経済の現状

日本経済の現状について

終わりに



1985年8月12日日本航空123便は御巣鷹山の尾根に墜落した。 乗員乗客524名中520名の方がなくなられる大惨事である。
日航機のパイロットは、最後の最後まで何が起こったのか解らないまま必死に機体を立て直そうとしていたのである。
経済政策の執行者も同じような状況に置かれているようなものである。否もっと悲惨な状況なのかも知れない。
経済を動かす仕組みも解らないで、何とか景気を軟着陸させようとして足掻いているのだから・・・・。

人は、パンの為に生きているわけではない。お金は人間が創り出し物であって神が与えた物ではない。お金は生きる為に必要ではあるが、お金の為に生きているわけではない。その事を忘れたら、人間はお金の奴隷になってしまう。

人生いかに生きるべきかを欠いた経済学は、経済学とはいえない。
なぜならば、経済学は、生きるための活動だからである。

経済学というとお金の話とか、生産効率の話とか、財政や金融などの話だと思っているのが一般である。しかし、それは上面の事にすぎない。財政や金融は、手段であり、生産性とか、効率は、指針に過ぎない。経済の本質はいかに生きるかにある。

労働を苦役と捕らえるか、自己実現として捕らえるかによってでも経済に対する体制も施策にも違いが生じる。
労働を苦役だとする経済学は、とにかく、労働の軽減ばかりを考える。休日を増やし、労働時間を減らし、とにかく働く事を罪悪であるかのように考える。彼らにとって労働というのは、強制であり、隷属である。労働には自己実現の欠片もない。
むろん、非人道的な労働、苦役は制限されてしかるべきである。しかし、労働条件が改善され、技術革新が進んだ今日、労働も質的に変化してきた。単純に労働は苦役だとしてしまう思想では、経済の本質を理解する事はできはない。
労働は自己実現の手段でもあるのである。
たとえば、教育を単純な労働苦役だととらえている者に教えられたら生徒はたまたものではない。
教育は質が大切な仕事なのである。
時代とともに労働に対する認識も変えるべきなのである。労働に大切なのは密度であり、密度は質と量からなるのである。経済を左右するのは価値観である。

世の中は、できる人間、有能な人間だけでできているわけではない。無能な人間、平凡な人間、やりたくてもできない人間の方が多いのである。無能だからと言って、平凡だからと言って彼らを切り捨てていったら経済は成り立たないのである。なぜなら経済は生きる為の活動であり、経済学は、人を生かす為の学問だからである。
では、全ての人間を一律に扱えばいいという考えは、乱暴すぎる。人は、皆、性格も、能力も、体型も、環境も違う事が前提なのである。それを一律にしてしまったら成長は止まるし、人間としての存在そのものをも否定する事になる。
人それぞれ生きる場所を与える事が経済なのである。

経済の芯に何があるかが問題なのである。
しかし、いくら外面を取り繕ったって内心の安寧は得られるはずがない。
経済で最も重視されるべきなのは生きる事なのである。
大切なのは、自分の世界の芯にあるもの。
それを現実世界としっかりつなぎ止めているのが神の存在である。

その点で言えば、今日の経済の一番の問題は、誰のために、何のために生きているのかという点をら曖昧としている事である。
人のために生きる。特に愛する人のために生きる。そのために働く事の喜びを伝え、教えられない事が現在の経済学の最大の欠陥である。
だから、現在の経済学、自分のために自分が生きるための学問としてしか成立しえないのである。しかし、自分の生を目的化しても死という現実の前にすべてが虚しくなる。

この世の全て物は借り物に過ぎない。この自分の肉体だって神からの借り物である。
死んだら全ての物は神に返さなければならない。
それが運命なのである。
お金は借金を元としている。お金の本質は借り物である。
その点を忘れると道を誤る。
借りた金を遊びに費やせば残るのは、借金だけである。借りた金以上の働きをすれば幾ばくかのお金が手元に残る。
自由になるお金は、汗水垂らして働いた成果なのであり、否、働きによる成果でなければならないのである。

働かざる者食うべからず。人は生かされるのではなく。生きるのである。

愛する人、それは家族を構成する。
親と子と伴侶、それぞれの役割・位置づけが経済の源となる。
親と子、伴侶の関係は、経済関係の下地を作る。

家族のあり方が経済の根底を形作っていた。
現代の老後の問題は、年金、介護制度、設備、施設の問題、すなわち、お金の問題である。しかし、かつては、家族や地域コミュニティ、道徳の問題であった。だから、親孝行といった徳目が重視され老後の事は、家族や地域コミュニティ、道徳の問題だったからこそ、経済を中心、基盤として家族や地域社会が形成され、道徳が生まれたのである。
現代のように経済をお金の問題としてしか認識できなくなれば、結果的に、家族は崩壊し、地域の結びつきは薄くなり、道徳は廃れる。それは一見経済の問題とは無縁に見えるが、実際は、経済の影響が強く働いているのである。

