市場規模と経済構造


 サブプライム問題で顕在化した住宅問題というの本質は、住宅価格の問題なのか、住宅の供給量の問題なのか、住宅の生産量の問題なのか、住宅の在庫量の問題なのか、所得の問題、もっと突き詰めて言えば、所得格差が問題なのか、また、住宅ローンや証券化、金融工学といった金融の問題なのか、それともモラルハザードの問題なのかと問題点の背後は決して単純ではない。
 一つの要因を指して、これが、金融危機を起こした原因だと特定することは不可能である。なぜならば、先に挙げた要因全てが複雑に絡み合って金融危機を引き起こしたからである。

 ただこれだけは言える。サブプライム問題の根底には、住宅を買えない階層の問題がある。これは、所得格差の問題である。所得格差が解消されないと経済の抜本的な解決には結びつかない。なぜならば、住宅を購入できないと言う階層は、購買力、消費力を期待できないからである。住宅産業にとって「お客」様にはなりえない階層なのである。どんなに富裕層が増えてもその購買力には限りがあるのである。
 経済格差の弊害は、ただ社会正義という観点だけでなく、経済的意義においても購買力という基本な問題が隠されているという事を忘れてはならない。経済格差を生み出す仕組みこそが、金融危機を生み出す元凶だとも言えるのである。

 金融危機の震源地は、経済の基礎構造にある。経済の基礎構造が市場に現象として現れ、金融危機を引き起こしたのである。故に、金融危機の原因は、根深いものであり、経済構造の歪みを正さない限り、抜本的な解決は望めない。

 経済現象は、構造的な事象で、表面に現れている現象だけではその原因は、掴めない。例えば、2008年のリーマンショックに始まったとされる金融危機も実際は、もっとずっと以前に端を発している。極端な話し、市場経済、貨幣経済が成立した時点まで遡らなければならない。

 サブプライム問題の背景となった住宅バブル以前にITバブルの崩壊があり、その崩壊に対する処理として行われた金融緩和が住宅バブルの原因となったとされている。

 金融危機は、貨幣経済、市場経済を構成している基盤の構造上の問題とも言える。つまり、市場経済の土台の問題なのである。金融危機の芽は、市場経済が成立した時に組み込まれているとも言える。だからこそ、根が深いのである。

 市場経済が基盤になるにつれて市場規模の問題が重要になる。市場の規模はどの様にして決まり、どの様にして測定することが可能なのかである。
 市場と言っても市場には、貨幣的市場、人的市場、物的市場の三つの市場、即ち、場がある。そして、それぞれに一定の規模を持っている。この三つの場の働き、均衡によって経済現象は引き起こされる。
 経済現象は、三つの市場が均衡することによって安定する。ところが、三つの市場を構成する要素も目的も、支配する法則も、機能も全く違うものである。それぞれの市場は、お互いがリンクし、相互作用を及ぼす反面、独自の働きや運動をしているのである。

 物的市場が存在するためには、物的経済が前提となる。そして、市場が成立すると言う事は、内部経済と外部経済の存在が前提となる。経済の成立過程を考えると先ず内部経済が成立され、その後、外部経済が成立したと考えられる。内部経済と、外部経済を分けるのは、経済主体である。
 物的経済における内部経済は、生産と消費を基本とする。必要な者を必要な時に、必要なだけ生産する。それが、内部経済が成立したときの原則である。それが、農耕や遊牧が成立することによって備蓄ができるようになると生産と消費に保存が加わる。そして、保存が可能になると生活に計画性が生じる。そして、農耕民族には、定住が加わることになる。ただ、この時点でも自給自足が原則であり、外部経済は、成立していない。
 市場は、経済主体と外部との接触、交流があって始まる。市場経済が成立する以前の内部経済と外部経済の関係は、支配関係である。即ち、力による強奪関係と掠奪関係である。

