構     造

基礎構造

 なぜ、不景気なのか。それは、企業が儲かっていないからである。企業が儲からないと税収も減少する、所得も伸びない、失業も増える。要するに分配構造が、機能しなくなるのである。経済を論じる者の多くは、そのことがわかっていない。特に、市場を絶対視する学者は、市場の効率が悪いから、景気が良くならないと頭から決めてかかっている。
 効率性は、幸せの基準にはならない。経済というのは、元々、人々の福利厚生、幸せを求めるものである。それを忘れて、ひたすら、生産性や、効率性に走っても景気は良くならないのである。
 企業が儲からないから、不景気なのである。儲かる儲からないは、認識上の問題である。儲からなければ、儲かるようにすればいいのである。そうすれば、景気も回復する。
 では、補助金を出せば企業は儲かるようになるのか。それは、違う。補助金を出しても資金的には楽になるかもしれないが、利益がでるとは限らない。収支と損益は、目的が違うのである。
 補助金は収益ではない。資金繰りを良くすると言うのと損益を均衡させるというのは、計算の基盤が違うからである。補助金を出して補填するのと、利益を出すというのは、本質が違うのである。儲かるようにするためには、仕組みや基準を変える必要がある。
 重要なのは水準の問題である。収益の水準と費用の水準が合っていないのである。

 会計制度を基盤とした市場経済は、会計的利潤を前提とした経済体制である。故に、経済主体、即ち、企業、家計、財政が利益を上げられることが必要要件である。企業、家計、財政が利潤を追求できる仕組みが成立してる事が大前提となる。利益は、搾取であり、悪だでは成り立たないのである。

 構造不況業種というのがある。構造不況業種とは何か。
 構造不況業種とは、構造的に利益が上がらない業種だと言う事である。経営者や従業員がどれ程努力しても儲からないような仕組みになっている業界だと言う事である。では、構造不況業種、つまり、儲からないような仕組みになっているから、不必要か。儲からないからと言って不必要な産業だとは限らないのである。むしろ、鉄鋼や石油、鉄道と言った基幹産業と言われる産業に構造不況と言われる産業が多く見られる。儲からない産業は、社会的に貢献しなくなってきたのだから淘汰すべきだなどと、乱暴なことを言う識者がいる。しかし、儲からなくなって原因は、社会的な役割をなくしたからとは限らない。認識上の問題である。
 社会にとって、また、国にとって必要であるか否かの基準と、収益性の問題は、別なのである。それは、公共事業を見れば解る。公共事業は、儲からないのではなくて、儲からない仕組みが出来上がっているのである。だいたい、公共事業には、儲けの基準がない。最初から儲けることを考えていないのである。それでは、儲かるはずがない。収支と儲けとは考える基準が違うのである。
 公共機関に委せていたら、赤字になるばかりだと言うが、その前に仕組みも基準も違うことを見落としている。何でもかんでも民営化してしまえと言う前に、なぜ、公共事業は儲からないのかを明らかにすべきなのである。そうしないと、財政赤字を解決する手段は見つからない。

 儲かる仕組みは、条件次第で、儲からない仕組みにもなる。また、儲かる仕組みと言っても常に、儲かるとは限らないのである。会計というのは、儲かるようになる仕組みでなければならないのである。だから、損益によって企業実績を測ることができるのである。最初から、儲からないようになっているのならば、企業実績など測りようがない。考えようによっては、会計制度が儲けを作り出しているのである。その点を間違ってはいけない。ならば、なぜ、儲ける必要があるのかを明確にしておく必要がある。基準とは、本来合目的的なものでなければならないからである。目的が定かでない基準というのは無意味なのである。

 最近、どんどん構造不況業種が増えているのである。とくに、先進国において構造不況業種が増えている。アメリカにおける自動車業界が代表的なものである。なぜならば、構造不況におちいるのは、市場が成熟してきた証拠なのである。産業が成熟してくると市場は、飽和状態になる。そうすると、市場は拡大から縮小に転じるのである。成長を前提としていた産業構造だと市場が収縮してくると必然的に個々の企業は儲からなくなる。競争で良かったのが、奪い合いになる。だから、産業が成長し、市場が成熟してくると構造的に不況になる。それを効率化によって改善しようとしても固定的費用の上限が確定してれば自ずと限界がある。仕組みや基準を変えない限り、構造的不況から脱出することはできないのである。

