4.貨幣的経済と数学

4-3 通貨の流れる方向と量

金は天下の回り物


 金は天下の回りものと言われる。貨幣は、循環することでその機能を発揮する。貨幣経済にとって貨幣の流れが重要なのである。

 信用乗数が好例である。貨幣が循環することによって信用が拡大する。それが信用乗数である。
 貨幣の回転する速度、即ち、回転率によって貨幣の効率は計られる。

 金が血溜まりのようにどこかに溜まり、血の巡りが悪くなる様に金が循環しないのが問題なのである。お金が滞留したり、偏ったりして循環しなくなると貨幣は、その効力を発揮できなくなる。なぜならば、貨幣は、循環運動をすることによって効力を発揮するからである。

 通貨というのは、間断なく流れていると思っていい。我々は、自分が銀行に預金をするとその預金に相当する通貨は、静止していると錯覚する。しかし、実際は、銀行から他の経済主体に融資される形で流出しているのである。

 通貨の滞留や偏った流れが恐慌やインフレーションの原因になるのである。

 実際の通貨の流れと流れによって派生した働きとは、明確に区別して考える必要がある。

 金の預かり票を発行してもそれだけで冨の移転が生じるわけではない。貨幣は、財の動きを促したとしても、それ自体に価値があるわけではない。貨幣は物と交換することの出来る権利を表象した物なのである。

 お金は使うことによってはじめて役に立つ。役に立たないという事は、価値がないという事である。お金は食べる事も、着る事も、住む事も出来ないのである。

 通貨は、流れることによって効用を発揮する。この点が重要なのである。

 例えば、公務員から、なぜ、税金を徴収する必要があるのか。徴税者が納税者に直接支払うのであるから、最初から差し引いた金額を提示すれば良いようにも思える。しかし、あえて税引き前の金額を支給し、その後で、納税額を差し引くのかというと貨幣が、分配を目的としたものだからである。
 貨幣は、分配というはたきを伝達する情報の手段なのである。また、分配という働きを伝達するための手段だから、循環しなければ意味がない。さらに、貨幣は、行使されてはじめて効用を発揮するもの、即ち、価値を発揮する物なのである。
 泥棒は、なぜ、お金を狙うのかである。それは、お金が、もっとも、有効な働きをするからである。お金は、直接、消費の対象にはならない。反面、お金は、欲しい物と交換することができる。そこに貨幣の価値の源がある。
 そして、この様な貨幣の効用は、貨幣が市場を絶え間なく循環していることを前提として発揮されている。

 つまり、分配、循環、交換が貨幣の働きを規定する。

 他国に資金を供与したり、貸与することは、冨の移転を意味するわけではない。通貨を通貨が不足しているところに流すことを意味しているのである。又は、自国の通貨が流通する範囲を拡大したことを意味するのである。資金は、負の働きをするのであるから、冨の転移と言うよりも負の転移と言える。
 供与したり貸与した先の通貨制度が違う場合は、信用を供与したに過ぎない場合もあるのである。
 問題は、通貨量の増減と供与した資金や貸与した通貨が自国に環流するかどうか、通貨の価値にどの様な影響を与えるかなのである。
 供与や貸与をしない場合、自国の通貨の流通する範囲や量を限定したり、又、通貨の働きを制約することを意味する。
 その是非は、供与先や貸与先に対する自国の通貨の働きで何を期待するのか、供与する目的、貸与する目的によって決めるべきなのである。
 自国の冨を転移するのではないかと言った皮相な考え方で判断すべき事ではない。

 市場経済では通貨は、常時流れている。常時流れていると言うより、常時流れるようにしているのである。
 通貨を常時流れるようにするための原動力は時間価値である。つまり、時間の歪みである。
 市場制度とは、電気製品に似ている。つまり、電気製品が、電気が流れることでいろいろな働きをする仕組みなのであるように、市場制度は、通貨が流れることによっていろいろな働きをする仕組みなのである。即ち、根本的に通貨が流れる仕組みでなければならないのである。
 通貨を常時流すためには、どうしたらいいのか。通貨が常時流れるようにするためには、通貨が流れなければ損をする仕組みにすればいいのである。
 だからこそ経済の仕組みに時間価値を持たせることによって貨幣を所有するだけで破損になる、言い替えると、使わなければ損になる様にしたのである。その時間価値が金利であり、利益であり、物価である。

 利益は時間価値の一種である。利益がなくなれば通貨は流れなくなる。
 市場経済では利益が上がらなくなれば、資金は回らなくなる。
 バブルというのは、実物市場で利益が上がらなくなった結果、金融市場に資金が流れ込むことによって引き起こされる現象である。

