5、会計と数学

5-6 負債とは

負債の基礎


 貨幣経済を動かす力は差から生まれる。差は比と組み合わせて考えないと理解できない。比の働きは、分母と分子の構成に隠されている。
 分母と分子の働きは、分母、分子を構成する要素の足し算からなる。例えば、売上高というのは、売り上げの総和をいう。また、人件費というのは、賃金の総和を言う。
 足し算を構成する個々の要素は、かけ算によって成立している。(例えば、単価×数量のように)このように貨幣経済の大本には、四則の演算が隠されている。故に、貨幣経済の本質は数学なのである。

 エネルギーは、歪みによってもたらされる。経済を動かす力も歪みによってもたらされる。歪みは、差である。
 競争は、現象であってエネルギー源ではない。働きが現れた結果である。
 歪みは、差によって生じる。差は、正との働き、即ち、プラスの働きと負の働き、即ち、マイナスのはたきの均衡として認識される。
 お金にもプラスの働きとマイナスの働きがある。プラスの働きから資産が生まれ、マイナスの働きから負債が生じる。
 歪みを是正しようする力と歪みを維持しようとする力の働きによって景気は動かされるのである。投資は、市場に歪みを生み出す。
 投資によって生じた歪みによって資産と負債が生じるのである。この歪みを是正しようとする力と歪みを維持しようとする力が通貨を流通させる力の根源となるのである。
 経済を動かすのは、投資と借金である。借金がなくなると景気は、失速する。ただ、負債は、マイナスの力である。負債はマイナスの力が働いているという事を念頭に置いておく必要がある。マイナスの力を否定的に捉えるのではなく。マイナスの力から人類にとって有効な働きを引き出すかを考えるべきなのである。
 火を人類が上手に活用したようにである。
 お金は、人間にとってプラスにもマイナスにも作用するのである。

 現代社会は、借金によって成り立っているといえる。
 有り体に言えば、紙幣は国の借金が元にあると言っていい。大体、紙幣は、国の借用証書が原型なのである。
 借金の裏付けは、期間損益主義では、資産か収益である。現金主義では、収入が支出を上回っていればいいのであり、収入は、借金であろうが売り上げであろうが、出資金であろうが問題にならない。帳尻さえ合えば良いのである。
 そうなるとどれくらい金を貸しても安全なのか、見当がつかなくなる。つまり、借入金の限度額が設定できなくなる。そこで、期間損益という思想が生まれたのである。
 期間損益では、借金と、出資金(元金)、売り上げとそれに対して、財産と支出を多少加工して対応させた。
 そして、借入金を負債、出資金(元金)を資本、売り上げを収益と言い換えたのである。
 そして、支出を生産手段を資産、消費を費用としたのである。負債や出資金、売り上げによって調達した資金を資産に置き換える行為を投資という。

 ただ、重要なのは、借金を資産に対応させ金利を費用として対応させはしたが、借金の元本の返済をどの様に処理すべきなのかについて取り決めをしていなかったのである。つまり、負債の返済は、収益の中から一部を減価償却費や利益として計上して返済資金に充てながら、後は、資産を清算する時にまとめて返済するしかないのである。これが、後々、経済を混乱させる原因となる。

 もう一つ重要なのは、期間損益主義では、資産は、借金や出資金が転じた生産手段や権利を意味する事である。

 景気が悪くなるとそれまで期間損益主義に基づく負債だったものが、いきなり、現金主義による借金に変質する。
 お金を貸した側からすれば最悪でも元本が取り返せれば良いのである。
 景気が悪くなったとき、最悪でも元本が取り返せれば良いと考えるようになる。しかし、資産は生産手段である。景気が悪くなったからといっておいそれと清算する訳にはいかない。なぜならば、事業の継続が不可能になるからである。
 この仕組みが解らないと不況の原因は解明できない。

 現代社会を深刻にしているのは、負債、借金がある事なのである。

 自殺の原因の上位には、病気や家族問題の他に、経済があげられる。そして、経済の原因の大部分は、借金である。借金がなければ多くの人は、死ななくてすんだのかもしれない。又、借金は、人間関係にも影を落とす。金を借りる事は、時には、その人の権利や義務、魂までも売り渡す事にもなりかねない。かつては、借金のためにも、子供を売り渡す者さえいたのである。ゆえに、昔から高利貸しは嫌われたのである。
 これほど、害があるのに、借金はなくならない。なくならないどころか、借金は増えるばかりである。
 それは、借金は、害ばかりでなく。有用でもあるからである。
 現代社会は、借金によって成り立っている。借金の弊害ばかりに目を向けていたら、借金の害はなくならないどころか、多くなるばかりである。我々は、借金の効用にも目を向けるべきなのである。

 借金によって破滅するのは、お金も持つ本来の役割を忘れ、お金に取り憑かれてしまうからである。お金は、人を幸福にも、不幸にもする。しかし、お金によって幸福にも不幸にもなる要因は、お金の側にあるのではなく、人間の心持ちの側にあるのである。

 借金と負債の違いは、借金は、現金主義に基づく概念であり、負債は、期間損益主義に基づく概念だという事である。現金主義と期間損益主義による違いは、その他に、財産と資産、支出と費用、収入と収益などがある。

 借金は、それ単独で成り立つ概念であるのに対し、負債は、資産と一対で成り立つ概念である。故に、負債の働きは、対象となる負債に対応する資産の働きとの均衡の上で成り立っている。
 それは、負債が、取引によって生じる資金の流れから派生する債権と債務を本として成立している複式簿記に基づく概念だからである。
 借金は、それ単独で成り立っている概念であるから、返済が滞らなければ問題ない。負債が厄介なのは、負債の働きは、資産や収益の働きとの関連によって決まるという事である。負債だけ見ていたら負債の働きが適正であるか、否かは判断できない。しかも、負債の返済額は、直接的には計上されていないのである。つまり、費用と対応していない。それが支出と費用を乖離させる要因の一つとなっている。
 また、負債は、収入であっても収益ではない。

 貸借では、負債は、マイナス要因と見なされるが、現金収支では、負債は、収入の一種なのである。しかも、損益上はいいくら借金をしても計上されない。逆に、いくら借金を返済しても損益上には、表されない。
 しかし、実際に経営主体の活力は、現金である。極端に話し、借金しようが、だまそうが、収入があれば、あるいは、借金を踏み倒してでも、お金、現金の残高さえ確保されれば、経営は維持できるのである。ただ、支払いで言えば、不渡り手形を出したらお終いである。そこに、債務の怖さがある。

 ローンのような借入金が増えることは、回り回って可処分所得を減らすことになる。
 地代家賃と借入金の返済額は、その働きの本質が違う。地代家賃として支払われた資金は、費用として市場に流れるが、借入金の返済額は、金融機関に回収されて市場には、直接、流れてこない。

 収入が減ると借入金のような固定費が家計に対して重くのしかかることになる。
 収入が途絶えればそれまでの蓄えを取り崩して糊口をしのぐしかなくなる。

 結局、借金が増えるという事は、血管が細くなって血の流れが悪くなり、最悪の場合、動脈硬化を起こしかねないという状況に似ている。借金が蓄積すると市場に流れる通貨の量が細くなるのである。

 ローンは、支払いの先送りに過ぎないことを忘れてはならない。支払い能力を考えないで、月々の支払いが少ないからといってローンを使えば、そのツケが家計を圧迫するようになる。又、市場に流れる通貨の量も抑制されるのである。
 借金をするととりあえず現金を手にすることができる。現金を目の前にすると人は、その裏側に借金があることも忘れてしまいがちである。そして気が大きくなって自制心を失うのである。気がついたら、借金まみれで首が回らなくなる。そんな人間が沢山いる。

 お金さえあれば、借金の苦しみから逃れることができる。だから、借金のために、人格まで変わってしまう。人生は、お金が全てであるように錯覚させられてしまうのである。お金のためならば人まで殺すようになってしまうのである。

