流れの双方を関連付ける事によって成り立っている。
 反対給付のないお金の流れは、お布施のようなもので空疎な行為である。
 複式簿記では、物の流れと金の流れは、均衡していることを前提としている。物の流れが作り出す価値を実質的価値とし、お金の流れが作り出す価値を名目的価値とする。
 そして、物の流れと金の流れは市場取引によって結びつけられている。
 市場取引を介さず、公的な機関が一方的に資金を供給しても垂れ流し状態に陥り、物とお金の循環運動は生じない。

 なぜ、統制経済や計画経済、全体主義国が破綻し、自由主義国が破綻しないのか。
 統制主義経済が破綻して、市場経済が破綻しないのか。
 その謎の背後に、経済を動かしている法則が隠されている。それは単に思想と言うだけでなく、実利的な意味もあるのである。
 政治体制も経済体制も、双方向の働きがあるから均衡するのである。双方向の働きによって体制に「お金」や人の循環運動を引き起こし、その循環運動によって体制を維持しているのが自由主義体制である。
 一方向の働きだけでは、政治も経済も、力の均衡は保たれない。
 故に、一方向の働きでは、体制は、均衡が保てずに、分裂してしまう。

 経済的循環は、貨幣的手段を通じて市場を介さないと機能しない。

 資金の循環が一つの経済圏を作る。資金の循環は、分配の仕組みの中で形成される。資金が循環しないと経済圏は形成されない。

 市場や貨幣によらない分配は、直接的手段を基本としている。
 直接的手段に基づく分配としては、今日では組織的な分配がある。
 この様な組織的な分配は、単純に一方通行の流れとなり、お金の環流を引き起こさない。

 それに対して統制経済や計画経済は、双方向の働きがないから一定方向の流れしか作り出せない。統制経済や計画経済、全体主義的体制は、一方向的な働きしか働かない。そのために、経済の運動が、周期的運動や循環運動、回転運動にならない。

 又、自由市場を介さない統制的経済だと資金の流れは幾つかの流れに分流する。資金が幾つかの流れに分流するとそれぞれの流れに沿って経済圏が形成され、社会が階層化する。 それは階級分裂や階級闘争の原因となる。

 統制経済や全体主義体制は、体制自体に資金を循環させるための仕組みが不備か、不完全なものである為に、単体では物やお金の循環運動を安定的に制御する事ができなくなる。

 経済を実際に動かしているのは差である。分配は、差を比に変換することによって成り立っている。故に、貨幣価値は差によって測られ、比によって分けられる。これが原則である。

 差を付けることが悪いのではない。差を付ける根拠が問題なのである。

 差は前提である。差がない事を前提とすると格差や差別を是正する手段を講じる事がかえってできなくなる。
 差は、肉体的な差や物理的な差、能力差は、先天的前提としてある。差が問題なのではない。不当な差が固定し、それによって自分の可能性が限定的になっているのが問題なのである。
 人間、一人一人に違いがある事は誰にでも理解できる。人間は、一人一人に個性があり、一人一人違うという前提に立つべきなのである。その前提抜きに平等も公平も語れない。大体、年齢による違いは否定しようがない。差を認めなければ、真の平等は語れない。
 絶対と相対が補完的概念であるように、平等と差別も補完的概念である。
 問題なのは、差がある事ではなく、納得のいかない理由で差別待遇される事なのである。正当な理由があれば、差は受け入れるしかない。
 差が問題なのではない。問題なのは、格差が一方的に拡大し、それを是正できない事なのである。
 ここの主体間の格差の拡大は、全体の配分から見ると極端な偏りを生み出す。社会全体の生産効率を低下させるのである。

 差が問題となるのはそれが絶対的基準だからではなく、差の拡大が全体占める割合を変化させるからである全体に占める割合に影響を与える事によって分配の深刻な偏りを生んでしまうのである。しかも、差の拡大は幾何級数的に拡大する。
 初年度、一対二の割合だったのが、次年度は一対四に、三年度は、一対十六にと言うようにである。
 この様な格差を市場は拡大と収縮を周期的に繰り返す事によって是正している。この働きが単一的な機構、独占的機構では働かないのである。
 そして、市場の拡大運動と収縮運動を引き起こしているのが資金と物の循環運動なのである。

 経済的循環のない社会は、格差を是正する手段に欠く。それが問題なのである。

 統制的分配では経済的循環が起こりにくい。分配の仕組みとしては、組織的な配分は、規模に限界があるのである。組織的配分は部分としては機能しえても一つの全体を構成するのには適していない。なぜならば、組織的分配は、格差を前提としても循環を前提としていないからである。
 そのため格差が拡大し、拡大する事によって固定化して階級が生じる。
 階級が生じる事で成果配分に偏りが生じる。偏りは、生産性を著しく低下させる。

 そのために、政治権力が強権を持って抑圧しなければ社会の仕組みを保つ事ができなくなる。この様な体制は、生産物が下層階級の生存を脅かすほどに拡大した時、内部から崩壊するか、外部に向かって侵略的になるかである。
 革命、クーデターか戦争か。いずれにしても暴力手段に訴えるしか解決の手段がなくなる。

 分配の手段には、組織的分配と市場的分配がある。

 統制経済というのは、組織的な分配を主とした体制である。

 組織的分配は直接的分配であり、貨幣的手段を用いない場合もある。その場合、直接生産者から生産物を収奪する。
 近代国民国家が成立する以前は、組織的分配を根本とした体制である。故に、市場も産業も拡大しなかったのである。

 組織的な分配というのは、一定方向で、恣意的な分配手段である。
 又、生産に直接関わる直接部分と組織を管理する間接部門の割合が組織の規模によって違う。
 管理部門の比率は、組織の拡大に従って大きくなる傾向がある。
 それは、組織の拡大によって管理に対する階層が増えるからである。
 これらは、情報技術の進歩によって緩和される傾向にあるが、それでも、組織の肥大化は、管理部門の肥大化にもなる事には変わりない。
 組織的な分配には限界があり、一定の限界を超えると急速に不経済な体制になる。

 結局、物納の時代では、領主と農奴的関係しか生まれない。
 土地のような生産手段と直接結びついていなければ成り立たないからである。そういう社会では貨幣は補助的手段にしかなり得ない。
 領主と農奴という関係は、支配者と被支配者という関係を言う。

 税の物納は、一方的な収奪である。なぜならば、交換性がないからである。
 それに対して金納には、交換性がある。交換を前提とした場合は、双方向の働きを生じる。それが貨幣固有の働きを成立させるのである。
 初期の紙幣は、強奪に近い部分がある。しかし、少なくとも証文である。ある時払いの催促なしの借用書のような物である。しかし、紙幣が市場に出回ると物流を仲介するようになる。発行元の政府に信用がなくても仲介業者が信用を肩代わりしている内は、相応の価値が認められている。貨幣制度は信用によって成り立っているのである。
 税が物や用役によって支払われていた時代の社会はいたって単純にできている。社会的分業に限界があるからである。
 貨幣経済は、社会的分業を推し進める働きがある。

 経済は、分配である。分配の仕組みには、市場と組織がある。組織的な分配は配給である。

 統制経済は、単体では貨幣の環流を起こせない癖に、閉鎖的で、自己完結的、秘密主義的になりやすい。単体では、貨幣の環流が起こせない癖にと言うより、起こせないが故に、閉鎖的で、自己完結型、秘密主義的にならざるを得ない。これこそ自己矛盾なのである。

 統制的な仕組みは、それ自体では、経済的循環を発生させる機能がない。統制的仕組みの典型は官僚機構である。故に、官僚機構は、民間を必要とするのである。
 経済的価値は基本的に相対的価値である。それに対して統制的機構は絶対的基準を基礎としている。しかも絶対的基準から生じる矛盾を調整する仕組みが組み込まれていない。

 故に、現在の統制経済や計画経済、全体主義体制は、循環運動をしている媒体に依存しないとそれ自体では、体制を保てず、求心力を失って分裂していく危険性がある。物資や資金の循環が維持されずに一方方向に流れ、それが経済に歪みや偏りを引き起こす危険性があるからである。歪みや偏りを放置すると社会は分裂し、階層化する。
 全体主義的国家では、生産手段に格差が生じ、分配が偏りがちになり、社会全体に資金が環流するのではなく、部分的に分流して、階層的な資金の流れを生じ易くなる。そのために、全体主義的社会主義国は、階級分裂し、階級闘争が生じやすい。

 貧しい国に限って極端な金持ちがいたりするのは、経済の本質が分配の仕組みにある事を如実に物語っている。貧富の差は、分配の歪みが原因なのである。
貧富の格差というのは、相対的な事であって絶対的な事ではない。
 「お金」は、分配のための手段であり、どの様に、何に基づいてお金を予め配分するかが、経済のあり方を規定しているのである。
 個々の局面におけるお金の働きだけを見ていたら貨幣価値の真の意味を理解する事はできない。お金は、個々の取引によって効力を発揮するがその前提は、所得が何によって形成されるかにある。そして、所得は「お金」を循環させる過程で一定の役割を果たしているのである。所得は、生産手段を提供した対価であり、社会的生産に対する取り分であり、社会的生産に依拠していなければ適正な働きができない。
 極端に貧富の格差が広がれば、金持ちは何でも思い通りに手に入れる事ができるのに対して貧者は、生きていく為に必要な資源すら手に入れる事ができなくなる。そのとき、社会の仕組みは機能しなくなるのである。

 たとえば、地方都市を例にして考えてみよう。五十万人の人口の都市で一人、或いは特定の数家族が所得の半分、或いは、土地の半分、資源の半分を独占していると仮定しよう。その様な社会は、極めて資金効率が悪い事が歴然としている。通貨というのは、分配のための手段なのである。一定の範囲内に分散を留めるべきなのである。だからこそ平均と分散が重要な指標となるのである。

 自由主義体制というのは、「お金」を循環させることによって分配構造が分裂し、階層化を防ぐことによって成り立っている。市場は、お金を循環を促す事によって生産手段と生産財とを結びつけ生産と消費を制御する仕組みの部分なのである。

 この様な貨幣の働きは、都市化を促す。

 ストックは、資金の供給量、流量を制御し、フローは、資金の循環と生産財の流れを司る。ストックは生産手段に依拠し、フローは生産と消費を調節する。

 資金がストックされる事は、資金効率が、悪くなる事を意味する。俗に、資金が寝ると表現される。
 社会が経済的に階層化されると貧富の格差が拡大する。富裕階級は、資金をストックするようになる。そのために資金効率が著しく低下する。
 階層化すると資金の運用に偏りが生じ、資金効率が低下するのである。

 経済が階層化されると流通する通貨の階層化される。これもまた資金の効率を悪くする原因となる。

 生産と消費は非対称であり、その事も計画経済や統制経済の成立を困難にしている。

 運動を回転運動にして制御するためには、一つの働きが作用する時、逆方向の働きが作用するように設定する必要がある。この様にして設定された働きを作用反作用の関係にあるとする。
 貨幣経済では、貨幣の流れと物の流れの働きが作用反作用の関係にある。
 貨幣の流れは名目的価値を形成し、物の流れは、実質的価値を形成する。

 名目的価値、そして、債務は、貨幣の流れた行跡の残像である。
 この様な名目的価値に対して実質的価値は、不規則、不確実な変化として現れる。

 会計空間では、ゼロ和によって均衡している。そのゼロ和は同時に貨幣の働きに作用反作用の関係を生み出す要因でもある。
また、ゼロ和は、平均、分散、標準偏差を均衡させ中心極限定理を有効にしている。

 損益の境界を基準として、分散と均衡、ゼロ和を前提としている。それが期間損益主義である。

 会計空間に於いて通貨の流れには、二つの働きがある。一つは、通貨の流れの反対方向に財の流れを起こす事である。今一つは、同量の債権と債務を派生する働きである。
 貸し借りによる通貨の流れは、同量の債権と債務を派生させ、その均衡の圧力が貨幣に作用反作用の働きを生み出す。この債権と債務は、貨幣価値に振幅をもたらす。この振幅によって経済は動かされる。
 債権、債務は会計上のストックを形成し、財と貨幣の流れはフローを形成する。

 負債から資産の方向に通貨が流れると流れた量と同量の債権と債務が生じる。言い換えると債務、即ち、借金が増えると通過の流量も増える。債務とは「お金」を、債権とは「物」を、意味する。
 そして、一定期間内の市場の取引の総量は、通貨の量掛ける回転によって計算される。
 通貨の働きは、フローの側に流れるか、ストックの側に流れるかによって変化する。

