情報化

何を利益とするのか


 何を利益とするかは、現代経済を考える上で根幹となることである。問題は、利益が示す事象は何かなのである。その利益が示す事象こそが市場経済の在り方を規定する概念なのである。
 問題なのは、利益の概念が論理的に定義されていないことである。

 利益を成り立たせている認識上の前提は、実現主義と発生主義、取得原価主義である。つまり、利益が指し示している事象は、物ではなく、働きだと言う事である。この事は重要なことである。

 つまり、利益が極めて抽象的な概念であることと、創られた概念であることを意味しているのである。また、利益が何等かの実体を持っているわけではない事も意味している。
 利益とは仮想された概念、仮定された概念なのである。なぜ、市場経済は、この様に仮想された概念を土台にする必要があったのか。それが近代市場経済を読み解く鍵でもある。

 利益以外に経営主体の活動を評価する指針に収支がある。利益が、損益を土台にしているのに対し、収支は、資金の動きを基礎としている。利益は、取引の発生や実現を認識の基準としているのに対し、収支は、実際的な資金の出入りを基準としている。つまり、財の動きを土台とした概念が損益、即ち、利益であるのに対し、資金の動きを基礎としたのが、収支である。

 また、利益は、収益−費用、あるいは、前期資産残高−当期資産残高という減算式で表される。この事は、利益は、何等かの差を基とした概念であることを意味している。

 収支も収入−支出が基本式で、減算、即ち、差を基とした概念である。ただ、収支は、利益と違って貨幣的な実体、取引を裏付けとしている。

 この様に、利益や収支という概念は、何等かの差によって成り立っている概念である。差というものは、位置を示している。この差から生じる働きが利益や収支の機能の根幹をなす。

 ただし、差が利益の本質を意味するわけではない。利益の本質は、利益の持つ意味にある。つまり、利益を算出するための根拠である。
 利益は、収益−費用で表される。しかし、利益の概念は、収益−費用が根本的な理念ではない。収益−費用は、利益を算出するための方程式の一つである。また、収益−費用だけが利益を算出する方程式ではない。同様に、前期資産残高−当期期末資産残高でもない。利益計算の目的は、本来的には、費用対効果の測定にある。
 費用対効果は、経済活動における費用の働きと費用を構成する要素間の関わりを意味する。それが利益を生み出す仕組みなのである。そして、利益の必要性でもある。それは、企業活動が経済に及ぼす影響、働きの測定、評価でもあるからである。市場に有効な働きを持てなくなればその経営主体は、市場から淘汰をされる。その目安、バロメータへが利益なのである。
 費用を構成する要素の相互の働きと関わり合いにこそ市場経済を成り立たせている秘密が隠されているのである。
 費用の働きには、例えば、人件費の働き、即ち、所得の分配や雇用の創出などがある。

 差というのは、その基準である。ただ、差が意味するところが重要なのである。つまり、市場における位置付けとそこから派生する働きこそ利益の本質なのである。

 この点が理解できないと利益と市場との関係が理解できない。言い換えると利益と経済の関わりが結び付けられないのである。

 利益を導き出す要素は、資産、負債、資本、収益、費用であるが、勘定科目をどこに属するかは、合目的的であり、思想の問題である。その典型は、税効果会計において、税務と会計処理上の違いによって生じる差額を資産に属させるか、負債に属させるか、資本勘定で処理するかの議論がある。何に属させるかによって利益の意味が決定的に違ってくるのである。この例を見ても明らかなように、利益というのは情報であり、認識上、任意な概念なのである。問題は根本の思想である。何を目的とするかである。その根底は利益、及び、利益を構成する要素の機能である。