 借金は、恐ろしい。しかし、現代社会は借金なしでは成り立たないのである。

 負債や資産は、長期の資金の動きであり、短期的には、負債や資産の動きは、表面に現れてこない。

 経済の負の部分を担っているのが金融である。金融は、損益の部分では、貸借の部分で働いている。金融は、費用や収益の部分に直接的に作用するのではなく、資産や負債、資本を介して間接的に費用や収益に作用しているのである。
 故に、財政収支、家計収支、経営収支、経常収支の対極に現れて財政収支、家計収支、経営収支、経常収支を均衡させているのである。

 人生設計において、住宅ローンのような負債は、重要な意味を持っている。これは、定収を前提としているからである。だから、収入を一定に確定する必要がある。
 個人事業主は収入が一定していない。ゆえに、あえて会社化して、自分の収入を費用に変える。労働者も長期的契約によって収入を定収化する。
 それを実現するのが経営主体である。しかし、経営主体の収入も一定していい。故に、金融機関の力を借りて収入を一定化しようとするのである。そのため、単位期間の収益と効果を測定する必要が生じたのである。それが期間損益主義である。
 個人が、住宅ローンを組む事ができるのは、長期にわたって一定の収入が受け取れる事が前提となる。そのために、人件費は固定的になるのである。
 この定収が保証されないと借金はできなくなる。また、返済が滞れば、生活が破綻する。現代人は、借金に追われ、借金によって働かされているといってもおかしくない状況に追い込まれるのである。
 そして、この水面下に働く長期的資金の働きが景気の底辺の働きを形成していく。

 株価や不動産の相場が暴落した際、なぜ、金融を緩和し、資金を市場に供給する必要があるのか。それは、資産価値が下落することで、収益に関係なく、長期資金の回収圧力が高まる事を防ぐためである。

 企業経営では、この様な傾向は、不動産会社の経営に如実に表れる。
 資産価値が上昇すれば初期投資も増大する。それは、短期的にみれば、家賃に反映されるのである。新設物件は、初期投資が増加する分、家賃も高く設定せざるを得なくなる。そうすると、中古物件にもそれなりの競争力が持てる。設備や建物が老朽化した分、家賃を安く設定できるのである。しかし、時間価値が換算されなければ、このような市場は成り立たなくなる。

 時間的な差がなくなれば、初期投資の差はなくなる。そうなると費用である償却費にも差がなくなる。当然、家賃の格差もなくなる。残されたのは、設備やデザインの差である。こうなると新築物件には、中古物件は競争力がなくなる。不動産などと言う長期的に償却を行う産業では、時間差が消滅する事は、重大な障害になる。このことは、差によって成り立っている産業を壊滅的に破壊する事になる。

 ある意味で、資産は、二重の構造の上に成立しているといえる。一つは、貸借と損益、もう一つは、負債と資産である。この二つの構造による作用が経済現象を抑制し、又、複雑にもしているのである。
 資産の陰には、負債の働きが隠されていて、その負債の働きは、短期的には、資金の需要として現れ、そして、長期的には、資金の調達力、すなわち、担保力に影響する。
 この様に、資産を成り立たせている二重の働きは、負債の働きでもある。資産と負債の動きは、資金の流れと損益に対して負債を介して同時に働いているのである。

 借金や費用を全て切り捨てたら成り立たないのが現代社会なのである。なぜならば、借金や費用を全て清算したら、資産も、収益も、所得も同時に消え失せてしまう。そういう仕組みに現代の市場構造はなっているのである。
 資産は、投資の結果生み出された生産手段である。投資は、債権と債務を同時に同量派生させるのである。それが根本の原理である。
 借金や費用の背後には、資産や収益、所得が隠されている。だから、借金や費用をいたずらに清算することばかりを考えるのではなく。借金や費用をバランスよく制御する事を考えるべきなのである。そして、そのために必要なのは、仕組みであり、すなわち、市場構造である。

 負債というのは、核の廃棄物に似ている。原子力も、借金も、現在の効用、利便性を期待するのならば、長い期間、マイナスに働く、負の働きをどう制御するかを考えておかないと制御する事ができなくなる。負債の働きは、先送りできないのである。さもないと将来に、負担しきれないつけを回しかねないのである。

 何をキッカケにして、何が、どう変わったか。
 キッカケとなった事象は、結果なのか、原因なのか、それが重要な意味を持つことがある。

 負債の持つ働きや意味を正しく理解しなければ、経営問題や財政問題、会計問題を解決することは出来ない。正しく理解する必要があるなのは、負債を増減させる仕組みである。

 日本は、バブル崩壊後の不良債権処理に苦慮したのは、負債の原則がリコースローンだったことによると言われている。反対に、サブプライム問題の根底には、アメリカの住宅ローンの原則がノンリコースローンにあることだと言われている。

 欧米において貸し手責任に重きを置くのは、ローマ法以来の伝統だとされる。こうなると負債に対する原則は、思想的問題である。
 経済原則を定めるのは思想なのである。

 財政も含めてなぜ、負債が増えるのか。その仕組みを知らないと負債の増加は防げない。その為には、負債を悪役扱いばかりしていたら負債の真の役割を理解し、より積極的、能動的に活用することができなくなるのである。
 負債が増える原因として考えられるのは、資産の増加か、運転資金、損失の発生である。

 負債が増える原因を解明する前に、負債とは何かを明らかにしたいと思う。

 負債とは、債務の集合である。
 長期資金の流れは、通貨の流れと同量の債権と債務を発生させる。
 交換取引や混合取引は、債権と債務を生じる。
 長期資金の流れ、或いは、交換取引や混合取引によって生じた債務の集合が負債である。

 負債とは、資金調達の形態の一種である。
 資金調達の手段には、負債の他に、資本的手段と収益的手段がある。この事は、負債と資本と収益は、同質の要素を持つ科目であることを意味する。
 又、負債により資金調達と収益による資金調達の比率は、経営状況や経営の成長段階を知るための重要な指標となっている。

 負債には、流動負債と固定負債がある。

 負債の働きで重要なのは、資金の流れる方向や長期資金の働きにどの様な影響を及ぼすかである。

 負債と費用は、資金の出口である。負債は、資金の入口であると同時に資金の出口でもある。

 負債に対応しているのは収益であって資産ではない。資産は、収益や資金の不足を補い、また、支払い能力を保証し、負債を担保しているのである。

 総資産が拡大すれば、資金は、投資の側に流れ、総資産が縮小すれば、資金は回収の側に流れる。

 負債が増える要因は、収益の減少、固定費の増加、売上債権の増加、棚卸資産の増加、投資の増加などである。

 償却資産は、長期借入金の返済資金と固定費に対応している。そして、利益を減少させる働きがある。

 長期借入金は、減価償却費と利益に対応している。

 負債で問題なのは、負債、即ち、長期借入金の元本の返済に相当する部分の支出に対応する勘定科目がないという点である。それでも償却資産には、減価償却費が対応している。ただし、元本の返済計画と一致しているわけではない。

 長期借入金の元本には、費用化できない部分が含まれているため、返済のための原資は、資産か、資本に求めざるをえなくなる。その結果、金融機関が融資をするための重要な基準の一つとして長期借入金を減価償却費と税引き後利益で割った値を一定の期間と比較した値がある。

 資金と負債、費用の関係は、借入金元本の返済計画と減価償却費との非対称性が象徴している。
 つまり、長期借入金の元本の返済計画と減価償却費が資金繰りに重大な影響を及ぼすのである。

 金利は費用である。金利は時間価値を附加する費用である。金利が消滅すると同時に時間価値も附加されなくなる。金利が資本勘定でなく、損益勘定に属するのは、金利が付加価値の中の時間価値を構成する要素だからである。

 売上債権は、収入がないのに、収益に計上される。逆に、買上債務は、支出がないのに費用計上され、更に負債として計上される科目がある。
 売上債権と買上債務の差額は資金の過不足の原因となり、不足分は、運転資金となり、短期資金の重要を形成する。

 運転資金、短期借入金は、買入債務に影響を受ける。
 運転資金、短期借入金は、買入債権に影響する。

 現行の市場経済というのは、借金経済だと言い替えてもいい。つまり、負債を土台にして成り立っている経済なのである。
 現代社会は、借金なくしては成り立たないのである。