 債権と債務の関係が通過の流量を制約するよって、ストックとフローの関係が景気の動向を定めるのである。
 この作用反作用の働きによって景気は一定の幅で振幅し、収束するのである。作用反作用の働きがないと景気は、一方的な方向に拡散し、収束できなくなる。
 ゼロ和というのは、ゼロを基点として均衡している状態を意味しているのである。この様なゼロ点に向かっては、求心力と遠心力が働いている。

 ゼロ和と価格差が金融工学の根本である。
 金融工学というのは、鞘取りと裁定取引を基礎としている。裁定取引は、売りと買いを当時に行う取引である。

 経済現象では、経済的均衡点をゼロ和だと見なす。その均衡点に対して正と負の関係が生じる。それが期間損益では利益と損失を構成する。

 期間損益で、収益と費用の関係も一種の裁定取引と見る事ができるのである。
 費用の周期は、収益の周期に一期遅れて変化する。上昇期には利益になるが、下降期には、損失となる。つまり、利益が善で損失が悪だというのではなく。利益と損失が均衡するかが問題なのである。

 これを現金の動きから見ると投資活動に関するキャシュフローは、初期には、支出の側に流れ。財務活動に関するキャシュフローは、借入金や資本調達の関係から収入の側に流れる。そして、営業キャシュフローは、その時の状況によって収入側にも支出側にも流れる。

 この期間損益と現金収支の関係から経済現象は測定されるのが現在の市場主義である。

 現在の市場経済の問題点は、現金主義と期間損益主義が混在している点にある。例えば、収入と収益の違い、支出と費用の違い、現金残高と利益の違い、借金と負債の違いなどが経済の歪みを引き起こしているのである。更に、税法との違い、即ち、収入、収益と益金の違い、支出、費用と損益の違い、現金残高、利益と課税対象との違いによって生じる経済の歪みを正しく理解しておく必要がある。その上で経済政策や税制を組み立てないと深刻な問題を引き起こしておきながら原因が特定できなくなる危険性が生じる。

 市場経済の基本的な規範は、第一に、現金の残高の範囲内に支出を収める。
 第二に、収入の最大化を計る。
 第三に、支出の最小化を計る。
 第四に、現金残高を規定する要素は、償却、借金の返済、金利、納税額。そして、収入と支出、利益、費用の関係である。
 第五に、借金を固定資産の範囲内に収める。
 第六に、償却と金利は費用に還元される。
 第七に、借入金の返済額、納税額は支出に反映される。
 この様に基本的に現金の流れが経済主体を規制している。
 しかし、経済効果を測定する基準は、収益、費用、利益という複式簿記の原理に期間損益の概念に基づいている。

 物を中心とした時代では、象徴的価値を中心とした世界であって、他の価値と言ってもせいぜい使用価値であった。交換という働きによって成立した交換価値は貨幣が成立し、確立する過程で形成されていったものと思われる。
 物中心の時代とは、物々交換、租税の物納時代を言う。物の時代では、価値とは、物その物の持つ価値を言ったのである。

 金納の働きによって費用という概念も形成されていく。それが近代市場経済の成立を促したのである。

 物納の時代は、生産量をそのものから税率は決められた。金納になる事によって価値は、即物的価値から離れ、交換という働きから測れるようになった。そこから費用という概念も派生するのである。
 物納時代では、税は、分配と言うよりも権力による収奪である。経済的意味でも分配という働きの基づく概念は確立されていないからである。
 収益、費用、利益というのは、会計的概念である。即ち、貨幣的概念であり、貨幣から派生した働きに基づく概念である。

 現金は、貨幣の流れによる物の動きしか捉えられない。物と金の動きによる人に対する働きを表す事ができなかったのである。

 収入、支出と収益、費用とは意味が違う。収入と支出は貨幣の動きを意味し、収益と費用は、働きを意味する。故に、収入と支出は、一つの動きを表しているのに対して収益と費用は、働きによって勘定科目が細分化されている。
 費用は、段階や働きによって名称を変えるが、最終的には人件費に還元される。費用は物的要素から人的要素に変換される過程で生じる働きである。言い換えると、費用は人件費の塊でもある。

 問題となるのは、現金主義による概念は、期間損益主義に基づく計算書には現れないという事である。逆に現金の裏付けのない収益や費用が存在するという事である。又、税制上そのどちらにも属さない勘定が存在する。
 例えば、借入金の返済は、決算書には表されないのに対して、減価償却費は現金の裏付けのない費用である。又、一部の費用は税制上、損金と見なされていない。
この歪みが場合によって資金繰りを危うくする。
 ただ、この違いによって市場経済は成り立っていることも現実である。故に、問題となるのは、為政者はこの違いを正しく理解しておく必要があるという事である。

 利益と所得は違う。

 現代社会には余剰利益や借金を罪悪視する風潮がある。しかし、余剰利益や借金には自由経済の根幹をなす働きがある事を忘れてはならない。

 繰越金や内部留保は、悪であるとするから税に苦しめられ。
 借金は、悪であるとするから借金に苦しめられる。

 利益の働きの意味を正しく理解しておく必要がある。
 借金の働きの意味を正しく知っておく必要がある。

 借入金の返済の原資は、償却費と利益の和にある。余剰利益は、繰越金となって資本に組み込まれる。基本的に、借入金の返済額は、簿記上では計上されない。税引き後利益から充当される。利益処分上は計上されずに簿外で処理される。故に、余剰利益を否定すれば借入金の返済原資を失うことになる。
 余剰利益を課税対象としているかぎり、企業は慢性的な資金不足に陥る。それが企業の正常な働きを阻害するのである。つまり、一部の負債は、返せない性格のものなのである。
 法人税と所得税とはその性格が違うのである。税制を考える場合はこの点を留意しておく必要がある。

 現在の税制は、利益の効用を相殺するように設定されている。ただ、この様な設定をする場合は、利益の正しい働きを理解しておく必要がある。利益は、搾取ではない。指標である。しかも、利益から税と役員賞与と配当が支払われているのである。
 それでありながら、利益を長期借入金の返済に充当する事は禁じられている。そのために、経営主体は慢性的な資金不足に陥っているのである。

 貨幣の働きは、取引によって実現する。

 貨幣価値は、相対的な値であり、取引によって確定する。

 通常の取引を構成する要素は、第一に、貸し借り、売買等の形態、第二に、取引の対象、第三に、買い手と売り手、第四に、価格、第五に、量、第六に、日時、第七に、物と金との交換手段、支払手段、第八に、物の受払の手段からなる。

 しかし、金融工学の発達に従って物の受払のない取引が生じた。それが金融取引である。金融取引は、物を介在した取引ではない。金銭上に限った取引である。そこが従来の取引と決定的に違うところである。
 故に、金融取引は、会計上、簿外で処理される事が多い。ここに金融工学の特殊性がある。
 金融取引の実体を知るためには、取引の持つ働きを知る必要がある。

 取引を構成する要素か即ち、経済の構造を形作る。
 例えば、取引の形態には、貸し借りと売り買いの二種類がある。また、取引には売り手と買い手、貸し手と借り手がいなければ成立しない。
 この様な構造が経済の対称性を生み出す要因となるのである。

 市場経済は、経済現象の対称性と均衡によって保たれている。その対称性と均衡は取引によって作り出されている。

 取引が経済的対称性を作り出しているのである。取引には、物と金を交換する事を通じて経済的価値をゼロ和に設定し、経済的価値を対象化する働きがある。
 取引には、「お金」と「資源」、「資源」と「お金」の二段階で完結する。
 一つの取引に於いて成立する。物と金の交換、金と物の交換という取引二重性によってゼロ和と作用反作用の関係が生じる。そして、その取引の二重性が債権と債務の関係を形成する。それが貨幣経済の均衡の源なのである。

 貨幣に作用反作用の働きを生み出すのは、ゼロ和関係である。

 貨幣の働きは取引によって成立する。取引は、基本的にゼロ和である。
 取引のゼロ和関係によって派生する貨幣の働きが貨幣の働きに作用反作用の関係を作り出す。この貨幣のゼロ和関係は、債権と債務の関係も派生する。即ち、貸借という形態を取った時に、貨幣の流れは、貨幣の流れた量と同量の債権と債務を発生するのである。

 消費と生産は、需要と供給に反映され、市場取引によって価格に転化される。
 消費と生産が非対称であるから需要と供給も非対称である。
 取引には、価格に転化する事によって貨幣価値を統一し、経済行為に対称性を持たせる働きがある。

 ゼロ和による作用反作用の関係によって成り立っている貨幣経済では、平均や分散が特別の意味を持っている。
 そして、平均や分散が意味を持つという事は、中心極限定理や正規分布が重要だという事を示唆している。

 経済は、分配である。生産財を如何に分配するかが経済の核心である。生産財の平均と所得の分布が重要な意味を持つ。それが貧富の差となって現れるのである。生きていく為に必要な資源を確保できる取り分を所得によって賄えるのか、また、国民全員が生きていく為の資源総量の平均値を確保できているのか。一人あたりの消費量と所得の関係こそ経済では重要な意味を持っているのである。

 また、ベイズ確率の有効性も示している。
 経済現象を予測する場合、先験確率や事後確率をどの様に設定するかが重要な鍵をにきる。故に、ベイズ確率やベイズ統計が重要となるのである。

 経済の現場では、経験や直感に基づく主観的な事前予測が重要な働きをしている。それは、時間が重要な働きを経済ではしているからである。既存の統計は、静態的な構造、比率を解明するためには有効であるが、状況や環境の変化によって判断を軌道修正するためには不十分である。そこにベイズ統計の有効性がある。

 ベイズ的な手法は、経済にとって基本的な事である。
 数学といえどもその人の感性や経験に左右されるというのは当然の事であり、むしろ、数学だからこそ設定や前提条件、手法の選択などは、第一感に因る事を前提とするのである。
 例えば、景気や株価の予測は、最初に自分の経験や勘に頼って目安をつけ、それに基づいて情報を集め資料を作り、検証をするのである。最初から将来の景気の動向や株価が解っているわけではない。
 将来の景気の動向や株価は、あくまでも、不確実なのである。
 だからこそ、ベイズ的手法が、経済では有効なのである。
 そして、複式簿記を基礎とした空間では、対称と均衡を前提としている。故に、ゼロ和と平均と分散が重要な要素となる。ベイズの基本も対称性と均衡に基づく予測ロなのである。

 自己は主体であり、間接的認識対象である。
 故に、自己を外に投影し、投げ出す。それによって自己を位置づけ、自分を知ると同時に外部との関係を認識する。そのプロセスこそベイズ統計に繋がる。
 私は、朝、会社に出勤する際、八時三十分に会社に着いていなければならない。駅までは、おおよそ十五分かかる。電車は、七時五十六分と八時七分がある。出発駅から会社の最寄りの駅まで八分くらいかかる。駅から会社まで歩いて七分くらい。昨日は、家を七時四シュッ分頃出たが、電車が遅れていたのでギリギリ五十六分の電車に乗れた。しかし、今日は、少し早めに出たけれど電車が定刻の出発したので、間に合わなかった。明日は、もう少し早く出よう。
 こういう発想がベイズなのである。

 経済にとって予測は重要な要素である。予測の本は、認識である。認識は相対的なものであり、主観的な行為である。その主観的な行為に客観性を持たせるために統計的手法や確率的手法を用いるのがベイズ的手法である。だからこそ、ベイズは最も経済的な手法と言えるのである。

 経済現象には、ゼロ和ゲームと非ゼロ和ゲームがある。貨幣経済の根底はゼロ和である。

 注意しなければならないのは、キャッシュフローは非ゼロ和である。。キャッシュは自然数。つまり、正の数である。故に、キャッシュフローでは残高が重要となる。

 複式簿記は、非ゼロ和である現金収支をゼロ和の関係に変換する操作である。
 複式簿記は、取引の対称性によって市場価値をゼロ和に設定するのである。
 ただし、利益を基準としてゼロ和に設定されているわけではない。利益ではなく、損益の平均が原点である。
 そして、非ゼロ和からゼロ和に変換する際、鍵を握っているのが時間価値である。
 それが償却と有利子負債の元本の返済の関係である。

