場の理念


経済的な場


 経済的場は、人的空間であり、人為的場である。

 経済は、物理的場とは違う。人為的な場である。人為的に範囲を特定し、合意に基づいて形成された場である。場に働く作用も法的な作用である。つまり、人為的に強制されて働く作用である。その点を忘れてはならない。無為にしてできる場でも、制御される場でもない。経済の場は、人為的に制御される場である。

 スポーツは、人為的場によって成立している。人為的場は、その効力が及ぶ範囲を人為的に確定する必要がある。範囲は、時空間的なものである。野球で言えばフィールドである。フィールド内では、ルールは生きている。そして、フィールド内において野球はゲームとして成立するのである。
 国家は、人為的空間であり、法や制度が作り出す場である。日本の法は、日本国内でこそ有効なのである。つまり、空間的な範囲が決められている。そして、法には、始まりと終わりがある。法の始まりと終わりは、手続によって決まる。つまり、法には単位があるのである。

 経済の場は、そこに働く力によって物的な場、文化的な場、貨幣的な場、法的な場、組織的な場、情報の場、取引の場からなる。物的な場に、働くのは、物理的法則である。貨幣的な場に働くのは、会計制度や為替制度の基準や原則である。法的な場に働くのは、商法や証券取引法のような法である。組織的な場に働くのは、規則である。情報の場に働くのは、インターネット上の規制である。取引の場で働くのは、市場の原理である。

 物理的場には、交通網の様な構造がある。文化的な場は、言語や行動規範、教育などを司っている。貨幣的な場には、会計制度のような体系がある。また、金融制度のような制度がある。法的場には、国法や国際法という制度がある。組織には、組織制度がある。情報には、インターネット、情報網がある。取引の場には、市場網や市場制度がある。

 経済的場は、市場と共同体によって構成される。そして、それぞれの場は独立している。
 市場は、人的市場、財的市場、貨幣的市場の三つの場から成っている。経済主体は、企業、家計、財政である。

 よくこれだけの金があれば、何万人もの生活費となり、多くの人が救えるという者がいるが、その多くは、錯覚である。人の生活を良くするのは金ではない。現実の物である。貨幣は、その物を分配する上での道具に過ぎない。最終的には、その物を必要とする者の数とその物が現在どのくらいで廻っているかの問題になるのである。そして、貨幣の問題とは、財を必要とする人に、必要なだけの貨幣が行き渡っているかの問題なのである。財と通貨の均衡が崩れるとインフレーションやデフレーションの原因となるのである。

 市場に生起する現象というのは単純ではない。市場の流通する通貨の量によって引き起こされる物価の乱高下もある。また、財の量、需給の不均衡が引き起こす物価の変動もある。所得や費用の高騰によって引き起こされる物価の上昇もある。実際は、貨幣的場の圧力や作用、物的場の圧力や作用、人的場の圧力や作用が複合して現象を引き起こしている場合が多い。

 経済は、分配と労働である。その分配と労働を担ってきたのは、経済単位である共同体である。
 しかし、共同体にも限界がある。その限界を補完してきたのが市場である。
 共同体は、基本的に意志の疎通がとれる範囲内でなければ有効に機能しなくなる。第一に垂直に階層化し、組織としての効率、分業が困難になる。第二に、全体が大きくなると、管理機構が増殖し、複雑化する。結果的に、統制がとれなくなり、制御ができなくなるからである。第三に、全体の意思の統一が図れなくなる。その為に、疎外される者が出る。第四に、機構が、画一的で統制的になり、強権的になる。その結果、第五に、個人の意志が抑圧されるようになる。
 故に、共同体は、適正な規模を維持する必要がある。そして、共同体の規模を維持するために生じる共同体間の隙間を埋めるのが市場である。

 市場は、本来、生活の外にある場である。生活の土台は、家族や企業と言った共同体の内部の場にある。それ故に、経済の基本単位は、家計、経営主体、財政に置く。いわば、経済単位は、市場という大海に浮く島である。
 市場という大海が共同体という経済単位を呑み込もうとしている。そして、その為に、市場も共同体もその働きを失おうとしている。市場か、共同体かではなく。それぞれが、構造的にそれぞれの役割を果たすべきなのである。

 経済的な場には範囲がある。範囲は、経済単位によって仕切られている。つまり、家計は世帯であり、経営主体は企業であり、財政は国家である。市場は、その機能によって範囲が特定されている。

