また、八月十五日、終戦の日が近づいてきた。
 戦後の知識人やメディアの人間は、反戦を唱えてさえいれば、免罪符になると思っているらしい。
 しかし、戦争の悲惨さを唱えていれば、戦争がなくなるというのは、あまりに短絡的、無責任な発想であろう。少なくとも、言論に、責任ある立場の人間が取るべき態度ではない。
 戦争が終わると戦争の真の理由、原因は忘れられ、勝敗、結果だけが残る。勝てば官軍。勝った者の論理がまかり通る。
 しかし、勝者の言い分だけが通っていたら、真の平和は築けない。平和を実現するためにも、戦争の真の原因を知る必要がある。

 戦争は、いけない事だと言っているだけでは、戦争はなくならない。なぜ、戦いは起こるのか。人間だけが争いを起こすわけではない。動物は、生きる為に戦っているのである。その事実から目を背けてしまえば戦争の持つ本質は見抜けない。

 特に、暴力革命を是としている暴力主義者に反戦、非暴力を言われると政治的いかがわしさを感じて、私は、鼻白む想いがする。本当に戦争をなくそうとしているのか。それとも別の意図があるのか。暴力団が暴力反対を言っているようなものである。

 戦争とは何か。単純に、戦争は、悲惨だからといって反対をしても戦争はなくならない。戦争の背後にある現実を直視しなければならない。戦争の背景には、政治や経済の問題が隠されている。戦争の本質は、生存の問題なのである。戦わなければ、人間として生きられないから戦うのである。なおさら、豊かな国の人間が、戦争は、悲惨だから辞めようと言ったところで説得力はない。戦わなければならない者に、戦う必要がない者が、自分の言い分、都合を押し付けているに過ぎないからである。戦争は、頭でっかちな知識人や楽天家が考えるほど単純ではない。戦争は、起こるべき原因があってはじめて起きる。意味もなく起こるわけではない。また、独裁者や権力者の妄想だけで起こるわけでもない。

 戦争の悲惨さは、結果に過ぎない。戦争の原因、動機を知らなければ戦争をなくすことも防ぐこともできない。その根本は、国を、家族を守ると言う事である。

 金持ち喧嘩せずという言葉もある。富める者は、何かと争い事を避けるものである。しかし、だからといって富める国は平和を求めると思い込むのは、愚かである。富める国は、富める国が故に、自国の権益を守るために、好戦的にもなる。

 貧困が、戦争の原因だと決めつけるのも、富める者の奢(おご)りである。それは、貧者は、争いを好むと言っているようなものである。偏見である。この様な言い方をする者の多くが、自分は、人道主義的な文化人だと思い込んでいる。そう言う連中に限って貧者を蔑視している。貧困よりももっともっと根深い経済的問題の方が、平和にとって厄介な問題である。

 人間だけでなく、この世の生物は、限られた資源を奪い合ってきたのである。資源は、無尽蔵にあるわけではない。多くの観念的平和論者は、意図的にか、資源が有限であることを考慮してこなかった。それでは、食べ物がなくなればすぐに争いが始まる。古来、水の奪い合いは、重大な戦争原因の一つである。水争いは、現代でも続いている。水がなくなっただけでも戦争は起こるのである。戦争は、戦争という現象面ばかりを見ても解らない。
 我々は、産業革命ばかりに目をとらわれて、その同時期に起こって農業革命・エネルギー革命の存在を忘れている。食糧の増産、化石燃料のエネルギーの転化があったからこそ、人間は、人口の急激な増加に対応できたのだ。その食糧の増産、エネルギー資源にも限界のあることを忘れてはならない。その限界点に達した時、人類は、食料やエネルギーの争奪戦を始めることになる。現実に経済封鎖を受けた国は、飢餓にあえいでいるのである。
 大東亜戦争に日本が突入する原因の一つは、経済封鎖、つまり、諸外国が物資を売ってくれなくなったことにある。自給率の低い日本は、すぐに破滅する事が解りきっていたのである。それでなければ、なぜ、日本は、無謀とも思える戦争に突入せざるをえなかったのか。それを軍や当時の政府の首脳の責任にのみ帰すのは、あまりに短絡的である。現に、戦争直前には、石油備蓄が底をついていた。
 2005年現在でも、我が国の食糧の自給率は、40%程度に過ぎない。エネルギーにいたっては、4%程度の自給率しかない。原子力を含めるとやっと20%である。もし、食料やエネルギーの輸入が止まれば、日本人は、飢えて死ぬか、凍えて死ねしかないのである。しかも、資源が枯渇するのは時間の問題だとしたら。その現実を忘れて平和を語るのは愚かである。
 しかも、そのエネルギーの多くを政情不安の国々から輸入しなければならないのが実状である。

