構     造


経済政策に求められるもの


 経済政策の当事者に求められるのは、消防士の役割なのか、それとも、ボイラーマンの役割なのかである。事故が起こってから対処しても遅いのである。故に、当然求められるのは、後者の役割である。第一、経済危機というのは、自然災害とは違う。経済の仕組みは人工的な産物なのである。人間が作りだした仕組みなのであるから、その制御に人間が責任を負うのは、当然のことなのである。
 万が一、事故が起こった場合も人間が善処しなければならない。
 何れにしても、経済がどの様な機構、仕組みによって動いているかを明らかにする必要がある。その上で、監視装置や制御装置を市場に組み込み、どの様に対処するかを予め想定しておく必要がある。

 大きな景気の変動、時には、経済危機のような激変は、何等かの経済政策を引き金にして起こる場合が往々にしてある。多くの場合、経済政策は、手遅れだったり、対処療法的なものになりやすい。だからといって何もしない方が良いというわけではない。

 医療業界が典型であるが、所得の体系に偏りが生じると、産業自体に不均衡を生み出す。看護、介護と言った仕事に過重な負担がかかる。この様な偏りは、健康保険の在り方や賃金制度の在り方のような制度上の欠陥によってもたらされる。特に、所得の偏りは、産業そのものを成り立たなくしてしまう。
 重要なのは、どの様な医療体制を築くかなのである。そして、必要な産業が、必要なだけの収益をあげられるようにするためには、どの様な施策を採るかなのである。結果がよければいいと言うわけには行かないのが経済政策の難しいところなのである。根本は、価値観であり、思想である。
 悪が栄える、つまり、悪徳業者が儲かるような経済体制は、それ自体、悪徳なのである。儲かればいい。儲けた奴が正しいというのは、道徳を否定していることである。詐欺師や麻薬の売人、恐喝者、ギャング、暴力を取り締まれなければ、経済の正常さは保たれない。
 現代の市場経済は、反道徳的な在り方が横行している。この様な経済体制は、人間の叡智に対する冒涜ですらある。経済は、本質的に道徳的なものである。だから、法によって支配される必要があるのである。

 これから、環境問題や公害問題、食糧問題、資源問題などが深刻になった場合、抑制的、統制的な施策を採用する必要も出てくる。
 その場合、規制をただ悪いとしていたら、必要な施策もとれなくなる。何でもかんでも規制を緩和しろ、なくしてしまえと言うのは、自由な市場を維持するという観点から逆行している場合があることを忘れてはならない。

 過剰流動性は、結果であって原因ではない。不況は、結果であって原因ではない。
 現象であって起因ではない。
 経済対策は、予防的な施策なのか。治療的な施策なのか。災害は、起こってからでは遅すぎる場合がある。人類の歴史は、自然災害との戦いの歴史でもあった。毎年のように氾濫する大河や台風、嵐、地震に対し、人類は、堤防を築き、あるいは、護岸工事をして災害を防いできた。台風や地震という防ぎようのない災害は、建物を堅牢にしたり、強風に耐えられるように工夫して対処してきた。それなのに、人工的な産物である経済にたいして、無為自然に任せればいいと言うのは、理解に苦しむ。

 何に対して過剰なのか。なぜ、過剰なのか。過剰なことのどこに問題があるのか。その点を明らかにしないで、ただ過剰だから悪い、悪いというのでは、対策の立てようがないのである。そこで問題となるのは、政策の目的である。

 つまり、経済政策は、常に合目的的な方策であり、その目的が妥当であるか、否かが、最初の問題なのである。

 行政府は、規制によって市場や産業を間接的に制御してきた。規制は、規則であって制約とは違う。

 なぜ、経済政策は、手遅れになりがちなのかというと、一つは、認識の問題がある。現象として現れた事柄から経済危機の兆しを読みとるのは、極めて難しい。
 また、多くの場合、渦中にある者が判断することになるので、どうしても認識が甘くなる傾向がある。なるべくならば良く思いたいからである。その為に、事態を正しく認識するのに時間がかかると言う事がある。
 例えば、バブル現象は、欲に目がくらんで熱に浮かされるようにして金儲けに奔走しているのである。しかも、バブル現象が起き始める時は、誰もが、儲かるように錯覚している。また、同じように投機に走らないと儲け損ない。下手をすると破産してしまう。逆に、バブルが弾けると一斉に資金を引き揚げてしまう。その時に、投資に走っても資産価格が下がっているから、資金を回収することが難しい。結局、全体の流れに乗る以外に手立てがないのである。

 対策を立てるのに時間がかかると言う事もある。危険を察知してもその危機の原因まで認識しているわけではない。多くの場合、経済の変動を引き起こしている仕組みが解明されているわけではない。原因が分からなければ、抜本的な対策を立てるわけには行かない。どうしても、その為に、応急処置、対症療法的な対策で終わりがちになる。つまり、当座の危機を脱する事だけで終わってしまうことになる。
 また、それを実行する以前に手続に手間取るという事がある。国民国家の宿命は、行政に与えられている権限には限界があることである。抜本的な処置を執るためには、立法府の後ろ盾が必要となる。その為に、必要な手続を行うために時間が費やされることになる。
 尚かつ、指示を関係部署に浸透させるのに時間がかかると言う事がある。対策は、組織的に、かつ広範囲に亘って行われなければならない。
 更に、それが効果を上げるまでに時間がかかると言う事がある。また、即効性のある政策というのは限られている。多くの政策は、実行されてから効果が上がるまでに時間がかかる場合が多い。そうなると効果を検証することも難しい。
 もう一つは、政策の一貫性を保つことが困難だと言う事もある。問題を認識してその対策を立て、実行し、効果が上がるまでに時間がかかるために、その間に政策の変更を受けやすい。その為に、当初、予定していた効果が上げられずに終わる場合もでてくる。

 また、経済政策を執行するにあたって広範囲の合意を取り付けなければならない。その為に、経済政策は、それが潜在的な危機であるうちは、広く合意を取り付けるのが困難であり、危機が顕著にならないと対策を打ち出しにくい性格がある。
 その上、経済危機を上手くやの過ごしたとしても、それに対処した者は、評価されにくいという事がある。
 医者は、病気を治すことによって評価されるが、病気を予防してもあまり評価されることはない。同様に、為政者は、問題を解決することによって評価されることはあっても問題を未然に防いだからと言って評価されることは少ない。
 うまくいって当たり前であって失敗すると、その結果だけで、為政者は、評価されてしまう。つまり、待ったなしなのである。

 だからといって手を拱いてみていて良いというのではない。何かをしたから経済危機が発生したというのではない。それは、結果に過ぎない。経済危機は、何もしなくても起こる。むしろ何もしないという事は、最初から経済現象を制御する事を諦めていることを意味する。経済の仕組みというのは、人工的な仕組みである。人間が制御することを諦めれば必然的に制御不能な状態に陥るのである。神の力に委ねるのは、愚かと言うよりも、無責任な所業である。
 経済危機というのは、一度起きると何年もの間、経済のみならず、社会全般に社会不安のような深刻な悪影響を及ぼし続ける。場合によっては、戦争という惨禍を招きかねない。
 例え、誰からも評価されずとも経済政策は、適時、早めに対処されるべきものなのである。

 経済政策には、金融危機や経済危機のような緊急事態に対する対策とインフレーションやデフレーションと言った経済の全般的流れや状況に対処する施策の二つがある。
 いずれも、対処療法的な施策と構造的な施策があるが、諸般の事情を鑑みると経済政策、中でも、産業政策は、対処療法的な施策よりも産業や市場の仕組みを構築するような構造的な施策である方がよりよいと考えられる。