経済の問題の核心は、金や制度や設備の問題ではなくて、心の問題なのである。
最後は金で片付く問題ではない。

経済は、一人ひとりの人生が集積したものなのである。
生まれて、学び、結婚をし、家を建て、子を産み育て、病み、老い、死んでいく。その一つ一つが経済を構成している。
かつては大家族主義であり、今は核家族主義である。自ずと経済も違ってくる。

人に恋をして、結婚をし子供を産み家族を形成していく。それこそが経済の原点なのである。
だからこそ数字の裏に隠された人間の生き様、人生観、恋愛観、価値観こそが経済学の究極的な姿なのである。
経済学とは生々しい学問なのである。

愛する国は国家を形成する。世の為、人のためにこそ経済はある。
国家は俗世間の外枠を作る。
国家のあり方は、国民生活を直撃する。富国強兵を国是とすれば、軍事優先で国民生活は犠牲とならなければならなくなる。しかし、国防を蔑ろにすれば、国家の独立は危うくなり、経済は他国の隷属化に入る。

経済とは、経世済民。利己主義は、自分すら救えない。

戦前は、軍国主義によって、戦後は平和主義によって経済の土台は成り立っていた。それ故に、戦前と戦後の経済の有り様も、国民生活の有り様もまったく違っていた。

最も究極的な事は、愛する神である。
宗教のあり方は経済の枠組みを規制していた。
それは人生を構成するからであり、自分の存在を普遍的な事に昇華するからである。
古来、イスラム教もキリスト教も仏教も経済の根本にあって経済と切り離せない関係にある。

宗教が経済に及ぼす影響は、婚姻生活から、冠婚葬祭、服装から食事のあり方、金利の是非等大きい。なぜならば、宗教は、生活全般を支配しているからである。

変易、不易、簡易。世の中には、変化する事もあれば変化しない事もある。そして、経済にも変わりゆくものもあれば変わらないものもある。何が変わって何が変わらないのか。それを見極める事が経済を見通す上での鍵を握っている。

変わらないのは、人間の生きる為の営みである。衣食住は変わらない。変わるのは、何を食べ。何を着て。どこに住むかである。その関係は単純である。お金に囚われていたら、物事の簡易な関係が見えなくなる。生病老死は変わらない。変わるのは、生病老死に対する受け止め方である。

経済の話というのは、お金儲けの話ではない。経済というのは生きる為の活動である。生きる物全てに経済はある。人の経済は人の数ほどある。
お金が正常に機能しなくなったら、お金の仕組みを捨てればいいのである。経済は生きる為の活動である。だからお金が儲からない仕事もある。経済には、環境と資源の保護、防災、治安、国防、教育、研究といった本来的に金儲けとは無縁な仕事もある。金儲けにはならないけれど、生きる為には不可欠な仕事はいくらでもある。金が儲からないからと言って卑しい仕事というわけではない。俗にお金が儲からないけれどやらなければならない仕事を金食い虫と言って蔑む人がいる。お金が儲からなくても社会にとって不可欠な仕事に就いている人達は、崇高な精神に基づいている場合が多い。金持ちが、お金儲けにならない仕事に従事する人々をお金も儲からないのに、馬鹿な連中と蔑む資格はない。

現代経済学の間違いは、経済の根本を人間の利己心においている事である。経済にとって最も重要なのは理性である。利己心に経済を委ねてしまえば、経済は制御不能な状態に陥る。なぜならば、経済を動かす原動力は、人間の欲望だからである。欲望を人間の利己心の支配下に置けば、結果は火を見るより明らかである。
人間の欲は、経済の原動力になる。しかし、それを抑える事を知らなければ暴走する。経済は、理性によってのみ制御できる。理性を根本にできない経済は、それ自体危ういのである。欲望が昂じると理性を保てなくなる。理性を保てるような仕組みがあって欲望を活用する事が出来るのである。

現代の経済学は、人に対する認識が欠けている。だから金が全てとなるのである。
なぜ、所得に差が生じるのか。それは第一に、人が置かれている状況が違うからである。寒冷地で生活する人と熱帯で生活する人では、必要とする物が違うのである。必然的に物価をも違ってくる。第二に、人は皆、価値観が違うのである。価値観の差は、その人の嗜好の差にもなる。第三に、立場の違いである。大体、労働年齢というのは限られている。第四に、個体差がある。人は、一人一人、能力や体型に違いがある。一律に同一の服を着せるわけには行かない。第五に、家族構成が違うと言う事である。第五に、所有資産の差である。第六に、人は人だと言う事である。人間は、ただ生きているわけではなく。生きる意義、自己実現を求めている。それは働きに反映し、働きは報償に反映される事によって人は自分を位置づける事が可能となる。
労働に価値が見いだせないような経済は、堕落している。

