自由主義

企業収益が上がらない要因


 企業が儲からない原因を市場面から捉えると次ぎのようになる。
 市場や経済は、一方向に成長、発展し続けるものではなく。市場や産業に応じたライフサイクルを持っている。
 商品や産業の特性によって一律に扱えないが、大凡は、大多数の産業は、草創期、成長期、成熟期、衰退期を経て、最後には、消滅する。そして、各段階に置いて市場の様相は変化し、それに合わせて政策や市場構造も変化させる必要がある。
 しかし、現在の経済は、成長を前提としており、成熟期や、衰退期の市場や産業を前提としていない。その為に、成熟期に達した産業は、収益をあげることが困難な状況に追い込まれるのである。
 成熟期に至った産業は、量から質への転換をはからなければならない。

 成長期というのは、非常に活力に満ちた時代である。ただ、それだけ消耗も激しい。過当競争のまま放置すれば、多くの企業は淘汰され、また、合併吸収によって市場は、寡占、独占状態に陥る。

 成熟市場は、量から質への転換が必要となる。量から質というのは、大量生産、大量消費型経済から、多品種少量、計画的で効率的な消費への転換である。先ず、高品質で、耐久性に優れ、かつての要に何代にわたっても使えるような商品を開発していく。それによって、省力化、省エネルギー型の生活をしていくことである。また、それに付随して中古市場や古物市場、メンテナンスやリサイクル、リホームと言った市場を開発していくことである。つまり、時間のサイクルを伸ばし、ゆとりのある生活空間を築くことである。
 ただ、この様な市場や経済体制は、硬直的で、排他的、権威主義的、既得権益、利権、身分的、階級的体制に陥りやすい。そこで状況に応じて、競争の原理を導入するのである。あくまでも競争は、経済の活性化の手段に過ぎない。目的ではない。

 市場は、拡大と収縮を繰り返す。市場の範囲には限界があるのに対し、供給は、設備の生産力によって決まるからである。それが経済の周期を生み出す。

 成長を持続するための条件は、第一に、相対的に低い水準の人件費、第二に、国内に未発達な市場があること、第三に、内外の市場が開放されている事である。何れにしてもこの三つを満たすことは、先進国には出来ない。

 また、企業の儲からない原因を損益面からみると次のようになる。
 市場の拡大には限界がある。故に、市場の拡大を前提とした経済成長にも限界がある。市場の拡大が限界に達すると、市場は過飽和な状態になり、企業収益は、良くて横這い、通常は、下降へと転じる。
 それに対して、費用は、人件費や物価の上昇を受けて上昇を続ける。
 つまり、天井が下がって床が上昇する段階にはいる。この様な段階にはいると企業は、損益上の不足は、費用の削減によって補おうとするが、費用は下方硬直的であり、自ずと限界がある。
 その為に、この段階に陥った企業や産業は、会計的な操作によって存続することを画策するのである。
 損益面から利益が計れなくなると資産価値の上昇分を活用し、借金による収入によって収支を均衡させることを画策する。その為に、会計制度が利用されるのである。しかし、それは、資産の上昇を招く。それが円高ショック後に日本に発生したバブルである。
 会計的な操作にも限界があるため、最終的には資本を活用するようになる。

 工業製品は、一貫して猛烈なデフレだったのである。それは、大量生産体制の宿命みたいなものである。問題は、工業製品が急速に収益を失ってしまったという事である。そして、アメリカのGEは、製造会社から金融会社に変質してしまった。と言うよりも変質せざるを得なくなったのである。それが何よりも象徴している。

 日本では、オイルショックが企業の損益上の分岐点であったと思われる。オイルショック以後地方経済は壊滅的打撃を受け、円高とそれに続くバブル、バブル崩壊がとどめを刺した。