 現代の経済で問題なのは、家計も、企業も、財政も赤字だと言う事である。
 そして、なぜ、赤字になるのかが理解されていないことが経済現象を混乱させているのである。
 赤字の原因を考えずに、何でもかんでも生産性を上げ効率化を計れば解決できると、短絡的に考えていることにある。

 なぜ、商品が売れないのか。それは、人々が、その商品を必要としていないからである。では、なぜ、必需品は儲からないのか。それは、必需品の多くは、大量に生産され、大量に消費されているために、過剰生産、過剰消費に陥っている場合が多いからである。

 経済は、人的な場、物的な場、貨幣的な場の三つの場からなる。
 それぞれの場は、それぞれ独立した場を形成している。そして、人の動きや、物の動き、貨幣の動きによって結び付けられている。
 人も、物も、貨幣も、三つの場から受ける働きによって運動が規制されるのである。故に、経済現象にも、人的現象、物的現象、貨幣的現象がある。主として経済現象と我々が称するのは、貨幣的座標軸に写像され現象は事象を指して言う場合が多い。

 つまり、経済的な現象には、人的現象、物的現象、貨幣的現象がある。
 そして、経済的空間は、市場と経済主体からなる。市場は、場であり、経済主体は、要素である。経済は、部分(個)としての要素と全体(集合)の二つからなる。

 また、空間を構成する個々の要素の動きを触発するのは、情報と規範である。

 経済政策は、人的な場、物的な場、貨幣的な場、各々の場に対して何に対し、何を使って、どの様に働きかけるかの問題である。
 そして、その答えは、問題を設定する上で、何を目的とし、何を前提するかによって決まる。経済政策は、合目的的施策である。
 その為に、経済の仕組みを予め明らかにしておく必要があるのである。

 典型的なのは、金融危機である。金融制度は、貨幣経済の根幹をなす。金融制度の基盤は、決済制度である。金融危機の多くは、この決済制度の障害によって引き起こされる。ところが為政者の多くは、決済制度に無理解である。その為に、政策が対処療法的な対策になりがちなのである。

 経済、市場、経済主体は、生き物である。動物は、呼吸をしている。脈も打っている。栄養や水分を補給しないと衰弱し、やがては死に至る。経済や、市場、経営主体も同様である。
 経済や市場、経営主体にとって必要な物は、資金である。利益は、体温のようなものであり、体の変調を知らせてはくれるが、それ自体が経済や市場、経営主体に不可欠な物というわけではない。:経済、市場、産業、経営主体を実質的に動かしているのは資金である。その資金を取り仕切っているのが決済制度である。

 資金の増減、流れには、波がある。それは、人間が呼吸をし、脈を打ち、栄養を補給するような事である。動物にとって呼吸や脈拍、栄養、水分が命に関わる大事であるように、経済にとって貨幣の流れは、存亡に関わる大事なのである。

 例えば、通貨の発行にも波がある。波がある。月でみると上旬は、還収超(通貨の回収が発行より多い)になり、下旬は、発行超(通貨の発行が回収より多い)になる。季節の要因では、行楽シーズンの前には、発行超になり、行楽シーズン後には、還収超になる。また、夏冬の賞与の前、決算前、納税前には発行超になり、国債の利払いの季節になると還収超になる。

 資金の流れや波を金融機関が乱せば、経済、市場、産業、経営主体は死んでしまう。資金の流れを制御しているのが決済の仕組みである。
 状況は、時々刻々、変化している。状況の変化を的確に読み、適切な処置を、行政も、金融機関も、行っていく必要がある。
 金融機関がマニュアル通り、決められて事以外の判断が出来なくなれば、状況に適した判断が下せなくなり、金融市場は危機的な状況に陥り、結果的に、産業や景気を悪化させてしまう。

 当たり前なことだが、良い時は良いのであって悪い時は、悪いのである。そして、悪い時にこそ、資金を必要としているのであり、良い時は、資金は、集まってくるのである。企業が資金を必要としているから融資をするのであり、資金を必要としていないときに融資をしても意味がないのである。その当たり前なことが金融機関は解っていない。
 解っていないから、表面的な決算数字だけを問題にするのである。そして、黒字でなければ融資をしない。だから、中小企業は無理をして数字を作るようになるのである。事業をどう評価するかが肝心なのである。

 資金の波は、長期的な要因と短期的な要因からなる。
 経営主体による波は、長期的な要因は、主として初期投資や設備投資からなり、短期的な要因は、運転資金を言う。長期的な資金は、固定的な要素を形成し、短期的な資金は、流動的な要素を形成する。そして、長期的な資金は、長期的な波を短期的な資金は、短期的な波を起こす。
 運転資金には、市場や産業、企業の消長による資金の拡大や収縮がある。また、季節変動に基づく資金の波がある。在庫の増減に基づく波がある。為替や物価の変動による資金の流れがある。
 個々の企業の波が寄せ集まって産業の波を作り、個々の産業の波が寄り集まって経済の波を形成する。

 長期的な波動、短期的な波動の持つ性格をよく把握して政策を立てることが重要になる。資金繰りが悪化しているときに教条主義的な政策をとって資金のバルブを閉めてしまえば、産業は壊滅的な打撃を受ける。地価が下落している時に不良資産の査定を厳しくして、生産を迫れば、かえって不良資産を増やしてしまう。デフレ期に時価会計を導入すれば、収益を圧迫する結果を招く。
 施策とその効果をよく見極めた上で、政策を立てる必要がある。前提や状況を見誤った政策は、決済制度そのものを破綻させてしまう危険性すらある。

 貸し渋りと言った現象が起こる原因は、むろん、個別的、あるいは特殊な要因による場合と、状況や融資側の行動規範による場合とがある。つまり、貸し出して言う行為を抑止する何等かの要因が働いていると考えるべきなのである。
 個別的、特殊な事由による貸し渋りは、通常の融資行為の範疇にはいる。それに対し、状況や融資側の行動規範に基づく行為は、その状況に対する認識や行動規範に問題がある場合が想定される。

 問題なのは、景気の悪化に伴い収益が低下した場合である。この様な状況化で、従前の貸出基準を適応したり、あるいは、更に厳しい基準を当て嵌めようとすれば、当然、貸出可能な企業の数は減少する。また、全ての産業を一律の規制や規則で統御しようと言うのにも無理がある。
 それは、例えば、景気の悪化によって資金需要が増大している状況で、貸出を絞ることになるような事態を起こし、景気は益々悪化させるという悪循環を引き起こしたりする様な状況になりかねないからである。
 その場合、その様な事態を引き起こしのは、融資側の姿勢に問題がある。企業の業績の悪化が、どの様な要因に基づき、また、一時的なものであるのか、恒久的なものであるのかを、個々の事例毎に融資側が行っていない、判断できないことが原因なのである。

 景気が悪化している時に、収益の悪化を、あるいは、資金繰りが苦しくなる環境の時に、キャッシュフローを理由に融資をことわったるのは、病人に、病気を理由に治療をことわるのに等しい行為である。それは、人道的な問題でもある。金融機関の人間が倫理観が欠如しているのではと言われる要因もその点にある。
 重要なのは、収益が悪化した原因であり、また、資金繰りが苦しい原因である。症状が一時的な原因なのか、慢性的な原因なのか、構造的原因なのかによって違う。また、固有の問題なのか、産業全体の問題なのか、経済状況の問題なのか、為替の変動なのか、政策の問題なのかによっても違う。また、外生的な要因か、内因的な問題なのかによっても違う。その点を見極めないと、治療法は定まらない。
 今の経済政策は、経済診断をせずに、外見や表面的上に現れた現象で判断した、対処療法的な施策に終始している。それが最大の問題なのである。
 
