5.会計と数学

5-10 利益とは

利益とは、何か


 少し前までは、地道に稼いで手堅い人生を送るか、一攫千金を夢みて一か八かの人生を送るかの選択肢がまだ残されていたが、今では、真面目に一生懸命生きることさえ、かなわなくなったのである。残されているのは、一か八かの勝負にでる以外に生きていく術はない。
 実業の世界から資金は閉め出され、汗水垂らして働いても儲けは見込めず、金融、相場にしか活路が見出せない。挙げ句にその結果がバブルである。案の定バブルは破裂して、皆の懐はからぽっになった。悪銭身に付かずである。

 誰にも、金儲けが下手だという理由だけで、腕のいい職人や勤勉な農民を無能だと嘲る資格はない。
 金儲けが悪いわけではない。しかし、金儲けは手段に過ぎない。金儲けを人生の目的とし、金の亡者となるから悪いのである。
 金の亡者とならないためには、なぜ、金を儲ける必要があるのかを知る必要がある。金を儲けるためには利益が必要である。だとしたら、利益の根底にある目的を理解する必要がある。

 金儲け、即ち、利益が全てだとして金儲けのためなら親をも犠牲にするというのはおかしい。だからといって、金儲け、即ち、利益を頭から否定するのもおかしい。金を儲けるのには、金を儲けるための動機があるのである。金を儲ける必要性を正しく理解する事が自分を律し、正しい生き方をする為に不可欠な方策なのである。

 利益とは、仏教では、仏の教えによって得られる福徳である。利益の本質は、この意味に隠されている。
 利益というとお金に纏(まつわる)わる損得の如く我々は捉えがちであるが、本来は、仏の教えによる福徳なのである。利益を損得、欲得だけで捉えていたら利益の持つ本当の意味は理解できない。

 資本主義とって利益の持つ意味が一番大切だというのに、利益の持つ意義が蔑(ないがし)ろにされている。それが資本主義を堕落させている最大の理由である。

 資本主義においては、利益をあげることが一番大切なのである。ただ、儲けと利益とは違う。儲けというのは、収入から支出を引いたものである。

 利益というのは、創り出すもの、生み出すものである。利益は、天然自然になるものではない。会計操作や計算結果によって単純に導き出される所与の値ではない。ただ、利益は、会計制度上の概念でもある。利益は、一意的に決まる値ではない。
 利益という概念は、思想なのである。利益という概念は、思想であり、哲学的な概念なのである。そして、利益に対する思想こそが資本主義社会における実体的な哲学的基盤になるのである。

 利益は、目的ではなく手段である。この点を取り違えると利益の働きが解らなくなる。利益ばかりを追い求めるのは間違いである。利益が総てではない。利益の内容が大切なのである。又、利益が指し示す事柄が肝心なのであり、その為には、利益の背景や役割を明らかにする必要がある。

 利益を単に計算結果としてしか捉えられなければ、利益の持つ意味は理解されないし、利益は有効に機能しなくなる。

 もう一つ重要なのは、利益は、資本と同様差額勘定だと言う事である。それは、資本主義の本質を象徴しているとも言える。利益も、資本も、会計的に創られた概念なのである。
 差額勘定である資本と利益には、負(マイナス)の値もある。会計上、負(マイナス)の値がある勘定のは、利益勘定と資本勘定だけである。これも資本主義の思想である。

 利益をあげることと儲けを上げることとは違う。儲けは、収入から支出を引いた差額であるが、利益は、収益から費用を引いた差額である。
 儲けというのは、入金から出金を引いた差額である。収入から支出を引いた儲けの値は一つである。つまり掛け値なしである。しかし、利益は違う。利益というのは、単位期間内における費用対効果の指標である。何を収益とし、何を費用とするかによって利益には差が生じる。つまり、利益は一つではないのである。
 利益とを確定するためには、収益と費用を確定する必要がある。その為には、収益は何か、費用とは何かが重要となる。そして、費用とは、分配を意味している。即ち、費用構成こそ思想なのである。何によって収益を上げ、どの様な費用で社会に還元するのかが利益の根源を為すのである。

 それでは、利益の大元となる考え方は何か。そこにこそ資本主義の本質が隠されている。そして、その資本主義の本質が明らかにされていないことに、現代の資本主義の病巣がある。資本主義は、ただ金を儲ければ良いという思想ではない。

 利益というのは、人の価値と物の価値を貨幣に還元し、それを調和あるものにするための値である。そして、利益は、時間価値でもある。利益が時間価値の一種だと言う事は、人、物、金を調和させる働きは、時間にあることを意味する。
 だからこそ利益は思想なのである。利益の本とは何かである。利益の本となる収益や費用は、どの様な要素から構成されているのかである。そして、利益は、どの様な要素から構成されているのかである。又、利益をどの様に分配し、或いは、活用するのかである。適正な利益とは何か。適正な利益をあげるためには、どの様な会計が必要かなのである。

 利益は、多ければ多いほどいいというものではない。かといって利益をあげられない、即ち、損失を出すのも困る。だとしたら適正な利益というのはどの程度のことを指すのかである。それを知るためには、利益がどの様な働きをするのかを知る必要がある。

 利益は、単位期間内の費用対効果を測定するための指標である。総ての収入と支出は、最終的には、収益と費用に還元される。何を単位期間における収益に還元するのか、何を費用に還元するのかによって利益は定まる。そして、何を単位期間内の収益とし、何を費用とするかが思想なのである。

 現代経済の根幹的問題は、人的経済、物的経済、貨幣的経済が一体化されていないことにある。その要因は、財政思想と会計思想、生産思想にある。
 経済の本質は、労働と分配である。人的経済は、所得の問題に還元できる。物的経済は、生産の問題である。貨幣的経済は、貨幣の流通量の問題である。そして、これらは会計上の問題、即ち、利益によって調節される。

 重要なのは、利益に対する思想である。利益は何のためにあるのかである。その点が曖昧なのが、最大の問題なのである。

 貨幣経済は実物経済の蔭(かげ)、利益は指標、バロメーターである。又、利益は時間価値を現す指標の一つでもある。

 時間価値を現す指標には、利益以外に金利、地代、物価上昇率がある。ただ利益は指標であって利益が時間価値を形成するわけではない。
 時間価値を形成するのは、金利である。利益は、結果である。利益は、金利と違って予め決められているわけではない。損失、即ち、マイナスの利益もあるのである。

 継続を前提とした企業、事業体は、経営、事業が継続しているかぎり、帳簿上の数字が生きている事を前提とするのが原則である。故に、清算を前提とすべきではない。清算が前提となるのは、期間損益上、費用対効果が合わなくなった場合である。その場合は、費用構造の問題が重要となる。

 利益は、放っておけばなくなる。なぜならば、利益は、余剰なのである。余りなのである。利益を維持するためには、それなりの仕組みが必要なのである。



利益の働き



 基本的に現在の経済を動かしているのは金の流れである。
 故に、収入と支出、収益と費用の関係が重要となる。その上で残高と利益の関係を見る必要がある。利益は、一つの目安に過ぎない。ところが現在は、利益を絶対視し、更に善悪の基準に当てはめようとすらしている。そこに重大な錯誤がある。
 利益は、結果であって目的ではない。
 先ず収益と所得の内容を見るべきなのである。
 収入と所得は、経営主体に対してお金が入力される事を意味する。

 通貨の流れは、現金収支として現れ。また、通貨の働きは、会計上、収益や所得、利益として表される。収益や所得は、経営主体や個人が一定期間に受け取ったか、或いは、受け取る権利を持つ量を言う。利益は、通貨の働きの目安である。
 経済的に破綻するのは、現金残高が不足する事による。赤字か黒字かは、通貨の働き、過不足の目安であって絶対的な基準ではない。