 物的市場と同様、人的市場が成立するためには、人的経済が前提となる。
 人的経済における内部経済は、労働と分配が基本である。どれだけの人口が生産活動に参加することが可能か、どれだけの人口を養わなければならないのかが、人的経済を決定する要素である。
 どれだの人口を養うのか、その比率や分布の問題は、育児、養育、医療、介護の問題でもある。

 夫婦間というのは、金銭的契約関係で成り立っているわけではない。この様に経済主体内部の人的経済関係は、貨幣的関係と一線を画しておく必要がある。

 企業や政府では、組織の経済性の問題である。組織の経済というのは、人の経済である。人間関係に立脚した経済である。

 人的経済を決定する要因は、人口問題である。人口の増加率、そして、人口密度、人口構成が、重要になる。人口の増加率は、出生率と死亡率に関係する。人口の構成は、その経済主体の生産力と消費力に関係する。

 人的経済で重要なのは、労働人口、労働時間、労働環境と労働に対する評価の問題である。そして、労働の成果をどう生活主体に結び付けていくかの問題である。厚生の問題である。
 また、労働によって獲得した財を何に基づいてどの様に、何に基づいて分配するかの問題である。その際、交換手段である貨幣収入を担う人間に権力が集中する傾向が生じる。それをどの様に緩和するのかが重要な課題となる。貨幣収入を得るための労働だけが社会的労働の全てではない。
 つまり、非貨幣的労働に対する評価の問題である。特に、出産、育児、家事といった家内労働、消費労働をどう評価するかの問題である。
 出産というのを仕事と言うのに抵抗が生じるのは、出産を「お金」を得るための労働と同一視する事に語弊があるからである。つまり、出産をそれ程、神聖視してきたのである。ところが、近年、「お金」を得る労働に重きを置くようになってきたことから相対的に出産が軽視されるようになってきた。これは、人的経済から見て深刻な人口問題を引き起こしている。
 また、不労所得をどの様に扱うのかも重要となる。労働は、経済的価値を得る権利を形成する要素だからである。

 人的経済を成立させている要素は、労働の他に分配がある。
 分配には、第一に公の取り分、第二に、共同体の取り分、第三に、私的取り分がある。公の取り分というのは、金銭的に言えば、税金である。共同体の取り分というのは、家計、家族の取り分である。そして、私的取り分というのは個人の取り分である。この分配の仕方、仕組みが社会の構造、骨格を形成する。
 分配というのは、個人の側から見ると報酬である。経営主体からすると、賃金、給与の問題である。また、公の立場から見ると再分配の問題である。そして、それは、評価の問題でもある。
 分配と評価は、作用と反作用の関係にある。そして、労働と評価も作用反作用の関係にある。という事は、労働と分配は、評価の仕組みを通じて作用反作用の関係になる。
 そして、評価は、配分の問題である。配分の問題は、格差の問題である。そして、再分配は、格差の是正の問題である。
 公への配分は、公の費用の問題である。公の費用の問題は、公の役割の問題である。厚生と再分配の問題である。

 また、分配は、消費経済と直結している。故に、分配は消費の問題でもあるのである。

 そして、この物的要素と人的要素が経済主体の制約範囲を特定する。

 貨幣経済は、この物的経済と人的経済の成立の上に形成される。従属的経済である。故に、貨幣経済も従属的市場である。

 バブル崩壊に端を発する金融危機によって生じた不良債権の問題は、不良債権処理の問題ではなく。政策の不在の問題である。単に表面に現れた数字の問題と言うより、その背景にある国家思想、国家構想のが重要なのである。つまり、どの様な国にするのかを明らかにすることなのである。どの様な国にするのかという構想もないままに、公共事業を増加させたり、国債を発行することが問題なのである。そして、税金の無駄遣いとしか言えないような開発によって環境を破壊する愚を犯し続けていることが問題なのである。金の問題と言うより、それ以前の問題である。

 金融工学に対する間違った認識が定着してしまったきらいがある。金融工学というのは、投機の科学ではない。それに、金融市場にのみ限定的に捉えるべき工学ではない。物的市場、人的市場、貨幣的市場とを結び付ける空間にこそ金融工学は活かされるべきなのである。