 市場が成熟し、市場を量から質へと変換できないと、天井が下がって、床が上がってくる。そして、産業を押し潰してしまう。それは、経営主体の崩壊を意味する。経営主体というのは、共同体である。共同体の崩壊は、属人的な部分の否定に繋がる。
 つまり、常雇いによる組織の論理が通用しなくなるのである。そうなると、臨時雇いが主流になり、人件費から属人的な要素が削ぎ落とされて、同一労働、同一賃金の原則だけになる。つまり、労働は単価×時間でしか計れなくなる。しかも、労働市場は平準化され最低線にまで圧縮されてしまう。労働の質が否定されるのである。
 労働の質の否定は、生産方式にも及ぶ。作業の標準化は、未熟練労働を生み出す。それは、取り替え自由な労働を意味する。人間の部品化が進むのである。

 市場には、人的市場、物的市場、貨幣的市場があり、経営主体は、それぞれの局面で競争をしている。
 ただ不毛な、価格合戦、安売り合戦の過熱は、適正価格を割り込み、企業収益を悪化させ、景気に大打撃を与える。また、乱売合戦の背後には、大量生産体制が隠されている。価格というのは、量的な情報である。質的な部分が見落とされている。しかも、情報は売り手、買い手の間で非対称である。適性という基準が適用されているわけではない。ただ、需給均衡である。質的な部分が無視され、価格下落の歯止めが効かなくなる危険性がある。
 本来、市場は、サービス合戦、品質合戦を競うべきなのである。サービスと言った人的な競争や品質と言った物的競争は、食文化の向上やコレクター、マニアと言った人種を育て希少品の発掘、保存にも役に立つ。また、リサイクル市場を生み出す契機にもなり資源保護にもなる。消費者にとって高い物を買わされているという発想があるが、必要以上に物を消費するのは無駄遣いである。生産の質的向上は、消費の質的向上も促すのである。

 石油産業が好例だが、石油産業は、典型的大規模装置産業である。販売量と固定費は、基本的には連動していない。固定費まで販売すれば後は、利益になる。しかも商品格差が小さい。勢い、乱売合戦に陥りやすい。事実、石油産業の末端では乱売合戦が起こり、ガソリンスタンドが激減している。
 特石法によって市場が規制されていた時代、沖縄では、石油スタンドの過剰サービスが問題になっていた。過剰サービスは、雇用を作ったが、乱売合戦は、市場の寡占化を進めるだけである。また、資源の大量消費と言った無駄にもなる。

 企業が収益をあげられなくなると公共事業によって景気を刺激する方策が採られる。しかし、景気刺激策も市場の仕組みに影響力を与えられなければ、効果を期待することはできない。あくまでも補助的手段に過ぎない。重要なのは、市場の自律的作用であり、それを制御する市場の仕組みである。

 人件費からみると次のようになる。
 初期の段階では、共同体的な思想が働いている。労使というより、一体的、家族的経営が志向されるのである。
 成長期でも初期の段階でも市場が拡大している段階では、人件費の上昇を吸収できるが、人件費の伸び率が経済成長率を上回るようになり、また、競争力が問題になると共同体的思想から実績主義的、実力主義的人事体制に移行する。
 市場が成熟期に至り飽和状態になると人件費の負担が重くなり、組織の合理化、人員削減などが行われるようになる。また、報酬制度も年俸制のような制度が導入される。この段階に入りと企業と従業員との人間関係が希薄になる。
 そして、最終的段階にはいると、企業と従業員の関係は、金銭的に割り切った関係になり、共同体的関係は消滅する。労働者の流動性も高まる。企業も社員も終身的関係は求めず、派遣社員やパート、アルバイトのような正社員以外の労働者が増大する。
 元々、企業の役割というのは、労働と分配にある。故に、企業が適正な利益を上げ、共同体的機能を果たせるようにする必要がある。企業というのは、経済単位と言うだけでなく。社会的存在であることも忘れてはならない。

