経済の制御


 経済を制御するためには、まず、世の中をどの様な世界にしたいのかのビジョンや理念が必要である。なぜならば、経済は、人を幸せにするためにあるのであり、産業を発展させたり、企業利益を上げるためにある訳ではないからである。産業の発展や企業収益を上げる事は手段であり、目的ではない。いかに産業や企業が発展してもそこに働く者が不幸せならば、それは偽りの繁栄に過ぎない。まずどの様な国に、どの様な社会に、どの様な会社にしたいのかが明らかになってはじめて、経済をどの様にすべきなのかが明らかになるのである。そのことを前提として経済をどの様に制御すべきかを考えていきたい。

 経済運動は、基本的に循環運動、即ち、回転運動であり、その回転運動から派生する波動である。つまり、経済運動の制御は、回転運動の制御である。ただ、経済運動を複雑にしているのは、周期の定まらない無数の回転運動が重なり合っていることである。
 いくつかの波が重なり合って共振した時、経済は、制御不能になり、経済構造のみならず、社会構造、国家構造を破壊してしまうことすらある。複合的な波をどの様に制御するのか、それが、経済を制御する事なのである。その為には、なるべく振幅を平準化し、変動の勢いに経済構造が振り回されないようにする必要がある。
 また、投機的な圧力が経済変動の振幅を大きくしたり、予測できない動きを引き出したりする傾向がある。

 例えば、石油価格が好例である。石油価格の変動は、為替と原油の変動が掛け合わされたものである。石油価格は、為替と原油の変動がかけ合わさって現れるために、複雑な動きをする。

 例えば、石油価格が好例である。石油価格の変動は、為替と原油の変動が掛け合わされたものである。石油価格は、為替と原油の変動がかけ合わさって現れるために、複雑な動きをする。

 短期的変動に影響を及ぼす要素には、需給バランス、通貨量、為替変動、金利、資本市場、在庫高、天候などがある。

 経済の制御の手段としては、規範的制御、構造的制御、政策的制御がある。構造的制御には、規制による制御と制度による制御がある。規制は、一定期間、又は、一時的に市場に何らかの制約を与えることによって市場を制御する事であり、制度は、恒久的、長期的に一定の枠組みを課して市場を制御する事である。
 規範的制御とは、会計基準や税法の通達、教育と言った規範的制御によって経済主体の行動規範に働きかける事である。構造的制御とは、規制や制度の変更と言った構造的制御によって市場構造に直接働きかける事である。政策的制御とは、財政政策や金融政策と言った政策的制御によって通貨の流量や潜在需要、労働市場に働きかけることである。
 また、市場に直接働きかける直接的制御と間接的に働きかける間接的制御がある。

 規範とは、法や制度と言った公的なものだけでなく、証券規則のような業界団体の規則と言った規則類、個々の企業間の契約といった契約類、スポーツやゲームのルールのような私的なものも含む。なぜならば、それは、経済主体の行動規範に決定的な影響を及ぼしているからである。ただ、その範囲は、経済行動に及ぼす範囲内でなければならない。

 市場原理主義や規制緩和を普遍的なものとして語る人達がいるが、規制も制度も相対的なものであり、普遍的、絶対的なものではない。規制の強化や緩和、また、規制の質的な変化や変更は、経済情勢や経済政策に基づいてなされるものであり、規制を普遍的、絶対的なものとして語るのは、危険なことである。規制緩和は、政策であり思想ではない。

 経済を制御するためには、会計基準や商法、税法といった規範的な側面から見直した施策、金融制度や税制度と言った構造的な側面からの施策、金融政策や公共投資と言った政策な側面からの施策を複合的に実施しなければならない。

 車のデザインをする際、エンジン技師やライト技術者、制御システムの技術者といった複数の専門家がそれぞれの立場から意見を出し、それを総合して判断するのに、経済政策を立案するのに、なぜ、一つの視点でしか判断できないのであろうか。各分野の経済学者が異論を述べているように見えるが、よく聞いてみると、いろいろな局面をそれぞれが専門的見地から述べている場合が多い。ただ、それを複合化し、再構築する者がいないだけである。