 貨幣の流れには、国際市場を廻る大きなうねりがある。この貨幣の流れのうねりが国際市場を形成し、又、個々の国家の経済構造を形作っていく。各国は、この貨幣の流れのうねりに併せて自国の経済体制を変化させていく必要がある。

 資金の供給量が増えるか、回転が上がればインフレーションになり、供給量が減るか、回転数が下がればデフレーションになる。

 国際市場を構成する国々は、国際市場の貨幣の流れのうねりに併せて経常黒字から経常赤字に、また、経常赤字から経常黒字にと対外関係を変化させる。その対外関係の変化が、変動為替制度下では、為替レート、自国の通貨の価値に反映され、そして、国内の産業構造を変化させる。
 この様な国際社会における貨幣の流れは、個々の国に流通する通貨の量に影響を与え、それが財政や家計、民間企業の状態を形作る。

 人と物の流れと貨幣の流れは、表裏をなす関係にあり、人や物の流れの反対方向に貨幣は流れる。言い替えると貨幣の流れる方向の反対方向に人と物の流れは生じる。
 経済の実相は、人と物の流れである。貨幣の流れは、人と物の流れを促す為に成立している。
 そして、貨幣経済では、先ず、貨幣が市場に流通していることが前提となる。

 公共投資は、貨幣を市場に浸透させることで潜在的需要を掘り起こし、喚起する働きがある。

 公共投資は、一旦取引によって収益に変換される。公共投資の原資は、借入と税収である。ただ、財政は、現金主義であるために、収入側における負債と資本、収益の仕分け、支出側における資産と費用の仕分けはされていない。
 取引によって収益に変換された後、一部は、費用として放出され、費用を差し引いた残高は、利益として計上される。利益として計上された部分は、配当と税と報酬に分配され、分配された後の残高は、負債の元本の返済の為、および、再投資の為の原資とされる。
 費用は、収益と個人所得に振り分けられる。

 プラザ合意後の円高不況、リーマンショック後の円高デフレと今の日本の景気は、為替の動向に振り回されている。
 この様な為替の変動は、通貨の流れによって引き起こされる。為替の変動には、通貨の流れる方向と量が深く関わっているのである。
 通貨の流れる方向や量はどの様に、又、どの様な要因によって定まるのかそれを考えてみたい。
 通貨の流れる方向は、第一に、通貨は、売る側から買う側に流れる。第二に、通貨は、借入をする場合は、貸す側から、借りる側に流れる。第三に、債務を解消する場合は、借りた側から貸した側に流れる。第四に、投資する側から投資される側に流れる。第五に、通貨は、金利が低い方から高い方に流れる。第六に、通貨は、物と逆の方向に流れる。物は、価格が低い方から高い方へ流れる。故に、通貨は、物価が高い方から低い方に流れる。第七に、購買力が均衡する方向に通貨は流れる。
 それに対して、通貨の流れる量は、第一に、貨幣の供給量に関連する。第二に、通貨は、取引を媒介にしてに市場に流通する。故に、市場の取引の量に比例する。第三に、取引の量は需給の基づく。
 また、円高、ドル安と言った通貨価値は、第一に、通貨の流れる方向によって定まる。例えば、売る側は下がり、買う側は、上がる。第二に、通貨の流れる量によって定まる。

 通貨の流れる方向や流量を決定する事には、債権と債務関係が深く関わっている。取引が成立すると通貨が流れることによって通貨が流れた量と同じだけの債権と債務が同時に発生する。
 債権と債務は、通貨が反対方向に流れる、即ち、決済されることによって解消される。

 経常収支や資本収支は、為替の変動に直接的な影響を及ぼす。経常収支においては、輸入する側は、自国の通貨を売って、輸入国の通貨を買うことで、物を買うのであるから、輸入国側の通貨は、輸入国に滞留し、輸出国は、売買取引によって財と通貨が交換されることによって輸出国の通貨は、自国に環流する。その結果、輸入国の通貨は、外貨準備高として輸出国に蓄積される。同時に、輸入国の通貨価値は、下落する。
 基本的に、経常黒字は通貨価値を押し上げる方向に働く。
 資本収支は、投資する側は、投資する相手国の通貨を借り、あるいは、買い。投資される側は、投資する側に通貨を貸す、あるいは売ることによって投資を実行する事で成立する。
 これらの働きが複合的に作用して為替相場は定まる。

 通貨圏間の力関係によって通貨の国際的価値は変動する。それが為替変動である。
 為替を変動させる要因は、通貨の動きである。通貨の相対的価値を決めるのは、貨幣の移動であるが、貨幣の移動を促すのは、人、物、金の流れである。
 つまり、通貨圏を越えて流れる人、物、金が通貨の相対的価値を決めるのである。
 人の流れを形成するのは、第一に、労働と収入、第二に、消費と支出がある。物の流れには、第一に、有形な物と無形な物、第二に、動産と不動産の別がある。金の流れには、第一に、実体的なものと名目的なもの、第二に、貸し借り、第三に、売り買いがある。

