経済の機能

E 収益と費用


 経済を捉える際、金銭的基準は、損益、即ち、収益と費用である。収益と費用という概念の他に、収入と支出という捉え方があるが、基本的に経済は、損益によって測るべきであり、収支によって測るべきではない。なぜならば、収入と支出は、経済的評価に直接結びつかないからである。需要と供給が生産と消費を見るための重要な資料となるように、収支は、損益を評価する上での補足的な資料、データとして活用すべきである。

 収益は、分配の源、原資である。収益の問題は、分配に行き着く。例えば、企業の収益は、労働者、取引業者、債権者、出資者、そして、国家に分配される。つまり、収益が解らないと分配ができない。ところが、財政においても家計においても収益が解らない。それが最大の問題なのである。

 財政赤字の問題が一般的に見て解りにくいのは、民間企業が収益を基にして判断しているのに、財政は、収支を基にして考えているからである。民間企業において白融資上赤字だと言われてもピンとこない。それに対し、損益上赤字だというと大変だとなる。損益上の赤字が何期も続けば銀行も融資をしてくれなくなり、最後には、資金的に行き詰まって倒産する。ここで注意をして欲しいのは、収益が悪いからと言って、即、倒産するわけではない。資金繰りがつかなくなって倒産するのである。しかし、資金繰りがつかないと言うのは、収支上赤字だからと言うわけではない。つまり、ここで問題になるのは、損益と収支と資金繰りとは違うと言う事である。
 市場経済・貨幣経済では、収支よりも損益に重きを置く。収支は、経済主体の短期的実態を反映しても、特に、長期的な見地からの実態を反映していないと見るのである。それが大原則である。ところが、財政と家計は、収支に基づいている。そこに、事業主体と財政、家計との間に認識上の隔たりが生じているのである。それが、財政問題を解りにくくしている。
 世間の言う財政赤字は、収支上の赤字をさす。民間企業で言う赤字というのは、損益上の赤字であり、会計上の赤字というのは、後者を指しているのである。

 財政上の赤字と会計上の赤字とは、概念が違う。財政上の赤字は、家計簿に近い。しかも、歳入と歳出を均衡させなければならないという発想によって損益の均衡を考えていない。つまり、会計学以前の状態にとどまっているのが、財政である。民営化というのは、公機関を近代会計上の感情に置き換えることを意味しているのであり、商業を蔑視してきた封建的思想から脱皮することを意味しているに過ぎない。ならば、財政も会計学的基準、規範に置き換えれば、民営化するのと同じ効果がある。少なくとも、現在財政は、収益上赤字なのかどうなのかが解る。

 また、財政赤字を問題とする時、財政赤字そのものを問題にするだけでは、解決できない。財政赤字の問題点は、財政の経済構造における機能から捉えるべきであり、その場合、国内における財政の均衡だけの問題では片付けられない。国内における均衡の問題以上に経常収支とのバランスの方が影響は大きい。故に、財政赤字は、経常収支との関係で考えなければならない。

 収益、利潤を罪悪視する傾向がある。その象徴は、江戸時代における士農工商という身分意識である。商売人は、一番低い身分を与えられた。なぜ、商売人が蔑まれたのか、それは、商売人が儲けを第一義に考えたからだ。そのうえ、その儲けを銭金で評価したからである。収益とは、将に、儲けである。銭金である。
 損得の基準と善悪の基準を同列に扱うことはできない。それは、損得と善悪とは、その基準となる次元が違うからである。損得と善悪との優劣を競うことの方が問題である。損得から出された結論と善悪から出された結論とが矛盾したときにこそ問題になるのであり、その時、何を優先すべきかは、最初から明らかである。善悪は、人間としての尊厳に関わる事であり、損得は、生きていく上で必要な事柄に関わる事だからである。
 価値基準とは、善悪という一次元的なものではなくなった。損益や真偽、美醜と言ったいくつかの基準が複合された多次元的な体系に進化してきたのである。

 収益と費用という概念は、経済を考えていく上で重要な概念である。特に、費用の構造と構造的変化は、経済変動を予測する上で、重大な示唆を含んでいる。だからこそ、製造業においては、原価計算が義務づけられ、管理会計として一部の会計分野まで確立した。それなのに、公共分野では、収益という概念そのものすらない。