 金融の機能が発揮されなければならないのは、景気や企業業績が悪化した時である。その時、資金を引き揚げられてしまうのでは、何のための金融機関なのか金融機関の存在意義が問われる。

 合成の誤謬とは、自分の視野の狭さの言い訳に過ぎない。語彙性の誤謬というのは、目先の現象にとらわれて全体の状況を見落としているのである。木を見て森を見ずである。

 市場というのは、人為的な場である。人為的な場というのは、人工的に作られた空間に、人工的に作られた働きや力が作用している場だと言う事である。市場は、天然自然にある空間とは違う。それは、スポーツのフィールドのように人間によって作られ人口の空間なのである。
 人為的空間である市場には、人為的な範囲がある。人為汽笛な範囲は、法や要素が影響を及ぼす範囲を指している。国家は、国法の及ぼす範囲であり、必ずしも物理的空間に拘束されているとは限らない。つまり、それは観念的な空間であり、契約に基づく空間である。
 即ち、人為的空間は、有限な空間である。また、人為的な場も有限な空間である。これが物理学的空間との決定的な違いである。

 国家間には、制度的な歪みがある。典型的なのは、税制や会計制度、金融制度である。この国家間の歪みの是正は、経済政策上、重要な条件である。

 また、経済を現象は、情報によって引き起こされる。経済にとって情報は、重要な要因である。

 情報に基づいて結論を出す場合は、その情報と結論との因果関係をよく見極める必要がある。ある結果が出た時、その結果の原因となったのが、自分達が発信した情報という事さえあり得るのである。
 重要なのは、目的であり、手段ではない。手段は、目的に規制されるべきものなのである。手段によって目的が歪められるのは本末転倒である。
 格付けによって倒産する会社があるという事である。つまり、本来は、倒産を予測するはずの基準が、倒産の原因になるという事である。それによって倒産の予測値がよくなったとしても、それを精度が上がったと言いきれるかどうか。自分が事故を誘っていて事故の発生原因を突き止めたとしても事故を予測する精度が高くなったというのは、詐欺に近い。ウィルスを蔓延させて、そのワクチンを売るような行為である。

 倒産を予測することも大事だが、それ以上に大事なのは、倒産を防ぐ手立てを講じることである。

 人的な場である市場は、人間の手が加えられなければ、無秩序な空間である。
 つまり、自然の空間、ジャングルと変わりがない。支配するのは、個々人の力、暴力による力関係である。この様な力は、市場を偏らせたり、経済体制に歪みを生じさせたりする。
 むろん、だからといって、ただ、規則を定めただけ、そのまま放置し続けるならば、一定の水準に均衡してしまう。

 歪みや偏りは、産業間の収益格差や経営主体内部の所得格差として現れる。
 収益の格差は、貨幣価値体系に歪みが生じるさせてしまう。貨幣価値の体系の歪みは、人間の価値観、倫理観にをも歪めてしまう。拝金主義が好例である。
 楽をして金を儲けることばかり考えて、汗水垂らして働くことを厭うようになり。金を儲けの為ならば、どんな悪事をしようとも平気になり、人間としての誇りを失う。何が、人生にとって必要で、何が生きていく上で大切なものか、人間として何を守らなければならないのかを忘れてしまう。
 本来は、必要性が高い財ほど、価値が高ければならないはずなのに、不要な物、特殊な物、異常な物に高い価値が付けられたりする。
 つまり、産業間の収益力の差をなくすことは、経済政策の重要な指標、目的の一つである。

 価値観の歪みは、経済の選好に偏りを生じさせる。この様な偏りは、産業の収益力の差となって現れる。
 問題は、この歪みを必然的な結果として予防的な処置をとっていないことにある。
 産業の収益力は、一律に決まるものではない。個々の市場が持つ特性や環境、状況によって収益力に差が出る。その差を是正するのは、規制である。
 例えば、成長段階にあるIT産業と成熟産業である繊維産業や生鮮食品産業とでは、市場の環境も状況も全く違う。

 偏りが発生する原因は、過当競争、不当廉売、急激な技術革新、資金力の差(設備投資の差)、寡占・独占、闇協定・闇提携、人件費の差等である。しかし、これらの原因は、視点を変えると市場や経済に必ずしも負の働きをするというわけではない。一つは、捉え方問題であり、状況の問題なのである。大前提は、経済や市場をどの様な状態に保とうとしているのかである。そして、市場や経済の状況を維持しているのは、市場や経済の仕組みである。

 何が、正しくて、何が間違っているか。是々非々の判断は、その産業がおかれている状況や環境、前提によって違ってくる。設備投資に莫大な投資を必要とする鉄道やエネルギー産業と個人の能力に依存するソフトウェア産業とでは、採るべき政策が違うのが当たり前なのである。それを何でもかんでも闇雲に規制をなくし、自由に競争させれば、予定された調和に至るという発想は野蛮である。大体、調和に達することが本当に良いのかどうかも怪しいのである。

 市場原理主義者の中には、何が何でも規制は悪い者だと決め付けている者がいる。規制緩和という言葉にも、規制を単純に緩くすると言う意味合いしか感じられない。しかし、規制を緩和すると言っても、実際には、規制の一部を変えたり、また、規制を変更しただけに過ぎない場合が多い。なぜならば、規制を単純になくしたら、市場の規律は、保てなくなるからである。

 市場が飽和状態に陥っているのに、産業構造を抜本的に変革をしないと過剰生産、過剰消費、過剰債務、過剰雇用、過剰設備を生み出す原因となる。そして、余剰な財を社会に溢れさせる。
 競争原理を働かせて仕事の効率を図る、それは、無原則な競争を放置することではない。
 無原則な競争を放置する事は、伝統的産業や生活必需品の低廉化を招く。社会にとって必要な仕事、必需品を生産する産業が、コモディティ化し、人手不足に陥り事になり、反面、贅沢品の産業に人手が過剰に集まる事になる。

 市場を制御するのは、市場の仕組みである。市場の仕組みは、制度や規制、罰則、報償という観念的な仕組みを言う。

 経済政策とは、この市場を制御する仕組みを使って伝達され、発動される。行政府は、市場の仕組みを使って経済を制御するのである。

 市場原理主義者の者には、(よく彼等を市場至上主義者という言い方をするが、市場の機能、働きを正しく理解していないので市場市場主義者というのには、語弊がある。)規制を全て撤廃しろと言った乱暴な考え方をする者がいるが、それは、市場そのものを正しく理解していない者である。彼等が市場を重視しているというのは、とんでもない誤解であり、彼等こそ、市場を軽視しているか、無視しているのである。

 経済の円滑に機能しないとしたら、規制そのものが悪いのではなく。規制の在り方が、状況や環境に不適合なのである。

 硬直的な規制や偏った規制が問題なのである。規制が良いか、悪いかのが問題ではなく。適正な規制であったか、否かが問題なのである。その場合、規制の目的が基準となる。

 規制は、市場の自由な働きを阻害しているというが、では、自由な市場とは何かと言うことである。

 自由な動きを阻害する規制は不適合だと言う事は出来ても、規制が自由を阻害しているというのは、間違った認識である。
 規制は、規則であって、阻害ではない。
 それは、法が罪を作るのだから、法がなければ罪が生じない。だから、法をなくせと言うのに相当する。確かに、法によって罪は定められる。しかし、法を否定してしまったら、自由主義社会は成り立たないのは、自明な事である。
 規制が経済を作る。それは、事実である。だから、規制をなくせと言うのは論外である。問題は、規制の在り方なのである。
 また、自由が全てではない。仕組みとは、自由を抑制することによって成り立っている部分もある。問題の焦点は、経済の目的であり、規制がその目的に適合しているかなのである。