 戦争は悲惨だけれど、飢えや寒さも悲惨さにおいて変わりはない。むしろ、ずっと悲惨なくらいである。戦争の悲惨さばかりを強調するのは、一方的すぎる。

 多くの種が生きられないが為に、絶滅の危機に瀕しているのである。その原因は、彼等の居住環境が、開発という人間の大義名分による侵略によって破壊されている事であり、また、グルメやファッションを動機とした乱獲にある事を忘れてはならない。

 人は、高邁な理由を付けてつまらない事をする。つまるところ、戦争の原因も多くの貴重な種が絶滅させられている原因と変わらないのである。もし、絶滅させられていく動物達が、抵抗を試みたならば、それは、人間との戦争に発展する。しかし、そこまで動物達を追いやっている者達は、自分達が原因だという自覚があるであろうか。誰にも、迷惑もかけず自分達の自由にしているに過ぎないと思い込んでいるのではないだろうか。

 愛する妻や子が、また、親兄弟が、危機に瀕し飢えて死のうとしている時、自分だけが安全な所へ逃げ出したり、安全な所から傍観することができるであろうか。戦争は、エゴだけで引き起こされるわけではない。むしろ、危機意識が高く、犠牲的な精神の高い者によって引き起こされる場合の方が多い。戦争の原因は、観念論者が言えような独裁者の夢想や野心と言うより、人民の切実な問題が、隠されている事の方が多いのである。

 元来、戦争は、喰うか喰われるかの問題なのである。
 軍隊があるから、戦争になるというのは、医者がいるから、病気になる、消防署があるから火事になる、警察があるから、犯罪が増えるという論法と同じである。
 平和は与えられるものではなく、勝ち取るものである。

 話せば解るという世界でもない。それが現実だ。常識である。この常識が戦後の日本人には、少なくとも、知識人、文化人には通用しない。話せば解るという。まともではない。だから、彼等に従っているかぎり、戦争はなくならない。
 民主主義の根本は、話し合いだというのは、解る。しかし、話せば解る何事もという事ではない。話し合ったところで解りあえない。だから、予め話し合いのルールを決めておくというのが、民主主義なのである。話し合いを尽くした上で、ルールにに従って物事を決めるというのが民主主義の原理である。ただ、話し合うばかりでは、何も決まらない。だから、日本人流の考え方ではいつまでたっても話し合いは付かない。だからこそ決め方が重要になるのである。そして、それは国家間において最も重要なことなのである。

 丸腰で紛争地域を旅するというのは、紛争当事国が安全を保証してくれると言う前提に立っている。それは、ジャングルを裸で歩くのに相当している。日本人は、山賊や海賊、ゲリラがこの世界には居ないと思っているようである。いまだに、国家そのものが、山賊夜盗の類と変わらぬ国があることを忘れてはならない。また、政治的なゲリラを英雄視する風潮が、この国の自称知識人にはあるが、いくら政治的と言っていても内実は、山賊、夜盗、麻薬王のような連中である場合が多い。言うなれば、犯罪集団である。我々は、批判するが、強国が力で、国際秩序や平和を守っているという現実を無視してはならない。
 檻にいる虎をからかったとしても勇気があるとは言えない。羊が、牧羊犬に態度が悪いと批判をしてオオカミと仲良くするのは、愚かなことである。
 平和を愛する諸国民の公正と信義を信頼したくとも平和を愛する諸国民が存在しなければどうにもならないのである。それは、オオカミの信義を信じるようなものである。博愛精神もそこまで行くと、信仰である。ただ、我々には、家族を暴虐から守る義務と権利がある。

 第一、近隣諸国は、日本の国家としての公正と信義を信じていないのである。だから、日本の総理が靖国神社を参拝しても抗議をしてくる。彼等は、日本国民の公正と信義を信用するという、しかし、日本国、また、日本の為政者の公正と信義は信頼していないのである。それでは、国民を信じたところで何もならない。