 重要なことは、社会や国家の底辺で、経済や生活を支えている産業の多くは、成熟した市場にあり、放置すれば、収益があげられなくなるという事である。だからといって、独占的市場にしたり、公共事業にしてしまうと、効率性や生産性が低下してしまう。それ故に、産業を構造的に制御する必要が生じるのである。

 まず第一に言えるのは、その産業が国や社会にとって不可欠なものであるか否かを判断することである。
 次ぎに、その理由を明らかにすることである。
 例えば、産業が生み出す財は、必ずしも、国や社会の将来にとって不可欠なものとは言えないが、その産業が生み出している雇用が重要だとなれば、雇用の問題である。新しい産業で、雇用を吸収できるのならば、それもまた良しなのである。
 問題なのは、何等かの利権や既得権益化している場合である。利権化していたり、既得権益化していてもあからさまに言う業者はいない。故に、産業が必要か否かの判断は、国家構想に基づく必要がある。
 その次ぎに検討するのは、何が、その産業を儲からなくしているかの原因である。一時的な原因なのか、それとも恒久的な問題なのかによって対策が違ってくるからである。また、制度上の欠陥なのか、運用上の間違いなのか、認識の違いなのかを明らかにする必要がある。
 その上で、仕組みや基準、枠組み、ルールを変更していくのである。

 国家にとって必要、不可欠な産業を選別するための基準は、その産業の機能にある。そして、産業が果たす役割、機能が必要か不可欠であるかどうかは、国家ビジョン、国家構想の上に成り立つ。その上で国家政策や国家戦略が構築されるのである。戦術や政略は、まだその先の話である。
 国家にとって重要な役割は、第一に雇用の創出である。経済は、労働と分配であるから、働く場の確保は、産業を組み立てる上で欠くことのできないことである。闇雲に効率を求めることは、この雇用の場や機会を奪うことになる。
 第二は、国防上、治安上、防災上、必要な産業である。国防というのは、軍事的な意味だけではない。むしろ軍事産業が突出するのは、国を危うくする。国防上必要な産業とは、国家の独立を維持するために不可欠な産業という意味である。
 これらは、自給率と密接に関係してくる。何を自給すべきなのかである。自給できなければ、何をそれに代えるかである。
 第三に産業や国の基幹産業であることである。基幹産業というのは、インフラストラクチャーを意味する。それは、社会のインフラストラクチャーと産業のインフラストラクチャーの双方を指して言う。
 第四に、国民生活に不可欠な産業である。国民生活に不可欠な産業は、それだけ制約も多い。きれいな町並みを維持するためには、建築基準が厳格であるというようにである。国民生活に不可欠な産業というのは、国民の健康と安全に密着しているからである。
 第五に、将来性のある産業である。未来への布石、国家の発展を促す産業を育むことは不可欠なのことである。ただ、そればかりが脚光を浴びるのはおかしい。どんな産業にも産業を下支えする基礎がある。そして、その基礎を安定させることが産業を育む上で重要なのである。

 国家に必要不可欠な産業の多くが、古典的産業であり、成熟した産業である。故に、これらの産業をいかに、保護すると同時に、効率化していくかが重要となるのである。それが国の産業政策の根底を成す。元々、産業政策というのは、地味で地道な行為なのである。だからこそ、政治の力が試されるのである。

 成長が止まった産業、成熟した産業をどうするのかが、経済政策の根底をなしている。その上で、未来の産業、これからの産業をどう育成していくかが重要なのである。
 産業の礎は一朝一夕で築けるものではない。長い歴史と伝統によって育まれるものであることを忘れてはならない。

 景気の悪化は、経済主体の内的要因による。
 つまり、企業も、家計も、財政も赤字だから所得が減るのである。企業の資金の調達力が低下しているから消費も投資も伸び悩んでいるのである。
 そして、お金が廻らないから、買いたくても買えない。欲しくても手が出ない状態なのである。その結果、景気は回復しない。
 そのうえ、設備投資も雇用も民間企業の収益力に依存している。企業収益が改善しない限り、いくら、金融を緩和しても設備投資も、雇用も増えない。
 
 景気対策として、常に比較されるのは、公共投資と金融政策である。しかし、民間企業や家計にとって公共事業も金融政策も外的要因なのである。しかし、企業や家計を実質的に動かしているのは、内部経済、即ち、企業や家計の内部の動機なのである。そして、この内部経済は、市場の原理の働きによって動いているのではなく。組織の仕組みの働きによって動いているのである。

