機能主義

期間損益の確立と機能の変化


 現代経済は、市場経済、貨幣経済の上に成り立っている。資本主義経済も例外ではない。そして、市場経済や貨幣経済が今日の体制を整えられたのは、時間的価値と機能の要素が制度的に確立されたことによる。一定の期間という概念が確立されることによって一定の機能が発揮されることが約束されたのである。

 市場は制御されなければならない。制御するためには操作されなければならない。操作するためには、仕組みが重要なのである。市場が制御装置を持たないという事は、操縦席のない飛行機のような物である。

 構造全体の維持、制御を考える上で重大なのは、個々の部分を構成する要素の働き、即ち機能である。構造を成立させるためには、個々の部分が持つ働きが重要なのである。
 この働きを重視した考え方が機能主義である。

 市場を制御するためには、市場の機能の基礎を成立させてい期間損益が、なぜ、確立されたのかを明らかにする必要がある。期間損益を成り立たせているのは、会計制度である。故に、資本主義経済は、会計制度の上で機能していると言っても良い。そして、会計制度が期間損益を要請したのである。

 資本主義と言っても元々は、当座企業を土台としていたのである。貿易商人が、貿易を通じて得た利益を一回一回清算していたのである。イギリス東インド会社も発足当初は当座企業であった。しかし、それでは面倒臭いしリスクも高いので、幾つかの航海をまとめて清算するようになった。それが、継続企業の始まりである。継続企業になったら、航海毎の利益をとのように評価すべきかが問題となった。そこから、期間損益の必要性が認められたのである。しかし、根本には、資本の配当と清算という思想は、残ったのである。
 また、株の譲渡、権利の譲渡が可能だったから、期間損益は成立した。この流動性というのが重要な要素の一つである。さもなければ、返済する義務のない資金を提供する者はいない。いるとしたら、親子、兄弟と言った運命を共有する人間くらいである。事実、資本関係というのは、同族関係を意味することは今でもよくある。

 資本主義経済は、期間損益によって成り立っている。この期間損益の上で機能していないのが、家計と財政である。それが、現代経済にいろいろなところで歪みを生じさせる原因となっている。
 故に、期間損益がなぜ確立されたのかを明らかにすることは、財政や家計の問題を解決することにも繋がる。

 期間損益が確立された理由の一つは、収支では、説明が付かない部分があるからである。特に多額の資金を必要とした場合において、単年度では、収支が均衡しなくなってしまったからである。また、適正な利益を計算する基準がわならないからである。
 そこで、初期投資された部分を一定の期間で償却して単年度の利益を計算することが考案されたのである。最初に投資された資金は、一旦資産に計上され、それを一定の割合で取り崩し、償却していく。それが費用性資産であり、減価償却費である。
 もう一つ重要なのが、初期投資に投入された資金の出所である。それが借入であれば、負債とし、投資であれば、資本に計上されるようになったのである。
 重要なことは、収入が、収益だけではなくなったという点である。つまり、収入は、負債や資本が含まれるようになった。そして、資本と負債、資本の収支は、貸借勘定として損益から切り離されたのである。
 この事の意味は、収入の中に、収益と区分された上で、借金によるものが組み込まれたことを意味する。現代の経営の資金の流れの中には、常に、負債による収入が働いていることを意味する。借金経営と言われる由縁である。借金による収入を想定しないと経営に必要な資金が廻らないことを意味するのである。期間損益、利益を土台にしてから、金融機関は、企業の死命を握ることになる。
 期間損益が確立される以前は、元手と収入の範囲内で商売をしていた。期間損益が確立されると、借金をすることによって資金をレパレッジすることが要求されることになったのである。
 期間損益が確立される以前の金融機関と以後の金融制度とでは、機能の本質が違ってきたのである。つまり、期間損益が確立する以前では、資金が不足した時に補ったり、為替取引が金融機関の役割であり、金融機関がなくても経営は成り立っていたのに対し、期間損益が確立し、借入による資金が経営上における不可欠な資源の一つになったという事である。つまり、金融機関からの資金の供給が途絶えると経営は成り立たなくなる仕組みになったのである。
 もう一つは、利益を計算する上で収益の相手勘定である費用に負債の元本の返済額が計上されていないという事である。つまり、資金繰り上において、重要な要素である元本の返済は、損益計算上に現れてこないことを意味する。その為に、資金の動きが損益計算上からは見えてこないという事である。
 また、税が利益を基礎にして計算されているという事と、利益は、経営資源に廻さず、外部、即ち、投資家、国家、経営者に分配されてしまうという事である。
 元々、収入に占める利益の比率は小さい上に、税金や配当という形で外部に流出してしまう。収入を経営資源に活用したくても活用できずに、負債や資本という外部資金に頼らざるをえないという事になる。儲かったからと言って資産を購入しても結局残ったのは、借金だけだと言う事になる。つまり、その分、利益を上げる必要性が低くなるのである。

