市場経済にとって数値化が意味するものは


 利益は、自然の法則のような真理ではない。思想の所産である。
 利益は、会計的に設定された基準の一つである。また、それ以上のものではない。利益は、合目的的な数値基準である。つまり、利益の設定には、何等かの人間の意志が働いている。利益の設定は、設定する者の価値観が働いていおり、その価値観が、前提とされているからである。故に、利益は、思想の所産である。
 利益は、目的に応じていかようにも設定できる。だから会計目的を確認する事が重要なのである。
 利益というのは、スポーツのスコアのようなものである。つまり、事業の存在価値を測る物差しである。その存在価値は、収益と費用との差に求められるというのが期間損益という思想なのである。故に、利益の定義が重要になる。そして、利益の定義は、貨幣価値を実現させる要素に基づく要件定義である。

 市場経済下における景気は、利益をどの様に定義し、利益計算の方法をどの様に設定するかによって大きく左右される。市場や企業の都合によって会計基準をいじくり廻すのは危険な行為である。
 試合の結果や特定の選手の意向によってルールを変えるのに等しい。重要なのは、経済をどの様に導くかの構想なのである。

 経済現象が理解しにくいのは、経済情報を合目的的な情報として認識しないからである。経済は、人間の行為が寄り集まって引き起こされる現象である。経済的事象は、自然に成るのではなく。人間の行為の結果なのである。つまり、経済現象に責任を持たなければならないのは人間であって、神でも自然でもない。

 市場は、利益を上げる事を前提として成り立っている。

 時間的価値が失われれば、市場は、均衡し、利益を得る機会は失われる。時間的価値を附加するのは、市場の仕組みである。

 理数系の人間は、経済を自然現象と同一視して説明しようとする傾向、癖がある。
 エンジンのような機械は、自然に成るものではない。植物や動物とは違う。人間が作り上げたものである。その上でエンジンの働きがある。エンジンの働きは、エンジンの仕組みがあって始めて観察されるものであり、自然状態で観察されるものではない。市場の働きも同様である。市場の仕組みが作り出されることによって市場の現象は観察されるのであり、自然状態で市場の現象が観察されるわけではない。
 人間が作り上げた仕組みが前提となり、その上で確率統計的な手法が活用されているのである。

 機械の性能と天気予報の精度とを混同している。

 会計上において利益が計上できるように設定するから、利益は上がるのである。もし仮に、利益が計上できないように設定されれば、利益は計上できなくなる。問題は、前提条件である。現代の市場経済は、成長や変化を前提としている。前提が変われば利益が計上できなくなる仕組みになっているのである。成長や変化を前提とする仕組みによって成長や変化を促しているのである。
 しかし、成長や変化が止まったら途端に歯車は逆回転を始める。成熟や不変を前提とした市場の仕組みではないからである。

 市場や経営主体が、儲からない仕組みだったら、儲からないのである。むろん、経営努力による部分もある。しかし、経営努力だけではどうにもならない部分もあるのである。状況や環境によって仕組みを変えるから、機械は制御できるのである。上昇する時も、水平飛行する時も、下降する時も同じ体勢では、失速するのは当然である。

 市場原理主義者の多くは、市場は効率的だと決め付けている。市場は効率的だと言うが、それは結果論に過ぎない。株価が下がったから経営破綻したのか。経営が破綻したから株価が下がったのか、どちらが原因で、どちらが結果なのかは、決め手がないのが実態である。

 会計情報を作成するのは、手段であって、会計情報を作成することが目的なのではない。しかし、会計情報だけ資金が調達できるとなると会計情報を作ること自体が目的とするようになる。また、自分達の都合が良いように会計情報を創作するようになる。また、会計情報の方が経済の実体に化してしまう。

 市場原理主義者は、淘汰される側の経営者を無能だと決め付ける傾向がある。しかし、必ずしも無能だから敗北するとは限らない。事故や災害のような予期せぬ事態に見舞われる事もある。また、不運もある。不可抗力な事象もある。有り体に言えば、常識的で良識的であることも淘汰される原因となりうるのである。
 市場原理主義者は、自分達は、公平で、中立的だと思い込んでいるが、多くの場合、自分達が馬鹿にしている伝統的、勧善懲悪的発想なのである。
 現実は、結果に過ぎない。善悪の基準だけでは、現実を理解することはできない。況や、進化という基準で全てを説明することは不可能である。

 社会にとって必要な事業が淘汰されたり、本来は、利益が上がっていない企業が利益を上げているように見えたりする。また、優良な企業が、悪質な企業に呑み込まれたりもする。それは、会計情報を目的を明らかにしないままに過信することが原因なのである。
 こうなると適者生存などというのは、戯れ言に過ぎなくなる。