 市場経済では、取引が成立すると同量の債権と債務が同時に発生すると仮定することによって成り立っている。
 債務とは、負債と費用の素である。債権は、資産と収益の素である。債務は、単位期間内に清算されれば費用となり、清算されなければ費用となる。債権は、単位期間内に清算されれば収益となり、清算されなければ資産となる。
 つまり、取引は、債権、債務の発生を前提としている。債務は、市場取引の半分を形成しているのである。

 取引によって債権と債務が同時に発生することから債権と債務は一対としてみられる場合が多い。
 つまり、借入金に対しては、同量、或いは、同量以上の資産を担保として設定される。しかし、債務は名目勘定なのに対して債権は実物勘定であるから、市場の相場に対して負債が中立的であるのに対し、資産は、市場の相場の支配下にある。それが、債権と債務の乖離を引き起こす。
 債権価値が債務価値を上回っている含み益となるが、下回ると含み損としてみられ、不良債権として扱われる。不良債権は資金調達の足枷となって資金繰りを圧迫する。
 この表面に表出しない未実現損益が、資金の運用を制約することによって経営を圧迫する事が往々にしてある。それが高じると多くの企業を連鎖的に破綻させ景気の後退を招く場合がある。
 表面に現れる景気の動向だけでなく。為政者は、資産価値の変動による表に現れない資金の動きにも注意しないと経済政策を誤ることになる。

 借金や負債は、あたかも悪者のように扱われている。しかし、借金や負債が悪いのではない、制御できないような借金や負債を作るから悪いのである。それは国家財政も同じである。

 不換紙幣や国債も負債の一つである。
 国債や通貨量についても適正な量を明らかにしないで多いとか少ないと騒いでも解決には結びつかない。

 何が負債を増加させているの原因は、現金主義的な認識では理解しにくい。かといって期間損益からも把握しにくい。負債を増加させる原因を特定するためには、期間損益的分析と現金主義、と言うより、キャッシュフロー分析を双方から分析する必要がある。

 財政で国の借金、即ち、国債がもんだとなっている。国の借金は、現在、負債になっていない。なぜならば、国債は、現金主義に基づいた概念だからである。だから、基本的に歳入と歳出の問題である。
 紙幣は国の借金である。もともと紙幣の前身は、借用証書や預かり証である。故に、紙幣には借金としての性格が隠されているものなのである。
 財政は、資源の再配分の仕組みだと言える。
 貨幣の重要な働きの一つが資源の再分配である。
 そして、貨幣の重要な要素の一つは貨幣は国の借金が元にあるという事である。貨幣を取り除くと,即ち、借金を取り除くと物だけが残る。
 江戸時代以前は、今日のような貨幣制度のあり方ではなかった。貨幣そのものも実物価値を持っていたし、物々交換が一部に存在していたし、大家族制下では、自給自足的な部分も残っていた。
 例えば、江戸時代までは、税は物納であり、貨幣は補助的手段に過ぎなかった。この様な時代においては、資源を物の形で直接的に再分配していた。
 税が金納になったことで貨幣を補助的手段から主たる手段に変質させたと考えられる。
 このことは、財政問題を考える上で重大な示唆を与える。

 又、貨幣経済が極端に進み、総ての価値が一元化されて個人所得に還元されると所得が個人に還元されることによって家族という単位の崩壊が促されている結果を招く恐れがある。

 この問題は、経済が最終的に目指す物は何かを明確にする必要があることを暗示しているのである。


負債は、長期資金を制御する



 貨幣経済では、負債はなくならない仕組みになっている。貨幣経済は、負債がなくなると機能しなくなる仕組みなのである。そして、負債は、貨幣の信認の前提となるからである。負債を否定的に考えている限り、貨幣経済は理解できない。問題なのは、負債の水準であり、負債の存在ではないのである。

 典型的なのが相続税に対する考え方である。今の相続は、負債を相続することで資産を遺すのが基本的な考え方をしないと資産は残せない。それは、債権と債務が一組で認識されるからである。
 結局何等かの資産を引き継ごうとすれば、金利という費用と元本の返済という負担がかかることになる。根本には、資産は、公的な物であり、私有を認めないと言う思想が見え隠れするのである。
 ただ、負債をマイナスとのみ考えていたら、資本主義経済や自由主義経済の本質は理解できない。

 負債残高の水準は、法人税の在り方が関わっている。それは、負債の元本の返済原資は、税引き後利益から捻出される性格の資金だからである。税率が高ければ、返済資金は確保されず負債残高は高水準に維持される。場合によっては、慢性的に上昇する。

 経済は、表側から見るよりも裏側から見た方が判りやすい部分がある。例えば、償却資産や預金は、負の負債としてみることもできるし、借入金は、負の資産としてみることもできる。

 非償却資産は、借入金の返済時には費用に換算されずに、売却すると収益に対して税金がかかる。それでも、地価が上昇している時は、旨味があるが、地価が下落時には、資金調達の障害となる。
 現在の会計は、地価が上昇することを前提としているような部分があり、地価が下落すると景気に対して重大に弊害をもたらす危険性がある。

 多くの人は、負債や費用に対して否定的である。しかし、負債や費用に対して否定的であると経営も経済も成長しない。
 負債や費用は、成長のための原動力である。負債や費用を怖がっていたら企業も経済も成長しない。
 問題なのは、無駄である。無駄な借入や費用は、成長をかえって阻害する。

 表に現れる経済現象の裏には、負の部分の働きがある。負債構造や資本構造、収益構造の上に、資産構造や費用構造が築かれているのである。
 表に現れる現象を裏で操っているのが、負の部分、即ち、負債、資本、収益なのである。負債、資本、収益は、資金の源なのである。負債、資本、収益によって調達された資金によって経済主体は動かされているのである。

 借金が悪いわけではない。返済が滞るから問題なのである。金融危機の際、返済が滞っていないのに、担保価値が割れたと言って長期資金の回収に多くの金融機関が走った。この様な行為は明確に背信行為であり、契約違反である。そして、それが経済の底割れを誘ったのである。
 借金の返済の原資は、収入にある。収益が悪化しているのならば、収益の悪化している原因を問題とすべきなのである。収益も悪化していないのに、担保価値が劣化していると資金の回収に走るのは犯罪行為に近い。
 借金をすることが悪いわけではない。借金は、成長拡大を促す大切な要素の一つである。
 利益、資本、収益は負債の延長線上で捉えるべきであり、負債の働きを理解しなければ、利益、資本、収益と言った今日の経済の根本的理念を明らかにすることはできない。

 負債があるという事は、それに見合う資産があるという事を会計上は意味し、資産があるという事は、それに釣り合う負債か貸本があるという事を意味している。この事が正しく理解されていないのである。
 借金と負債とは違う。この事を正しく理解しておく必要がある。負債を借金と取り違えるとひたすらに返済することばかりを考えてしまう。こういう人は、負債を借金だと思い込んで、負債の額に動転してしまうものである。

 リース料などの中には、実質的には借金と変わりのないものがある。しかし、帳簿に計上されていない借金は、帳簿上は負債ではない。この様なことは取引の概念にも言える。簿記上の取引と通念上において言われる取引とは必ずしも一致していない。
 注意すべき点は、負債の元本の返済は、費用ではないという事も覚えていく必要がある。つまり、負債の元本の返済原資は減価償却費と利益処分の中から捻出されなければならないと言う点である。この事は、負債の元本の返済を基本的には、減価償却費以外においては、想定していないという事を意味する。
 よく、減価償却費は、支出の伴わない費用だなんて錯覚している人がいるが、これはとんでもない間違いで、そんな考えでいると忽ち資金繰りに窮することになる。
 又、今日の日本の法人税は、税金を費用として認めていない。その為に、税金も利益の中から捻出しなければならない。つまり、借入金の返済の原資は、減価償却費と税引き後利益を当てることになる。減価償却費は、借入金の返済金に対する相殺勘定という性格がある。
 問題なのは、償却資産でない資産に対する借入金の返済は、全額、利益処分から捻出しなければならないという事である。税引き後利益で足りなければ、新たに資金を借りなければならなくなる。新たに資金を借りるためには裏付けが必要となる。担保の増量は資産価値の含み益によるしかない。その点を理解しておかないと金融の責務は明らかにできない。
 償却資産でない資産の代表は、不動産、即ち、土地である。土地が値上がりしている時は、土地の未実現利益を担保として資金を調達することができる。しかし、一旦、地価が下がりはじめると企業の資金繰りに負荷がかかることになるのである。その結果、企業の投資意欲が低下させているのである。