 付加価値、付加価値と新興産業ばかりに収益の偏りが生じると農業や漁業と言った伝統的産業や生活必需品、消耗品の産業が衰退してしまう。それは、伝統的産業や必需品、消耗品は、技術革新の速度が弱まり、産業の標準化、平準化が浸透しているからである。
 基幹産業が貧者の産業化してしまうのである。

財政と経済政策


 経済政策の鍵を握るのは、財政である。
 財政というのは、本来、合目的的な構造を持つ。今日の財政の問題は、財政が手段と化している事である。公共事業の目的が問題なのではなく。公共事業をすることが目的と化している。借金をする目的が問題なのではなく。借金をすることが目的と化している。その為に、財政本来の目的が見失われ、本来の機能が発揮できないでいるのである。

 では、財政本来の目的とは何か。それは、国家建設と国家運営にある。国家建設や国家運営に必要な資金をどの様に調達し、どの様に活用するかにある。故に、財政の目的の根源は、国家理念であり、憲法によって規定されるべき理念である。

 言い換えると憲法によって確立された理念に基づいて国家を建設するための手段として財政は、位置付けられるのである。
 故に、財政は、合目的的でなければならないのである。

 現在、国家財政は、破綻の危機にあると言われる。実際に破綻の危機にあるのか。また、何に照らして破綻の危機にあると判断されるのか、その基準は、現在市場経済の原則にある。

 現在の市場経済は、会計の文法、文脈によって成り立っている。それに対し、財政は、違う基準によって成り立っている。財政赤字の代表される。財政の問題点は、この会計の文脈と財政の基準の違いに起因している。
 
 財政と会計制度を基盤として市場経済との違いは、財政と市場との連続性が保てなくなっている。その結果、財政赤字の本質が理解されていないのである。

 故に、市場経済を基盤としている国家では、財政と、会計の違いには、どの様なことがあるのか。それを明らかにする必要がある。

 財政を考える時は、収入と支出両面から考える必要がある。
 国家収入には、第一に、税収。第二に、借入。第三に、事業収入。第四に、資産運用益。第五に、通貨発行益がある。
 支出面とは、使い道を考えることである。

 財政は、第一に、期間収支を基本としている。それに対して、会計は、期間損益を基本としている。第二に、現金主義である。それに対して、会計は、実現主義である。第三に、予算主義である。会計は、実績主義である。実績主義とは結果主義である。予算主義は、言い換えると先決主義である。先決的な体制が維持できる前提は、全ての事象が予見できる事である。つまり、あらゆる生産と消費、収入と支出が予測可能で、予め設定できなければならない。それに対して、会計は、全てを予見することは、不可能であり、それ故に、状況に合わせて適時、各々の権限によって決断できる仕組みを前提とするのである。だからこそ、モラルハザードが問題になるのである。
 多くの人は、財政の破綻の原因は、官僚の横暴さにあるように言う。しかし、私は逆だと思う。あまりにも、官僚は権限を与えられていない。予算が決められたら、その範囲でしか判断が下せない。その為に、官僚制度が硬直化しているのである。むしろ、大幅に官僚に権限を与え、その代わりに責任を明確にした方が財政は健全化できる。
 これらの財政に対する現在の原則が今日の財政問題の元凶である。
 特に、財政の原則と会計の基準との相違は、決定的な要因の一つである。

 財政には、第一に、資本という概念がなく、経済主体の所有権と経営権が未分離だと言う事である。これは、主権者と政府との関係が未分離であることを意味する。
 第二に、期間損益ではなく、期間収支である。故に、利益という概念がなく、残高が基準となる。基本は、一定期間における現金収入と現金支出の残高である。
 利益は、情報であり、現金は現実である。問題なのは、利益が示す情報の意味であり、現金が表す現実である。情報の意味は、即ち、情報を成り立たせている観念、思想である。それがあって現実は意味を持つ。
 第三に、現金収支という観点から、財政は、長期均衡ではなく、単年度均衡を基本としているという事である。その為に、減価償却という概念がない。また、財政には、費用の繰延という思想がもてない。会計は、継続を旨として長期均衡主義の立場にある。故に、償却という概念と費用の繰延という思想が成り立つ。単年度均衡に基づく制度は、時間価値が成立しにくい仕組みなのである。
 第四に、複式簿記ではなく、単式簿記を基盤としている。単式簿記というのは、現金主義であることを意味している。現金主義というのは、現金取引を基礎とした思想である。現金取引は、取り引きの軌跡だけを示しているのであり、取り引きの内容、構造まで明らかにしているわけではない。つまり、現金によって明らかにされるのは、資金の動きである。資金の動きとは、その時点、時点で実現した貨幣価値の軌跡である。
 現金主義では、貨幣価値の実現は表現できても取り引きの内容までは理解できない。また、取り引きの背後にある貨幣価値も捕捉できない。ただ、貨幣価値の過不足だけによって取り引きを認識せざるをえないのである。
 第五に、資産、負債、資本、収益、費用、資本の区分がない。基本的には、財政で重要なのは、現金残高だけである。つまり、財政では、負債と資産、収益と費用の因果関係が確立されていない。

 もう一つ重要なのは、自由主義経済の前提は、貨幣経済主義だという点である。注意しなければならないのは、貨幣には、実物貨幣と表象貨幣があるという点である。そして、自由経済における貨幣とは、表象貨幣を意味する。
 実物貨幣と表象貨幣とでは本質が違う。実物貨幣は、貨幣その物が価値を持つが、表象貨幣は、貨幣価値を指し示す表象にすぎない。
 そして、表象貨幣の源は、借金なのである。
 表象貨幣は、決済する事を前提として成り立っている。決済とは、同量の貨幣価値を実現する事によって債権債務関係を解消し、それをもって取り引きを完結させる行為を意味する。その前提は、債務と債務を保障する者の存在を前提とする。つまり、表象貨幣というのは、貨幣価値を何者かが保証することを前提としているのである。国民国家では、貨幣価値を保証する者は、国家であり。国家が、貨幣価値と支払を保証するという点において表象貨幣は、国家の債務でもあるのである。

 財政の問題を論じる時、近年は、常に、赤字問題でしかない。赤字を論じる場合でも、いかに赤字が多いか、あるいは、いかにして赤字をなくすかの問題が主であり、なぜ、赤字か生じるのか。財政赤字とは何かについて論じられることがあまりない。

 財政赤字が深刻だから財政再建は、喫緊の問題だと内外、政府、メディアが大騒ぎをしている。しかし、ではなぜ、財政赤字は問題なのかと改めて問い直すと、赤字だから悪いと言った類の解答しかない場合が多い。要するに解っていないのである。

 財政赤字の議論は、財政は、赤字だから悪いのであって、それ以上でも、それ以下でもない。しかし、本来は、財政の在り方である。健全な財政とはいかなる物なのかの問題なのである。その上で、財政赤字がどの様な影響をもたらすかが問題なのである。