 経済というのは、競争さえしていれば良いというわけにはいかないのである。競争の是非は、状況、即ち、場合、場合に依るのである。市場は、放置していると均衡状態に至る。完全に均衡した状態というのは、市場が不活性化して状態である。熱力学で言うところのエントロピーが増大した状態である。故に、常に、市場は、不均衡な状態に置いておく必要がある。市場は矛盾した働きを要求する。つまり、相対的な空間なのである。定常的な空間ではない。市場は、一方で均衡を前提とし、もう一方で均衡を嫌う。この矛盾した条件を維持するために、市場には仕組みが必要であり、また、制御する必要があるのである。
 市場の制御は、一方通行的な作用、即ち、競争なら競争だけを良しとする程、単純ではない。市場を良好な状態に維持するためには、常に、市場を監視し、市場が一方向に暴走しないように管理する必要がある。また、それだけでなく何等かの安全装置や制御装置が要求されるのである。

 差のない市場や組織は、不活性化して、活力を失う。しかし、格差が極端に広がると市場は硬直的になり、活力を失う。極端に均一なのも、また、格差があるのも市場の偏りなのである。故に、市場は、ある程度の不均衡な状態を維持する必要がある。市場の不均衡な状態というのは、一つは、情報の非対称性によって維持される。
 利益は、この情報の非対称性によって得られるのである。つまり、利益の程度によって市場の不均衡性は維持される。しかし、暴利は、市場を活力を奪う。つまり、利益がないのも、ありすぎるのもよくないのである。
 適正な利益こそ経済の源なのである。だからこそ、利益とは何かが重要なのであり、その際、鍵を握っているのが利益の働きである。そして、利益の働きは、利益の必要性と目的に準拠するのである。

 利益とは、何か。それを明らかにするためには、利益の働きや目的を明らかにする必要がある。
 第一に、利益は資本に転化する。第二に、利益は、時間の関数である。第三に、利益は分配の原資である。第四に、利益は、分配のための原資。第五に、利益は、納税のための原資である。更に、第六に、利益から経営者報酬は支払われる。そして、第七に配当、債務保証である。第八に、企業の継続である。

 特に、八番目の企業の継続は、大前提である。企業を継続するためには、資金を供給し続ける必要がある。資金調達が利益を計算し、公開するための究極的な目的とも言える。

 資金の調達の手段は、売上と借入と投資である。これが、簿記上の右辺を形成し、その対称である資産と費用が、右辺を形成する。

 利益の働きは、利益の必要性から生じる。

 利益が必要とされるのは、利益配分のための原資、再投資の為の原資、設備更新のための原資、景気の変動による損失補填のための原資、株主や債権者の取り分の保証、非常時、緊急時のための蓄えなどがある。
 この様な原資が資本として企業に蓄えられておく必要がある。そして、資本は、企業が資金を必要とした時に、資金かできる状態に資本を置いておく必要がある。ところが、市場原理主義者は、資本の基本的機能を認識していない。彼等は、内部留保を容認しない。その為に、企業が資金を必要とした時に、資本を資金化することを妨げる。
 その為に、企業の体力が意味もなく消耗されてしまうのである。