 借金というと借金ばかり見てしまって頭を抱え込んでしまう人が多い。しかし、借金して得た金を無駄に消費してしまうのでないかぎり、対極に借金して得た金を使って手にした物や用役があるのである。それが有効に活用されているか否かが問題なのである。
 借金で重要なのは資金計画であり、借金の返済計画に見合った収入見通しなのである。ここが破綻すれば、当然投資は抑制される。投資が抑制されるのは、対極にある借入計画が立たなくなるからである。

 それを測る手段が、期間損益であり、費用対効果なのである。問題は、債務を何によって解消するかなのである。

 債務を解消する原資は、収益に求める以外にない。債務を解決する手段は、収益の向上なのである。現在、生起している問題の多くは、企業が適正な収益をあげられないことに原因している。特に、経済の根底を成す成熟産業が適正な収益をあげられず、構造不況業種になっている。それが問題なのである。
 適正な収益をあげられない原因は、過当競争と営利を罪悪視し、競争を煽る風潮にある。
 経済の基底を構成する産業の多くは、古典的産業である。経済の基底を構成する産業は、多くの雇用を抱え、尚かつ、幅広く社会の底辺に定着した成熟した産業である。これらの成熟した産業を遅れた産業とみなし、ただひたすら生産性の向上のみを追求すれば、市場は荒廃してしまう。
 成熟産業に求められるのは、量から質の転換であり、それは、価格による競争から品質による競争への転換なのである。

 収入を得る手段は、働く、即ち、労働力を提供するか、物を売るか、金を借りるかしかない。ただ、金を借りるとしても担保が必要である。担保できるのは、将来の確実な収入か、相応の価値がある物である。

 借金をするためには、収入の安定を計る必要がある。借金をするという事は、収入が安定していなければできない。要するに返済計画が立てられなければ借金はできないのである。
 サブプライム問題というのは、安定した収入に基づいた返済計画が立てられない者や物に、不確実な未来を担保にして金を貸したことが問題なのである。借金をすることが問題なのではなく、返すあてがないことが問題なのである。そうなると借金をするためには定収の有無が条件となる。
 家計で言えば定収入を得ることである。収入が安定していないと資金計画が立てられない。つまり、収入の平均化は、貸す側にも借りる側にも必須要件なのである。
 それが期間損益を確立するための動機になる。負債という名目的な勘定が確立されることで、収益を平準化し、経済の安定化をはかるのが今日の市場経済の在り方である。
 見方を変えると今日の経済の礎は借金の技術の発展と伴に築かれたと言える。借金を否定的にとらえていたら今日の経済の発展の仕組みを理解することはできない。

 負債は、長期的な資金の量と方向を制御する。

 経済は、結局、現金の流れを見ると解りやすい。経済の動きは、色々な要素が錯綜し、入り交じって複雑に見えるが、現金の流れによって見ると意外と分かり易い。
 なぜならば、実際に経済を動かしているのは、現金の流れだからである。また、実体的に把握できる事象も現金の流れである。
 負債、資産、収益、費用と言っても、現金勘定を除けば、全て現金が流れた痕跡に過ぎない。しかも、表記される数値は、名目的なものである。
 実際に、経済を構成する個々の要素、即ち、企業や家計、財政を、動かしているのも、現金の流れである。故に、現金の流れと働きが理解できれば、経済の絡繰り(からくり)も解明できる。

 貨幣の流れを生み出しているのも、作り出しているのも借入、即ち、負債である。大体、貨幣を実体化した物である現金は、借用書を元として成立した物である。

 実際に経済を動かしている原動力は、資金の流れである。それは、企業経営が典型である。企業経営は、資金繰りがつかなくなったとき破綻するのである。資金が廻っていれば、赤字でも経営は成り立つ。だから、多くの公益法人は、大赤字なのに、成り立ってきたのである。

 経済を動かしているのは、貨幣の流れである。その貨幣の流れに方向性を持たせているのが長期的資金であり、負債の働きなのである。
 貨幣が滞留し、偏ることが問題なのである。貨幣は、流通することによって効力を発揮する。貨幣を不必要に溜め込んでしまう者がいれば、貨幣は滞留してしまう。預金や貯金が悪いと言っているのではない。貨幣の流れに澱みが生じ、循環しなくなることが悪いのである。

 ただ貨幣は貨幣である。実際の経済は、人と物とによって成り立っている事を忘れてはならない。

 経済の規模や働きを決定付けるのは、人の数と物の数である。特に、食料と資源の量である。貨幣は、物を人に分配するための手段である。しかし、貨幣経済においては、貨幣は決定的な働きをしている。故に、貨幣は重要なのである。しかし、貨幣が全てではない。

 食料の生産可能量,或いは、調達可能量が経済の上限、即ち、人口の上限を制約する。人間は、生き残るために、食料を生産し、保存する技術を発展させてきた。それは、調達できる食料の量によって養える人口が決まるからである。それが経済の根本である。

 物を人々に万遍なく分配するために、貨幣は、必要とされる。貨幣は、分配のための手段である。
 つまり、経済政策というのは、人の欲求に基づいて物を適正、適時に分配できる環境を整えることである。

 石油を例にとれば、石油の生産や流通に障害が発生した場合、石油価格の高騰に備えて備蓄を放出すると同時に、価格の変動によって被害が生じる事が予測される産業や消費者に対して資金的、或いは会計的支援策を講じることが大切なのである。その場合、時機(タイミング)よく即時的な対応する必要がある。

 いくら石油を備蓄しても経済の変動やエネルギー危機を防げなければ何の意味もない。その為には適時、適正な処置を講じることが求められるのである。

なぜ、景気は良くならないのか


 景気がなぜ悪いのかといえば、企業収益が悪いからであり、企業収益が上がらないのは、経済の仕組みが企業収益が上がらないようにしている事に原因しているところが多分にある。むろん、経営者の資質に追うところが大きいとはいえ、一つの産業における大部分の企業が赤字だとなると、それは産業の構造的問題だといえる。

 今日の税制度は、企業は内部留保を積むことに対し、否定的である。とにかく、企業が儲かったら、全てを吐き出すような仕組みになっている。
 企業が利益を蓄積することで何か悪い事があるのか、困ったことが生じるのか。企業というのは本来公器なのである。公器である企業が投資する資産は、私的な財産、資産とはわけが違う。基本的に生産手段に使われるのである。
 企業利益が私利私欲のために蓄積されるのであれば別である。しかし、それは企業の在り方の問題であり、企業本来の働きとは別の問題である。

 規制緩和の意味が私には理解できない。
 規制緩和というのは、全ての規制を撤廃しろというのか、それとも、規制の数を減らせというのか、あるいは、規制を時代や環境の変化に合わせて変更しろというのか、判然としていない。極端な規制緩和論者のいう事は、規制は邪悪のものであり何が何でもなくしてしまえと言っているようにも聞こえる。しかし、それは、無政府主義であって真の規制緩和とは違う。また、何の意味もなく、規制が多すぎるという理由だけで、規制の数を減らせというのは理不尽である。
 同様に、保護主義の意味も不明である。保護主義と言うが、何から何を保護するのかが、判然としていない。
 これまでの保護主義は、関税障壁によって自国の産業をただ守ろうとしているのに過ぎない。結果的に、市場や生活を破綻させてしまった。結局国民の生活を保護している事に結びつかないのである。
 本来の保護は、制度的な歪みから市場を保護することである。

 何でもかんでも競わせればいいと言うものではない。何を、なぜ競わせるかが問題なのである。企業収益に対する施策は、何でもかんでも大企業優先だとするのは、間違った認識である。その様な主張をする者の多くは、反体制、革命主義者である。彼等の多くは企業を目の仇にし、収益をあげることを搾取だと勘違いをしている。
 企業は、分配のための機関であることを忘れてはならない。企業が市場で競うことは、値段だけではない。デザインや性能、品質、味覚や内容と多岐にわたる。むろん最終的には、価格に還元される。価格に還元されるからこそ、無意味な乱売合戦は、避けるべきなのである。大切なのは、企業が収益をあげなければならない事情である。

