標 準 化


空間的標準化


 標準化するという事は、全てを同じに扱うことを意味しているわけではない。全ては、多種多様であるから、標準化する必要があるのである。その点を誤解してはならない。
 平等に扱うと言う事は、全てを同等に扱うと言う事を意味しているのではない。つまり、違いを認めないと言うのではない。違いを前提とするが故に、平等という思想は成り立つのである。
 男と女は同じだと認識する事が、平等なのではない。男と女は違うという認識の上に平等は成り立つのである。個体差を認めなければかえって不平等を増幅するだけである。それは不道徳でもある。平等主義というのは、違いを認めた上で、その差をどの様に解消するかという事によって成り立つ思想である。最初から差を認めなければ、平等なんてはじめから成り立たない。
 平等も、自由も自己、即ち、主体的存在を前提とする主観的思想である。神は、自己を平等に与えた。故に、人間は、個として平等なのである。全ての人間は、存在において平等なのである。

 普通で、一般的で、標準的な人達の仕事をいかに確保するかが、経済を考える上で最優先すべき事なのである。有能、優秀な人間をどう評価し、どう遇するかは、それはまた、別の話である。

 数値化は、標準化を促進する。故に、貨幣経済は、標準化を促進する性格を持つ。なぜならば、貨幣は、数値情報の一種だからである。

 数値というのは、抽象化を意味する。数値は、対象のあらゆる属性を削ぎ落とし、数に還元する。この点をしっかり理解しておく必要がある。即ち、数値化は、単純化、標準化、平準化も意味する。

 貨幣価値は、財の単位量と単価の関数である。財は、質と量によって形成される。単価は、数値、即ち、量である。

 数値化は、対象を量化することによって経済の規格化を促した。それは、共通の市場、市場の統一を可能とした。しかし反面、価値の質的な側面を削ぎ落とすことにもなった。質的な要素が薄くなれば、必然的に密度も薄くなる。価値に偏りが生じるのである。それは、決して標準化を意味しない。標準化で重要なのは、偏りのないことである。つまり、密度である。質と量の均衡である。

 市場の価値が価格だけに収斂し、価格だけで判断されるようになると市場に働く作用は、量的なものに還元されてしまう。質的な部分が抜け落ちてしまうのである。質的というのは、固有な性格を意味する。差というものがなくなるのである。良い意味で平等で差別がないという事であるが、違う観点から見ると没個性的、特徴のない物と言うことになる。

 ニューヨークで飲むコーヒーも、東京やロンドン、パリ、ベルリン、モスクワ、北京、ローマ、ソウルで飲むコーヒーの味も変わらない。店の造りまで同じという状況を作り出す。服も全て同じ制服にする。それが標準化の行き着く先である。そこには、意識する者がない。つまり、没個性的な世界なのである。

 どこへ行っても変わり映えのない、変化のない世界と言う事になる。着ている服も同じ(かつての中共の人民服みたいに)で、食べる物も同じ、住む家も同じで、全てが統一されている社会、それが標準化の究極的世界である。
 その様な社会は住みやすい社会といえるであろうか。それは、文化の死滅であり、個人主義の終焉である。

 標準化は、意識する者としての個人を前提として為されなければならない。

 現代社会は、標準化を際限なく受け容れてきた。市場を一つに統合するためには、標準化は、不可欠な要素の一つと考えられている。その為に、規格の標準化、法や制度の標準化、貨幣価値の標準化、生活の標準化、価値観の標準化が強引に推し進められている。それは、文化の標準化を意味する。しかし、全てを標準化することが出来るであろうか。

 例えば、生活を標準化するためには、生活の水準が一定に保たれている必要がある。生活の水準は、物価の水準に依拠しているから、物価が一定の水準に保たれている必要がある。
 例えば、それが地球的規模で行われるためには、全世界が一律に一定の水準に保たれていなければ、公正な競争が維持できないために、また、段差が生じるため統一的な市場は実現できない。
 標準化をするためには、水準が重要なのである。

 水準は、場を支配する力であるから、水準の乱高下は、その場を構成する要素に重大に作用を及ぼす。経済を構成する要素の水準の乱高下は、うねりとなって押し寄せ。時によっては、津波のように国家や時代を押し流してしまうことすらある。

 経済を構成する水準には、物価の水準、不動産価格の水準、為替の水準、債務の水準、金利の水準、在庫の水準、人件費の水準、公共投資の水準などがある。

 要は、水準の問題である。水準をどう制御するかである。要するに、何の、どこに水準に合わせるのかの問題である。
 例えば、物価と言っても世界単一の指標が確定できるわけではない。価格を構成する多種多様な要素の要因が複合されて価格は成立しているのである。この様な物の水準を確定するためには範囲を特定する必要がある。

