時    間

時  間


 時間とは何かと言う問いは、問われた人間を当惑させる、代表的な質問の一つだと私は、想う。
 時間とは何か。わかりきったことを聞くなと言いたいが、しかし、あらためて聞かれてみると答えに窮する。
 多くの人にとって、時間は、自明な事、所与の事象に過ぎない。しかし、実際には、時間ほど難解な概念はないのである。

 時間にも人的な時間と物的な時間がある。つまり、意識する時間と、意識される時間である。
 人間の意識には、時間を感じる仕組みがある。また、時間を感じる仕組みを前提として時間は成り立っている。

 物的な時間にも生理的時間と物理的時間がある。生理的時間とは、体内時計という言葉が示すように、生物の内的な時間である。つまり、生理的に感応する時である。感じる時である。意識する時間、生理的時間、物理的時間、この三つの相互作用によって時間の観念は形成される。

 一般に、時間というと、物理的時間を指して言う。そこで、先ず、物理的時間について考えてみることとする。

 我々は、時間が解らなくなるとすぐに時計を見る。町中なら、周囲を見渡せば、時刻を知らせる時計の一つ、二つは見つかる物である。そうでなくても、時計は、現代人の必需品の一つである。時間が解らなければ、仕事どころか、デートだってままならない。
 仕事に限らず、現代では、日常生活の多く事柄が、分秒刻みの時刻表に基づいて運行している。特に、日本人は、時間に正確な事で有名である。
 この様な時間に慣らされた我々は、時間は、予め定まった周期があって、機械仕掛けのように、一定の間隔で正確に刻まれるだと思い込んでいる。季節も多少の変動はあっても同じ変化を、毎年、当たり前のように、繰り返していると受け止めている。
 春になれば、桜が咲き、夏の暑さに、秋の紅葉、冬には、雪が降る。まことに日本の四季は変化に富んでいる。変化に富んではいるが、一年には、春夏秋冬は必ず巡ってくると信じている。しかも、春夏秋冬の順にである。この順番が同じだと言うことも重要なのである。
 変易、不易、簡易とはこの事を言う。四季の変化は、毎年違う。毎年、咲く桜の花は皆違う。しかし、春夏秋冬の四季の変化に変わりはない。春に、桜に変わりはない。まことに単純明快な真理である。それが、我々の時間に対する認識である。

 しかし、かつて時間の長さは一定ではなかった。日本で時間の長さが一定になったのは、明治五年に地方視太陽時にもとづく定時法が採用されてからである。今日の時間が定まったのは、日本標準時が明治二十一年日本標準時の制度が公布されて以降である。(「時とはなにか」虎尾正久著 講談社学術文庫)世界的に見ても世界標準時が制定されたのは、1884年、明治17年、万国子午線、計時法会議が開催された時によるのである。
 それまでは、昼と夜とでは時間の長さが一定ではなく。また、季節によって時間の長さが違ったのである。つまり、不定時法だったのである。
 生活が時間の縛られていたのではなく。日が昇ったら、仕事を始め、日が沈むと仕事を終えるというように、生活のリズムに時間は、合わせていたのである。
 時も、機械仕掛けのように流れるのではなく。人の気分によって流れていたのである。と言うよりも、今のように正確に時を刻むようになったのは、機械仕掛けの時計のお陰だと言える。
 機械仕掛けの時計が発明されるまでは、天体の運行に時間はよっていたのである。
 四季の変化が定まったのも明治五年に太陽暦の採用が布告されてからである。太陰暦に基づくと四季は、年によって揺れ動いたのである。

 つまり、時間の概念も人間が創りだし、話し合って決めたものなのである。
 定時法や太陽暦が採用される以前は、時は計るものではなく。感じるものだったのである。

 現在、時間の系統には、三種類ある。一つは、地球の自転に基づく時であり、もう一つは、時間の公転に基づく時であり、三つ目は、セシウム原子が放射の周期に基づく時である。(「時とはなにか」虎尾正久著 講談社学術文庫)

 音楽は、時間の芸術だという。逆に言うと音楽を考えると時間が見えてくる。
 旋律、拍子、和声は、音楽の三要素だが、時間の特徴をもよく表している。旋律は、一定の連続した変化を表し、拍子は、音の周期的な変化を意味し、和声は、音と音との調和、関係を意味する。
 現象の時間的変化にも旋律や拍子、和声がある。変化には、旋律のような連続的な変化と拍子のように周期的な変化があり、そして、それらの変化が結びあって全体の変化を構成している。

 人間の生活には、朝、昼、晩の周期がある。そして、その周期は、人間の生活のリズムを作り出す。また、一年には、春夏秋冬の周期がある。それは、季節の変動として一年の生活のリズムを形作る。人間の一生は、生まれて、成人し、結婚して、子を成し、老い、そして、死んでいく。人間の一生には、一つの過程があり、それもまた、時を刻む。これらが経済の周期の基となる。一日の中にも生活のリズムがある。朝、起きて、朝食を採り、また、仕事をして、昼に食事をして、働き、夜、食事をして、寝る。基本はこの繰り返しである。