 物的経済で重要なのは、生産と消費である。そして、人的経済で重要なのは、労働と分配である。これらを実現する場が経済主体である。つまり、企業であり、財政であり、家計である。これら経済主体にとって内部経済と外部経済との均衡を保つためには、収入と支出の均衡が前提となる。この収入と支出も物的収入と支出である。それを実現するために、貨幣的収入と支出が大切なのである。主たるは、物的な要素である。

 本来、人々の生活に必要な財があれば、経済は、成立するのである。つまり、経済の基盤を為すのは、人的、物的要素であり、金銭的要素ではない。それを忘れて、金銭の動きだけに囚われると経済の実相、また、貨幣の働きの意味を見失うことになる。
 経済は、物的、人的実体を基にして考えるべきであり、貨幣的現象は、その前提の上に考察されるべきなのである。

 物的市場を構成する要素は、物・財である。人的市場を構成する要素は人と関係である。貨幣的市場を構成する要素は、貨幣である。貨幣経済では、これらの市場を結び付けている媒体は貨幣である。或いは、貨幣の象徴される情報である。
 物的市場の目的や働きは、生産と消費、物流である。人的市場の目的や働きは、労働と配分である。貨幣的市場の目的や働きは、財の交換と循環、調整である。
 物的な市場は相場によって乱高下し、人的な市場は、固定的である。それに対して、通貨は、貨幣の運用上効率的な市場を求めて流れている。
 この様に物的市場、人的市場、貨幣的市場はそれぞれが構成する場の法則に従って独自の運動をする。独自の運動をするだけでなく、貨幣という媒体によって相互に結び付けられているのである。

 故に、経済を制御するためには、それぞれの市場の性格をよく理解した上で、市場前提が均衡するような施策を講じる必要がある。
 重要なのは、市場を構成する要素を生み出し、その働きを制御する仕組みと基盤である。財は、どの様にして生産され、運ばれ、消費されるのか。労働は、どの様にして生み出され労働の成果はどの様な仕組みによって配分されるのか。貨幣は、どの様にして成立し、何によって循環し、制御されるのかである。また、貨幣を成立させている要素は何なのかである。

 たとえば、インフレーションが好例である。

 インフレーションにも、通貨の量によって引き起こされるインフレーションと実体経済が引き起こすコストプッシュインフレーションがある。コストプッシュインフレーションにも、原材料などの実物が引き起こすインフレーションと人件費などの労働費用が引き起こすインフレーションの二種類がある。

 通貨の量が引き起こすインフレーションは、貨幣的市場の働きが物的な市場に影響を及ぼすことによって起こる現象であり、コストプッシュインフレーションは、原材料の上昇が貨幣価値を押し上げる現象である。

 市場の運動を理解するためには、市場全体の動きと市場を構成する要素、部分の動きを分けて考える必要がある。
 また、市場の運動を理解するためには、市場の規模を特定する必要がある。貨幣的市場、人的市場、物的市場は何によってその規模が測られるかが重要なのである。
 市場の動きは、変化である。市場の動きを理解するためには、変化、即ち、時間の概念を経済的価値に組み込む必要がある。

 経済の運動を理解するには、規模が拡大しているか。一定か。縮小しているのか。また、何によって変動しているのかが重要な鍵を握っているのである。

 市場の規模の拡大、縮小は、時間価値の上昇率の差によって測られる。
 時間価値とは、成長率、利子率、利益率、所得の上昇率、株価の上昇率、地価の上昇率などである。

 また同時に、何によってそれぞれの市場は接続、リンクしているかが、市場間の相互作業を解明する鍵を握っている。

 人的市場は、所得と消費によって形成される場である。故に、人的市場の規模は、所得によって測られる。

 所得と消費によって作られる場である。所得の源泉は、付加価値である。付加価値の中でも人的要素の基礎となるのは労働である。労働は雇用として顕在化する。
 消費の源泉は、生活水準である。故に、消費の規模は生活水準によって決まる。
 つまり、人的市場の規模は、失業率と生活水準と貯蓄率によって決まる。