 また、貸借面からみた場合、税と利子と返済資金、そして、償却費が長期的に均衡しない。長期資金の元本の返済が、会計上、どこにも現れてこないのである。
 償却資産の返済原資は、減価償却費で確保されるが、非減価償却費、特に、不動産の返済原資は、確保されない。その為に、十分な利益が上げられなければ、新たな借入によって返済資金を調達しなければならなくなる。その為に、担保するのは、不動産価値の上昇分である。
 結局、資金計画を立てる際は、長期借入金の返済資金は、長期借入金を減価償却費と税引き後利益で割ることによって推測するが、それとても現実の実体を正しく反映しているとは限らない。
 しかも、現在の税制は、利益や資金繰りとの関係を全く計算していない。企業に掛かる税には、所得税(法人・個人)資産税(相続税・固定資産税)外形標準税などがある。課税所得は、収支に基づくのではなく、損益や地価である。資金の動きと関係ないものである。しかも、長期債務の返済は、税引き後の利益処分の内から賄う必要がある。地価の水準が低下すれば、忽ち、担保不足をきたし、資金調達に支障がでる。故に、黒字倒産や資金繰り倒産が起こるのである。

 住宅で例えると、借金をして買った家は、売っても借金が残る。相続する時には、税金がかかる。現代の経済体制が確立される以前の財産と資産とは違うのである。
 さらに、会計制度上では、建物の部分は、償却できても土地の部分は償却できずに資産として帳簿に残ってしまう。つまり、費用とはみなされないのである。
 また、借金は返済しなければならない。ただし、借金の返済の金利部分は費用としてみなされる元本の返済部分は、損益上には現れない。負債勘定を減額史、資本を積み増しすることで処理される。費用でないから損益上は、利益から返済をしなければならない。しかし、その利益には、税金が課せられる。また、資本として積み増しされる内部留保にも税が課せられる。相続の際には、相続税が課せられる。

 結局、債務が足枷になるのである。
 では、借金をしなければいいのかというと、それもまた、微妙である。固定資産の原資を借入で賄う場合と、資本金で賄う場合どっちが得かという問題であるが、それも、状況や前提条件によって違うのである。

 債務を土台とした経済では、資産や債権の価格水準が下落すると逆資産効果が発生する。

 資金的にゆとりがあるからと言って長期借入金の元本を安直に返済すると、資金繰りがつかなくなることになる事がある。故に、一度借入をしたら、債務は、資産や債権を売却しない限りの残ることになる。それ故に、土地転がしの様な現象も起こる。その上、資産を換金するといろいろな経費や税金が別途かかることもある。そうなると、流動性が低い、不動産は、不利になる。
 不動産の流動性を高めるために、不動産の証券化の技術が生み出されたのである。それがサブプライム問題を生みだした要因の一つである。

 資本と負債、どちらが得かというのも微妙である。以前は、自己資本の大きい方が良いという事になっていたが、結局、配当と利子との違いに過ぎないことが明らかになり、利子は、費用になるが、配当は、利益処分からという事で、どちらが良いか、微妙になった。企業価値、M&A、資産運用という観点からすると無借金経営は、必ずしも有利だとは限らない。

 税の働きが、借金、即ち、負債に有利に働く場合もある。

 何れにしても、資産と債務は、清算時点で相殺されてしまう。つまり、基本的に、資産というのは、清算されるべきものなのである。しかも、企業の成長に従って債務も増大し、経営に与える債務の圧力も増すのである。これは、所有権の否定である。
 近代は、私的所有権に支えられて成立しながら、私的所有権に否定的だったと言える。現代の資本主義は、時限爆弾付き、自爆装置付きの仕組みみたいなものなのである。

 総資産も対極に総資本、即ち、債務があり、結局、債務を圧縮すべきだとなると資産も極力持たないことだと言う事になる。つまり、経営主体というのはなにも残せないのである。

 日本の法人の70%近くが赤字で法人税を払っていないと言うのも宜(うべ)なることである。払わないのではなく。払えないのである。

 真面目に、一生懸命働いても、借金ばかりが残るとしたら、不埒なことを考えてもおかしくない。あくどいことをやっても金儲けをした人間が羽振りも良く、社会的地位が高くなれば、地道に汗水垂らして働くのは馬鹿馬鹿しくなる。