 景気の悪化は、バランスシートが毀損したために、資金の調達が困難になったことに起因するとして、バランスシートを改善すればいいと言う考え方もある。
 確かに、景気の後退はバランスシートが悪化したことが一因ではある。しかし、バランスシートを改善したからと言って設備投資に、即、結びつくわけではない。結局は、収支と損益に還元される。収益が改善される見込みがなければ、いくらバランスシートが改善されても投資も、雇用も伸びない。儲かるあてもないのに投資したり、人を雇う馬鹿はいないのである。バランスシートを改善するのは、あくまでも資金の調達能力を改善することが目的なのである。

 景気対策というのならば、経済を構成する経済主体を健全化、即ち、黒字化する以外にないのである。そして、その目的によって市場の仕組みを構築することなのである。経済と制度は、元々、合目的的な構造物である。

 現在の経済の構造で重要なのは、固定部分と変動部分の区分である。ただし、何を固定とするか、何を変動とするかは、相対的な概念であり、何を基準にするかを決定することに伴って決まる。
 固定と変動とを区分する基準は、第一に、時間、周期である。長期的な部分を固定的とし、短期的部分を変動的とする。第二に、変化の度合いである。変化の度合いは差によって測られる。変化の度合いとは、基準に対する率と幅として現れる。第三に、フローとストック。流動性である。つまり、現金化の速度である。現金化の速度とは、貨幣価値の実現するための時間を言う。第四に、分母と、分子である。何を基準にして、何を導き出すかである。第五に、相関関係である。つまり、何に対して、何が連動しているかである。関係である。第六に、元と付加価値である。
 固定と変動の違いが意味するのは第一に、静と動である。第二に、位置と運動である。、第三に、回転である。 第四に、安定と不安定である。第五に、定型と不定形である。第六に、保証と損得である。第七に、不動と可動。変化の度合いである。変化とは、動きである。何等かの基準に対する比率と指標である。
 固定と変動を科目によってみると、第一に、貸借と損益である。第二に、資金の運用は、総資産と費用に区分される。第三に、資金の調達は、総資本と収益に区分される。第四に、総資産は、固定資産と、流動資産に区分される。第五に、総負債は、固定負債と、流動負債に別れる。第六に、借入金は、長期借入金と短期借入金に区分される。第七に、収益は、定収入と不定期収入に別れる。第八に、収益は、費用と利益に区分される。第九に、負債は、元本と金利からなる。第十に、純資産は、資本と配当からなる。第十一に、費用は、固定費と変動費に区分される。第十二に、資産と利益に区分される。第十三に、収入は、定収入と不定期収入、臨時収入に別れる。第十四に、可処分所得と不可処分所得に別れる。第十五に、貯蓄と消費に区分される。
 この様に、経済を構成する要素には、不動的か、可動的か決定的な要素となる。

 経済現象は、この固定的部分と変動的部分の割合と関係によって引き起こされる。重要なのは、経済現象は、固定的な部分に依拠しているのか、変動的部分に依拠しているかである。

 問題点が固定的な部分で起こっているのか、変動的な部分の問題なのか。例えば、貸借上の問題か、損益上の問題かを見極めることが重要である。その場合、注意すべきなのは、一見して流動性の問題に見えても、実際の原因は、ポジション、位置付けの問題であったりすることがあることである。

 現在の経済は、予測の上に成り立っている。予測に基づいて、予定や計画、予算を立て実績、実際に出た結果と照らし合わせて予定を変更、修正、管理する。それが経済活動の基本である。
 つまり、予測や想定に基づいて意思決定や準備がされる事が前提となる。そうなると予測の精度が重要となる。予測をの精度を高めるためには、確実なことと不確実なことを見極めることが大事なのである。
 確実な事というのは、当たり前な事柄、普段は、無自覚な事象が多い。例えば暦や日没時間、自然の法則、法律、組織の規約のようなものである。また、枠組みの多くも予め設定されている。
 現代社会においては、不確実なことを過剰に評価する傾向がある。重要なことは、予測を立てる上で必要な要素の大多数は、確実なことである。ただ、成否を握る部分に不確実な要素が多く含まれていると言うだけである。確実だと思われることをより確実なものとしておかないと土台から成功は期せないことを忘れてはならない。