 その意味では国債の活用が重要になる。
 国債というのは、国の借金を意味すると見なされている。しかし、国債を所謂(いわゆる)個人の借金と同一視するのはおかしい。

 国の借金、国の借金と言うが、国債の働きを、ただ、国の借金としてしか捉えられないとしたら、それは間違いである。
 国債を負の作用だけで見るべきではない。国債には、信用を創出するという作用や資金を調達するという働きがある。更に、通貨を発行するための根源でもある。
 つまり、国債は、通貨を制御するための重要な手段ともなるのである。問題は、国債を発行する際の財政規律である。国債が悪いのではなく。国債を無原則に発行することが悪いのである。
 国債は、財政破綻の補填という機能よりも通貨の制御するための手段と言う事の働きの方が重要なのである。問題なのは、財政が国債本来の機能を阻害することである。財政の規律があって国債は正常に機能する。故に、財政の赤字が問題なのではなく。財政の赤字によって国債が本来の機能を発揮できなくなり、経済が混乱することなのである。

 また、財政赤字問題では、財政赤字の背景も重要となる。そして、財政の背景となる仕組み、構造を明らかにするためには、複式簿記に基礎を置いた会計制度に依る必要があるのである。
 民間企業と財政とは、経済的価値の基準が違うのである。故に、赤字と一口に言っても赤字の持つ意味が違うのである。
 家計が赤字だと言っても大地主や資産家の家計と所得だけで生計を立てている家計とでは赤字の意味が違う。
 赤字だと言っても財産や蓄えが豊富にあれば、収支が合わなければいつか蓄えを食い潰してしまうと言うだけで、すぐに破綻するというわけではない。
 相続税対策のために、年収の何十倍もの借金を故意にする者すらいるのである。

 赤字国債というものをどう考えるかによる。確かに、借金は、返済することが原則である。しかし、国債を家庭や企業の借金と同列に考えるのは、おかしい。国債には、信用の創出と紙幣の発行の動機と言う事がある。むしろ、財政の延長線上でのみ国債を考えることの方が問題なのである。
 それに、借金があまりに巨額になると返済しきれなくなる。公債の歴史は、この財政赤字をどうするか、そして、返しきれなくなった公債をどうするのかの歴史だと言って良い。これは、税の有り様にも重大な影響を与えてきた。
 公債を返せなくなった時、どうするのかというと。一つは、返さなくていいいものに置き換えるという手段をとると言うことである。第二に、貨幣価値を下げる。第三に、借金そのものの価値を下げる。第四に、債務不履行である。第五に、凍結してしまう。第六に、体制を根本から変えてしまう。
 第一の返さなくていい物に置き換えると言った場合、返さなくていい物とは何かであるが、それは、第一は、紙幣、証券である。第二は、資本である。つまり、株である。第三に、税である。第四に資産である。第五に、負債、借金の付け替えである。第六に、預金、貯金に替えてしまう。
 実は、この六つは、資本主義経済の黎明期に行われた事なのである。そして、バブル現象を引き起こしている。
 借金を構成する要素は、第一に、元本。つまり、借金そのものの本体であり。第二に、金利。これは、時間経過から生じる価値。第三に時間。第四に貸し手。第五に借り手。そして、第六に担保。第七に、返済方法です。借金を解決する手段はこの七つの要素の中に隠されている。
 公債の歴史というのは、ただ返却すればいいと言うのではなくて、返せなくなったらどうするのかと言うところからはじまっているんである。それが、議会を生み、戦争や革命を引き起こしている。
 そして、それが結果的に近代の貨幣制度の在り方を変革してきたとも言える。つまり、国債を考えることは、貨幣制度を考えることに繋がるのである。ただ、借金をどう返すかの問題だけで終わるわけではない。

 ただ、払いきれない借金は、踏み倒してしまえばいいと考えられたら困る。やむおえないから、また、財政の赤字や国債が貨幣の正常な働きを疎外するようになるから、窮余の策として考えられたのである。財政の赤字や国債の大量発行には、必ずと言っていいほど戦争や濫費が絡んでいる。これらは明らかに人災なのである。問題は、財政の規律にある。財政の規律が保たれなくなると貨幣の信認も失われるのである。

 最初に景気対策、公共事業ありきで赤字国債を垂れ流しすべきではない。同様に、財政再建が全てに優先され国際に対する柔軟性が失われるのも困りものである。
 大切なのは、国家百年の計である。
 公共事業こそ、巨額の資金と長期の時間を必要としている。故に、単年度、単年度で事業を捉えようとすれば、事業として均衡するのは難しい。
 景気対策は、資金が巨額な上、長期間、人手を必要とする事業だからこそ、調整することができるのである。それは、事業計画に沿って為されるべき施策であることを忘れてはならない。

 借金というとすぐに返すことばかりを思い浮かべる。借金は、返さなければならないと言う、それが圧迫感や威圧感を生む。しかし、貸す側から見て返して欲しくない借金もある。
 その意味では、貸付金や借入金のことを考える上で、預金の事を考えるといい。
 預金は、典型的、借入金であり、貸付金である。預金というのは、預金者が金融機関に資金を貸し付けることである。しかし、預金者のほとんどは、自分が金融機関に貸し付けている。つまり、融資しているという自覚はないと思われる。預金者は、預金という言葉から見ても解るように、お金を預けているという感覚である。
 預金は、貯金、貯蓄と言う意味合いが強いのである。それは、資金を貯めている(プール)していることを意味している。
 しかし、現実には、預金は、金融機関への融資なのである。預金の数だけ貸付金の種類があるといえるのである。だから、借金のことを考える場合、預金を考える事は、いろいろと含蓄があるのである。

 我々は、取引の一面しか見ない傾向がある。借りると言う事は、貸すという行為の表裏を為す行為、取引である。売ると言うことも買うという取引の表裏を為す行為である。つまり、取引には、必ず、同量の反対取引が存在する。債務には、同量の債権が生じる。これを取引の作用反作用という。銀行が融資を実行すると言う事は、借りる側に債務と現金収入が生じると、同時に、貸した側に債権と現金支出が生じると言う事を意味する。そして、その元は、金融が預金者から資金を借りること中央銀行から融資を受けることなのである。
 借金というのは、反対給付のない一方通行的な行為ではない。借りたから返さなければならないのである。逆に言えば、借りなければ、返す義務は生じないのである。借りてもいない物を返すと言う行為は、返済ではなく、強奪である。
 もう一つ、借りたから、信用取引が生じるのである。売掛金も買掛金も信用によって成り立っている信用取引である。この信用取引が、貨幣制度の前提となる。貸借関係がなければ、現在の貨幣制度は成り立たないのである。
 国債の問題を考える時これを忘れてはならない。貨幣制度の根本は、融資、即ち、借入にあるのである。信用収縮というのは、この貸借関係が収縮することによって始まる。
 借金の原点は、資金調達なのである。つまり、資金、現金を調達したから、得たから支払義務、返済義務が生じたのである。そのことを忘れてはならない。
 もう一つ、借入を行ったから、信用関係が生じたという事である。
 
 返済とは、融資と関係から捉えるべきなのである。それは、元本の返済と利払いの違いにも表れる。会計的に見て元本と金利は、本質が違う。故に、会計上の処理の仕方も違てくる。
 高利貸しは、借りる時は、仏に見え、返す時は、鬼に見えるとも言われる。先ず、金を借りる必要があるから、返す責任が派生するのである。
 もう一つ重要なのは、借入を立てた時、金融側から見ると貸し付けた時、つまり、融資が実現したときに一番、信用の度合いが強い時、信用枠が大きい時である。そして、回収、即ち、返済が始まるとその信用枠は、収縮していくのである。

 貸す側は、借金を返されると信用枠が収縮するのである。逆に言うと貸付金によって信用枠は拡大する。つまり、金融機関は、金を借りてもらわないとなりたたない。また、金を借りてもらわないと、信用量、即ち、紙幣の裏付けも拡大しないのである。

