フローとストック

 経済は基本的に回転運動、循環運動である。経済は、循環運動によって領域を拡大し、構造を構築する。

 経済現象は、一種の流れを作っている。流れは、澱みを生み出す。小さな澱みも池となり、湖となり、水を蓄えるようになる。この水の流れと経済の流れはよく似ている。経済は、流れである。この流れには、物の流れと貨幣の流れがある。物の流れは、実体経済を形成し、貨幣の経済は、貨幣経済を形成する。そして、物、つまり、財の流れと貨幣の流れの方向は、常に、反対方向である。

 ストックには、この経済の流れを調整するための貯まり、貯蓄になる部分を指す場合と資産、財産、負債と言った流れの背後にあって隠されている基礎的部分を指して言う二つの場合がある。いずれの場合もフローとのバランスをとる事が経済に重要な働き、影響を及ぼす事になる。

 市場経済、貨幣経済では、財の価値は一旦換金化されることによって数値化される。その上で市場に流通し、需要と供給の均衡によって定められる。この操作は、必ず財の流れと逆方向の貨幣の流れを生み出す。
 財の流れと貨幣の流れには、非対称性があることを忘れてはならない。財と貨幣の流れの非対称性は、財と貨幣の性格の違いに起因している。

 貨幣価値の特徴の一つに保存性・記録性がある。この保存性・記録性が、経済のストックを生み出す。そして、現代社会の経済の特徴は、このストックにある。
 貨幣は、記録し、保存することができる。即ち、貨幣は、貯蔵することができるのである。しかも、今日では、数値として記録・登録するだけで貯蓄することすら可能なのである。それに対し、通常、財には、寿命がある。土地を除く財は、償却しなければならない。つまり、財は、基本的に減価する物なのである。
 また、貨幣価値は、相対的である。貨幣価値は、財の需要と供給、貨幣の流通する量によって決まる。つまり、貨幣価値は、市場の状況によって変動するのである。つまり、貨幣価値は、常に変動し、財は減価する。この減価と貨幣価値の変動が経済変動に様々な影響を与えている。

 貨幣価値は、市場価値は、実需、実体経済とは無縁なところで価値を形成、増殖することがある。それは、貨幣その物が価値を形成することが可能だからである。通常は、貨幣価値は、対称となる財に対して形成されるが、貨幣その物が一旦価値を持つと、貨幣自体が価値を増殖することがある。その様な現象は、貨幣経済を実体経済から乖離させる。

 つまり、貨幣のフローとストックが財のフローとストックとは違う流れを作り出すことがあるのである。
 経済現象は、フローとストックという形で現れる。

 現象として現れるフローとストックの形には、収縮と横這いと膨張がある。第一がストックもフローも横這い。第二に、ストックが収縮しフローが横這い。第三に、ストックが膨張し、フローが横這い。第四にストックが横這いでフローが収縮する。第五にストックが横這いでフローが膨張する。第六に、ストックもフローも収縮する。第七に、ストックが収縮してフローが膨張する。第八に、ストックが膨張してフローが収縮する。第九にストックもフローも膨張する。経済現象には、基本的にこの九つの形が考えられる。
 そして、膨張する局面をインフレーションと縮小する局面をデフレーションという。経済現象の適否を測る基準は、その規模と幅と速度と範囲である。

 何が、ストックを膨張させ。また、何がストックを収縮させ。何が、フローを膨張させ、何が、ストックを収縮させるのか。それが問題なのである。

 ストックやフローを膨張させたり、収縮させる要因は、第一に需要と供給のバランスである。第二に、通貨の量である。第三に、為替の変動である。第四に構造的問題である。第五に、市場心理である。

 構造の問題には、コスト構造と社会構造がある。

 バブルというのは、ストックの急速な膨張である。しかし、ストックの急速な膨張と言っても三つの種類がある。それは、第三のストックが膨張し、フローが横這いのケース。第八のストックが膨張し、フローが収縮するケース。そして、第九のストックもフローも膨張するケースである。
 基本的にバブルというのは、ストックのインフレーションを指している。