 乱売合戦は、市場を荒廃させ、収益を悪化させる。会計が、正常な働きをしなくなれば、会計を操作して見せ掛け上の利益をあげることができる。それは、大企業であればあるほど有利である。大切なのは、適正な費用を確保できることなのである。競争は原理ではなく。手段である。
 会計が規律を失えば、適正な収益があげられなくなる。適正な収益があげられなくなれば、健全な企業から淘汰されていく。企業の健全さを維持しているのは費用だからである。

 競争というのは、同じ前提条件の上に成り立つのであり、前提条件が違う者同志の間では成り立たない。前提条件が違う者同志の間であらそう事は、闘争である。スポーツは、前提条件を均一にすることによって成り立っている。
 近代兵器で武装したと丸腰の人間では競争は成り立たない。それは虐殺である。
 会計は、現象を統一的な条件で記録することはできても前提条件を均一にする力はない。前提条件を均一にするのは、法制度である。
 景気の低迷や金融危機は、この競争の前提条件の差が原因していると考えられる。
 重要なのは、費用と負債の働きであり、前提条件の違いによって個々の国の市場における費用と負債の負荷の在り方に差が生じ、それが、収益構造を歪めて、産業や市場の構造を歪めてしまっている。現行の市場の在り方では、新興国に対し、市場が成熟した国にとって費用と負債が負荷ばかり大きくなり、本来の効用を発揮できないでいるのである。

 借金を担保する為の資産や財産があるから安全であるというのは、大きな錯覚である。流動性や支払い能力がなくなれば、いくら財産があったとしても潰れる(デフォルト)のである。
 支払い能力というのは、資金の調達能力を言う。
 資産や財産があったとしても資金の調達能力に結びつかなければ、資産や財産も急場の役には立たない。結局重要なのは流動性である。流動性と支払い能力の構造は、長期資金、短期資金の働きに応じた交換によって成り立っている。支払い能力は、資金の長期的働きに依拠し、流動性は、資金の短期的働きに依拠する。

 実際に使えるお金がどれくらい確保されるのかが、重要なのである。それは可処分所得をいかに増やすかである。

 ローンのような借入金が増えることは、回り回って可処分所得を減らすことになる。
 地代家賃と借入金の返済額は、その働きの本質が違う。地代家賃として支払われた資金は、費用として市場に流れるが、借入金の返済額は、金融機関に回収されて市場には、直接、流れてこない。

 収入が減ると借入金のような固定費が家計に対して重くのしかかることになる。
 収入が途絶えればそれまでの蓄えを取り崩して糊口をしのぐしかなくなる。

 結局、借金が増えるという事は、血管が細くなって血の流れが悪くなり、最悪の場合、動脈硬化を起こしかねないという状況に似ている。借金が蓄積すると市場に流れる通貨の量が細くなるのである。

 借入金の返済圧力が貨幣の流通を妨げているのである。

 ローンは、支払いの先送りに過ぎないことを忘れてはならない。支払い能力を考えないで、月々の支払いが少ないからといってローンを使えば、そのツケが家計を圧迫するようになる。又、市場に流れる通貨の量も抑制されるのである。
 借金をするととりあえず現金を手にすることができる。現金を目の前にすると人は、その裏側に借金があることも忘れてしまいがちである。

 経済政策によって特定の部分にお金が流れたとしても効果は限られたものになる。重要なのは、お金を必要としているところに、必要なだけ供給できるかである。お金が余っているところに余分に供給しても、かえって、格差を広げ、お金が不足している人達を苦しめるだけである。
 また、実物経済とかけ離れたところに、大量にお金を流しても景気をよくする訳ではない。

 月々の借金返済の支払いをしても日々の生活に支障を来さないだけの収入が確保されているか否か重要となるのである。
 借金、財産、そして、収入と支出の均衡が鍵を握っているのである。

 経済の目的を利益追求と規定するのは危険なことであり、適正な費用と負債を維持すること、その為に、適正の収益を確保する事を忘れてはならない。
 競争力というのは、収益力が土台にあることである。そして、収益力は、適正な費用と負債を維持する上でこそ意味があるのである。




貨幣経済の原動力はお金である。


 表に現れた経済現象の裏には、負の構造、即ち、負債構造、資本構造、収益構造が隠されている。表に現れた現象を裏で操っているのが負の部分、即ち、負債や資本、収益なのである。
 負債を担っているのが金融であり、資本を担うのが家計、収益が産業である。

 国債にせよ、借入金にせよ、何かというと、負債は、悪者にされるが、借金が悪いわけではない。形が悪いのである。
 例えば企業経営で言えば、負債と収益の均衡がとれていなかったり、負債と資本との比率や負債に対する資産の効率が悪かったりするのである。又、国債で言えば、税収との均衡や投資と収益の関係が悪かったりするのである。

 貨幣を生み出すのは、負の部分である。それを表しているのは紙幣である。紙幣の始まりは、金の預かり証、或いは、国債、国の借用証書である。

 経済を動かしているのは、資金の流れ、現金収支である。しかし、だからといって期間損益は、無意味だと言っているわけではない。
 期間損益は、長期資金と短期資金を区分することによって、長期的資金の働きと短期的資金の費用対効果の関係を測定することを可能とし、それを以て資金の流れをつくりだしているからである。
 経済を決定付けているのは、資金の流れであり、資金の流れる方向は、負債と収益の在り方によって決まる。負債と収益を裏返すと投資と費用の問題だとも言える。また、翻って言えば、、会計や税制の在り方が資金の流れを決定付けているとも言えるのである。
 資金の流れを会計制度や税制によって制御しているのである。

 最近、何かというとキャッシュフロー、キャッシュフローで、期間損益は役に立たないかのような風潮がある。たしかに、キャッシュフローは重要な情報である。しかし、期間損益の意義が薄れたわけではない。

 負債も費用も嫌われ者であり、儲けがなくなるとすぐに負債と費用を削れと言う話になる。しかし、負債も費用も経済の根幹をなす要素であり、経済には不可欠なことなのである。
 だから、負債も費用もただ、削減すればいいと言うわけにはいかないのである。
 大体、負債や費用を削減するというのは、市場規模を縮小させる働きを強めることになる。安ければいいと、価格を抑え込むことは、成長を抑え込むことなのである。

 負債は、長期的資金の流れを制御する。収益が悪いからと言って、長期的資金を引き揚げれば、産業は土台から崩壊してしまう。
 収益が悪い時は、収益が悪化した原因こそ正すべきなのである。収益を悪化させている原因が経営者の資質に関わる問題なのか、原油の高騰や為替の変動、一時的な問題なのか、人件費の高騰と言った、長期的、構造的問題なのかを見極めるべきなのである。

 長期的資金の流れと短期的資金の流れを区分することによって費用対効果を明らかにすることが期間損益の役割である。
 期間損益の意味を正しく知らないと会計は、かえって障害となるのである。

 重要なのは、現金がどの方向に、どれだけ流れているかである。現金の流れる方向には、市場側と、回収側とがある。また、市場に流れるにしても設備投資のような長期的な資金として流れと人件費や経費と言った消費、短期的資金の側に流れがある。

 景気の動向を占うためには、付加価値、中でも、償却費、及び、金利が占める割合と人件費が占める割合の構成比率が鍵を握る。償却費、及び、金利は、回収側に流れる名目的費用を表し、人件費は、所得、即ち、消費側に流れる名目的費用だからである。
 また、付加価値の構成比率は、相対的な割合であり、国家間や地域間、また、通貨圏間、産業間を比較しないと真の意味が理解できない。付加価値は、為替の変動、物価や所得水準の変化、原材料価格の動向、ライフスタイルの変化によって変わる。その変動に対応できなければ、経済状態は不安定になり、産業は衰退するのである。
 経済の基本を変化に求めるべきではない。変化は、不確実性、不安定性を原動力とするからである。それに対し、生活の根本は確実性であり、安定性である。人々の生活を安定するためには、所得を定収入化することである。
 人々の収入が安定し、先に対する見通しが立っている上で社会は変化を受け容れられるのである。
 変化ばかりを追い求めることは、世の中を動乱状態に、混乱状態に陥らせてしまう。競争というのは、ルールがあって成り立つ、ルールのない競争は、闘争である。ルールとは、法であり、規制である。
 付加価値の構成比率の背景にある事情を明らかにした上で、極力、公正な競争が実現できるように市場を設計する必要がある。単に保護主義的観点からだけで規制を掛けると自国の産業をかえって脆弱にする危険性がある。要は、何のために競わせるのか、その目的を明確にすることなのである。
 また、付加価値と収益の比率、原価に占める付加価値と分配をどうするのかが、問題となる。