 予測を基盤とした社会で一番に問題になるのは、予測不能な状態や予測不能な状態を作り出す仕組みである。

 多くの事業は、始まる前は、楽観的に考え、現実に始めると悲観的になるがちである。捕らぬ狸の皮算用ではないが、商売を始める前は、バラ色の未来を描き。いざ商売を始めるとこんな筈ではなかったとすぐに壁にぶち当たって挫折するのが通例である。しかし、現実とは、始めに考えるほど甘くはないが、絶望するほど厳しくもないものである。要は、どこまで現実を直視し、状況や環境に適合できるかによっているのである。

 市場は、拡大と縮小を繰り返している。それに合わせて市場は、構造的な変化も繰り返している。また、市場には、人的な市場、物的な市場、貨幣的な市場があるが、それぞれ独自の運動をしていると見なして良い。それを結び付けているのは、存在物である。
 経済主体は、市場と均衡することが常に求められている。つまり、経営に要求されるのは、市場の拡大と縮小に合わせて均衡できる構造をも構築することなのである。現代の経済構造で問題なのは、この様に拡大と縮小を繰り返す市場に均衡できる仕組みが経済主体にも、市場にもないことである。
 現代経済体制は、常に拡大均衡前提として成り立っている。それ故に、市場が縮小均衡に向かうととたんに、市場は機能不全状態に陥るのである。

 経済の構造的歪みの原因は、拡大均衡から縮小均衡へ、あるいは、縮小均衡から拡大均衡への変換点において発生する場合が多く見られる。つまり、経済構造の変化が、恐慌やバブルと言った経済現象、経済的災害を引き起こす一因と考えられるのである。
 市場が拡大している時のインフレーションと市場が縮小している時のインフレーションでは、同じインフレーションでも、原因が違う。拡大均衡から縮小均衡に変化する段階で、拡大均衡の時と同じ、仕組みや施策を採っていると逆効果になるの場合が多い。拡大均衡時の施策と縮小均衡時の施策とは、表に顕れている現象が同じでも、正反対なものなのである。
 また、貨幣的要因が原因のインフレーションもあれば、物的要因によるインフレーションもある。人的要因によるインフレーションもあり、それぞれの要因によって対策が違ってくる。しかも、一般的に原因は複合的、構造的なものである。

 経済の構造的な変化というのは、一朝一夕に来るものではない。変化には時間がかかる。故に、何等かの予兆があるはずである。そして、その予兆を的確に見抜いて構造的な対策を立てる必要があるのである。

 何が原因なのかを見極める必要がある。資金が流れないことに原因しているのか。資金量が少ないことが原因なのか。需要がないことが原因なのか。供給力がないことが問題なのか。生産に支障をきたしているのか。
 そして、例えば、生産に支障をきたしているのならば何が原因なのか。原材料が不足しているのか。原材料の価格が高騰しているのか。技術がないのか。需要に生産が追いついていないのか。人手不足なのか。在庫が不足しているのか。価格に問題があるのか。為替の変動が原因しているのか。流通、交通に不都合が生じたのか。何等かの災害によるのか。災害も天災なのか、何等かの事故か、それとも戦争や革命の様な人災なのか。それとも人為的、作為的な思惑が働いているのか。
 それによって採るべき施策も違ってくる。

 市場は、取引によって成り立っている。故に、経済の歪みは、取引を通して現れる。故に、取引によって成立する経済構造を点検すれば経済の歪みの原因は明らかになる。

 市場経済において重要な原則は、経済現象を成立させている個々の取引は、その取引が成立した時点において均衡しているという事である。つまり、一つの取引には、必ず反対取引が生じることを意味している。反対取引は、相対取引とも見なす事が出来る。取引と反対取引は作用、反作用の関係にある。そして、取引と反対取引は、相対していて、一対一の関係にある。方程式である。
 また、取引の内容、構造は、非対称なのである。そして、市場の歪みは非対称性から生じる。そして、取引と反対取引は、取引が成立した時点において同量の貨幣価値を有する。それが、取引の均衡を意味する。取引が成立した時点で、同量の貨幣価値を実現する。それが現金価値である。
 取引の構造が非対称であるという事は、取引と反対取引、または相対取引は、各々、別個の価値を形成し、時間的な変化も独立しているという事である。ただし、取引と相対取引は、それぞれ独自の価値構造を形成するが、それぞれが実現した貨幣価値によって関連付けられる。そして、決済によって取引は終了する。決済とは、貨幣価値を実現し、清算することを意味する。つまり、取引と相対取引の関係は、各々が貨幣価値を実現し、清算した時点で解消される。
 例えば、商品は、仕入れた時点で債権と債務が生じる。債権は、販売によって貨幣価値を実現し、債務は支払によって貨幣価値を実現する。その実現された貨幣価値を清算することによって売上利益が確定する。そして、取引は、決済されて終了する。
 
