開放主義


経済の仕組みと認識


 経済体制というのは、本来、労働と分配の仕組みに生産財と通貨を投入することによって成り立っているものである。基本にあるのは、生産と消費ではない。況や需要と供給ではない。

 現象は、前提条件と構造の支配下にある。

 事象は、前提条件と要素の集合体としての全体、全体を構成する要素からなる。更に、場に働く力の作用がある。
 前提条件とは、第一に前提をどう認識しているかである。この前提は、多分に直観的な認識に基づくものである。つまり、思想的なものである。
 一番良い例が神の存在をどう考えるかである。神が存在すると考える者にとって神の存在は大前提となる。それに対し、神の存在に対して懐疑的な者は、神の存在そのものに対して否定的である。そして、神の存在を信じるか、信じないかは、その人その人の主観、思想によることなのである。この点、日本人はいきなり自己の考えを敷延化して議論をはじめる。その為に、最初から議論が成り立たなくなる。仮にこの問題を避けて通りたい時は、問題を保留することを前提として置かなければならない。科学者がこの立場をとっている。故に、物理の法則は、仮説を前提としているのである。
 次ぎに、構成する要素、要素の動き、要素間の関係を明らかにしていく。
 そして、全体の運動の方向性を再現しながら、全体の中心、核を探るのである。

 その為には、まず、前提条件と状況を構成する要素を明らかにする。全体の状況と個々の要素の位置付けをして要素の配置を確認する。
 全体としてどの様な現象が発生しているか。それを要素毎の現象に分析する。個々の現象の原因と結果を解明する。その上で全体像を再構築する。それを繰り返すのである。

 例えば経済を考察する上では、経済をどの様に認識するかである。それが第一の前提条件となる。つまり、自分がどの様な立場、考えによっているかが第一前提である。この事をいきなり敷延化してはならない。自分が悪いと思ったことは、世間一般、あるいは、これから検討しようとしている者、全員が悪いと思っていると決め付けてはならない。先ず、その確認が前提である。ただ、この時点で自己実現予言的バイアス、自己成就予言(self-fulfiling prophecy)的バイアス、自己破滅的予言(self-destroying prophecy)的バイアスが働く可能性がある。この点を十分に配慮する必要がある。

 経済危機を考察する場合、その対象となる経済現象を危機的として認識しているかどうかを確認する必要がある。危機的だと自分が思ったからといって相手が、あるいは、世間一般の人が、危機的だと考えているとは限らないのである。そして、言論人や経済界、政治家と言った要職にある者は、自分が危機だと言うことによって、本当に、危機的な状況を作り出す可能性があることを、充分に考慮しておく必要がある。

 経済危機の根源には、債務と債権の不均衡がある。債務と債権の均衡を計ることが肝心なのである。債権と債務を実体化するのが現在の貨幣価値現金である。故に、現金は債務と債権の現在の価値の均衡点を意味する。

 リコース、ノン・リコースが問題となっている。リコース、ノンリコースの問題は、債権者主義か、債務者主義かの問題である。この問題を考える鍵は、借金を成立させている構造にある。
 借金を構成する要素は、第一に、借り手である。第二に、貸し手である。第三に、債務である。第四に、債権である。第五に、現金である。この様な基本的要素に対し、、補助的な要素としては担保、保証などがある。ただ、担保、保証は、絶対的要件ではない。
 そして、重大な問題は、モラルハザードとされる。リコース、ノンリコースの問題は、このモラルハザードに強く関わっている。

 モラルハザードの問題が障害になって問題の処理が停滞する場合が、多々、見受けられる。その割に、モラルハザード問題の本質が見えてこない。モラルハザードの問題は、根本的には倫理観の問題である。モラルハザードの本質が見えてこないのは、この倫理観そのものが未確定だからである。各々が、独自の倫理観に則ってモラルハザードの事を論じている。最後には、信用できないのかという問題に行き着く。つまり、究極的には信用問題であり、それぞれの信じる神に仲立ちしてもらうしかない。ところが日本人のように神そのものに対する信仰心が薄い者は、この点も、弱い。唯物論者、無神論者が、そして、日本人が、嫌われる理由も実利的問題が潜んでいるからである。信用できないからである。しかも当人が何も解っていない。

