市場経済


市場の終焉

 寡占、独占は、市場の終焉を意味する。つまり、寡占、独占状態は、市場を機能させなくなるからである。しかし、市場は、放置すれば、寡占、独占状態に向かう。なぜならば、寡占、独占は、市場における定常状態だからである。しかし、それは、市場の活力が失われ、活動が停止することを意味する。故に、市場は、構造的に、制御されなければならない。

 市場の終焉が意味するところは、機構の際限のない巨大化と、階級的格差、身分的格差の成立である。組織は、垂直的に、水平的な拡大していくことであろう。人々は、実力や実績によって評価されるのではなく。家柄や出自、財産によって評価され、差別されるようになるであろう。組織から、合理性も効率性も失われる。官僚制の始まりである。傲慢と非効率に支配されるであろう。全体主義、独裁主義、統一主義に支配されてしまう。
 それは、成長や発展、変革の終焉でもある。また、多様性の終焉でもある。自由の終焉でもある。つまり、独占は単一化の象徴でもある。

 市場の終焉は、水平的な競争による調整を機能不全にし、その結果、垂直的対立を引き起こす。それは、社会に決定的な階層的亀裂を入れる。結果的に、階級的対立を引き起こし、資本家も危機に陥る。

 寡占、独占は、資本家にとっても自殺行為であり、また、地方経済を枯らす災難である。
 単一な世界は、相互牽制作用が効かない。それは、組織の自律的機能を損なうことになる。自律的機能を喪失した組織は、自壊する。寡占・独占状態に陥った産業は、自壊していくのである。

 バブル崩壊後、金融不安と言い、競争の原理だと言い、業界再編となり、混乱に、混乱を重ねて気がついてみたら、寡占、独占状態となっている。だとしたら、競争原理、競争原理と市場を煽り続けてきた連中は何だったんだという事になる。競争を絶対の原理のごとく言いながら、結果的には、競争の原理が働かなくなる状態、寡占、独占状態を招いてしまった。市場原理主義者は、独占、寡占状態にするために、競争を煽ってきたのではないのかと勘ぐりたくもなる。

 市場経済は、市場を絶対視したとき破綻する。なぜならば、市場は、意識による所産であり、本来、相対的な仕組みなのである。

 生産手段もある。生産量もある。働き手もいる。なのに、必要な財が社会全般に行き渡らなくなり、貧困や飢餓が生じる。これは、市場と言うよりも分配の問題なのである。つまり、分配の仕組みが有効に機能しなくなっているのである。市場は、その分配の仕組みの部分に過ぎない。むろん、一部分が機能しなくなり、その結果、全体が上手く機能しなくなるという事もある。しかし、それでも全体の問題を無視することは出来ない。
 全体の問題とは、分配の問題である。そして、労働の問題である。

 市場経済を成立するための、重大な要素は、所得である。所得とは、収入である。収入は、現金によって支払われる。現金というのは、現在の貨幣価値である。現在の貨幣価値というのは、その時点、その時点での貨幣価値を示す。つまり、不変的価値ではなく。相対的価値である。ここで生まれた貨幣が分配機能の仲立ち、仲介をする。つまり、貨幣が万遍なく行き渡っていないと市場は機能しないのである。
 所得は、労働によってもたらされる。故に、労働を創出すると、同時に、それに相当する貨幣、即ち、紙幣を用意する必要がある。紙幣は、債権と、債務を生み出すのである。そして、債務が、信用制度の土台を形成する。
 問題は、貨幣の供給と制御なのである。市場が機能しなくなったのは、市場に問題があるのではなく、エネルギーが欠乏していることにある。つまり、いかにして、エネルギーを市場に供給するかの問題なのである。

 所得とは、貨幣の獲得である。それは、購買する権利を獲得することであり、基本的には現金で為される。現金とは、現在の貨幣価値を現した物である。現在の貨幣価値とは、その時点、時点の価値と言う事である。貨幣は、権利を行使する事によってはじめ価値が発揮される。
 
