構   造


産業構造


 基幹産業は、国家が育成するものである。産業を保護育成するのは、国の仕事である。国際分業という考え方がある。しかし、国際分業というのは、結果論に過ぎない。根本にあるのは、国家としての在り方である。
 例えば、かつては、自動車も家電製品も特定の国に偏ることなく、それぞれの国がその国の国情にあった独自の製品を製造してきた。
 ところが、大量生産方式が定着することにより、廉価な商品が、津波、洪水のように押し寄せて個々の国の産業を押し流してしまった。だからといって市場を閉ざして良いというのではない。近代国家は、鎖国をしていた江戸時代のように一国だけで成り立っていける時代ではないのである。
 それ故にこそ、明確な国家観、世界観が要求される時代になってきたのである。

 産業構造には、工場、工程、機械・設備、原材料と言った要素によって構成される物的構造、組織も人事制度、給与体系と言った人的構造、会計制度、原価といった貨幣的構造がある。
 また、産業を構成する要素には、市場、経営主体、消費者、国家などがある。
 これらの要素の最適な組み合わせを構築するのが、構造経済である。

 産業は、個々の経営主体、企業の集合によって成り立っている。企業は、貨幣的存在である。つまり、貨幣価値を基盤として成り立っている。今日の貨幣経済のリテラシーは、会計制度である。産業を構成する経営主体、企業は、会計上の利潤を追求する事によって成立している。会計上の利潤は、収益によって成り立っている。収益は、利益と費用の階層構造を成している。この階層構造が、基本的に産業構造を表している。
 費用構造は、産業構造の断層を表している。さらに、費用構造は、分配構造でもある。分配には、内的分配と外的分配があり、それぞれ、範囲と構造が重要になる。

 費用は、第一に、固定費と変動費。第二に、直接費と間接費。第三に、材料費(仕入れ)、労務費、一般管理費。第四に、売上原価、販売費・一般管理費、支払利息、税金、資本に分類される。
 第一の固定費と変動費は、経営活動の関連した構造を表し。損益分岐点構造を明らかにする。損益分岐は、企業だけではなく、産業にも当て嵌まる。
 第二の、直接費と間接費は、製品の製造や販売との関係の構造を表す。
 第三の、材料費と労務費と経費は、費用の形態、性格からの分類である。
 第四の、売上原価、販売費・一般管理費、支払利息、税金、資本コストは、分配構造を表している。即ち、売上原価は、仕入先への分配であり、販売費・一般管理費は、取引業者、従業員への分配、支払利息は、債務者への分配、税金は、国家や公的機関への分配、配当等、資本コストは、株主、投資家への分配を意味する。

 市場経済において、市場価格が景気を左右する。即ち、市場経済を正常に運営するためには、市場価格を制御する事が鍵になる。市場価格を制御すると言う事は、適正な市場価格を維持することである。適正な市場価格は、公正な市場の競争によって実現する。公正な市場の競争は、市場の規律、即ち、ルールによって保たれる。市場の規律は、市場を成立させている前提によって規制される。つまり、市場を成り立たせている目的、機能によって市場の規律は制約されるのである。
 市場の規律は、絶対的な法則や原理ではなく。相対的な体系であり、何等かの強制力によって有効となる。その強制力は、国家権力や契約、慣習、宗教的権威などによって発生する。

 市場は、取引の場である。取引とは、財の交換を前提とする。物々交換は、財と財の直接交換を意味する。貨幣経済では、交換の仲立ちを貨幣取引が行う。
 貨幣は、取引の手段、道具である。即ち、市場取引は、財の貨幣価値価格によって成り立っている。市場取引の鍵は価格が握っている。
 市場は、適正な価格によっ維持される。適正な価格とは、適正な利益が上げられる価格である。価格は、市場取引を通じて設定される。市場取引は、市場の仕組みによって制御される。即ち、適正な価格は、市場の仕組みによって維持される。

 一つの財によって市場取引において発生する価値の総和は、単価×数量である。更に細かく言うと、顧客数×単位消費量×単価である。これは、人と物と貨幣の積である。

 収益構造は、変動費+固定費+利益として表される。
 損益は、損益分岐点を一つの目処として成り立っている。限界利益が均衡する点が損益分岐点である。限界利益とは、売上高−変動費。あるいは、固定費+利益と言う式で表される。
 単価は、単位あたりの価格である。収益は、販売数量の総和として計算される。
 単価は、単位あたりの変動費+固定を販売数量で割った物+単位あたりの利益として計算されれる。単価に換算される限界利益は、単価−単位あたりの変動費である。この値の総和が、固定費を上回っ点から利益が生じる。