 お金は、何にでも化けると言われている。つまり、貨幣経済では、お金は万能なのである。
 貨幣経済を基礎としている現在の経済主体を動かす原動力は、基本的に現金である。厳密に言うと現金、及び現金同等物である。
 貨幣経済体制では、現金が底をついたら経済主体は機能しなくなる。家計でも、企業でも、政府でも、それに変わりはない。
 政府でも、現金がつきれば破産したと見なされるのである。ただ、政府機関と他の経済主体の違いは、必要に応じて政府は、通貨を発行できる。即ち、現金を創造できるという点にある。
 破産すると経済的主体は奪われる。つまり、第三者に経済的に隷属することになる。

 紙幣は、中央銀行、或いは、政府の借金を基にして発行される。

 資金の流れの基底を作るのは、借金と収入である。
 或いは、借金と所得の組みあわせである。
 つまり、収入と借金によって資金は調達され、支出と貸出によって資金を供出、運用されるのである。
 収入は、フローの始点にあり、借入は、ストックの始点にある。収入は、対極に支出があり、借入は、対極に貸出がある。つまり、誰かの収入は、その誰か以外の主体の支払を意味する。誰かの借入は、その誰が以外の主体の貸出を意味する。この様に、取引は対称的な行為である。
 個々の取引を構成する要素は、売り買い、貸し借りであるが、売り買い、貸し借りは基本的に対称している。故に、取引の総和はゼロ、即ち、取引を集計した値は、ゼロ和になる様に設定されているのである。
 収入と借入金と支出の関係から単位期間内の損益を計測するのが期間損益であり、その指標が利益である。利益は、現金収支の現金残高を表しているわけではない。
 あくまでも、一つの指標に過ぎないのである。

 この関係は、家計であろうと企業であろうと、政府であろうと、国家間であろうと基本的に同じである。

 経常収支が赤字であるという事は資本収支は黒字になる。つまり物を輸入するために不足した金は借りなければならない。故に、金不足を問題にする以前に、金を調達するための信用力を問題とするべきなのである。

 期間損益に於いて、損益を勝負事のように、赤字は負けで、黒字は勝ちのように判断するのは危険な事である。更にこれに競争が絡むと経済をあたかもマネーゲームのように捉える傾向が出てくる。しかし、経済の本質は、生産財の分配にある。この点を忘れると金だけが全てになってしまう。

 赤字国の問題は、黒字国の問題でもあるのである。

 消費不足と過剰生産の歪みが経常収支の不均衡になる。そして、それが恒常的になると債務が累増し、是正しようのない不均衡になってしまう。消費と生産の均衡を保つために考えられた仕組みが複式簿記を基盤とした現代会計制度である。
 ただし、制度的には、家計と財政は現金主義を基礎とし、企業会計は、期間損益主義を基礎としている。そして、税制は、家計は現金主義、企業会計は期間損益主義を基礎として設計されており、政府、企業、家計との間に制度的な整合性は取られていないのである。

 現金主義では現金残高が最終的指標である。
 それに対して期間損益では、利益という指標が重要な働きをしている。
 しかし、利益というのは一つの指標に過ぎない。現金残高が不足した場合、経済主体は破綻するが、利益が不足し、赤字になったとしても事業が継続できなくなるわけではない。現金があれば、赤字でも経済主体は機能するのである。

 利益は、一定期間の収益と費用、債務残高と債権残高の差から導き出される指標である。
 債権、債務、収益、費用の関係で重要となるのは差と比率である。

 総資本は、債務残高を集計した値である。
 純資産、資本とは、株主取り分の残高で債務の一種である。
 言い換えればある時払いの催促なしの借金のようなものである。
 総資産というのは、債権の残高を集計した値であり。
 資産とは基本的に、生産財を意味する。
 基本的に会計上、債権、債務というのは残高をいい、ストックを形成する。
 収益は、生産財を売って得た現金と債権である。
 費用というのは費やされた効用である。
 収益と費用は、決済の手段を言い、フローを形成する。

 問題なのは、有利子負債の元本の返済が、貸借上も損益上も会計では何処にも計上されていないという事である。
 それが資金の流れと損益の間に歪みを生じさせるのである。
 金融機関や商社では、有利子負債を減価償却費と税引き後利益で割った値を支払能力の簡易な指標として使われている。
 これが何を意味しているのかというと元本の返済期間と元本の返済原資である。そして、この点が融資基準や取引の実質的基準とされているのである。
 これは、一つは、固定資産の費用化する部分と利益処分の一部が有利子負債の返済原資である事を意味している。
 問題なのは、償却と元本の返済に時間的なズレがあるという事と、利益処分の中に元本の返済に充当する部分がないという事である。そして、税が時間的なズレや元本の返済に斟酌していないという点である。そのために、資金計画、資金繰りに歪みが生じているのである。

 期間損益と現金収支は違う。収益と収入、費用と支出では、その概念上、根本的な使用目的が違うのである。
 例えば、費用と支出は、その根本概念が違う。費用というのは費やした効用である。支出は、決済のために支払われた資金である。
 そして、現在の経済は、期間損益と現金収支を土台として作られた仕組みの上で機能している。

 現代の企業経営は含み経営と言われてきた。含み損益によって企業経営、ひいては景気が左右されてきたのである。
 では一体含み経営というのは、どの様な構造を持っているのか。それを明らかにして生きたと思う。

 大前提は、中小企業の大部分は、未上場企業だという事である。
 未上場企業の場合、決算が赤字だと金融機関から融資を受けにくくなる。実質的には金融機関から融資を引き出せなくなる。
 金利は費用計上されるが、長期借入金の元本の返済は、費用計上されずに、簿外で処理されている。
 資産を現金化しないかぎり、資産の持つ含み益や含む損は簿外で処理される。
 結局、事業を動かしているのは資金であり、資金の流出を最小限に留める事が経営をより安定化する仕組みになっている。

 資産を活用する為には、資産を換金し流動化する必要がある。

 この様な前提に基づいて現在の企業経営と経済の構造を明らかにする。
 先ず第一に言えるのは、経営者は、利益を平準化したいという動機がある。
 収益は未知数である上に、波がある。つまり、収益は不確実であるのに対して、費用は確実に出ていく。その上、利益に対しては税金がかけられ、配当も要求される。また、損失を出すと株価も下がって資金調達が難しくなり、最悪の場合事業の継続が危うくなる。
 資産を現金化すると利益に対して税金がかけられる上に価値が確定してしまう。そして資産は清算されてしまう。
 長期借入金の元本は費用計上されず簿外にある。金利は費用として計上される。
 利益配分は、税と配当と役員賞与によって構成されていて、元本の返済の原資は計上されない。
 長期借入金の返済原資は、税引き後利益と減価償却費の和である。故に、資産の中でも大きな部分を占める不動産の債務は残される。そのために、不動産は投機の対象とされる事がある。
 減価償却費の中には、不動産の償却は含まれていない。不動産の価値は、相場によって定まる。
 資産は、取得原価主義を基本としている。故に、時価と簿価との差が含み益、含み損として簿外に存在する。資産は、担保として資金の実質的調達原資となる。
 資産を売って換金すると経営者は資産を換金しないで資金を調達したいという動機付けがされている。
 資産を担保とした借入によってつなぎの資金を調達する。つまり、資産価値が上昇している事を前提とし、収益に基ずく資金と金融機関からの借入の資金によって事業は運営されている。これが大前提。

 重要なのは、金利+元本の返済と関係である。例えば、元利均等返済の場合、最初、金利負担が大きいために金利が利益を圧迫するが、段々に元本の返済額と金利との比率が逆転し、利益を過大に出すようになる。それに対して、支出は均一であるために、税引き前の支出に影響はない。問題なのは、利益に対して課税されているために、償却と返済が進む事によって利益が過大に計上されるようになり、税負担が過剰になる事である。