 国際市場には大きな貨幣の流れがある。その流れは、その時々の世界情勢によって流れる方向を変えている。
 貨幣の流れは、基本的に循環運動と循環運動が生み出す波動である。資金の流れの波動が経済に大きなうねりを生じさせるのである。
 貨幣のうねりは、家計、民間企業、財政の過不足として現れる。そして、その過不足を裏で調節するのが、金融の役割である。故に、超過預金、或いは、超過貸付の多寡と預貸率が重要な指標となる。
 又、国内の指標としては、経済成長や生活水準、所得水準、財政状態などが重要となる。

 特定の国や地域との関係だけで資金の流れを変えようとしても難しい。資金の流れは、その背景にある国際市場全体を総体として把握していないと理解できない。

 国債の問題は、国債が悪いのではなく。形が悪いのである。
 国債の形は、財政の形の部分である。財政は、収入と支出からなり、国債は、収入の一部を形作っている。
 税収と税外収入、国債が財政収入の形である。そして、税の形、税外収入の形、国債の形がある。税には、例えば、直接税や間接税、外形標準課税等の形がある。又、国債にも外債、内債などの形がある。この財政の形の歪みが国債残高を累積する原因となっているのである。

 資金の流れには、時間的、空間的に揺らぎ。経常黒字国があれば、経常赤字国があり、経常赤字国があれば、経常黒字国がある。国際市場全体から見ると経常黒字と経常赤字の総和和はゼロである。この事は、貿易収支においても同様である。総和がゼロと言う事は、黒字国は、赤字国を必要とし、赤字国は、黒字国を必要とする事を意味する。黒字が是、赤字が否かの問題ではない。
 ただ、一時点の状況を不変的な状態として是としてしまえば、黒字国は、外貨がひたすらに積み上がり、赤字国は、債務が累積する一方になるだけである。それではいつかは均衡を失う。或いは、全体の量が無限に拡散してしまう。
 黒字国は、赤字国を必要としている。赤字国は、黒字国を必要としている。それが現実である。しかしそれが永続的関係かというとそれは又話は別である。

 経常収支は、この様な関係をゼロサム関係という。
 資本収支も世界市場では総和が0になる。即ち、資本収支はゼロサムである。
 外貨準備高も世界市場では総和が0になる。即ち、資本収支はゼロサムである。
 また、基軸通貨国は、外貨準備に対して常に赤字であることが強いられる。

 資金は、回転することで効用を発揮する。逆に、回転が止まったり、停滞したりすると市場に重大な損傷を与えてしまうことがある。

 資金で問題となるのは、量と言うよりも、必要なところに必要なだけの資金が廻らないのが問題なのである。

 日本は、景気対策や災害対策を言う時、資金の投下量を問題とする。しかし、景気対策にせよ、災害対策にせよ、供給する資金の量より、いかに資金を循環、回転させるかの方が、重要なのである。
 通貨量は、供給量と回転数の積で決まる。景気対策や災害対策においては、供給量よりも回転数を高める事を考えるべきなのである。そうしないと財政負担が過大になる。
 砂漠に水を撒くようにただ金をバラ撒く様な政策は、資金の回転を生まない。景気対策や災害対策としては、大した効果が期待できない。
 逆に、効率的に資金が循環するような仕組みが予め出来ていれば、比較的少ない資金で効果的な対策が打てるものである。大切なのは、一時的な所得ではなく。安定した所得をどれくらいの期間継続的に支給できる体制や仕組みを作り出せるかなのである。

 金融政策ばかりに比重を置くから貨幣の供給量ばかりが不経て肝腎の回転数が上がらないのである。言い替えると、円滑に市場に貨幣が流れなくなるのである。貨幣が流れる道は収益である。安定的な収益を維持することによってのみ、資金の流れる道は確保されるのである。収益が圧迫されるのは、収益の流れる道を細くすると同時に、所得や雇用を不安定にするのである。