 取引、相対取引の時間の経過に基づく構造的変化の差が利益を生むのである。つまり、構造に歪みがあると利益は生まれない。かえって損失が生じる。

 これが会計、基盤である複式簿記の基準でもある。故に、市場経済の原則でもある。
 そして、この事は、一つの事象に対して必ず相対する事象を想定していることを意味する。

 例えば、借入に対極には、貸出がある。経済主体内部では、借入は、債務を形成し、貸出は、債権を形成する。同時に借入は、借り入れた側の内部において債権化され、貸出側の内部では債務に変換される。借り入れた側は、その内部変換によって資産を形成する。その資産の生み出す価値の変化と借り入れたとはの債務の構造と均衡によって貸借関係は形成される。そして、借りた側の債権、債務、貸し出した側の債権と債務の関係が、経済主体の基盤を形成するのである。
 住宅ローンを借りて住宅を購入したと仮定した場合、住宅を購入した側は、住宅の市場価値と住宅ローンの返済義務を形成する。資金を提供した側は、住宅ローンを受け取る権利と住宅ローンの資金の調達義務が生じる。そして、住宅ローンが成立した時点において取引によって生じた貨幣価値が確定する。この取引は、取引によって生じた貨幣価値が清算され、解消されることによって終了する。取引を終了させる行為が決済である。
 この過程で何等かの支障が生じた場合、取引は不良なものとなり、資産は不良債権化するのである。しかし、問題は、不良債権とされた資産にだけあるのではなく。四つの要素、全てに生じているのである。

 四つの要素で重要なのは、借りた側の債務では、返済の在り方である。債権では、使途の性格、状態である。貸し手側の債務では資金の質であり、債務では、貸出条件、貸出前提である。

 設備投資で言えば、借り手側の返済計画で言えば、収益と資金計画の問題になる。使途から見ると償却資産の実質的価値、設備の更新計画等が問題になる。減価償却費と税引き後純利益が基準である。貸し手側から見ると貸出条件の変化とは、外部環境の変化とそれに伴う担保としたものの相場の変動である。資金の性格は、資金の流動性であり、銀行であれば、預貸率の変化や資本規制の動向など言う。リースなどで言えば、借入規制などである。また、会計基準の変更なども資金の質を変質させる要素がある。

 資金の質とは、資金の信頼性である。信頼性は、第一に、資金源である。資金源には、収益、負債、資本がある。第二に、資金に対する制約条件である。制約条件は、第一に、収益力の変化。第二に、返済を必要とするかどうか。返済を必要とした場合、返済条件。第三に、資本規制である。
 貸出の前提条件とは、第一に、何を担保とするかである。担保とするものには、第一に、将来の収入。第二に、担保した物の名目的価値。第三に、担保した物の実質的価値である。貸出の前提条件の第二は、貸し出した時点での状況である。貸し出した時点での状況、前提条件とは、金利動向、相手の信用力、保証、保険等である。
 返済の在り方とは、第一に、月々の返済額である。第二に、返済期間である。第三に、元本と金利の関係である。第四に、返済不能に陥った時の処理の仕方である。これらは、契約内容の根本でもある。
 第四に、使途の目的と対象である。使途の目的とは、第一に、使途が消費に向けられる物なのか、資産に向けられる物なのかである。消費に向けられる物ならば、消費によって得られる効果や代償である。資産に向けられれば、資産の実質的価値である。そして、使途の対象とは、最終消費者なのか、投資なのかである。
 四つの要素どう関連付けられ、また、相互どの様に影響、作用を及ぼしあっているかが重要になる。
 例えば、貸出の前提条件の変化に返済の在り方がどう影響しているかである。
 そして、経済政策は、これら四つの要素に、構造的に働きかけることによって成就する。例えば、金融危機に際しては、資本を注入すると同時に、支払原資の確保のために公共事業を増やし、返済の猶予を働きかけ、資金援助を行うと伴に、収益の向上策を立てるというようにである。

