市場(いちば)と市場(しじょう)


 一口に市場と言うが、市場には、物理的空間を意味する市場(いちば)と抽象的空間を意味する市場(しじょう)の二つがある。
 段々に、我々の頭の中から物理的空間にある市場(いちば)が消えて、抽象的空間である市場(しじょう)に頭の中が占められつつある。
 抽象的空間の市場は、抽象的基準である貨幣、そして、貨幣から派生する貨幣価値に重きが置かれる空間である。抽象的空間に支配されることが意味するのは、物理的概念が抽象的観念に置き換えられることを意味する。
 つまり、物的経済、実物や現物、実体と言った概念が、貨幣的観念にすり替わっていくことをである。それは、現実的世界が観念的世界に、仮想的空間に置き換わり、その仮想的空間に現実の空間が支配されてしまうことを意味する。

 また、重要なことは、物理的空間である市場(いちば)には、物理的限界があるのに対し、抽象的空間である市場(しじょう)は、論理的には限界を持たないという事である。例えて言えば、食料の生産量は、物理的に限られているのに対し、食料価格は、際限なく上昇する事も、下降する事も可能だと言う事である。そして、貨幣空間に支配されるようになると価格が生産量や消費量を決定するようになる。

 市場は、本来、物理的制約の範囲内でしか機能しない。市場は、物理的制約によって保護、維持されているとも言える。

 市場は、一律、一様な空間ではない。
 市場は、一般に思われているほど単純な構造をしているわけではない。
 現代人は、市場経済と貨幣経済を一体のものとして捉えがちである。しかし、市場は、貨幣が成立するずっと以前から存在した。
 食料や衣料と言った日常的な財には、伝統がある市場が多くある。そして、伝統的な市場には、多くの仕来りや掟があるものである。
 また、市場を考える上では、物的側面も重要なのである。市場価値を検討する時、貨幣単位で考察する傾向があるが、物の単位も重要である。

 市場価値は、需要と供給だけで決まるわけではない。それに、需要と供給の均衡点が適正価格を形成するとも限らない。

 消費や投資の根源には、動機が隠されている。つまり、消費や投資を促す要因である。その要因の妥当性が経済の活力となる。
 消費や投資の動機は、金銭的動機が主たる要因ではない。金銭的動機というのは、二義的、付随的、副次的な要因である。消費や投資は、もっと直接的で生々しい人間の欲求にに基づいている。なぜならば、消費や投資は、即物的、現物的欲求、欲望から派生するからである。
 本来は、「お金」が欲しくて消費や投資をするのではない。「お金」は、自分の欲求、欲望を充足、実現するための手段、権利を留保したものだから「お金」を欲するのである。その証拠に「お金」はその権利を行使しなければ何の価値もないのである。

 物の価値という物が見失われ、ただ、貨幣価値だけが世の中を動かしている。
 市場では、金の単位ばかりが問題にされて、物の単位が忘れられている。しかし、実際に経済を動かしているのは物なのである。この大原則、大前提を忘れてはならない。貨幣は、あくまでも物の動きの影なのである。その影に操られるようになってから物の動きは怪しくなった。

 本来、経済というものは、物を基礎にして成り立っている。市場も当初は、物と物との交換の場であった。だから、経済現象の根底は物の流れによって引き起こされる事象であった。物には、物固有の属性がある。その属性によって個々の市場の性格や構造が形作られた。
 現代では、経済は、金の動きが全てであるような錯覚があるが、実際は、物の動きによって支配されている部分が数多くある。好例がオイルショック時の物価の高騰である。それでなくとも、買い占め、売り惜しみによって物価が上昇したり、また、暴落するような現象は歴史を見れば枚挙に遑がない。需給は、恣意的に調整できるのである。