 利益は、その機能と目的から計られるべき基準なのである。

 利益というのは、情報である。なぜ、企業は赤字になってもすぐに倒産するわけではないのか。それは、損益は情報に過ぎないからである。収支さえ合えば、即ち、資金さえあれば企業は赤字でも存続できるのである。
 赤字だから企業は倒産するというわけではない。黒字だから、企業業績が良好とは限らない。その証拠に、利益が上がっているのに、資金が不足するという事態に陥り、最悪、黒字倒産してしまうのである。利益というのは、情報に過ぎない。利益というのは作られた情報なのである。また、業績に変化がなくても為替の変動によって利益がでたりもする。
 作られる情報であるから、見かけ上の利益を過大に計上することも出来る。また、見かけ上の利益を課題にして資金を調達することも可能である。その気になれば実体の伴わない利益を作り出すことも可能なのである。例えば在庫の評価や資産の評価の仕方を変えただけで利益がでたり、赤字になったりする。しかし、そこで計上された利益というのは、架空の利益である。
 利益というのは情報である。ある意味で、赤字というのは、資金を必要としている情報、信号である。ところが、赤字と言うだけで資金を供給、即ち、融資を止める金融機関がある。これは、最も悪質、悪辣な金融機関である。なぜならば、金融機関はの役割は、資金がゆとりがあるところから、資金が不足しているところへ資金を廻すのが仕事だからである。資金が不足していることを理由にして、資金を取り上げ、資金にゆとりがあるところへ資金にゆとりがあることを理由に資金を廻せば、必然的に資金がつまってしまうからである。
 つまり、悪辣な金融機関は、企業が資金を必要としている時に、資金の供給を止めるのである。不景気を悪化させる原因は、金融機関だというのに、あながち根拠がないわけではない。
 黒字だから良い。赤字だから悪いと決め付けるわけにはいかない。赤字よりも、過大な黒字の方が質が悪い場合もある。例えば架空利益である。架空利益は、粉飾によってのみ創られるわけではない。架空利益というのは、実際の取引を前提としない利益、仮想的の利益である。意図した架空ではなくても、利益に計上される要素の中には、経営上派生した利益ではなく、在庫の評価や為替の変動、株の変動、資産の変動による利益がある。これらの利益は未実現利益であるから、利益を過大に見せ掛けたり、又は、装飾してしまう作用がある。
 以上のことを鑑みると、経営実体を利益のみに帰すことは難しい。利益だけで、経営を判断をすると重大な間違いを起こす。赤字にせよ、黒字にせよ、その原因と影響を構造的に解明する必要がある。
 経営というのは過程である。また、企業業績は、状況の結果である。つまり、どの様な段階において、どの様な状況におかれた結果かが、利益に反映するのである。
 利益は、例えば、陰陽のようなものである。利益は、太極にある。太極は陰陽の極みである。経営は、黒字の時もあれば赤字の時もある。問題は、黒字か、赤字かではなく、何が、そうさせているのかにある。
 世間では、収益が上がらない原因の全てを経営責任に帰す傾向が強い。しかし、現実には、経営者が出来る範囲というのは限られている。例えば為替の変動や原油価格の高騰、戦争や災害というのは経営者にとっては不可抗力な出来事である。収益が上がらない原因を経営のみに押し付けても本質的な解決には至らないのである。
 むろん、経営責任を蔑ろにすることは許されない。しかし、利益が上げられないことは犯罪であろうか。利益が上げられないだけで、なぜ、経営者は、犯罪者同様に扱われるのであろうか。経営者は、それでなくともリスクを採っているのである。多くの人間のどこかに、経営者は、全て悪人であるかの様な思い込みがある。経営者の全てが善良であるわけではないが、全てが悪人だというのも極端である。ただ、経営というのは、常に、社会的責任がつきまとい。それなりの道徳が求められるという事実は忘れてはならない。
 私利私欲のために、利益を操作するのは許されない。また、人を騙して金を巻き上げるようなことも歴然とした犯罪である。
 しかし、多くの経営者が犯す過ちは、経営を継続しようと言う動機に基づいている。つまり、経営者が犯罪を犯すのは、破綻した時の恐怖による。最初から詐欺、ペテンとしているわけではない場合が多い。なぜならば、経営は、継続を前提としているからである。継続を前提とする者は、目先の利益よりも長中期的利益を重視する。それが、経営者の不正を招く原因にもなる。第一、経営者は、何の保証も与えられていないのである。経営が破綻したとき、経営者の多くは何もかも、場合によっては命すら失うのである。
 故に、経営者は、多くは、企業を継続するために利益によって全てが判断されてしまうならば、無理をしてでも利益を上げようとする。また、利益に課税されて資金に不足が生じるのならば、利益を減らそうとする。その結果不正が生じるのである。それが不正に繋がるのである。
 モラルハザードが起こる原因は、モラルを護れなくなる状況があることを前提とすべきなのである。不正をしなければ、正常な状態を維持できなくなれば、不正を防ぐことは出来ない。利益を否定する考え方は、経営者のモラルハザードを招くのである。
 資金が不足しているという理由だけで事業を継続できなくなれば、赤字を隠すために粉飾をせざるを得なくなるのである。
 