 金利と元本返済の組みあわせによってはキャッシュフローと費用の関係が利益と収支の関係を不均衡にする。そして、資金流出が利益を大幅に上回り、黒字倒産や借入金の増大を招く。
 この様な事によって経済に対する影響は、不動産価格が上昇している場合は、含み資産が拡大して資金調達がしやすくなり、新規投資や更新投資が活発になる。逆に姶動産価格が下降している時は、一気に景気は冷え込んでしまう。

 金利と元本と減価償却によって利益と現金収支の間に重大な乖離が生じる。税の算出は期間損益を基本とするために、慢性的な資金不足の要因となり、黒字倒産を引き起こす事がある。それが累積すると周期的な不況を引き起こす要因となる。

 含み益を前提とした経済というのは、基本的に市場の拡大を前提としている。長期借入金の元本の返済は、収益の上昇によって賄い、新規投資や設備後進は、資産価値の上昇分を担保として行う。これらが上手く回転しているうちは、良いが、一度逆回転するとその途端に破綻してしまう。含み益が含み損、不良債権へと変質してしまうのである。しかも、簿価が低い物件は、売ると今度は過大な利益が生じ、過大な税を納めなければななくなる。
 キャッシュフローと利益、税との関係の均衡がとれなくなると景気全般に重大な構造的障害を生じさせる事になる。

 今日の税制の一番の問題は、税制の仕組みと期間損益の仕組み、実際の資金の流れとの間に不整合なところがある事である。

 特に、利益に対して課税する仕組み担っている税制度を設計する場合は、利益と現金収支との関係を正しく理解していないと、勘定合っての銭足らず。最悪の場合、黒字倒産を引き起こしかねない。利益があっても現金があるとは限らないのである。

 一般に償却が終わると莫大な利益を上げられるようになる。しかし、それが必ずしも現金の残高を増やす事に繋がるとは限らない。元本の返済が表面に現れないからである。また、法人税などは、課税対象額が利益を基として計算されている事にもよる。そのために、利益が増加する事によって資金繰りがつかなくなり借金が膨れあがる事さえあるのである。その様な状況や構造を理解した上で税制度は設計されなければならない。

 経済状態によって利益の持つ働きに違いが出てくる。即ち、デフレーション下における利益の働きとインフレーション下の利益の働きには質的な差が生じる。それが税金の働きにも質的な差を生じさせる場合がある。

 名目的価値と実質的価値の相関関係によって景気動向の傾向が定まる。即ち、名目的価値が実質的価値の下限となるのか、上限となるのかによって市場に正(ポジィティブ)な圧力がかかるか負(ネガティブ)な圧力がかかるかの違いが生じるのである。それによって負債の負荷がかかる方向に違いが生じる。
 名目的価値と実質的価値の相関関係は、市場の基礎的要件を定める。
 名目的価値と実質的価値の関係は、市場が縮小均衡に向かうのか、それとも拡大均衡に向かうのかを定める。市場が拡大均衡に向かっている時は、名目的価値は、実質的価値の下限となり、資産価値は膨張し、負債は、相対的に圧縮されるのに対し、市場が縮小している時は、名目的価値は、実質的価値の上限となり、資産価値は縮小し、負債は、相対的に膨張する。
 利益の働きは、市場に働く力の傾向によって質的な違いが生じる。

 この様に自分達の都合に合わせて基準を選べたり、また、状況に合わせて基準を変更する事が可能だとしたら公正な競争など最初から成り立たないのである。
 それでなくとも国家間には、所得格差、労働条件の差、物価の違いといった根本的な問題があり。また、前提となる条件もプロとアマチュアほど技能が違った者同士や機械と人間が同一条件で争ったりといった事があり、とても、公正な競争が成り立っているとは言えないのである。

 一体、何処で何を競わせるのか。価格なのか。品質なのか。機能なのか。デザインなのか。性能なのか。サービスなのかが重要なのであり、それは商品の性格に依っても異なってくるのである。

 期間損益に於いて、損益を勝負事のように、赤字は負けで、黒字は勝ちのように判断するのは危険な事である。更にこれに競争が絡むと経済をあたかもマネーゲームのように捉える傾向が出てくる。しかし、経済の本質は、生産財の分配にある。この点を忘れると金だけが全てになってしまう。

 何が何でも競争をさせれば何でも解決できるというのは一種の信仰である。競争は手段であり、手段である競争は合目的的な行為である。故に、競わせるのならば、その目的を明らかにしなければならない。
 無原則に争わせるのは、競争ではなくて闘争である。
 目的に応じて、何をどの様に競わせるかを予め定めておく必要がある。
 何でもかんでも競争させろと言うのは乱暴な話である。
 前提となる条件が商品によっても違っているのである。
 公正な競争というならば前提となる条件や環境を統一すべきであるが、未だかつて公正な競争が成り立ったためしはない。第一、労働条件や賃金格差を統一するためには、政治的に統合されていなければならない。
 労働条件以外に、生産手段の所有権の問題がある。また、技術格差、資金力の違い、地理的条件の差等がある。

 国家社会が、個々の産業に何を期待しているのか。そして、国際分業をどの様にして成り立たせるのか。それは、それぞれの国家が国家の置かれている位置や状況に合わせて選択すべき事である。そして、世界的に見てそれが公正な分配を実現する為の仕組みとなるようにしていくのが外交や政治の取るべき道なのである。

 市場、経済の仕組みは合目的的な仕組みであり、人工的な仕組みである。
 市場や経済の仕組みは、自然に成る仕組みではない。
 競争は、経済や市場の目的を実現するための手段の一種であり、原理のような法則ではない。経済の目的を実現する手段には、提携や連携、協定等、競争を抑制する手段もあるのである。
 収益力を保ちながら、競わせるべき処を競わせる。それが原則である。ただ競わせるだけでは、収益力は保てなくなり、結果的に寡占独占状態を招くのである。

 現代社会では、あたかも競争する事が目的であり、原理であるような考え方が蔓延している。しかし、競争は手段に過ぎない。競争が全てではない。

 競争は市場が拡大する局面に於いては有効だが、成熟、或いは、縮小している局面では、市場を荒廃させてしまう危険性がある。

 市場を誘導するのは、むしろインセンティブであり。利益がある方向に産業は、発展しようとする働きがある。
 良い例が、エネルギー政策である。環境問題を解決するためには、徹底した省エネルギーが必要である。しかし、省エネルギーを推進する事は、エネルギー業界にとって必ずしも利益に繋がらない。そのためには、省エネルギーが何らかの利益になるような施策を講じる必要があるのである。




利益と儲けの違い



 利益とは、何か。
 利益を追求するとか、利益を上げられない企業は悪だとか言うが、しかし、利益の意味についてどれだけの人間が正しく理解しているであろうか。

 利益に似た言葉に「儲け」「稼ぎ」という言葉がある。
 儲けというのは、手持ちの資金で財を仕入れ、それを売った残りの残金を言う。つまり現金主義における収支である。
 手持ちの資金というのは、どんな手段で手に入れようと問題とはしない。要は、現金の残高があれば良いのである。
 現金主義では「お金」は、道具に過ぎない。なんらかのかたちでちょうたつしてきた「お金」と財とを交換し、その財を「お金」と交換する。残った「お金」の中から生活に必要な「お金」を差し引いて余った「お金」で又、財を仕入れる。その繰り返しである。
 その時、余ったお金が儲けである。