 資本主義体制下では、最初に資金を調達した者が優位に立つ。早い時期に多くの資金を調達できるかどうかで勝負がつくと言っていい。その為には、自前のの資金だけ出にはなく。他人の資金をどれだけ多く集められるかが鍵を握る。つまり、基本的に借金、負債ができるかどうかが鍵を握っているのである。
 それは、国家も同じである。そうなると現金収支というのは、その時点時点の事業収益よりも借入とその為の根拠に重きが置かれる。
 特に、戦争は、多額の出費を伴い、資金の多寡によって戦争の結果も左右される。誠に、戦略とは算術なのである。しかし、戦争を遂行する者は、銭勘定を嫌がる。それ故に、軍費は、歯止めを失いがちである。戦争を抑止したければ、予算を抑えることである。
 また、今日の財政は、最初に予算ありきである。つまり、家計は、予め決められた所得を基本にして収支が立てられる。しかし、財政は、あくまでも不確定な予測の上に予算をたてて、それを執行する。始めに資金ありきなのである。そこに政治が介在すれば、つまり、政治的に、必要な資金を先に決め手から予算を立てるのであるから、財政が赤字になるのは、必然である。この政治的にと言うのが、また、曲者である。誰にとって、なぜ、必要なのかが、政治利権や既得権益に支配される危険性が高い。
 そして、支出には必ず返済がつきまとう。つまり、資本主義以前は、収入と収益、支出と費用は一致したものであったが、一旦、資本主義体制が固まると収入は、収益に資本や負債が加わった額となり、支出は、費用だけでなく、債務に対する返済額が加わるからである。この事によって市場にストックの部分が蓄積され、形成されていくことになった。更に会計制度や税制がストックの部分を補強、強化していく。そして、フローの部分がストックの部分の支配下に置かれるようになる。しかも、このフローは、必ずしも資金の流れを意味しているわけではない。損益上の流れを意味している。しかし、実際に企業を動かしているのは、現金収支である。故に、重要なのは、キャッシュフローの中に含まれる返済額の占める割合である。
 ところが、損益上にも、貸借上にも金利は、報告されるが、返済額は、報告されない。これは、最大の謎である。また、欠陥でもある。
 なぜならば、資金収支こそが経営主体の死命を決しているからである。最近、キャッシュフローが重視されてきた事情もその辺にある。
 借金、負債を負った者が有利なる。それが、現在の金融資本主義を支えている。負債を追った者は最初は有利になるが結局は、金融機関や資本家の支配下に置かれることになる。それは、実業の世界は、常に一定の返済義務を負わされるからである。

 現代社会は、借金を裏付けに成り立っているという点を見落としてはいけない。
 損益を基礎として成り立つ以前、即ち、収支を基礎としていた時代では、とりあえず、現金さえ残っていれば、生活が出来た。
 その時代の金融機関と言っても、所謂、金貸しであったのである。つまり、不足した現金を貸し借りしたに過ぎない。債権、債務と言っても直接的取引が介在して成り立っていた。故に、金さえあれば、事業は成立した。逆に、手持ち資金の範囲でしか商売は成り立たなかった。故に、小僧に対する賃金は、決まった物でなく。生活に必要なだけという事になる。それは、仕事ではなく、奉公であり、口減らしに過ぎなかったのである。
 それに対して、損益を基礎とした社会では、債権、債務関係を基礎としてそこから、損益計算をするのである。金融機関は、債権と債務と、所得と消費を別々にし、それぞれが生み出す時間的価値を経営の実体とみなすのである。
 この様に、期間損益が確立されることで、合理的な費用計算、即ち、費用対効果の測定が可能となり、賃金労働が確立されたのである。それによって、労働者の所得も安定したのである。ただし、この場合の賃金の計算根拠は、費用対効果でしかなく。属人的にものではない。
 つまり、損益というのは会計制度に基づいて導き出された概念に過ぎないのであり、収支とは別の物なのである。つまり、期間損益というのは思想なのである。問題は、体系的な理論の上に成り立っている思想ではなく。実務の上に成り立っている思想だと言うことである。
 現代金融機関は、債権債務を仲介する機能を果たしている。そして、現代経営の評価基準は、利益であり、現金ではない。この点が重要なのである。故に、いくら、収入が見込めても利益が上げられなければ、金融機関からの資金の供給が止められ会社は清算されることになる。つまり、経済や経営の土台にあるのは、債務なのである。その債務が、経済を経営を動かしていると意って過言ではないのである。故に、債務状態が経済を判断する上で重大となる。これは、国家経営でも同様である。

 市場経済が発達する以前においては、貨幣価値が生じるのは取引が成立した場合に限られ、所有するだけでは、貨幣価値は生じなかった。しかし、市場経済が浸透した今日、取引関係が成立していなくて、所有するだけでも債権、債務関係が生じる。

 戸籍や登記簿の整備は、近代税制度の前提となる。つまり、全国民の全ての資産は、国家に登録され、登録されることによって価値を生じる。同時に、登録されることによって貨幣価値を顕現化し、債権債務が生じる。

 支出は投資と消費になる。投資は、資産、消費は、費用である。資産は、貨幣的資産と非貨幣的資産に分類される。また、費用性資産と非費用資産とに別れる。
 収入は、負債、資本、収益からなる。負債と資本は、債務であり、収益は、取得である。資本は、返済する必要がなく、譲渡可能であるから、収益に近い性格を持つ、ただ、経営権のような定性的権利を持つ債務である。収益は、実現収益と未実現収益からなる。収益は、単価×数量によって算出される。

 負債や資本は、債権・債務関係を生み出し、資産の会計的な位置を確定する。収益と費用は、会計的運動を成立させ、損益を導き出す。

 費用性資産は、費用の塊(かたまり)とみなされ、減価操作される。それが減価償却であり、内部運動が費用処理されることによって顕在化される。これが期間損益の始まりである。






                    


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