 物の生産と消費を制御できなければ、環境問題も、資源問題も。貧困問題も解決することはできない。

 価値は、財の寿命や生活習慣、風俗、価値観、宗教、文化によっても違ってくる。
 ブランド価値は、需要と供給だけに左右されるわけではない。ブランド価値も市場価値を形成する需要な要因の一つである。
 その上、情報の非対称性の問題もある。市場価格が公正、公平を実現するとは言い切れない。
 需要と供給と言っても物の需要と供給があり、「お金」の需要と供給、労働力の需要と供給がある。
 また、価格が需要と供給に左右されるとしても需要と供給を支える要素が重要な役割を果たしているのである。
 例えば、供給を決定する要素には、生産手段の問題がある。生産の仕組みの問題がある。また、支払手段や支払い能力、支払方法なども需要を決定する重要な要素の一つである。

 また、市場と言っても天候に左右され、鮮度を重視される農作物のような物を扱う市場と工業製品を扱う市場とでは基本的構造が違う。

 石油やガス、貴金属、鉄と言って資源は、地質的な要素、地理的要素、また、必然的に地政学的要素や技術的要素、費用的要素によって市場構造は左右される。

 また、石油のように埋蔵量が決定的な要素となる市場もある。

 日本は、資源が少なく、エネルギーの大半を輸入に頼っている上に、食糧自給率が低い。故に、市場は、原材料の価格の変動や為替の変動による影響を受けやすい構造になっている。また、それに見合った金融市場を形成することが要求される。
 石油や米のような日本の国家の生命線を握るような物資は、備蓄を義務づけている。しかし、その経済的効果や市場への影響を充分に考慮する必要がある。さもないとたとえ、備蓄しても効果的に石油を市場に放出することができない。

 物の経済の仕組みを理解しないと経済の実相を制御し、資源を有効に活用することができない。

 鉄道や空港、港湾、通信と言った市場は、地理的な要素によって制約を受ける。
 深海や宇宙、南極、北極の開発は、技術的な制約がある。必然的に衛星や海底油田、環境などの市場は、技術的な制約がある。

 有毒物質やガス、原子力、化学製品といった危険物を扱う市場や建物、設備、自動車と言った構築物を扱う市場は、保安上や耐久性、廃棄手段、環境上の制約がある。

 また、原子力や航空機と言った先端的市場には、研究開発上の制約がある。

 生産量や在庫量は、経済活動に決定的な役割を果たしている。
 それは、市場の有り様まで変えてしまう。例えば、冷蔵倉庫が、建設されたことによって、生鮮食料市場の基本的構造が変化した。また、交通機関の発達も生鮮食料市場の構造を根本から一新させてしまった。

 この様に、市場は物や財による制約を受けている。その制約条件によって市場の有り様に変化が生じる。

 物の経済は、生産力、消費者、物流、在庫、保存といった実体的な要素によって構成されている。

 人の経済は、市場と言っていいかどうかも解らない。人の経済で重要な要素は、生病老死と言った人の一生である。そして、人間関係である。つまり、社会、組織の在り方である。その人の働きと報酬のバランスである。また、人の評価、役割である。人格である。だから、労働市場と単純に割り切れないし、単純化もできない。
 しかし、その人間と仕事、職業の有り様が、市場の有り様を決定する。

 この世は、「お金」だけでは片付けられないのである。市場は金だけが全てではない。

 人的な経済には、人間としての能力、人間性、人間の尊厳がある。

 そして、人間は、生物学的な限界の範囲で経済活動を営んでいるのである。人的市場は、生物学的制約の範囲内で成立している。人間は、死ぬのである。そして、人間は、生きる為に食事をしなければならない。生活の場を確保する必要がある。住む家が必要である。人間は、働かなければ生きていけない。人間の人間としての基本が人的な経済の土台にある。それを忘れては、経済は成り立たないのである。

 市場は一律一様な空間ではない。市場を支配するのは需要と供給関係だけではない。市場に働いているのは競争の原理だけではない。市場というのは、多種多様な構造を持っている。そして、それ故に市場は成り立つのである。市場から多様性を奪えば、市場は、本来の機能を失う。市場は、多種多様であるから、文化たりえるのである。そして、経済は文化である。市場が文化だから、市場は経済であり得るのである。
 むろん、需要と供給関係は、市場を構成する重要な要素であることに、違いはない。また、競争の原理も需要な働きの一つである。しかし、需給関係や競争の原理だけで市場を特定するのは間違いである。




                    


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