 水準は、空間の問題である。単一の次元、基準、座標軸では捉えきれないという事である。そして、相対的なものだという事である。
 例えば温度の水準と言っても温度と言う事だけ捉えれば、単一の基準であるように思われるが、温度の水準は、その温度の水準を成立させている対象や空間があってはじめて成り立つのである。一定の空間に温度と言う座標軸を加えただけに過ぎない。
 水準は空間的問題であり、範囲の問題なのである。それが、水準の前提条件を構成する。
 世界の気温の平均値をとってそれを世界の気温の標準とするのは馬鹿げているのである。実際の標準化とは、一定の範囲内での標準を設定する事を意味する。
 つまり、標準化と統一化は、同義語ではない。標準化は、範囲の画定化を前提とし、細分化を前提としているのである。

 水準は、場の力の均衡点である。場の力は、その場を支配する力でもある。故に、その場に構築それる構造もその場の力に支配される。
 国家の制度は、国家の法に支配される。また、国家の法は、国民の意識の水準や国民の生活水準、教育の水準に支配されるのである。
 国民の生活水準にも段階や格がある。その国の生活水準の段階や格が実体的な経済の段階や格差を生み出す。

 日本も戦後直後は、貧しかった。その状況の中で法や制度が制定した。しかし、高度成長によって日本も豊かになった。物資も豊富になった。それに応じて、生活水準や生活習慣も変質し、法や制度も変化してきている。その変化が、社会の変に適応したものであるならば、明日の繁栄は約束されるが、変化に適合しないものならば、日本は衰退していくことになる。

 また、生活水準の向上は、放置すれば、生活水準の格差を増幅する。更に、格差を固定的な階級的なものに変質させる。故に、それを補完する所得の再分配の仕組みが重要になるのである。

 水準は、有限な範囲、空間の問題であるから、内部と外部が生じる。水準を決定付ける要因には、内部要因と外部要因がある。

 例えば、企業経営の水準にも、内部要因と外部要因がある。
 企業内部では、債権の水準と債務の水準、収入の水準と支出の水準、収益の水準と費用の水準によって経営の均衡は、保たれる。また、債権や債務の水準と収益と費用の水準は、在庫の水準や固定資産水準に左右され、収入と支出の水準に影響する。また、費用の水準は、所得の水準に影響を受ける。所得の水準は、消費の水準に反映し、消費の水準は、物価に影響する。

 企業外部の水準で重要なのは、市場の水準である。価格水準である。それから、資源の調達価格の水準である。これらは、為替や石油価格の水準の影響を受ける。
 また、物価は、消費や調達水準に影響を及ぼす。

 市場の水準とは、価格の水準に要約される。価格の水準は、価格を構成する要因の水準に分解できる。価格の水準は、市場の作用による外部要因と価格を構成する費用、即ち、内部要因とから成る。価格は、最終的には、外部要因と内部要因の均衡によって成り立っている。

 また、企業経営において債務の水準が高止まりすると長期間にわたって資金的な負担となる。また、不良債権ののような形で、債務の水準が社会的に蓄積すると経済全体に対して足枷となる。不良債権というのは、実体は、不良債務のことである。この言葉は、債権と債務が表裏の関係であることを如実に表している。
 要するに、債務の高水準な状態が問題なのである。債務の水準に対し、資産価格や債権の水準が相対的に上下するために、資金の調達が不安定になるのである。

 貯金の水準と債務の水準は、ライフスタイルを変化させる。貯蓄と借金というのは、一見反対の働きに見えるが実際は、貯蓄と借金は同質の働きを持っている。表裏の関係にある。貯金をするか、借金をするかは、債権にするか、債務にするかの選択だからである。また、金融機関からすれば、逆の関係である。貯蓄というのは、金融機関にとっては、借入と同じであり、借金は、金融機関にとっては、貸出だからである。そして、利息を払うのか受け取るのかの違いが生じる。それは、現在価値をどう評価するのかの差でもある。つまり、今現金化した方が得か、将来現金化した方が得かの選択でもある。この場合の現金というのは、その時点での貨幣価値を実現するという意味である。
 その意味で、貯蓄をするのか、借金をするのか、それは、重要な決断である。
 いずれにせよ、借金の返済は、累積して可処分所得を圧迫する。可処分所得の水準は、物価や債務の水準によって左右されるのである。

