市場は文化の発信場である

 市場は、文化である。古来、市場は、文化の源泉だった。多くの文化が市場から生み出された。
 現代、市場からその文化が失われつつある。それは、市場から魂が失われていくことを意味している。

 経済的効率というと生産性ばかりを追求する傾向がある。経済は、量的な部分だけで成り立っているわけではない。質も重要なのである。
 例えば、小売業において生産性の効率ばかりを追求すると行き着くところは、ただっ広い倉庫のような空間に商品を並べておくだけで店員のいない店舗になってしまう。それを効率的というば確かに効率的なのだろう。しかし、野蛮である。
 確かに、小売業はそれで効率的になったかもしれないが、雇用は生まれない。雇用なき繁栄である。それは見せかけの繁栄に過ぎない。

 未来社会を描いた映画に出てくる人物を見ると不思議と服装が単一的な物であることに気がつく。何か、宇宙服のような物や制服のような物に統一されている。我々の嗜好が進んでいる方向を暗示している気がする。つまり、単一化、平準化された社会へと知らず知らずのうちに向かっていることである。
 皆、同じ服を着て、同じ物を食べ、同じ様な場所に住む。それが無意識のうちに描かれた未来像なのかもしれない。単色の世界、それが未来社会だというのだろうか。

 市場は一元的な場ではない。多様、多彩な場である。市場には、祭りや芝居小屋、旅芸人、盛り場が付き物であった。市場は、多彩で多様だから成り立つのである。

 少し前までは、世界には多彩な民族衣装があり、地域によって着る服も違っていた。それがいつの間にか、世界中、流行まで画一的になりつつある。知らず知らず嗜好まで平準化されつつある。それが市場の画一化、グローバル化の意味することなのであろうか。

 市場から人間の臭いが掻き消されてしまった。

 最近の人気スポットと言われる場所に行くと大概は、失望することになる。期待して実際に行ってみると、大概、無機質なビルに囲まれているか、また、ビルの中にある。
 確かに、ビルその物は、最新のデザインがされた建物なのだろうが、中に入ってみれば変哲のない空間に過ぎない。一種のオフィス街の一画である。すぐに飽きてしまう。長く住んで楽しめる場所ではない。時間や歴史を感じさせるものはどこにもない。言われてみれば、確かに、前衛的な空間なのだろう。無味無臭、汚れはないが、同様に、生き物の臭いもない。私には、衛生的かもしれないが、清潔には見えない。
 町並みが失われ、無味乾燥なビル群に取って代わられた。小粋な店に変わって内装だけが凝った店がオフィスビルの中に並ぶ。
 華やかに彩られてはいるが、何か色褪せて見えるのは気のせいだろうか。人間の温もりが感じられないのである。

 現代人は、市場を単一で画一された場だと錯覚している。市場は単一の場ではなく。集合した場である。また、市場は多様で多彩な場である。市場は、多様で多彩だから成り立つのだとも言える。
 市場は絶対的な基準で成り立っているわけではない。
 成熟度、市場の仕組み、市場を構成する経営主体の構造、市場が成立した歴史や文化などによってその有り様は変えるべきなのである。

 産業は、無数の市場によって構成されている。経営主体は、市場という海に散在する島や大陸のようなものである。

 同じ産業に属すると見なされる企業でも市場が違うとその経営構造や収益構造に違いが出る。
 例えば、売上である。売上は、経営主体の規模に関係した指標である。売上利益率は、同じ産業内でも製造、卸、販売と言った段階によって違ってくる。そして、各々の段階に市場が介在する。
 原価構成と収益構造もそれぞれの局面によって違ってくる。例えば自動車産業のような産業は、原材料や部品の種類の数だけ市場が姉といっても過言ではない。
 損益の分岐点にも違いがある。また、損益の分岐の構造によっても市場の有り様は微妙に変化する。
 企業形態にも当然違いがある。一口に料理屋、レストランと言っても和食屋もあれば洋食屋もある。和食の中でも寿司屋、そば屋、割烹では、市場が違う。高級料亭と居酒屋では、客層も市場の有り様も違う。この様に千差万別の市場を画一的に捉えることほど馬鹿げていて危険なことはない。
 歴史や伝統、仕来りも大切な要素である。市場を生み出しているのは人間である。市場には人間模様がある。

 機能、現象ばかりにとらわれてはならない。その背後にある仕組みや構造が重要なのである。なぜならば、機能や現象は、相対的であり、機能や現象だけで成り立っているのではなく。機能や現象の背後にある仕組みや構造が前提となって成り立っているからである。

