形而下のもの、これを器と謂う


 形而上のもの、これを道と謂い、形而下のもの、これを器と謂う。(「易の話」金谷治著 講談社学術文庫)市場にも産業にも型があり、形式があり、法則がある。現実の事象には、形があるのである。現実の事象の形・象(かたち)が現象を引き起こすのである。つまり、市場や産業の形が経済現象を引き起こすのである。
 形而上のものは何か、それは、道である。即ち、大前提である。それは無形である。近代は、形ある物によって無形な道を実現しようとする。それが、科学である。
 つまり、科学とは、形式主義なのである。これが大前提である。

 肉体は、魂の器である。魂のない肉体は、屍に過ぎない。しかし、魂は、肉体を通して顕れる。魂だけでは、この世に現れることは出来ない。肉体のない魂は、幽霊に過ぎないのである。何れも、命ある物としては存在し得ない。生物とは、命ある物なのである。
 故に、誰も魂を否定したりはしない。しかし、人間が認識しうるのは、肉体なのである。肉体を通じて魂を知るから、我々は、生きることの本質を理解できるのである。肉体をのみ問題とするからと言って魂を否定しているわけではない。魂を怖れて肉体を蔑ろにするのは、結局、魂を蔑ろにしていることなのである。

 近代医療は、魂の救済を目的とはしない。病を癒し、身体の健やかなることを図る。仏教徒も、キリスト教徒も、イスラム教徒も、ユダヤ教徒も、ヒンズー教徒も、無神論者でさえ、肉体の構造や病の本質は変わらない。共産主義国の空を飛ぶ飛行機と資本主義国を飛ぶ飛行機の原理に同じなのである。
 しかし、だからといって人の信心を否定する事は出来ない。近代医学では、魂の救済は出来ないのである。元々目的とはしていない。それが大前提である。共産主義による百年の宗教弾圧を経てもギリシャ正教は、復活したのである。

 医学や工学と経済や政治が違うのは、医学や工学はその根本に対象の存在があるのに対し、経済や政治は、根本が人間の意識だと言う事である。故に、経済の在り方も国の在り方、法制度も人間の意識の所産だと言う事である。

 形而下の事象は、認識によって発生する。つまり、意識は、認識が生み出す。意識は、対象を識別することを要求する。そこに、認識の前提が成立する。識別は、対象間を比較することによって成立する。認識は、差によって為されるのである。つまり、差別化と、相対化なのである。差別化と相対化は、必然的に、不完全に依拠する。故に、意識が生み出すものは、全て不完全なものである。それが相対化の大前提である。
 形而下の問題に収斂すると、現象は、位置と運動と関係に還元される。

 言葉狩りほど愚かなことはない。言葉を狩ると言うことは、それ自体検閲であり、差別である。差別用語だとするのは、差別を意識する側の問題である。差別を意識した側が、その言葉を使用した者を糾弾するのは、検閲である。それ自体が差別を生み出す。
 言葉を狩る者の多くは、差別を否定し、検閲を弾劾する。しかし、言葉を差別することによって自分が差別の当事者となり、検閲の当事者となる。
 第一、差別用語という場合、誰が、それを差別用語と認定したのかが明らかにされない場合が多い。これ程恐ろしい検閲はない。検閲が存在しながら、検閲の当事者が明らかにされていない。これこそが恐怖政治の兆しである。これは一種のカルトである。
 男女差別用語の問題を突き詰めれば、究極的には、男と、女という言葉をも差別用語だと言いかねない。それは、差別の否定ではなく。文化の否定である。
 一度、差別用語というレッテルが貼られると、問答無用に差別される。その為に、古典的な名著が差別作品として失われていく。これは文化に対する冒涜である。