 私の父が若い頃は、度胸と運があれば一攫千金も夢ではなかった。
 私の父は、東京でガソリンスタンドを何十件か運営する会社の幹部をしていました。
 創業当時は、日本の高度成長時代に当たり、土地を買えば、確実に値上がりが見込め。マイカーブームの到来もあって収益も面白いように伸びてるいった。救済目的で購入し。当時は無謀だと言われたスタンドの土地も瞬く間の内に2倍、3培と値上がりし、最後には、10倍にも20倍にもなってのである。しかし、その時は、誰もそこに落とし穴があるなんて気がついていなかった。
 いくら地価が値上がりをしても収益に貢献するわけではない。第一売るわけにはいかない。売ったところで利益の過半は税金にもって行かれてしまうし、なんだかんだと経費を差し引くと手元に残る資金は、僅かなものである。
 高度成長にも陰りが見え、経済も成熟期にはいると先ず収益が頭打ちになり、それに対して費用の上昇が続くという現象として表れる。それが石油価格の高騰によって直撃を受けることになるが、それは、何とか経費の削減によって凌ぐことが出来た。
 ところが次ぎに来た急激な円高は、経費の削減だけでは追いつかずに資産の運用によって乗り切ろうとした。それは、結果的に負債の増大を招くのである。資産価値の急激な上昇は、実需をに基ずくものではなく。投機的なものである。その結果バブルの発生である。バブルが崩壊すると資産価値と負債との乖離が顕著となる。国は、それを不良債権処理として強引に処分させた。その結果、残されたのは、裏付けのない負債と負債が生み出すマネーの流れである。この裏付けのない負債とマネーが生み出す負の連鎖から、今の日本は抜け出せないでいる。

 この現象は、いずれは世界上に拡がっていく危険性がある。

 財政は、期間損益に立脚していない。しかし、収益と費用の不均衡が引き起こす、これらの問題は財政にも言えることなのである。特に、法人税を含めた所得税に課税、基盤を置いている国に顕著に現れる。
 経費の削減は、裏返すと所得と雇用を減らすことであり、収益の減少は、法人税を圧迫する。
 税制上の日本の赤字法人は、戦後ずっと右肩上がりで増え続け現在は七割までに達している。

 ちなみに、日本の経済成長によって生み出された廉価な商品は、洪水のように欧米の市場に流れこみ。欧米企業の収益を圧迫し、市場の規律を喪失させた。その結果、アメリカは、資産の運用によって収益の減少を補って今日に至っている。

 高度成長の背景には、低く設定された円の価値と低賃金が考えられる。

 市場を保護するというとすぐに関税を思い浮かべるが、大切なのは、市場の規律である。
 市場を保護するのは、関税ではない。大切なのは、規制である。むろん、何でもかんでも規制しろと言うのではない。重要なのは、公正な競争の実現なのである。
 競争、競争というが、最初から初期条件に極端な差があったら公正な競争など成り立たない。公正な競争を実現するならば、同じ条件、同じ前提の上で競わせるべきなのである。それを実現するのは厳正なルールである。

 金融界の人間ばかりではなく。産業界、特に、コモディティと言われる産業界の指導者の意見にも耳を傾けるべきなのである。

 大事なのは、資産、費用、負債、収益の均衡なのである。そして、その柱になるのが収益だと言う事を忘れてはならない。
 経済を支えているのは、負の部分と正の部分の均衡である。そして、収益と費用の均衡である。
 収益が圧迫されたら簡単に経費の削減に言及する者がいる。しかし、物事はそれほど単純ではない。経費の削減は、所得と雇用の減少に繋がるのである。たださえ収益が落ち込んでいるときに、所得や雇用の減少を促せば、景気が悪くなるのは必然である。しかも投資にも跳ね返る。問題は収益の維持なのである。収益を維持しなければならない時に過当競争を促すのは、言っている事とやっていることが逆である。

 廉価ではなく。適正な価格である。
 効率ではなく、適正な分配である。
 大量生産ではなく、必要な物を必要なだけ生産することである。
 利益は、目的ではなく、指標に過ぎない。
 競争から協調へ、対立から助け合いへ、量から質への変化が求められているのである。

 大切なのは、負債の厳格な管理と市場の規律に基づく収益の維持である。
 そして、それが国家の務めなのである。


財政と資金の流れ


 第二次世界大戦直後は、アメリカがヨーロッパや日本に資金を提供し、その資金を自国に環流することで自己の製品をヨーロッパや日本に対して輸出してきた。当初は、アメリカは経常黒字で、自国が提供したドルを環流することによって自国の産業を活性化してきた。そして、自国の通貨を国際市場に循環させることで自国の通貨を基軸通貨として通用させたのである。
 ドルが国際市場に浸透するにつれてアメリカは、経常黒字から経常赤字へと転じ、それによって国内の市場や財政、産業、家計の様相が変化してきたのである。この様な国際情勢がその時々のドルの価値を決めている。

 経常黒字が是か非か、経常赤字は是か非かを論じるのは、間違いである。経常収支が赤字になるか、黒字になるかの基準は、絶対的な基準ではなく。その時々の市場の状態や個々の国固有の働きによって決まる。また、その調整は、長い時間の座標軸によって決まるのであり、貨幣の流れる方向を単位期間の動向によってのみ見極めるのは困難である。単位期間は、国内の産業の有り様を認識するためにこそ有効なのである。経済全体の動向は、短期、長期の時間構造を見て判断すべき事柄である。