 経済は基本的に余り算であり、その意味で、余りが重要な意味を持つ。

 稼ぎというのは、働いて得る収入、即ち、労働の対価である。

 利益は、「儲け」とか「稼ぎ」と違って「現金」が全てではではない。
 利益という概念で重要になるのは、価値である。
 つまり、現金主義と期間損益主義の決定的な違いは価値をどう捉えるかの問題である。
 現金主義で問題とするのは、現金の収支であり、残高、現金の有無である。価値の問題ではない。それに対して、期間損益で問題にするのは価値である。その価値に従って貨幣の流れを制御するのが期間損益主義のあり方である。

 利益は、指標であって目的ではない。
 利益が全てであるがごとき考え方は、明らかに錯誤である。それでは利益の真の意味が理解できない。
 利益は、指標である。その証拠に利益は対極に損失があり、利益と損失を一つにして損益というのである。
 それに対して、儲けには対極の概念がない。儲けがなくなれば、即ち、現金の残高がなくなればそれでお終いである。後は、自分の労働力によって稼ぐ以外にない。稼ぎというのは、人それぞれが持つ労働という資源を市場で貨幣と交換する事で得た「お金」を言うのである。

 経済状態によって利益の持つ働きに違いが出てくる。即ち、デフレーション下における利益の働きとインフレーション下の利益の働きには質的な差が生じる。

 利益は、価値を生み出す。利益は、資本を形成するのである。
 利益によって形成される価値の元は、負債と費用である。

 利益は、期間損益主義に基づく概念である。それが利益の意味を一般にわかりにくくしている。逆に、資本や利益に基づく社会は、会計主義とでも言うべき体制、即ち、会計や複式簿記の概念や論理を基礎とした社会体制と言える。
 この点を正しく理解しておかないと、今日の財政問題や経済問題を理解することはできない。
 経済的自由や自立は、会計という文脈の上に成り立っているのである。

 それを金に支配された世界と思い込むのは、短絡的である。「お金」は、手段であり、道具に過ぎないのである。あえて言えば、今日の経済社会は、会計的理念に支配された世界なのである。問題は、それが無自覚なことなのである。会計に支配された世界と言っても会計制度を作っているのは、人間である。市場や経済の仕組みが悪いとしたら、それは、その仕組みを作っている人間の責任である。「お金」や会計の仕組みが悪い訳ではない。

 会計上、利益とは、収益から費用を引いた値、或いは、前期総資産から当期総資産を引いた値、又は、前期総資本から当期総資本を引いた値である。

 利益に関わる概念に収益と費用がある。
 収益は、価格によって形成される。

 利益は価格差によってもたらされる。価格差は、何らかの距離の差、時間差からもたらされる。この様な差は、取引が繰り返されることによって解消される性質のものである。利益は価格差によってもたらされる。故に、放置すれば利益は失われる。

 利益とは差によって生じる。根本は、利益は、収益から費用を引いた値だし、前期総資産から当期総資産を引いた値である。つまりは差である。貨幣経済を動かしているのは、差である。差のない社会では、物は強制力でしか流せない。差がなくなれば利益もなくなる。
 分業は、物と物との交換、物々交換を前提として成り立つ。それは貨幣経済でも同じである。貨幣は、物々交換を仲介しているのに過ぎない。元々、経済は、物と物とを交換することで成り立っているのであり、その仲介をしているのが貨幣である。「お金」には交換価値しかないのである。ところが現代社会はそのお金に振り回されている。

 共産主義は、差のない社会を目標としている。差のない均一な世界を理想としているかぎり、共産主義国家は、全体的で、強権的な全体主義国家、中央集権的国家にならざるをえなくなる。後は、小さな共同体の集合みたいな国を作る以外に実現する事は覚束ない。
 差をなくすといっても外見上の差をなくすことを意味するのに過ぎない。それは背後にある差別を隠すことになる。
 差がなければ利益は生まれない。むろん損失もない。しかし、それでは「お金」は動かないのである。

 生産物を均一に分配したらしたら、差が生じないために、物は流れない。そして、配給切符のに様な働きしかしなくなるからである。物を流す力は貨幣ではなく。何らかの権力による強制力によらなければならなくなる。

 分配に差をなくし、強権をもって物を流そうとすると、組織は、垂直方向に発達する。垂直方向に発達する上に階層化することになる。階層は、世代を超えると階級化することになる。共産主義は、結局、階級社会に逆戻りするしかない。さもなければ無政府主義的な社会になる。

 組織が成立する理由は、分業である。貨幣は分業を促す働きがあるのである。
 組織効率は、平らで自立的な組織の組み合わせによって実現する。水平方向への発達を促す。

 格差を認めない国は、格差を認めないが故に、格差を拡大する。なぜならば格差を測定する手段を格差を認めないが故に持たないからである。
 格差が経済を動かすと言っても格差が拡大しすぎると、経済が円滑に機能しなくなる。つまり、無駄が多くなるのである。通貨は本来、分配の手段である。貨幣経済が円滑に機能するためには、通貨が満遍なく必要に応じて分配されていることが前提となる。通貨は、所得として支出に先立って分配される。その取得に偏りがあれば、経済にも偏りが生じ、最悪、階層分裂が生じてしまう。

 収益と利益に関わる概念として、「増収増益」「増収減益」「減収増益」「減収減益」の組み合わせがある。これは、収益の有り様と利益の有り様を組み合わせて利益の持つ働きを表した概念の一種である。収益と利益の関係の基本はこれらの組み合わせに求められる。

 経済の基本は、入りと出にある。つまり、経済主体に対して人、物、金がどれくらいの量がどの様に、どこからに入り、何処へ出て行ったかによって経済の状態は決まるのである。

 市場取引は、売りと買い、貸しと借りの二つの行為からなる。
 金銭的に見ると借りと売りはお金を得る行為であり、貸しと買いは、金を出す行為である。物から見ると売りは物を出す行為であり、買いは物を得る行為である。

 貨幣を流通させる働きは、貸し借り、売り買いである。貨幣の流通を促す働きがあるのが金利である。
 貸し借りは権利を生み出し、売り買いは物流を生み出す。
 貸しと借り、売りと買いは、一組で成立する。即ち、視点、立場を変えれば、借りは貸しであり、売りは買いである。
 貸し借りと売り買いは、表裏の関係を為している。そして、これは、基本的に入りと出を意味している。つまり、資金の流れは残、入、出、残である。

 経済的価値というのは、取引が成立して時点における経済的効果である。
 取引の本質は、売り買い、貸し借りであるならば、売り買い、貸し借りによる経済的効果が経済的価値を決める事になる。売り買いと貸し借りという二種類の取引を前提とするならば、売り買いによって生じる価値と貸し借りによって生じる価値の二種類がある事になる。

 例えば、土地の経済的価値で言うならば、第一に、土地を売り買いすることによって生じる経済的効果と、土地を貸し借りすることによって生じる経済的効果である。つまり、
第一に、土地の売り買いによって成立する地価と、第二に、土地の貸し借りよって生じる収益力である。
 地価というのは、土地を売買が成立したときの貨幣価値である。土地の収益力というのは、土地を活用した際、獲得される収益を言う。

 持ち家が良いか、賃貸住宅が良いか、迷うものである。人には所有欲という物がある。所有というのは、権利である。しかし、家を所有するという事で必ずしも経済的に合理的だとは限らない。

 土地の経済性、経済的効果を計るためには、賃貸住宅と持ち家の経済的効果を比較する必要がある。
 賃貸住宅と持ち家の経済的を比較するためには、賃貸住宅と持ち家に対する支出と経済的効果について考察する必要がある。
 賃貸住宅と持ち家に関わる支出は、基本的に一月を単位としている。即ち、第一に比較しなければならないのは、一月に支払われる金額、即ち、賃貸住宅ならば一月の家賃であり、持ち家ならば、借入金に対する一月の返済額である。
 もう一つは、一定期間の家賃の支出総額と持ち家を購入した時の価格と借り入り金を返済し終わった時の残存価値の比較である。

