市場経済

構造経済への道


 なぜ、景気が良くならないのか。それは、企業が利益を上げられないからである。利益を上げられない仕組みになっているからである。
 赤字なのは、企業だけではなく。国家も家計も赤字である。極めて経済は、不健全な状態にある。そして、国も、家計も、企業も、借金漬けになっている。なぜ、企業も、国家も、家計も、赤字なのか。それは、国家や、家計、企業の問題と言うよりも、仕組みの問題である。しかも、国家も、家計も、企業も、借金を背負っている。赤字で、借金漬けと言う事が問題なのである。
 このまま放置すれば、確実に、自由経済は、環境問題やエネルギー問題を置き土産にして瓦解する。それは、資本主義か悪いと言うより、市場を否定しているからである。
 我々は、市場の恩恵に浴しながら、市場をあまりにも粗略に扱ってきた。その報いが今日、廻ってきたのである。

 市場経済が本来の機能を発揮するためには、経済を構造化する必要がある。それが構造経済である。
 構造経済の手本がないわけではない。それは、プロスポーツリーグである。
 我々が、選択すべき方向性は、NFL(プロフットボール)なのか、MBL(プロ野球大リーグ)なのかである。MBLはかつて、ほとんどの球団が赤字に陥って苦しんでいた。今は、多くの球団が黒字化している。過去と現在とはどこに違いがあるのか。それは、仕組み、構造の問題である。NFLは、アメリカが、生み出した、芸術的とも言える経済システムである。
 自由放任というのは、市場を放置することである。逆に、統制、計画というのは、市場を否定する事である。
 市場を放置しておくと、寡占、独占状態に陥る。寡占、独占は、市場の終焉である。市場は、人為的な仕組みである。精緻に機構によって維持されていまある。市場を自然状態に放置すると言う事は、市場の制御を放棄することである。
 逆に、市場を統制すれば、市場の機能が働かなくなる。
 市場は、保護されるべきであり、その為に、規制されるべきであり、制御されるべきなのである。ただし、それは、仕組みによってである。直接統制されたり、干渉するものではない。

 ある意味で株式会社というのは、収支の合わない企業が資金を調達する目的で発案された仕組み、制度であるともいえる。それを補完するために、会計制度が確立された。

 初期投資が巨額になると収支が合わなくなってきたので、近代会計学によって期間損益を確立する必要ができてきた。それ故に、最初は、一定の間隔における財産状態を比較することに重点が置かれた。

 初期投資と運転資金、清算利益と期間利益の分離、それが、会計の当初の目論見である。
 しかし、それでは、期間損益を分析する事ができないのである。財産比較から損益を重点とした動態論に比重が移ってきた。
 ところが、時間的価値によって所得、物価、利子に基づく費用が増大するのに対し、市場の過飽和や過当競争、国際環境の変動と言った要因によって収益が圧迫され、期間損益が均衡、即ち、利益が上がらなくなると、再び、貸借によって利益を上げざるを得なくなり、会計制度が見直された。つまり、会計を通じて利益を捻出することを画策する。
 企業は、利益が上がらなくなると会計処理に活路を見出そうとした。そして、会計処理は、損益から貸借へと比重を移したのである。その過程で企業の分割、グループ化が進む。
 大手企業と中小企業の決定的な違いは、会計的な操作によって利益を生む出すだけの技術も原資も大手企業に対し、中小企業は不足していることである。
 会計処理よって利益を捻出するという事は、資産の活用を意味する。しかし、資産を活用しても損益から収益が見込めなくなる債務の圧力が企業経営を圧迫するようになる。
 収益が圧迫されると、実物資産も目減りすると同時に債務だけが増殖する。そうなると金融機関は、流動性の高い、貨幣性資産を重視する方向に傾く。
 また、実物資産は、埋没してしまうと、債務しか残らなくなる。
 債務が圧迫される事によって金融技術の発達と資本効率、活用を促す。
 実物資産は、実体経済の影響を受けやすいが、金融資産は、金融市場で操作しやすく、安直に利益を創作しやすいからである。
 実物経済は、利益を上げない限り、資金調達の名分がない。そうなると実物資産は、表だって資金を調達する理由にならなくなるからである。
 しかし、それは、一方で債務の自己増殖を促すことになる。そして、債務の増大は、現金の働きを阻害するようになる。つまり、従来の貨幣以外の貨幣代用物の横行を許すことになるからである。そして、現金によって債務は抑制される。故に、資金管理が重要となり、収支の流れを明らかにする必要が生じたのである。それがキャッシュフローである。
 また、金融機関は、何も生み出さない。それは、実物経済の衰退をも結果的には招く。