 経常黒字が是か、非かを問題とする前に、どんな国にしたいのか。何によって立国するのか。それを明確とすべきなのか。資源を輸出するのか、又は加工貿易に頼るのか、観光資源に立脚するのか、金融センターに徹するのか、国家の中核となる産業を何にするのかが核心なのである。その上で経常収支の状態を構造的に分析すべきなのである。
 先ず、国家観がなければ、具体的な施策は立てられない。国民国家ならば国民的合意が前提となる。

 経常黒字国と経常赤字国は、補完的関係にある。この関係をどう構造的に維持するかが重要なのである。資金の世界的な循環をどう制御するのか、それが問題なのである。

 大切なのは、貨幣の流れのうねりに抗することではなく。上手く利することである。為政者は、貨幣の流れのうねりを活用して自国の経済の状態を安定することなのである。

 変動相場制度が是か非か、固定相場制度が是か非かは、通貨制度の仕組み、つまり、技術的問題であり、本質的な問題ではない。変動相場制にも固定相場制にも一長一短あり。絶対的な仕組みではない。要は、その時点で最も適した仕組みを選択すればいいのである。
 ただ、近視眼的な捉え方だけでは、貨幣の流れの大きなうねりを理解することはできない。

 重要なのは、経常収支=民間部門の貯蓄投資差額+財政収支と言う等式である。民間部門の貯蓄投資差額は家計と民間企業の投資と貯蓄の差額を意味する。今の日本は、財政赤字を補ってもあまりある超過貯蓄によって支えられている。
 クラウディングアウトとは、国の借入が増大して民間企業の投資資金を圧迫する状態を言う。
 日本の特徴は、経常収支が黒字なのに、財政収支が赤字だと言う点である。財政収支は、貨幣の流れから捉えるべき問題である。すなわち、日本の財政構造が資金の流れを捕捉しきれない欠陥があることを示している。
 今のままで国債を増やしていけば、超過貯蓄を食い潰し、経常支出を赤字にしてしまう危険性があると言われている。しかし、基本的には、家計貯蓄投資バランス+企業貯蓄投資バランス+政府貯蓄投資バランス+財政収支=0の投資期が成り立っていることを忘れてはならない。家計部門、企業部門、政府部門、海外部門、全てを黒字にすることは出来ないのである。それが財政問題の本質である。
 何度も言うように財政が赤字だから悪いというのではない。問題はバランスである。バランスが悪いのである。形が悪いのである。
 それは、貯蓄投資バランスと収支の関係が明確でないからである。

 この様な財政状態を改善するためには、一つは、財政の仕組み、即ち、国家収入の仕組みを見直すと同時に、支出の在り方を見直す必要がある。支出の仕組みは、単に歳出の削減を意味しているのではない。
 例えば、期末や年末になるとやたらと道路工事が増える。その増える道路工事の内の何割かは、予算を消化するためになされる。予算を消化する理由は、一度つけられた予算を使い切らないと次年度予算が付かなくなるからである。この様な無駄遣いを排除することである。排除するためには、予算を執行する仕組みを変える必要がある。
 財政が悪化しているのに、支出を抑制する権限が末端期間にないと言った状態を改善すべきなのである。つまり、単年度均衡予算制度の見直しである。
 その上で税制構造を見直し、貨幣の流れを細くできる体制をとるべきである。その場合、所得、収益の資金の循環における働きを正しく認識する必要がある。また、税収以外の収入の道を増やすことである。つまり、国も儲けることを考えるべきなのである。

 又、内需、即ち、国内の消費経済の仕組みを確立することである。内需、外需の均衡が肝心なのである。内需を拡大するというのは、国内の投資と消費を拡大することを意味する。国内の投資や消費を拡大したいからと言ってお金をばらまくのは、かえって国の負担を増すだけである。資金の流れのどこに問題があるのかを見極めることが肝要となる。
 その他に、所得収支の改善を図り、貿易収支以外で経常収支の黒字を維持するように努める必要がある。貨幣の有効な活用が鍵なのである。それが日本の方策である。

 経済では、自国で必要な物資をいかに確保するかが、本来、最重要課題なのである。通貨問題も国際市場で自国の通貨がどれ程通用するのかが鍵となる。
 貿易も自国で自国民が必要な物資が全て調達できる国とそうでない国とでは前提が違う。そこに国力の差がある。
 アメリカは、自国にとって必要な物資の多くを自国内で調達できる。そこが日本とは違うのである。その上での貿易収支の赤字である。