 期間損益では、減価償却費と借入金の額の比較である。

 持ち家か良いか、賃貸が良いかは、その時その時の経済情勢によって微妙な違いがある。
 地価が、将来継続的な上昇すると思われる場合、即ち、インフレの場合は、持ち家は、土地を取得した時の借入金の負担が将来に亘って低下する上に土地を売った場合の利益が見込まれる。また担保力の上昇も期待できる。逆に地価が長期に亘って下がる傾向にある場合は、借入金の負担が増大し、更に土地を売った時に多額の損失が発生する危険性がある。
 その上で、金利の動向と収入の動向との比較、税の影響等によって賃貸住宅と持ち家の有利不利が判定される。
 また長期的視点に立つと、土地を取得した場合は、資金が長期に亘って寝ることになる。
 逆に、賃貸住宅では、その時々の経済状況や周囲の環境に応じて支出を変更することが可能だという利点がある。
 このような支出から見た損得勘定と収入から見た損得勘定を噛み合わせて考えるのが経済である。
 高度成長からバブルが破裂するまでは、地価も所得も右肩上がりに上昇すると信じられてきた。それが土地神話を発生させ、バブル崩壊後の多大な不良債権を蓄積した要因でもある。

 経済を考えていく上で、重要なのは、目先の経済の動きに目を奪われるのではなく。経済の実際の働きを正しく知ることである。そして、何が経済を動かしているのかその要因を認識した上で、どの様にその要因に働きかけていくかが鍵なのである。


利益が上がらない原因


 なぜ、何のために利益をあげる必要なのかが明らかにされていない。ただ、利益を上げない事は悪い事だとされている。
 その理由は、利益をあげなければ、企業経営が継続できないからだとされる。しかし、企業経営を継続するだけならば、資金が廻りさえすればいいのである。その証拠に公共事業は赤字でも継続しているし、経営者は経営責任を問われることはない。
 大体において公共機関は、利益をあげなくて良い事になってる。利益をあげなくて良いどころか、利益をあげてはならないことになっている。という事は、公共機関では、利益をあげることは悪い事である。
 だから、公共機関を経営する者は、利益をあげなくても責任を問われないことになる。なぜならば、公共機関では、利益をあげてはならないからである。つまり、公共機関は、利益をあげなくても成り立っていると思い込んでいるのである。
 その根底には、営利事業を侮蔑的に捉える差別感が潜んでいる。
 これでは、財政が破綻するのは、必然的帰結である。それで民営化を叫ぶのは考え違いである。先ず公共機関における利益の概念を確立することが先決なのである。

 公共機関とは、反対に、民間企業では、利益が上がらないと経営者は責任を問われる。経営の神様と言われた松下幸之助は、利益をあげられない経営は、罪悪だとまで言った。
 民間企業で経営が成り立たなくなった際、利益をあげないのは、経営者の経営の仕方が悪いという事になる。
 利益をあげられないのは、環境が悪いとは誰も言わないし、経営者が、それを言えば言い訳と捉えられる。

 公共機関は、営利事業をしているわけではないのだから、公共機関には、利益は必要としないと言う論理がまかり通っている。それでいて財政破綻を騒ぐのは理屈に合わない。
 営利団体が利益をあげるのは、私的欲求に基づいているからであり、公に奉仕する公共機関と利益とは無縁だとみなされているからである。
 だから。公共団体が損失を出しても事業の多くは継続され責任を問われることはないが、私的企業が損失を出すと潰される上に、経営者は経営責任を問われるのである。

 背景には、政治や武力よりも経済を低くみる思想が隠されている。
 しかし、財政を立て直すというのならば、利益について公共機関も真剣に考える必要がある。

 公共事業は、現実的な損益計算に基づいて事業計画がされているわけではない。元々利益という概念が欠落しているのである。それは、公共事業は元から営利事業ではないという理由でである。
 それでは営利事業とは何かと言う事になる。営利事業は、私欲による事業だから赤字にならないと言うのであろうか。
 営利事業だって赤字にはなる。赤字が続けば倒産する。公共機関の人間には、今までは公共機関は経済的に破綻しないという先入観があるように思える。しかし、公共機関も収支が合わなければ破綻する事は明らかである。

 利益が出せない原因で一番多いのは、利益を出せない社会構造、経済構造、或いは、経済状況にある。それは、公共事業も営利事業も変わりはない。公共事業と営利事業とを差別すること自体おかしいのである。

 資本主義経済は、曲がり角に立たされていると言われている。その最大の要因は、利益の意味が明らかにされていないことにある。
 利益の意味が曖昧模糊としているのに、その利益の意味の捉え方が営利団体と公共機関では、善と悪とに極端に別れている。それが資本主義を根底から分裂させてしまっているのである。

 利益をあげることは良い事か、悪い事か、その点を明らかにし、かつ、国民的な合意を確立しなければ、国民経済の土台は築かれない。

 先ず言えるのは、利益を悪いとすることは、利益を前提とした自由主義経済体制では考えられないという事である。なぜならば、利益を悪いとしたら自由主義そのものが否定されてしまうからである。ならば利益は、必要だとすべきなのである。その上で、何が利益で、なぜ、利益が必要なのかを規定することなのである。なぜ規定かというと利益は、合意の上に成り立っている概念だからである。
 つまり、利益は社会契約的概念なのである。

 一番重要なのは、利益という概念が必要性に基づいていないことである。つまり、利益を追求すればするほど、社会や国民、国家が必要とする結果からかけ離れていくといった現象が起きる可能性があるのである。
 利益は、本来、国家、社会、国民の必要性から生じる概念であるべきなのである。

 例えば、不況になって企業が経費や雇用を削減することによって所得が減少し、不況を更に深化させるといった事態を引き起こすことである。
 又、大量生産というのは、生産の効率化を促進する反面、所得を減少するという働きがあることを忘れてはならない。
 つまり、ごく少数の人間が大量に製品を生産すると言う事は、製品の価格を下落すると同時に、雇用の減少を招くと言う事である。この事は、労働と分配という観点からすると逆行している。
 豊かであるはずの国に、大量に安価に商品が氾濫し、高級な商品が閉め出されるという矛盾した現象が起こるのである。豊かになれば、量から質への転換がはかられるはずなのにである。
 つまり、人、物、金、各々の働きが一つの方向に向かっていないのである。

 利益は、与えられた条件によって違ってくる。つまり、前提条件と規則によって利益は算出されるのである。故に、前提条件と規則が変われば、必然的に利益は、違ってくるのである。
 ではなぜ、利益は必要なのかである。
 利益の目的というのは、会計主体の経営実績を計るための指標である事ともう一つは利益が上がるような仕組みや経営をするための指針をつくる事である。
 利益は、目的と言うよりも一種の信号である。そして、その信号から、利益をあげられない原因を明らかにし、対策を立てるべきなのである。

 利益があげられない理由にはいくつかある。むろん、その中には、経営者の資質、経営判断の間違いなどと言った経営責任も含まれる。しかし、経営者だけが利益に対して責任を負っているわけではない。利益が上がらない原因の多くは、例えば、為替の変動、戦争や災害による被害、景気の変動、原材料の高騰、原油価格の高騰、気候変動、飢饉、金利の上昇、相場の変動、地価の高騰や下落といった経営者にとって予測不可能な、不可抗力な事象である。