 経済は、種々の前提の上に成り立っている。利益も種々の前提の上に成り立っている。この前提を確認いないと利益の意味は明らかに出来ない。

 経済は、利益を基にして成立している。これも前提である。そして、利益の中心は企業利益になる。即ち、企業利益は、経済の基盤なのである。

 資本は、利益の蓄積と負債が変質したものと言える。また、資産と費用が変換された結果とも言える。それが利益の性格の本となっている。つまり、利益は、資本を増やし、負債を減じる作用がある。また、資産や費用を資本に変換する作用もある。それが利益の機能である。また、負債と資本と利益は、相対的比率が重要になる。

 現行の会計制度最大の問題点は、説明責任を大前提としていることにある。会計制度においては、会計機能が経済に果たす機能が重要なのである。それは、説明責任だけに収斂できるものではない。説明責任は、どちらかというと二義的、副次的な機能である。むしろ、会計制度が経済に及ぼす影響の方が一義的なのである。
 それは、情報の果たす働きに関わってくる。情報は、対象を認識し、相互に伝達する手段として生じる。また、情報の働きで重要なのは伝達された情報によって情報を受け取った者が、その情報に基づいてどの様な判断、意思決定をし、どの様な反応、行動を起こすかにある。
 故に、会計制度によってもたらされる情報は、その情報を受け取った人間が、どの様な判断をし、どの様な行動をするかにある。つまり、会計制度によってもたらされた情報によって、情報を受け取った者が、どの様な行動を引き起こすかが重要になるのである。報告や、説明責任以上に、経営活動や経済活動、さらには、経済政策に与える影響こそ充分に考慮されるべきなのである。説明責任を大前提とした場合、この観点が忘れられてしまう危険性がある。
 会計は、市場経済や貨幣経済、資本主義経済の概念的構造基盤(インフラストラクチャー)である。経営者の行動規範の骨格をも形成する。会計の在り方一つで、景気は大きく左右される。
 経済学において、この点が全く考慮されていないことが一番問題なのである。また、会計制度の設計思想に、この観点が欠落していることが、問題なのである。会計制度は、説明責任を大前提して設計されるべきものではない。なぜならば、経営活動は、市場経済における根本だからである。

 そして、会計制度を設計する核こそ利益なのである。利益とは、何か。なぜ、利益が必要なのか。利益の働きとは何かを明らかにして、はじめて、会計制度を設計することが出来るのである。そしてその時、真の市場経済を確立することが可能となるのである。

 利益の果たす役割について考える時、忘れてはならないのは、利益は、情報だと言う事である。故に、利益は、情報として活用すべきのなのである。
 例えば、為替の変動によって大幅に収益が低下した場合などは、その為替の変動による影響をいかにしてやわらげるかの対策を立てるために、情報としての利益は役立つのである。それをただ、利益が上がらなくなったから、融資を引き上げよう、投資を止めようと言うのでは、経営者は、正直な情報を流さなくなる。見せ掛け上の利益を創作し、見かけ上の利益ばかりを追求するようになる。
 情報は、目的と合致してはじめて定義があるのである。

