自由主義


物価と自由市場


 多くの日本人は、自由と放任とを錯覚している。自由というのは、何の制約も干渉もないという事を意味するわけではない。また、自由を保証するためには、何もしない方が良いという事を意味しているわけでもない。自由市場と言う場は、何の制約も、制限もない場を指して言うわけではない。自由社会と無法社会とは違う。そこを履き違えるとそれこそ、自由社会は無法地帯になってしまう。
 内面の規範と外的規則や法との整合性の問題である。制約や干渉から開放されることではない。内面の規範、即ち、内面の規律を前提とし、社会全体との法や規則を構築した結果、あるいは、過程において成立するのが自由社会である。

 自由市場は、突き詰めた時、経済的無政府主義に変質する危険性がある。それは、市場の持つ構造を理解せずに、競争が市場の原理などと無闇に絶対的な法則を持ち込むからである。市場は、スポーツのフィールド同様、人為的に作られた場である。自然の法則のようなものを持ち込むこと自体、馬鹿げているのである。むろん、スポーツのフィールドにも自然の法則が働いているように、市場にも自然の法則は働いている。しかし、それは、スポーツのルールのような部分ではない。

 現代社会には、何でもかんでも、安ければいいと言う風潮がある。しかし、本当に価格が安ければいいと言うのであろうか。中には、目玉商品として、原価割れして売っている商品もある。また、競争相手を駆逐する目的で、不当に安い値段で売られている場合もある。

 無邪気な子供と自由人とは、物事に囚われないという点においては一致しているが、前者は、外的な法や規則を知らないという点において違う。故に、子供の無邪気さは、子供だから許されるのであり、自由とは言わない。

 自由市場というのは、何の、規制も制約もない市場という意味ではない。むしろ、自由市場というのは、規制や制約があるから成り立っているのである。

 資本主義は、民間企業を土台にして成立している。それでありながら、民間企業を蔑ろにしている。それが、資本主義が、有効に機能できない要因となっているのである。
 企業は、所得、税金、金利、財の源泉である。それは、生産、消費(生活費)、収入、雇用を生み出す基盤であることも意味する。つまり、企業は、資本主義の要、柱なのである。
 特に、中小企業や個人事業者、自営農は、市場経済や市民民主主義の担い手である。それは、個人主義社会の担い手であることも意味する。

 その企業が社会で必要であるかどうかは、企業評価をどうするかの問題である。

 間接金融から直接金融へと変化することによって融資から投資へ、担保価値から株主価値へと企業価値が変質した。
 しかし、担保価値も株主利益も短期的な利益を基にしたものであり、事業目的や長期的均衡を前提としたものではない。本来の企業価値は、その事業目的と社会的貢献であるべきなのである。
 そして、企業目的や社会的貢献度の高い企業は、収益が上がらなければならないのである。

 そう言う意味では、本来、企業を評価するのは、企業の収益力である。しかし、企業の収益力を決定は、何によって、どの様に決めるべきかが問題なのである。
 それを市場に全て委ねるべきかどうかの問題である。市場に委ねるとしたら、それは市場が適正な価格を維持できるという前提があってである。

 マスコミは、株価が下落すると大騒ぎをする癖に、市場価格が下がると大喜びをする。間が抜けているのである。株価もバブルのように異常な高騰は、危険信号なのである。同様に市場価格の異常な下落も危険信号である。

 企業が、適正な利益を上げられないのが問題なのである。企業が、適正な利益を上げるためには、適正な価格が維持されることが前提となる。
 しかし、過当競争による不当に安い市場価格が先行し、安い価格が実現できないのは、経営努力が足りないからだと決め付けられれば、必然的に経営は、経費を削減せざるを得なくなる。その向けられる先は、人件費の削減である。さらには、会計を操作するしかなくなるのである。

 実物市場によって収益があげられないから会計を操作して利益を上げることを算段する。勢い貨幣市場の内部で利益を上げようとする。貨幣市場は、実体を持たないから、それは、過剰利益、余剰利益となる。過剰利益、余剰利益は、過剰流動性となって、更に、金融市場に向かい経済を虚構にしてしまったのである。
 それは、貨幣の流通に偏りを作るからである。貨幣が余っている過剰なところと不足しているところの極端な偏りを生み出す。実物市場から通貨を吸い上げ、貨幣市場に、一方的に、流し込んでしまう。
 それは、実物市場において適正な価格が維持されないからである。