 お伽噺にでてくる悪い大臣は、善良な王に取って代わろうとしている。しかし、視点を変えると有能な人間が無能な指導者にとって代わろうとしているとも言える。何が正しくて、何が間違っているかは、主観の問題であり、その人その人の立場によって違うのである。

 同じ会計情報も、株主、金融、取引業者では、見る視点が違う。

 金融危機と言われる現象の多くは、株式相場の暴落に端を発している。これ程重要な影響を与えている株式相場とは何なのか。また、なぜ、株式相場は、経済に影響を与えているのであろうか。

 株式市場の論理は、会計的文法によって成り立っている。同じようにも金融市場も会計的文法を基盤としている。取引市場も会計的文法を基礎としているのである。

 企業は、資本家のもの、株主のものと決め付ける風潮があるが、それは、企業の一面でしかない。会計の論理を基礎としているのは、資本市場だけではない。金融市場だけではない。取引市場だけではない。それぞれの市場の働きの均衡の上に市場経済は成り立っているのである。

 投資家の多くは、企業経営に失敗し、企業経営者の多くは、投資に失敗している。この事が何を意味しているか。それが重要である。
 企業は、少なくとも投資家のものだけではない。投資家の視点だけで、会計の働きを規制しようとすれば、自ずと市場経済に偏りが生じるのである。金融危機の根底には、この市場の偏りがある。

 投資家、即ち、株主は、企業は、株主のものであり、投資家を保護することが最優先だという考え方を前提としている。
 しかし、投資にもいろいろな目的がある。事業目的に投資する投資家もいれば、キャピタルゲインを目的とする投資家もいる。配当を目的とする投資家もいる。M&Aを目的とする投資家もいる。
 投資というのは、本来、長期的な利益を目的とし、固定的資産の裏付けとなるべき資金を提供することである。
 しかし、現代は、投資を目的とする投資家は少数派である。株の値上がりを目的とした投資家が大多数である。彼等にとって、事業目的や事業理念なんてどうでも良い。株価が値上がりする情報が必要なのである。

 それに対して、経営者にとって必要なのは、経営を継続するための情報である。その為には、長期的な均衡に必要な情報が重要なのである。

 近年、時価会計が流行である。特に、金融商品が発達したことによって時価会計を導入すべしと言う傾向が高まった。

 時価会計を推奨する人達は、経営実態を正確に知るためにという事をその理由としている。しかし、時価会計にすれば、正確に経営実態、あるいは、企業価値を計算できると言えるであろうか。
 時価会計が正確に経営実態を反映するためには、幾つかの前提がある。
 まず第一に、経営実態の全てが会計情報の上に表れるという前提である。しかし、経営実態が会計基準上に、全て正確に反映されるとは限らない。
 経営実態が正確に会計上に表れるためには、経営実態を反映する情報とは何かが予め明らかにされていなければならない。
 経営実態とは、経営の目的によって決まる。つまり、会計の目的と経営の目的が一致していなければ、経営実態は、定まらない。経営目的とは、事業目的でもある。なぜ、何のための、誰のための事業かが定まって、はじめて、会計目的は定まるのである。
 その目的から見て、時価を基礎とした情報に意味があるかが問題なのである。その為には、時価とは何かが予め定義されていることが前提となる。
 会計基準は、自然の法則とは違う。結果を説明するために、会計基準はあるのであり、結果から会計基準は、導き出されるわけではない。なぜならば、利益と言う結果は、会計基準に基づいて導き出される数値だからである。
 第二に、投資家の目的である。投資家は、何のために、経営実態を知る必要があるかである。これは、経営実態の何を知りたいのかを左右する。
 投資家にとって一番の関心事は、投資した資金をどの様に回収するかである。
 投資家が経営実態を知りたい最大の動機は、本来、経営が継続されるかである。もし経営が破綻すれば、投資した資金が回収できなくなるからである。故に、経営が破綻されたら投資家は、元も子もなくなる。しかし、今日では、株を長期にわたって保有する株主は少なくなった。そうなると株を保有する目的が変質する。
 当座企業を対象とした投資ならば清算価値が重要であるが、企業を清算することによって投資した資金を回収するのは、継続を前提とした企業では無意味である。
 そうなると、投資家は、配当か、キャピタルゲインによって資金を回収すると考えるのが妥当である。