 貨幣制度の重要性は、「お金」の価値よりも物流を促す働きにある。物流を促す事で、広範囲に亘って生産財の配分が為される。
 「お金」は、交易を仲介する手段である。
 飢饉の原因となるのは、干魃等によって食料の生産が不足することがあるが、食糧不足に陥った地域が経済的、交通面において孤立し、交易が途絶えることもある。通貨があれば、お金の流れに沿って物の流れも生じ、飢饉を抑制することができる。
 貨幣制度の働きの根幹は分配なのである。この点を見落とし、損益ばかりに囚われると貨幣の根本的な機能が失われる事となる。

 経済は、人口と物量、通貨量で決まる。そして、この三つの量は、需要と供給、貨幣の残量として現れる。
 経済的価値の平均と分散、ゼロ和均衡によって経済状態は定まる。これらの関係はベイズ統計によって表現できる。
 経済の状態を測るのに、何を基準とするのかが重要となる。その基準の一つが、費用と収入の均衡予測点である。それが損益主義である。期間損益主義における一つの指針が利益である。
 放置すれば、エントロピーの増大によって利益は限りなくゼロに近づく。損益分岐点が原点かというと少なくとも社会的の状態は測れても、個々の企業経営までは、損益分岐点では測れない。経済の実相を知りたければ、損益の平均と分散を明らかにしてからでなければならない。
 ただ均衡予測点は、ゼロではない。なぜならば、ゼロ和均衡でなければならないからである。ゼロ和を基準とするならば損益平均値から見た分散である必要がある。それが標準偏差、ボラティリティである。

 ゼロ和ゲームというのは、ポーカーのような事である。勝つ人間もいれば、負ける者もいる。集計すれば総和は常にゼロになる。
 ただ、経済は、勝ち負けが問題なのではない。個々の赤字や黒字が全体に対してどの様な働きをしているかが、問題なのである。なぜならば、個々の取引は、一回の取引で完結しているわけではないからである。
 金は天下の回り物。借りて買い。貸して売る。また、売って買い。買って売る。金は回っていれば経済は保てるのである。逆に金が回らなくなると途端に経済は動かなくなる。

 期間損益の働きを理解する上で重要なのは、減価償却費と借入金の返済額の比較である。ただし、注意すべき点は、単期だけでなく、減価償却の方程式と借入金の資金計画に基づいた比較、そして、税の働きとの比較によらなければ実際の資金効率は図れないことを忘れてはならない。

 金融機関や商社では、有利子負債を減価償却費と税引き後利益で割った値を支払能力の簡易な指標として使われている。これが何を意味しているのかというと元本の返済期間と元本の返済原資である。そして、この点が融資基準や取引の実質的基準とされているのである。
 これは、一つは、固定資産の費用化する部分と利益処分の一部が有利子負債の返済原資である事を意味している。

 経済の基本は、入りと出にある。つまり、経済主体に対して人、物、金がどれくらいの量がどの様に、どこからに入り、何処へ出て行ったかによって経済の状態は決まるのである。

 市場取引は、売りと買い、貸しと借りの二つの行為からなる。
 金銭的に見ると借りと売りはお金を得る行為であり、貸しと買いは、金を出す行為である。物から見ると売りは物を出す行為であり、買いは物を得る行為である。

 貨幣を流通させる働きは、貸し借り、売り買いである。貨幣の流通を促す働きがあるのが金利である。
 貸し借りは権利を生み出し、売り買いは物流を生み出す。
 貸しと借り、売りと買いは、一組で成立する。即ち、視点、立場を変えれば、借りは貸しであり、売りは買いである。
 貸し借りと売り買いは、表裏の関係を為している。そして、これは、基本的に入りと出を意味している。つまり、資金の流れは残、入、出、残である。

 経済的価値というのは、取引が成立して時点における経済的効果である。
 取引の本質は、売り買い、貸し借りであるならば、売り買い、貸し借りによる経済的効果が経済的価値を決める事になる。売り買いと貸し借りという二種類の取引を前提とするならば、売り買いによって生じる価値と貸し借りによって生じる価値の二種類がある事になる。

 例えば、土地の経済的価値で言うならば、第一に、土地を売り買いすることによって生じる経済的効果と、土地を貸し借りすることによって生じる経済的効果である。つまり、
第一に、土地の売り買いによって成立する地価と、第二に、土地の貸し借りよって生じる収益力である。
 地価というのは、土地を売買が成立したときの貨幣価値である。土地の収益力というのは、土地を活用した際、獲得される収益を言う。

 持ち家が良いか、賃貸住宅が良いか、迷うものである。人には所有欲という物がある。所有というのは、権利である。しかし、家を所有するという事で必ずしも経済的に合理的だとは限らない。

 土地の経済性、経済的効果を計るためには、賃貸住宅と持ち家の経済的効果を比較する必要がある。
 賃貸住宅と持ち家の経済的を比較するためには、賃貸住宅と持ち家に対する支出と経済的効果について考察する必要がある。
 賃貸住宅と持ち家に関わる支出は、基本的に一月を単位としている。即ち、第一に比較しなければならないのは、一月に支払われる金額、即ち、賃貸住宅ならば一月の家賃であり、持ち家ならば、借入金に対する一月の返済額である。
 もう一つは、一定期間の家賃の支出総額と持ち家を購入した時の価格と借り入り金を返済し終わった時の残存価値の比較である。

 持ち家かいいか、賃貸がいいかは、その時その時の経済情勢によって微妙な違いがある。
 地価が、将来継続的な上昇すると思われる場合、即ち、インフレの場合は、持ち家は、土地を取得した時の借入金の負担が将来に亘って低下する上に土地を売った場合の利益が見込まれる。また担保力の上昇も期待できる。逆に地価が長期に亘って下がる傾向にある場合は、借入金の負担が増大し、更に土地を売った時に多額の損失が発生する危険性がある。
 その上で、金利の動向と収入の動向との比較、税の影響等によって賃貸住宅と持ち家の有利不利が判定される。
また長期的視点に立つと、土地を取得した場合は、資金が長期に亘って寝ることになる。
 逆に、賃貸住宅では、その時々の経済状況や周囲の環境に応じて支出を変更することが可能だという利点がある。
 このような支出から見た損得勘定と収入から見た損得勘定を噛み合わせて考えるのが経済である。
 高度成長からバブルが破裂するまでは、地価も所得も右肩上がりに上昇すると信じられてきた。それが土地神話を発生させ、バブル崩壊後の多大な不良債権を蓄積した要因でもある。

 経済を考えていく上で、重要なのは、目先の経済の動きに目を奪われるのではなく。経済の実際の働きを正しく知ることである。そして、何が経済を動かしているのかその要因を認識した上で、どの様にその要因に働きかけていくかが鍵なのである。

 経済主体に対する入金は、所得と借入金の和である。出金は、消費に対する対価と投資、及び余剰である。投資は生産手段、余剰は、貯蓄と見なす事もできる。借入金と生産手段と貯蓄はストックを形成する。
 経済主体は金回りによって動く仕組みである。金回りとは、資金の調達力によって制約される。最終的な鍵を握っているのは支払能力であり、現金残高が枯渇し支払能力がなくなると経済主体は経済的に破綻する。支払能力は、資金の調達力に依存している。借金であろうと、投資であろうと、収益によろうと資金が調達できるうちは経営主体は、破綻しない。故、経済主体の経済力は資金の調達力によって定まる。
 この点は、企業も家計も政府も同じであるが、唯一今日の政府の違いは、支払手段である紙幣を発行する権能を持っていることである。また、紙幣の基本的な性格は、政府の借用証書だという事である。
 資金の調達力は、必要性と信用による。資金の調達能力は相対的価値であり、絶対額が問題なのではない。
 収益や所得を見る場合、個々の経済主体は絶対額に囚われがちであるが、社会全体からすると構成比率や推移が重要となるのである。
個々の経済主体に於いては、どの様な構成で入金され、どの様な構成で支出されたのか。
 また、市場全体では、総資本に占める負債の比率の推移はどの様に変化しているか。総資産と総資本の実質的関係、比率はどう推移しているかなどである。
 貸借上の総資産は、実質的価値を総資本は、名目的価値を形成する。実質的価値は、その時点、時点の相場を表し、名目的価値は過去の残債を表している。
費用は、付加価値の構成を表している。収益、市場からの資金の調達力を意味する。
 総資産と総資本の働きは、比率によってみなければ解らない。総資産は、現在の市場を反映し、総資本は過去の市場を基としている。総資産のと総資本の比率の動向は、市場の動向を反映している。資金の調達力は、総資産と総資本、費用と収益の関係に現れる。関係は、推移と比率から推測される。
 総資産と総資本の関係は、主として長期的資金の流れ、ストックによる資金の調達力を表す。社会全体の総和では、資金の流れる方向を決定づける働きがある。
総資産を総資本が上回れば、債務超過となって資金の調達が困難となる。
 利益は収益から費用を引いた値として表現される。収益は、現在の市場の状態を表し、費用は、前年の市場の状態を反映する。故に、利益は、市場全体の状態、市場が拡大しているか、市場が縮小しているかを表す指標として認識できる。
 景気を安定させるためには、為政者は、借入金の元本を調節することによって収益や資産を変動し、経済主体や市場の状態を制御する必要があるのである。
 複式簿記は、借方と貸方があり。借方には総資産の残高と費用が、貸方には、総資本の残高と収益が記載される。そして、資金の流れは、貸方から借方に流れる場合は、市場に資金を供給する働きがあり、借方から貸方に流れる場合は、資金を回収する働きがある。 例えば、借入金の元本の返済は、借方から貸方への資金の流れであるから資金の回収を意味する。
 資金の流れる量と方向によって市場の働きに違いが生じる。故に、総資産や総資本、収益と費用の関係を調節することによって市場を制御する必要がある。それが経済政策である。
 総資産と総資本、費用と収益の関係を調節するのは、個々の経済主体と市場の仕組みを操作することである。
 そして、資金を流すか流さないかの判断は、貸借の状態と基本的に損益のあり方に基づいている。貸借のあり方とは、総資産と総資本のバランスにより、損益は利益と損失からなる。言い換えると収益と費用のバランスである。
 総資産、総資本を圧縮するためには、借入金の元本を返済する必要がある。
 借入金の元本は、減価償却費によって賄う。
 また、非減価償却資産の元本の返済は、増資か利益処分によって賄うべきところであるが、問題が二つある。
 第一は、減価償却費として計上される値と借入金の返済額は、基本的に一致しないという事。第二に、税制上の課税所得と会計上の利益が一致していないという事である。原則的に、会計も税制も借入金の元本の返済は、何処にも計上しない。また、利益を元本の返済の原資として認識していないし、損益上の費用としても認識していないのである。この点を考慮しないと経済主体は、事実上、借金、即ち、負債を制御できなくなる。今のように借金を悪として、正式に認知しなければ、いずれは、借金は制御する事ができなくなる。それは借金に基づく産業である金融機関の居場所を奪うことにもなるのである。
 収益が悪化しても資産価値が拡大している時は、未実現利益を担保にして追加の融資を受けることができる。問題は、市場が縮小している時に資産価値が下落した場合である。経済主体は資金を調達するための裏付けを失って破綻する。
 この様な経済主体の動きに対してどう対処していくかが政策の要点である。また、税制度の役割でもある。ところが往々に政策や税制度が景気の変動に逆行し、状態を悪化をかえって促してしまう事がある。
 例えばバブル崩壊直後に、資産価値を急激に圧縮するような政策をとり、バブル崩壊によって収益力が低下している企業の資金調達力を更に悪くしてしまうといったと言った事例である。

 政策的に、資金を補助しても収益に反映されないと利益に影響を与えることはできない。なぜならば利益に反映されなければ企業評価、企業の信用力に結びつかないからである。

 基本的に現在の経済主体を動かす原動力は現金である。故に、現金が底をついたら経済主体は機能しなくなる。それは、家計でも、企業でも、政府でも基本的に変わらない。現金がつきれば破産したと見なされるのである。破産すると経済的主体は奪われる。
 総資本は、債務残高を集計した値である。純資産、資本とは、株主取り分の残高で債務の一種である。言い換えればある時払いの催促なしの借金のようなものである。
 総資産というのは、債権の残高を集計した値であり。
 資産とは基本的に、生産財を意味する。
 基本的に会計上、債権、債務というのは残高をいい、ストックを形成する。
 収益は、生産財を売って得た現金と債権である。
 費用というのは費やされた効用である。
 収益と費用は、決済の手段を言い、フローを形成する。