 経済政策は、資金の流れの悪いところを見つけだし、その部分に対してどの様な施策を採るのかを決める事である。施策には、会計基準の見直し、税制の見直しや運用の改善、補助金の活用、金融政策の変更、公共事業の見直し、国家資産の売却、規制の見直し、他国との提携等がある。

 企業業績を向上させる目的ならば、重要なのは、収益の改善であり、単純に資金を供給しても損益上はかえって負担となる場合があることを留意しなければならない。

 日本は、財政は大幅な赤字であるが、経常収支や民間の投資貯蓄差額は黒字である。

 ではアメリカはどうかというとアメリカは三つ子の赤字と言われている。即ち、経常収支、家計、財政収支いずれも赤字だと言う事である。ではなぜ均衡しているのかというと、経常収支というのは、裏返すと資本収支と均衡している。つまり、大幅な資本収支によって財政赤字と家計の赤字を補っていることになる。それが可能なのはアメリカが基軸通貨国だからである。又、基軸通貨国だから経常収支を赤字にせざるをえないという事も言えるのである。

 基軸通貨国となるためには、自国の通貨が国際市場に浸透していて、尚かつ信認が保たれる必要がある。その上で、貿易や金融取引の決済に通用していなければならない。尚かつ、他国が自国の通貨を決済のための外貨準備として一定額所有している事が前提となる。
 いずれの場合も基軸通貨国は、国際市場に一定量、自国の通貨を供給することが条件となる。

 アメリカは、経常収支を赤字にすることで基軸通貨国の地位を不動のものとした。
 しかし、それは、アメリカの通貨、即ち、アメリカドルで決済する資産が存在するから可能なのである。それが石油と兵器である。その為に、アメリカは石油を護るために多大な出費と犠牲を払い。又、兵器を提供し続けたのである。
 基軸通貨国であるアメリカは、通常の貿易取引で使用される通貨以上の自国の通貨を国際市場に供給し続けたことになる。しかも中には、バーター取引のような取引も織り交ぜながら、自国の通貨を国際市場における決済理手段とする事を促してきたのである。
 それが、アメリカの経常収支の歪みを生み出し原因である。そして、それがアメリカの産業の収益構造にも歪みを生み出している。
 貿易収支の悪化は、国内の産業の収益力が低下した結果である。アメリカは、基軸通貨国であるために、国内の産業を犠牲にしてきたといえる。その点を承知しておかないとアメリカの現状や施策を理解することはできない。
 アメリカは、貿易収支の赤字を金融収支や資本収支によって補わなければならない状態となった。しかし、金融収支も資本収支も国内の雇用情勢の改善に結びつく要素は少なく、かえって所得格差を拡大させる要因でもある。そこにアメリカの苦悩が見て取れる。

 今後、中国がアメリカに取って代わろうとするならば、中国も同様の犠牲を払わざるを得なくなる。果たして、それだけの覚悟が中国にあるのかである。中国のみならずアメリカに変わって基軸通貨国たらんとするならば、相応の覚悟が必要なのである。単一の国家がその責任を負いかねるとしたら何等かの国際的な仕組みや枠組みが必要となる。

 基軸通貨国にはそれなりの利点はあるが、又、犠牲もあるのである。

 要するに、特定の国や勢力が利益を独占することはできない。それが神の意志である。

貨幣の循環過程と税制



 貨幣は、流れることによって流れた量と同量の債権と債務を生み出す。つまり、貨幣は、貨幣の流量と債権、債務の三つの要素からなる。この三つの要素は、必然的に三つの働きを生み出す。
 貨幣には、支出、所得、生産の三つの働きがある。貨幣の三つの働きは、取引を通じて流れることによって発揮される。故に、貨幣は、通貨とも言う。通貨が流れる事によってこの三つの働きは、各々、需要、付加価値の創造、分配の三つの側面、次元を形成する。そして、この三つの働きは等価になる。それを三面等価という。
 働きが等価と言う事は、全体の働きの総和は0になる。

 取引というのは、必ず相手がいる。取引は一人では出来ないのである。Aという人間が支出すると言う事は、必ず、その対極にAと言う人間以外の何者かの所得があるのである。逆に言えば、Aと言う人間の所得には、A以外の人間の支出がある。この支出と所得の関係の上に取引は成り立っている。そして、市場は取引の集合体である。
 つまり、市場経済は、支出と所得によって成り立っているのである。この支出と所得を関係付けているのが貨幣と財の流れである。
 故に、貨幣が流れると債務と債権が発生し、同時に、三つの働きが発効するのである。