 所得は、現金で支払われる。現金は、その時点、その時点の貨幣価値である。つまり、市場で、同額の価値を持つ財と交換できる権利である。つまり、現金というのは、ある種の債権である。その効果は、市場において権利を行使した時に実現する。つまり、実際は、行使した時点の価値を意味する。その時点、時点というのは、そう言う意味である。
 しかし、現金で示される価値は、その時点、時点における額面が指し示している財である。しかし、財の価値は一定ではない。現金の裏付けとなった債権、そして、債務の価値は、それぞれ、固有の変化をする。この変化が、利益の素となるのである。

 ここで考えなければならないのは市場を構成する要素である。つまり、市場は、財と財とを交換する場である。その媒介をするのが貨幣である。貨幣経済下では、市場は、物々交換の場ではない。つまり、貨幣が仲立ちをするのである。この媒介物である貨幣が交換に必要なだけ、市場に流通していることが前提となる。
 貨幣を市場に流通する手段は、所得である。つまり、所得を通じて貨幣は、市場に流通する。一定量の貨幣を流通させるためには、所得がなければならない。

 もう一つ重要なのは、貨幣、固有の性格である。貨幣、特に、紙幣は、それが成立する時点で債権と債務を発生させる。貨幣の債務とは、公的な債務である。公的な債務は、貨幣の信用の裏付けを意味する。即ち、与信である。

 典型的なのは公共事業である。公共事業は、国家の債務を増加させる。それは、返済されない限り、累積される。国家債務の原資は、国家の所得である。最大のものは、税である。税収に代表される国家の所得で賄えなければ、国家債務は増え続けることを意味する。

 借金も収入なのである。借金をし続けることが出来たら、経営は、破綻しない。リーマン・ブラザースも、山一証券も借金が出来なくなったから、破綻したのである。それは国家も同じである。しかし、国家債務の増加は、貨幣の流通量の増加も意味する。それは、貨幣価値の信認の低下も意味する。それは、インフレーションという現象として現れる。

 インフレーションもデフレーションも根底には、債務問題が横たわっている。

 自由経済は、借金の技術の発展によって支えられてきたと言える。その陰で金貸し、即ち、金融機関が発達してきたのである。

 貯蓄と言い、預金であると言うが、それが反面、金融機関への貸付であることを忘れてはならない。

 金融市場というのは、債務を膨らませながら、拡大していくのである。そのことの持つ意味、働きをよく考えないと金融市場の在り方は、判断できない。金融市場を野放しにすることほど危険なことはないのである。

 企業経営も債務を増やしながら、成長するのである。資産、即ち、債権と債務が均衡しているときは、企業経営も市場も安定が保たれている。この均衡が崩れると、市場も経営も流動的になるのである。相互抑制が効かなくなり、制御が出来なくなる。
 債務が梃子となって上げが上げを呼び、下げが下げを呼ぶ仕組みが、市場内部でも企業内部でも働くのである。
 市場では、価格が上昇することによって担保価値に余裕が出来る。価格が、下落することによって担保価値が不足する。その余裕がある一定の水準を超えると、上昇が始まり。一定の水準を超えると下落に転じる。同様の働きが企業内部でも働く。

 この様に、貨幣経済は、債務を土台として成り立っている。(この場合、貨幣経済と言うよりも紙幣経済と言った方が妥当かも知れない。)そして、現在市場で起こっている現象の多くは、貨幣的な現象だと言う事である。

 債務を土台にした信用制度の上に、貨幣経済も市場経済も立脚している。それが現在の資本主義の行く末を暗示している。我々が取り組まなければならないのは、この事実の上に立って、いかに、利子と利潤と所得を確保し続けるかである。そして、いかにして、利子と利潤と所得を生み出し続けられる仕組みを構築するかである。

 レパレッジとは梃子のことであるが、レパレッジ効果は、上昇局面だけでなく、下降局面においても働くのである。
 レバレッジ効果によって巨額の資金を得たとしても結局それと同じだけの債務が発生していることを忘れてはならない。また、相場と言っても、所詮、市場の範囲内でしか取引は出来ない。巨額の資金を動かし、市場を支配し、操ったつもりになっても、市場を機能不全に陥らせただけに過ぎないのである。
 畢竟、市場占有率の問題に還元される。市場をある一定以上占有すると自分の存在によって、自分が規制されてしまう。自殺行為である。