 戦争は、地震に似ている。戦争、戦争それ自体、単独で引き起こされるのではない。戦争という現象の背景には、政治的、経済的、閉塞・逼塞した状況が隠されている。その政治的、経済的、閉塞状況、逼塞状況を打開しない限り、戦争は防げない。事実を直視しなければ解決しない。

 内憂外患と言われる。つまり、国内に憂いがある時、敵を外に求めると言う事である。一概に、国内に乱れが生じたら、外国に敵を求めるとは言わないが、往々にして内政に問題が生じると外交に突破口を求めて戦争に発展すると言う事はある。戦争を引き起こす原因の一端がそこにある。

 悪い事ばかりが戦争の原因になるとは限らない。
 内乱を平定し、統一国家が生まれた時、外征が始まることがある。平和な世の中になり、経済が急成長し、人口が急増したことで戦争になることもある。
 むろん、悪い事も戦争の原因にはなる。天災や、災害、飢饉、旱魃によって食糧が不足することによって戦争になることもある。迫害や虐待も戦争の引き金にはなる。

 守る意志がなければ平和は守れない。戦う意志がなければ平和は守れない。
 戦争というのは、相手国がある事で、自国が望まなくても避けられない戦争もある。大体、今日では、平和を求めるあまりにナチスの横暴を許したために、第二次世界大戦を引き起こしたというのが、大方の意見である。
 自分達が、戦争を望んでいなければ相手が攻めてこないというのは、あまりにも、繊細で、世間知らずな考えである。
 かつてアジアの国々は、自分達が望んでもいない戦禍によって国土を蹂躙されたのである。その一方の当事国が日本である。日本人が、諸国民の公正と信義によって平和は守られると言ったところで、今更何を言うのかというのが、彼等の本音である。それを信じてもらえると思うことの方が虫がいい。

 平和を愛する諸国民の公正と信義を信頼して、われらの安全と生存を保持しようと言うのは、戦前の日本人には、平和を愛する気持ちもなく、安全と生存を保持しようとする努力しようとする意志がなかったかのごとく受け取れる。戦前の日本人は、全く無知蒙昧であり、愚かだったと断定しているように見える。しかし、本当に戦前の日本人は、野蛮で好戦的だった、愚かだったと言い切れるであろうか。今日の日本の繁栄を享受する我々が、その礎(いしずえ)となった人々を犬死によと侮蔑することが許されるであろうか。
 自由と独立は、それほど容易く手に入れられるのであろうか。

 戦前の為政者に全ての罪を着せるのは容易い。しかし、それで本当に我が国の平和が保てるのであろうか。それが、自国民の安全や子孫の安全に対し、責任がある態度といえるであろうか。先ず真実を見極めるべきである。その上で、是々非々を明らかにし、本当に平和を守るために何が必要なのかを見極める必要がある。
 戦前の行為を賛美することも、全否定することも、真実から目をそむけるという事では変わらない。平和を求める事とは、真実を直視する事以外にないのである。
 戦前、日本が置かれていた状況を正しく認識しないで、戦争は、愚かな権力者の野望が引き起こしたのだというのは、あまりに短絡的すぎる。

 非武装中立によって平和が保てる。又は、非武装中立を続けていれば、必ず、平和を愛する諸国民の公正と正義によって、我が国の安全が保たれ、世界中の国々も武装をいつの日にか解除すると本当に信じているのか。もし、信じていないとしたら、非武装中立と言う事ほど欺瞞はない。無責任である。

 平和は、国防と深く結びついている。平和と国防は切っても切れない関係にある。先の大戦で、犠牲になった多くの兵士達は、思想や観念だけで突き動かされたわけではない。愛する者を護るために、自分の国を守るために死んでいったのである。彼等を愚か者と断じ、侮辱することは容易い。しかし、今日の平和な社会が彼等の犠牲の上に成り立っているという真実から目をそむけることは許されない。

 妻子を敵に差し出せばいいと言う焼け跡派と称する戦後の知識人や敵が攻めてきたら妻子を投げ出して逃げ出すと公言しているジャーナリスト達は、真面目に平和を論じているのであろうか。妻子を差し出した所で問題は解決されない。平和は、生存の問題なのである。思想、哲学の問題ではない。思想、哲学は、生存のための問題を解決するためにある。ありもしない良識を前提とするのは、思想や哲学ではない。無責任な願望に過ぎないのである。

