情報化

利益とは何か


 利益とは、情報である。利益を上げることに多くの企業は汲々としている。しかし、ほとんどの人は、利益の意味を知らない。意味もわからないままに、利益を追求し、利益に振り回されている。それが問題なのである。

 利益を考える上で重要なのは、何をもって異常とし、何をもって正常とするかである。利益を善悪の基準で捉えようとしても無意味である。なぜならば、善悪の基準は、不変的な基準であるのに対し、異常、正常は、相対的基準だからである。つまり、異常、正常は、どの様な条件を前提とし、どのような状況、環境において、何に対して正常か、異常かの問題なのである。
 例えば、どの様な経済体制、政治体制を前提としているのか。つまり、金融資本主義体制、自由主義体制、小さな政府を前提としいるのか、それとも、産業資本主義体制、平等主義、大きな政府を前提としているのか。
 どの様な経済的、政治的状況を前提としているのか。
 即ち、戦争状態なのか、平和状態なのか。政権は安定しているか。政策は一定か。インフラの整備は完了しているのか。民度は充実しているか。人口は、増加しているか、減少しているか。食糧の自給率はどうか。
 そして、国家財政は、破綻していることを前提とするのか、健全であることを前提とするのか。インフレ状態なのか、恐慌一歩手前の状態なのか。市場は、成長、拡大しているのか。それとも成熟しているのか。縮小しているのか。技術革新は起こっているのか。生産力は一定か。石油価格は安定しているか。
 また、どの様な政治的、経済的状況を基準としているのか。
 つまり、世界単位を基準とするのか、国家単位を基準とするのか。物価が安定し、完全雇用が実現していることを正常とするのか、市場の競争状態が維持されていることを正常とするのか、市場が成長、拡大している状態を正常とするのか。成熟し、飽和した市場の状態を基準とするのか。
 更に、それに対して、今の何が、異常で、何が、正常かというようにである。基準と現状を照らし合わせて、どこが悪いのか。
 そして、何をもって正常とするか、異常とするかによって、つまり、最終的にどの様な経済状態を目指しているのかによっても、利益に対する定義も違ってくる。
 何をもって異常とするか、正常とするかは、認識の問題であり、任意な問題なのである。つまり、利益とは、認識の問題であり、任意な問題なのである。

 市場取引は、基本的にゼロサムで均衡している。利益を生むのは、空間的差、時間的差である。例えば、買った場所や時間と売った場所と時間の差である。

 現状を鑑みると過度な競争が、景気を圧迫していると、私は、考える。企業は、利益市場主義に陥っているのに、市場は、低価格主義、不当廉売に走っている。暴走している。その為に、企業は、合理化、合理化に邁進し、市場は、量販を追求する。その結果、企業は経費削減が限界点まで達し、基礎体力まで削ぎ落としてしまい、収益があげられない体質にまでなっている。市場は、価格が限界まで押し下げられ、標準化、平準化されてしまう。その結果、産業、市場双方の多様性が失われる。そして、基幹産業ほど構造不況業種へと脱落していくのである。どんどんと利益が押し潰されているのである。
 それによって企業は赤字になり、また、労働状況が悪化することによって家計も赤字になり、企業や家計が赤字になることによって税収が減少する。
 また、過度の競争は、市場を荒廃させ、保守、保安、サービス、品質の低下を招いている。また、過度の競争は、財の単一化を結果的に招き、市場の多様性が奪われ、消費者の選択肢を狭めている。
 それは、競争を唯一の原理とし、市場を野放図にしていればいいという発想による。結果的に、消費者も、経営者も、労働者も不幸にしているのである。今の市場は、競争の場ではなく。闘争の場と化している。

 少なくとも、まともに仕事をし、真面目に事業をし、正直に経営をしている者が、利益を上げられずに、誤魔化しや、不誠実、不法によって利益が上げられるとしたら、それは、異常である。利益の設定に間違いがあるのである。利益の設定の仕方がおかしいのである。
 しかし、それは会計の問題ではなく。根本思想の問題である。