 住宅ローンが典型である。住宅ローンは、住宅ローンが設定されたが、一番、与信枠が拡大した時である。そして、非償却資産である土地の価格が上昇している時は、元本の保証は、土地の価格によって為されるのである。そうなると、金融機関は、金利さえ、確実に払ってもらえるのならば、借金を返してもらうことよりも、借金をしつづけていてもらう方が得なのである。それがサブプライム問題の背景にある。これが現代の経済の根幹にある原理である。この点を理解してないと、今の金融危機や財政の本質が見えてこない。
 国債も返されては困る部分があるのである。

 預金をされて困ることもある。つまり、貸付金が減り預貸率が下がると金融機関は、借入の負担が高まるのである。つまり、むやみやたらに預金を集めるという行為は、むやみやたらに借金をする行為なのである。しかも、高利で預金を集めるという行為は、高利貸しから借金をすることと変わりないのである。
 
 もう一つ、覚えてなく必要があるのは、現金勘定というのは、支払準備を意味するという事である。支払を準備するために、現金預金が必要とされる。
 融資と言っても現実に現金のやりとりが行われる取引は少ない。多くは、帳簿上で行われ、実際には、金融機関内部での取引に置き換えられる。

 金融機関からの借入金と支払に充てた現金とが全く同じだと仮定した場合、金融機関が現金を支払って購入し、借り手側が使用料を支払っているという解釈も成り立つ。ただ、その場合、最終的所有権の問題が発生するが最終的に資産の所有権も移転するとなると、実体は、融資と変わりない。その実例が、ファイナンスリースである。
 この事は、借金、即ち、貨幣の働きの持つ一面を現れているとも言える。つまり、貨幣というのは、信用で成り立っていて、実際に現金という物を介さなくても成り立つのである。そして、貨幣経済の根底となる信用の規模というのは、負債によって成り立っているのである。

 急速な信用収縮は、金融機関の貸付金の毀損が原因となり、これは、借り手側の債務の毀損より生じる。借り手側の債務の毀損とは、貸し手が担保としている債権の毀損である。この事は、金融機関の債権の毀損を意味する。金融機関の債権を圧縮しても、金融機関の債務を圧縮しない限り、金融機関の持つ債権を健全化したことにはならない。つまり、何等かの形で金融機関の債務を圧縮しない限り、金融機関の経営は健全化されないことを意味している。必然的に、預金の価値を圧縮することも含まれる事を意味するのである。

 負債とは、負の債権というニュアンスからマイナスのイメージを持たれやすい。しかし、信用制度の基盤は、信用を担保とする負債であることを忘れてはならない。

 借金というのは、決して、社会、国家に対して負の作用だけをしているわけではない。負債には、第一に、資金を貯めておく、貯蔵しておくという働きがある。第二に、信用を生み出し、貨幣の裏付けをするという働きがある。第三に、支払を準備するという働きがある。また、決済という機能もある。
 この様な点を考えると、元本の保証である債権が急速に収縮したからと言って不良債権の回収を急ぐと急激な信用の収縮が起こり、信用制度を根本から瓦解させてしまう危険性があるといえる。
 むしろ、借金があるから、市場は成り立っているのだとも言える。国債は、通貨の量を決定付ける重要な要素なのである。表象貨幣の根源には、国債があるとも言えるのである。故に、国債は、残高水準が重要なのである。

 国債は、担保する基となるの物が、国家の信用なのである。そして、それが信用制度の基盤の本質である。

 経済の問題は、最終的には、金、即ち、貨幣価値に還元されるが、本質は金の問題ではない。経済の問題は、誰が、何を、どの様に負担するかでの問題であって、それに必要な資金をどうするかの問題なのである。
 高齢者や未成年者、病人を誰が、どの様に世話をするかの問題があって、それを具現化するのが財政である。
 例えば、年金の問題の根本は、誰が、高齢者の面倒を見るかであり、その為に、どの様な仕組み、年金制度が適切かの問題なのである。最初に、年金制度ありきではない。
 財政の問題は、経済の問題である。それは、自分の国をどの様な国にするのかの問題なのである。

市場に対する経済政策


 2008年に端を発する金融危機も背景には、サブプライムローンや証券化に対する規制の問題がある。規制を問題とする時、どの様な目的で何を規制するか、あるいは、したか、また、どの様な手段を用いたかが問題なのである。それを実証的に分析することである。ただ、規制をなくして市場の原理に任せてしまえと言うのは、一種の宗教的信条に近い。

 かつて、外資の圧力で市場開放を多くの市場で行った。その結果、企業収益が悪化して結果的に進出した外資も撤退を余儀なくされた。それは、目的と手段の不適合が原因である。市場を開放する事と規制を緩和することは必ずしもイコールではない。

 経済的現象は、時間の関数である。経済現象は、経済の表層に現れてくる動的な現象と深層にある静的存在によって引き起こされる。例えば金利は、元本と時間の関数である。また、償却資産の価値も資産価値と償却費とによって計算される。
 経済政策は、この動的(流動的)部分と静的(固定的)部分に対するどう働きかけによって為される。そして、その手段は、経済の仕組みが、どう動的な部分や静的な部分に作用するかによって決まる。

 また、動的な部分を基礎とするか、静的な部分を基礎とするかによって現象の捉え方かが微妙に違ってくる。なにが正しいかは、状況や事情、前提、目的に従って任意に決める事である。

 動的な部分や静的な部分の働きをみる上で重要になるのは、個々の要素の有り高、残高の水準である。

 ストック(固定)部分の水準が重要な意義を持つ。例えば、為替の水準、在庫の水準、失業者の水準、人口の水準、年齢構成の水準、生産量・収穫量の水準、通貨量の水準、金利水準、国債残高水準といった水準である。
 水準には、失業率のような人的な水準、生産量、収穫量などの物的水準、為替の水準や金利水準のような貨幣的水準がある。また、名目的水準と実質的水準がある。
 また、これらの水準は、絶対量の水準と相対的率の水準の両面から考える必要がある。
 相対的水準というのは、第一に、時間の経過に基づく推移を表したもの、第二に、ある全体に占める割合を示した割合、第三に、何等かの対象と比較し、その基準や対象に対する比率を示したものがある。第四に、何等かの基準を設けて指標化、指数化することである。
 これらの水準は、一つの目安となり、また、経済政策を執行していく上での計器の役割を果たす。
 水準をみることによって変化しない部分(不易)、変化する部分(変易)をよく見極め。それを単純化、法則化すること(簡易)が肝心なのである。
 経済的現象は、単価×数量×時間で表される。即ち、貨幣価値と数量(物・人)と時間の関数である。貨幣価値と数量と時間の、何を基数とし、何を変数とし、何に働きかけるかが経済政策の要点である。

 経済は、人為的な空間に生起する現象であるから、経済制度や経済機関というのは、任意な設定条件に基づいている。
 市場や経済の仕組みは、所与の条件が与えられているわけではない。経済制度を設定した時の条件は、条件を設定する上での前提条件によって成り立っている。故に、経済政策の働きを理解するためには、この設定条件と前提条件を確認する必要がある。つまり、初期設定が重要になるのである。そして、合目的的である経済政策は、その目的が決定的要因となる。

 経済政策は、何を前提とするかによって違ってくる。経済政策を立案する上での前提要因には、制度的前提、原理的前提、物理的前提、環境的前提、主体などがある。制度的前提には、会計制度や為替制度、金融制度、貨幣制度、市場制度、法制度、経済体制、政治体制などがある。
 原理的前提には、会計公理や会計原則、複式簿記の原則、市場原則、取引原則などがある。
 物理的前提としては、人口、資源、気候、交通、インフラストラクチャーと言った前提がある。
 この様な経済の設定条件を左右するのは、経済に対する思想である。