 言葉狩りには、形而上なものが存在していない。あるいは、明らかにされていない。つまり、道がないのである。道がなければ道徳がない。

 経済も同じである。平等と言い、自由という。しかし、平等や自由を実現するのは、経済の器、即ち、仕組みである。平等とは何か、自由とは何かは、経済の形、象(かたち)をもって表現される。経済の仕組みは、位置と運動と関係に要約される。位置とは、差によって決まる。差を認めなければ位置は確定しない。差は認識の問題である。思想は、差から生み出される意識の問題である。差自体は、位置以外に意味はない。差が問題になるのは、差が生み出す意識によってである。位置には、力、エネルギーがある。経済的位置には、経済的力、経済的エネルギーがある。差を認めなければ、経済は動かなくなるのである。

 克己復礼。
 平等とは、自己の存在にある。自由とは、自己の在り方にある。博愛とは、自己と他者との関係にある。
 即ち、平等も、自由も、博愛も、自己を中心とした観念である。
 自己とは、形而上の問題である。形而下の問題は、器である。意識の器は、認識によって生み出される。よって差よりなる。

 差が問題なのではない。差が生み出すものが問題なのである。差は、認識の根本的な手段である。差を認めなければ、認識そのものが成り立たなくなるのである。

 形而上のもの、これを道と謂い。形而下のもの、これを器と謂う。

 本質や本性は、外形、外観として現れる。外界における働きは、外形や外観をもって行われる。魂は内にある。魂は、肉体を通して外界に顕在化する。肉体を通して魂を磨く。しかし、魂がなければ肉体はただの骸である。

 自己は、主体であると伴に、間接的認識対象である。自分の姿を写し出す鏡は外界にある。自己の真の姿を知りたければ、鏡が平らでなければならない。また、素の自分でなければならない。鏡が歪んでいたり、装っていたら自分の本当の姿を知る事が出来ない。歪んだ自分や化粧した自分を自分の本当の姿と錯覚して、卑下したり、驕ることとなる。そして、自分の虚像に執着するようになる。

 複数の要素によって一つの部分は構成される。部分は、他の部分と結びあって全体を構成する。部分を構成する要素は、位置と運動と関係よりなる。そして、位置と運動と関係は、それぞれ独自の働きを持つ。そして、位置と運動と関係は、全体を基準として決まる。故に、何を全体とするかによって位置と運動と関係は変化する。即ち、位置と運動と関係は相対的なものである。

 差は形式によって付けられる。位置付けは、象徴によって付けられる。差は、形式によって認識され、位置付けは、象徴によって認識される。
 結果的に、形式が特別な意味を持ち、象徴が固有の力を持つことがある。なぜならば、人は、認識によって意識が作られるからである。意識は、外見に囚われやすい。それが差別を生み出すのである。
 一度、差によって位置が決まり、差が形式化され、位置が象徴化されると、位置や差の持つ本来の意味が失われた時、形式や象徴が形骸化する。形式や象徴が、形骸化すると形式によって派生した意味や象徴による力が全体を支配するようになる。
 形骸化した、形式や象徴が差別や階級を生み出すのである。
 実力のない者が縁故によって地位を保つことは、全体を危うくする。自己の裏付けのない平等や自由や博愛は、かえって弊害となる。

 社会主義体制が有効に機能しないのは、差を認めないからである。差を認めなければかえって差がつく。それは、全体と部分には、各々、位置と運動と関係があるからである。そして、位置と運動と関係は、差によって認識されるからである。そして、その差によって働きが生じる。問題は、その働きにある。
 社会主義は、社会全体と、その社会を構成する個人とから成る。故に、根本は、社会全体の中にどの様に個人を位置付けるかが重要となる。一人一人の位置が定まることによってその人の働きが決まり、一人一人の運動、つまり、位置の移動や働きによって、社会的関係が成立する。位置も、運動も、関係も差を基にする概念であるから、その差をどの様に調節するかが、社会主義の主要な課題となるのである。