 今日、キャピタルゲインを目的とした投資家がほとんどである。そうなると投資家の大多数は、事業内容よりも、結局、株価の日々の動きに注目するようになる。日々の株価の動きが、彼等にとっては、投資の問題だという事になる。この様な投機家に多くは、短期的な株の売買によって利益を上げる事を目的としている。そうなると長期的な利益を目的とするよりも短期的で即物的な利益を上げる事が株価の目先の上昇に繋がる。彼等には、長期的な事業観と言うよりも短期的な利益の方が重要なのである。

 しかも、株価の下落が、資金調達を困難にし、結果的に企業を破綻させることがある。その様な事態を避けるためにも、目先の上辺の利益を上げる必要があるのである。
 投機家にとっては、会計情報の在り方も短期的な利益を上げる事を目的とした在り方の方が重宝なのである。
 要するに、短期の利益の動きに対して賭をしたいが為に、時価会計を推奨しているのに過ぎない。

 株価の暴落の原因よりも、株価が暴落するような事態が問題となる。では株価が暴落するような事態は、どの様にして訪れるかである。
 株価の下落のキッカケの多くは、会計情報によって引き起こされる。故に、株価の下落を招くような情報にならないような基準を採用しがちになる。

 結果的には、その会計のあり方が企業を疲弊させてしまうことになる。なぜならば、企業は、本質的に継続を前提とし、長期的均衡を目的としているからである。長期的な投資や蓄えがどうしても後回しになってしまう。

 第三に、企業を継続すること、その為に資金を調達することが目的ならば、その為の情報に限定すればいいのである。何も、時価で評価する必要はない。
 また、目先の利益によって長期的な視野を欠くことは、本末転倒となる。長期的な視野にかけ、目先の利益ばかりを投資家が追うようになったために、企業経営が行き詰まったのだとも言えるのである。こうなると会計情報の在り方にも影響がでてくる。短期的な売買によって目先の利益を追う投資家のために作られた会計基準によって株式市場が混乱し、その結果、実物市場も混乱したとしたら、それが景気を株式市場が先取りしたと言えるであろうか。それは、資本市場が経済の混乱の原因になったに過ぎない。

 元々、株価は、固定資産の裏付けのためにあるものだから、それが目先の利益に囚われ、長期的な展望が持てないことが問題なのである。

 会計情報は、提供する相手が経営内部と外部の人間とでは、情報の量と質が違ってくる。また、会計情報を作成する側と提供される側とでは、当然、目的が違ってくる。

 経営というのは、状況や前提によって評価が別れる。バブルに乗る方が悪いと言うが、バブルに乗らなければ、その時点で破綻している。
 環境や状況を無視して、経営をすることはできないのである。しかし、その環境や状況、ルールが、行政や政治の都合で猫の目のように変わり、その為に、不良債権が発生したとしたら、それは災難である。
 良い例が相続税に対する考え方である。また、土地税制も然りである。為替の変動も同様である。
 まるで、優秀な選手がでたらルールを変えてその選手の成績を悪くするようなものである。

 経営者は、投資家や金融機関から資金を調達したり、取引上の与信力を高めるために、また、納税のために、経営をするために会計情報を利用しようとするであろうし。株主は、投資先を見つけるために会計情報を活用しようとするのに対し、銀行は、最終的には、金利が稼げた上に貸した金が戻ればいいのであり、行政は、税金の他にこれといった主体性がない。
 今の投資家や債権者、公的機関にとって事業はどうでも良いのである。とにかく、自分が儲かればいい。それしかない。その為に、経済が上手く機能しないのである。
 行政にとっては、本来、会計情報を作る目的には、債権者保護や雇用の確保、資源や環境の保護と言ったことが考えられる。
 故に、会計情報を作成したり、開示する目的が今一つハッキリしない。根本にある事業観、事業計画がどこかへ行ってしまっているのである。

 金融危機というのは、経済危機の末期症状であり、その先にあるのは破局である。金融危機が起こる前提は、金融機関が適正な利益を計上できなくなる事である。それは、金融市場が成熟し、競争だけでは、適正な利益を上げられなくなることが原因なのである。
 金融機関は適正な利益を上げられなくなると資本市場や資産市場に新たな収益源を求める。それが資本市場や資産市場の急激な拡大、即ち、バブル現象を引き起こすのである。それは、利益の設定の仕組みに問題があるからである。

 本来、会計情報は、合目的的のである。つまり、目的があって会計情報は作られているのである。本来会計情報というのは、多様なニーズ、要求があってそれに応じる形で作成されるものである。
 その会計情報を作る目的がどうでもよくなっている。何のために、会計情報が作られ開示されているのかがわからなくなっているのである。
 会計情報の評価は、会計情報を作成する必要性、目的に照らして為されるものである。ところが、その必要性や目的を蔑ろにしていて情報の適正を評価しようとするのであるから、本末を転倒してしまうのである。