 債務を膨らませて利益を上げるのは、巨大な風船の上に乗っているようなものである。いくら資産価値があるといっても、それは仮想的に作られた価値である。売れば萎んでしまうのである。買えば膨らみ、売れば萎む。買い出せば、買い続けなければならない。借りたら、借り続けなければならない。それが買わんが為に買う。借りんが為に借りるという事である。そして、必要な金は、借りた物を転用する以外になくなる。

 現在、経済上の判断の多くは、善か悪かではない。是か非かでもない。皆が同じ方向に走っているかである。例え、それが犯罪行為に近いとしても、また、危険な賭だとしても、とりあえずは、皆が走っている方向に走れば間違いがないのである。しかし、その暴走が、時として市場の構造を破壊してしまうことがある。

 なぜ、是々非々の判断が下せなくなるのか。何よりも時間が与えられていないのである。目まぐるしく変化し続ける状況や環境に対し、瞬時に判断をすることが要求される。つまり、変化なのである。それは時間である。一刻一刻が価値を持つようになってから余裕がなくなってしまったのである。そして、とにもかくにも時間的価値に見合うだけの利潤をあげることが要求されることになる。良いか、悪いかなど、かまっている暇はないのである。

 債権は、債務を、債務は債権を常に引きずっているのである。そして、両者の相互牽制によって一方向的な運動を抑制しているのである。例えば、無制限な成長のような・・・。
 市場は市場の範囲内でしか活動できない。仮に、金融市場を支配するような圧倒的な資金力を持った者が出てきたとしても、市場の範囲を越えることは不可能なのである。即ち、それは、結局、市場占有率の問題になる。そして、市場の占有率が高くなればなるほど、市場の機能は低下し、市場を支配しようとした者は、所与の目的を達成することが出来なくなる。結局、強味であるはずの資金力が破滅に導くのである。

 相場が上昇するのは、相場自身の論理、力関係によっててである。ファンダメンタルがどうのこうの言っても現実の方がずっと説得力がある。上がるはずがないと言っても上がっているし、下がるはずがないと言っても下がるのである。相場にあり得ないという事はない。あるのは、歴とした事実である。

 市場の独占もまた然りである。市場を独占することは、市場を自由に出来ることを意味するのではなく。市場を機能不全に陥らせているだけなのである。重要なことは、我々は、市場に何を期待しているか。ありていに言えば、我々は、市場をどうしたいのか。どの様な働きを期待しているかが一番重要なのである。

 そして、独占が市場経済にとどめを刺すのは、経済的な動機によってではなく。権力欲によってである。それは、資本主義や自由主義という主義主張ではなく。全くの欲望、それも古典的な独占欲によってである。だからこそ、独占は、市場を独占した者をも破滅させてしまうのである。

 成長を促す働きは、衰退を促す働きでもあるのである。成功の要因は、敗因でもある。市場を活性化する競争は、市場の終焉をもたらす競争でもあるのである。

 私は、国際的に市場が寡占、独占状態になりつつあるのを危惧する。それは、市場経済にとどめを刺すことになるであろう。そして、それは、かつて、マルクスが予言したように資本家にもとどめを刺すことを意味する。それはまた、資本主義の終焉でもある。

 計画経済の計画とは何を指すのか。生産や消費を計画することを意味するのか。それとも仕組みや制度を計画的に建設することを意味するのか。そこに誤解がある。市場を計画的に築いたからと言って市場の自由な活動を阻害したり、否定したりはしない。つまり、市場と計画は本来両立するものなのである。
 同様なことは規制にも言える。ルールがあってスポーツが成立するように、規制こそが市場を成立させているのであり、規制をなくすことは、市場を破壊することである。
 むしろ、無計画こそ、無原則こそ、無規制こそ市場を終焉させてしまう。

 かつて、宗教裁判にかけられた多くの科学者は、神を否定したわけではなく。むしろ、信仰に基づいて自然の摂理を探求したのである。市場の摂理を探求する者は、市場を否定しているわけではない。現代の宗教裁判は、市場と神とを同一している。だからこそ原理主義と言われるのである。

 市場は、神が創られた仕組みではない。人間が作り上げた仕組みである。市場が上手く機能しないからと言って神を呪うのはお門違いである。市場の出来事は、人間が全て責任を負うべき事なのである。
 神のものは神へ。人間のものは人間へ。








                    


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