 資産、特に、地価の水準は、経営に重大な意味がある。バブル崩壊後、不良債権が社会問題にもなった。しかし、不良債権が問題になるのは、その裏に債務があるからである。債務がなければ債権は、不良化しないのである。つまり、不良債権の問題は、実際は、債務の問題である。しかし、なぜ、債権が債務になったのか、その仕掛けが解らなければ、不良債権の問題は実際には片付かないのである。表面上片付いているように見える不良債権もいつまた再燃するか解らない。それが信用不安の火種なのである。

 バブル後の景気低迷やサブプライム問題においても根底に地価の水準の問題がある。地価の乱高下が、地価の問題だけでなく。企業経営や家計を直撃するからである。それは、債権と債務の均衡が崩れるからである。そして、債務が債権を上回ると返済資金の問題として収益を圧迫するのである。債権、債務の不均衡は、資金の問題に転化する。そして、資金の問題に転化することによって現実の危機となるのである。

 資産価値の下落は、企業経営を悪化させる原因の一つである。資産価値の水準の低下は、企業の資金繰りを悪化させるからである。
 資金調達は、資産を担保する事によって成立している。資産は、債務の裏付けとなる。債務と資産価値の均衡によって経営は成り立っている。
 債務と資産価値の均衡が破れ債務超過に陥ると企業は、新規の資金調達が困難になる。そうなると企業は、投資を抑制し、経費の削減をはかり、収益を改善しようとする。必然的に景気は悪化する。

 資産価値の水準の下落は、資産デフレも意味する。担保力の水準を意味する。担保力の減少は、資金調達力を弱める。景気の後退に収益の悪化が追い打ちを欠けることになる。それが、景気を悪化させるスパイラル状態を引き起こす。

 また、債務の水準や利率の水準は、利子や元本返済額の水準にも影響を与える。そして、それは、収益や所得の水準にも影響を与える。所得は、特に、可処分所得に影響与える。
 一見、経営とは、無縁に思われる資産価格の水準、地価の水準は、資金繰りに重大な影響を及ぼし、最悪の場合、資金調達が困難な状態に陥らせる。また、資産価値の下落だけでなく、金融市場の混乱や為替水準の変動も企業の経営を左右することがある。

 地価と同じ様な働きをする水準に在庫水準がある。
 資産水準を決定させる要素は、基本的に、単価(金)と量(物)、そして、評価(人)からなる。更に近年、記録(情報)が加わった。つまり、金、物、人、そして、情報の動きが資産の水準を決める。在庫水準も、資産であるから同じである。
 在庫水準で問題になるのは、評価と記録である。つまり、人と情報である。つまり、在庫の金額をどこで認識するかの問題である。
 また、在庫水準で問題になるのは、仕入れの水準が上昇している局面と下降局面で、その評価の仕方によって在庫の残高が、収益にプラスにもマイナスにも作用することである。仕入れ水準の動きが損益の動き、収支の動きと連動した動きにならないのである。しかも、損益と収支の動きも連動しているとは限らないという事である。つまり、表面に現れる損益と収支が逆の動きになり、資金繰り倒産を引き起こすことがありうるのである。
 また、在庫水準は、重要な経済指標であることから、表面上に現れる景気が、実体的な資金の動きとは裏腹に見えることがあるのである。
 実際には、不景気なのに表面上は、景気がよく映ったり、逆に、景気が良いはずなのに、不景気に見えると言った現象である。この事を充分に留意しておかないと、適切な政策判断が出来なくなる事がある。特に、在庫の動きは、充分にその前提を確認する必要がある。
 在庫水準は、個々の企業の問題だと考えていると景気見誤る危険性があるのである。

 なぜ、金融市場の混乱が直接的に実物市場に影響するというのは、表に現れない資金繰りが、経営に重大な作用を及ぼすからである。特に、長期借入金の返済資金を止められると損益が黒字でも倒産してしまう。俗に言う黒字倒産である。

 現代社会は、企業経営にせよ、家計にせよ、借金を基礎として組み立てられている。つまり、債務の上に成り立っているのである。それは、現代の会計制度に原因がある。家計は、基本的に会計制度ではなく。現金主義の上に成立している。しかし、債権者側、つまり、貸し手側は、会計制度を基礎としている。故に、結果的に会計制度の影響下におかれなければならないのである。何れにしても、今日の、市場経済は、借金の技術の上に成り立っている。

 所得水準と生活水準、消費水準、生産水準、物価水準は、収益水準、地価水準は結びあって相互に制約している。例えば、所得の水準の上昇は、支出の水準を上昇させ生活水準に影響を与える。支出の水準が上昇すれば、消費の水準も上昇する。当然物価の水準も上昇し、収益の水準を押し上げるというようにである。逆に、市場が成熟して収益を圧迫しはじめると逆回転を始める。また、物価の水準が他の要素の水準よりも急激に上昇すると他の要素を引き上げるか、他の要素が抑制的に機能するかによって全体の整合性をとろうとする。