 財政問題でも、長期、短期の資金の流れを構造的に予測しておかなければ、財政の均衡は保てなくなる。
 財政問題を深刻にしている原因は、事業毎に長期的な資金計画を立てていないか、資金計画があったとしても最初から利益を想定から外している事である。

 市場経済を動かしているのは、お金、即ち、貨幣である。お金の源泉は、負の部分にある。収益も、資本も、利益も、根本的には負債と同じ側に属する勘定なのである。

 今日の経済を発展させたのは、借金の技術の進歩だと言うっても過言ではない。安心して借金が出きる社会の仕組みができたからこそ、今日の市場経済は確立されたのである。
 それでありながら常に、借金は嫌われ者である。
 金に困った時、金を貸してくれる人は仏に見えるが金を返す時は、鬼のようだと言われている。貸す側も、借りる側も、それでは経済の健全な発展は望めないのである。
 借金は健全な行為である。ただ、歯止めを失った時、人は、借金によって身を滅ぼすのである。

 負債というのは、経済や経営の土台にある要素である。縁の下の力持ちである。負債を正しく理解し、能動的に活用することを考えないかぎり財政を破綻から救うことはできない。重要なのは、借金の技術なのである。

 負債を担っているのは金融機関である。金融機関は、金融の果たす役割を理解しておく必要がある。
 銀行は、晴れた時には傘を貸してくれるが、雨が降ってきたら傘を取り上げると言われる。しかし、実際に金融機関の姿勢がそうだったら、信用制度を基盤とした経済は、土台から崩壊してしまう。
 金融機関に求められるのは、雨が降ってくるのを予測して予め準備をしておくことなのである。

 国債は借金なのだろうか。借金ならば借りた金は返さなければならないという事になる。しかし、国債は、公的債務であり、貨幣制度の裏付けでもあることを忘れてはならない。財政が破綻する原因の一つは、無理矢理、借金をこしらえて、挙げ句に、無理矢理、借金を返そうとする事である。返す必要ない、或いは返してはならない債務もあるのである。

 国家は、儲けては駄目という不文律のような意識がある。それが間違いなのである。儲けては駄目、借り手も駄目というならば、残された手段は強奪しかない。税というのは、一種の強奪である。勝者が大多数の敗者から貢ぎ物を奪い取ったそれが税の始まりである。
 国民国家の成立によって、税は、国家が、国民のために働くための費用という考え方が生じた。しかし、それでも国民の間には、権力を背景にして自分達の成果を強奪されているという意識がどこかで働いている。その上、借りるのも駄目となれば、国家は儲けを考えるしかなくなる。
 国家も儲けるべきなのである。 ただ、民間というのは、儲からなければやらない。国はそう言うわけにはいかない。儲からなくても国民の安全や生活に不可欠なことはやらなければならない。また、国民の間の不公平を是正する必要もある。そこは税によって賄うしかない。ただ、儲けられるところは遠慮なく儲けるべきなのである。
 公共事業の有料化、受益者負担など、儲けられるところは儲けるべきなのである。その上で、単年度均衡主義を放棄し、期間損益主義を導入すべきなのである。
 儲けなければ、借金の返済の原資は得られないのである。

資産の反対勘定


 複式簿記上において、資産は反対勘定において相殺され価値は均衡、即ち、零である。企業は、非常に繊細な均衡の上に成り立っている。利益と言っても総資産や収益、費用から見れば微々たるものなのである。ちょっとした景気の変動によって吹っ飛んでしまう。

 適正な付加価値を維持するために、会計基準は設定されるべき尺度なのである。その目安が利益である。利益は、分配を設定するための指標である。

 経済が乱れれば、風紀も乱れ、道徳も失われる。変化は、経済活動を活性化するが、同時に、景気の変動を招く。人々は、生活に安定を求める。経済が、変化ばかりを追い求めれば、人々は刹那的になり、厭世的になる。結局、経済は安定と変化が程良く混在した状態がいいのである。競争は、原理でも、全てでもない。

 地道に努力する正直者が報れる事のない社会は、やはり、どこかおかしい。土台から狂っているのである。

 経済に、勝者も敗者もない。あるのは、人々の生活だけである。
 競い合うことが悪い事だと私は思わない。働きや能力に優劣を付ける事を否定もしない。ただ、経済の本質が生活にあることを忘れてはならない。人々の生活が成り立たなくなるような偏りや独占、差別は、許してはならない。

 経済主体の行動は、将来の支出に備えて貯蓄するか、今、消費するか、将来の収入をあてにして借金をするかの三つの形として現れる。いずれも、正と負の作用を併せ持っている。

 貨幣は、属性を持たない、無次元の量である。

 貨幣は、貨幣単体で価値を形成する物ではない。貨幣価値は、取引によって生じる。取引とは、財と貨幣、貨幣と財、財と財、貨幣と貨幣を交換する行為である。
 この様な、財と貨幣、貨幣と財、財と財、貨幣と貨幣から生じる権利や責務、即ち、債権と債務が貨幣価値を構成するである。
 故に、貨幣の流量が問題なのではなく。貨幣が生み出す貨幣価値の総量が問題なのである。貨幣価値を生み出すのは取引である。つまり、取引は媒介する物として貨幣には、重大な役割があるのである。

 貨幣は、財と結びつくことによって量を持つ。貨幣は、財と一体となっる事によって貨幣価値を持つ。

 この様な貨幣の運動は、債権と債務を生み出す。

 この関係は、長期資金の仕組み、構造を見るとよく解る。

 貨幣は、経済的資源となったとき資金となる。資金には、働きによって長期資金と短期資金の別がある。

 負債は、期限によって性格に違いがある。超長期が資本である。

 現在の会計の仕組みは、成熟した市場を根拠地とする企業にとって資金的に甚だ不利であるという事を認識しておく必要がある。なぜならば、長期資金の扱いに問題があるからである。
 長期資金というのは、企業では長期借入金であり、銀行では預金に相当する。
 預金の取り付け騒ぎや貸し渋りというのはこの長期資金に対する働きなのである。

 長期資金というのは、家計で言えば、住宅ローンに相当する。この様な資金の危険性は、短期の負担が目に見えないという事にある。それでも、住宅ローンのような場合は、収支によって把握できる。
 しかし、長期資金は、期間損益主義では表に現れない仕組みになっている。つまり、目に見えない負担が恒常的に累積すると言う事である。又、長期資金の元本の返済は、会計上、償却資産を除いてどこにも計上されない。どこにも計上されないためその原資は確保されない。
 長期資金は、借り換えを前提としなければ成り立たないのである。

 決算書類上に計上されている長期資金というのは、支払後、即ち、支出後の痕跡に過ぎない。つまり、借入があった、返済義務があるという事を表記したものである。

 長期資金の負担は、物価、特に、不動産市場が上昇している市場では物価の上昇によって解消されるが、成熟した市場では、消化できなくなる。その為に成熟した市場では、徐々に収益を圧迫するようになる。また、平常時においては、問題とならないが、収益が悪化すると命取りになる。

 収益が悪化したら、資金を回収するというのは、失業したら住宅ローンの返済を迫られるというのと同じ事象である。ただ違うのは、企業収益は期間損益に基づく概念であり、住宅ローンとの返済は現金主義に基づく概念だという点である。しかし、どちらも泣き面に蜂、弱り目に祟り目という事には変わりはない。
 返済というのは固定的、かつ、一定金額を定期的に支払う契約によって成り立っている。それに対して、収入というのは必ずしも一定していない。更に、現代の会計では、長期借入金の返済が費用として表面化しない仕組みになっている。しかも、収入に余裕があっても返済を早めると言う事ができない。期間損益の場合、返済を早めても損益上は、計上されずに、かえって資金繰りを窮屈にしてしまうという事になりかねない。