 平和を守る。尚かつ、自国の自由と独立を守る。その為には、断固たる意志が必要である。平和を守るという強い国民的意志がなければ、平和を守ることはできない。しかし、それは、丸腰になることを意味するのではない。なぜならば、戦争の前提には、人間として、生きられないと言う状況があるからである。人間として生きることができないから、人は戦うのである。平和を守るためには、自国民が人間として生きられ、尚かつ、近隣諸国が人間として生きられる環境が維持されていなければならないからである。それを維持するためには、丸腰では、不可能だからである。

 国防と言う事を基本として考えるならば、民兵制度が妥当である。つまり、国を護ることの意義を国民に周知し、尚かつ、実際上において国防を論議するというならば、常に、国民が防衛の第一線において身を以て示すことが最良である。さもないと、空理空論、机上の論理に終わることになり、また、軍部の専横を抑止することが難しくなる。国を一体になって護るからこそ軍民は、一心同体になれるのであり、軍が国民から乖離した時、軍を人民は制御する事が困難になる。故に、国防の担い手は、民兵である必要があるのである。

 家畜の自由や独立は、真の独立でも、自由でもない。なぜならば、飼い主の意向で自分の命さえも左右されてしまうからである。真の自由は、野生の自由である。野生の動物は、自分の力で自分を護れなければ、一日たりとも生きていけない。自分で自分を護れるからこそ、自由であり、平和なのである。

 戦争と国を守ると言う事を戦後の知識人と自称する人達は、同一視しているように見える。そう言う人達は、憲法改正は、即、第九条の改正、軍国主義だと短絡的に結論付けている。彼等は、国を守ると言う事を戦争に、憲法改正を第九条の改正に矮小化しているに過ぎない。国を守ることが即戦争に繋がるわけではないし、憲法の改正と憲法第九条の改正は、同じではない。
 憲法は、憲法である。憲法というのは、国の成り立ちを考えることである。自分達の国をどんな国にしたいのかを真摯に、真剣に考えることである。憲法を改正して、より強固に憲法を平和的なものにすることも可能なのである。
 国を守ること、然り。国を守ると言う事がどう言うことかを原点に戻って考えることである。その中には、非武装中立という選択肢があっても良い。ただ、軍隊がなければ、平和が保てると言った幻想だけは捨てるべきだ。軍隊がないから、戦争を誘発するという考えも成り立つのである。根本は、国を守ると言う事だ。国を守ると言う事は、家族を外敵から護ると言う事である。敵は、外国にいるとは限らない。国の中にもいるのである。また、軍隊だけが国を守っているわけでもない。良い子を育てるのも、国を守ることである。母親だって一生懸命国を守っている。教育を考えることだって国を守ることだ。災害から国を守ることも同じ。

 戦後、日本人は、恵まれてきた。幸せだった。60年以上の平和が続き、戦争にも巻き込まれずに来た。経済も安定し、国民は、豊になった。この事実を率直に認めよう。そして、それが、多分に幸運に恵まれたことによることを自覚しよう。この平和と豊かさが当たり前なのだなどと思い上がり、反戦だ、平和だとがなり立てても、世界に飢えに苦しみ、悲惨な争いの中に多くの人々がいることを忘れたら、その報いは必ず我々か、我々の子孫の上に降りかかる。
 我々の平和や豊かさは、我々だけの力でもたらされたのでも、また、天然自然の原理でもない。国際情勢の力関係や経済の流れの中で運良くもたらされたものである。そして、その根本は、先の大戦で我々のために犠牲になっていった人々のお陰である。
 幸せな者は、妬まれる。常に、我々の繁栄を妬み、地獄へ突き落としてやろうとする勢力が虎視眈々と我が国を狙っているという事を忘れてはならない。我々がしっかりしなければ、我が国の平和は、保たれないのである。

 我々が、国家の在り方、防災も含めた国防の在り方に真剣に取り組むこと。何よりもこの国の安全と繁栄を護ろうとする意志が重要なのである。我が国の安全と繁栄を守るための施策に真剣取り組むことが、先の大戦でなくなっていた民間人も含めた英霊達に対する真の供養となるのである。それが平和を実現する事になる。

 戦争は、いけないことだとただ言っているだけで平和は護れるものではない。自分達が命をかけても守らなければならないものは何か。平和を守るというなら、それをしっかり見定める必要がある。そして、それをいかにして守っていくのかを明らかにして、はじめて平和を守ることができるのである。平和は、与えられるものではなく、勝ち取るものなのだ。

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