 ストックの急激な膨張は、資産価値を拡大させ、負債の負担を軽減させる。反面においてフローとストックの格差が拡大するとフローによってストックの需要と供給を賄うことができなくなる。たとえて言うと地価の上昇によって一般消費者が土地を購入することができなくなる。それは、やがて実需を阻害するようになり、実体経済に歪みが生じる。その歪みを是正する方向の力が働き、ストックを収縮させる方向に圧力がかかるようになる。ストックが収縮を始めるとストックの価値に下げ圧力が生じてストックインフレーションからストックデフレーションに反転する。これが平成バブルとその後の不況のメカニズムである。

 バブルの発生は、資産家の貧乏人という奇妙な現象を引き起こす。つまり、売ることのできない、売る意志のない土地を持っているものが、地価の高騰によって資産家にはなるが、現実の生活は、その維持費のために貧しくなる。又は、目減りするという現象である。この様な現象は、株長者にも見られる。含み益は、莫大だが、売ると株価が下がってしまうために売ることができない。結局、実際の生活は、借金によって賄っている。つまり、実体のない未実現利益に振り回されるのである。この様に膨張した資産に課税されるとこの様な資産家の貧乏人は、瞬く間に破産してしまう。よく税は、ある人からとればいいと言うが、資産価値が過剰に膨張した時は、国家権力による略奪に等しい行為になることがある。バブルの崩壊期にこの様な資産家の自殺が相次いだ。

 また、ストックは、投機を生む。投機を呼び込む。つまり、金が金を生み、金が金を増殖する。土地は、使用価値がなければ、本来それ以上の価値を生まない。しかし、一度、交換価値、貨幣価値に換算されると、それが投機の対象となって価値を生む。つまり、土地を担保として負債ができる。借りた金で、違う土地を買うことができる。つまり、使用価値、利用価値がないのに、価値だけが高騰する。この様な投機は、相場が上昇局面では、ストックを膨張させ、下げ局面では、ストックを収縮させる。投機によってストックは、フローに比べて実体以上に振れ幅が大きくなり、フローのサイクルとストックのサイクルに微妙なタイムラグ、時間的ズレを生じさせ、犬が尻尾に振られ状態になることがあるのである。

 ストックには、正のストックと負のストックがある。この正と負のストックは、本来均衡していなければならない。

 ストックとフローは、非対称な動きをすることがある。その非対称な動きが、資産と負債の関係を不安定なものにし、色々な問題を引き起こす。

 例えば、ストックデフレーションの際、正のストックは、収縮しても、負のストックは、収縮しない。ストックインフレーションの際は、逆に、正のストックは膨張しても、負のストックは、膨張しない。この非対称な動きが、バブルとその後の不況に決定的な作用を及ぼした。つまり、膨張した資産に合わせ負債を拡大し、資産が収縮すると負債だけが膨張したまま残された。しかも、その負債は、梃子の原理で水増しされたものだから、その金利負担だけでも、フローによる収益を賄いれなくなった。しかも、資産と負債とを相殺させるための動機に税制が一役かっていたというおまけ付きである。こうなると当事者にとってバブルとその後の不況による被害は不可抗力によって引き起こされた事になる。

 流動性という概念がある。企業会計上、流動性というのは、現金化、或いは、換金化を指して言う。つまり、市場経済の流れは、一つは、現金の流れを意味している。もう一つの流れは、物流である。この事は、市場経済は、現金、つまり、貨幣価値によって成り立っていることを意味している。財をいち早く換金化、現金化することが、市場経済で財を流通させるためには、重要なのである。流動化と換金化は、経済におけるフローとストックとの関係の間における市場と貨幣の役割を示している。つまり、ストックは、換金化されてはじめてフローに転換する。更に流動化され、市場に登録さることによって交換価値、市場価値を形成する権利を持つ。それまでは、ストックは、潜在的価値を有するに過ぎない。潜在的価値とは、未実現価値であり。つまり、仮想、仮定の価値である。