 現代企業というのは、根本的に期間損益を土台にしてその働きが発揮されてきた。そして、その期間損益の潜在的な活力が貸借、特に、土地による担保力なのである。また、企業経営は、債務を前提としている。債務の形態が負債と資本なのである。

 債権価格の水準が高い時は、いろいろな運用ができる。しかし、債権は、実需と結びついている。また、企業収益に結びつかないと債権を運用しても意味がない。問題はそこにあるのである。結局、流動性の高い金融債権に重点が置かれる。あるいは、不動産などは、証券化して流動性を高める動きが活発化する。

 不動産のような実物も証券化されることによって金融資産化されると実物資産から、貨幣価値が乖離し、失われていく。実物市場が衰退し、金融市場に従属するようになる。結果、金融機関だけが生き残ることになる。しかし、金融機関は、それ自体では何も生み出さないのである。それは、虚構である。悪い冗談である。

 最後は、資本をいじくることである。そこでM&Aが盛んになる。また、株の時価総額を高める操作が活発となる。

 ITバブルなど典型である。たかだか十億か、二十億しか収益のない企業がその数倍、数十倍の資本を集めてしまう。そうなると、事業収益などそっちのけで、資本価値を高めようと画策する。

 株価というのは、過去の実績に基づくのか。それとも、将来性を評価したものなのか。古典的な企業は、実質的な資産、含み益を持っている資産を多く持っている。しかし、それらは未実現利益であり、資金の流失を伴う物ならば、表に出せない。反対に、将来の資産は、何とでも創作できるのである。しかも理論的にである。過去の実績は隠しようもないが、企業の将来性など何とでも描ける。
 
 奢れる者久しからずと言うが、経済が破綻する直前、不思議と人間は、躁状態になり、お祭り騒ぎが往々にして始まる。その宴がたけなわな時に突然破局が訪れる。

 計画が悪いと言うが、それは、計画と言う事に、錯覚があるからである。計画というのは、経済活動を直接計画することを意味するのではない。市場の仕組みを計画的に構築し、制御する事を意味するのである。
 保護主義にも誤解がある。特定の産業や企業を保護するのではなく。市場を保護することなのである。
 また、関税障壁のような壁を設けて市場を囲い込むことではない。例えば、石油価格や為替の変動から市場を保護することなのである。
 市場価格の水準や為替の水準といった外的要因の水準の急激な変化から市場を保護したり、また、所得水準や物価水準の違い、格差から市場を保護することを言うのである。自由貿易を維持するためにも市場の保護装置は不可欠なのである。
 その為には、先ずどの様な経済状態にしたいのか。望んでいるのかの構想が必要となる。それは、地域社会の在り方に対する考え方が土台になる。

 今、経済に必要なのは、スポンサーでも、統制者でもなく。審判であり、守護者である。
 問題は能力にあるわけではない。仕組みにある。アメリカの実力云々という話があるが、能力の問題ではない。仕組み、即ち構造の問題である。市場の構造、産業の構造の問題である。今でも、アメリカの産業や実力は世界一である。また、世界がアメリカの能力に依存しているのも事実である。これは、能力の問題ではなく。仕組みの問題なのである。いくら、有能なパイロットでも飛行機が壊れていたら、操縦は不能なのである。
 アメリカのことをとやかく言う前に、このままで行けば、日本経済は、確実に衰退する。それは、日本経済が、寡占状態に陥ってきたからである。競争の原理が働かなくなってきたからである。
 オーバーバンキングとか、オーバーカンパニーが問題にされるが、実際は、日本経済の活力は、狭い市場に複数の企業がひしめき合っていたことにある。つまり、オーバーカンパニーが悪いわけではなかったのである。オーバーカンパニー、オーバーバンクでも、個々の企業が、収益が上がっていれば問題ないのである。銀行も、多くの銀行が、それぞれの役割を担って市場を形成していた。ただ、それでも市場が飽和状態になると収益が頭打ちになる。
 そこへ、石油ショックや円高が襲いかかり、企業は、財テクによって企業防衛を計った。その結果、不動産市場と株市場にバブル経済が発生し、また、弾けたのである。
 問題は、収益が上がらないあげられない仕組みなのである。それは、貨幣制度、そして、債権と債務の絡繰りの中に隠されている。
 日本経済の活力は、狭い市場の中に多くの企業がひしめき合いながら、経営してきたことである。
 そして、中小企業の存在である。これらの要素が、経済の活況を支えてきたのである。
 規制緩和の流れと競争原理がその二つの要素を破綻させてしまった。故に、日本経済は、放置すれば確実に衰退する。
 特に、中小企業の役割こそ見直すべきなのである。中小企業は、単に、経済的な意味だけでなく。政治的、文化的な意味でも重要な役割を果たしてきた。