 経済本来の目的に反する行為は、結局、不経済な結果をもたらす。たとえば、投機目的で土地やゴルフ会員権を買うと言った行為である。
 投機目的で土地やゴルフ会員権を買うと言った行為を、なぜ、行うのかというと過剰な利益や余剰な資金が、市場に発生してたことである。
 また、将来に備えて資金を形を変えて溜め込もうとすることである。また、税として資金の流失を防ごうとする。
 しかし、利益の中から全額、費用となるわけではなく。一時的な利益の増加を解消することにはならない。恒常的に費用が発生することになる。また、元本の返済は、費用化できない。
 これらは、金融市場や資本市場の投機的な市場の動きとも共通している。

 市場というのは、本来信用によって成り立っている。市場取り引きは、信用制度を前提としているからである。その信用が損なわれる様な行為は、当然規制されなければならない。

 会計情報を作成する目的が株価対策に限定されている事が問題なのである。会計情報は、本来、事業の継続に活用する事を目的とすべき情報なのである。会社を淘汰し、潰すことを目的としているわけではない。

 経営の継続に必要なのは資金である。期間損益ばかりにこだわって資金の問題を忘れている。会計情報を作成し、開示する目的は、資金の調達にある。もう一つは、税である。収益、借入、投資、納税が会計情報作成の目的である。その点を忘れてはならない。

 資金調達の手段は、収益と借入(融資)、投資による。そして、それぞれに応じて会計上を作成するための基準が違ってくる。
 そして、会計情報の目的の根本は、収益を計る事、投資家に対する説明責任、借入をするための手段である。それと納税のための基礎資料の提供である。

 事業の継続を前提とするならば、長期的視野に立った会計情報の方が重要であるはずである。

 例えば、工場として使用している土地は、工場が操業している間は売れない土地である。地価の動向は、直接、操業に関わっているわけではない。ところが、含み益を抱えていることすら悪いという事になる。国は、その含み益に課税しようとすらする。
 そうなると本来事業とは直接関わりのない地価や株価の動向によって経営が左右されることになってしまう。

 何をもって不良債権というのか。何を基準として不良債権を判定するのか。不良債権と言ってもそれは視点によってその評価は別れる。

 短期的に見て不良債権でも長期的に見れば問題がない場合がある。創業期は、大体、不良債権である。

 問題なのは、事業に対する基本的な考え方、思想が確立されていないことである。

 経営というのは、長期均衡を目指しているのに対し、株価というのは刹那的だという側面もある。

 市場の機能は、交換と分配にある。競争は、手段であって機能、働きではない。市場が機能しなくなったのは、競争が機能しなくなったのではなく。資金が流通しなくなったからである。
 会計情報の目的は、市場競争に勝敗を付ける為にあるわけではない。株の相場の乱高下によって一喜一憂するのは、株が、勝負事のように思われている証拠でもある。会計情報の公正とは、何のための公正なのか、博打のための公正を言うのであろうか。

 金融危機は、短期利益、目先の利益ばかりを追求した結果だとも言える。市場が停滞した時は、長期的な展望に立った施策を採る必要がある。金融機関に関して言えば、そもそも金融機関の果たすべき役割り使途は何かが根本になければならない。
 経済情勢が悪化し、短期的に収益が悪くなって資金繰りが困っている企業に不足している資金を供給するのが金融機関本来の役割である。その前提は、長期的な展望に立った事業観である。利益を上げているときに不必要な資金を貸しておいて、それを、ただ儲かっていない、担保が足りないと資金を引き揚げるのは、犯罪行為である。だから、銀行は、晴れているときに傘を貸し、雨が降ってきたら傘を取り上げると揶揄されるのである。
 森羅万象、千変万化。変化は世の常である。万物は流転する。
 要するに、変化は、常態なのである。それは、時間が変化の単位であることに象徴されている。時が流れるところに、変化はつきものなのである。

 私的企業は、国家に対して責任を持ちきれるものではない。私的企業は、利益の追求を前提として成立している。利益が上げられなくなれば淘汰されるのである。その利益の質は、私的企業は、独自には、決められない。利益の質を保つのは、市場の仕組みや会計の論理である。

 市場の仕組みや会計制度が、社会や経済、市場の目的や役割と一致していないことが問題なのである。その根本にあるのは、国家目的であり、国家の役割である。国家の目的や役割を明らかにした上で、企業の社会的役割を基礎とした市場の仕組みや会計制度に改めるべきなのである。





                    


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