 会計の世界では、このフローとストックの関係は、損益と貸借として表される。

 収益と費用の概念の背後には、負債と資産・資本が隠されている。負債・資産・資本というのは、企業会計上の概念である。家計では、借金、財産、蓄えである。

 負債・資産・資本にせよ、借金、財産、蓄えにせよ、いずれにせよ、水面下にある価値、経済現象の表に現れない価値である。表に現れないが、常に、固定的費用、固定的収益として作用している。
 固定的費用と言っても現金に換算されていない場合が多い。例えば、費用としての地代・家賃は、費用として、表に現れるが、自分が所有する家に住んでいる場合で借金がなければ、その家が本来生みだしている価値は表に現れない。家事も同様である。家政婦を雇ったような場合を除いて家事労働は、換金されず、家事労働が生み出す価値は、結果的に表に現れてこない。しかし、家事にも価値がある。と言うよりも、家計において中核的な価値を絶えず生み出している。家事に休みはないのである。
 水面下の価値の中に現金化し得ない価値が潜んでいるという事は、現金主義では、この表に現れない価値を測ることができないことを意味する。

 資産は、負債によって価値を増幅させる事ができる。この効果が、ストックの動きをより複雑にし、資産と負債の非対称性を増幅し、ストックの価値を膨張させる。つまり、負債の中には、即時的、実体的裏付けのない資産が含まれているのである。

 フローは、循環運動、回転運動が基本である。循環運動、回転運動は、波動を派生させる。この波動を調節するのがストックである。

 バブルというのは、このストックの急速な膨張、そして、ストックの膨張がフローの拡大を伴わず、ストックとフローが乖離した状態を指して言う。

 ストックがフロー、実需、実体経済から乖離し、膨張し続けると、反転してストックの収縮が始まった時、ブラックホールと化すことがある。

 ストックには、ストックの市場価値の動きに対し正の働きをする資産と負の働きをする負債とがある。負債は、資産価値を拡大する機能を持つ。この資産と負債の働きは、梃子の働きをしてストックを増幅する。

 ストックの市場価値が拡大する時は、負債は、資産に対し、正の働きをし、ストックが収縮する時、負債は、資産に対し負の働きをする。

 ストックが拡大する時、資産が梃子の働きをして、相対的に負債は縮小し、逆にストックが収縮する時、負債は梃子の働きをして資産が縮小する。

 ストックが梃子のような働きをするのは、ストックの膨張収縮によってだけではない。ストックが生み出す価値は、負債によって増幅することができる。つまり、実際の価値よりも貨幣価値を膨らますことができる。そして、膨らました価値の中で流動化する必要のある部分だけを換金化することによって、手持ちの資産以上の資産の運用を可能にすることができるのである。つまり、ストックは、実態を数倍に見せかけることができるのである。それによって実体経済の規模よりも貨幣経済の規模が膨張、或いは縮小してしまうのである。

 経済が実体からかけ離れてしまうと、まともに仕事をする者が損をすることが頻繁に起こることになる。つまり、真面目に働いて財を作るよりも仮想的貨幣価値を膨張した方が手っ取り早く富を手に入れることができることになる。そうなると勤労意欲は失われ、モラルや社会秩序が損なわれる。

 ストックは、実需と関係なく変動する場合がある。それが投機である。
 ゴルフ会員権は、ゴルフ人口とは関係なく、つまり、ゴルフをプレーするしないに関係なく変動することがある。地価の動きは、着工件数や人口と相関関係があるとは限らない。つまり、投機的動きに左右されることがある。

 経済の目的は、財の公正な分配にある。財の公正な分配は、経済の循環運動によって保たれている。つまり、経済の循環運動を維持することにある。
 フローを重視すると良いながら、実際は、ストックを見て融資をする。問題は、ストックに依存した資金繰りをせざるを得ないと言う実状である。そうなると、企業は、実業よりも財テクを好んで行うようになる。そのために、社会に必要な財、必需品の生産に支障が生じるようになる。

 この様なストックによる経済の仮想化は、経済から実体を奪ってしまう。そして、実体のないマネーゲームによって経済本来の機能が損なわれることがある。経済が経済本来の機能を保つためには、市場の規律を保つ必要がある。

 フローとストックの乖離は、フローとストックの価値の非対称性を引き起こす。それは、ストックの評価に相対的な評価と絶対的な評価が混在していることに原因がある。そして、それが梃子の働きをしてストックの価値を増幅させる。

 含み損益(未実現損益)は、取得原価主義の下では表面に現れない。しかし、時価主義にすると架空損益によって現実の収益を計ることになる。

 不良債権は、ストック部分から派生する。フローの動きとストックの動きが乖離している場合は、それだけで不良債権は、発生する。故に、ストックが収縮している期間は不良債権は、派生し続ける。ストックが収縮している場合は、不良債権は、増加し続けるのである。