 季節は、巡り、また、繰り返す。しかし、一つとして同じ時はない。今年の春の桜は、去年の春の桜にあらず。今年の秋の紅葉と、来年の秋の紅葉は違う。しかし、季節は、巡り、また、春がきて、秋になる。
 行く河の流れは絶えずして、また還らぬ。時の流れを河の流れに例えた詩人や哲学者は数知れずいる。人生は過ぎゆく。過ぎ去った日々は還らない。
 生病老死。四苦八苦。人の定めは今も昔も変わりない。しかし、誰、一人として、同じ一生を送った者はいない。

 時の変化と物の哀れを結び付けたのは、日本人である。しかし、時の流れは無情なもの。それは、見る人の側の問題であり、見る人によって違ってくるのである。
 時間の認識は、文化である。文化に基づく。それは、人の一生をも左右する。なぜならば、それは生活のリズムを創り出し、人生設計の基盤となるからである。

 後悔、先に、立たずである。やり直せるものなら、やり直したいと思う人は沢山いる。覆水盆に返らず。チャンスは二度とない。命短し、恋せよ乙女。時の流れは移ろいやすく。禍福は糾える縄の如しである。
 幼児期があって、思春期、青春期を過ぎ、やがて、成人となり、壮年期を迎え、年をとり死んでいく。若い時は、二度と来ない。若いと思っていてもいつの間にか年は過ぎていくのである。いつまでも若くはない。だから、出来る時に果敢に挑戦せよ。力が衰えてからでは取り返しがつかないのである。
 諸行無常。万物は流転す。
 解っているはずなのに、多くの人は、何も変わらないと、無為に時間を費やし、気がつくと老いさらばえてしまう。普段、変化は、ゆっくりと、しかし、確実に進行している。そして、ある時を境に劇的に表面に現れてくるのである。表面は変わらない。しかしその底で変化の兆しは、現れているのである。

 現代と言う時代において、時間の概念は、重大な役割を果たしてきた。時間に対する考え方が、変わったのである。それまでの時間という概念は、一日の生活の一部に過ぎなかった。それに対して、現代は、時間は、それだけでも経済的な価値を持つようになったのである。
 近代以降、時間の概念は、生活の隅々まで浸透した。その結果、現代の経済を構成する要素の多くは、時間の関数に変化したのである。

 例えば、野球を例にとると一イニング、スリーアウトで攻守を交替し、九回を一試合の基本単位として、引き分けの時は、延長をすると言った様に時間を定義することも出来る。つまり、変化に一定の法則性を持たせることが時間なのである。

 かつては、労働は、日が昇る頃に始まり、日が沈む頃に終わった。時間よりも生活のリズムが優先されていた。時を刻むのは自然現象だった。
 今は、学校も、職場も一定の時刻に始まり、一定の時刻で終了する。休みの時間も予め決められている。賃金は、時間の単位で決められる。時計は、今や必需品の一つである。

 時間は、不可逆である。そして、時間は、周期的な事象によって計られる。この時間の不可逆性と周期性が時間を考察する時に重要になる。

 現象の時間的変化の中に、繰り返し生起する事象がある。この繰り返しが周期を発生させる。

 周期の単位は、一般に星の運行や地球の運動に基づいている。即ち、一日の長さは、地球の自転に基づき、一年の長さは、地球の公転に基づく。この様な時間の単位を基礎としていることによって人間の生活は、地球の運動に結び付けられている。必然的に経済的な周期も地球の運動に結び付けられる。

 かつては、月の満ち欠けを時を刻んでいた時代もあった、それが太陰暦である。
 何れにしても、時間は、自然の周期と人間の生活とを結び付けるものだったのである。そこに、時間と人間、そして自然との関わり合いがある。

 かつて、地球の運行は、人間の生産活動を支配していた。そして、それが人間の祭りを生み、文化の礎石となったのである。それは経済現象の基礎でもある。経済は文化である。

 周期の長さが、時間の長期、短期を生じさせる。経済の長期的変化は、固定的な価値の基となり、短期的変化は、変動的価値の基となる。

 変化の長期、短期の概念は、速度の概念でもある。つまり、速度は、変化と時間の関数である。

 また、変化には、質的変化と量的な変化があり、最終的には、密度の変化として統合される。

 変化は、前提条件や場に働く力によって違ってくる。前提条件の変化は、価値の変化を引き起こす。
 故に、変化を引き起こす要因を解明する場合は、前提条件が重要となる。必ず前提条件を確認しなければならない。

 変化は、時間差による位置と関係と運動によって決まる。

 また、変化で重要なのは速度である。速度は、一定の運動において消費する時間の単位である。運動を決定付ける最大の要素は速度である。経済上で言う速度とは、流動性である。