 物価の水準の例を見ても解るように、経済は、一定の水準を保つように働く。水準は、個々の要素の均衡する地点で安定する。この水準が乱れると経済は混乱し、不安定になる。故に、経済を制御するためには、個々の要素の水準を知る必要がある。そのためには、水準を押し上げたり、押し下げたりする圧力の原因・要因と性質を見極めることである。

 また、経済を制御するために、重要なのは、通貨の流れや物流といった流れの方向と強さである。強さは、量と質によって計る。
 物量も通貨の流れも基本的に循環運動である。故に、波動がある。波動には、超長期的波動と長期的波動、中期的波動、短期的波動がある。
 超長期的波動は、国家の生長や趨勢によって現れる波動である。長期的波動は、石油・エネルギー価格や為替の変動、物価、公共事業、人口といった国家、社会の基礎的な部分が引き起こす波動である。中期的波動は、市場のライフサイクル、産業のライフサイクル人のライフサイクルのような市場やライフサイクルの特性が引き起こす。短期的変動には、季節変動や生活のリズムのような日常生活の活動が引き起こす。

 ライフサイクルは、消費財と資本財によって違いがある。また、消費財も耐久消費財と消耗品によって違いがある。また、償却資産か、非償却資産かによっても違ってくる。

 金融市場、生鮮食品市場、エネルギー市場、小売市場と市場は、それぞれが独立した空間を形成し、しかも市場の性質・性格、構造、機能が違う。しかも、生鮮食品市場の中も牧畜市場と農産物市場は、性格も構造も機能も違うし、エネルギー市場も石油やガス、電力では違う。また、農産物市場のように地域の特性が濃厚に出る市場もある。

 商品の性格によって市場の在り方も違ってくる。流通の仕方も違ってくる。生産地の在り方によっても市場の在り方は変化する。生産過程によって市場の在り方も違ってくる。原材料や部品も独自の市場を形成する。

 ある程度市場は作られる物である。市場は、為政者や経済主体に動きに従って形成される。つまり、国家の政策や経済主体の動き、国家制度などによって市場は作られていくのである。市場は人工的な構築物の一つである。

 かつて、日本の石油政策は、消費地精製主義をとっていた。また、特石法によって産業を保護してきた。反面において、他の産業に比べて石油税において高率の税金が課せられていた。しかも、税制は、ガソリンに厚く徴収されるような制度になっていた。また、石油は、連産品であり、製品毎の特率が違っていた。しかも、特率は、製造設備や石油の産地によっても違っている。また、製版ギャップがあり、元売り各社構造的な差が生じていた。この様な石油の特性が、日本の石油の価格形成に、即ち、石油市場に少なからず影響を及ぼしてきたのである。

 成長期の市場には、競争原理を働かすのは良い。しかし、調整期の市場に過度の競争をかせば、市場の規律を失わせ、市場構造そのものを破壊しかねない。この様に市場の状況によって選択されるべき政策も違ってくる。市場の状況をどの様に設定するかが、重要な鍵なのである。

 経済や市場の規模には、拡大期、停滞期、縮小期があり、それぞれに状況や構造がある。そして、対応や対策に違いがある。それを間違うと、経済や市場は、混乱し、最悪の場合、制御不能となり破綻する。
 拡大期か、縮小期かの変化は、経済全般に一律均等ではなく、商品市場毎に違って現れてくる。故に、その対策も市場毎に違ってくる。

 個々の対策は、市場の置かれている状況や条件によって立てられるべきものである。ただ、一般的には、均衡点を目指して調整するのが原則である。均衡には、拡大均衡と縮小均衡とがある。個々の対策は、拡大均衡を目指すべきか、縮小均衡を目指すべきかによって違ってくる。ただ、どちらが正しいかは、一概に規定できない。拡大均衡を選択するか、縮小均衡を選択するかは、前提条件によって違ってくる。つまり、前提条件の設定が重要な鍵となる。