 何をもって正常とし、何をもって異常とするかによって、利益の意味も評価も違ってくる。当然市場の在り方や市場に対する政策も違ってくる。
 何を正常とし、何を異常とするかは、利益を設定する上での前提条件なのである。そして、市場経済に関する概念は、その前提条件の上に成り立っている仮説である。利益も然りである。
 ところが、何を正常とし、何を異常とするか、つまり、何を前提としているかをあたかも、自明、所与の命題として多くの経済学は成り立っている。それが経済学と科学との間に一線を画しているのである。

 今日、M&A、合併、買収ばやりである。かつては、独禁法の規制があったが、今は、独禁法も有名無実となっている。独禁法の精神はどこへ行ったのであろう。
 銀行もメガバンクに集約されてしまった。その間、多くの銀行が淘汰されてしまった。しかし、銀行の数が多いことは、何が問題なのであろうか。どこが悪いのであろうか。その議論も、効率という曖昧な概念で、ひたすら片付けられてきたように思います。
 集約される以前の銀行は、業態や目的に合わせて多様な銀行が、競争をしてきました。それによって日本の高度成長は支えられてきたのである。多くの国では、銀行が巨大化することは、金融資本の成立を促すとして警戒してきた。しかし、今日、それらの議論は、自由化、規制緩和、競争原理、効率化という合唱の前にかき消されてしまった。
 現在アメリカの自動車産業は、危機に瀕しています。自動車産業の再編、集約も急速に進んでいます。しかし、自動車産業を危機に陥らせた真の原因は何だったのか。その対策として、自動車産業を集約化する選択肢しかないのであろうか。
 かつて、数多くの自動車会社があり、多様な車種を生産してきました。小規模の自動車メーカーの存在を頭から否定し、効率を追い求めた結果が、今日の自動車産業の惨状を作り出したのではないのか。
 競争の原理、市場主義といいながら、寡占、独占状態に追いやり、結果的に競争の原理を働かなくして、市場の終焉を早めている。あげくに、金融危機後の銀行のように国営化されてしまった羅意味がない。皮肉なことだが、自由主義者、市場原理主義者が市場経済を終わらせようとしているのである。
 合理化、合理化の果てに利益が上げられなくなった産業が、斜陽産業、構造不況業種なのである。
 銀行の淘汰、自動車メーカーの大型化、集約化をする必要があるのであろうか。先ず、その前提を議論すべきなのである。その上での利益である。

 利益は、創られた概念なのである。。あるいは、創られる概念なのである利益をどの様に設定するかによって、経済体制も会計制度も成り立っている。利益の設定によって市場の在り方も変わるのである。
 そして、資本を構成する重要な要素の一つが、利益である。故に、利益は、資本主義における中核的な概念の一つでもある。利益に対する考え方が資本主義の本質を決めると言っても過言ではない。

 利益は、設定される概念である。利益をどの様に設定するかによって市場は制約される。利益を正しく設定するためには、利益は、何を前提とし、どの様な基準、目的によるべきのか。また、現状は、基準や目的に照らしてどの様になっているのか、さらに、問題があれば、問題を構成する要因を明らかにした上で、どの様な状況を、利益は、是とするかを明らかにする必要がある。

 自由主義経済を志向するのか、統制経済を志向するのかで利益の考え方は違ってくる。それは前提である。
 物価の動きをどの様に水準に保ちたいのか。その為に、市場をどの様な状態にしたいのか。それは、基準である。
 それに対し、現状の景気や市場は、どの様な状況になっているのか。成長段階にあるのか、成熟段階にあるのか。それは現状認識の問題である。
 基準、目標とすべき状態に対し、現状に問題があるとしたら、何がその要因なのか。それは。現状分析である。そして最後に、何をすべきなのかという対策が立てられるのである。
 その対策の鍵を握るのが、利益をどの様に定義し、設定するかにある。これが根本思想である。