 自分が正しいと信じて行っていることが報われずに、間違っていると教えられたことがまかり通るような環境に置かれると、人は、モラルハザードを起こしやすい。特に、経済的な行為は、絶対的な規範による行為ではないので、モラルハザードを起こしやすい。

 現代経済の価値観の根本にあるのは、地代や利子、利潤は、悪いものだという認識である。ストックとフローという観点からすれば、ストックは、最終的には解消すべきだという思想である。その背景には、世襲的な者は悪いという思想である。
 確かに、何の苦労もしないで親の遺産でなに不自由なく暮らすというのは感心しないかもしれない。しかし、それが企業収益を圧迫したり、継続を阻害するとなれば、話は別である。先ず企業は儲けられるようにすべきである。その為には、利子や地代、利潤の働きを客観的に判断する必要がある。

 会計制度が確立される以前は、潜在的資金効果を計算してこなかった。その上に、近代税制には、潜在的な貨幣価値を顕在化する働きがある。この様な潜在的な価値が顕在化する過程で債務と債権が形成されるのである。しかし、これらは、本来、潜在的な価値であり、市場で顕在的な働きはしていないのである。その潜在的な価値が市場に影響力を持つこととなる。また、未実現な価値によって企業経営に影響を与えることになるのである。

 資本主義体制を放置すれば、国際資本を形成し、独占的体制に陥る。独占的体制とは、市場の原理が消滅した状態である。

 国際資本は、国際的に孤立する危険性が高まる。国際資本は、規模が拡大するにつれて国家の利害とも対立してくる。何れにしても、国際資本といえども何等かの母国、国を拠点とする必要があるから。国家間の抗争にも深く関わらざるをえなくなる。
 現に、国際石油資本は、産油国と厳しい対立関係におかれ、また、戦争や国際紛争が起こるたびに標的とされてきた。
 その意味でも、国際資本は、巨大化することは得策ではない。

 市場とは何か。それは、複数の経済主体が競合的な関係で存在する状態である。独占的体制とは、単一の経済主体によって競合的な関係が解消された状態を指す。この様な体制は、一体的な組織、単一的な組織によって経済の仕組みが統一されることを意味する。それは、同時に、資本家と、賃金労働者しか存在しえない体制である。
 つまり、資本主義も、共産主義も、最終的には、一体的な組織に統合すると言う点において、同じ方向に向かっているのである。
 しかし、結局、この様な体制は、垂直的な対立を生み出す。また、組織は、巨大化し、競合するものがなければ、管理部門が肥大化し、官僚化し、自壊する。

 共産主義も資本主義も行き着くところは、一体的組織、巨大組織への統合である。しかし、組織の巨大化は、組織管理の増大を意味する。また、組織の自律性の限界を超える危険性がある。また、垂直的な対立を生じやすい。それは、市場を独占した資本とっても負担となり、脅威ともなる。

 自由主義は、私的所有権の保証によって成り立っている部分がある。つまり、経済的な自立を裏付けにして成り立っている。経済的自由を謳歌してきたのは、特に、自作農や個人事業主、中小事業者達である。その自作農や個人事業主、中小事業者が経営が成り立たなくなりつつある。それは、自由主義の脅威でもある。

 保護主義的政策とは、報復的な関税、異常に高い関税によって他国の商品を閉め出し、市場を閉ざすような政策ばかりを指すわけではない。

 また、競争力の低下は、不当な廉売を原因としているとは限っていない。為替の変動や原材料の高騰などの防ぎようのない原因によって起こることもあるのである。つまり、何等かのハンディーに原因することがあるのである。

 外的な条件の急激な変化に対する対策として保護主義的対策を採用することは、間違いではない。絶対という政策はないのである。絶対にいけないという政策もない。政策というのは、相対的なものである。

 市場は保護されるべき空間なのである。ルールがあって自由な競技が保証されるように、規制があってはじめて自由な競争が保証されるのである。自由な競争が阻害されるとしたら、規制が悪いのではなく。規制の在り方に問題があるのである。






                    


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