 先に述べたように、経済の変動には、超長期的変動、長期的変動、中期的変動、短期的変動、一時的・スポット的変動がある。そして、それぞれの変動を起こす原因によって対策や政策は当然違ってくる。
 また、変動には、全体的変動、部分的・個別的変動の別がある。個々の政策の上に全体の動きを調整する政策が加わって経済全体を制御しなければならない。

 長期的変動には、基本的に制度的対策を考え、中期的は変動には、規制的対応で対処し、短期的、一時的現象には、政策的、指導的対策で対処するのが原則である。むろん、それも相対的であり、長期的な変動に政策的に対応することがあってもおかしくない。要は、効果対費用の関係(コストパフォーマンス)である。

 長中期のトレンドを見ながら、短期的一時的な変化には、即時的な対応をしていく必要がある。

 いずれにせよ政策には、ビジョンや理念が根底になければ統制が取れない。つまり、経済活動をどう捉え、どの様な効果を期待しているかが根底になければならない。国民生活の安定を目的としていながら、経済の浮揚のために国民生活の犠牲にしたのではなんにもならない。国民のためにあるべき財政を立て直すために、国民が犠牲になるのも同様である。それは、政治の問題である。

 ビジョンもなく経済の活性化だけを目的とした財政政策は、かえって長い目で見て経済を行き詰まらせる。

 どういう教育をするかによってどの様な学校にすべきかが決まる。どの様な学校にすべきかが決まって、どの様な校舎にすべきかが決まる。校舎の建築は、失業対策でも、景気対策でもない。どの様な教育をすべきかが根本の問題であって、どんな校舎にすべきかは、教育に対するビジョンがあって成立する物である。どの様な教育をすべきかは、政治的問題である。その政治的判断の基にどの様な校舎にするかという経済的な判断が働くのである。校舎の建設予算があるから校舎を建てるというのは、政治的にも、経済的にも無意味であり、愚行である。
 校舎の建設は、失業対策であっても景気対策であってもならない。

 何のビジョンも理念もなく、景気浮揚のために、公共事業に税金をつぎ込むことは、犯罪に等しい行為である。
 道路にせよ、学校建築にせよ、鉄道網にせよ、通信網にせよ、ガス・水道・電気設備にせよどの様な国にするかがその根底になければならない。公共事業のために道路建設があるのではない。
 確かに、道路網が貧弱で交通が円滑でないならば道路建設は、それなりの効果を上げることができる。しかし、道路網がある程度整備された今日必要以上に道路に国費をつぎ込むのは、資源、税金の無駄遣いに過ぎない。そのあげくに財政を破綻させたら、それは、国家国民に対する犯罪である。学校やオペラハウスのような箱物ばかり造っても意味がない。やたら立派な役所を造っても役所の仕事が生産的なものでないのならば、経済の効率を逆に阻害する要因にすらなる。ハード面ばかり充実させるのではなく、ソフト面、即ち、行政サービスの効率化を計ることを重視すべきなのである。土建屋やゼネコンばかりに目を向けた行政は、結局は、権力志向で効率の悪い社会システムを生み出すことになる。
 何から何を護るかも解らないままに、国防費を費やすのは、危険な火遊びである。国防理念もなしに防衛費を無制限に拡大すべきではない。国防費こそ、非生産的支出の最たるものであり、財政を破綻させる最大の要因である。かといって国防の意義が失われているわけではない。問題は、国防思想なのである。敵は、敵国のみではない。災害や犯罪といった国民生活を脅かす物全てが、敵なのである。
 その根本の理念やビジョンを明らかにするのは、政治の仕事である。その上で経済的な判断を下すべきなのである。政治が政治としての機能を果たさなければ、その結果、経済は、破綻する。








                    


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