 機能不全を起こしているのは、収益性を否定するか、罪悪視をしている分野である。例えば、国家財政や家計と言った収支のみを問題としている経済主体は、自分達のおかれている経済的状況を性格に掌握しきれないでいる。それが問題なのである。その為に、自己破産者や禁治産者が増大し、社会問題化しているのである。

 官僚機構のように組織が巨大化すると部分の自律的機能が失われていく。自律的な機能を持たせるためには、組織単位あたりの収益性、経済性を明らかにする必要がある。経済力とは、生命力だからである。単位組織あたりの収益性・経済性が明らかにならないと経済的自律ができない。

 収益という概念がないと人は、自己の労働の評価ができない。なぜならば、労働の成果は、収益によって測られるからである。

 ただ、今日の経済は、収益ばかりを重視しているわけではない。キャッシュフロー、即ち、収支も重要視する傾向にある。しかし、収支を重視するといっても収益を蔑ろにしているわけではない。収益の持つ意味を理解するために、補足的な資料として収支を重視しているのである。企業会計において、主となるのは、以前として収益である。なぜならば、収益こそ、分配上の基礎となるものだからである。

 現代経済では、収益と費用の他に、収入と支出という要素が重視されるようになってきた。それは、損益だけでは、資金繰り、資金の動きが理解できないからである。つまり、損益と収支、貸借の三つを会わせて経済主体の経済状態を明らかにするのである。つまり、経済主体全般に対し、この三つの要素の動きを明らかにすることが、経済状況を解明するためには必要なのである。

 基本的に企業は、資金で回っている。と言うよりも、資金力によって各要素は結びつけられ、働き、構築され、成立している。収益によって成立しているわけではない。資金が途絶えると、企業は、解体する。

 家族は、その点が企業と違う。資金が途絶えても家族は家族である。そこに経済の本質がある。経済の本来の在り方は、共同体の在り方によって決まるべきなのである。金の切れ目が縁の切れ目では成り立たない。共同体があって経済があるのである。経済があって共同体があるわけではない。倒産すれば、会社はなくなるが、破産しても家族は家族なのである。この点を忘れてはならない。本来、共同体とは経済に先立つものでなければならない。

 破産しても家族は、家族である。しかし、そうはいっても破産すれば、経済は成り立たなくなる。健全な家族を維持するためには、破産してはおしまいである。だから、収支や収益を問題とするのである。

 収益と費用の概念の背後には、負債と資産・資本が隠されている。負債・資産・資本というのは、企業会計上の概念である。家計では、借金、財産、蓄えである。企業会計と家計との違いは、企業会計が発生主義なのに対し、現在の家計は、現金主義だという点にある。つまり、家計は、収支を基礎に組み立てられている。現金主義だから、現金に換算できない労働が、評価されない。

 負債・資産・資本にせよ、借金、財産、蓄えにせよ、いずれにせよ、水面下にある価値、経済現象の表に現れない価値である。表に現れないが、常に、固定的費用、固定的収益として作用している。固定的費用と言っても現金に換算されていない場合が多い。例えば、費用としての地代・家賃は、費用として、表に現れるが、自分が所有する家に住んでいる場合で借金がなければ、その家が本来生みだしている価値は表に現れない。家事も同様である。家政婦を雇ったような場合を除いて家事労働は、換金されず、家事労働が生み出す価値は、結果的に表に現れてこない。しかし、家事にも価値がある。と言うよりも、家計において中核的な価値を絶えず生み出している。家事に休みはないのである。
 水面下の価値の中に現金化し得ない価値が潜んでいるという事は、現金主義では、この表に現れない価値を測ることができないことを意味する。

 家計においても収益という概念は、重要になりつつある。それは、ローンや割賦販売、消費者金融と言った金融技術の発達に伴い家計に占める金融費用が増大しているからである。この様な金融費用は、水面下の費用、固定的費用である。つまり、非可処分所得である。生活に自由に使える所得は、つまり、自分達の意志で処理できる所得は、可処分所得である。実際に生活していくうえでは、可処分所得と生活費とのバランスが重要な課題なのである。この可処分所得が収支上だけで判断するのが難しくなってきた。つまり、長期的に見た損益を理解しないと固定的費用の増加を抑制するのが難しくなってきたのである。