 全てにおいて成熟し、かつ閉ざされた市場を想定してみよう。
 全てにおいて成熟した市場では、市場取引は均衡していると仮定される。
 時間的な作用が働かない事を前提とすると所得も物価も均衡している。つまり、上昇も下降もしていない。
 技術革新もない。人員も毎年、一定の人数だけを採用し、同じ人数だけ退職しているとする。賃金の上昇は、規定の人事制度に基づいて計算される。基本給の上昇はない。
 その為に、固定費は、一定である。故に、価格の変動には、供給側では、変動費だけが変動要因として作用している。
 価格は、市場取引によって需要と供給によって決まる。需要を作り出すのは、消費者の欲求、必要性である。つまり、消費側は、その財の必要性が価格に影響する。
 この事は、成熟した市場では、本来、経済を変動させる要因は、変動費にあることを意味する。

 変動費を左右するのは、収穫量や生産量である。
 消費者の必要性を作り出す核は、消費者の欲求、欲望、主として生理的欲望、欲求である。

 時間的変化の重要な要因のもう一つが人口問題である。つまり、成熟した市場において、重要な要素は、気候の変動と、戦争、そして、人口の変化である。

 つまり、市場価格は、外的環境と人間の欲望とが作り出すのである。

 経済の変動要因、混乱要因は、旱魃や台風、地震、洪水と言った災害や戦争、侵略、内乱といった人災である。

 市場の取引が、一つの限られた範囲の市場の内部で完結するならば、その内部では、貨幣価値の総和は、増えもしなければ減りもしない。自給自足的体制がこの様な閉ざされた経済空間である。
 市場取引が市場内部で完結しないから、つまり、必要な物資を他の市場から調達しなければならないから交易が始まるのである。
 また、時間的な変化を前提としない。即ち、時間的にも閉ざされた空間ならば、貨幣価値の総和は、増えもせず、減りもしない。

 人間の経済活動には、一定周期の波が認められる。その波は、日単位、週単位、月単位、四半期単位(季節単位)、半期単位、年単位、人生単位に区分される。波は、循環運動を基本とする。この様な周期的循環運動は、主として人間の生理的要件によって引き起こされる。生理的要件は、生理的欲望に変換されるからである。それが経済の周期運動や循環運動の基礎となる。

 天体の運行にも周期がある。大体、時間そのものが周期運動である。時間は、地球と太陽と、月に位置と運動に基づく関数である。地峡と太陽と月の位置と運動と関係は、地球の公転、自転、また、月の公転を意味する。この様な天体の運行は、外的な環境に影響を与え、規制する。内的な人間の生理的欲望と、天体の運行による外的な環境の変化が時間の規則、周期的な運動を生み出しているのである。そして、経済は、この時間に支配されている。

 財の需要は、資金需要に連動する。資金需要にも、波や循環がある。日単位、月単位、季節単位、年単位が主な周期である。それが経営の周期にも影響を与える。

 この様に、時間的に価値が作用していない市場では、市場取引は、均衡している。この様な市場では、物価の上昇や所得の上昇は、通貨の流量と市場取引の総和によって決まる。市場に供給される財の量と通貨の量が一定で在れば、実質的な物価上昇や所得の上昇もない。
 市場に供給される財の量は、生産量や収穫量を基礎として、在庫の量によって調整される。かつては、貯蔵がきかない生鮮物によって物価の趨勢は決定付けられた。

 産業革命以前、日本では、明治維新以前においてはこの様な産業構造が一般的だったと考えられる。

 今日でも、物価上昇を名目的なものと実質的なものとに分類した場合、実質的な物価や所得の上昇が認められない場合をよくある。

 また、伝統的産業なもよく見られる形である。

 価格に影響を与えるのは、物理的変化と貨幣的変化である。
 変化とは、時間の関数である。即ち、物理的変化や貨幣的変化は、時間の関数である。
時間の関数と言う事は、時間的軸を組み込むことを意味する。つまり、物理的価値と貨幣的価値に時間軸を組み込んだのである。
 物理的変化というのは、収穫量の変化や生産量の変化である。
 貨幣的価値の時間的価値は、金利と減価償却である。