 更に、為替の変動は、フローとストックの非対称性を引き起こす。つまり、為替の変動に正の動きをする財と負の動きをする財と影響を受けない財とが混在するからである。そして、ストックの部分の多くは、国内的には、影響を受けないで、国外に対しては、正の動きをする。つまり、円高は、国内の財の価値を高め、国外の財の価値を低める。

 為替の変動に影響を受けないコストは、人件費、地代、家賃、金利、償却費である。なぜならば、これらは、為替に対し絶対額で動くからである。それに対し、輸入する資源、原材料や製品は、為替の変動方向に負の動きをし、輸出する資源、原材料、製品は、正の動きをする。
 為替の変動は、ストックの国内外の基準・水準の変更を意味する。

 貨幣経済下では、通貨は、経済圏を形成する。固定相場制か、変動相場制かは、統一国家か、連邦制か、戦国乱世かほどの違いを持っている。この事を理解せずに、為替問題を語ることはできない。変動相場制下の世界は、経済的な戦国乱世である。経済的であるが故に、軍と軍と直接ぶつかり合うような物理的な戦争ではなく、目に見えない所で間接的な戦いが日夜繰り広げられているのである。誰が味方で、誰が敵かを見極めないと、我が国は、経済的な植民地か、属国になってしまう。経済は、生活である。故に、生きていく上で、他国に実質的に服従せざる得ないのか、隷属するのか、それとも独立独歩を貫くのか、いずれにせよ、覚悟を決めなければならない。ただ言えることは、今日の世界の中で鎖国することは不可能だという事である。

 変動相場制というのは、国家経済を大海に放り出すようなものである。国家は、為替変動の上に浮く船のようなものである。絶え間なく、価値が揺らぎ、浮沈している。その揺れをいかに制御するのか、それが大切なのである。

 アメリカで稼いでも、稼いだ金をアメリカから持ち出せずに、使い切らなければならないとしたら、アメリカ人にならない限り、アメリカで働く意味がない。為替制度には、目に見えない国境がある。だから、気がつかないが、アメリカのドルが日本国内で使用できず。使用するにしても制約があり、かつ、ドルから円に換金できないとしたら、それは、為替の罠に嵌(はま)ることである。(「黒字亡国」三國陽夫著 文芸春秋社 文春新書)

 日本は、生産へ、アメリカは、消費に資金が向けられる。あなた作る人、僕食べる人というコマーシャルを差別だと喚き散らしたむきがあるが、アメリカと日本の関係はそれに近い。

 日本人は、汗水垂らして稼いだ金を、アメリカ人が遊ぶ為に、ある時払いの催促なし、即ち、無条件、低利、無期限で貸してやっているようなものである。

 また、規律なき消費は、浪費である。為替の問題は、消費が経済の活性化にとっていかに大事かを物語っている。ただ、現代経済では、消費の量の重要性は語られても、消費の質の重要性は語られていない。それが問題なのである。規律なき消費は、浪費である。

 アメリカの人間が消費することによって経済が活性化されるのならば、それは一つの在り方かも知れない。問題は、その消費の質である。欲望の赴くままにまかせて際限なく消費をすれば、自ずと限界にぶつかる。資源も時間も、能力も有限なのである。規律なき消費は、破滅に至る。

 戦前、最大の消費者は、軍隊であった。
 軍の消費は、建設的なものではなく、破壊的なものである。その上、民生用には適さない。軍の最大の消費地は、戦地である。軍が現実に消費を更新するためには、戦争が必要である。故に、軍事大国では、戦争は、景気を良くする。だからといって景気を良くするために戦争をして良いはずがない。また、軍備の無原則な拡大は、国家経済を疲弊させ、結局、国家を破滅に導くことになる。平和のための投資こそ真に求められるものであり。平和と安全のための代償が軍事費なのである。だからこそ、軍事費には規律が不可欠なのである。

 消費も価値である。
 企業会計では、仕入れ総務、人事、経理と言った消費部分にも価値を見出し、報酬を与えている。
 しかし、家計や財政は、消費が主なのに消費に価値を与えないから、家事労働が評価されないのである。あたかも、家事は無価値な労働のように思い込んでいる。家事は、ただ、無料なのである。つまり、奉仕と同じである。しかし、奉仕活動のような崇高な精神だけに頼って家事労働を扱えるであろうか。そこに、最初から無理がある。