 勘違いしてはならない。生産性や効率性が問題なのではない。企業が利益を上げられないことが問題なのである。生産性や効率性の向上も企業が成り立つための手段である。何が原因で企業が利益を上げられなのかを問題にすべきなのである。

 多くの人は、企業が利益を上げることは罪悪であるような捉え方をする。確かに、過剰なあるいは不当な利益は、罪悪である。しかし、正当な利益は、罪悪視すべき事ではない。

 この事は、家計についても言える。
 現在の家計は、借金を下地に成り立っている。つまり、債務の水準が基礎にある。この債務の水準と所得の水準が逆転したら、家計は一瞬にして破綻する。そう言う構造になっているのである。借金、即ち、債務の水準抜きに経済構造は語れないのである。

 借金というのは、ある意味で費用の平準化を意味するのである。時間的標準化である。この事で、支出は、一次元的な物から二次元的、三次元的なものに変質した。つまり、費用が、点から平面的、あるいは、立体的なものになったのである。

 現代人の生活は、借金の上に成り立っていることを忘れてはならない。つまり、家計は、借金抜きには語れないのである。収入と支出だけで現代人の生活は成り立っているわけではない。
 一時的な収支では成り立たなくなったから、費用の繰延、後払い、つまり、借金の技術が発達したのである。その極致が証券化である。
 借金というのは、謂うならば、後払いである。つまり、後払いの仕組みが出来上がったことによって現代の生活水準は維持されているのである。
 かつては、先払いが原則であった。故に、資産、財産を所有することは、経済力を示したのである。資金がなくなれば、財産を得れば良かったのである。
 預金や貯金の意味も目的があったものであった。ところが借金が後払いになったことで、預金や貯金の持つ意味が薄れ、現金の方を重視する傾向がでてきたのである。将来の出費よりも今あるだけの現金を使ってしまう。また、現金がなければ借金をすれば良いという安直な考えが支配したのである。
 今日、資産、財産を所有することは、その人の経済力を示すとは限らない。むしろ、借金をする能力を意味するのである。故に、財産は、所有することに意味がなくなった。つまり、資産は、常に、背景として債務を持っているのである。
 借金というのは、後払いである。債務である。故に、月々の返済が伴う。そして、徐々に蓄積していく。そうすると可処分所得が目減りするのである。
 一度、借金をすると家計は固定的費用の影響から逃れられなくなる。月々の返済額が生活を徐々に圧迫するようになる。生活は荒(すさ)み。考え方も刹那的になる。道心、モラルの崩壊である。

 家計は、所得と消費、貯蓄からなる。これは、収入と支出を意味する。所得は、生計の基礎となり、消費は、物価の関数である。
 
 家計を構成する財には、不動産のような財産、そして、家具、家電製品、自動車のような、それから、衣服のような消耗品と食料、光熱費のような消費財がある。そして、それぞれ、償却時間が違う。

 故に、所得水準と物価水準は、生活水準に関係してくる。生活水準こそ、市場の規模を決定付ける最大の要因である。この生活水準が虚構だと景気は安定しない。

 物価は、変動的な物と固定的な物がある。変動的な物には、上昇する物と下降する物、相場による物がある。また、物価は、幾つかの要素の関数である。例えば、ガソリンは、原油価格と為替と精製費用の関数である。この様に為替や原油価格に連動した物と連動していない物とでは、物価の動きが違うのは自明な事である。
 故に、物価を一律に考えていたら、経済の構造は見えてこない。

 また、給与所得というのは、一定の制約の範囲中にある。それに対し、物価の変動は、制約に囚われない。物価は変動的費用である。つまり、固定的収入によって変動的支出を制御しなければならないのである。しかも、変動的費用である物価は、予測ができない。それは、ストレスになる。

 経営や家計にとって収益構造は、固定的な方が良いか、変動的な方が良いかというと、固定的な方が良い。なぜならば、固定的な方が予測がつくからである。
 固定的とは言わないまでも、変動する部分がある程度、特定できれば、それにこしたことはない。

 収益構造が流動的にならざるをえないのに、借金が家計や国家や企業から資金を固定的にしてしまっている。

 市場経済を前提とするならば、市場取引に参加するものが利益を得られるようにしなければならない。市場取引に参加するものが利益を得られるような市場の仕組み、環境を整備する必要がある。それが市場経済における経済政策の大前提である。

 経済的には、経営主体は、利潤を追求する事を目的としている。それなのに、経営主体が利潤を上げられないような仕組みを多くの為政者は、構築しようとしている。
 利潤が上げられないのには、利潤を上げられない理由、原因がある。その中で経営責任に帰す部分と経営責任に帰せない部分がある。その点を見極め、切り分けて対策を立てる必要がある。
 それは、経営者の倫理観とは全く無縁なのである。ただ、利益を上げるためには、条件が違うところで競争せざるをえないという事であり、その事を故意か、無自覚かは別にして無視されているという事による。
 国によってやって良いことと悪いことがマチマチなのである。