 この様な経済体制では、所得は、金利以外の付加価値によって形成される。つまり、所得を構成する要素は、人件費、地代、家賃、租税公課、減価償却費である。つまり、分配のための価値である。
 金利という概念が働かなければ、地代は、複利的な増殖はしない。地代は、地価が変化しない限り、一定である。つまり、地価に対して単利的な働きしかしない。しかし、地価に金利がつくと地価に連動して増大するようになる。

 近代市場経済がそれ以前の経済と決定的に違うのは、通常の取引の中に、金利、即ち、時間的価値が加わったことである。

 金利にも、単利と複利がある。単利は、元本に対して、費用としてみることが出来るのに対して、複利は、時間価値として作用する。

 金利によって時間軸が経済の仕組みの中に組み込まれる以前は、収益は、付加価値によってもたらされた。金利という時間価値が組み込まれる事によって利益の持つ意味が変わってしまったのである。

 金利という概念は、経済を構成するあらゆる要素の中に組み込まれた。地代も、金利がある時代とない時代では全く違った意味を持つ。そして、その時間価値を裏付けるのが、債務である。つまり、債務に金利の概念が加わったことで、経済を構成するあらゆる要素に時間軸が組み込まれる事となった。それによって貨幣価値が経済全体に浸透したのである。

 金利は、将来の債務が増え続けることを前提として成り立っている。それに対して、債権の将来的価値は、増加し続けるとは限らない。不確実なものである。それが、バブル現象を引き起こす一つの要因となっている。

 貨幣価値は、物理的制約を受けない。貨幣価値は、財との交換によって清算され、解消される。債務は、貨幣的価値である。その為に、物理的な制約を受けにくい。その為に、貨幣価値は、際限なく増殖することがある。即ち、貨幣価値の暴走である。

 現代の経済体制は、給与所得者に還元しようとする思想が強い。それでありながら、その点が見落とされがちである。定収入を前提とするか、不定収入を前提とするか、また、賃金収入を前提とするか、非賃金収入を前提とするかによって経済体制は根本的に違ってくる。それは、負債構造に影響を与えるからである。

 負債は、所得の時間的価値が増加することを前提として成り立っている。つまり、所得が右肩上がりに増え続けることを前提としている。この前提が崩れると負債は、成り立たなくなる。

 債権が単利的に変化するのに対し、債務が複利的に変化し、債務が債権の名目的価値を形成すると、債権の実質的価値と乖離し始める。それが極限にまで拡大する現象をバブルというのである。

 問題は、この債権と債務の乖離をいかにして解消するかなのである。

 もう一つ、近代市場経済を特徴付けているのが、減価償却という思想である。減価償却費と言うが、これは、あくまでも、仮想の費用である。つまり、現金の出費を伴わない費用である。現金の出費を伴わないと言うと語弊があるが、現金取引に依らない費用だと言う事である。つまり、費用が現金取引として発生した時点に一度に処理するのではなく。一定の期間で分割して費用として処理することである。

 単価を構成する固定費の中に、この減価償却費が含まれる。この減価償却費は、償却期間の設定や償却率の設定の仕方で伸縮することが可能な費用だという特徴を持つ。つまり、設定の仕方で利益操作が可能なのである。
 極端な話し、無限に償却期間を伸ばせば限りなくゼロに設定することが出来る。その為に、見せ掛け上の利益を計上することが可能となるのである。これが、廉価販売を可能とし、大量生産を有利にする仕掛けである。

 しかし、減価償却費を少なく見積もることは、経費の計上の先送りであるから、結局は経営を圧迫することになる。

 また、この事は、資金力の大きい者が圧倒的な優位に立てることも意味する。それは、資金力、言い換えれば、資金の調達能力に優れた金融機関や資本家の市場の支配を促進してしまう事態も招く。それは、市場本来の機能の低下も招くのである。場合によっては、市場経済を終焉させてしまう。
 ただ安ければいいではなく。経済に与える影響をよく吟味した上で、規制すべき事である。

 変動費と固定費は、フロー(流動性)とストック(固定性)に関係した要素である。

 流動性は、金ばかりにあるわけではない。人や物にもある。そして、現実の経済は、人や物の関係によって動かされている点を見逃してはならない。ただ、貨幣経済体制、市場経済体制では、金の動きが、人をや物の動きを作り出し、表しているのである。