 消費というのは、価値を費やすことである。減価する財よりも減価しない貨幣価値を尊ぶようになると財の価値は喪失する。つまり、財は、フローの過程で失われるべき価値なのである。そして、だからこそ価値がある。消費というのは、いわばマイナスの価値である。費用もマイナスの価値である。しかし、これらの価値は、新しい価値を生み出すために費やされる価値でもあるのである。ストックばかりを重視する経済は、経済本来の機能を忘れている。消費こそ、創造の過程にある価値なのである。つまり、価値は、消費されることに価値・意味があるのである。故に、交換価値ではなく、使用価値が重要なのである。交換価値と使用価値との機能を見極めるためにも、フローとストックの関係を解明する必要がある。

 企業会計と家計との違いは、企業会計が発生主義なのに対し、現在の家計は、現金主義だという点にある。つまり、家計は、収支を基礎に組み立てられている。現金主義だから、現金に換算できない労働が、評価されない。また、ストックの部分が表に現れてこないのである。

 しかし、家計こそ、その基礎にある財、つまり、財産が重要なのである。そして、その財産が、継続的価値を持つから、潜在的価値を持つから、生活の安定を図れるのである。家もなく、貯金もなく、財産もなければ、本当に豊かさを実感できるであろうか。日常的な生活費も必要だが、生活を維持するための費用も必要なのである。フローとストックその両面から家計は設計する必要がある。

 消費は、文化である。だから、消費には価値がある。経済の目的の本質は、労働と分配にある。生産性や効率にあるわけではない。生産性や効率のみを追求して、社会の分配システムを破壊し、失業者を増やしては元も子もない。問題は、どうしたいかである。どういう社会にしたいかである。どういう国にしたいかである。最近の成功談を聞いて違和感を感じるのは、本当に、この人は幸せなのだろうかという事である。つまり、成功という概念から幸せという概念が抜け落ちていることである。ただ、物質的豊かさを求め人間的な豊かさを失っている、金のためならば手段を選ばない。どんな破廉恥なことでもやる。法に違反していなければ、道徳なんて無視をする。友達も親も平気で裏切る。欲しい者が在れば他人の迷惑・気持ちなんて考えないで手に入れる。自分の得にならないことは何もしない。金のためならば親でも、子でも、モラルも、仲間も、国も売る。利己主義的な我利・我利・亡者にしか見えないからである。確かに、金持ちかも知れないが、尊敬もできなければ、社会のためには、有害でしかない。そんな成功者の話を聞いて、また、自分の子供に見習わせたいかと言えば、とんでもない。かつては、勤勉で正直で真面目に生きてくれと言っていたのに、人に対する思いやりを忘れるな、社会への責任を果たせと教えてきたのに、全く逆の生き方を称賛しなければならなくなる。人を欺け、友を裏切り、人情を忘れ、自分の欲望のためならば、国も友も犠牲にしろ、金のためならば恥を捨てろ、力のある者にはこびへつらえ、守銭奴になれと子供に教えるのか。

 経済の目的は、労働と分配にある。分配を担うのは、フローである。経済は、過程である。生産から消費に至る過程である。その過程で価値を生み出す。経済において大切なのは、結果ではなく過程である。経済は、貨幣や財が流れる過程で恵みをもたらすのである。その流れの過程で富や恵みを分かち与えるのである。流れの過程を無視しては、経済の在り方は語れない。そして、流れが澱み、堰き止められれば、経済は、破綻するのである。
 フローは、流れる道や流れ方が大切なのである。河川は、流れる道や流れ方によって土地を潤わせるか、荒廃させるかが決まるように、経済も流れる道や流れ方によって働きが違ってくる。ただ、効率よく海に注ぎ込めばいいと言うものではない。