 生産性や経営効率のみを利益を算出するための根拠にしてしまうと、ただ、安ければいいという事があたかも経済的合理性であるかのように錯覚されてしまう。

 収益から費用を差し引くという考え方の背後には、費用は、悪い物という思想が隠されているように思える。兎に角費用を削減することが経営目的の一つであるように考えられているように思える。しかし、費用こそが、経済の源泉であることを忘れてはならない。費用の裏側にあるのは所得なのである。つまり、費用と所得は、一体なのである。もう一つ重要なのは、費用は消費に直結しているという点である。
 利益というのは、基準に従って導き出された値にすぎない。問題は基準にある。要するに、収益構造と、赤字の原因である。収益構造と赤字の原因の妥当性を計るための基準尺度が利益なのである。

 それは、費用の持つ役割を真っ向から否定しているからである。費用は、裏返せば、所得であり、消費である。費用を削減することは、所得や消費を減らすことにもなるのである。何事にも、程々(ほどほど)、限度がある。経済においては、適正という思想、基準が重要なのである。だから、規制が必要なのである。

 経済では、損益という観点からすると費用の持つ経済的な意味や働きが重要となる。期間損益では、利益は重要な指標であるが、あくまでも利益は指標である。実体は費用にある。費用が景気に果たす役割が重要なのである。
 費用の経済的な意味や働きを知るためには、費用の性格と構成が鍵を握っているのである。
 費用の意味や働きというのは、市場の環境や前提に左右される。

 人件費の持つ経済的な性格や働き、減価償却費の性格や働き、原材料費の持つ性格や働き、金利の持つ性格や働き、諸経費(地代、消耗品、エネルギー、宣伝広告費、通信費等)の持つ性格や働き費用の持つ性格や働きが経済の実態を形成している。故に、ここの費用の状態や働きに応じた施策が採られる必要があるのである。

 そして、費用の性格や働きを規定するのは、資金の働き、そして、資金の流れる方向である。資金の働きの中で費用の性格を規定する要素は、長期的な働きと短期的な働きである事に注意しなければならない。

 費用の性格や働きが景気の動向を形成するのである。

 利益は、収益から金利や賃金が支払える状態を維持できるように会計上設定されるべきものである。会計の目的とは期間損益を維持することにあるのである。

 経済というのは、生きる為の活動である。生きる為の活動の基盤は、何も、生産性にのみあるわけではない。

 かつては、いい品を親子何代にもわたって修理をしては使い続けてものである。資源の有効活用も経済的合理性の一つである。

 しかし、単に大量生産を前提とすれば、大量消費の方が経済目的と合致していることになる。そうなると物を大切にすることより使い捨てした方がいいことになる。
 現代は、使い捨て時代で、何でもかんでも使い捨てしてしまう。人間でも使い捨て時代に入ろうとしている。その好例が派遣問題である。

 昨今、安売り業者をやたらと美化する傾向がある。確かに、より安く、よりよい品を、より早くというのは一つの見識である。しかし、安ければいいと言うだけでは話は違ってくる。あくまでも適正な利潤の追求が前提なのであり、法外に安いのは、安いなりの理由があるのである。その理由いかんによっては、例えばおとり商法の理由や市場独占の目的によって原価を割った値段で販売することは、適正な価格体系を破壊してしまう。無茶な安売りは、市場の規律を乱し、市場を荒廃させてしまう原因となる。

 実は、利益というのは、経済理念を実現するための指針なのである。大量生産、大量消費のみを念頭に置いて利益を算出する為の前提条件や規則を定めれば、生産性を高めることが経営の至上目的となるのである。それは結果であって原因ではない。

 競争を促すために、規制を緩和すべきだという議論そのものが矛盾している。競争に対して順、即ち、競争を促す働きをする規制と競争に対して逆な作用をする規制があるという事である。競争を促すために規制を撤廃してしまうというのは、狂気の沙汰である。競争を促すにせよ、抑制するにせよ規制によって競争は保たれているのである。

 経済を争い事と捉えるのは、あまりいい考えではない。経済とは、生きるか死ぬか、勝つか負けるか、一か八かの勝負事ではなく、切磋琢磨すべき事柄なのである。自ずと節度が求められるべき事なのである。

 利益とは何か。利益がなくても、赤字でも、資金繰りがつけば、経営を継続することは、可能である。利益は、指標に過ぎない。ただ、資金を供給するか、否かを決定するために決定的な働きをするから利益は、重要なのである。
 なぜ、収支よりも利益を重視するようになったかというと、収支というのは、結果であり、期間損益は、原因だと見なされるからである。
 肝心なのは、資金を管理することである。利益は、一つの指針、意見である。利益を過大視、するのは危険である。つまり、利益を全てであるように思い込むのは危険なことである。
 利益を無視すれば、市場原理が働かなくなる。市場原理というのは、適正な配分を決めるための働きである。
 重要なことは、利益は、生み出される事象、作り出される事象、だと言うことである。利益を生み出すのは、企業努力だけでなく。会計制度や法制度、規制、といった社会の仕組み全体だと言う事である。そして、利益を生み出す仕組みとは、社会理念に基づくものだと言う事である。故に、社会制度の中でも特に、労働制度や福祉制度が重要となる。

利益は経営目的ではない



 利益を経営目的だと思い込んでいる経営者が多い。彼等の多くは、利益をあげるためならば何でもする。又、何でも許されていると錯覚している事が多い。しかし、利益は、経営目的にはならない。利益は、経営の指標の一つである。その証拠に利益が上がらないからと言って経営が行き詰まるわけではない。経営が立ちいかなくなるのは、資金が不足した時である。
 ではなぜ、利益が問題となるのかと言えば、利益が資金調達に直結しているからである。

 経済を悪化させているのは、雇用の問題だと解っているのに、多くの為政者は、経営者に利益ばかり追求する事を強要する政策を採って収益を問題としていない。中には、収益を減らすような政策を是とする者すらいる。これは、労働組合も同じである。
 利益は改善しても雇用が減る様な事態は往々にして起こるのである。
 個々の企業が利益のみを追求すると雇用は悪化し、所得も減少し、景気は悪くなる。
 利益は、費用対効果を測る指標の一つである。利益そのものが目標なのではない。
 経営の重要な役割は、生産財の生産と資源の分配である。利益は、その役割を測るための指標である。利益を絶対視したら、経営主体本来の働きか見えなくなる。

 利益とは、何か。利益とは何かの答えは、利益の働きから求められるべきものである。そして、利益の働きは、利益処分を見るとその鍵が隠されている。利益処分の項目と相手である。また、利益の働きは、現金の働きと深い関わりがある事が解る。

 利益は、経営目標となり得ても経営の目的にはなりえない。
 経営の目的は、事業目的であり、又、事業の継続にある。なぜならば、経営の働きは、事業を成就する事や事業を継続することによって発揮されるからである。そして、事業の内容によって投資や借入をするのであり、投資や借入の在り方によって収益構造や利益の内容、性格に差がでるのである。事業内容によって貸借構造も収益構造にも違いが生じるのである。
 経営は、金儲けのためにするわけではない。金を儲けるのは、事業を成就することや継続するための手段に過ぎない。

 また、会計の意味は、説明である。それは、会計の主目的が外部に対する説明責任にあることを暗に示している。
 しかもこの事は、利益が会計原則によって計上される以上、利益に対する基本的理念の根底をなす要素である。

 利益というのは、外部に対する責任説明上から派生した概念である。利益がなくても経営を継続することはできる。つまり、利益は、経営を継続するための必要要件かもしれないが絶対的要件ではない。

 会計主体の社会的機能とは、財の生産と所得の分配にある。財の生産性ばかりを追求しても又、所得の分配ばかりを追求しても成り立たない。重要なのは、生産と分配の均衡なのである。そして、生産と分配の均衡を保つのが労働である。