 これらの要件に対し、どの様な施策、規制がされるかによって実質的与信の量の増減や資金の流れの方向が変化する。表立っては、関連付けられていないか、一部の関連づけで終わってしまっている。

 借り手側では、第一には、返済計画の当否。支払のための原資がどうなっているかである。第二に、使途の効果である。つまり、使途が消費に向けられればその結果がどう収益に結び付けられたか(コストパフォーマンス)であり、資産に向けられれば資産の実質価値である。
 貸し手側では、第一に、貸出条件や貸出前提の変化。何を担保し、その担保の状態がどうなっているかである。第二に、貸出資金の制約条件の変化である。例えば、預金ならば、預金量の変化。また、借入ならば借入条件、規制の変化(自己資本率規制)等である。

 貸出の前提条件が変わっているのに、返済方法、返済の在り方が変わらない。景気の悪化によって収益が落ちているのに、返済額に変更がない。もっとひどい場合は、収入が減って資金繰りがつかない相手に、資金の提供を拒んだり(貸し渋り)、返済条件を厳しくしたり、無理矢理資金を回収する(貸し剥がし)。その結果、潰れなくて良い企業が潰れたり、また、社会的に潰してはならない企業が淘汰されたりする。

 また、物価が高騰し、資金繰りが困難になることが解っている時期に、監督官庁が資金動向を厳しく監視すれば、勢い、金融機関は、資金を絞らなくなる。この様なことは、政策の誤謬である。

 金融機関は、輸血を必要としている病人から自分を生かすために、血を抜くような行為を平然と行うようになった。しかし、その様な行為をせざるを得ないような状況、環境に追い込んだのは、経済政策や現在の市場の仕組みである。

 金融機関は、一回の損失、過失で過去の経緯(いきさつ)や利益を忘れてしまう。融資をした時の前提であり、その時の合意とその後の状況の変化である。

 こうなると金融や監督官庁の本来の働き、目的とは何かと言う事が問われる。

 不良債権処理は、慎重を期す必要がある。先ず、何をもって、つまり、何を基準にして不良債権とするのかである。
 そこには、市場取引の構造がある。
 市場は、取引によって成り立っている。市場とは、取引の集合体と見なしても良い。取引を成立させる要件は、取り引きの時間と場所、取り引きの当事者、取り引きの条件、そして、その取り引きによって生じる貨幣価値である。取引によって成立、実現する貨幣価値が確定する。市場取引によって確定した貨幣価値に基づいて債権、債務関係が生じる。
 
 不良債権の前提には、債権者と債務者の存在が前提となる。つまり、債権者、債務者のおかれている状況や前提を確認する必要がある。その上で債権者と債務者の関係である。関係とは、双方の権利と義務、権限と責任関係を意味する。権利と義務、権限と責任は、作用反作用の関係にある。つまり、同じ働きが立場の違いによって権利と義務、権限と責任を構成しているのである。確認するのは、前提条件と双方の力関係である。この関係によって最終的な決裁者と範囲が画定される。最終的な帰結は、債権者主義(ノンリコース)によるのか、債務者主義(リコース)によるのか、つまり、思想上の問題である。
 貸し手側には、第一に、資金源。調達先、調達手段。第二に、貸し出し条件、担保するものが設定される。借り手側、債務者側には、第一に、返済の在り方。第二に、使途と資産が発生する。仕訳上は、貸出側、借り手側の第一の要件は貸方、つまり、調達側に記載され、貸出側、借り手側の第二の要件は、借方に記載される。
 この四つの要素の相互関連の在り方、契約上の条件や制約によって不良債権は定義されるべきものであり、一概に、資産価値が低下したことだけを指すわけではない。資産価値が何に関連されているか、また、何に対して劣化しているかが不良債権を処理する上で、重要なのである。

 資金源と貸し出し条件が連動しているとは限らない。また、担保している物と返済条件が結び付けられているとも限らない。貸し出し条件と返済の在り方が結び付けられていない場合が多い。担保と資産価値が最初から結び付けられて条件が設定されているとも限らない。どこかの関係が途切れれば、取り引き全体の構造が破綻する危険性がある。また、権限と責任の均衡が保たれなくなる可能性もある。それが不良債権問題を複雑にしているのである。