又、利益を目的とするから理性を働かす事ができなくなる。利益さえ上げれば、善良な経営者と見なされるからである。
経営の目的は利益ではなく。企業の社会に対する経済的働き出にある。だからこそ、場合によっては損失を出しても許容されるのである。
利益は、経営指標の一つである。利益は、経営目的にも、経済の目的にもならない。
会計の目的は、利益にあるわけではない。経営活動を経営目的に沿って監視(モニター)する為にある。利益を会計や経営の目的とすると経済本来の目的を見失う事になる。

会計の目的は、利益にあるわけではない。経営活動を経営目的に沿って監視(モニター)する為にある。利益を会計や経営の目的とすると経済本来の目的を見失う事になる。

所得とは何か。第一に、所得とは収入である。収入とは、生活を営む為の費用を賄う原資である。
第二に、所得は、支出の範囲を特定する。基本的に、支出は、収入の範囲内で行われる。収入の主たる部分を占めているのは、所得である。所得は、固定的一定的な部分と、変動的、不確定な部分からなる。固定的、確定的な部分が占める部分が大きくければ大きいほど、生活は安定し、計画的になる。反面、働きに対する評価が硬直的となる。
第三に、所得は、報酬である。何らかの対価である。つまり、所得は何らかの働きに対する見返りである。何らかの働きの代表的なものが労働と資本である。いずれも生産手段である。
第四に、所得は貨幣によって支払われる。貨幣は、市場で資源を調達する権利である。調達する権利とは、欲する財と交換する権利を言う。
第五に、所得は、分配の原資であり、相対的なものである。所得は、個々の経済主体と全体とを結びつける手段である。
所得の重要な働きの一つが個人と経済社会全体とを関連づけることにある。財政はこの働きが稀薄である為に、部分を構成する経済主体と経済全体との関係が社会の構成員全員に浸透しにくいのである。

日本経済も時代とともに変化してきた。高度成長から低成長へ、重厚長大から軽薄短小へ、拡大均衡から縮小均衡へ、競争から格闘技へ、間接金融から直接金融へ、外部資金調達から内部資金調達へ、平均から多様へと市場環境が変わってきたのである。
変わらなかったのは、大量生産、薄利多売である。それが問題なのである。本来、市場が成熟化するにつれて大量生産から少品種少量生産へと変化していかなければ、品質を低下させながら、余剰、過剰生み出していく事になる。
日本の企業は、高度成長時代、ひたすら拡大均衡路線に走ってきた。それがバブル崩壊後は、一転して縮小均衡である。拡大均衡時代は、男は度胸とばかりひたすら前に走り続ければよかった。つまり、競争の時代だったのである。どれだけ早く走れるかの問題であり、すべての会社に利益が行き渡る事が可能だった。バブルが崩壊し、所得が二十年近く頭打ちになるとただ前に走ればいいというのではなく、競争関係にある企業から顧客を奪い取らなければ成長どころか自社の存続も危うくなる。つまり格闘技型の経営へと変質してきたのである。その結果、勝者と敗者が明確になり、業界の再編、企業の合併、統合が促されてきたのである。
ニクソンショックや二度のオイルショックで高度成長に陰りが見えてきた時、やれ内需拡大だ、多角化だといわれ、プラザ合意後の円高不況になると財テクもて囃され、本業そっちのけで投棄に多くの企業が奔走し、その結果がバブル経済を生み出した。バブルが崩壊すると本業回帰が叫ばれ、銀行は掌を返したように貸し渋り、貸し剥がしと資金の回収に走った。地価の下落は、投資を膠着させ、その結果、企業は資金を内部調達によるようになり、金融機関は、国債に頼るようになる。その結果、リストラ・リストラと企業が合理化に努めるようになり会社と社員との関係も希薄となる。産業の空洞化も深刻となってきた。
時代の変化とともに経営や産業のあり方も変化しなければならない。しかし、経営も産業も時代を先取りし、あるいは、時代を指導する形で変革してきたかというと甚だ心許ない。
時代を先導するどころか、時代の変化に翻弄され、場当たり的な対応をしてきたとしかいいようがない。その結果、財政の破綻や失われた十年、二十年という長期低迷を招いている。

実物経済には限界がある。それは、一つは物理的限界である。生産にも消費にも限界がある。成長にも限界がある。市場が成熟すると市場は飽和状態となる。市場が飽和状態になれば、収益は横ばい、あるいは下降する。
市場が飽和状態になれば必然的に過剰設備、過剰供給になる。過剰供給は、過当競争の原因となる。
過剰設備は、過剰負債の原因となる。また、余剰労働人口が生じる。