 リコース、ノン・リコースの問題も最終的には、モラルハザード、即ち、倫理観の問題である。そして、最大の問題は、この倫理観が失われたことなのである。
 なぜ、倫理観は喪失したのか。それは、市場経済の弱点に由来する。市場は元々、非倫理的な場なのである。それは、市場には、生活の基盤がないからである。生活の基盤は、経済主体の内にある。

 借金は、信用制度の上に成立している。信用制度が借金を可能としているのである。この信用制度は、貨幣制度の根本にもある。貨幣制度は、信用制度の上に成り立っていると言っても良い。負債と貨幣は、同じ信用という仕組みの上に成り立っていてるのである。

 これらの前提の上でもう一度リコース・ノン・リコース問題を考えてみる。借金を構成するのは、先ず、借り手と貸し手である。つまり、債務者と債権者である。そして、どちら義務と権利が優先するかの問題である。そして、債務と債権が成立した時点での現在的貨幣価値が基準となる。
 負債というのは、費用の後払いを意味する。つまり、金を借りて財を受け取るというのは、財の使用する権利を先に受け取ってその支配を繰り延べる行為といえる。むろん、その財は、貨幣そのものでも問題はない。とにかく、借金が成立した時点での貨幣価値を実現する権利を受け取ることを意味する。問題は、後払いの費用の代金が支払われなくなった時である。その時、債務者は何に対して義務と権利があり、債権者は何に対して義務と権利があるかである。それは、何を根拠、担保にして債権、債務の関係したかが重要になる。つまり、何を信用したかの問題である。

 債権、債務関係が成立した時点での貨幣価値を基礎とするのか。それとも、その時点で信用の裏付けとして担保した物を基礎とするかの問題である。
 基礎とした物の価値は、固定的となる。つまり、何を基礎とするかによって債権、債務、いずれかが固定的になるのである。

 しかも、一物一価とはいかないから事態がますますこじれるのである。


 多くの場合、購入し物件を物的担保にする。それが、不良債権の根っ子にある。
 そして、固定的な価値が重しになって通貨の流動性を阻害する要因となるのである。
 バブルという現象とその後の景気の停滞を理解する上では、この関係をよく理解し、対処する必要がある。

 リコース、ノン・リコース、どちらが良いかではなく。経済に与える影響を良く鑑みて流動性にかかる負荷、重しを外すことを考える必要がある。

 国家経済の存在意義、目的とは、何か。その為の必要要件とは何か。
 第一の要件として、主権者が生活していく上で必要な物資や用役の調達と確保である。第二の要件として、その物資を調達し、また、分配するために必要な資金の準備である。第三の要件として、その資金の準備と分配のために必要な雇用の創出である。また、第四に、資金を調達するために必要な財の生産である。そして、第五の要件として、その財を分配するための仕組み、市場と経営主体を用意することである。また、第六の要件として、貨幣制度を構築することである。
 そして、国家は、主権者に対してこれらの要件を経済的に保証し続ける必要がある。

 市場経済の本質は、プラグマティズムにある。それは、実用性であり、物作りの精神である。そして、仕事とその日の糧(かて)に対する感謝の精神である。市場経済の本質は、金儲けにあったわけではない。

 現代、吸収合併を繰り返し企業は、大きくなりすぎた。だから、人々や地域の生活から乖離したのである。
 何のための仕事なのが誰にも解らなくなってしまったのである。その為には、これ以上企業を統合するのではなく。企業を適正な規模まで分割することを考えるべきなのである。企業は、国家に、地域住民に、そして、働く人々に、また、消費者に奉仕する機関でなければならないのである。寡占、独占は、国有化と実質的には変わりない。

 魂は、肉体に宿るのである。身の内にある。魂とは、主体性である。故に経営主体の主体は、経営体の内にある。
 魂のない肉体は、ただの骸である。醜悪なだけだ。そのままでは、外形すら維持できない。残されているのは腐敗。朽ち果てるだけである。





                    


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