 所得と消費は、収支の問題である。つまり、収入と支出である。収入と支出は、現在的貨幣価値の実現であるが、収入と支出の差は、貯蓄に廻される。貯蓄は、債権と債務を派生させる。
 預金や利益、負債は、時間と伴に累積する性格がある。

 預金は、運用を前提とした銀行の借入金、預金者の債権である。つまり、預金は、視点を変えると借入金である。

 貨幣的市場の規模は、債務の残高によって決まる。

 実物市場は、財の需給によって成り立っている。即ち、市場の規模は、財の需要量と供給量によって規制される。財の需要量の基となるのは、消費量であり、供給量の基となるのは、生産力である。故に、物的市場の規模は、消費量と生産力によって決まる。

 人的な市場の決定的な要素は人口である。人的市場の土台には、人口問題が隠されている。人口問題は、人口の構成によって形成される。人口構成は、人的市場の基盤を構成する要素なのである。

 人的市場において重要なのは、一人あたりの実質的所得と実質的生活水準である。それは、実際に供給される財の量と人口との関数で表される。

 人的市場は、所得と消費と貯蓄によって形成される場である。人的市場の規模は、所得と消費によって規定される。故に、人的市場の規模は、所得によって測られる。

 人的市場における貨幣の効用は、労働と分配を仲介することにある。その貨幣の働きが重要なのであり、その貨幣の働きを最大限に発揮させる仕組みを構築すべきにのである。

 所得とは何を担保としているかである。所得は、人的収入である。つまり、所得が担保しているのは、人的収入の源である。人的な収入というのは、最終的に人に帰属する収入をそして言う。属人的収入である。故に、企業も法人と見なす。人的な収入の源の最大の要素は、労働である。つまり、所得は、労働を一番多く担保している。
 人的市場では、労働を担保して資金が供給される。

 即ち、所得の問題は、労働の問題である。労働の何を評価し、それをどの様にして所得に結び付けるかの問題である。

 所得は、消費と貯蓄になる。消費の基盤は、生活である。生活は、家計に反映される。家計とは、実質的な生活水準に基づく。それは文化なのである。
 つまり、人的市場を左右する要素は、人々の価値観やライフスタイル、生活なのである。

 人々の消費性向を表す指標で代表的なものにエンゲル係数がある。家計の中に占める食料費によって生活実態を測る基準をエンゲル係数という。エンゲル係数は、経済の持つ意義の一面を表している。
 我々は、ただ、金銭的な面だけで経済を捉えるのではなく。物質的な面からも生活実態を捉える必要がある。経済の実相は、物質的、人的な物にある。貨幣役割は、本来、人の欲求と財とを仲介する事にあるのである。
 物と人との関係が見失われ、金銭的現象に拘泥してしまうと経済の実体は見えなくなってしまう。

 企業の重要な役割の一つに所得の平準化にある。所得の平準化とは、所得を定収入化する事である。収益には、波がある。その波に合わせると所得にも波が生じ、不安定なものになる。
 消費は、収入の範囲内で計画される。消費には、固定的な部分と変動的な部分がある。生活に必要な物、即ち、必需品の消費は、固定的である。必需品の物価は、生活水準の基盤を形成する。
 それに対し、変動的な部分の消費は、嗜好的である。嗜好品に必要な資金にも一定の波がある物とない物がある。それによって必要資金にも波がある物とない物がある。波のある物にも長期的な資金による物と短期的な資金による物とがある。前者の典型が住宅であり、後者の典型が衣服である。

 所得は、消費と貯蓄の和である。消費は、必要性と嗜好性によって決まる。将来に人々が不安を感じると嗜好的出費は、減少する。所得が一定ならば、その分、貯蓄が増える。貯蓄の多くは、銀行の預金や投資に向けられる。銀行の預金は、金融機関への貸付金であり、銀行に取っては借入金である。