 価格は、適正な価格を前提とするのであって、廉価でも、高価でもない。況や利益を度外視した不当廉売を言うのではない。
 価格競争力を失うのには、それなりの理由がある。確かに、中には、経営者や従業員の問題も含まれている。全てが、経営者や従業員の責任だとは言い切れない。為替の変動や原油価格の高騰、戦争や災害、所得水準の差と言った不可抗力な部分もあるのである。
 また、低価格には、低価格なりの理由がある。経営努力の結果と言う事もあるが、不当廉売や余剰品、横流し品、不当表示であると言った不正な理由も隠されているのである。保安や、検査、保障の費用を削減したり、品質を落としている場合もある。最近でも、食の安全やマンションの耐震強度の偽装が問題となった。
 また、生産地の人件費や労働条件の問題と言った要件も含まれる。場合によっては、貧困や不当労働の輸出と言う事にもなりかねないのである。

 大体、価格というのは、一つの情報である。価格が形成されるには、それなりの理由があるのである。それを価格という情報から読みとることも重要なのである。それをただ安ければいいと言うのは、あまりに短絡的である。市場だけで適正な価格を決定できるわけではない。
 適正な価格を維持するためには、価格の構造を明らかにする必要がある。そして、ルールの確立が必要とされるのである。放任していればいいと言うわけには行かない。放任することは、自由の市場の活動を阻害することになるのである。

 本来、経済体制というのは、労働と分配のための仕組みである。その仕組みの一つに市場があり、その手段、道具の一つに貨幣があるのである。つまり、市場や貨幣で重要なのは、市場や貨幣の働きである。

 本当の価値は、貨幣の側にあるわけではない。実体の側にあるのである。故に、貨幣の振る舞いによって実体的価値を見失ってはならない。

 インフレは、基本的に貨幣価値の下落であり、デフレは、貨幣価値の高騰である。
 そして、インフレもデフレも極めて貨幣的な現象なのである。
 つまり、インフレやデフレを考える場合、何に対して何の貨幣価値が下落し、また、上昇したかである。それを関連付けることが重要なのである。
 何と関連付けられるかによってインフレやデフレという現象も変質する。故に、インフレもデフレも一種類ではない。インフレもデフレも一種類でないが故に、原因も一種類ではない。

 特に、注意しなければならないのは、ストックインフレとフローインフレである。フローインフレは、通貨の流量の管理が重要であるが、ストックインフレは、通貨の流量としては表面に表れてこない。そして、貨幣価値の分離、乖離現象を引き起こす。ストックインフレは、俗にバブルと言われる現象で直後に急激なストックデフレを伴う場合が多い。それは、ストックインフレの際には、債権が信用拡大するが、一転してストックデフレになると債務が信用収縮を招くからである。
 フローとストックは、相互に関連しており、これを関連付けて考える必要がある。

 貨幣価値は、財と、貨幣と、人の位置と運動と関係によって定まる。故に、インフレも、デフレも財と、貨幣と、人との位置と運動と関係の乱れによって生じる。その乱れは、その背後にある仕組みによって引き起こされる。

 貨幣は、流通することで、その効用を発揮する。貨幣は、運動を前提とするが故に、時間の関数である。市場において価格を構成するのに重要なのは、貨幣の流量と速度である。そして、時間が陰に作用した場合、貨幣価値は、資産価値を形成する。

 価格を構成する要素が外的要因の何と関連しているかが重要なのである。つまり、何に関連した変数であるかによってその運動や働きに違いが生じるからである。

 ところが現代人は、この関連づけが下手である。また、組織が巨大になると相互の位置や機能が見えなくなり、要素間の関係が認識しにくくなる。その為に、価格が制御不能になり、物価を制御できない状況に追い込んでしまうのである。
 全体と部分との関連付け、関係付けができなくなると部分の働きを調整して全体を制御する事が困難になるからである。
 自分の仕事と全体の成果や自分達の賃金と収益、物価とを関連付けて考えられなくなる事が問題なのである。
 産業で言えば、労働者、経営者、株主、国家、消費者、金融機関、取引業者がそれぞれに影響を及ぼしながら、互いに協調し合う関係が築けなくなる。
 関係を最初から対立的にとらえるから問題がこじれるのである。競争すべき所は競争すればいい。しかし、共同ですべき所は、共同し、助け合うべき所は、助け合うべきなのである。
 基本的には、一つの目標は同じであり、労働者も、経営者も、株主も、最終的な利害は一致しているのである。企業を潰してしまえば元も子もないのである。組織や社会が幾つかの階層に別れて争うことほど非効率な事はないのである。

 物価は、価格を構成する要素の変動によって決まる。その場合、価格を構成する要素が、価格に占める割合の変化や、要素の持つ性格に注意する必要がある。そして、その変化を引き起こした要因、外的要因と内的要因の因果関係を明らかにする必要がある。

 特に、価格の内的要因に対して、外的要因の何が影響を及ぼすかであり、その場合、重要なのは、水準である。例えば、外的要因には、為替的要因、原材料などの仕入れ価格的要因、人件費のような国内の相場的要因などが重要な作用を及ぼす。その場合、石油価格の水準が何の価格に影響を、どの程度及ぼすかが、重要となるのである。

