76、統計とは(統計を考える)


現代の魔術師


統計というのが変に権威になってしまって、統計的に説明されると反論できない雰囲気がある。
その癖、統計のロジックとか、前提や信憑性なんてあまり問題にされない。
特定の権威がある者が数字を操りだすと聞く者は皆幻惑されてしまう。
統計家と言うのは、現代の魔術師である。
でも、統計は、手段なのである。意思決定のための手段である。
確率なんて最初から博打が目的なのだから。怪しい話なのである。
だから、当事者がどう判断していいかわからないような結果は意味がないのである。
それこそ、統計がどうのこうのというより、サイコロを転がした方がましである。

統計で嘘をつくという。しかし、嘘をついているわけではない。いい加減なのである。
統計だの確立だのというのは、尤もらしくいっているに過ぎないのである。
それを前提とするから統計や確率というのは役に立つのである。
統計や確率は、判断材料、参考資料を表しているに過ぎない。
決断するのは、自分なのである。

統計や確率は、最初から完全とか、絶対という事を捨てている。
完全とか、絶対というのは神の領域の出来事なのである。
人は、神にはなれない。

統計家が神の如く振舞ったらお終いである。

近代数学は、近代科学や技術革新などにおいて圧倒的な力を発揮した。一度、数学的な論理にはまると一つの答えまで一直線に導き出せる。そうなると数学の絶対性を信奉する者が表れてもおかしくない。
古代においては、ピタゴラス学派が教団のようになって数学を信奉したように、近代では、バートランド・ラッセルなども数学的論理の絶対性を極めようと試みた。
しかし、数学的論理の無謬性など、論理上でしか成立しない。
客観性の絶対化も同じである。科学は客観的であるべきだというのは、数学的論理の無謬性の上に成り立っている。
だから、数学に主観的要素が入り込むなどという事は、許しがたいと感じるのだろう。
しかし、数学は絶対化しえない。なぜならば、数学は論理だからである。論理は手段に過ぎない。それは根源的な存在にはなりえないのである。

最近、著名な科学者たちが人工知能がこのまま発展したら人類が危機的な状況に陥ると警鐘を発したが、あれも見識のない話である。将棋や囲碁で人工知能に敗けたから人類は、人工知能に支配されると結論付けるのは、余り短絡的で稚拙である。
仮に、人工知能が暴走する事があったとしても、それは、人間が初期設定を間違ったからに過ぎない。人工知能を生み出したのは人間なのである。
戦車と人間が戦って、戦車に人間が負けたからと言って、人間が戦車に支配されるというのは穿ち過ぎであろう。
数学や科学やそれが生み出した技術を神格化するのは、神に対する冒涜に過ぎない。
人工知能によって人間が滅んだしてもそれは人間の責任である。
数学を絶対化するのは、人間を絶対化する事と変わらないのである。




ベイズ統計
確率と統計
確率と統計(教育)



参照
「道具としてのベイズ統計」 涌井良幸著 日本実業出版


       

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