 また、貯蓄は、借入は時間の関数でもある。つまり、貯蓄の量、その対極にある借入の量は、時間的に蓄積、堆積される。

 定収から固定的出費を引いたものが可処分所得であり、可処分所得の中から貯蓄に廻る所得の量が経済に重要な働きをする。

 家計は、安定を好む。出費は固定的だからである。つまり、費用は予測が可能で計画が立てやすい性格を持っている。

 定収を土台にして借金計画も立てやすい。借金とは、将来の収入を担保しているからである。

 経済的価値に時間軸を加え、一定の収入を確保する一方で借金の技術を開発し、購買力を増幅したのである。

 失業は、人的市場の縮小を意味する。つまり、人的市場が生み出す貨幣量を減少させる。また、所得の伸びの低下も同様に人的市場が生み出す貨幣価値の伸びを低下させる。
 もう一つ重要なのは、定収という前提を破綻させることである。それは、経済価値の時間軸を無効にしてしまうからである。

 失業の決定的な問題点は、分配機能を機能不全に陥れることである。所得が行き渡らなくなることで、分配構造が機能不全に陥ることで市場が機能しなくなるのである。
 だから、不況時に公共投資をする必要性が生じるのである。

 不況時における人的市場の問題は、労働と分配の問題ではあり、生産量や効率性の問題ではない。

 人的な市場の問題は、基本的には、人間関係の問題であり、貨幣、即ち、「お金」の問題ではない。ただ、貨幣を媒体にして人間関係が表現されるのである。つまり、個人の経済的権利が貨幣価値に還元されるのである。つまり、貨幣は、経済的権利を行使する手段に過ぎない。「お金」は、手段として重要なのである。

 実物市場で重要なのは構造的問題である。

 物的市場の根源は、生産と消費である。いかに効率よく生産し、消費するのかが物的市場の重要な課題である。。余剰な生産や無駄な消費は、物的な市場の効率を低下させるのである。この点を多くの経済学者は理解していない。ただ収益性や採算性だけで市場の効率を判断しようとする。物的市場において重要なのは、有限な資源をいかに有効に活用するかにあるのである。

 物的な市場においては、生産性がよく問題とされるが、生産性と同じくらいに重要なのが消費である。

 過剰生産、過剰消費による市場の飽和状態や消化不良状態が経済現象の下地を形成している。豊作貧乏、大漁貧乏という言葉もあるくらいである。この様な過剰生産や過剰消費の影響が経済現象を解析する上で、見落とされている場合が多い。そして、金融政策さえ施していれば経済的現象は解決できると、多くの為政者は、思い込んでいる風潮がある。しかし、経済の根本には、常に、物質的問題や人的問題が隠されているのである。