 貨幣経済、市場経済において経済効率を考える場合、重要なのは、生産力ではなくて、雇用である。なぜならば、経済の本質は、労働と分配にあるからである。労働と分配を円滑にするために、生産量と消費量が問題となるのである。充分な量の財が確保されなければ、円滑に分配が実行されない。だから、生産量、生産力が問題になる。しかし、同時に、貨幣経済、市場経済では、必要な財を、貨幣を使って市場から調達することが前提となる。
 その為には、各個人に貨幣が、必要なだけの量、行き渡っていなければならない。その為には、雇用が、即ち、所得の前提となる労働、即ち、仕事の量を確保する必要があるのである。
 そうなると固定費や付加価値の内訳が重要になる。つまり、固定費や付加価値に占める人件費と減価償却費の割合が重大な意味を持ってくるのである。

 減価償却費は、償却資産に連動し、金利は、長期負債に連動している。問題になるのは、非償却資産であるが、それは、長期債権として資本に連動するのである。

 個(部分)と全体の中に含まれるフロー(流動的な部分)とストック(固定的な部分)の働きと相互作用を理解することが必要とされる。

 個人の所得は、消費として市場に直接的に現れる流れと貯蓄として固定的な部分とになる。この固定的な部分は、金融機関を経由して間接的な流れを生み出す。貯金として金融機関に預けられる、言い換えると家計から融資された部分が、信用を生み出す素となる。
 消費の部分は、企業の収益に反映される。このバランスが重要なのである。

 金融危機は、金融機関が持つ債権の劣化が問題なのである。金融機関の持つ債権というのは、金融機関から見て貸付金を意味し、相手側から見ると債務を指す。信用は、貸し付けを通じて創造される。つまり、いくら金融機関の資本を増強しても、即、信用が創造される、つまり、資金が市場に流通するわけではない。貸付金に転化されて始めて資金は、流通する。仮に、注入された資金が劣化した貸付金を補うために使われれば、資金は、市場に供給されない。
 問題は、金融機関の債権と債務、即ち、総資産と総資本が不均衡になっていることが問題なのである。金融機関の債権の劣化を是正するためには、金融機関の債務を圧縮するか債権価値を高めるしかないが、金融機関の債務は、預金であるために、これを圧縮することは出来ない。そうなると、債権価値を高める以外には、資金を市場に流通させる手段はないのである。
 公共投資もこの債権価値を高める効果があるならば、金融危機に対しては有効な手段であるが、債権価値に影響を与えない場合は、あまり、効果は期待できない。

 大体、金融危機の背後には、金融機関の収益の悪化がある。金融機関の収益の悪化の原因は、貸付先の減少とそれに伴う不良かである。貸付先が減少した結果、ある程度のリスクを処置の上で住宅ローンや株式投資に傾斜したのである。そして、一方は、証券化、他方は、ヘッジファンドを生み出し、混乱の種を蒔いたのです。

 金融機関がなぜ、優良な貸付先を失ったかと言えば、市場の成熟が考えられる。つまり、市場が成熟し、設備投資が一巡すると新規の資金需要が減る。また、新たな資金需要があったとしても企業は、資本市場から資金を調達するようになる。その為に、金融機関は、優良な貸出先が減少し、貸し付けが減少する。貸し付けの減少は、信用の減少を招き、市場に流通する通貨を減少させる。それが企業収益の悪化に繋がるのである。通貨の減少は、デフレを発生させ、企業収益を招くのである。

 金融機関や企業の収益を改善しない限り、経済は安定しない。それは、市場が成熟し、変化に乏しい状態になりつつあることを前提とするのか、それとも、新たな技術革新が始まり、市場の拡大成長が見込めるのかの見極めにかかっている。ただ市場は単一ではなく、絶え間なく変化し続けている市場と変化が停滞している市場が混在としている。成長発展が、つまり、変化が、是か、非か。あるいは、停滞を、即ち、不変を是か、非かという議論ではなく。今、市場は、変化発展しているのか、あるいは、成熟しているのかを明らかにすることが重要なのである。

 陰陽でいえば、変易、不易、簡易である。絶え間なく変化し続ける部分と不変的部分、それらを結び付ける道理、それは、単純、反復、繰り返しが基本なのである。ゆえに、その法則を知れば、流動性と固定性の関係が理解できる。

 変化を前提とすべきなのか、それとも不変を前提とするかによって経済の在り方は違ってくる。しかし、それは何れが正しくて、間違っているかと言った問題ではなく。何を前提とすべきかの問題なのである。





                    


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