 競争を市場の原理だとして市場を競争の場、闘争の場に化してしまったことにある。
 競争は、手段であって目的ではない。手段である競争が目的化することによって市場は変質してしまったのである。そして、市場は修羅場と化してしまった。
 市場は、本来、交流の場、交易の場である。市場は、出逢いの場である。市場で人々は、出逢い、情報や必要な物資を交換した。人々が安心して交流、交換できる場が市場だった。
 ところが現在、市場は交流の場でなくなり、争いの場に変質したのである。そして、話し合う事も協調することも許されなくなってしまった。
 挙げ句の果てに、市場は、無政府主義に支配され、無法状態となり、規律も秩序も失われたのである。
 そこにあるのは、弱肉強食の世界であり、強い者だけが勝ち残る世界である。そして、市場は荒れ果て、殺伐とした空間になってしまった。それを自由というのだろうか。

 競争は大切だけれど無意味な競争によって潰し合うことは何の益もない。無益で無駄な争いは避けるべきなのである。

 競争が全てではない。競争は一手段に過ぎない。競争は、市場を活性化したり、技術革新を促進するためには、有効な手段である。
 しかし、だからといって競争が全てではない。競争が唯一つの手段だと言う事ではない。市場に急激な変化が起こったり、また、歪みが生じたり、圧倒的な力の差があったり、格差が生じたりした場合、競争を一時抑制し、体勢を立て直したり、養生することも必要である。話し合いをしたり、協定をすることが一概に悪いと決め付けるべきではない。頭から話し合いを否定し、競争だけを絶対的手段とするのは、一種の信仰に近い。

 収益もまた手段である。収益は、会社を経営していく上での一つの目安、基準である。それはそれで大切である。しかし、目的ではない。
 市場の荒廃は、手段である種益、利益が目的化し、経営の全てを支配していることにある。ここでもまた、手段と目的とを取り違えられている。
 大体利益は、作られた概念である。人為的な概念である上に、善悪とは別の尺度である。それが利益を上げる事があたかも自然の真理のように扱われ、挙げ句、善悪で判断されるようになってしまった。

 初期投資と運転資金、それに見合う収益構造が肝心要なのである。つまり、投資と回収の関係である。そして、投資や運転費用、収益構造は、担任貨幣的問題だけでなく。人、物、金の問題でもあるのである。

 最初の投入された資源(人・物・金)をいかに回収し、利潤をあげるかの問題である。そして、いかに資源を分配するかの問題である。
 初期投資というのは、何も資金だけを指して言うわけではない。投資で実質的な部分は、人的投資、物的投資である。

 その計算を可能とするためには、経済的価値に時間軸を加える必要があったのである。時間価値の元となったのが、価値の保存性、即ち、貯蓄性である。

 そして、この価値の保存性が経済的価値に時間軸を加えることとなる。そして、時間軸が加わることによって投資という概念が成立するのである。

 投資という概念は、貨幣価値が市場に時間価値を附加したことによって生じた概念である。そして、利益や金利は、時間価値を意味する概念である。
 投資と費用の繰延という技術が発達することによって、国家以外の経済主体が巨大事業を実行することが可能となったのである。それが期間損益である。

 貨幣経済の拡大は、市場経済を拡大し、市場経済の拡大は、貨幣経済の拡大を促した。しかし、最初から市場と貨幣連動していたわけではない。

 貨幣経済が市場経済に浸透する以前は、現在的な価値しか経済的価値として認識されていなかった。
 貨幣経済が市場に浸透する以前は、物々交換が主だった。つまり、貨幣が介在する必然性はなかったのである。特定の市場の範囲内で取り引きが完結していたら、貨幣は、必要とされない。

 第二次世界大戦終戦直後の混乱期の日本、ドイツや社会主義体制崩壊直後のロシアなどで、タバコが貨幣の代用品とされた例も記録されている。(「戦後世界経済史」猪木武徳著 中公新書)

 貨幣経済が浸透する以前には、時間価値が経済にはなく。その時点その時点での消費、即ち、現在的価値しか問題にならなかった。
 この様な市場経済では、物的交換が問題とされるだけで、時間的交換は、経済的価値を持たない。時間的交換が経済的価値を持つようになるのは、価値を繰り延べることが可能になることが前提となる。
 それを可能としたのは、時間的価値であり、貨幣が、価値を繰り延べることによって時間的価値が市場において決定的な働きをする様になったのである。そして、それは空間的価値にも敷延化されたのである。それによって経済は、投資による価値の増殖を専らにするようになった。

 投資という概念が加わることによって、経済は、専ら、初期に大量の資源を集中的な投下することが可能となったのである。一時に、大量の資源を、集中的に投下することを可能としたのは、貨幣価値に基づく期間損益という思想である。
 近代的大事業には、大量の物的資源と長期にわたる人的資源の活用がある。これらの経済的価値をいかに時間的に繰り延べるのかが、事業の成否の鍵を握っていた。その働きを担って成立したのが貨幣である。つまり、経済的価値の繰延という働きが重要な要素となる。会計的思想は、資源の経済的価値の時間的配分を可能とした。それが、減価償却、期間損益、金利、利潤という会計的思想である。会計思想は、貨幣の働きを前提として成り立っているのである。
 貨幣経済が発達したお陰で物的、人的資源を大量に必要とする事業が成り立つようになったのである。それが近代という時代の扉を開いたのである。