 取引を構成する要素は、人、物、金の三つの要素である。

 生産の局面は物の局面と言える。それに対して、所得は人、支出は金の局面と言える。
 つまり、三面等価とは、人、物、金の三つの局面を表しているとも言える。

 経済の基本は、物の生産量と通貨の流通量、そして、消費者の必要性によって決まる。

 通貨は、常に流れているのである。又、常に流れていることを前提として市場経済は成り立っている。通貨が流れなくなると市場は機能しなくなる。これが、市場経済の前提である。
 通貨が流れると言うことは、循環していることを意味する。循環すると言う事は通貨が循環する周期、サイクルが問題となる。

 市場価値は取引によって成立する。取引は、貨幣と財との交換を意味する。取引が成立する、即ち、財と貨幣とが交換されることによって付加価値が認識されるのである。先ず、それが生産と言う局面を形成させる。次ぎに、貨幣を出して、財を受け取ると言う行為から支出が成立する。そして、貨幣を受け取って、財を渡すという行為から所得が成立する。支出は、重要を形成し、所得は分配を形成する。

 我々は、資本金とか、預金、税金などと言うとそこにあたかも現金が蓄えられている様に錯覚する。しかし、実際は、現金が実際にあるとは限らないのである。資本金も、預金も、貸付金も、税金も現金が流れた痕跡に他ならない。言い替えると現金が通過したことによって派生した働きに過ぎない。この点を忘れてはならない。貨幣価値とは、貨幣が流れることによって生じた働きを言うのである。

 銀行の預金残高が何兆円もあったとしても手持ちの現金が同じだけあるわけではない。むしろ、手持ちの現金は、預金残高に対してきわめて僅かである。だから、銀行が信用を失って取り付け騒ぎが生じると僅かな時間で手持ちの現金が尽きてしまう。それが、取り付け騒ぎである。
 預金残高がいくらあったとしても現金があるとは限らないのである。

 税制度を設計する場合は、税の働きを正しく理解し、それを税制度の目的に応じて組み合わせる必要がある。税制度を構築する時に留意する要点は、第一に、所得の再分配がある。第二に、公平性。第三に、捕捉性。第四に、徴税コスト。第五に税収の安定性。第五に、景気の安定化装置(スタビライザー)としての機能。第六に、合目的性。第七に、回収性等がある。
 この様な要件を貨幣の流れの中のどの局面を対象とするかが、税制を決める為の要点なのである。

 我々は、税の構造を考える場合、納税対象と納税率を問題とする。例えば、所得税とは、所得に対する税金であり、消費とは、消費に対する税金、固定資産税は、固定資産に対する税金であり、付加価値税は、付加価値を対象とした税金という具合である。しかし、それでは、税金本来の働きを解明することは出来ない。

 税制度には、フローを対象とする税とストックを納税対象とする税がある。
 フローを対象とする税には、消費税、所得税、付加価値税、取引税、法人税などがある。法人税以外は、現金主義であり、法人税だけが期間損益主義である。又、ストックを対象としている税制には、固定資産税や相続税がある。

 フローを納税対象とする税制は、通貨が市場を循環する過程で形成される。つまり、納税額を計算するための根拠は、貨幣が市場を循環することによって成立するのである。
 納税対象は、通貨の流れる量と通貨が市場を回転する回数の積である。納税額は、流量に対する納税率と回転数の積によって決まる。

 つまり、税の効能を知るためには、通貨が流れる過程が重要になるのである。
 例えば、百万円というお金自体は百万円の価値しかないが、しかし、この百万円で、何かを買ったり、サービスを受けると百万円の付加価値が生じる。それは、同時に支出となり、所得となる。その百万円を受け取った者が、更に、百万円で物の買ったり、サービスを受けたりすれば百万円が、総計で二百万円の付加価値を生む。この様にして百万円というお金が移動する毎に百万円の付加価値が積み上がっていくのである。しかし、その本となる現金は、百万円しかない。ここに錯覚が生じるのである。五回、百万円が廻れば五百万円の価値が生じる。そして、総計の五百万円を基礎として資産価値も、負債も、税も、利益も計算される。なぜならば、資産価値や負債や利益や税は、お金が回転する過程で形成されるからである。しかし、実際に存在する現金は百万円である。五百万円の現金があるわけではないのである。しかし、五百万円の価値が存在すると言う事は、あたかも、五百万円という現金が存在するが如き幻想を抱かせてしまうのである。

 百万円が五回転し、五百万円の貨幣価値を生み出し過程で支出(需要)となり、所得(分配)となり、生産(付加価値)となる。
 更に、支出や所得、生産の主体に応じて家計、企業、政府、海外の側面が形成される。