 保護主義的な政策は、間違っているというような意見がみられる。しかし、その場合、何が何でも保護は悪いと言っているような者も見受けられる。しかし、問題は、何から、何を保護するかであって、消費者保護や金融制度の保護まで保護主義的だと断罪するのは行きすぎである。
 ただ言えることは、保護すべきなのは、市場であって、特定の企業だったり、産業ではないという事である。

 今の日本は、何でもかんでも、基本的に安いことはいいという前提に立っている。しかし、ただ安ければいいと短絡的に考えるべきであろうか。価格を維持するための努力は、社会悪と決め付けていいのであろうか。安く売るという事は、安くできるという事である。ところがこの安くできると言うところに落とし穴がある。ある限界を超えて安くするためには、何かを犠牲にしなければならないという事を忘れてはならない。

 製品と貨幣を生み出して、ただ、流せばいいと言うような経済構造になっている。それが問題なのである。そこには、経済とは何か。経済本来の目的や機能が忘れられている。

 なぜ、安売りが横行するのか。それは、現在の産業構造が原因である。多額の設備投資をし、その投資を回収するためには、設備の稼働率を高めるのが最も効果的だからである。つまり、巨額の投資と生産性の向上が至上命題となるから、安売りが横行することになる。いわば、大量生産によって安売りが横行し、大量消費を促すという構図になる。
 この様な安売りは、巨額の設備投資を前提とする。故に、設備投資に必要な資金を調達できない企業は淘汰されていく。しかし、何でもかんでも大量生産がいいというわけではない。大量生産は、財の質を同質化する特徴がある。その為に、消費者にとって選択肢が狭められる結果を招くことになる。また、市場の独占や寡占をもたらす。また、巨額の初期投資は、巨額の負債を前提とし、長期の返済、費用の固定化を意味し、廉価販売は、恒久的な収益の低下をもたらす。それが実物市場を衰退させる原因ともなる。つまり、構造的不況の要因となるのである。

 安ければいいではなく。あくまでも、適正な価格を維持することが重要なのである。

 この世の中には、金で片付かないことはいくらでもある。金に代えられないものもいくらでもある。また、金に換算できないものはいくらでもある。一番、良い例が、愛情である。親子や恋人の愛情を金に換算するほど野暮なことはない。
 金は、相対的な基準である。絶対的なもの、つまり、比較対照する物がない物の価値は、計れないのである。神への信仰心は計れない。愛国心も計れない。友情も金に代えられる物ではない。つまり、基準が違うのである。市場は、貨幣によって支配されている。故に、不道徳な世界なのである。不道徳だから、法によって規制するのである。
 逆に、家族や仲間、地域コミュニティ、学校という共同体は、道徳的世界である。だからこそ、法以外の基準に拘束されるのである。
 この世の中には、共同体的世界と市場的世界がある。つまり、金銭的な世界と、金銭的でない社会とがある。それぞれの世界が共存することによって世界は成り立ってきた。その境界線を超えて市場が全てを支配しようとしている。それが、現代社会の問題の根底にある。
 妻の作る料理とレストランで作る料理とは別世界の料理なのである。家庭内の労働を市場の基準や論理で金銭に換算することは不可能ではないが、意味のないことである。心を込めて作った料理と高価な料理を比較したところで何の意味もない。要は、どちらを選ぶかに過ぎない。ただ、家庭と言った共同体、人間関係を頭から否定してしまうとただ技術的な、人間性を否定した価値しか残らないと言うだけである。むろん、一方的に家庭内の労働を押し付けるのは問題である。ただ、それは家庭内の問題であって、市場の問題ではないという事である。
 主婦は、売春婦ではない。快楽を目的としただけの人間関係ではない。家庭内の労働は、金に換算できる性質の物ではない。
 年老いた両親の世話は、金でできるものできない。肝心な事は、誰が、最後まで面倒を見るのかの問題である。設備や施設を整えることではない。設備や施設は金で買えても愛情は金で買うことができないからである。そのことを議論しないで、ただ、施設や設備を整えればいいと言うのは市場の論理に毒されているからである。
 子供の世話を誰が見るのかである。金を出して施設に預けることが良いのか。自分が外に働きに出て、後の世話は金で片付けるのが良いのか。それとも、自分の両親に頼むのが良いのか。地域社会で面倒を見るのが良いのか。それとも母親が世話をするのが飯野かの議論が先ずあるべきなのである。その後で、それを税金で賄うべきか、否かの問題が議論されるべきなのである。ところが今は、何よりも先に金の問題が先行する。それは、共同体の論理が崩壊した証拠である。
 この世の中には、金に代えられない物がある。金で片付かない世界がある。それを前提として、経済は成り立っている。もし仮に、全てを市場の論理で計算したとしたら、経済的には成り立たないであろう。利益は、望めないであろう。共同体内部の労働には、制限時間がないからである。時間に換算できないからである。
 税という制度を考える時、税のことを考えるのではない。どの様な社会を、どの様な国を造るために、どの様な税が必要かを考えるべきなのである。経済は、国民生活の結果に過ぎない。経済のために、税という制度があるわけではない。国民の生活、もっとありていに言えば、国民の幸せを実現するために税制度はあるのである。
 我々は先ず何を護らなければならないのかを明らかにしなければならない。守るべき仕組みが自由主義体制なら自由主義体制を守るための規制をすべきである。確かに、規制によっては、自由主義体制を崩壊させるものもある。だから、一律に規制は悪いというのは、短絡的すぎる。自由主義体制を崩壊させる規制が悪いのであって、全ての規制が悪いわけではない。
 同様なことは、税制度にも言える。酷税と言い、税によって国民が苦しむのは、税が悪いのではなく。税の在り方が悪いのである。税は本来、国民の福利を実現するために徴収され、使われるのである。税のために、経済が悪化したり、国民生活が成り立たないとしたら、税の在り方を改めなければならない。しかし、だからといって税をなくせと言うのは乱暴な話である。
 国民の生命と財産を守るために、軍や警察があるのである。軍や警察のために、国民生活があるわけではない。

 経済とは何か。経済の目的は、国民生活の安寧にある。必然的に、経済政策もその延長線上にある施策でなければならない。経済政策によって国民生活が圧迫されたり、極端な偏りが発生したらそれは、明らかに、経済政策が破綻したのである。
 その根本には、国民生活をどの様なものにするかという考えがなければならない。

 現代経済は、大量生産、大量消費を前提としている。そして、その為に、巨額の初期投資を行い、それを長い時間かけて償却する方式を採用したのである。その為には、設備の稼働率を一定に保つ事が大前提となる。稼働率を保つ、操業度を保つと言う事は、製品を絶え間なく続けることを意味する。それは、大量に商品を製造する結果を招き。対極に、それを捌く、つまり、大量に消費し続けることを意味する。それが大量生産、大量消費型経済である。
 この大量生産、大量消費型経済は、ただ、大量に生産し、大量に消費すればいいと言う単純な考え方を基本としている。この大量に作ればいいという考え方に落とし穴がある。余剰生産物の処理が問題なのである。

 余剰に生産された物は、価値が低下し、やがては無価値になってしまう。そこには、その生産財が社会にとって有用であるか、否か、また、どれ程、それに労働力が費やされたかは問題とされない。生産に費やされた労働とそれに対する対価という思想は入り込まない。

 必要以上に生産された商品は、洪水のように他の国に押し寄せ、状況によっては、その国の経済構造、経済体制を根刮(ねこそ)ぎ破壊してしまうのである。

 国内で捌ききれないほど大量に製品を製造してしまえば、必然的に海外市場で製品を捌かなければならなくなる。そして、それが相手国との間に、重大な摩擦を引き起こすのである。