 市場が飽和状態に陥ると企業は上昇する費用を収益によって吸収しきれなくなる。そうなると企業は、最初は会計処理によって解消しようとするが、それにも限界がある。多くの企業は、本業以外の所で収益をあげざるをえなくなる。それが、多角化であり、財テクである。一口に、多角化と言っても、経験やノウハウの蓄積がないから、短期間で軌道に乗せるのは困難である。短兵急に利益を上げようとすることによって多くの企業は財テクに走り、また、そうしないと生き残れなくなる。それが過剰流動性の原因となるのである。

 市場が成熟してくると多くの企業は思うように収益があげられなくなる。企業が収益を思うように上げられなくなると金融機関は、優良な投資先が見つからなくなる。優良な投資先がなくなると金融市場で資金だけ頃がして運用益を得ようとする。その結果、レバレッジを高くするのである。金融市場による運用で手っ取り早く利益を得ようとすれば、実物市場に資金が廻らなくなる。資金が廻らなくなれば、実物市場は涸れてしまうのである。
 実物市場に資金が流れないことが問題なのである。なぜ、実物市場に資金が廻らなくなるのか、それは、産業や市場の構造に問題があるからである。
 市場の根本にあるひずみやゆがみをよくしていかない限り、経済はよくならない。
 それは、個々の経営主体の問題と言うより、構造的な問題、市場の歪みや市場の仕組み、経営主体の収益構造に問題があるといえる。経営者の倫理も大切だが、人間が人間として生きられる環境を整備することはそれ以上に大切なのである。
 資金は、流体である。資金を流すためには、仕組みが必要である。水が高きから低きに流れるように、資金の流れにも法則がある。だから、市場では、所得や物価、為替の水準のような水準と収益構造、それと、流れる方向、力の方向、位置エネルギーが重要なのである。

 企業が血の滲む経費削減をしても、収益に上乗せすることをマスメディアは、許さない。費用の上昇を価格に転嫁する事を罪悪のように囃し立てる。結局あらゆる努力は収益に還元できなくなる。

 この様な市場においては、変化しか価値を認められなくなる。市場価値は、変化でしか生まれなくなるのである。その変化も、成長、発展、拡大という一方向の変化でしかない。停滞や、縮小、成熟や、休止は認められないのである。そして、それは絶え間ない市場の拡大と、経済の成長を前提とする。ひたすら、休むことなく前進する事が強要される世界である。

 この様な世界では、古い物、伝統的な物、ゆっくりとして物は、淘汰されてしまう。短い周期で目まぐるしく新しい物が生まれては消えていく社会を現出する。しかし、老舗には、老舗の役割がある。古いものは駄目でと片付けるのは乱暴すぎる。市場の本質は多様性である。多くの中から選択することが可能であるから、市場は成り立っているのである。なぜならば、市場取り引きの本質は交換だからである。

 個としての自分を個としてしか認識できなくなれば、他者との関係は失われていく。その典型が、血縁関係である。血縁関係の喪失は、家族の崩壊を招いた。
: 経済の根底は人間関係である。そして、人間関係は、是か非か、、善か悪かといった人間論的に単純に割り切れる世界ではない。

 利益集団の基礎的な部分から血縁的な要素が除かれてしまった。しかし、血縁関係というのは、排除しきれる要素ではない。

 人間の営みの究極的な目的は、幸福にある。人間を幸福にすることにある。欲望も、国家も、政治も、経済も、科学も、技術も、人間を幸福にするための手段であるはずである。ところがその手段であるはずの事象がいつの間にか目的化して人間を不幸にしている。

 家族を幸せにすることが目的であったはずなのに、いつの間にか、家族を犠牲にし、挙げ句の果てに家族の崩壊を招いている。それが現代社会の実相ではないのか。

 我々は、先ず現実を受け容れるべきなのである。そして、在るべき姿を再構築すべきなのである。それが始まりである。

 人生、いかに生きるべきか。そして、家族とは、どの様にあるべきか。地域社会に何を求め、何を期待すべきなのか。仕事とは、何か。職場とは何か。そして、国家はどうあるべきなのか。世界平和を実現するために、何が必要なのか。

 先ずどの様な国家、社会にするのかと言った世界観が前提となる。そして、どの様な市場にすべきかの構想を描く必要がある。その上に立ってどの様な産業、企業にするのかを決める事ができるのである。
 最初に競争ありきという発想そのものが間違っている。