 重要なのは、速度とタイミング(即時性)である。現金とは、現時点で実現した貨幣価値を言う。重要なのは、現金というのは、その時点・時点で実現した貨幣価値を言うのであって、現金という物があるわけではない。我々が日常的に言うお金とは、現金を表象した物であって現金そのものではない。流動性というのは、現金化の難易度を意味する。

 経済の変化は、不可逆である。経済の変化は、周期的な変化によって計られ、その基本単位は、一年である。地球の運行の周期に基づいて経済の変化には、短期、長期の別があり、それが、固定的な事象と変動的な事象を生み出している。この周期は、経済現象の変化の基礎となっている。

 時間の概念を構成する要素は、変化、前後、順序である。つまり、時間の変化には、一定の方向があるという事である。また、時間的変化は、不可逆的変化でもある。また、変化に何等かの規則性があるという事である。

 時間は、変化の単位である。運動は変化である。故に、運動は、時間の関数である。
 物理的時間の単位には、一定の間隔で一日を24時間、一時間を60分、一分を60秒と間隔で定義したものがある。そして、一秒をセシウム133(133Cs)の原子の基底状態の2つの超微細準位の間の遷移に対応する放射の周期の91億9263万1770倍に等しい時間と定義している。

 変化の単位というのは、単純に、物理的変化を指すだけとは限らない。手順、手続、計画、予算のように一定の順序や順番のある行為、作業を指す場合もある。なぜならば、経済における時間的価値は、必ずしも物理的な時間の単位で測られるとは限らないからである。故に、一定の変化に前後の順番があるものを時間の単位とする事もできる。

 この様な順番や順序には物的、人的、金的なものがある。物的な順序は計画や工程であり、人的な順序は、組織、金銭的な順序は予算である。これらにも時間的変化が含まれている。

 この順番というのは、重要な概念である。また、順番は、時間の概念を決定付ける。それが因果律である。

 時間軸の本質は、因果律にある。因果律というのは、物事が生起する順番をさし、その順位に意味があるもの、前後の関係が生じる事象を言う。
 親子関係は逆転することはない。生まれて死ぬのであり、死んでから生まれることはない。物事には順序がある。その順序に従って仕事の仕方を決めるのが段取りである。だから、物事には、順序、段取り、手順が生じる。また、それが大事なのである。
 時間は、因果関係を成立させる。時間的順序は、原因と結果という関係を成立させるのである。この因果関係は、運動を成立させるための重要な概念である。

 時間は、不可逆である。時間は、遡れない。やり直しは出来ない。しかし、現実は、同じ事の繰り返しである。同じ事を繰り返すのに、同じ結果は得られない。それが時間である。
 スポーツの試合を見ると解る。スポーツの試合は、同じ試合は、一試合もない。先ず前提条件や構成する要素が違えば、同じものは繰り返さない。しかし、スポーツも仕事も基本は、単純反復繰り返しである。

 時間は、不可逆である。時間は、遡れない。やり直しは出来ない。スポーツの試合を見ると解る。スポーツの試合は、同じ試合は、一試合もない。先ず前提条件や構成する要素が違えば、同じものは繰り返さない。しかし、スポーツも仕事も基本は、単純反復繰り返しである。

 つまり、予見不可能な部分が必ずあるのである。それが大前提である。しかし、それでも多くの部分は予測が可能である。それも大前提である。予測が出来るところを基礎として予測不可能な部分を補い推測する。それが業務であり、計画であり、予算である。

 事前の予測を重視するか、事後の結果を評価するかは、国家制度や経営主体を設計する上で重大な前提条件となる。それは国家思想の根本を為す。つまり、思想である。
 現在の財政制度は、事前の決定に基づき、会計制度は、自己の結果を評価する。それが予算制度と報告制度の違いである。

 単純・反復・繰り返し、それこそ、易簡。この世には変わらぬ世界がある。それこそ、不易。止むことなく変転しつづけている部分がある。それこそ、変易。

 未来が全て見通せるというならば、利益はいらない。それが予算主義であり、計画主義、統制主義である。人間は、千里眼の如き能力を持ったという前提があれば成り立つ。しかし、未来を見通せないから利益が必要となる。それが、市場主義の前提である。

 変化が利益を求めるのか。利益が変化を求めるのか。何れにしても、変化と利益は不可分の関係にある。

 変化があるから、利益が得られて、資産的に価値が生じる。その変化を前提として金利が設定される。

 古人は、来年の事を言えば鬼が笑うと諭した。まことに一寸先は闇である。つまり、時間の変化の結果は未知数である。そこに利益が成立する意味がある。

 変化は、時間に対して非対称である。この変化の非対称性が利益の基となる。明日知れぬからこそ、利益が生まれるのである。








                    


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