高度成長が終焉し、市場が成熟してきたら、その時代の変化に適合した経営や政策をとる必要がある。その転換が円滑にいかない事が、今日の経済の病巣なのである。
多くの経営者にも人々も過去の幻想から抜けきれないでいる。成長には限界があるのであり、限界があるから経済は安定し、成熟するのである。
実物市場の限界を前提とできなければ、結局、実質経済と名目経済は乖離し、会計上生存する以外に生き残る事ができない時代になってしまう。実質経済では現金収支を合わせるのが難しくなる。故に、会計的に帳尻を合わせるしかなくなってしまう。

実物経済が限界にさしかかっている今日、実物経済の限界に根ざした金融政策がとられなければ、名目的経済は、制御できなくなり暴走する。なぜならば、貨幣価値は上方に開いているからである。

時代の変化に伴う市場の変化は、経営の現場にいた人間にとっては、実感として感じられる。
バブル崩壊後は、いくらがんばっても収益は伸びず、頭打ち状態に陥る。かつてのように絶対に合理化、リストラはしないなどといえない環境になってきた。反面、若年層の企業離れも顕著となり、企業は一生勤める対象ではなくなりつつある。自分に考えや生き方に合わなければ転職すればいい。何が何でもなんて思い詰めるのはばからしい。何でも適当に適当に生きていければいいのである。がむしゃらに出世を求める方が格好悪い。若者の考え方も大きく変わったのである。
プラザ合意によって急速に円高が進んでいった時、財テクでお金を儲けられない経営者は無能だと罵られた。それが今日ではどうであろう。バブル経済時に投機に走った経営者は、まるで犯罪者の様に扱われている。ニクソンショック、オイルショック時には、本業だけでは儲からないと多角化が進んだ。ところが今日、多角化がうまくいかずに、不採算事業の整理が推奨されている。企業は人材だと年功序列、終身雇用が売り物だった企業の多くが正規社員を減らし、非正規社員に頼るようになってきた。
多くの経営者が時代の変遷とともに淘汰されてきたのである。経営には、普遍的な原則が通用しなくなってしまった。
労働者や若者の気質も企業内組合で団結団結と叫んでいたのが、今組合運動は下火になり、企業や仕事に対する帰属意識や熱意も失われつつある。仕事は、もはや生活のためにするのではなく、ただ金儲けでしかなくなりつつある。定職を持たず、何らかの技術や経験を積むより手っ取り早くお金を儲けようとする。
価値観が変わったといえばそれまでだが、経済の本質も変わりつつあるという点を忘れてはならない。

数値の動きは、キャッシュフローに良く現れる。キャッシュフローを抜きに経済政策は語られるべきではない。全産業、産業毎、規模別、金融機関のキャッシュフローを見ると数値が以下に正直かがよくわかる。
日本経済が現在置かれている状況は、ニクソンショックが根本にあると考えられる。ニクソンショックによって世界経済は、新たな段階に入り、そして、リーマンショックは、ニクソンショックによって構築された新たな秩序が根本から覆されたと言える。

通貨が市場に出回らないのは、蛇口を閉めておいて水が出ないと怒っているようなもので、又、一方で蛇口を開けたら、あっけぱなしで閉めら方が解らなくなって垂れ流し続けるのは無責任の極みである。これでは、水量を調節することはできなくなるのも無理ない事である。

ゼロ和という概念が、現代経済を考える上で重要な鍵を握っている。但し、ゼロ和と言っても何に対してゼロ和となるのかが解らないと、ゼロ和の働きを理解する事はできない。

私は、経済というのは本来、都市計画の延長線上にあると考えている。

経済と国防問題は、切っても切れない関係にある。と言うよりも経済問題は国防そのものだと言って過言でない。経済が破綻すれば戦争になる。
国防という意味は、何も外敵にのみ使われるものではない。災害や事故、環境破壊等も国家を危うくするという意味において国防問題だと言える。

神は、常に人に問うているのである。何を求めているのかを・・・。
人は争いを求めているのか。平和を求めているのか。平和を求めているのならば、争いを避ける為に全力を尽くすべきなのである。
もし仮にこの世から争いが絶えないとしたら、それは神の意志ではない。争いを求めているのは人である。

人は、信仰によってでしか自らの限界を超える事はできない。
神を侮る者は、自らの限界と傲慢によって滅びるのである。




       

このホームページはリンク・フリーです
ページの著作権は全て制作者の小谷野敬一郎に属しますので、一切の無断転載を禁じます。
The Copyright of these webpages including all the tables, figures and pictures belongs the author, Keiichirou Koyano.Don't reproduce any copyright withiout permission of the author.Thanks.

Copyright(C) 2015.6.25 Keiichirou Koyano