 費用と支出は違う。費用というのは費やした効用である。支出は、決済のために支払われた資金である。

 エネルギー問題、環境問題の解決は、徹底した省エネにあると私は、考える。そして、それは技術の問題と言うより経済の問題であり、その延長線上にある政治の問題である。
 省エネや再生エネルギーの問題で障害となっているのは、費用の問題である。原子力問題も同様である。
エネルギー問題とって費用対効果が問題なのである。
 では費用とは何かが重要となる。なぜ、費用があわないのか。費用があわなければ、何もできないのか。
 その一番端的な例は軍事費である。なぜ軍事費は莫大な費用がかかるのに、費用対効果が問題とならないのか。
 時には、軍事費が国家財政を破綻させるほどの巨額になるというのにである。軍事費は神聖不可侵項目である。国防予算は利権の塊である。しかも国防の中には、防災は含まれない。
 宇宙開発や核開発、海洋開発だって軍事が先行している。軍事ならば予算が確保されるからである。
 又、道路や橋に天井知らずの予算が計上される。
 それに対して、エネルギー対策費用や環境対策費用は、常に、費用対効果だけが取り上げられる。それが、エネルギーや環境問題は、経済の問題だという事であり。そして、政治の問題なのである。
 軍事費と同じだけの金額をかけても良いとなると環境問題やエネルギー問題も話が違ってくる。問題は何にどれだけの費用がかかるかである。ところが現在の財政は、そういう視点に立てない。たてたとしても原子力のような特定の分野に限定されている。

 費用は、単に需要と供給、競争によって定まると決めつけられない。
 費用は人件費の塊であり、平均や分散が問題なのである。平均は、水準を意味し、分散は格差や貧困の問題でもある。
 費用で問題となるのは、絶対額ではない。比率である。即ち、全体と部分の関係である。

 費用は、単に、競争や需給だけで定まる事ではない。費用の持つ働き、働きから生じる社会的必要性から定まるような仕組みが前提とされるのである。
 公共投資を考察する上ではこの点が重要になる。公共投資の費用対効果とその経済性、即ち、経済に及ぼす影響である。
 人は、生産者であると同時に、消費者である。それは生産と消費は人を介して結びつけられている事を言う。市場は価格を通して生産と消費とを結びつける仕組みである。人と市場の関係が経済の要なのである。ただ安ければいいという発想はこの絡繰りが見えていない証拠である。

 適正な価格を如何に市場が踏み出し、維持させるかが経済政策の主たる役割なのである。

 兵隊への賃金が国債や紙幣の素となる。故に力尽くで流通させた部分がある。力尽くで流通させたとしても貨幣としての働きはする。この事は含蓄がある。
 軍事費というのは、軍事の技術開発というのは、費用対効果を考慮しないでいい分野の一つである。公共投資は拡大再生産の本である事象が有効である。軍事費は、拡大再生産には平常時には結びつかない。軍事費が拡大再生産に直接結びつくのは戦争である。
 戦争は、経済の発展を引き起こす契機になる例が歴史上多く見受けられる。しかし、戦争に伴う破壊を前提するのは邪道である。戦争は本質的に拡大再生産には結びつかない。
 鉄道の発展が好例であるように公共投資は、次世代への投資、拡大再生産に結びつくものであるべきなのである。

 消費とは、価値を費やす行為である。投資は、生産手段に資金を投入する事。或いは、生産手段に対する支出である。貨幣の働きという点では、投資も基本的には消費と同様、価値を費やす行為である。投資と消費とを区別するのは期間、即ち、時間軸の問題である。働きは基本的に同じである。

 貯蓄というのは、視点を変えると金融機関への貸付であり、金融機関の負債である。この様に、貸し借りというのは表裏の関係にあり、貯蓄と負債というのは、同じ働きをしていると見なすことができる。

 物の流れには、反対方向の金の流れがある。この点が重要なのである。問題はこの貨幣価値と物の価値の均衡にある。

 基本的に現在の経済を動かしているのは金の流れである。
 ただ、お金の出入りだけでお金の効能は明らかにならない。そこで、一定期間でお金の効能を測定するために設定されたのが損益である。

 損益では、複式簿記の文法にに基づいて経営実態を表現し、評価する。複式簿記とは、生産手段と投資資金の根拠、一定期間内の費用対効果を関連づけて経営実績を立体的に評価する手法である。

 故に、実際の経営主体の実態を明らかにするためには、収入と支出、収益と費用の関係が重要となる。その上で残高と利益の関係を見る必要がある。
債権、債務、収益、費用の関係で重要となるのは差と比率である。
 利益は、一つの目安に過ぎない。ところが現在は、利益を絶対視し、更に善悪の基準に当てはめようとすらしている。そこに重大な錯誤がある。
利益は、一定期間の収益と費用、債務残高と債権残高の差から導き出される指標である。

 肝心なのは、費用を賄えるような収益、家計を賄えるような所得を維持、確保する事である。収入は必ずしも一定していないのに対して、支出の多くは固定的である。ゆえに、収入と支出を平準化して現金の残高が不足しないように調整する必要がある生じる。そのための指標が利益なのである。故に、赤字になったからと言って経営や生活が、即、成り立たなくなるというわけではない。

 利益は、結果であって目的ではないのである。
 肝心なのは、安定した収入を継続的に得られるかどうかである。それを知るためには、先ず収益と所得の内容を見るべきなのである。
 収入と所得は、経営主体に対してお金が入力される事を意味する。

 通貨の流れは、現金収支として現れ。また、通貨の働きは、会計上、収益や所得、利益として表される。収益や所得は、経営主体や個人が一定期間に受け取ったか、或いは、受け取る権利を持つ量を言う。利益は、通貨の働きの目安である。
 経済的に破綻するのは、現金残高が不足する事による。赤字か黒字かは、通貨の働き、過不足の目安であって絶対的な基準ではない。

 企業は、継続する事が一つの大前提である。
 期間損益における赤字や黒字は目安である。企業の成否を決めるのは、資金収支である。
 企業は、貸借、及び、ストックとフローの均衡の上に成り立っている。企業が継続可能か否かの判定基準が損益均衡である。
 企業経営が成り立たなくなるまで競争を煽るのは愚策である。
 生産と生産手段が関係づけられていないと経済は有効に機能しない。例えば労働と分配が関係づけられていない経済の仕組みは制御する事ができない。

 資金の流れには、投資に関する流れ、金融に関する流れ、日常活動に関する流れの三つの流れがあり、収入と支出、貸しと借りの間を循環している。そして、資金は、基本的に残高が問題となるのである。
 資金の流れという観点から経済では、プラスかマイナスかというとらえ方ではなく。貸しか借りか、収入か支出かという観点で計算し、尚且つ、自然数で残高を有無と多寡を計測するのが原則である。

 投資は物の効能を形成し、財務は金の価値を構成し、日々の活動は、人の効用を構成する。これら人、物、金の働きを結びつけるのは、経済主体間のお金の交換、個々の経済主体から見るとお金の出入り、出納である。

 投資は物の効能を形成し、財務は金の価値を構成し、日々の活動は、人の効用を構成する。これら人、物、金の働きを結びつけるのは、経済主体間のお金の交換、個々の経済主体から見るとお金の出入り、出納である。

 投資は債権の元となり、財務は、債務の元となる。債権と債務の状態は、日々の活動によって定まる。債権と債務の関係によって資金の流量は規制される。また、資金の流量によって債権や債務の状態は定まる。

 ゼロ和を基調とした市場経済には、垂直的均衡と水平的均衡がある。水平的均衡は階層的になっている。
 経常収支と資本収支は垂直的均衡の関係にある。それに対し、経常収支の総和、資本収支の総和、貿易収支の総和等は水平的均衡の関係にある。経済主体間の総和も水平的に均衡する。
 そして、貿易・サービス収支の総和と所得収支の総和、経常移転収支の総和は、経常収支を階層的に形成する。

 世界は一つ。経済的空間で、世界を一つに調和させているのがゼロサム関係である。
 つまり、一はゼロに通じているである。

 経済は、均衡しようとする力と不均衡との間を揺れ動くときに発生されるエネルギーによって作動する。
 現代人は、短期的な均衡ばかりに目を奪われて長期的均衡を見落とす傾向がある。しかし、短期的な不均衡をどう長期的な均衡によって調節するかが、経済施策であり。短期的均衡、部分的均衡ばかりを問題にすると経済は、長期的均衡、全体的均衡がとれなくなり、経済は正常に機能しなくなる。

 経常収支と資本収支、支払準備残高は、ゼロ和である。
 経常収支、資本収支、支払準備は水平的にもゼロ和である。
 故に、全体的にもゼロ和である。
 貨幣現象は、短期的にゼロ和であれば、長期的にもゼロ和になる。
 垂直的にゼロ和というのは、経済主体の範囲内でゼロ和である事を意味する。
 水平的にゼロ和というのは、経済主体間を集計した総和がゼロである事を意味する。
 経済主体には、公的部門、民間部門、海外部門がある。
 更に民間部門は、家計と企業がある。
 公的部門は、財政収支と公的機関の貸し借りを言う。
 通貨の発行は、公的機関の借りを意味する。

 市場の貨幣的規模を決めるのは、通貨の供給量と回転数である。

 金融政策を実行しようとする際、また、実行した時、金利とか金融緩和政策が資金の供給量や流れにどの様な影響をどの部分に与えるかを見極める必要がある。

 財政は、投資と国家の収支、貸借からなる。単年度の収支は、財政の貸借に蓄積される。
 財政が黒字になれば、国債は減る。国債が減れば、民間、或いは、海外の負債は増える。
 民間の負債が増える事は、民間の消費と投資に影響する。
 民間の家計部門の負債が同じならば、民間企業の負債は増える。民間企業の負債は、金融市場と資本市場に反映される。
 財政収支は、通貨の増減に直接的に結びついている。公共投資が減れば、国の借金が減る代わりに、通貨の流量は減る。問題は、通貨の供給量と回収量の下限の問題である。

 海外への負債は、海外の資本市場に影響する。
 国家間にも貸し借り関係が生じる。
 貸し手は借り手があって成り立ち、借り手は貸し手があって成り立つ。
 問題は、限度と振れ幅である。それが貨幣の量を決める。
 国外への資金の流出は、海外に借りを作っているような事である。

 黒字国は、赤字国があって成り立っている。
 赤字国は、黒字国を支えている。
 国際的均衡は、国際的投資と国家間の貸借、通貨の総枠の問題である。
 基軸通貨によるのか、決済制度によるのかによっても世界経済の有り様は変わる。

 民間の資金は、所得という形で供給される。所得は、生産手段に対する対価として支払われる。民間の支出には、消費と投資がある。民間で資金が余れば、貯蓄し、不足すれば借金をする。貯蓄と負債は、短期的に見てもゼロ和であり、長期的に見てもゼロ和である。貯蓄と負債、そして、投資は蓄積する。

 反対給付、生産手段に対する対価のない所得は、お布施のようなものであり、取り分ではない。故に、経済的動機が希薄になる。
公共事業が破綻する原因は生産手段、即ち、労働や設備と報酬とが直接的に結びついていない事にある。そのために、生産手段の経済的価値と生産財の経済的価値が直接的に結びついていないのである。それ故に、原因と結果の因果関係が希薄であり、経済的な関連性が築けないのである。
 例えば、労働という生産手段とその結果としての報酬が直接結びつく事によって経済の統一性が保てるのである。

 ゼロ和を、物で言えば、生産と消費と在庫の関係はゼロ和である。
 故に、過剰生産は、消費と在庫を増やす。
 問題は、密度であり、量は質によって調整すべきなのである。
 生産も消費も量は質によって調整すべきなのである。

 物と金は違う。
 余剰なお金は累積する。
 余剰な物は、全てが累積されるわけではない。生鮮食料などは、すぐに腐ってしまうし、服装や家電製品などには流行廃りがあり、すぐに、陳腐してしまう。

 経済全体の調和は物質的な経済によって実現される。
 生産と雇用、消費、生産手段とをどう調和させるかが問題なのである。貨幣は、生産手段の一種に過ぎないのであり、全てではない。
 物の動向によって市場の規制を緩和したり強化し、また、経済主体間を競争させ、或いは、連携させるのである。また、国際投資、公共投資、民間投資を適切に促すのである。 そして、経済の制御を実現するのは、市場の仕組みである。