 不況期において企業が倒産するのは、収益が悪化した時、不良債権を問題として、長期資金を一斉に引き揚げようとすることが原因なのである。不良債権というのは、本来は長期資金の問題である。不況期で問題とすべきなのは、収益構造なのである。

 貨幣は、経済的価値を数字に置換するための手段、道具である。貨幣は、基本的に物を使用する。故に、貨幣は、物としての制約を受ける。表象貨幣は、急速に、情報化、即ち、記号化、電気信号化している。即ち、無形化している。その為に、物としての制約から開放されつつある。しかし、それでも本質的な部分でまだ物としての制約を受けている。

 表象貨幣を構成する要素は、量と数、数字、貨幣である。数量は、数と量によって構成されている。量とは、長さとか、体積、面積、質量、温度、時間と言った何等かの実体を持つ全体からなる。量は比である。数というのは、他と明確に区別できる部分の集合である。数字は、数を表象した記号である。数量は、数字化されることによって演算が可能となる。
 表象貨幣を構成する要素は、各々、固有の制約がある。即ち、量には、量の制約があり、数には、数の制約があり、数字には数字の制約があり、貨幣には貨幣の制約がある。
 量には、一つは、長さや面積、質量、時間といった物理的な制約がある。もう一つの制約は、量は、同じ種類の単位を共有する対象間でしか、演算ができないという事である。例えば、労働量と生産物を足したり引いたりはできないという事である。
 数の制約とは抽象化による制約である。対象を抽象化するために、対象の持つ属性が削がれてしまう。
 数字化による制約は、記号による制約である。記号化されることで、数字によって数が具現化され、固有の属性を持つ事が可能となる事である。
 数字は、際限がない、物理的制約を受けないという事である。理論的に言えば天文学的な価格をつけることも可能である。
 貨幣は、経済的価値を数字に置き換えた物である。数値的価値を物に置き換えることによって交換が可能となった。
 反面、物に置き換えた事で貨幣は、物としての制約を受ける。即ち、貨幣は、物であることによって貨幣が表象する価値は、自然数と言う制約を受けることになる。そして、貨幣を基礎とした会計は、結果的に残高計算が基本とならざるをえなくなる。それが複式簿記会計の成立要件となるのである。


財政破綻と負債



 制度的な断裂が、現金主義と期間損益主義の分離を招いている。それが、現代の市場経済を狂わせているのである。
 現金主義と損益主義は、相互に独立して存在するものではなく、相互補完的なものである。ところが、現金主義である財政や家計と期間損益主義である企業会計とが制度的に断裂していることによって現金主義と損益主義が分裂し、あるいは対立関係に陥っている。それが、経済に重大な齟齬をきたす原因となっているのである。

 良い例が、利益を否定する考え方である。公的機関は、単年度単年度で収支を均衡することを建前とし、前決めした予算を使い切らなければならないことになる。つまり、利益を卑しい事として否定しているのである。そのために、民間企業と公共機関は、全く違う論理、倫理観で行動する事になってしまう。
 早い話、公共機関も税収ばかりに頼るのでは、儲けを考えるべきなのである。反対給付を前提としない労働は、労働の成果と所得が結びつかない。それは、消費によって生産を制御するという仕組みを構築する事ができなくなる。そうなると、生産は、生産。消費は消費として脈絡がないままに、バラバラに動く事になる。

 期間損益主義にも欠点はある。現金主義もしかりである。企業会計は、期間損益主義の欠点に気がついてキャッシュフローによって現金主義的考え方を組み込む事にした。しかし、財政では、現金主義と期間損益主義の間にある断絶を解消しようとはしていない。

 結果的に、公共事業が経済的に破綻したとしても誰も責任は問われない。責任が問われるどころか、責任者の多くは、同量から同情され、多額の退職金や慰労金まで出される場合すらある。民間企業の経営者は、全財産を取り上げられ、時には、法的に処罰されるというのにである。そこには、制度的な断裂だけにとどまらず、価値観の断裂にまで及んでいる事が現れている。それがお上意識である。

 制度的断裂を明確に現れているのは決算主義と予算主義である。決算主義は、結果主義であり、実績主義である。予算主義は、前決め主義であり、法定主義である。
 そして、現金収支に基づく単年度均衡主義と利益に基づく長期均衡主義の違いである。

 財政問題は、制度の整合性をとって期間損益主義の観点から見直さないと分析はできない。

 気をつけなければならないのは、経済規模や財政規模、市場規模を絶対額で捉えてはならないという事である。この事は、企業経営で言えば借入限度額などを想定する場合にも当て嵌まる。どの程度まで借入が許されるか、その限度は、個々の企業が置かれている状況によって違う。市場が拡大している時には、積極的に投資をすべきであろうし、逆に、市場が成熟し、先に市場の拡大成長が見込めない時は、過剰設備の償却と言った債務の縮小をはからなければならない。また、装置産業か、労働集約型産業と言った業態によっても違ってくる。
 同様に、国債などの限度額を想定する際も他の国が設定した値をそのまま適用することは難がある。
 経済も財政も拡大縮小と言った変動しているのである。経済や財政、市場は、内包数であり、相対的な値である。しかも、前提や社会の仕組み、経済構造などの前提によっても違い、国債残高は、経済規模に比して何%が妥当と言った形で一様に決められる基準ではない。
 財政が破綻する原因の一つは、長期資金の増減が直接財政収支に影響を与えるからである。民営化が効果的に見えるのは、長期資金が直接、財政に影響を与えなくなるからである。

 会計上の価値とは、つまり、負債や資産は、名目的な価値であることを忘れてはならない。即ち、会計上の均衡とは、名目的均衡である。しかし、経済の実相は、実質価値に重きを置いている。その為に、名目的価値と実質的価値との乖離が、常に、問題となるのである。

 名目的価値は、デジタル、不連続な事象であり、実質的価値は、アナログ、連続な事象である。

 資本に、負債によってレパレッジを利かせた場合、資金が流通せず。むしろ、決算をする時、実質的価値との乖離が障害を引き起こす場合すらある。負債にレバレッジ効果を利かせる取引は、名目的、仮想的な取引であり、実際に現金の移動を伴う取引ではないからである。

 国家財政も又然りである。国家財政に占める付加価値をどう位置付け、処理するかが重要なのである。
 財政収入は、税収、借入金 、事業収入、事業収入には、投資収入も含まれる。今現在は、事業収益の比率が低い。それは、国家事業に損益の基準を持ち込むことに少なからず抵抗があるからだと思われる。しかし、効率がよい事業は、期間損益の測定を可能とすべきである。例えば、初期投資が巨額にのぼる事業は、初期投資の部分を税金によって賄い、後は、期間損益によって費用対効果を測定すればいいのである。

 公共事業は、独占事業、反対給付のない事業、初期投資が巨額で償却が大きい事業が含まれている。
 費用対効果が測定しにくいかできない事業なのである。その為に、公務員の所得が相対的に決まらない。期間損益の測定が難しいからである。
 公共事業でも費用対効果が測定可能な事業は、単に民営化すべきだというのではないが、それでも、期間損益に委せるべきだと私は考える。なぜならば、期間損益に置き換えないと費用対効果の測定が困難であり、費用を制御することが技術的に難しいからである。
 いずれにしても安易に収入を借入金に頼るべきではない。

 財政は、もっと事業所得を重視し、その基盤を事業所得に置くべきなのである。なぜならば、事業所得は、期間損益を基本とし、費用対効果の測定を可能としているからである。事業というのは、本来合目的的な事象である。目的から費用の効果が計れない、又、所得に反映されない事業は、事業目的によって事業を制御する事ができない。費用対効果を測定することによって事業の必要性は計られるべきなのである。

