開放主義


情報の開示と開放政策


 経済において何を前提とするかのかが重要な鍵を握っている。

 利益は、情報の非対称性によって発生する。
 経済主体の核心が、非市場的、非貨幣的空間であるから、情報を全て量化することは不可能である。つまり、経済主体の核心部において重要なのは、密度の問題なのである。
 経済機構の中には、市場化できない部分がある。その市場化できない部分は、掲載機構の辺縁部分にのみあるのではなく。経済の中枢部分にもある。

 経済主体の核心にこの様な定性的部分がある以上、経済現象、とりわけ、経営主体の定量的な情報開示には、最初から限界がある。だから、定量化が無意味だとしているのではない。ただ、貨幣価値、即ち、数値情報に偏った情報の処理の仕方は危険だと言っているのである。その好例がサブプライム問題である。サブプライム問題は、ただ数値化された情報に基づき本来の住宅ローンの定性的情報が無視されたか、軽視された結果である。

 また、どんな社会にも機密事項はある。秘密は悪だと何でもかんでも情報を開示していい。また、情報を開示させるべきだというのは、行きすぎである。そういう者に限って個人情報の保護やプライバシーにうるさい。背後に何らかの意図を感じさせるほどである。

 情報の開示で重要なのは、密度である。この点は、情報だけでなく、政策にも言える。

 情報の開示というのは、情報の開示の意義と目的が明らかにされなければならない。近年、一方で情報の開示が叫ばれ、他方で個人情報の保護に対する規制が強まっている。一見して、明らかに矛盾しているこの二つの事柄を区分するためには、その前提が重要な役割を持っている。しかし、多くの人は、この前提を曖昧なままにしているために、矛盾があからさまになり、それが原因となって多くの混乱を生じさせているのである。

 企業業績に対する情報の開示と言った場合、会計上の数字だけを指す傾向が出てきた。それは、投資にたいする考え方の質的な変化が背景にある。つまり、投資の目的が、投資先の事業に対してではなく、キャピタルゲインや配当に対して為されるようになったからである。つまり、投資が単なる金儲けの手段に過ぎなくなった。つまり、事業から金に対する投資目的の変化である。それによって要求される情報の質も変わってしまった。そして、投資も投機へと質的な変化をしたのである。

 経営主体が、経営主体に関わる人々のものではなくなった。金儲けの道具に過ぎなくなったのである。企業は公器である。企業は、そこで働いている者のものでも、その企業がある地域のコミュニティのものでも、国家のものでもなくなった。消費者のものでもなくなった。それが経済が立ちいかなくなった最大の原因である。

 経済には、人、物、金の別がある。今の経済は、金だけの世界である。現代の市場経済は、金に毒されているのである。

 金は、金である。昔の人は、金や権力が全てでないことを知っていた。しかし、今は企業業績に対する評価は、決算上に表された数字だけで判断される。それが、国家や地域社会、労働者にとって必要か否かと言った定性的な部分が全く顧みられない。逆に、経済を批判する者は、定性的な部分ばかりが強調されて定量的部分が軽視する傾向にある。

 その結果、第一に、短期利益ばかりを追求し、長期的展望が持てなくなった。第二に、人への投資がされなくなった。第三に、資本、経営、労働者が分離し、企業としての一体感が失われた。第四に、内部留保が出来なくなり、資金が外部へ流失した。そして、第五に、何よりも自分達が創り出す物や自分達の仕事に対する誇りを失ったのです。

 しかし、事業は、決算書上に表れる数字が全てではない。事業には目的がある。その目的は、短期的な目的と言うよりも遠大な目的である場合が多い。そして、基本的に企業は資金不足なのである。故に、情報を公開し、資金を調達する必要に迫られている。だから、情報を開示することが重要なのである。ところが、現在は、長期的な展望よりも、目先の利益ばかりが問題とされる。それによって事業基盤がおかしくなっても短期的な利益のみが追求されるようになった。だから、時価なのである。
 事業家が情報を開示する必要性は、短期的には収支が均衡しないことを前提としているからである。この点が見落とされて、目先の利益ばかりが問題とされると、必然的に企業は立ちいかなくなる。なぜならば、短期的には収支が均衡せず、事業は慢性的な資金が不足していることが前提だからである。その為に、会計制度は、収支の基準から損益の基準に切り替えたのである。つまり、なぜ、収支が均衡せず、なぜ、資金が不足するのかを説明する目的で会計制度は成立したのである。
 損益、つまり、利益の源泉は、事業目的なのである。そして、事業の目的は、副次的に雇用の創出と景気の安定が含まれている。
 情報の開示は、この事業目的に沿って為されるべきであり、検証されるべきなのである。

 情報というのは、本質的に非対称なものである。肝心な事の多くは、目に見えないものである。だから、情報化するのが難しい。人の気持ちは見えてこない。大体自分のことだってよく解らない。つまり、情報の開示には、常に、限界がある。

 また、情報は、ただ開示すればいいと言うわけにはいかない。それは、情報を開示することが難しい部分が含まれているからである。言って良いことと悪いことの判定をどこで行うのかの問題がある。情報を開示するにあたっても情報を開示する基準が曖昧である場合が多いからである。だから、近代裁判では、黙秘権が認められているのである。