 国際投資は断じて戦争ではない。

 戦争の原因は、経済が主である。戦争の目的は、生産手段の争奪にある。故に、戦争に正義はない。あるのは勝敗である。その証拠に戦後賠償は、勝者が敗者に要求する物であって、敗者は勝者に何も要求できない。賠償というのは戦利品を言い換えているのに過ぎない。
 欲しい物を奪い取る。それが、戦争の本質である。奪われたくなければ戦うしかない。それが戦争である。
 主たる生産手段は労働力と土地である。故に、領土と支配が戦争の主目的となるのである。
 重要なのは自国の独立自尊であって相手国の独立を尊重できなくなり国民が戦いを望めば戦争は防げない。根底にあるのは国民感情である。平和を望むのならば根本の経済の問題を解決する事である。問題は、生産手段と生産物と分配をどう結びつけるかである。

 市場経済は、本来互恵的関係の上に成り立っている。自給自足を基本とした経済では、互恵的関係は生じない。
 生産は、互恵的関係では生産者は消費者を必要とし、消費者は生産者を必要としている。この様な互恵的関係の上に成り立っている社会で何らかの理由で一方が突然、他方の了解なしに関係を断つ切れば、双方の経済が成り立たなくなる。それが生きる為に必要な資源だとすると暴力的手段に訴えて資源を奪い取ろうとする。それが戦争である。
 消費者は生産者を必要とし、生産者は消費者を必要とする。貸し手は借り手を必要とし、貸しては借り手を必要とする。市場経済は、双方向の働きを前提とし、互恵的関係の上に成り立っている事を忘れてはならない。消費者生産者、どちらかが一方的に優位にあるというわけではない。ただ、その市場の環境によって力関係が揺れ動いていると言うだけなのである。
 故に、健全に経済は平和の上に成り立っているのである。

 戦争は、経済的問題が政治的問題に発展した上に起こる。戦争の根本には、経済的問題が隠されている。

 経済や政治の仕組みが上手く機能しなくなると、人間は、暴力的手段に訴えて問題を解決しようと計る。それが戦争である。

 自由経済は自由交易を前提としているように思われがちである。しかし、基本的に国内の資源で国民の需要を賄える国ならば、交易を前提とする必要はない。
 貨幣を循環させるのは、売り買い、貸し借りといった取引行為であり、また、取引行為の過程で生じる雇用だからである。
 何が何でも輸出が輸入を上回らなければならないというのではない。問題は決済の仕組みと資源の過不足の調整なのである。この点を理解しないと自由市場の機能を理解する事はできない。資源の過不足を決済システムが解消できなくなると暴力的な手段で解決しようする。それが戦争である。戦争の原因は、表面に現れる政治的、又は、外交的問題よりも経済的原因である場合の方が多いし、決定的な原因も経済的原因である事が多い。

 戦争とは何か。人はなぜ命を賭けて戦うのか。それは、生きる為である。これは一見、逆説めいて聞こえる。生きる為に命をかける。しかし、命をかけるのに値するのは、生きる事ぐらいしかない。人は、生きようとして生きられないと悟った時、必死になって戦いを挑むのである。
 人は生きんが為に、命を賭けて戦うのである。
 そして、経済とは、生きる為の活動である。故に、戦争は、経済の延長線上にある。経済の究極的な形こそ戦争なのである。翻って言えば、戦争をなくそうと思ったら、経済を円滑に機能させる事を考えるべきなのである

 世界は一つなのである。

 現代の経済は、結果だけが問題とされる。しかし、経済で重要なのは、動機であり必要性である。ただ作ってしまったから消費するというのでは、乱開発や資源の浪費は防げないのである。環境問題や資源問題が深刻化している今、必要な資源を必要なだけ消費できる仕組みが求められている。

 ゼロ和現象では、個々の経済主体単体が赤字か黒字かだけが問題なのではない。ゼロ和という事は、黒字の経済主体がある事は、他方に赤字の経済主体がある事を意味するからであり。赤字の経済主体がある事は、他方に黒字の経済主体がある事を意味するからである。ゼロ和という事は、全体の総和は常にゼロである事を意味し、何処にどの様な影響が現れるのかが解らないと赤字黒字の是非は語れない。
 故に、赤字が是か否かの議論をすべきなのではなく。赤字、黒字を引き起こしている要因、仕組みとその背後に流れている資金の働きを知る事なのである。

 経常収支が赤字であるという事は資本収支は黒字になる。つまり物を輸入するために不足した金は借りなければならない。故に、金不足を問題にする以前に、金を調達するための信用力を問題とするべきなのである。

 消費不足と過剰生産の歪みが経常収支の不均衡になる。そして、それが恒常的になると債務が累増し、是正しようのない不均衡になってしまう。

 貨幣経済で経済を動かすのは貨幣の循環運動。即ち、回転運動と波動である。
 故に、経済運動で重要となるのは、振幅と周期である。経済は、正と負、利益と損失の間を揺れ動いているのである。
 そして、一定の周期で経済主体間で正と負、黒字と赤字が入れ替わらないと一方的にストックは一方的に累積していくのである。
経済の運動は、黒字が是か赤字が否という問題ではない。周期と振幅の問題である。
 経常赤字国の問題を解決するためには、経常黒字国との連携がなければできない。なぜならば、経常収支の総和はゼロ和なのである。

 赤字国の問題は、黒字国の問題でもあるのである。

 期間損益に於いて、損益を勝負事のように、赤字は負けで、黒字は勝ちのように判断するのは危険な事である。更にこれに競争が絡むと経済をあたかもマネーゲームのように捉える傾向が出てくる。しかし、経済の本質は、生産財の分配にある。この点を忘れると金だけが全てになってしまう。

 会計上の価値は仮想的価値である。
 また、金銭取引は、名目的価値を形成する。物の価値が帳簿上の価値と必ずしも一致していないのに対し、名目的価値は、帳簿上の価値と原則的に一致している。名目的価値は、キャッシュフローを反映する。
 生産手段には、減価償却資産と非減価償却資産がある。減価償却資産というのは、一定期間で予め決められた基準で価値が失われていく物を言う。それに対して非減価償却資産は、価値が相場によって決まる資産を言う。ただし、この操作は帳簿上の操作であり、実質価値を言うのではない。実質価値は、市場取引によって定まる価値である。

 支出は、最終的には全て所得に還元される。支出の対極にあるのが所得であり、支出の有り様が所得の有り様にどの様な変化を与えるか。所得の有り様が支出の有り様に動繁栄されるかが、経済の動向を定めるのである。
だからこそ、支出や所得の構成比が重要な意味を持つのである。

 所得は、収入であり、支出でもある。また、期間損益では、収益であり、費用である。
 資源である労働力が多様であり、欲求も多様であれば、一律に所得を規制する事はできない。なぜならば第一に、能力にも適不適、向き不向きがあり。その結果、労働力の成果に量的、質的な個人差が生じるからであり。第二に、嗜好にも好き嫌いに個人差があり、個人の生活環境にも個人差があり、その為に、消費を一律にする事ができない。支出を一律に規制する事ができないため結果的に収入を一律にする事ができない。その結果、所得を一律にする事は適正ではないのである。

 個人の資源は、労働力である。労働力にも質的、量的な差がある。人は、労働力という資源を売って所得を得る。

 この様な貨幣は分業を促す働きがある。又、貨幣は、非生産的労働を拡大する。非生産的労働は都市を形成し拡大する働きがある。都市は、商業のような非生産的労働によって形成されるからである。即ち、貨幣は都市化を促進する。

 家計は、所得と支出の有り様で決まる。
 支出は、消費と貯蓄に分配される。
 また、自分で自由に使える実質的所得は可処分所得である。可処分所得は手取り収入でもある。
 この可処分所得から借入金の返済額や地代家賃等の固定的支出を差し引いた部分が生活費に回される。
 家計支出の基本的構造は、古典的な衣食住に加えて光熱費(ガス、水道、電気)、通信費、交通費が固定的、必需的支出を構成する。
 この様な必需的支出、固定的支出が景気の底辺を構成する。景気の上層部は、贅沢品のような必需品以外によって構成される。むろん、食事や衣服のように必需品でありながら贅沢品の一部を構成するような支出もある。いずれにしても固定的支出は、借入金の対極をなし景気の底支えをする。

 所得、収入の有り様は、経済構造の骨格に影響する。安定して定収が保障されている社会では、必然的な長期的な借入を可能とする。つまり、借金が可能になることによって安定的な金融仕組みを構築することが可能となるのである。

 景気が不安定になり、雇用が不安定化すると実物市場に資金が流れにくくなり、投機的な資金の動きが活発になる傾向がある。
雇用の問題は、失業率だけではない。雇用の形態も重要な要素である。
 派遣や臨時雇いのように一定期間雇用が保障されていないような雇用形態が一般になると長期的借入が難しくなる。それは、金融の仕組みを著しく阻害することになるのである。

 個人の資源は、労働力である。労働力にも質的、量的な差がある。人は、労働力という資源を売って所得を得る。

 金勘定で言うところの総資産、総資本、費用、収益を物の観点から言うと、生産手段と原材料と労働力、雑費を生産財に変換する事によって調達したお金を利益に変える事だと言える。そして、ここで肝心な人は、労働力として現れる。労働力は費用化される事によって分配される。

 為替の変動、例えば、円高は輸出産業に不離で、輸入業者には有利に働くと短絡的に言うが、物事はそれ程単純ではない。輸出業者だって原材料の多くを輸入に頼っている産業もあるのである。
 為替の変動に左右されない部分、即ち、生産手段が占める割合と時間差を見ないと単純に有利不利は語れないのである。
 問題は、為替の変動に左右されない生産手段の部分である。中でも人件費、即ち、一定水準に所得と雇用を如何に維持するかの問題なのである。

 所得には、質と量の違いがある。労働力にも質と量の違いがある。生産財にも質と量の違いがある。

 労働は、所得に直結している。所得は、生産財の分配に関わる。労働の質的違いがあり、労働は一律に語れないのである。そのために、所得も均一にする事が困難のである。労働の成果と実績に応じて所得を決めざるをえない。
 重要なのは、所得の平均と分散、労働の平均と分散、生産財の平均と分散をどう調和させて公平な分配を実現するかである。

 労働には、生産的労働と非生産的労働がある。生産的労働とは、直接的に生産に従事する労働であり、非生産労働とは、生産に、直接的には関わらない労働を言う。
 生産的労働で代表的なのは、農業や漁業、工業であり。非生産的労働の代表的なのは、金融業や芸能、スポーツなどである。また、事務職や管理職なども非生産的労働と言える。
最近は、非生産的労働の重要性が高まっている。
なぜならば、経済的不均衡の原因が生産手段や資源の偏在によるからである。
 結局、分配の根本は、生産手段によって得られた成果にあり、労働の質は、生産手段によるからである。
 生産手段がお金であれば、非生産的労働になり、生産手段が工場設備であれば、生産的労働になる。
 何を生産手段とするかによって労働の質は変化し、また、労働に対する評価も変わるのである。
 非生産的労働が重視されるのは、人口の分布と生産手段や資源の分布が一致していない事による。
 そのために、生産的労働に中する事ができない人が生じるのである。その様な地域の人間は、どうしても非生産的労働に頼らざるを得なくなる。
 それによって産業構造や経済構造に変化が現れるからである。

 労働には、生産的労働と非生産的労働がある。生産的労働とは、直接的に生産に従事する労働であり、非生産労働とは、生産に、直接的には関わらない労働を言う。
 生産的労働で代表的なのは、農業や漁業、工業であり。非生産的労働の代表的なのは、金融業や芸能、スポーツなどである。また、事務職や管理職なども非生産的労働と言える。最近は、非生産的労働の重要性が高まっている。

 重要な事は、生産手段、中でも労働の対価として所得が支払われ、それが個人や家族の取り分を確定しているという事である。この取り分によって生産財の配分が決まる。そのことで生産の制御と消費の制御が双方向に働くようになるのである。

 所得は、収入であり、支出でもある。また、期間損益では、収益であり、費用である。
 資源である労働力が多様であり、欲求も多様であれば、一律に所得を規制する事はできない。
 なぜならば第一に、能力にも適不適、向き不向きがあり。その結果、労働力の成果に量的、質的な個人差が生じるからであり。
 第二に、嗜好にも好き嫌いに個人差があり、個人の生活環境にも個人差があり、その為に、消費を一律にする事ができない。
 支出を一律する事ができないため結果的に収入を一律にする事ができない。その結果、所得を一律にする事は適正ではないのである。

 貨幣や市場という間接的手段を介さず直接的な手段によって資源の分配を行った場合、資金の全体的な環流は起こらない。

 労働力という資源を貨幣や市場という間接的手段を介さず直接的な手段によって分配する事は、人とお金の環流が起きにくい。
 人的、金銭的環流がなければ、社会は、停滞し、自浄能力を失う。社会は階層化し、社会変革は暴力的手段によらなければならなくなる。