 故に、利益は、情報である。利益のあるなしが、直接的に企業経営を決定付けるのではない。赤字になったら、即、経営が成り立たなくなるわけではない。直接的な影響を与えるのは、資金である。資金の供給が断たれることによって企業経営は破綻するのである。
 黒字、あるいは、赤字だという情報を元にして、投資家や金融が、資金を供給し続けるかどうかを判断するのである。現実の経営は、資金の供給の是非のよって決まる。つまり、利益は情報である。

 利益に対する考え方には、極端に反した二つの考え方がある。一つは、利益を絶対視し、利益のみを追求する考え方である。その対極にあるのが、利益を蔑視する考え方である。つまり、利益を追求するのは悪徳だという考えである。
 前者は、わけも解らずにひたすらに利益を求めるいきかたである。それに対し、後者は、利益を度外視するいきかたである。一見矛盾するこの価値観が、同居していることに現代社会の問題点が潜んでいる。どちらか、一方に偏った考え方によると、施策がオール・オア・ナッシング、極端から極端に流れやすいのである。

 市場経済、貨幣経済は、利益を基にして成り立っている。それなのに、公共事業に従事する者は、利益についてあまり考えようとしない。考えようとしないどころか利益を上げることを頭から否定してしまう傾向すらある。
 公義は、倫理的に利益を上げる事自体を否定している場合が多いからである。つまり、儲けはいらないという考え方である。当然、利益は上がってこない。
 倫理的な意味で、利益を否定的にとらえる場合は、我利我利を指していることが多い。つまり、私利私欲に基づく利益である。しかし、利益本来の意味は、私利私欲に基づくものではない。利益は、利益であって善悪の範疇に属する基準ではない。
 利益は、人々の生活に必要な物を生産、分配して人々の生活を豊かにする事や、国家を繁栄させ、子供や孫が、幸せになるために投資する事、平和を守り、災害や外敵に備える事を目的としている。
 つまり、利益は、人々の幸せと平和を維持するためにあるのである。もし、利益の追求が間違っているとしたら、それは公の利益を見失った時である。その利益を特定の人間や階層が独占しようとするから弊害が生じるのである。
 利益が悪いわけではない。利益に対する考え方が悪いのである。人間の所業が悪いのである。重要なのは、公が、公の利益を明確にすることなのである。公の利益は、社会構想や、国家理念に基づかなければならないのである。
 経済を安定させ、国家の繁栄や平和を維持し、民生を安定させるためには、その根本にある利益に対する適正な考え方を確立する必要がある。それが道徳の根源なのである。

 利益の基準は、適正な利潤にある。適正な利潤イコール廉価ではない。安ければいいという事を意味しているわけではない。利益の役割、機能、そして、利益を生み出す仕組みが適正妥当かの問題である。また、適正な利益というのは、売り手と買い手、双方から見て適正でなければならない。

 ここで、注意しなければならないのは、利益の本義、本質は、会計上の論理によって導き出されるのではないという点である。
 利益本来の目的は、利益が果たす社会的な働きにある。利益から社会的な働きが失われると利益本来の目的や意義が損なわれてしまう。利益が本来果たさなければならない働きや意義は、会計的な問題ではない。道義的な問題である。
 道義的な原則から導き出された利益の定義に基づいて会計的利益を設定されなければならないのである。そして、利益の働きは、人々の生活や経済活動に根ざしているという事である。利益が特定のに人間や階層にのみ恩恵をもたらすものならば、利益は、搾取の手段に過ぎなくなる。利益は、あまねく人々の幸せに寄与するものでなければならない。
 会計上の利益は、貨幣価値に帰す。しかし、利益の本義は、貨幣価値だけにあるのではない。それ故に、利益における貨幣価値以外の部分は、会計制度以外の制度、即ち、法や社会制度によって補われなければならない。
 例えば、盗みや詐欺に基づく会計上の利益は、法や規制によって正されなければならないのである。また、会計上の利益によって生じた、富の偏在や不平等は、再分配によって是正されなければならない。
 利益というのは包含的に概念でもあるのである。利益は、万人の利益でなければならないのである。故に、利益は、分配の問題でもあるのである。