 相手国の経済が何を必要としていて、何を目的としているのかなどお構いなしである。とにかく、大量に生産した以上生産物を捌く必要がある。要するに売れればいいのである。その為に相手国の雇用がどうなろうと、消費者の倫理観がどうなろうと関係ないのである。
 これは、市場の問題であり、経済の問題ではない。それを勘違いしてはならない。

 もう一つ忘れてはならないのは、経常収支は、世界全体では均衡しているという事実である。どこかの国が黒字になれば、他のどこかの国が赤字になる。それを総合的に見て判断しなければ経済の実体は理解できない。

 ただ安ければ善いとマスコミは、悪徳業者をのさばらしておいて、市場が荒廃してから、商業道徳が廃れたと言ってもはじまらないのである。それ以前に、マスコミのモラルが問われるべきなのである。悪貨は、良貨を駆逐するという言葉が示すように無原則な競争は、悪徳業者を蔓延らせ、良質な業者を市場から駆逐してしまう。限界以上に価格を下げるのには、それだけの根拠があるのである。大切なのは適正な価格である。不当廉売ではない。

 空気は、必要な物資ではあるが、市場価値はない。それは、空気は、人間が生存するのに必要な量が、自然の状態で確保されているからである。しかし、空気が希少価値な場所、例えば、水中では、空気も市場価値を持つ。そうなると空気を製造しようと言う業者が現れる。それが市場経済である。市場価値は、空気が必要か否かではなく。空気が有り余っているか否かの問題に矮小化されてしまうのである。空気に市場価値があるか否かと空気そのものの価値とは違うのである。空気に市場価値がないからといって空気を無価値なものとして大気を汚染し続ければ、我々の生活、即ち、経済は立ちいかなくなる。

 大量生産、大量消費というのは、あらゆる生産財を過剰に生産してしまう。その一方で、雇用の不足を引き起こす。物は沢山あるのに、働く場、即ち、所得を得る場がなくなることを意味するのである。それによって、労働と分配の仕組みが上手く機能しなくなる。それは、必要性という要素が介在しなくなるからである。

 現実に、多くの人は、自分は、社会から、誰からも必要とされていないのではないのかという強迫概念に悩まされている。それが疎外である。

 経済政策の本質というのは、国民の生活に何が必要で、どの様な環境を必要としているかを、貨幣の振る舞いに惑わされることなく、見極めることにある。その上で、どの様な対策を貨幣を用いて行うかを考えるべきなのである。

 バブル後の長期不況の前提となっているのは、過剰債務、過剰設備(投資)、過剰雇用、つまり、全てが過剰なのである。そこから派生するのは過当競争であり、安売り合戦である。その結果市場が荒廃し、個々の企業が利益を上げられなくなっているのである。不必要な競争を抑止し、企業が適正な利潤をあげられるようにすれば、不況から脱出できる。そうなれば、必要以上の生産を抑止することも可能となるのである。また、企業が収益をあげられれば資金が金融市場に滞留することもなくなるのである。

 バブルというのは、局所的なストックインフレである。原油や食料、貴金属価格の異常な高騰は、狭い市場の中に大量の通貨が流入したことが原因である。しかし、それは物的な市場と貨幣的市場の双方が作用していることで、過剰流動性が、即、インフレに結びつくと考えるのは、短絡的である。

 余剰資金が経済の質的な面に向かうか、量的な面に向かうかによってインフレの有り様も変化する。

 重大な問題は、なぜ、何のために利益を上げる必要があるのかが判然としていないと言う点にある。

 経営は、合目的的な行為であると言う事を忘れている。それ故に、企業評価、実績の全てが利益によって計れる事になるのである。
 経営分析が企業の経済的機能に結び付けられていないことが問題なのである。何に対する利益なのかが、利益を考える上で重要となる。
 利益は何に連動して生み出されるのかを考える必要がある。

 利益を上げる目的が明らかでないから、利益その物を罪悪視する傾向が生じるのである。そして、何でもかんでも安ければいいという事になる。重要なのは、適正価格であるか否かであって、安いか高いかは表面的な問題に過ぎない。
 安ければいいと言う発想の最たるものは、金利である。金利は、安ければいいからなければいいと言うところまで来てしまった。利益も何れはそうなるのであろう。それが市場原理主義というものの正体なのである。収益を否定する事は、市場経済、ひいては、市場を否定する事である。市場を否定する者が否定市場主義を標榜するのだから、これ以上の皮肉はないであろう。お陰で金利生活者など絶滅してしまった。金利だけでは生活ができないのである。

 負債は、元本の部分と金利の部分から成り。金利は、変動的なものと固定的なものの二種類がある。元本というのは静的の部分であり、金利というのは、動的な部分を指す。
 静的な部分は、いわば力を蓄えておく部分であり、動的な部分は、力を放出していく部分、活躍している部分とも言える。元本は、金利を計算する基となる数字であり、金利は、元本によって導き出される価値でもある。金利を元本に組み入れるか否かによって価値を生み出す構成が変わってくるのである。

 利益にも、同様な構造がある。つまり、資産に投資した部分とその資産が生みだした価値とから収益構造は構成されており、生み出された価値が利益だと言えるのである。

 この利益や金利は、時間と伴に圧縮されていく傾向がある。

 故に、会計上の勘定は、基となる数値の残高水準が重要になる。残高が外部要因に連動して伸縮する勘定と外部要因に影響を受けない勘定、連動しない勘定がある。
 外部の影響を受けない勘定、連動しない勘定の典型が借入金である。

 担保は、この基となる物に対して掛けられる。この担保される物は、質権に端を発している。担保される物は、長期的な借入物件、差し押さえ物件である。
 担保された物の貨幣価値は、時価で変化する。それに対し、担保する債務の貨幣価値は、額面によって変化しない。

 担保権の行使や元本の一括返済は、通常では、余程のことがない限りありえない。特に、ノンリコースの場合は、担保物件を回収すれば取り引きが終了するのであるから、返済が余程滞らない限りありえないのである。
 ところが、外部環境の変化によってこの原則が破られる。貸し手の都合で返済に滞っていないのに、担保割れしたという理由で不良債権視され回収圧力がかかるのである。これは当初の目論見と違うのである。
 金利は、信用収縮には結びつかない。なぜならば、金利は費用処理されるからである。信用収縮を引き起こすのは、負債である。故に、元本の返済圧力が信用収縮を引き起こしていると言えるのである。

 また、返済に上限が設定されていないのも現在の負債の特徴である。その為に、返済能力にお構いなく、返済額が膨張する。極端な話し、天井知らず、無限大なのである。

 サブプライム問題にもこの担保する価値と担保される物の価値の間に生じる乖離がある。サブプライム問題の根底には、住宅問題がある。そして、雇用問題がある。住宅も、雇用も、不足しているという現実がある。その為に、無謀な住宅ローンが組まれ、証券化され、それが破綻した結果、金融市場が大混乱をきたしたのである。その前に、なぜ、住宅もあり、仕事もあるのに、住宅不足が生じ、失業が蔓延したかである。それを突き止められれば解決の糸口が見つかるはずである。






                    


ページの著作権は全て制作者の小谷野敬一郎に属しますので、 一切の無断転載を禁じます。
The Copyright of these webpages including all the tables, figures and pictures belongs the author, Keiichirou Koyano.Don't reproduce any copyright withiout permission of the author.Thanks.

Copyright(C) 2001 Keiichirou Koyano