 だからこそ所得が貨幣経済の核心なのである。

 所得とは、分配の権利、市場で財と交換する権利を意味する。
 所得差を金持ちと貧乏人の差として考えがちであるが、金持ちか貧乏かは、部分的な問題であり、局面である。経済の動向を判断する場合は、全体的な問題としても捉える必要がある。
 また、金持ちであるか、貧乏であるかは結果であって根本的には、その結果の原因やその結果を導き出す仕組みに問題がある。

 貨幣経済の有り様は、所得の総量と水準、所得の偏り、分散によって決まる。所得の総量は、経済の規模を規定する。所得の水準は、個々の地域や国の生活水準を表す。所得の分散や偏りは、分配の効率を表している。ただし、所得の問題の本質は、水準ではなく。取り分の問題である事を忘れてはならない。個々の経済主体間の比率が重要なのである。

 所得が取りざたされる時、所得の水準や平均が話題となる傾向がある。
 しかし、所得の問題は、本来、取り分、配分の問題であって水準の問題ではない。経済は、生産財の分配の問題なのである。
 故に、実際に問題となるのは、平均ではなく、分散である。

 むろん、水準や平均が重要でないと言っているわけではない。所得の働きは、平均値より、分散の方が社会にとって決定的な働きをしていると言っているのである。
 所得の水準は、その国が調達できる資源の水準を表している。それが平均の持つ意味の重要性である。それに対して、分散は、調達した資源の取り分を表している。
 所得の水準、平均値が低くてもバラツキの幅が大きければ、極端な資産家がいてもおかしくないのである。だかにこそ、平均値だけでは経済情勢は理解できないのである。

 所得の水準や平均が問題とされるのは、インフレーションやデフレーションが通貨の流量によって左右されるからである。しかし、それは貨幣の振る舞いであって経済の本来の働きは、生産財の分配にある。貨幣の動きが経済本来の役割を混乱させるが故である。
実物は、有限であり、上限がある。貨幣価値は無限である。
 生産に於いて無駄を省くと言う意味では、何が必要とされているのかが明確にされる必要がある。本来、何に、何が、どうして必要なのかが価値を決めるのである。つまり、必要性が価値の根底になければならない。

 所得は、消費に繋がる。問題は、金の使い道、使い方なのである。支出は、経済のあり方と動向を左右する。消費の有り様は産業の有り様を決める。

 消費にも質と量がある。

 企業会計では、長期借入金の元本の返済額、減価償却、利益、税、キャッシュフローの関係が重要となる。この事は、経済の根本に関わる問題でもある。

 企業会計と財政、家計の間に制度的整合性はない。企業会計は、期間損益主義に基づき、財政と家計は現金主義に基づいている。問題なのは、資金の流れと損益の間に時間的なズレが生じている事である。

 更に問題を難しくしているのが、税制が彼等の資金の流れや損益とはまったく違う原則によって形成されている事にある。

 税制は、現代貨幣経済に対して決定的な役割を果たしている。今日、貨幣制度の根本手段である紙幣は、財政が生み出したようなものである。その財政は、歳出と歳入の均衡によって保たれている。そして、主たる歳入を構成するのが各種の税である。

 我々は、生まれた時から税金を納める事が当然であるかのように思い込まされている。つまり、税金は、所与の事柄なのである。
納税は必然としてそれを大前提で考えるように躾けられている。
 ではなぜ、税金を納める必要があるのか。本来、税を考える場合、その点を明らかにしないと論点は定まらないのである。そして、なぜ税金は必要なのか答えは、その裏腹に何に税金は使われているのか、或いは、本来何に税金は使われるべきなのかの問題が隠されているのである。
 税がなぜ必要かである。
 それを理解するためには、物納と金納の働きの違いを理解する必要がある。
 税金という言葉が示すように、我々、税はお金で納める者と思い込んでいる。しかし、税をお金で納めるようになったのは、明治時代以降である。それ以前は物納が主である。
では、物納と金納の何処が違うのか。そこに貨幣制度の重要な要素が隠されている。

 国民国家に於いて税は義務である。しかし、国民国家が成立する以前は、税は、権力者に奪い取られる物、搾取の手段だったのである。そして、税は、権力者の権力や富を守るために使われた。
 それが、国民国家が成立した以後は、税制の有り様は、税が国民の義務とされた時から税の本質は変質したのである。
 この点を正しく理解して置かないと税の持つ働きを正しく理解する事はできない。また、税を根底とした貨幣制度の意味も理解できない。
 税は、権力に強制的に奪い取られる物から、国民の義務として拠出する物に変わったのである。最初は、税は必ずしも「お金」で納めていたわけではない。物や労役で納める事もあった。故に、初期の段階では税は租税と言った。お金で納める事が定着する事で、税金というようになるのである。
 納税を金納、つまり、「お金」でする事で、経済の仕組みを根本から変えてしまったのである。税を「お金」で納める事、税金になった事で、単に、国家の仕事に対する対価と言うだけでなく。貨幣を循環させ、通貨の量を制御するための重要な手段、仕組みの一つとなったのである。そこから、税制度のあり方というのを捉えなければ、税の制度は設計できない。

 今の税制度は、歴史的な経緯によって形成されており、必ずしも個々の税の働きを計算されて築き上げられたとはいえない。

 税制は、財政を実現する為の仕組みの一部である。財政は、宮廷官房をその始まりとする。つまり、財政は、君主の生活をまかない、人民を支配するための道具手段だったのである。民衆は、財政は民衆の生産した物を搾取するための手段だという思いが未だにぬぐい去れないでいる。それ故に、民衆は税金は安ければ安いほど良いと言う思いがある。また、税を絶対額で捉えようとする。
 しかし、今日、税の多くは比率で表現される。そして、人頭税のように額で表される税の評判は極めて悪い。
それではなぜ、今日、税は額ではなく、率で表されるようになったのであろうか。
 この事は、税の変質の本質が何処にあるのかも示唆している。つまり、税というのは、何らかの基本があって、その基本に対する比率、割合を基礎としているという事である。その基本は何か、何にすべきなのか、それは税の本質に関わる問題である。
 ある任意の全体があって、そして、その全体を構成する一部分が税だという事である。その全体の働きと部分の働きが重要となるのである。そして、この様なとらえ方の背景にあるのが、分配である。税は、分配の一種である。

 かつては、税は、絶対額が重要だったのである。それが現在では、比率が重要なのである。この様な変化は何が原因で引き起こされたのか。そこが問題なのである。

 物に課税するというのは、収穫物に課税する事を意味する。収穫に課税するというのは、収入に課税するというのとは重大な意味が違う。収穫に課税するというのは、生産物を課税対象としているのに対し、収入に課税するというのは、生産手段に課税する事を意味する。生産物というのは、例えば、お米のような物を指す。それに対して、生産手段というのは労働であり、又、土地や設備などである。収入、所得は労働に対する対価や地代、家賃等である。
 又、貨幣が浸透する事で、経済価値が物の価値だけでなく、権利や所有といった抽象的概念にまで広がったのである。
 収穫物というのは、成果、即ち、結果を対象としている。それに対して生産手段というのは、原因を課税対象としているのである。
 生産手段を対象とする事によって経済の対象は、物から解放され、経済全般の活動や働きを課税対象とする事が可能となった。この事は、経済活動全般を一旦換金化する事を前提として成り立っている。
 経済活動全般を換金化する事によって、金納は、経済活動全般を貨幣価値によって網羅する事になった。経済活動全般を網羅するという事は、有形の物の関わる事象だけでなく、無形の権利や労働、サービス等も経済の対象として認識する事が可能となる事を意味する。この事によって経済の事象として認識する範囲が飛躍的に拡大したのである。
 税が経済行為全般を網羅していない時には、自家消費部分や自給自足的な部分が含まれていたのである。税が経済活動全域を捕捉するようになると自給自足的な部分や自家消費的部分も許されなくなった。
それまでは、課税対象として認識できる事象は、特定の物や行為に限られていた。
それが、分配という働きを経済の核とする事を可能としたのである。
 また、租税から税金に変わった事で、税を測る基準が絶対量から相対数に相対数に変質したのである。つまり、一人一人の生産高ではなく。経済上、社会全体の総生産量が問題となるようになったのである。それは大量生産、大規模産業成立の伏線ともなる。
だから、経済の基準が絶対額から相対比率へと比重が移ったのである。

 税の発生は、権力者の財政を担う必要から派生した。税は、当初、第一に、国王とその親族、一族の生活を賄うための資源。第二に、人民を支配するための資源。第三に、外的から自分達の領土を守るための資源の三つの要素に基づいて何らかの基準によって徴収された。
 この様な税は、支配階級と被支配階級が存在する事によって生じる。つまり、税は、支配階級が、被支配階級を支配するための手段だったのである。
 支配階級社会と被支配階級社会が分裂した国家において、税は、支配階級と被支配階級とを結びつける役割をしていた。そして、税によって支配階級は、被支配階級から資源を吸い上げていたのである。故に、被支配階級から見れば税は効率的な支配階級が搾取するための仕組み、手段でしかなかった。貨幣制度は、この関係を破壊する働きもあったのである。貨幣が環流する事で支配、被支配の関係が維持できなくなるからである。
 通貨は、循環する事で一つの経済圏を形成する。
 初期の租税は、物納であった。物納である場合は、信用制度を基礎とする必要はない。単純に必要な物資や用益を徴集して自分達が自分達のために消費すればいいのである。 現代では信用貨幣であり、信用の裏付けさえとれれば税に依存する必要はない。また、公共機関自体が収益事業をしても税に依存する必要はない。なのに、なぜ、税に依存する必要があるのか。その原因は、貨幣の働きにある。その点を理解しないと税制のあり方を規定することはできない。 それは今日の経済の仕組みが分配を基礎としていて税制度も分配のための仕組みの一部だからである。

 また、物納は、一定方向の流れでしかなく。物納は、物と金を結びる事ができないし、そのために、物と金の循環運動を起こさない。

 つまり、税は、その使用目的だけでなく。分配という目的が加わったのである。更に、通貨を循環させるという目的も加わったのである。

 物納というのは、収穫物や生産物、使役を市場を通さずに、直接、生産者が納めるのに対し、金納というのは、市場を一旦通して換金した上で納める事になる。この事によって直接生産に携わっていない物からも税を徴収する事が可能となる。
 また、市場を経済の基盤に据える事にもなる。市場経済が確立される事によって商業も勃興する事となる。
 それは、市民階級の形成にも影響するのである。
 それまで土地のような生産手段に縛られていた個人を生産手段から切り離し、自立できるようにも促す事となる。主たる生産手段であった土地と労働力の繋がりを断ち、労働者を土地から解放したのである。それは、農業や漁業と言った第一次産業から製造業、工業といった二次産業や商業と言った第三次産業へと産業形態を移行させる契機にもなったのである。
 税の金納は、貨幣経済と市場経済を不利不可分に結びつけ、社会の基盤に浸透させる効果がある。また、国民に均等に税を課す事にも繋がる。均等に税を課す事は、社会を構成する単位を家族から個人へと変化させた。この事が重要なのである。

 物納から金納への変化は、絶対額から比率へと変化させる事になる。また、貨幣を介する事によって特定の資源に偏っていた産業構造を多様な構造へと変化させたのである。それが近代産業国家への土台となったのである。この様な前提によって産業革命の下地は作られていったのである。

 近代貨幣制度が確立されてからの税制度とそれ以前の税制度では機能が違う。その点を理解しておかないと今日の財政の働きを理解する事はできない。
 近代的貨幣制度が確立される以前は、税は、宮廷と兵隊を養うための費用として徴収されていたのである。そこで重要視されたのは絶対額である。そのために、税で不足する部分を補うために国債が発行されたのである。
 今日の財政制度は、貨幣を市場に供給し、それを循環させるという働きが基礎にある。その一翼を担っているが税制度である。だから税を徴収する必要があるのである。そのために、重視されなければならないのは比率である。つまり、民間と財政、海外との均衡が重要となるのである。投資と、所得と消費の均衡でもある。
 物納の段階では、税と国債、貨幣制度とは必ずしも結びついているわけではない。税と国債、貨幣制度は財政を統一的に管理しようとする過程で結びついていくのである。