 会計主体たいして会計の目的には、内的動機によるものと外的動機による物の二面性がある。

 会計主体というのは、社会的機関の一つである。故に社会的目的が優先されるのである。そして、利益概念は、社会的機能から導き出される命題である。

 そして、利益が、利益処分に還元されるという事によって、利益は分配目的によって計算されることが明らかになる。これも会計主体に対する思想の現れである。

 利益処分の目的は、第一に、株主配当である。第二に、経営者への報酬である。第三に、納税である。即ち、利益処分の相手は、全て会計主体の外部に位置する。かろうじて経営者が会計主体の内部に関わっているが、会計上は、外部に位置する。

 一番重要なのは、利益処分の相手が会計主体の外部にあるという事である。それは、利益に対する思想の現れである。利益処分の相手が外部にあると言うことは、会計主体の主体性が外部に依存していることを意味するからである。

 又、注意しなければならないのは、長期資金の取り扱いである。
 経営者が利益処分において当惑するのは、期間損益の原則に従うと、利益が上がってきた当初、長期借入金の返済が終わっていないのに、或いは、償却が終わっていないのに、利益処分によって新たな資金を調達せざるを得なくなることである。

 その為に、会計主体は、常に、慢性的な資金不足の状態に置かれているのである。

 その好例が税金の問題である。現代の会計基準からすると税は利益処分の対象である。納税額は、費用とはみなされない。
 即ち、現在の会計思想では利益は社会的分配の原資だと会計上定義されていることになる。だとしたら、その様な税の働きをも加味して利益は設定されるべきものでなければならないのである。

 重大な問題は、利益という計算上の数値が税や配当、報酬という資金流出を伴う行為の根拠とされている点である。しかも、利益が長期借入金の元本の返済原資だと言う事も見落としてはならない。

 所得を課税対象にするのは、間違いとは言わない。しかし、その場合、所得の持つ性格を前提として制度は考案されなければならない。
 長期的な資金の働きとそれに与える影響を見極めないと所得への課税は、経済に長期的な悪影響を与える。

 会計主体内部にある動機は、費用の中にこそある。つまり、費用対効果を計るためにこそ利益はあるといえる。その点を忘れてはならない。
 適正な利益は、適正な収益と適正な費用があって成り立つのである。そして、適正な収益は、極大な収益を指すのでも、極小の費用を指すのでもない。
 収益も、費用も、社会的な責務を果たす事が本来の働きなのである。なぜならば、収益は費用によって導き出され、費用は、所得や消費と表裏をなすものだからである。

分配の調整役


 利益の目的は、分配の調整にある。

 利益とは、会計主体の期間損益を計るための指標、手段である。利益は、経営目的ではない。利益は、目的ではなく、一種の信号のような情報である。
 いわば設定された目標のようなもので、前提条件と方程式によって定まる値である。故に、前提条件や方程式を変えれば、結果にも差が生じる。しかも、前提条件や方程式は、一定の制約上の下に任意に選択できる。つまり、自然現象のように客観的基準によって定められた方程式によって決まる絶対値ではない。

 労働が不足している一方で、仕事がなくて困っている者がいて、それが会計主体の収益の悪化によるとしたら、その原因は、会計制度の欠陥に求められるべきなのである。

 利益というのは、社会が経済目的を実現するために設定されるべきものなのである。社会的理念や国家観、経済観なしに決められる基準ではない。あくまでも任意な基準なのである。

 故に、利益を経営目的とするのは誤りである。それ以前に利益を設定するための思想が問われるべきなのである。利益の意味は、利益の働きから求められるべき概念である。いかに利益をあげるか以前に、利益によってどの様な社会を実現すべきかが重要なのである。

 単に、会計上の利益を追求するだけでは、道徳は、経済において無力となる。
 どんな事をしてでも、利益を得た者が正しいことになるからである。その顕著な例が、テレビの視聴率競争であり、映画の倫理観の問題である。
 兎に角、視聴率が高ければ、売れれば、ヒットすれば、正しいことになる。

 収益から金利や賃金、税金が支払える状態を維持できるように利益を設定するのが会計である。つまり、会計の目的とは期間損益を維持することにある。

 くれぐれも言うが、利益そのものが目的なのではない。

 例えば、経営効率のみを目的として利益の基準を設定すれば、生産性を上げればあげるほど一方で雇用は失われ、市場は過飽和な状態になり物が売れなくなる。しかし、個別の企業や国からすれば生産性を上げなければ競争力を失い、商品が売れなくなり競争に負けてしまい、産業が成り立たなくなることになる。これは矛盾している。明らかに利益の設定の仕方を間違っているのである。

 利益という勘定に実体はないのである。利益というのは、あくまでも計算結果、差額である。利益は、収益から費用を引いた結果、或いは、当期総資本(当期総資産)の期末残高から前期総資本(前期総資産)の期末残高を引いた値である。故に利益という勘定はないのである。

 費用は、平準化できても収益は平準化できない。その為に、一定の利益を恒常的にあげつつけるのは困難なことである。

 製造者は、商品を製造して売らなければ報酬は得られない。売り上げが落ちれば忽ち報酬が得られなくなるのである。そして、報酬は、消費を前提としており、消費は、固定的な支出を生み出すのである。製造、販売、報酬、消費というのは、一定の循環を保っている。収益は、この循環を制御する役割を果たしている。収益が上がらなくなると円滑な循環ができなくなるのである。そして、利益は、この循環が円滑に働いているかどうかを計る指標なのである。

 利益は、収益と費用とを均衡させるための指針でもある。

利益とは思想である。


 経営目的が個人の欲望を充たす動機に限定され、公の目的が見失われていることにある。経営目的とは、利益の根源である。
 それは経営目的が経済の本来の目的に根ざしていないからである。利益の追求は、経済の目的を実現するための手段である。経済、本来の目的は、労働と分配にある。会計主体は、経済の目的を実現するための手段であり、労働と分配を実現するための仕組みである。会計主体は、利益をあげるために存在しているわけではない。利益を目的としたら、会計主体は、利益をあげると言う目的の為に利益をあげることになる。
 利益をあげても当然その利益の配分に与(あずか)るべき人に渡るような仕組みになっていないのである。

 利益は、設定された前提条件と会計規則によって算出される値である。問題は、利益をどの様に設定するかである。それが会計上の規則(ルール)を構成する。利益は、経営目的と言うよりも会計上の目的であり、会計所の目的は、社会的目的に準ずるのである。
 社会的目的は、会計主体の社会的機能から導き出されるものである。社会的機能とは、社会的分配機能にある。即ち、労働者、経営者、投資家、国家、社会、取引先に対し、適正な所得を分配することである。その為に、利益は会計的に設定されている。

 現代の日本人は、企業は、利潤を追求とする事を目的とした機関だと、無条件に受け容れる傾向がある。その上で、企業の是非を論じる。
 しかし、利潤とは、利益という思想を根底とした概念であり、利益をどの様に定義するかによって変わってしまう。 利益とは、自由経済という思想を基にして会計の論理の上に構築された思想である。

 利益の算出方法によってその国の自由主義経済の根本思想は明らかになる。第一に言えるのは、会計主体に対する基本的認識である。会計主体を有機的結合に基づく共同体として捉えるのか、機械的結合に基づく機関として捉えるのかの違いである。機関として捉えればあくまでも収益性や生産性を目的とした追求することになる。それに対し、共同体として位置付けた場合は、雇用の確保や社会的責任を果たせるような利益構造にすることが第一義となる。

 近代経済体制以前は、建てた家、まだ、使用価値がある財産を経済的理由によって壊したり、放置することはしなかった。つまり、必要な財は、活用したのである。使用価値や必要性がなくなったことが家を壊したり、放棄する理由である。家を必要とする者がいて、家があるのに、家を壊すなどと言う反社会的な行為は禁じられていた。だいたい、家を建てるのは、共同体の重要な仕事の一つであった。