 多くの道徳は、第一に、盗みや強盗、詐欺、ペテンを禁じている。また、第二に、貪欲を戒め、奢侈や賭博を禁じている。第三に、人の物を壊したり、奪うことを禁じている。第四に、違約を禁じている。契約や約束の誠実な履行を求めているのである。第五に、法や掟に従うことを求めている。第六に、利益を独占することを禁じ、公平に分かち合うことを求めている。第七に、労働を尊び、不労所得、楽をして利益を得ることを良しとはしない。
 これらは、経済を基とした倫理観である。この様に道徳の要は、経済に根ざしているのである。そして、それは人々の利益をいかに守るかが根本なのである。それ故に、利益とは何かを知る事が大切なのである。つまり、利益の正しい意味を知りそれに基づいて経済の在り方を決める必要があるのである。
 つまり、利益は、道徳に通じているのである。利益の有り様一つで、道徳も歪められてしまう。道徳を正しくするためには、利益に対する考え方も正しくしなければならない。

 一般に、利益というと損益上の利益と収支上の利益がある。また、公の利益と私の利益の別がある。会計上で言う利益とは、損益上の利益である儲けというとかつては、収支、現金の出納を前提としてものを利益としていた。現在でも、家計と財政は、現金収支を基としている。この場合の利益は、収入から支出を引いたものを意味する。この場合の利益は、複式簿記を土台とした利益とは異質なものである。

 利益の持つ本義は、会計上の利益にあるわけではない。しかし、利益の実体は市場経済では会計上の利益として顕れる。形而上のもの、これを道と謂い。形而下のもの、これを器と謂う。市場に現れる利益は、器である。故に、市場では器を問題としなければならない。

 現在の市場経済における利益は、会計上の概念である。利益は、あくまでも、会計制度の上で成り立っている概念である。それを忘れてはならない。つまり、利益は、会計上の理念、論理の上に成り立っている概念なのである。

 その意味では、会計上の取り決めが解らないと、利益の真の意味は理解できない。
 即ち、利益という概念が成立するためには、会計という言語の制度的な基盤が成り立っている必要がある。会計制度は、実務的基盤と伴に法的基盤の裏付けも必要とされる。

 会計情報というように会計は情報である。故に、利益も情報である。会計は、アカウンティングと言うように説明を目的とした情報である。

 利益は、会計的に創作された概念なのである。利益は、説明を目的として創作された情報なのである。

 また、利益の概念は、会計上の最終目標といえる概念である。故に、利益の正しい働きが確立されなければ、期間損益は完成しない。そして、会計上の最終目的というのは、企業の継続を前提としているという事である。
 つまり、利益は、会計上、前提とされる概念である。そして、会計利益は、企業の継続を前提としているのである。

 ところが、多くの人は、利益の意味を理解していない。その為に、会計制度は、その最終目的すら明らかに定めることが出来ない。

 利益は、説明を目的とした、あるいは、前提とした情報である。必然的に説明をする相手、報告をする対象を前提とする。報告をする対象によって目的が違ってくる。税のように、中には、根本的な計算方法まで相違する場合もある。故に、利益の定義は、個々の目的に応じて設定する必要がある。
 利益を算出する目的は、会計の目的に準ずる。会計の目的は、企業経営に関わる者に情報を開示することである。
 企業経営に関わる者とは、第一に、経営者である。第二に、従業員である。第三に、株主である。第四に、債権者である。第五に徴税当局である。第六に、取引業者、第七に、消費者、第八に、地域社会である。経営に関わる者は、それぞれの立場によって目的が違ってくる。

 企業に関わる対象こそが利益の機能を有意義なものにする対象である。第一に経営者は、文字通り経営に携わる者である。故に、経営者は、経営を継続し、関係者に適正な配分を行うために利益を必要としている。第二の、従業員は、自らの労働の価値を請求するために、また、生活の糧を得るために利益を必要としている。第三の株主、投資家は、投資した分に対する配当を得るために利益を必要としている。第四の債権者は、融資した資金の回収と金利を確保するために、利益が必要である。第五の、徴税者は、徴税当局の取り分を確保せんが為に、利益が必要である。第六の取引業者は、納入した財の代金を得るために利益が必要となる。第七の消費者は、継続的に商品を購入すると伴に、商品のアフターサービスを得るために利益を必要としている。第八の地域社会は、地域の雇用と経済の安定を維持するために利益を必要としている。