 正の価値は、消費されるのに対して負の価値は集積するという性格がある。
 金利によって形成される時間的価値は、負の価値によって複利的に増殖する性格を持つため、負の価値が一定の限界を超えると幾何級数的に増幅する。
 財政を考える場合、この性格が災いする事がある。
 正の価値と負の価値の均衡が保たれずに負の価値が一方的に累積すると経済は停滞する。
 経済的価値は、正の価値単独で成り立っているのではなく。その対極にある負の価値との均衡によって成り立っている。

 負の価値と正の価値の釣り合いがとれなくなると名目的価値と実質的価値が分離し、フローとストックか不均衡になり、物価の急激な変動を引き起こす事になる。

 財政収支というのは、通貨の供給と回収の結果である。供給した通貨を総て回収できれば財政収支は均衡する。
 しかし、税によって供給した通貨を総て回収するという事は不可能であり、そんな事をしたら貨幣制度自体が破綻する。
 通貨は、取引によって循環する。取引は、売買と貸借である。税によって捕捉できる範囲は、売買による部分である。貸借による部分は未実現の部分であるため課税対象には適さない上、売買取引だけでは通貨は環流しない。なぜならば、信用貨幣はその性格上貸借によって市場に供給され、回収されるからである。
 売買取引だけでは、通貨は、市場を環流しない。物流は、一定方向な資金の流れしか作り出さないからである。貸借取引が通貨の供給と回収をする事で、市場に資金の環流を引き起こすのである。
 市場に供給した通貨を総て回収したら通貨は環流しなくなる。それが貸借取引である。通貨を市場に流通させ続けようとしたら、総ての通貨を税収によって回収する事はできない。そんな事をすれば一時的にせよ、市場から通貨が消滅してしまうからである。市場に恒常的に通貨を流し続ける為には、市場に直接結びついて資金の供給と回収をする必要がある。
 そのためには、税収だけに頼らず、市場から直接資金を回収する手段、即ち、政府も営利を目的とした事業を一部取り入れるべきなのである。
 一定の周期による通貨の供給と回収によって通過の流量を制御する仕組みが大切になる。 つまり、一定の周期で通貨の供給と回収を繰り返す仕組みを導入すべきなのである。
 一定の周期で供給と回収を繰り返す仕組みを導入するためには、単年度の均衡を前提とせず、長期的均衡を前提とすべきなのである。
 専売や独占は、通貨の循環を妨げ、富の偏在を引き起こす。富の偏在は、通貨の滞留の原因となる。反対給付のない事業は、通貨の供給と回収という機能を果たせないのである。それは貸借取引と売買取引が関連しないからである。

 現代の税制度は、期間損益主義、現金主義、実物主義が混在している。その点を前提として考える必要があるのである。

 貨幣経済では、物の価値と金の価値が相互に独立した座標軸をもち。それが組み合わされる事によって会計的空間を構成している。その会計的空間の基礎にして市場の動きは制御されている。

 大前提は、中小企業の大部分は、未上場企業だという事である。
 非上場企業の場合、決算が赤字だと金融機関から融資を受けられなくなる。
 金利は費用計上されるが、長期借入金の元本の返済は、費用計上されずに、簿外で処理されている。
 資産を現金化しないかぎり、資産の持つ含み益や含む損は簿外で処理される。
 結局、事業を動かしているのは資金であり、資金の流出を最小限に留める事が経営をより安定化する仕組みになっている。

 資産を活用する為には、資産を換金し流動化する必要がある。

 この様な前提に基づいて現在の企業経営と経済の構造を明らかにする。
 先ず第一に言えるのは、経営者は、利益を平準化したいという動機がある。

 収益は未知数である上に、波がある。つまり、収益は不確実であるのに対して、費用は確実に出ていく。その上、利益に対しては税金がかけられ、配当も要求される。また、損失を出すと株価も下がって資金調達が難しくなり、最悪の場合事業の継続が危うくなる。

 資産を現金化すると利益に対して税金がかけられる上に価値が確定してしまう。そして資産は清算されてしまう。
 長期借入金の元本は費用計上されず簿外にある。金利は費用として計上される。
 利益配分は、税と配当と役員賞与によって構成されていて、元本の返済の原資は計上されない。
 長期借入金の返済原資は、税引き後利益と減価償却費の和である。故に、資産の中でも大きな部分を占める不動産の債務は残される。そのために、不動産は投機の対象とされる事がある。
 減価償却費の中には、不動産の償却は含まれていない。不動産の価値は、相場によって定まる。
 資産は、取得原価主義を基本としている。故に、時価と簿価との差が含み益、含み損として簿外に存在する。資産は、担保として資金の実質的調達原資となる。
 資産を売って換金すると経営者は資産を換金しないで資金を調達したいという動機付けがされている。
 資産を担保とした借入によってつなぎの資金を調達する。つまり、資産価値が上昇している事を前提とし、収益に基ずく資金と金融機関からの借入の資金によって事業は運営されている。これが大前提。

 重要なのは、金利+元本の返済と関係である。例えば、元利均等返済の場合、最初、金利負担が大きいために金利が利益を圧迫するが、段々に元本の返済額と金利との比率が逆転し、利益を過大に出すようになる。それに対して、支出は均一であるために、税引き前の支出に影響はない。問題なのは、利益に対して課税されているために、償却と返済が進む事によって利益が過大に計上されるようになり、税負担が過剰になる事である。

 金利と元本返済の組みあわせによってキャッシュフローと費用の関係が利益と収支の関係を不均衡にする。そして、資金流出が利益を大幅に上回り、黒字倒産や借入金の増大を招く。
 この様な事によって経済に対する影響は、不動産価格が上昇している場合は、含み資産が拡大して資金調達がしやすくなり、新規投資や更新投資が活発になる。逆に姶動産価格が下降している時は、一気に景気は冷え込んでしまう。

 含み益を前提とした経済というのは、基本的に市場の拡大を前提としている。長期借入金の元本の返済は、収益の上昇によって賄い、新規投資や設備後進は、資産価値の上昇分を担保として行う。これらが上手く回転しているうちは、良いが、一度逆回転するとその途端に破綻してしまう。含み益が含み損、不良債権へと変質してしまうのである。しかも、簿価が低い物件は、売ると今度は過大な利益が生じ、過大な税を納めなければななくなる。
 キャッシュフローと利益、税との関係の均衡がとれなくなると景気全般に重大な構造的障害を生じさせる事になる。

 金利と元本と減価償却によって利益と現金収支の間に重大な乖離が生じる。税の算出は期間損益を基本とするために、慢性的な資金不足の要因となり、黒字倒産を引き起こす事がある。それが累積すると周期的な不況を引き起こす要因にもなる。

 今日の税制の一番の問題は、税制の仕組みと期間損益の仕組み、実際の資金の流れとの間に不整合なところがある事である。

 特に、利益に対して課税する仕組み担っている税制度を設計する場合は、利益と現金収支との関係を正しく理解していないと、勘定合っての銭足らず。最悪の場合、黒字倒産を引き起こしかねない。利益があっても現金があるとは限らないのである。

 一般に償却が終わると莫大な利益を上げられるようになる。しかし、それが必ずしも現金の残高を増やす事に繋がるとは限らない。元本の返済が表面に現れないからである。また、法人税などは、課税対象額が利益を基として計算されている事にもよる。そのために、利益が増加する事によって資金繰りがつかなくなり借金が膨れあがる事さえあるのである。その様な状況や構造を理解した上で税制度は設計されなければならない。

 経済状態によって利益の持つ働きに違いが出てくる。即ち、デフレーション下における利益の働きとインフレーション下の利益の働きには質的な差が生じる。それが税金の働きにも質的な差を生じさせる場合がある。

 お金が流れる事で、資産と負債が成立した時、資産と負債は均衡している。しかし、資産の内、物と設備は時間の経過と共に減価し、不動産価値は、相場によって変動し、お金の価値は、名目的価値を保つのである。
 債権と債務の関係と実質価値と名目的価値は非対称な動きをする。

 名目的価値と実質的価値の相関関係によって景気動向の傾向が定まる。即ち、名目的価値が実質的価値の下限となるのか、上限となるのかによって市場に正(ポジィティブ)な圧力がかかるか負(ネガティブ)な圧力がかかるかの違いが生じるのである。それによって負債の負荷がかかる方向に違いが生じる。

 名目的価値と実質的価値の相関関係は、市場の基礎的要件を定める。

 名目的価値と実質的価値の関係は、市場が縮小均衡に向かうのか、それとも拡大均衡に向かうのかを定める。市場が拡大均衡に向かっている時は、名目的価値は、実質的価値の下限となり、資産価値は膨張し、負債は、相対的に圧縮されるのに対し、市場が縮小している時は、名目的価値は、実質的価値の上限となり、資産価値は縮小し、負債は、相対的に膨張する。
 利益の働きは、市場に働く力の傾向によって質的な違いが生じる。

 この様に自分達の都合に合わせて基準を選べたり、また、状況に合わせて基準を変更する事が可能だとしたら公正な競争など最初から成り立たないのである。
 それでなくとも国家間には、所得格差、労働条件の差、物価の違いといった根本的な問題があり。また、前提となる条件もプロとアマチュアほど技能が違った者同士や機械と人間が同一条件で争ったりといった事があり、とても、公正な競争が成り立っているとは言えないのである。

 市場、経済の仕組みは合目的的な仕組みであり、人工的な仕組みである。
 市場や経済の仕組みは、自然に成る仕組みではない。
 競争は、経済や市場の目的を実現するための手段の一種であり、原理のような法則ではない。経済の目的を実現する手段には、提携や連携、協定等、競争を抑制する手段もあるのである。
 収益力を保ちながら、競わせるべき処を競わせる。それが原則である。ただ競わせるだけでは、収益力は保てなくなり、結果的に寡占独占状態を招くのである。

 現代社会では、あたかも競争する事が目的であり、原理であるような考え方が蔓延している。しかし、競争は手段に過ぎない。競争が全てではない。

 競争が悪いと言っているのではない。また、競争は不必要だと言いたいのでもない。
 競争は、市場を機能させる手段の一つであって何らかの原理のような法則ではないと言いたいのである。競争は万能薬ではない。
 無秩序な競争は市場をかえって荒廃させ、無原則な競争は寡占・独占を招く。
 法に基づく競争であれば、市場競争は不可欠である。

 競争は市場が拡大する局面に於いては有効だが、成熟、或いは、縮小している局面では、市場を荒廃させてしまう危険性がある。

 なぜ、競争が必要なのか。それは経済行為が相対的な認識の上に成り立っているからである。

 貨幣経済下での経済的価値は、貨幣価値によって計られる。
 貨幣価値は、交換価値である。交換価値は、それ単体では成り立たない価値である。
 即ち、交換の手段である貨幣よって形成される貨幣価値は相対的価値である。
 貨幣価値を基礎とする経済的価値は相対的価値である。貨幣価値を構成する数字も、本来、相対的な事象である。

 経済的財は、単体では経済的価値を成立できない。
 経済的価値は相対的価値だからである。経済的価値を構成するためには、比較対照する対象が前提となる。
 財とその他の対象を比較対照する手段の一つが競争である。

 また、自己は間接的認識対象だという事、そして、認識は相対的になされる。
 これら点は、競争の作用の根拠にもなる。外界に対する働きかけを通じて、自分を知り、その上で、自分が何をすべきかを明らかにする。この外界への働きと内部への働きが作用反作用の関係をもたらす。
 外界との働きと内面との働きの調和を保つために、競争は、有効な手段の一つである。
 市場は、競争を通じて外部の欲求と内部の個々の部分の働きを調整し、適正な経済構造を形成するのである。
 そのために、市場には常に経済的価値を上昇させようという圧力と下降圧力が働いている。
 この様な競争には、経済的な目的がある。目的に沿った制約が必要なのである。無原則、無規則な競争はかえって弊害となり、寡占独占の原因となる。
 何度でも言うが、競争は万能でも原理でもない。一つの重要な手段である。また、絶対的手段、唯一の手段ではなく、競争に変わる手段もあるのである。目的に応じて手段は選ばれなければならない。競争は合目的的手段なのである。
 主体は認識主体であると同時に間接的認識対象である。この関係は、個人のみならず個々の企業にも当てはまる。つまり、企業は競争を通して自分の生み出す価値を、はじめて、計算できるようになるのである。
 競争は、作用反作用を促進し、絶対的基準を相対化するのである。自分を相対化する事で価値を知る事ができるのである。その手段の一つが競争であり、競争によって市場の働きが形成される。