 物的市場は、複数の市場が複合的に、相互に関連しながら組合わさってできている。それぞれが固有の構造を持ち独自の運動をしている。

 財の生産力は、財固有の要素による。例えば、生鮮食料品は、天候や作柄に左右されるし、工業製品は、設備投資や在庫量に左右される。原材料、産地の政治状況に左右される。

 実物市場と貨幣的市場を結び付けているのは価格である。即ち、物価である。

 貨幣市場の特徴は、市場の内部を常に貨幣が循環している必要がある。つまり、流動性が重要だと言う事である。
 そして、貨幣の量と貨幣価値は相関関係にある。

 貨幣的市場は、貨幣が作り出す場であるから、貨幣価値の量が市場の規模を規定する。貨幣価値というのは、与信量でもある。与信量というのは、何を担保とするのかの問題でもある。
 債務というのは、何等かの債権を担保する。そして、その債務が貨幣価値を生み出すのである。つまり、貨幣価値は、債務を土台として成立する価値である。故に、貨幣価値の総量は、債務の残高である。
 かつては、金を担保したが、金以外でも土地や株を担保とする場合もある。例えば、石油や食料と言った物である。その様に貨幣の裏付けとなる担保として、よく活用されるのが、土地である。所謂、バブルというのは、地価の高騰によって引き起こされることが間々ある。それは、土地本位制度とも言える現象である。
 また、先物市場や証券の技術発達は、仮想的財を担保する事を可能とした。そのことによって貨幣価値が担保する物が実物から乖離し、逆に、実体経済に作用する傾向が出るようになった。先物や証券化は、レバレッジ効果を利用して実体的価値を増殖することを基本とする。
 つまり、実物市場の実力以上に貨幣価値が膨らませるのである。その結果、実物の貨幣価値の総量よりも市場の貨幣価値の総量の方が何倍も大きくなる。それがバブルと言われる現象である。バブルは、レバレッジ効果により、実体よりも過大に評価される事によって生じる現象であるから、バブルが弾けると信用収縮を伴うことになる。

 貨幣の問題は、実は、主として流動性の問題なのである。資金の流れる量と方向性の問題である。資金の流量が以上に増えると過剰流動性が生じる。
 2008年の金融危機の際、問題となったのは、短期金融市場に資金が供給されなくなり、資金の流れが停滞したことである。
 それ以前に過剰流動性が国際的に発生し、行き場を失った資金が地球規模で効率的な市場を求めて彷徨ったのが危機の前提的状況を形成した。
 過剰流動性というのは、いわば、資金の洪水のような物である。本来市場に染み込むはずの資金が何等かの理由で、市場の表面に溢れ出し、市場の表面にある構造物を破壊してしまうのである。

 資金は、優良な投資先を求めて流れる。しかし、市場が飽和状態になると貸し先として優良な投資先が見つかりにくくなる。
 その理由は、投資の性格による。産業は、初期投資が完了すると資金の回収と返済に向かうため、新たな資金需要は、上積みの資金投資か更新のための資金需要に限られるようになる。上積みというのは、追加的な投資による資金需要である。

 預金は、運用を前提とした銀行の借入金、預金者の債権である。つまり、預金は、視点を変えると借入金である。
 借りる人間がいるから貸す人間もいるのである。そして、それを仲介しているのが貨幣である。
 借り手がいて金貸しは成り立つ。借家人がいて大家は成り立つ。それを仲介するのがお金であり、それ故に、貨幣は生じたとも言える。
 お金が先か、借り手や金貸しが先かは、卵が先か鶏が先か喩えに似ている。

 資金の流れる方向と量、水準を制御する必要がある。
 乗数効果というのは、通貨の回転によってもたらされる効果である。つまり、通貨の回転を制御する事によってその効果は、ある程度、調節することが可能である。

 財の価格は、需要量と供給量によって調整される。故に、価格の問題は、財の需給の問題に還元される。
 財の需要量は、財の必要量と消費量に依拠し、供給量は、財の生産力と、在庫力、運送力に依拠する。そして、需給を制御するのは情報である。

 産業構造を解析する上で、重要なのは、情報の追跡性である。情報をどこまで辿れるかが重要になる。

 財の価格の変動には幾つかの形がある。
 価格は、財の生産量と消費量によって決まる。価格の変動要素は、産業の在り方によっても相違する。
 経済の変調の基準を名目的物価上昇率に求めると、名目的な物価変動と同じ動きをする財、実質的物価の変動と同じ動きをする財、名目的物価の変動に対して下落する財と上昇する財、乱高下する財、また、為替の変動に連動する財、原材料の変動に影響される財などがある。

 産業は合目的的であるのに、それが失われたのが問題なのである。
 産業には、個々の産業固有の目的がある。また、雇用の創出や経済の効率化と言った普遍的な目的がある。
 企業が果たす役割は、短期的な視点だけでは捉えきれない部分がある。

 不況時には、産業は、収益力が低下する。収益だけを問題にすると産業本来の目的が見失われる。例えば、雇用の創出や財の社会的効用というような部分である。
 そして、産業本来の目的とは無関係に資金の供給が止められてしまう。その結果、経済の働きが停止してしまうのである。
 問題は、産業の収益力が低下した原因であって、結果ではない。金融機関に求められる働きは、不況時に資金の流れを停止することではなく。逆に円滑化することなのである。それが金融産業が持つ本来の目的である。