 運輸、運送の合理化は、運送効率を高め、運送経路を短縮した。つまり、フローの経路を短くしたのである。しかし、それが分配効率を高めることに繋がったであろうか。

 現代の経済は、まるで周辺住民のことをよく考えずに排水効率のみを目的としている治水工事みたいなものだ。確かに、洪水はなくなるかも知れないが水利のことは何も考えていない。流通を効率化した結果、スーパーのような大規模小売店によって、街の商店街は廃れ、更に、そのスーパーが、過当競争の結果撤退していく。その結果、地方都市の雇用はなくなり、地方全体が荒廃してしまう。産業育成を優先したために、公害がひどくなり、周辺住民の日常生活が破壊される。全国的なチェーン店によって地方の市場が支配され、標準的なサービスしか受けられなくなる。地方の持つ特性や特性、文化が失われ、どこへ行っても画一的な文化しかなくなる。
 平均化、標準化した社会、その様な社会を国民は望んでいるのであろうか。日本は、民主主義、自由主義といいながら、独裁主義、全体主義への道を歩んでいるのではないだろうか。

 何かというと規制緩和、規制緩和。不都合なことがあると規制があるからだと規制の性にする。その癖、構造計算の偽造のような規制強化を必要とするような事が起こると黙殺する。
 また、構造改革、構造改革と声高に叫ぶ。しかし、一体構造とは、何か、どの様な構造にしたいのか、皆目、解らない。
 どの様な流れを作り、どの様なストックの状態を作ろうとしているのか。それが規制であり、構造である。

 経済の重要な機能の一つは、分配である。そして、それは、生産から消費にわたる循環運動によって成り立っている。経済は、流れである。そして、その流れが生み出す澱み、ストックから成り立っている。生産から消費にわたる循環運動、流れによって分配は実行される。その循環運動は、社会の隅々にまで行き渡るものでなければならない。つまり、ただ社会を効率よく流れればいいと言うわけではない。
 人体は、大動脈だけで成り立っているわけではない。経済も生産だけで成り立っているわけではない。経済は、生産から消費のサイクルによって成り立っている。そして、この流れは、消費から生産へとダイナミックな一つの循環運動を形成する。一つの循環運動に還元されなければ、経済は、停滞し、財に垂れ流し状態となる。
 故に、消費も経済である。江戸時代には、つまり、市場経済や貨幣経済が全てでなかった時代には、リサイクルの流れがうまく機能していた。市場経済となり、消費経済が切り捨てられてしまうと、使い捨て経済が始まる。そうなると社会の循環運動がうまく機能せず、廃棄物やゴミの処理に限界が生じる。それは、経済が一つの循環として成り立っていないからである。

 経済の仕組みがうまく機能しなければ、分配に偏りができ、細部が壊死してしまう。つまり、経済とは、分配構造その物と言っても過言ではない。中央に消費経済が偏るようになると全ての物資、貨幣が中央に集積されるようになる。そうなると、地方の経済が成り立たなくなる。本来、経済は、適度に、分散した方が効率的なのである。それを維持するためには、分権制度が前提となる。その意味では、現代経済は、経済本来の在り方から逸脱している。日本で言えば、何もかも、東京に集積していながら、東京には何もないと言う不可思議な現象を引き起こす。それは、経済も政治も本来の在り方を見失ったからである。

 我々はどんな社会、どんな世界を望んでいるのであろうか。先ず、その社会観、国家間が基礎になければならない。それは、国民一人一人の人生観に根ざすものである。尊敬もできない成功者を生み出し、潤いのない社会、殺伐として安心のできない世相を本当に我々は望んでいるのであろうか。

 大河は、人類に恵みをもたらしもするし、また、惨禍や荒廃ももたらす。経済は大河である。かつて、河川を汚し、住み難くしたのは人類である。同様に経済が人類に恵みをもたらすのか惨禍をもたらすのかは、人類が経済をどう見るかによって決まるのである。

 消費を楽しみゆとりがなければ、豊かにはなれない。その為には、何事も程々と言う事が大切である。しかし、現代の市場は、このほどほどという曖昧さを認めない。
 効率というのは、消費を罪悪視する考え方である。装飾や無駄をはぎ取れば、景観が良くなると言うのは、独善である。装飾や無駄のない建物には、人間の美意識がない。美とは、効率や生産性とは、違う見方である。しかし、その美意識が経済を活性化するのである。つまり、装飾や無駄が価値を生み出す部分もあるのである。経済とは、価値の創造過程なのである。価値を生み出す装置のようなものである。だからこそ、経済の仕組み、構造が大切なのである。










                    


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