 人為的な場は、連続しているとは限らない。不連続な場もある。不連続でも全体を一定の水準に保とうとする力は常に働いている。為替が典型である。

 市場は、前提や制約条件、仕組みによって形成される。人為的場の力は、前提や環境によって成立し、制約条件や仕組みによって制御される。

 何でもかんでも保護主義的政策を悪いと決め付けることはない。保護主義的政策とは、報復的な関税、異常に高い関税によって他国の商品を閉め出し、市場を閉ざすような政策ばかりを指すわけではない。

 また、景気の悪化は、自国の産業の競争力が゜失われることに起因されるみらる。しかし、競争力の低下は、過当競争のみを原因としているとは限らない。為替の変動や原材料の高騰などの防ぎようのない原因によって起こることもあるのである。つまり、何等かのハンディーに原因することがあるのである。

 市場は常に、外的変動に曝されている。外的な条件の急激な変化に対する対策として保護主義的対策を採用することは、間違いではない。しかし、絶対という政策はないのである。絶対にいけないという政策もない。政策というのは、相対的なものである。

 市場の機能を維持するために、重要なのは、変換と制御である。市場は、常に、内外の圧力に曝されている。市場取り巻く環境は、絶え間なく変動している。その環境の変化から市場を保護しないと、市場の内部の世界、経済は、崩壊状態になる。

 市場以外の要素によって、価格を決める事も可能だが、その場合は、経済力以外の働き、即ち、政治力の方が強くなる。市場という機能を除くと統制的な仕組み、つまり、組織的に決めざるをえないからである。

 貨幣による市場価値は、銀行が創造しているのではなく。銀行は、貨幣価値を媒体として信用を供与しているだけだと言う見方も可能である。貨幣というのは、その根底に信用制度がなければ成立しない。その信用を裏付けている機構が金融機関であり、国家である。

 市場と共同体との境界線が曖昧になりつつある。
 市場を規制しているのは、道徳律ではない。つまり、不道徳な世界である。それが市場を蔑視する原因ともなる。しかし、それは、市場の機能が、共同体の機能と違うからであり、それぞれが自分達の領域を守り、お互いの領域を侵さない限り問題はない。
 市場の原理である。基本的には、取引の決まりであり、契約であり、競争の原理である。そして、貨幣価値を基準としている。
 問題なのは、市場経済の発達に伴い、お互いの境界線が曖昧になってきたことである。そして、それが市場の機能と共同体の働きを狂わす元凶となっている。

 市場の機能は、本来交換にある。しかし、交換価値が敷延化されて価値そのものを支配するようになってきたのである。その為に、貨幣価値が絶対的価値と錯覚されるようになってきた。市場価値、貨幣価値は相対的な価値であり、本来は、市場内部においてその効用が発揮される。それが価値全般に優先するようになると共同体まで支配されることになる。そうなると道徳律が貨幣価値の下位に置かれることになる。

 市場というのは、本来的に不道徳な場である。貨幣価値が全てに優先する。故に、快楽を貪り、酒を飲み、遊郭で遊び、博打が流行る。金が全て。金、金、金の世界である。
 しかし、生活の土台である、生活の場である共同体に働くのは、道徳律である。その共同体に市場が侵略すると必然的に道徳は乱れることになる。

 共同体の崩壊は、道徳の崩壊でもある。
 共同体に働く規律は、市場の規律とは次元が違うのである。これは、組織、つまり、国家や企業の内部に働く規律とも違う。労働市場と言うが、それは、共同体外で働く作用であって、組織には、組織の規律がある。そこに、市場の原理を持ち込むと組織が成り立たなくなる。市場の原理で組織の効率や生産性のみを追求すると人間関係としての組織は成り立たなくなる。人間の社会は、合理的、能率的な人間だけで構成されているわけではない。また、人間の能力や性格は均一ではない。一人として同じ人間はいないのである。人間を一つの部品としてみることはできない。人間は個性的なのである。それぞれの個性に応じて役割を分担するのは、市場の原理ではなく。組織の論理である。劣っている人間だからと言って市場の原理で切り捨てることはできない。それは不道徳なことである。
 また、組織に働く作用は、統制的作用であり、競争を主体とした作用とは異質である。確かに、組織内における競争作用はあるが、それは、市場における競争とは質が違う。何等かの評価基準に基づくものであり、統制的なものである。さもないと、組織は、凝集力を失う。また、評価基準は、分配を目的とした体系である。原則、需給を基準としてはいない。
 市場の原理は全てではない。

 組織には、組織の場があり、そこに働く作用は、市場の作用とは違うのである。







                    


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