 不良債権の構造を分析する。前提条件は、地価や株価が大幅に下落している。景気は、後退期にあることを前提とする。
 第一に、資金の質の問題がある。これは、貸出側の貸借対照表の貸方に表れる。
 銀行の貸出資金は、預金を基盤としている。預金とは、何か。預金は、銀行にとって借入金である。この点を忘れてはならない。つまり、預金には、金利がつくと言う事である。その為に、預金を運用しなければ、銀行は成り立たない。
 預金は、小口の預金者の資金を集めたものである。また、預金は、いつでも引き出せるものでなければならない。故に、銀行は、預金が、いつ引き出されてもいいように準備しておく事が義務づけられている。
 預金を圧縮することは原則できない。その為に、貸出金が劣化した場合は、資本金が圧縮される。圧縮された資本を補填する手段として増資がある。
 第二に、貸出条件、前提の変化である。
 貸出資金は、貸し手側の貸借対照表の借方に表れる。貸出の多くは、不動産を担保にして長期の貸出が多い。長期の貸出は、元本の部分を指し。基本的には、回収は、長期に分割して返済をする性格の長期債権である。貸出金は、約定によって拘束されている。
 増資された場合、増資によって資金は、増える。ただし、国債のような物によって増資された場合は、現金が増えるのではなく。有価証券が増えるのである。そのままでは貸出に廻す原資は、増えない。
 また、現金で支払われたとしてもそのまま貸出資金に廻されるのではなく。不良債権の清算に廻される場合が多い。不良債権の清算とは、債権の決済である。
 バブルの時やサブプライムローンは、土地や株の値上がりを前提として担保を設定された。それが、地価や株が暴落した時、問題を引き起こしたのである。
 対策は、貸出条件の見直しである。
 第三に、借り手側の返済の在り方である。支払は、可処分所得の範囲内に設定されるのが一般である。その為には、一定、又は、安定した収入があることが前提とされる。
 借り手側は、景気が後退している場合は、収益力が低下している。つまり、返済の資金繰りが厳しい状態にある。この様な場合の対策は、返済方法の変更であるが、景気や地価の動向と返済の在り方は連動していない場合が多い。
 サブプーライムローンの多くが当初の返済額を低く抑えていた。その為に、返済額が上昇した段階で破綻してしまった。
 第四に、使途の状況である。使途は、本来、収益源であり、また、担保される資産でなければならない。それが借入の裏付けとなるからである。資産の場合、取り引きが成立した時点の価値に基づくのか。それとも、時価、現在的価値に基づくのか。将来的価値に基づくのかによって債権の評価が違ってくる。それは借り手側が借入金の使途をどう考えているか、貸し手側がどう評価しているかの問題に行き着く。要するに、評価の問題であり、事業観の問題である。
 不良債権は、多くが不動産や株であり、地価の上昇や株価の上昇を前提とした物件が多い。相場が著しく劣化している場合が想定される。しかも短期的には損失は回復できず塩漬け状態にあると見られる。しかし、長期的に見ると簿価に水準までは回復する可能性がある。問題は、担保価値であるが、これは金融機関との相対取引であるために、財務諸表上には表れてこない簿外取り引きである。本来は、返済が滞らない限り、表面には表れてこない。
 対策は、資産の長期的な対策である。