 不況時にこそ 雇用と新規投資が必要とされるのである。

 産業革命以降の生産技術の発達に伴い物不足、特に、食糧不足によるインフレーションというのは顕在化しなくなり、インフレーションやデフレーションと言った経済現象は、専ら貨幣の振る舞いによってのみ起こると考えられるようになった。確かに、貨幣経済上に現れる経済現象は、貨幣の振る舞いに他ならない。しかし、それは貨幣経済上に現れる現象だからであり、その様な経済現象を引き起こす原因は、物不足や人口の問題が隠されている。

 所得が平準化されると所得は、下方硬直的になる。それに対し投資と消費には、所得と投資、消費の差は、預金に廻る。
 預金は、金融機関の債務となる。預金は、銀行にとって運用を前提とした借入である。投資や消費が減少すると金融機関の借入が増加する反面、貸出先が減少する。
 銀行は、優良な貸出先を求めるが、実物市場が飽和状態になると上積みの資金需要か更新の資金需要しか期待できなくなる。
 そうなると、資金は、金融市場で自己増殖せざるをえなくなる。余剰資金が金融市場に溢れることになる。それが過剰流動性であり、過剰流動性は、実体のない投資であるからバブルを生み出す原因となる。

 バブルによって生じた債務の総和は、名目的貨幣価値の総和と一致する。バブルが発生するのは、一つの市場に限定されているとは限らない。一般に、バブルは、複数の市場で、同時に起こることが知られている。例えば、日本のバブルは、不動産市場と資本市場で同時に発生している。一つのバブルが弾けても名目的な価値が減少しない限り、即ち、債務の総和が減少しない限り、市場全体の債務は残存するのである。

 バブルが崩壊すると残されるのは、過剰債務の問題である。なぜ、過剰債務の問題が残されるのかというと、債務が名目的な価値だからである。バブルが崩壊すると言ってもそれは、実体経済が本来の価値を取り戻す過程で生じることである。故に、実物市場は急激に冷え込むことがある。しかし、名目的な価値である債務は、その額面、即ち、名目的な価値は残される。債務は、紙幣の裏付けである。つまり、貨幣の供給量は、急速に減少するのではなく、緩慢に減少する。この実質的価値と名目的価値の動きの差が経済にいろいろな障害を引き起こすのである。

 資産、負債、資本、収益、費用の中で、最も名目的な価値が確実なのは、負債である。故に、会計的発想は、負債を梃子にしてなされる場合が多い。
 不良債権というのは、実体は、不良債務の問題なのである。

 バブルで問題なのは、実物市場から資金が閉め出されていることである。例えば、地価の異常な高騰によって投機目的の住宅が、実際に住むための住宅に向かう資金を閉め出してしまうことである。その為に、バブル崩壊後は、ゴーストタウンのような高級住宅街が乱立することになる。

 現代人は、「お金」の価値、貨幣価値に関して幻想を抱いている。高額な物は何か高級な物と勘違いをしたり、高給を取っているだけで、人間も偉大であるかのように錯覚をしている。しかし、実際の価値は、物そのものにある。所得の多寡で人格を判断するのは愚かなことである。その人の人格は、その人自体にある。その人の収入高にあるわけではない。何が上等で、何が、下等なのかは、そのもの自体の価値を見極める目を研ぎ澄ます以外にない。ところが、現代人は、いつの間にか貨幣価値で物の価値を測るように慣らされてしまった。

 衣服にしても、現代は、高価なブランド物が流行っているが、高価なブランドが高品質を保証していると思い込んでいるに過ぎない。つまり、現代人の多くは、品質に価値を見出しているのではなく。価格に価値を見出しているのである。