 差は活力である。
 重要なのは、部分と全体の均衡である。偏りは、全体の均衡を失わせる。極端な差は、全体を分裂させる。分裂は全体としての統一性を失わせる。差の拡大は、全体を破壊する。故に、問題は、差がもたらす均衡と分裂である。

 差が生み出す働きが重要であり、意識が生み出す働きが重要なのである。

 市場や産業は、器がある。市場や産業には、形がある。市場や産業には、仕組みがあるのである。その形や仕組みが経済現象の源となっている。
 故に、経済現象の源、原因を知り、経済現象を制御するためには、市場や産業の形や仕組みを理解する必要があるのである。
 市場や産業には、型や形式、法則がある。市場を構成する通貨の仕組みや物の仕組み、人の仕組みには、型や形式、法則がある。そして、それらの要素が組合わさって経済全体の仕組みや形式、法則を形作っている。
 それが経済体制である。経済体制は、その根本にある経済の道を体現している器である。

 市場や経済の仕組みは、お互いが結びあって成立している。経済は、市場における連鎖反応によって動かされている。問題は、その連鎖反応である。経済の仕組みが機能していて市場の連鎖反応が制御されている場合は、市場の状態は安定しているが、市場が過熱したり、逆に、冷却して、経済の仕組みが機能しなくなると市場は暴走したり、また、硬直してしまう。
 特に、怖れなければならないのは、負の連鎖である。負の連鎖反応である。典型的なのは、連鎖倒産である。
 しかも、市場規模が地球的な規模にまで拡がっている今日では、世界的な規模で負の連鎖が生じる。その好例が、通貨危機やサブプライム問題である。
 負の連鎖が起こらないように市場の状況を調節したり、制御するためには、連鎖を起こしている仕組みと範囲を熟知する必要がある。また、負の連鎖が起こった場合は、その被害が最小限にとどまるように対処する必要がある。
 連鎖を起こしている要素間の関係を知る事である。つまり、個々の要素の位置と運動と関係が連鎖反応を見る上で重要なのである。その上で、連鎖をいかにして断ち切るか、それが肝心な問題なのである。

 デフレーションとインフレーションは、同時に発生し、同時に進行する。つまり、デフレーションが発生している市場とインフレーションが発生している市場は、混在している。
 市場を単一の場としてみると経済の実体は理解できない。

 何をもって異常とし、何をもって正常とするかである。正常か異常かの基準は、前提条件、状況、基準などによって違ってくる。何をもって異常とし、何をもって正常とするかは、認識の問題である。任意の問題である。所与の問題ではない。所与とされるのは、形式である。例えば、手続の形式であり、論理の形式である。形式が矛盾しているか、否かの問題である。故に、形式的矛盾を防ぐために、一対一の対応が求められる。それが論理実証主義である。

 ITバブルも、サブプライム問題も市場の歪みが引き起こした現象である。恐慌も市場の歪みが原因である。市場の歪みを是正しない限り、問題の根本的解決には至らない。

 健全な精神は、健全な肉体に宿る。肉体を鍛えることで、精神を健全に保つのである。しかし、肉体を鍛えたからと言って精神が健全になるとは限らない。精神を健全に保つのは、自己の意志である。
 心技体の一致こそ求めるべき事なのである。
 つまり、市場も産業も健全な形を保つことが重要なのである。市場や産業の歪みは、貨幣や財の流れに歪みを作る。その歪みは、利益に影響を与える。また、所得や所有の偏りとなって顕れる。
 経済は、労働と分配である。労働や分配に偏りが生じると、経済も変調をきたす。美とは、均衡である。
 経済は、美しくあるべきなのである。つまり、美意識の問題なのである。




                    


ページの著作権は全て制作者の小谷野敬一郎に属しますので、 一切の無断転載を禁じます。
The Copyright of these webpages including all the tables, figures and pictures belongs the author, Keiichirou Koyano.Don't reproduce any copyright withiout permission of the author.Thanks.

Copyright(C) 2001 Keiichirou Koyano