 収益は、費用と利益の構造からなる。その相対する構造に時間軸を加えることによって時間的価値が生じる。時間的価値は、利益、金利、配当、地代、家賃等である。

 公正な競争とは何か。同一の競争条件が実現しなければ、公正な競争は、成立しない。好例が、人件費である。人件費というのは、費用の中でも大きな部分を占める。必然的に価格に決定的な影響を及ぼし、競争力を左右する要素である。
 人件費を構成する要因は、多様である。費用には、名目的なものと実質的ものがある。名目的というのは金額に現れた人件費である。価格に反映する人件費は名目的な部分である。それに対して、実質的な人件費というのは、人件費の持つ実際的な価値の総額を指して言う。名目人件費と実質的な人件費が一致するというのは稀である。なぜならば、人件費には、労働の対価という側面だけでなくいたような側面を持つからである。人件費は、第一に、労働に対する対価、つまり、コストである。第二に、人件費は、所得だと言う点である。つまり、人件費は、生活の糧である。第三に、労働に対する評価でもある。
 つまり、人件費は、一律の条件で決められているわけではない。産業の空洞化が叫ばれる背景に、人件費の問題が大きく影響していることは、衆知の事実である。人件費が安い地域で生産を行えばそれだけ費用を低く抑えることが可能なのである。しかし、人件費が安いという理由が、労働条件にあるとしたら、それは問題である。つまり、人件費が安いのではなく。労働条件が悪いところに生産拠点を移しているにすぎないからである。
 人件費を低く抑えるためには、一つは、労働条件の問題がある。もう一つは、費用の負担を企業が負うのか、公が負うのかの問題もある。例えば、医療保険や年金を国家が負担している場合と私企業に負担させている場合では、当然、名目的賃金は違ってくる。また、国家間には、為替の変動の影響がある。公正な競争力は、名目的だけではなく、実質的な面からも捉えないと実現しない。
 故に、競争条件を一律に扱うことは出来ないのである。一律に扱うことは、公害や貧困、劣悪の労働条件を輸出することにもなりかねないのである。
 経済的要因は、政治的な要因でもあり、社会的な要因でもあり、文化的な要因でもあり、制度的な要因でもあり、思想的要因でもある。
 公正な競争を実現する事は、公正な社会を実現する事でもあるのである。

 構造を決定付けるのは、位置と運動と関係である。即ち、構造とは、複数の要素、部分を個々の働きによって結び付けた全体だからである。この様な構造の位置と運動と関係は、力によって保たれている。そして、位置と運動と関係を決定付ける要素は、時間と力である。

 力には、内的な力と外的な力がある。外的な力の中でも場の作用による力が重要な役割を果たしている。
 力には、引力と斥力があり、その均衡が重要となる。正の力と負の力の均衡が重要となる。

 位置とは、任意の空間の中心から対象となる点、あるいは、要素との距離、又は差を言う。運動とは、対象の一定の時間における変化を言う。時間は、変化の単位であるから、運動は、時間の関数である。関係は、位置と運動を決定付ける法則、ないし、力である。

 空間を構成する座標軸に時間の座標軸を加えることによって変化が生じ、運動を認識することが可能となる。運動は時間の関数である。

 貸借は、一定の時間における位置を貨幣価値で示しものであり、損益は、時間内の運動を表し、会計基準は、関係を表す。損益とは、一定の時間内の運動によって生じた差を指す。問題なのは、貸借の中に内的運動が含まれることなのである。この内的な運動と外的な運動をどう整合性をとるかが、最大の課題である。

 構造は、集合体である。故に、全体と部分からなる。部分の動きと全体の調和が一番重要となる。それが制御の問題である。部分も成り立たず。全体も調和がとれなければ構造そのものを維持することができなくなる。

 個という部分は、全体を前提として成り立っている。故に、個が全体を代表し、あるいは、個が全体に置き換わると言う事は認められない。それは、個人主義ではなく、全体主義である。個人主義の対極にある思想である。

 全体の制御、部分の制御がある。全体の制御は、部分の制御の調和により、部分の制御は全体の制御に統制・統御される。

 部分の最適な動きが、全体の動きに不都合を生じさせることを合成の誤謬という。つまり、部分の動きが全体の調和を欠くことである。この様な状態が発生するは、構造的欠陥による。経済現象には、往々にして起こる。それは、経済体制が合目的的な体制であるのに、目的や機能が明確にされていないからである。

 例えて言えば成長や効率性を目的だと錯覚するようなことである。成長は目的ではなく、手段である。効率に至っては、手段と言うよりも一つの指標に過ぎない。この様なことは、旅客機が速度だけを目的に設計されるようなものである。それでは、旅客機、本来の目的である安全で、快適に、より多くの人を運ぶという目的が見失われ、犠牲にされてしまう。

 経済の目的は、国民の幸せを実現する事である。国民の幸せを実現するために、生活に必要な物資を必要な量を生産し、必要に応じて分配することである。経済の目的は、大量生産、大量消費にあるわけではない。金儲けにあるわけでもない。また、効率にあるわけではない。それは手段に過ぎないのである。
 効率を高めたら、無駄や浪費がなくなったかと言えば、むしろ、無駄や浪費が増えているのである。それは、無駄や浪費を生み出す仕組みになっているからである。これでは、資源の有効活用、効率的活用などお題目に過ぎない。
 本当に効率的な構造にしたいのならば、無駄や浪費が発生しない仕組みに変えなければならないのである。それが構造経済である。

 それぞれの体制や環境にあった最適な構造を構築するのが構造主義経済である。









                    


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