 利益を上げること悪い事であろうか。しかし、企業が利益を上げなければ、家計も財政も黒字にはならない。

 競争力は、競争条件に依拠している。競争条件は、収益構造に現れる。収益構造は、競争の前提条件が統一化されていることによって成立する。競争条件が違えば、競争は成り立たないのである。
 企業収益が上がらないのは、競争条件が全然違うのに、それを統一されているかのごとく前提として市場の仕組みを構築していることにある。

 多くの人は、何でもかんでも、良いか、悪いかで割り切りって考えたがる。それが、段々に、善いか、悪いか、つまり、善悪にすり替わっていく。しかし、損益の基準に照らし合わせると全てが善悪の基準で割り切れるものでない事は歴然とする。ここが重要なのである。物事は、善悪だけで割り切れるものではなく、長所、短所を併せ持っているものである。

 バブルという現象も同じである。現在では、バブルと言う現象は、悪い事だと決め付けている。バブルというのは、一種の熱狂が引き起こすものである。ユーフォリア(陶酔)現象だと言われている。何かが、人々を陶酔させ、理性を失わせるのである。バブルの最中は、人々は、何かに浮かされ、我を忘れて酔いしれるのである。その何かの正体を見極めずに、ただ悪い、悪いと言っても問題は解決されないのである。
 バブルという現象が発生するからには、何等かの原因がある。その原因のどこかに、人々を陶酔させる何物かが潜んでいるのである。そして、それはバブル崩壊後も人々の判断を狂わせている危険性がある。

 バブルを引き起こし、バブルを崩壊させた背景には、収益構造の変化がある。その収益構造の変化と市場の変質を明らかにせずに、ただ、現象だけを見ても問題の本質には迫れない。

 規制緩和か、民営化をすれば何でも解決すると言われてきた。規制緩和や民営化は、万能の良薬のように喧伝された。しかし、なぜ、規制緩和や民営化をすれば、景気がよくなるのかは明らかにされていない。また、なぜ、規制や公営は、悪いのかも明らかにされていない。

 因果関係が明らかなようで、実は曖昧な事柄が経済には多くある。
 例えば、収益が悪化した結果、規制を緩和したのか。規制緩和をしたことが原因で収益の悪化を招いたのか。不良債権は、バブル崩壊の結果なのか、バブル崩壊の原因なのか。
 バブルを引き起こし、バブル後の不況をもたらした原因は、収益の低下と、借入金の返済圧力である。この原因を巡っては、諸説紛々である。
 思い違いをしてはならないのは、「バブル」を引き起こしたのも「バブル後の失われた十年」の原因も元を辿れば、オイルショックや円高ショックによって企業の収益力が失われたことである。不良債権は、その結果生じたのである。不良債権を処理しても企業の収益力が改善されない限り、抜本的な解決には至らない。不良債権を処理しても借金が残るだけである。だから、景気が回復したと言われても、実感なき景気回復と言われるのである。
 バブル崩壊後の十年間は、失われた十年と言われている。それは、規制のために、競争が阻害され、生産効率が改善されなかった事と不良債権処理が遅れたことが原因だとされている。
 しかし、見方を変えると規制を緩和し、競争が激化した結果、収益力が低下したからと言えなくもない。また、無理矢理不良債権を処理したために、資産価値の下落に拍車がかかったとも言えなくもない。

 これだけは言える。市場というのは、放置すれば儲からなくなる仕組みになっているのである。経営主体が利益を上げて経営を継続し続けるためには、市場を儲かる仕組みにしておく必要があるのである。それを前提として作られたのが会計である。つまり、会計というのは期間損益という思想を導入することによって継続的に利益が計上できる仕組みを構築したものなのである。

 官庁の人間や経済学者は、民間の人間や実務家を一段低く見る傾向がある。しかし、現実の経済や市場を担っているのは、実務家や民間企業の経営者である。彼等の視点、意見をもっと謙虚に採り入れるべきなのである。官庁の人間や経済学者は自分達の主張した不良債権処理や規制緩和を自画自賛するが、本当に不良債権処理の仕方は正しかったのか、規制を緩和したことはよかったのか、改めて見直す必要がある。

 規制を緩和すると言っても闇雲に何でもかんでも規制は悪だと決め付けるのは短絡的すぎる。規制の働きや規制の意味を理解し、前提を確認した上で、個々の規制の是非を問うべきなのである。

 国も、企業も、家計も利益が上げられるような仕組みを計画的に作ること、それが構造経済である。






                    


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