 物価の構成は、製造、物流、販売のどの段階でかかる費用かによって質的な違いが生じる。例えば、人件費が良い例であるが、製造段階では、人件費は製造原価に含まれる。そして、販売段階では、販売費になる。自動車の価格において、それが製造原価なのか、販売費なのかは、重要な意味があり、自動車産業の構造にまで影響を及ぼすことになる。

 物価を左右するのは、価格を構成する個々の要素の水準である。この水準の変動が、価格の構造的変化や、価格の上昇圧力、下降圧力として働く。

 この世界には、奴隷と自由人しかいない。それ以前は、農奴、小作人、従者が中心の世界であった。農奴から解放されたのは、経済的に自立した市民である。しかし、社会が組織化され、賃金労働者が増えると、結果的には、自由が奪われ、組織に従属せざるを得なくなるのである。

 組織は、巨大化すると部分としての個人の役割、位置付け、全体との関係付けが困難になる。その為に、全体の制御、統制が出来なくなり、組織としての自律性を喪失する。
 特に、組織内部が対立的な勢力によって分裂すると統一性が保てなくなる。 

 組織は、双方向の情報が交換できる範囲によって一つの単位が形成される。その単位を基にして、管理が可能に範囲で階層的に組み立てられるのである。
 情報革命は、この情報の双方向の交換が可能な範囲を飛躍的に拡大した。しかし、基本的に限界があることには変わりがない。また、情報処理の個人の能力は、大差ないのである。故に、組織の拡大は、個人と全体とを乖離させ、全体の制御を困難にさせる。

 民主主義の原点は市民革命であり、市民というのは、個人事業主や自作農家と言った経済的に独立した層なのである。経済的に独立しているからこそ、政治的にも独立していられたのである。

 自由社会というのは、単一化を目指す社会ではなく、多様性を目指す社会である。市場も、寡占、独占による単一化ではなく。多様性が重要なのである。多様的な社会だからこそ選択の自由が保証されているのである。それを前提とした仕様や規格の標準化であり、統合なのである。

 独占、寡占は、経済の官僚主義化をもたらす。平板で、適正な規模の自律した組織、機関が組合わさることによって形成される有機的な体制こそが、構造社会なのである。

 中小企業や自営業が淘汰されれば、寡占・独占は進む。独占、寡占は、共産主義化と実質的には変わりない。また、それは、政治的には、全体主義へと繋がるのである。

 今は、市場原理主義に支配され、放任主義的な政策をとるアメリカでも、かつては、独占は禁じ、金融機関の横暴な行為を厳しく監視した時代もあったのである。むしろ。それこそが、本来の自由主義精神である。

 企業は、壮絶な競争によって体力を消耗している。利益を蓄積できなければ力が出ない。経営者も、従業員も、消費者、銀行、国家も、会社を食い物にしている。資本主義というのは、不思議なことに、資本主義の担い手である企業を蔑視する傾向がある。
 それが、資本主義をおかしくしている最大な原因であることに早く気がつくべきである。企業が良くならなければ、市場経済も貨幣経済も成り立たないのである。
 特に、市場経済を支えている中小企業、個人事業者、自作農家などが健全な経営が出来ることが前提なのである。

 現代人は、家族、企業、国家と言った自分を支えていてくれるものを大切にしない。蔑ろにしている。だから、自分の人生も大事に出来ないのである。

 結局、私利私欲に走っていると言われても仕方がない。

 企業内組合、終身雇用、年功序列というのは、企業が共同体である証左であった。
 共同体であるから、結果に対して構成員は、連帯的責任を持たされたのである。そして、目的を共有することも出来たし、自分達の仕事と収益とを結び付けて考えることが出来た。そして、企業も自律的な働きが出来た。
 労働は、共同の証であり、助け合いである。人間と人間との強固な繋がりである。労働の場は、社会である。
 労働の場は、自己実現の場でもある。かつて、労働と人生、生活は、直結していた。しかし、産業革命以降、労働は、ただ金儲けの手段でしかなくなった。
 労働の成果は、金だけで測れるものではない。
 労働の喜びは、生きる喜びであり、また、人生そのものである。また、自然や神と接する機会でもある。それを蔑ろにすることは即ち信仰の否定でもある。日々、その日の糧に感謝し、収穫の折には、神に感謝し、お祭りをした。
 今の祭りは単なる式典、騒ぎに過ぎない。神や自然への感謝の気持ちは薄れてしまった。工場では、自分達の生産物に感謝することすら忘れてしまった。それこそが人間の奢りであり、神への冒涜なのである。






                    


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