 可処分所得というのは、収支上の概念であり、収入から固定的費用を差し引いた部分を指して言う。生活をしていく上ではこの可処分所得が重要になってくる。故に、損益だけでは生活はできない。これは、企業会計にも当てはまる。故に、家計部分では、損益が重視されるようになり、企業会計においては、収支、キャッシュフローが重要となってきたのである。

 現在、財政破綻というのは、収支上赤字だと言う事である。収益上、破産しているかどうかは、正直言って解らない。ただ、資金繰りはついているのである。だから、財政は、破綻したわけではない。懸念されているのは、資金繰りがつかなくなったらどうなるかである。それは、企業や家計が信用をなくして借金ができなくなるのと同じ事である。しかし、収益上赤字なのかどうなのかも解らない。それでは、我が国の経済状態が実際はどうなのか判断のしようがない。要するに、実態も解らないまま、大変だ、大変だと騒いでいるのである。大変だ、大変だと騒いでいることの方が大変に思えてくる。しかも、それで費用を削減しなければならないといっているのである。費用の内容も解らないままである。まあ、何の目的で、どの様な効果があるのかも解らないまま、費用を費やしているのであるから、削減するかどうか検討する以前の問題でもあるように思える。とにかく、収益と費用を明らかにし、費用対効果を検証することの方が先決である。

 収益と費用は、最終的に個人の所得構造と消費構造に収斂する。個人の所得と消費は、家計に反映される。

 現代経済は、成長を前提としている。その前提は、個人の所得構造に起因している。それがインフレという経済現象を引き起こしているのである。つまり、物価の上昇率と所得の上昇率は、相乗的効果をもたらしているのである。所得にも消費にも固定的部分と可変的部分とを構造的に持っている。この構造が、物価水準の上昇の誘引となるのである。
 労働とその成果、報酬が常に、直接的に対等な関係にあるならば、物価水準は、一定の水準、需要と供給が均衡した水準で安定するはずである。
 つまり、労働と報酬とは、一対一に繋がっているのではなく、その間にいろいろな要素が加味されて構造的に反映されているのである。問題は、この構造にある。この構造の傾向が、経済の動きを規制している。故に、経済を制御するためには、所得の構造と消費の構造を解明し、その働きを明らかにする必要がある。

 所得に固定的部分と変動的部分が生じるのは、労働者の意欲と共同体への帰属意識によってである。つまり、所得によって生計を立てなければならない部分と労働意欲によって生産性を高めなければならない部分である。これらは、両立させるためには、個人の所得は、年々ある程度の上昇を見込んでおかなければならない。それが、コスト、費用構造の下支えになっているのである。この様な人件費の下方硬直は、経済を下方硬直的な構造にする。つまり、現代経済は、この下方硬直的な構造を維持するためには、ある程度のイ
ンフレを前提とせざるを得ないのである。

 江戸時代では、使用人、つまり、労働者は、住み込みで報酬は現物支給だった。つまり、生活費だけである。そして、一定の年限、年季が明けるといくばくかの報酬をもらうか、暖簾を分けてもらって独立した。このケースだと、ある一定の水準で成長を止めることができる。しかも、同業者組合のようなもので取引の量や価格を規制できれば、収益を一定に保つことができる。この場合は、インフレを抑制できる。ただ、個人の生活はある程度犠牲にされ、一定の業者に利益は独占されるようになる。

 これらは、経済構造の在り方で経済現象の在り方が変わってくることを証明している。基本的に、経済を構成する個々の要素の構造を解明することが重要なのである。その上で、どの様な、国家、社会を構築するのかの青写真、構想が大切なのである。

 ただこれだけは、忘れてはならない。国民国家における経済の基礎は、国民生活なのであって、その他の要因で国民生活が破綻したら、本末転倒である。丁稚番頭といった国民生活を最初から考慮しないような制度も問題だが、レイオフ、合理化でサラリーマンの生活が絶えず脅かされているのも問題なのである。






                    


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