 経済や経営の実体、市場経済の実態は、資金の流れとして顕在化する。資金は、負債と資本(純資産)が生み出す。負債や純資産が生み出した資金を元として、資金を運用し、資産に転化し、資産が費用化する過程で収益を生み出すのである。収益は、新たな資金を生み出す。つまり、資金を生み出すのは、負債と資本と収益なのである。その資金の流れを生み出すのが、資産と費用の運動である。そして、資産と費用の運動は、基本的に回転運動である。
 つまり、基礎資金の量を決めるのは、負債と資本である。負債と資本の量を規制するのは資産の量である。それに対して、流通する資金の量は、費用と収益によって決まる。負債と資産の外見的量は固定的であるのに対し、流量は、資産・費用の回転によって収益という形で顕れる。その回転が生み出す価値の増量が利益なのである。ただし、流量として顕在化する資金は、実質的資産価値による。
 この利益が経済活動の基数となる。
 また、金融機関では、負債は、預金を意味し、資産は、貸付金を意味する。金融機関は、貨幣経済の中枢であるから、貨幣経済は、預金によって資金を生み出し、貸出金に転化することによって資金の回転を生み出していると言える。即ち、金融機関は、実物市場に貨幣を流通させることによって、財の循環と分配を司る働きをしているのである。故に金融が機能しなくなると資金の循環が悪くなる。つまり、市場の血の巡りが悪くなるのである。
 信用収縮は、資産の実質的価値の収縮によって起こる。つまり、費用の比率が資産の比率を圧迫し、負債の額面が固定的であるから、収益を圧迫し、資金の流量を減少させる。結果的に利益を圧迫するのである。利益が圧迫されることで、分配が不均衡になり、景気を悪くするのである。
 景気を制御するためには、資産と負債の相対的比率を均衡させることが肝要なのである。そして、利益はこの均衡状態を伝達する情報であり、利益が偏ったり、また、過剰であったり、不足すると市場経済は機能しなくなるのである。
 利益がもたらす情報に基づいて均衡のとれた市場環境を作り出すのが政府、及び、金融機関の重要な役割なのである。

 かつては、不況になると企業は蓄えを吐き出し、金融機関や国家は、資金を供給した。そして、その為に、利益を蓄積したのである。今は、利益が上がるなくなるとすぐに人員やコストを削減する。人員やコストの削減を予測して、家計は、消費を抑制する。その為に、景気は、ますます悪化する。それを合成の誤謬という人がいる。それは、誤謬ではなく。根本的な過ち、企業や投資家、金融機関、政府の認識の過ちなのである。各々が自分達の役割を理解せず、利益に役割を曲解しているからである。もっと言えば、自分達に都合の良いようにしか理解していないからである。
 利益には、金銭的な目的以外に、人的、物的な目的がある。人的な目的というのは、運命共同体としての目的である。経済から、人間性が奪われた時、経済は、その本来の機能を発揮することが出来なくなるのである。経済から人間性を奪うのは、人間の欲望、私利私欲である。そのことを肝に銘じておかなければならない。利益は、先ず、自らに求めるべきなのである。その利益は、私利私欲に基づく利益ではなく。公義に基づく利益であるべきなのである。

 利益は、思想である。
 利益は、不確実なものにしかないという考え方をする学者がいる。また、利益は、リスクにあるという考え方をする人もいる。しかし、これは真理ではない。思想である。
 しかし、仮に、利益が不確実なものにしかないという仮定で経済制度を考察したら、確実な利益を得られる職場はなくなる。現実に、確実な利益を上げられる職場は失われつつある。それは不確実な仕事に利益を設定したからに過ぎない。確実な利益を上げられないからではない。確実な利益を思想によって上げられなくしたのである。
 それに、リスクが利益を生むとしたら、利益を得ようとするものは、リスクを作り出すことになるであろう。それは、意図的に作られた危機である。
 不確実性やリスクによって利益を上げるのではなく、不確実性やリスクでしか利益が上げられないと言うのが問題なのである。
 それは、利益に対する考え方の問題である。確実に利益が上がる市場の仕組みがあって長期的、中期的経済状態の予測が立ち、計画的な経営が可能なのである。不確実性やリスクが利益を生み出すのではなく。不確実性やリスクに依拠した利益概念に基づいた考え方をしているから確実な利益が上げられないのである。不確実性やリスクに依拠した利益概念が指し示すのは、賭博的、投機的利益である。つまり、根本にあるのは利益に対する思想なのである。
 現在、市場で起きていることは、無作為に起きている現象に見えて、実は、作為によって起こされた現象なのである。