 故に、情報の開示を要求するためには、その目的と動機、必要性を明らかにする必要がある。

 公開の是非が微妙な情報に国防や企業秘密に属する物がある。何が国家機密に属すのか、企業秘密に属するのかの判定を誰が、どの様にするのかを判定するのが難しいからである。

 また特に、人に関わる情報の公開は、慎重を要する言をまたない。ところが企業情報を分析する上でこの人に関わる情報が重要な鍵を握っている場合がある。

 報酬は、労働の対価という側面だけではなく。生活費や税源という側面も持ている。単純に生産効率という側面から測定されるとこの生活費や税源という部分が削ぎ落とされてしまう。そして、この報酬の持つ側面こそ、市場性と共同体性の両面を、端的に、現しているのである。更に労働には質的な違いがあり、この違いは、熟練や経験、知識、能力と言った属人的な部分が多く含まれているのである。

 労働の貨幣価値は、質、量、時間から求められる。労働には質がある。労働の質をどう測定し、貨幣価値に換算するかが重要になる。
 生産性ばかりを追求すると質の部分が脱落してしまいかねない。労働の貨幣価値は、単純化され、単価×時間、又は、単価×成果量によって計算されるようになる。

 そして、報酬に対する考え方、思想は、雇用体系にあからさまに反映される。正社員、即ち、長期雇用者員から派遣社員、即ち、短期雇用社員へと質の変化があった。

 現実の報酬は、意欲やモラル、知識、技能、資格、熟練度と言った定性的な部分・要素と時間、数量と言った定量的部分・要素を掛け合わせた値である。

 だから、労働の対価を換算する場合でも、意欲とモラルと言った定性的な部分が果たす役割とその価値をどう換算するのかが問題となる。そして、それは、主観的、恣意的に為されているのが現状なのである。その部分の情報は公開のしようがない。説明が付かないのである。思想の問題である。

 情報を明らかにしなければならない場と情報を明らかに出来ない場があるのである。それを端的に現しているのは、市場と共同体である。
 この事は、情報だけでなく、政策にも言える。

 開放主義的政策、特に、市場を開放する場合は、その前提条件が重要となる。前提条件が整わない内に市場を開放すると市場は、大混乱を引き起こし、制御不能状態に陥る危険性がある。大体、為政者は、市場を制御しようと言う強い意志を持つことが、大前提である。

 支配と統制は違う。個人主義を自称する者の多くは、統制を嫌うが、それは個人主義ではなく。利己主義である。そして、開放主義的政策を採ろうとする者の多くが、自由主義や普遍主義を標榜する。
 国家は、国を統一し、制御する義務があるのである。

 開放主義的な政策を前提とするとしても、何でもかんでも無原則に開放してもいいというわけではない。また、保護主義的政策は、悪だと決め付けるのも問題である。大体、市場経済を維持するためには、市場は保護されなければならない。市場を神のごとく万能だと崇めるのは、市場を重視するのではなく。一種の信仰である。それは、金を神と崇めるのと大差ない。神の名の下に自らの怠慢を正当化しているに過ぎない。市場は神が創りだした空間ではなく。人間が作り出した人為的場なのである。

 グローバリズムと言い、世界の市場を一つに統合しようとする動きが顕著になってきた。しかし、その場合、大前提を見落としてはならない。
 市場を統合することの意義や目的は何かと言う事である。また、市場の統合とはどの様なことを意味するのかである。大体、市場は一つなのかという事でもある。つまり、市場は、単一の場なのか、単一の場に統合できるかという点である。その前提が狂えば、市場の統合という事自体無意味になる。
 ローカルな市場と地球的規模の市場の別はないのか。また、市場には、階層や段階はないのか。市場というのは、単一な者ではない。つまり単細胞な生き物の様な構造ではなく、無数の細胞が集まって作られた生き物のような構造である。
 市場の統合は、どの様な意味があるのか。一つ間違うと市場を単細胞的な物に変えてしまう。それは、市場の進化ではなく。退化である。

 市場や産業には過程がある。その過程を無視し、市場の置かれている状況を考慮しないで市場を開放すれば市場の仕組みは毀損し、制御力を失わせる原因となる。

 国際市場や国内市場、また産業は、無数の小さな市場からなっている。一つの市場によって成立しているわけではない。しかも、個々の市場は、それぞれ独自の仕組みを持っている。市場の統合と言ってもそのリテラシーや文法の部分であって全てを統合しようと言うわけではない。

 個々の市場の背景には、所得水準や生活水準、物価水準、技術水準などがある。また、文化的、歴史的、地理的背景もある。これらの前提を無視して開放すれば、市場ばかりでなく。文化や歴史まで破綻させてしまう危険性がある。

 市場は、保護されるべき仕組み、装置なのである。

 市場は、圧縮と膨張を繰り返すエンジンのようなもので、充分な強度をもって圧力を封じ込める必要がある。

 開放とは、何か。開放に対する認識は、前提条件によって違ってくる。その為には、我々が受け取る情報をどの様に解釈するかが、重要となる。その解釈の仕方が前提にあるのである。





                    


ページの著作権は全て制作者の小谷野敬一郎に属しますので、 一切の無断転載を禁じます。
The Copyright of these webpages including all the tables, figures and pictures belongs the author, Keiichirou Koyano.Don't reproduce any copyright withiout permission of the author.Thanks.

Copyright(C) 2001 Keiichirou Koyano