 経済上に現れてくる貨幣価値の総量は、巨額なものである。数字によって表された社会的価値の総量に幻惑されるが、それでは、自分達一人一人の生活実感から推し量って世の中の価値はそれほど増えたと言えるであろうか。それ以上に現代人が失った物の価値の方がどれ程大きいことか、思い起こす必要がある。

 我々の生活水準が向上しているといえるか、どうかは、多分に主観的な問題である。

 例えば、住宅の問題が典型である。現代人の住環境は、確かに一定時期まで改善されてきたように思える。しかし、敷地面積や床面積、通勤距離、居住性、地域、環境など総合的に見て改善されていると言えるであろうか。単に、価格だけでは、住環境が改善されたとは言えない。高額な住宅が高級だとは限らないのである。

 単純に貨幣価値に現れる生活水準だけでなく、物質的な意味での生活水準も検証する必要がある。物質的な生活水準こそ実質的な生活水準である。
 我々は、今の生活水準、テレビがある、電話がある、自動車があると言った生活水準を当たり前なものとして受け容れている。しかし、それは、産業革命という生産革命を前提として成り立っていることを忘れてはならない。経済はいずれは、物質的限界の上に成り立っているのである。

 実際の経済は、「お金」が中心で廻っているわけではない。お金はあくまでも媒体に過ぎない。経済の実態は、物と人にある。それを繋げるのが貨幣、即ち、「お金」の役割である。「お金」は、常に脇役、従でなければならないのである。ところがいつの間にか「お金」が主役になってしまった。「お金」が主役を演じるようになったあたりから経済は、おかしな動きをするようになったのである。
 
 戦後の日本人は、物の溢れた世界で育っている。故に、物不足を経験していない。しかし、太平洋戦争の終戦長後は、大変な物不足に陥った。そして、インフレーションに襲われたのである。
 現実の経済というのは、人と物の関係から生じる。現実の人と物の関係から経済現象が乖離してしまうと貨幣経済体制下では経済が制御できなくなるのである。

 人口問題の本質は、人間にある。エネルギー問題の本質はエネルギーにある。資源問題は資源にある。食糧問題は食糧事情が問題なのである。環境問題は、環境をよくしないと片付かない。本来、「お金」の問題ではないのである。それが経済の実相である。
 それをお金の問題だと片付けてしまったら、問題の抜本的な解決はできない。金の問題は、その実体を反映することによって生じるのである。「お金」が全てだと捉えたらお終いである。
 市場の効率とは、必要な物を必要なだけ生産し、必要なところに必要な時に配分する事を意味する。ただ生産性を高めればいいと言うわけではない。大量生産、大量消費社会は、その根本を忘れている。

 経済性という言葉の意味には、たくさんの意味が含まれている。経済的という場合、物的な意味では、いかに無駄を省き効率よく物を活用することである。節約、倹約こそ経済的なのである。それに対し、貨幣的市場では、いかに多くの利益を上げる事が経済的という意味になる。消費は美徳であり、浪費だとしたも大量に消費することが効率的なのである。人的な意味では、経済的というと効率よく多くの所得を得ることである。

 経済の根本は、生産力と、人口構成と、債務残高にある。この三つの要素が経済現象の鍵を握っている。
 自動車の製造技術と言った何等かの生産手段が開発されると産業が興り、そのお陰で仕事が増え、人口に影響する。それでも大規模な産業を興すためには、先行投資を必要とするが、貨幣経済の発展がそれを可能としたのである。先行投資とは、貨幣的観点から見ると債務である。

 突き詰めてみると経済性というのは、いかに効率よく生産し、消費し、分配するのかに尽きるのである。

 金儲けだけが主になったら、市場が金儲けだけに特化したら、その時、貨幣経済も、市場経済も終焉してしまう。
 「お金」は、食べ物があって、尚かつ、おなかがすいた人、食べ物を必要とする人がいるから成り立つのである。お金だけでは飢えは凌げない。「お金」を食べて生きていくわけにはいかないのである。

参考
「10万年の世界経済史」上・下著 グレゴリー・クラーク 訳 久保恵美子 日経BP社





                    


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