 間接的認識対象だからこそ、競争が有効なのである。
 主体である存在は、認識が相対的があるが故に、競争によって自己の実体を知ることができる。自己の実体を正しく認識するためには、競争が有効なのである。
 自己を外部に働きかけ、その働きかけを自己の内部に取り込む。外部への働きかけによって外部も糾すし、内部も改善する。それが競争本来の機能である。それ故に競争は有効なのである。

 自己を外部に投影し、それによって自己を知るという関係は、作用反作用の関係を生み出す。つまり、外部への働きかけによって内部の働きを牽制するのである。

 作用反作用は、存在の問題ではなく、認識の問題である。
 そして、この様な作用反作用が資金の循環によってもたらされる。又、資金の循環を促進する。
 また、競争による相互牽制作用によって生産や仕事、組織の効率化が更に促進される。

 個々の企業を効率化し、また、自浄し、発展するためには、自己を正しく認識する必要がある。自己を正しく認識する為にに競争は有効な手段なのである。

 競争を成立させるためには、前提がある。前提の一つが規制、ルール、そして仕組みである。規制、ルールのない争いは、競争とは言わない。闘争である。規制をなくせと叫ぶ者は、市場から競争をなくせと言っているのに等しい。競争はルールがあるから成り立つのである。
 仕組みとは構成である。

 消費には、一定の周期がある。その周期も日に三度の食事といった一日を基本とするもの、一週間を基本とするもの、一ヶ月を基本とするもの、一年を基本とするもの、一生を基本とするものと言うように消費の対象によって周期にも違いが生じる。そして、消費の周期は支出にも一定の周期をもたらし、それが景気の変動に一定のリズムを作る。

 消費の有り様が産業の有り様を決まるようにすべきなのである。しかし、競争だけに経済を委ねると必需品も消耗品ほど過当競争に陥り、市場は縮小均衡へと向かい産業としては衰退していく。必需品、消耗品を担う産業の多くは、成熟産業なのである。

 市場を誘導するのは、むしろインセンティブであり。利益がある方向に産業は、発展しようとする働きがある。
 良い例が、エネルギー政策である。環境問題を解決するためには、徹底した省エネルギーが必要である。しかし、省エネルギーを推進する事は、エネルギー業界にとって必ずしも利益に繋がらない。そのためには、省エネルギーが何らかの利益になるような施策を講じる必要があるのである。

 必需品、即ち、衣食住、光熱費、通信費、交通費を担う産業の多くは、社会のインフラストラクチャー、下部構造を構成し、コモディティ産業化、汎用産業化していく。
 必需品の多くは、初期投資が大きく、変動費の幅が小さくなる傾向がある。そのために固定費の負担が大きく、負債が累積する傾向がある。
 損益分岐点は、産業の収益、損益状況を決定づける重要な要素である。損益構造を無視して経済政策は成り立たない。全ての産業を一律に規制しようとするのは、乱暴である。況や、全ての規制を撤廃しろというのは、乱暴どころか無謀な事である。
競わせるべき処は競わせて、協調すべき処は規制すべきなのである。

 国家社会が、個々の産業に何を期待しているのか。そして、国際分業をどの様にして成り立たせるのか。それは、それぞれの国家が国家の置かれている位置や状況に合わせて選択すべき事である。そして、世界的に見てそれが公正な分配を実現する為の仕組みとなるようにしていくのが外交や政治の取るべき道なのである。

 先ず自分達がどの様な国や社会を望み。そして、自分達が望んでいる社会や国にするためにはどうしたらいいのかを明らかにする事が先決なのである。

 その上で、一体、何処で何を競わせるのか。価格なのか。品質なのか。機能なのか。デザインなのか。性能なのか。サービスなのかが重要なのであり、それは商品の性格に依っても異なってくるのである。

 何が何でも競争をさせれば何でも解決できるというのは一種の信仰である。競争は手段であり、手段である競争は合目的的な行為である。故に、競わせるのならば、その目的を明らかにしなければならない。
 無原則に争わせるのは、競争ではなくて闘争である。
 目的に応じて、何をどの様に競わせるかを予め定めておく必要がある。
 何でもかんでも競争させろと言うのは乱暴な話である。
 前提となる条件が商品によっても違っているのである。
 公正な競争というならば前提となる条件や環境を統一すべきであるが、未だかつて公正な競争が成り立ったためしはない。第一、労働条件や賃金格差を統一するためには、政治的に統合されていなければならない。
 労働条件以外に、生産手段の所有権の問題がある。また、技術格差、資金力の違い、地理的条件の差等がある。

 貨幣や市場という間接的手段を介さず直接的な手段によって資源の分配を行った場合、資金の全体的な環流は起こらない。
 労働力という資源を貨幣や市場という間接的手段を介さず直接的な手段によって分配する事は、個人とお金の環流が起きにくい。社会変革は暴力的手段による事になる。

 経済や市場の目的や手段を決めるのは政治の力である。故に、政治家は、経済的に中立的立場にあらなければならないのである。

 経済を政治的に利用する事は得策ではない。
 なぜならば、経済的破綻は、戦争や飢餓などの予期せぬ結果を招く危険性があるからである。

 近年、国家資本主義が、旧社会主義国を中心にして形成されつつある様に思える。国家資本主義というのは、国家が資本家の役割を果たす考え方である。既存の自由主義国でも国営企業や公共投資のような形で国家資本と言えるような事象が存在した。ただ、国家資本主義は、それを突き詰めた体制と言っていい。むろん、行き過ぎれば国家独占主義に発展する危険性がある。
 元々、社会主義も資本主義も同質の傾向を持っていると考えられる。資本主義も社会主義も生産手段、特に労働力を、実体から抽出して貨幣価値に置き換える点が共通している。それは、生産手段と個々の人格から切り離し、唯物主義的な思想を土台にして経済の仕組みを構築しようという考え方である。
 ただ、社会主義が政治権力と生産手段を一体として捉え、私的所有権を否定しているのに対し、資本主義は、政治権力と生産手段とを独立したものとして捉え私的所有権を認めている。しかし、生産手段である労働の対価として所得を認識している点。また、生産と消費を明確に区分し、労働を賃金労働に特化していこうとする事は、生産手段を社会か、公有化しようとする社会主義に相通じる。
 国家資本主義は、基本的に国家社会主義に変質しやすい傾向を持っているのである。国家資本主義で問題となるのは、国家資本主義が、国家独占に陥り、市場の原理が麻痺してしまう事である。基本的に市場における競争の原理が働かなくなると双方向の働きが機能しなくなり、市場に働く力は、一方向な働きに変質しやすい事を注意すべきである。

 今後、問題になるのは、国家資本主義と自由主義の共存である。
 国家資本主義にで懸念されるのは、直接、政治権力が、経済を支配し、統制しようとする事である。
 政治権力が過剰に経済に干渉すれば信用制度を土台から覆してしまう危険性がある。

 また、政治権力が経済に深く関わるようになると軍拡競争の陥り、軍事費に歯止めがきかなくなる危険性がある。
 軍事費の占める比率が高まると経済体制に不当な歪みが生じる。なぜならば、軍事費は非生産的支出だという事である。軍事費は拡大再生産には繋がらない。
 過去の歴史を見ても国債の発行は、軍事目的である場合が多い事を見ても解るように軍事費というのは財政に過度な負担をかける。財政を破綻させる原因でもある。
政治と経済は、互いに独立した関係を保つような仕組みにすべきなのである。

 経済的事象は、予測すべき事なのか、予定すべき事なのか。多くの人は、経済的事象は予定すべき事であるが、予定するどころか、予測もできない事だと決めつけている。しかし、予定できないのは、予定しようとしないからである。
 経済を自然現象の一種と同等の扱いをして、或いはそれ以下の扱いをして予測すらできないとしていないだろうか。予測できないとするために、生産も消費も制御できず、資源の浪費が止まらないのではないのか。また、乱開発によって自然環境が破壊されているのではないのか。戦争がなくせないでいるのではないのか。経済は、人工的な仕組みの上に成り立っている。人間が作り出した物なのである。
 人間が作り出した機械は、少なくとも、一つ一つ部分は制御している。例えば飛行機や鉄道は予定通り、運行する事は可能である。自動車は道路状況に左右されはするが、制御不能なわけではない。飛行機や鉄道を予定通り運用するためには、何らかの決まりが必要である。何の決まりも作らずに、競争で道路を走らせたらたちまち渋滞するに決まっている。それを以て予測不可能だというのは、単に自分の無能をさらけ出しているのに過ぎない。経済を予定通りに運用しようとすれば、予定通りに経済が動く仕組みを作る必要があるのである。

 忘れてはならないのは、この世にある物は、総て神からの借り物だという事である。自分の肉体ですら、自分の自由にはならない。最後には総て神にお返ししなければならない。
 自由になる物があるとしたら、それは自分の魂だけである。その自分の魂の自由を物欲によって奪われてしまったら生きる事の意義すら失ってしまう。経済の本質とは、この点に総てが凝縮しているのである。
 財産や富を築く事が経済の目的ではない。況んや人生の目的にはなり得ない。人生の目的は、魂を解放し、自由に生きる事なのである。そのためにこそ経済は意義があるのである。それが自由主義の本質である。

 私は凡人です。
 私は、神になろうなんて思わない。
 聖人になろうとも思わない。
 超人や英雄、君主になろうとも思わない。
 天才になりたくてもなれないし、
 有名人になりたいとも思わない。
 不必要に金を儲けたいとも思わない。
 ただ人である事を極めようと思う。
 金を儲けても人生を狂わせたらつまらない。
 金のために生きるような生き方はしたくない。
 地位や名誉を守るために自分を見失うような生き方をしたいとも思わない。
 金の奴隷や亡者にはなりたくない。
 友や仲間を大切にしたい。
 友や仲間を裏切ってまで出世したいとは思わない。
 人を欺いたり、騙したりするような生き方は金輪際いやだ。
 人を信じ、助け合って生きていきたい。
 世の為人の為に役立つ生き方がしたい。
 人を妬んだり、やっかんだりするような生き方はしたくない。
 家族と憎しみ合い、いがみ合うような人生は送りたくない。
 愛する人に優しい生き方がしたい。
 浮気を自慢するような生き方はしたくない。
 愛する人を守っていきたい。
 愛欲に溺れて家族を捨てるなんて愚かな事だ。
 自分に愚直なほど正直に、誠実な生き方をしたい。
 当たり前な事だから、当たり前に大切に守っていきたいのだ。
 当たり前でない生き方なんて望まない。
 だから、神と共に生きていきたい。
 自分より優れた人の話を聞き。
 仕事をしては、共に泣き、笑い、分かち合う。
 上手くいった時、抱き合って喜び合い。
 悲しい事に出会ったら、肩を叩いて慰め合う。
 私は、信じ合い、助け合える人と人の関係が作りたいだけなのです。
 そして、最後までその関係を守りたい。
 高級な老人ホームで一人孤独な死を迎えるくらいなら、貧しくとも信じ合える家族や友に最期を看取られたい。
 平凡な人間、普通の人間でありたい。
 何の取り柄もなく、平凡な人間であるからこそ、信仰を遂げる事ができるのだと信じます。
 そして、名もなき平凡な人達こそ神を出現させる事ができるのだと思います。
 それが神の偉大さの証です。
 それが自由主義であり、民主主義の根源です。

 人は、パンのために生きているのではない。生きる為にパンを食べるのである。
 金儲けの為に、金を儲けるのではない。金儲けは、手段であっても目的にはなり得ない。 金儲けの目的は、人々を幸せにすることにある。金儲けのために、家族の幸せを犠牲にするのは本末転倒であり、愚かなことである。

 歴史は、事実にはなりえても真実にはなり得ない。
 事実は、認識の問題であるが、真実は、存在の問題である。
 事実は、あると言えばあるし、ないと言えばない。
 真実は人は助け合って、或いは、助け合わなければ、解決できない深刻な問題が山積されているという事である。
 それが神の意志である。真実にこそ神の意志が隠されている。
 史実に囚われて真実から目をそらすのは愚かである。
 人が滅んだとしてもそれは神故ではない。人の愚かさ故である。
 神は、救いを求めぬ者を救いはしない。なぜならば、救いを求めぬ者を救いようがないからである。
 人類を滅ぼす者がいるとしたら神を信じぬ者であろう。

 世界は、多様である。世の中も多様である。経済も又、多様である。世界や経済を統一できるのは神のみである。人は神にはなれない。






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