 軍事、外交、防災といった数値化できない事業を除いて、可能な限り、事業を期間損益化するべきなのである。

 税というのは、現金の流れに沿って課せられるものを主とすべきである。それは、税の役割は、所得の偏りを補正し、貨幣の流れを円滑にするため、また、貨幣を社会全体に循環するために行われる事象だからである。
 例えば、ある地域の所得を特定の家族や個人が独占した場合、その地域の市場に出回る貨幣を量を不当に抑制してしまうからである。使い切れないほどの貨幣を所有することは、貨幣経済においては、弊害でしかない。貨幣の流通の偏りや歪みを是正するために税制は機能させるべき仕組みなのである。
 貨幣は、使うことによって効用を発揮する物であり、貨幣は、使うためにある物なのである。

 なぜ、財政も、企業会計も、家計も負債を切り離して考えなければならないのか。それは、長期的資金と短期的資金を区分して認識する必要があるからである。
 長期的資金は、ストックの問題と言い換えることができる。また、短期的資金は、フローの問題と言い換えることもできる。経済の問題を考える場合、ストックの問題なのか、フローの問題なのかを見極める必要がある。その上でストックとフローの均衡のとれた対策が必要なのである。

 フローの問題を安易にストックで解消しようとすることに現代の政策の間違いがある。フローの問題は、フロー上で解決しないかぎり、抜本的な解決にはならないのである。ストックは、ストックの働きと意味を知らずに融資したり、返済を迫れば産業は成り立たなくなる。

 金利は、フローの問題であり、借入金の返済は、ストックの問題である。金利が払われないからと言って安直に借入金の返済を求めれば、経営の基盤が崩壊する。今は、金利が支払われていても担保価値が下がっているという理由で返済を迫る。その為に不良債権が増殖するのである。

 所得が借金の返済ばかり向けられたら景気は回復しない。
 全ての国が緊縮財政をすれば景気が後退するのは必然的結果である。

 財政の健全化を計る時、肝心なのは、債務を解消するための原資は、国家収入に求めなければならないと言う原則である。
 負債、即ち、債務の解消の原資は、収益に求めるべきなのである。経済成長、緊縮財政、増税、インフレーション、いずれも、国家収益の向上を目的とした施策である。そこで問題なのは、どの様な施策が国家経済の仕組みにとって有効かを見極めることである。

 この様なことを続けていくと、ストック、即ち、負債が積み上がり、国も、企業も、個人も借金に押し潰されてしまう。

不良債権


 負債、即ち、借入は、両刃の剣であることを忘れてはならない。
 不良債権、不良債権と言うが不良債権の問題は、不良債務の問題でもある事を見落としてはならない。不良債権だからと言って安易に債権を処理すると不良債務だけが残ることになる。当然、降りよう債権の問題は、不良債務の処理と合わせて検討されなければならない問題なのである。

 現在の景気の低迷は、バブル時の相続税対策が不良債権の一因なのである。

 土地のような固定資産は、資産計上されれば借入金の担保となり、課税対象となる。

 要するに、資本主義も、社会主義同様、生産手段の私的所有を原則認めていない。株式会社というのは、資本主義を象徴している。その株式会社というのは、生産的手段の私的所有権を前提としていない。前提としていないから不必要に生産手段を所有すると負荷がかかる仕組みになっているのである。又、相続権も認知されていない。

 現金主義では、借入をしただけでは、帳簿上、負の値として記載されるわけではない。負の値として表面化するのは、資金が外部に流出した時だけである。それに対して、期間損益主義に則る会計は、借入を行った時に帳簿上債務、即ち、負の値として記載され、債権と帳簿上均衡させることが求められる。つまり、帳簿上、借金がなければ、マイナスにはならないのである。
 例えば、借金をしていなければ、土地の借り手がなければ、地代が入らないだけであるが、借金をして貸家を建てれば入居者がなければ借金の返済に追われる事になる。又、土地も資産として計上しなければならなくなる。その時から、土地の所有権の価値は、借金の担保と等価になり、個人の手から放れるのである。
 それなのに、国も、企業も、家計も、皆、借金をしている。それは、会計制度が確立されて以降、負の部分が経済に加わったからである。そして、負の部分こそが近代経済では重要な機能を果たしている。
 例えば、財産と資産とは違う。資産の対極には、負債や資本があるのに対し、財産の対極には借金はない。
 自由経済だろうと、社会主義であろうと、基本的に、所有物というのは借り物に過ぎない。所有権は、賃借権である。その表れが、相続税である。

 現代は、ゼロ金利時代である。ところが、不思議なことに、金利がなくなったら利益が消えた。それは、金利と期間利益との間に密接な関係があることを示唆している。
 時間的価値をどう考えるか。利益や金利を否定する事は、時間価値を否定する事なのである。
 金利や利益は、時間によって附加された価値である。又、金利や利益は、時間の付加価値の素である。

 負の貨幣価値というのは、いわば、虚数である。虚の数と言っても働きがないわけではない。負の貨幣価値があって貨幣は正の働きをすることができるのである。大事なのは、負債にどの様な働きがあるのかを知る事なのである。

 借金がいいとか、悪いとか言う短絡的な議論が横行している。特に、財政赤字を問題にする際において会計上の赤字と財政上の赤字を混同して議論している場合がある。
 負債を考える時に、表象貨幣は、正と負の価値を生み出しているこの点を忘れてはならない。表象貨幣の流通は、同量の正と負の価値を生み出しているのである。
 ここの取引が均衡し、尚かつ、貸し借りの総和が均衡するためには、正の部分と負の部分が同量存在しなければならないことを意味しているのである。
 それは、誰かが得をして、その分誰かが、損をしていることを意味しているのではない。正は得で、負は損という発想を切り替える必要がある。そうではなくて、正の働きをしている部分と負の働きをしている部分の働きの総和が均衡していることを意味するのである。
 経常収支が負ならば、資本収支は正となると言うようにである。また、財政と家計が負であれば、それに相当する企業収益が正となる。故に、ただ個別の値が正であるか、負であるかを問題にしても意味がない。問題は、正の値を示す部分と負の値を示す部分の働きの相関関係が重要なのである。

 会計上、貨幣価値が均衡しているという事は、貨幣価値に正と負の価値が均等に存在すると言う事を意味している。そして、負の価値を補う形で財が存在するのである。

 国債をどの様に考えるべきなのか。国債というのは、有害なものでしかないのであろうか。国債は、ひたすらになくしてしまえばいいのであろうか。

 現代社会を支えている反面は、負債である。つまり、借金によって現代の経済は成り立っていることを忘れるべきではない。もう一つ言えるのは、負債や国債をただ、借金だと受け止めて良いのかということである。
 負債や国債を悪者扱いにすることは、負債や国債の積極的な働きに目を瞑ることになる。企業においても負債は不可欠な要素である。又、負債があるから金融業は成り立っているのである。つまり、必然的に、負債がなくなることは、金融業が成り立たなくなることも意味しているのである。

 神の力は、人間の思惑など遙かに超えている。
 大規模な災害に遭うたびに、災害の影に人間の傲慢さが隠されている事を思い知らされる。
 神を否定する者は、自らを神と崇めるようになる。人間は、傲慢になっていた。人間の傲慢さは哀しい。
 人間は、神に対して謙虚にならなければならない。
 ただ、金儲けを目的とするのではなく。何が人間を幸せにするために必要なのかを明らかにして、その上で経済の仕組みを構築する必要がある。
 その為には、人間は、自らの限界を直視しなければならない。

  自分に与えられた運命や能力の限界に挑むことは善しとする。しかし、神に勝とうとするのは驕慢である。財政危機や金融危機の背景にあるのは、権力者や金融機関の人間の驕慢さである。
 神は人間を試したりはしない。その必要がないからである。神に挑むのは、人間である。それは、人間の力が有限であるからである。
 神に挑むのは人間の本性。しかし、神に勝とうとするのは人間の愚かさの証である。
 人間の経済は神の恵みの上に成り立っているのである。


       

このホームページはリンク・フリーです
ページの著作権は全て制作者の小谷野敬一郎に属しますので、一切の無断転載を禁じます。
The Copyright of these webpages including all the tables, figures and pictures belongs the author, Keiichirou Koyano.Don't reproduce any copyright withiout permission of the author.Thanks.

Copyright(C) 2009.12.20 Keiichirou Koyano