 市場は、世界観、国家構想に基づいて、目的、機能、役割によって設計され構築されるべき仕組みなのである。市場は仕組みである。先ずなければならないのは、どの様な世界、社会にしたいかである。

 経済とは、人々の日々の営みである。その人々の営みを成り立たせるために、「お金」はある。「お金」の為に、人々の営みが成り立たなくなったら、それこそ本末が転倒しているのである。

 現代社会は、人間不信に犯されている。経営者や指導者は、皆、独裁者、ワンマンの極致であるようにいわれ。商売人は、全て、詐欺師、ペテン師であり、銀行家は、強欲で、政治家は、不誠実、不正直。現代人は、そう思い込んで騙されないようにと絶えず身構えている。人を信じる事は、愚かなことだと信じ込まされている。しかし、本当に、世の中の人間は信じられないのであろうか。

 皮肉なことに、信用を土台とした市場経済や貨幣経済が人々の猜疑心を育み、人間不信を市場に蔓延させている。

 現代人、中でも、欧米人は、対立的概念を軸にして二元的に物事を解析しようとする癖がある。
 一つの対象を一つの基準によってそれに属するものと属さない物として区分することには意味がある。しかし、それを一律に対立的なものと規定するのには無理がある。

 その好例が弁証法的手法である。唯物的であるか非唯物論的であるかと言った論理展開である。しかし、現実の世界は、対象と非対象と言ったように区分できるほど単純ではない。この様な区分の仕方には、悪意のようなものを感じることすらある。
 体制と反体制。権威主義と反権威主義。そして、反するものを是とする風潮が敗戦後の日本には濃厚にある。メディアも言論も反体制的、反権威的であれば、無難である。無責任でいられる。そして、叛逆、反抗を奨励する。強圧的な体制に対して命を賭して義を貫くのは勇気のいることである。しかし、付和雷同して自制する者に、ただ逆らうのは軽薄なだけである。檻の中の虎をからかったとしても勇気ある行動とは言えない。

 対立軸を中心にして対象を区分する。例えば、経営者と対立する概念として、労働者を配置する。男と対立する概念として女を配置する。果ては、政治思想を右翼か、左翼かで片付けてしまう。

 そして、それを漠然とした基準で善悪に結び付けている。善悪を分ける基準に蘇師たる根拠があるとは思えない。極端な話し、西洋的か、反西洋的か、或いは、近代的か、反近代的か、又は、科学的か、反科学的か、主観的か、客観的かと言う尺度である。
 しかし、この様に、二項対立的に捉えた上で、一方的善悪に区分してしまうことは問題である。一方が善でもう一方が悪であるという対立を決定的なものにしてしまう危険性があるからである。この様な捉え方は、一度生じた対立を決定的な対立としてしまい。両者に妥協点をなくさせてしまう。
 二者択一的な考え方からは、真実の姿は浮かび上がってこない。

 例えて言えば、市場と統制、市場と政府、市場と計画といった問題を対立的に捉え、不毛な議論を繰り返すことである。
 或いは、公と私を相容れない物として分けて考えたり、民営か公営、国営かという議論である。民営と公営の違いはどこにあるのかを見極めないで、ただ、善か悪かを論じること程、虚しいことはない。
 自由貿易と保護貿易も同様である。何をもって自由貿易というのか、何をもって保護貿易というのか。
 競争と規制は、背反的な事象ではない。自由主義体制と社会主義体制は、両立しないのか。保守か革新かと反目することにどれ程の意味があるのか。
 集権と分権かも同様である。何を基準として、何を前提として集権とし、分権とするのか。そして、何をもって是とし、何をもって非とするのか。

 観念は意識によって生まれる。意識は、認識によって生じる。認識は、相対的なものである。対象に対する認識は、前提と設定によって違ってくるのである。

 同じ二元論的な考え方に、中国の陰陽思想がある。しかし、陰陽思想というのは、必ずしも陰と陽とを対立したものとして見なしてはいない。陰陽を変化の実相として捉えているのである。

 経営主体の分裂は、本来運命を共有しているはずの経営者と労働者とを分裂し、対立させることを意味する。
 現代思想の多くは、家族という存在を否定している。それが東洋的思想と相容れない部分でもある。

 仁義、親孝行、忠義、礼節、中庸という徳目は、頭から否定されているのが現在である。しかし、この様な思想は、何千年も前に中国で生まれ、現代に至るまで継承され続けてきたことを忘れてはならない。

 人と人とを結び付け、人間関係を形成していく源は、本来、共鳴共感にある。要は、愛情にある。対立や憎しみからは、人間関係は生まれない。対立を軸とした思想から脱却し、お互いを慈しみ合い、愛し合うことを前提とした社会の構築を目指さない限り、人類の未来はない。その様な前提に立つと、市場は、闘争、競争の場から交換、交流の場へと本来の姿に立ち戻っていく必要がある。






                    


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