 何れも、それぞれの立場で利益を必要としている。各々が、各々にとって適正な利益を必要としているのである。この利益こそが市場経済の根底になければならない。
 しかし、現在の市場経済は、利益は結果でしかない。利益を目的としえないのである。それでありながら一方で利益を要求し、他方で、利益を上げる事を悪し様に言われる。利益を度外視されるのである。

 なぜ、安売り業者が成立するのか。その一つに、人件費を低く抑えると言う事がある。経営は、究極には、人件費に至る。国際競争力も相対的に、人件費が決定的な要素となる。国内で人件費を抑えるのは、若年労働者や非正規社員を雇用の中心すればいいのである。また、国内の人件費が上がってきたら、国外の物価の低いところを求めればいいのである。あくまでも国内外の相対的な比較である。結局の所、生活必需品、消耗品と耐久消費財といった価格の相対比較に過ぎない。つまり、食料のような必需品が高いか、自動車のような耐久消費財が高いかの違いである。

 低収益な経済体制とは、結局、全てのコストを抑制せざるをえなくなる。

 利益というのは、適正な価格が維持されてこそ成立する。現在の世論は、適正な価格と安売りとを履き違えている。価格破壊を市場の破壊としてみなさないで、革新的なこととして称賛している。しかし、適正な価格が維持されなければ、経済は成り立たないことを忘れてはならない。
 日本のガソリン価格は、石油税によって他国から見ると割高になっている。しかし、日本人が認識するのは、ガソリン代としての市場価格でしかない。それが、生活費の一部として組み込まれれば、妥当性があるかぎり、成立する。
 価格は、市場価格としての妥当性である。生活費としての妥当性にある。ただ安ければいいと言うわけではない。

 利益とは何かも解らないのに、ひたすらに利益を追求し。市場をどの様な状態にしたいのかを明らかにしないままに、ただ、競争を煽る。それが問題なのである。
 利益の根源は、国民の生活にあるのである。

 利益や価格は、一つの基準である。基準を満たさなければ淘汰すればいい。しかし、利益が全てではない。利益の背後にあって利益を成立させている考え方が重要なのである。

 現代社会では、利益は、結果だと錯覚している。利益は、上がるのであり、利益が上がるのは神の意志であるといった捉え方である。故に、利益が上げられないのは、経営者の不徳であり、罰せられるのが当然だという思想である。利益が上げられないのは罪なのである。損は悪い事だと胃考え方である。そこから、損得の問題が善悪の問題にすり替わる。だから、経営に失敗することは不道徳なこと、恥ずかしいことだと考えられる。しかし、いくら経営者が努力しても利益が上げられなくなることがある。為替の変動や原材料の高騰は、経営者の責任なのであろうか。また、物価の高騰も経営者が原因なのであろうか。それは、悪徳の経営者もいる。だからといって、経営者は悪人だと決め付けるのは乱暴である。むしろ、経営者の多くは、使命感をもって仕事をしている人が多いものである。
 利益は、結果ではない。利益は、目的であり、指針であり、基準である。
 故に、利益は、上がるのではなく。利益は上げるのである。そして、利益を上げられる経済体制、市場構造を自由経済や市場経済は、前提としているのである。また、前提とした仕組みを築き上げるべきなのである。
 現代の会計制度は、経営を監視するという消極的な側面が強い。経営を指導したり、経済政策を立てる上で参考にするという積極的な面は稀薄である。その証拠に、会計士や税理士が経済政策に積極的に関与したという話はあまり聞かない。会計士や税理士は、事後処理に追われているのが実体である。
 金融危機や経済危機は、なぜ、起こるのか。それは、企業も財政も家計も利益が上げられなくなるからである。そして、利益が上げられなくしているのは、自分達、人間である。神でも自然でもない。利益が上げられない市場の仕組み、経済の体制にしているから、利益は上げられないのである。






                    


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