 物価の水準は、為替の水準や原油価格の水準の関数である。

 収益の水準は、市場の飽和度に左右される。市場の飽和度は、需給の水準によって決まる。それに対し、費用の水準は、所得水準や金利水準、物価水準などによって年々押し上げられる。つまり、収益水準は、市場の状況に左右されると同時に、市場の成熟によって頭打ちになる。それに対し、費用水準は、年々上昇する。
 また、経営は、資金の収支均衡によって成り立っている。資金の調達は、収益と借入による。借入には、長期借入と短期借入がある。通常運転資金は、短期借入によって賄われる。短期資金は、与信枠によっている。与信枠は、担保水準によって決まり、担保は、資産、特に、不動産によって裏付けられる。即ち、短期資金の調達力は、地価の水準によって決まる。この地価が乱高下すると資金の調達力も不安定になる。つまり、費用だけが硬直的な動きをするのに対し、収益力や資金調達力は、外部環境によって不安定な動きをするのである。

 また、企業収益は、債権水準と債務水準、収益水準と費用水準の均衡の上に成り立っている。その根源は、収入と支出の均衡である。この事が意味するのは、経営は、収入と支出の均衡の上に成り立つもので、清算時点では、何も残らないという事である。

 この様に、企業は、ある意味で儲からないように出来ている。
 しかし、それが景気を不安定なものにしているという事を忘れては成らない。いくら頑張って利益を上げても、地価の水準が低ければ、資金繰りにつまって倒産する企業もでてくる。確かに、法外な利益を計上するのもおかしい。しかし、適正な利益を企業が上げられなくなるのも良い事ではないのである。

 突き詰めて考えてみると、現在の経済単位は、見かけ上の実体はあっても実質的な実体は持っていないとも言える。:経済主体の存在意義は、経済活動を通じて所得を得る事にあって、何等かの資産財産を残すことにはない。最後には、何も残さない。残せない仕組みになっている。
 企業で言えば、多くの資産があるようでもその対極には、同量の債務がある。つまり、清算してしまうと債権と債務は、相殺されて何も残らないか、最悪、借金、即ち、債務だけしか残らない構造になっている。
 これは家計にも言える。多少の遺産は残せるかもしれないが、その遺産も、相続でもって行かれてしまう。結局、現在の資本主義は、そう言う思想なのである。
 つまり、そうなると機能こそが重要となる。企業で言えば、経営活動を通じて社員に所得を与え、費用によって関係者に収入をもたらし、金利を払い、税を納める。それが経営主体の役割だと言う事である。つまり、企業の役割というのは、雇用を創出し、資金を廻すことに尽きる。そして、役目が終わればなにもの越さずに消滅するのである。
 企業とは、最終的には、儲からないように出来ているのである。儲かるのは、企業に関係した者達、株主とか、従業員とか、債権者とか、取引先である。それを忘れてはならない。企業というのは、潰してしまえば元も子もないのである。
 いうなれば、経営主体というのは、金の成る樹であり、利用されるだけ利用され、その役割が終われば廃棄されてしまう。企業に搾取されるどころか、企業は、搾取され続ける機関だと言う事である。その割に、誰にも感謝されない哀れな存在である。
 家庭も同様である。家庭は、子育てをする機関に過ぎない。人間的な絆など無価値なのである。要が終わればバラバラに解体し、後は個人個人で始末すればいい。それが現代の根底を成す思想である。現代体制では、共同体は不必要なのである。

 相対的な現象には二面性があるのに、日本人は、一面しか見ない。儲かったと言うが、儲かるというのは、一面でしかない。儲かった、つまり、利益がどうなるのかと言えば、税金や配当であらかた消えてしまう。と言うよりも、企業内部に蓄積できる性格のものではないのである。企業内部には蓄積できないような仕組みになっている。それを忘れては成らない。企業は清算するとき何も残せないのである。

 市場経済において重要なのは、機能である。つまり、働きなのである。企業や家計、財政の働きが重要なのである。その機能に適した構造を考えることなのである。
 例えて言えば、企業は、継続的に経営が出来るような経済構造を築くことであり、生産性や効率性、また、競争は、その為の手段に過ぎないという事である。仮に、過当競争によって企業が収益をあげられなくなってきたら、競争を抑止することであり、企業が破綻してから手を打っても遅いという事である。

 この様な機能を規制するのが水準なのである。

 為替の水準や原油価格の水準の急激な変動から市場を保護するのは、為政者の当然の権利であり、責務である。





                    


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