 利益は、結果ではない。利益は、創り出すものである。利益は、貨幣的概念である。かつてコインのことを古代ギリシアでは、「ノミスマ」といった。宮崎正勝は、著書の中で「ノミスマ」とは、人的につくり出された物という意味であると記している。(「知っておきたい「お金」の世界史」宮崎正勝著 角川ソフィア文庫)
 貨幣的概念である利益も人為的につくり出された概念である。自然の摂理のような法則とは違う。つまり、利益は、結果ではなく。つくり出される数字なのである。この様な数字であれば利益を上げられないのは、経営者の不徳だといえる。
 しかし、いくら真面目に働いても、また、努力しても一企業の力、経営者の力ではどうにも避けられない事がある。むしろ、真面目に、或いは、正直に仕事に励んでいると馬鹿を見るような場合が多くある。その典型が金融危機である。取引先の経営状態を考えて融資をしていたら銀行が建ち行かなくなる環境だからこそ、なりふりかまわず、貸し渋りやかし剥がしを金融機関はするのである。そして、投機的な行為にはしるようになるのである。モラルの崩壊は、モラルが自壊することが原因なのか、モラルを維持できない環境に原因するのか、その点を見極めないと一概に断定できないのである。ただ言えることは、一個人のモラルが崩壊するのと、業界全体のモラルが崩壊するのとでは、次元も原因も違うと言う事である。
 真面目にやっても利益が上げられない原因を明らかにし、仕組みを改善することが先決にすべき事である。それは保護主義というのではなく。

 古代では、地震や台風のような災害も政治的指導者の責任にされた。現代では、自然の災害と人為的災害を区別することが当然だと考えられている。しかし、経済では、経営者にとって不可抗力な現象でも経営者の罪にされる。それがモラルハザードの一因でもある。現代経済は、古代の呪術的世界をまだ脱していないと言える。

 最大の問題は、利益を不確実な結果、不作為な結果として成り行きに任せていることである。特に、伝統的基幹産業が無秩序な競争によって利益を上げられない産業、構造的不況業種に陥っていることなのである。
 利益は確実にあげられるものでなくてはならない。なぜならば、利益は、利益が上げられることを前提とした情報なのであるからである。
 利益を前提として所得や生活設計、生産計画、投資計画、資金計画(借金計画)、財政計画などが立てられている。安定的、確実な利益が見込まれなければ、これらの計画が立たなくなるからである。そして、信用制度が土台から崩壊し、消費が極端に抑制されて、市場が成立しなくなるからである。
 つまり、利益が上げられなくなることによって負の連鎖が起こるのである。この負の連鎖を立つ切れるのは、企業が適正な利益を上げられることである。適正な利益とは、確実な利益である。
 競争を煽って利益を上げられなくするのは、最も下策である。
 利益が上げられなくなったら、速やかに、その原因を明らかにして対策を立てる必要がある。その際、全てを経営者の責任帰すことは容易い。しかし、利益が上げられない理由の多くは、経営者にとってどうにもならない要因である。それは、市場や、産業、経済構造に根ざしている場合が多いからである。そこに政治や国家の役割がある。それは、公共投資や金融政策に限定される問題ではない。また、公共投資や金融政策は、財政や金融市場の規制の上にある。自ずと限界があるのである。
 利益は、構造的に上げられるべき情報なのである。肝心なのは、適正な利益である。

 かつて基幹産業を担う者には、国家観があった。しかし、今日の経営者には、儲けることしか頭にない。しかも、その儲けは、会計の教科書に書かれた儲けである。儲けを上げたところで、それが、国家、国民、世の為、人の為になるのか。その根本に対する認識が欠如しているのである。その結果、経済は、無政府状態、無秩序なものとなり、市場が荒廃した。それを市場の責任に帰すのは愚かである。規律をなくしたのは人間なのであるから。




                    


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