 利益というのは思想なのである。

 利益は、会計上の概念である。つまり、利益の問題は会計思想の問題でもあるのである。

 日本の会計基準に従って算出すると黒字になるのに、他国の会計基準や国際会計基準に従うと大赤字になると言ったことが問題となった。しかし、日本の会計基準に従って算出したことが違法だというわけではない。基準が違えば、利益に違いがでると言うだけの話なのである。つまり、会計基準とは任意の合意に基づく基準なのである。

 恐慌や金融危機など予測しえた経営者がどれ程いたか、また、いたとしてもどれだけの手筈ができたであろうか。この様な事態に対しては、国家や社会、業界も協力して利益があげられるようにする必要があるのである。
 その為に、利益を明らかにする必要がある。利益というのは、本来、合目的的な基準なのである。そして、利益は、社会的基準でもある。

 会計上は、賃金は、費用に過ぎないのである。つまり、現行の会計上においては、給与所得者は、会計主体に関わってはいない。故に、会計主体は、共同体ではなく、機関である。つまり、会計主体自体が主体的意志を持ち得ないという事である。

 利益の帰属先が会計主体の外部にあるとすれば、利益は会計主体の内部に蓄積することはできなくなる。つまり、会計主体は、資金の供給が断たれればば直ちに、破綻してしまう。そして、資金の供給は、借入と増資と収益しかないのである。そして、収益は利益に反映され、利益は、増資と借入に反映される。そこに利益に機能がある。利益が上がらなくなれば、資金の供給がおぼつかなくなるのである。だからこそ、会計主体は利益をあげようと努めるのである。しかし、それは結果であって、原因、即ち目的ではない。

 ただ利益の帰属先が外部にあることによって利益を内部で主体的に活用することが困難なのである。

 株主にとって利益は、自分が配当を得るための原資に過ぎない。配当を得てしまえば会計主体を継続させようと言う動機が、株主には、薄いのである。

 利益は、信号である。赤字が個々の企業固有の原因なのか、業界全体の問題なのか、国家的な原因なのかによってとるべき対策は違ってくる。又、一時的現象的なものなのか、恒常的構造的問題なのかによっても違ってくるのである。それを見極めた上で対策は立てられるべきなのである。

 金利は費用から差し引かれる。長期借入金の原資は、減価償却費と利益処分を引いた後の利益である。この点をよく理解しておく必要がある。

 利益は、単純に収益から費用は差し引いた値であると考えるのは浅薄である。
 利益を数値的な操作の結果だと勘違いすると利益は限りなく零に近づく。なぜならば、複式簿記の原則は均衡にあるからである。つまり、貸方と借方が等しくなるように働くからである。

 利益というのは、経済思想である。又、経済思想を具現化したものである。会計技術上の問題だけで利益を考えるのは、最も危険な行為の一つである。

国家財政と利益の関係


 利益とは何か。企業が利益をあげることで企業に関わる者が負(マイナス)の影響を受けることがあってはならないのである。企業が利益をあげるために、大量に人員が解雇されたり、又、下請けが潰れてしまうような事態になったら、社会的利益が損なわれることになる。それは、真の利益ではない。

 経済は、競争ではない。経済とは、人々を豊かにする為の活動なのである。
 利益をあげることによって人々を養うのである。つまり、人々を養うために利益はあるのである。競争力をつけるために、利益をあげるのではない。

 よくよく考えて欲しい。資本主義社会では、企業は、利益を内部に蓄積することが許されないのである。利益は、株主や経営者、そして、税として外部に還元されてしまう。しかも、利益処分をした後の部分は、借入金の返済資金にあたられるのである。つまり、利益をあげる目的というのは、内部にはないという事になる。

 景気変動の源泉は、儲けの絡繰り(カラクリ)にある。本来は、人件費の比率を高める事に合理化の目的がある。ところが不当な競争が合理化本来の目的を失わせている。

 経済現象というのは、連鎖反応によって引き起こされる。利益と財政、人件費と公共投資と言うように経済を構成する個々の要素を結び付けて考えられなければ経済を理解することはできない。

 利益を実現するのは、社会的規制である。
 利益を維持しているのも規制なのである。
 利益は、合目的的基準であり、そして、利益の意義は、その社会的規制によって求められるべきなのである。

 数学的合理性のみを追求すると利益は限りなく零に近づく。なぜならば複式簿記は、貸借一致の原則が働いているからである。貸借は一致するのではなく。一致させるのである。それが原則である。つまり、費用と収益が一致する方向に会計の原則は働いているのである。
 故に、利益を生み出すのは、規制であり、規制を成立させている目的、即ち、利益に対する社会的合意や社会理念、思想なのである。

 利益がなくなるという事は、収益も費用も平準化されることを意味し、人件費も平準化されることを意味する。つまり、熱力学のエントロピーと同じ原理が働くのである。

 会計に求められるのは、適正な利益の設定である。適正な利益というのは、適正な収益と適正な費用によって求められる。適正な収益は、適正な価格に依ってもたらされる。適正な費用とは、適正な所得と消費によって形成される。これらの均衡がとれた時、経済は円滑に機能するのである。

 国家は、貨幣を発行し、その貨幣を、銀行は、投資家に貸して株や国債、土地を買わせ貨幣を循環させた。だから、株や国債、土地が暴落すると貸した方も借りた方も破綻したのである。元々資産家が自前の資金だけで投資をしているだけならば、投資家が損するだけで銀行も国家も損はしないのである。

 財政収支は、資金が循環する過程で均衡する。故に、財政を健全に保つのは、資金を循環させる仕組みなのである。
 だからこそ利益が必要とされるのである。つまり、期間損益の重要性が生じる。

 利益とは何か。利益の役割をよく理解することが経済をしる上で重要となる。

 儲けのカラクリを知る上では、総額主義に依るか純額主義に依るかが重要となる。総額主義に依る粗利益率は、売上に占める原価の割合を知るためには、重要な指標となる。付加価値に占める人件費率を知るためには、純額主義に依る労働分配率を検討する必要がある。

 期間損益というのは、単位期間の収益と費用を対応させ、長期的資金と短期的資金の関係を明らかにすることにその意義がある。
 つまり、単位期間に費用をどう按分するかによって利益の在り方が違ってくる。そうなると償却をどうするかが重要な意味を持ってくる。

 財政赤字、財政赤字と騒いでいるが、財政のどこが悪いかを明らかにしないで、ただ赤字だから悪い。借金が悪いと言っているようにしか見えない。それでは国民を説得することはできない。
 財政収支で問題なのは、収支の落ち込みを借金で補い続けている状態が悪いのである。

 国も投資家も借金を元としているから財政も金融も裏付けとなる資産、例えば、地価が重要な役割を果たしている。

 貨幣というのは、決済の道具、手段なのである。貨幣は、決済のための道具であり、支払のための準備である。そして、貨幣は、支払準備だからこそ価値を持つ。支払のための準備であるから、支払のための保証が必要である。即ち、貨幣は何を担保としているかである。
 金を担保としているのが金本位制である。また、不兌換紙幣の発行とは、国家の信用、支払い能力を担保して発行されるのである。国家の信用を裏付けているのが土地と言った国の資産や徴税権、或いは、次の年の収穫、そして、国が発行する債券、国債である。
 又、通貨圏間の決済は、外貨準備に依って為される。通貨圏の取引に用いられる基軸通貨も貨幣の信用を裏付ける重要な要素である。
 金本位のように実物貨幣の場合は、金をもって通貨間の決済に使用する事が可能である。


       

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