 2010年3月末で日本銀行銀行券発行残高は、77兆円で2010年の名目GDP479兆円である。銀行券は、概ね6.2回転していると言える。

 気をつけなければならないのは、負債は、需要も、分配も、付加価値も形成しないと言う点である。つまり、貸し借りを除いた部分が支出や所得や生産となるのである。

 通貨は、流れていることを前提としている。
 インフレーションやデフレーションにおいて、なぜ、通貨の供給量が問題となるのか。

 経済の働きには、通貨が流れることによる働きと残存価値による働きの二つがある。

 実質価値が低下している経済下、即ち、デフレーションでは、借金、即ち、負債による負担が、増大する。つまり、デフレーションかでは、借金の価値が相対的に上昇し、返済負担が増大する。

 税というのはただ掛ければいいと言うわけではない。インフレーションに利く税制度をデフレーションに導入すれば、かえって、デフレーションを昂進してしまう怖れがある。税制度を設計する場合は、貨幣の働きに基づかなければならない。さもないと課税目的を実現する事が出来ないからである。

 又、経済主体は、家計、企業、政府、海外の四つがある。この四つの経済主体それぞれに支出と所得と、生産という働きが生じる。それが三面等価の前提である。
 三面等価は閉じられた空間内部で生じる。故に、GDPのみではなく、GNPにおいても成立する。
 要は、三面等価は、経済主体における経済行為によって成立する生産、支出、所得の三つの働きによって成立する関係を意味するのである。経済行為とは、貨幣と財の受払と貨幣の流れである。

 総所得と総支出の値は一致している。という事は、総所得の出何処と総支出の行き先の按分が問題となる。

 要するに、収入をどこから得ているのか、そして、支出は何に使われているか。例えば、年金ならば財政支出である。
 又家計、民間企業、財政、海外部門は、所得も支出もゼロサム関係にある。所得と収益の差額が正なものと負なものがある。この差額が財政赤字の原因となる。

 経済というのは、全体の規模と部分を構成する比率の問題なのである。この点は、税制度も同じで、課税対象となる個人や企業にとっては納税額が問題となるが、国家全体で見ると分配率の問題になるのである。つまり、GDPの増減とGDPに占める割合の問題なのである。
 名目GDP増減に関わる仕組みなのか、名目GDPの増減には関わらずに比率に関わる仕組みなのかのである。

 財の流れを伴わない所得自体の移動を所得の移転という。
 所得移転とは、消費や投資という行為を省略して所得を移転する行為。消費や投資を経由しないために、名目GDPの比率を変化させても総量を変化させることはない。

 名目GDPの増減に関わるかどうかが所得移転か否かの分かれ目である。税制度経済政策を考える場合、この点は決定的な要素となる。
 なぜ、何の目的で新たな税制度を導入し、又、改めるのか。それは、景気をよくする目的なのか、それとも、所得の偏りを是正する目的なのか、それが、税制を決めるための鍵なのである。

 何を課税対象とするのかによって税制度の仕組みや働きは違ってくる。
 所得を課税対象としている税制が所得税、消費を課税対象としているのが消費税、付加価値を課税対象としているのが付加価値税。取引を課税対象としているのが取引税。固定資産を課税対象としているのが固定資産税。遺産を課税対象として相続税等である。
 ただ、日本の消費税は、実質的には付加価値を課税対象としているから付加価値税に近いと考えられる。

 税の働き、経済の仕組みのどの局面を基準の対象としているかによって経済に対する働きに違いが生じる。GDPの増減に直接かかわる税制度にするか、GDPの増減に関わらない所得の転移を目的とした税制度とするか、その目的によって選択すべき税制度は違ってくる。
 本来、税制度というのは合目的的な仕組みなのである。
 故に、税の働きや目的を明らかにしないで、税制度を設計することは、無謀な行為である。
 また、景気の状態によっても税制度の働きは違ってくる。前提条件を確認せずに増税や減税を繰り返すのは経済体制を疲弊するだけで終わってしまう。
 施策というのは、医療診断、処方と同じで症状と原因に合わせて施行されるべきものなのである。

 所得、生産、支出、どの局面に掛けるか、言い替えると人、物、金の何を課税対象とするか、それが重要なのである。
 また、フローに掛けるのか、ストックに掛けるのかも重要である。

 景気の循環運動が通貨の流量と回転数の積ならば、その周期が重要になる。

 消費税の徴収は、取引の都度であるが、納税は年に一回にまとめてされるのである。所得税の徴収は、所得が発生した都度であるが納税は年に一回にまとめてされるのである。






問題なのは貨幣である


 インフレーションもデフレーションも、バブルも、恐慌も、不況も、貨幣が引き起こしている現象なのである。貨幣がなければ、インフレーションも、デフレーションも起こらない。要は、貨幣が問題なのである。
 また、忘れてはならないのは、貨幣は、負の存在だと言う事である。

 今、問題なのは、物の経済ではない。人の経済でもない。貨幣の経済なのである。
 だから、貨幣経済では、貨幣が重要なのである。勘違いしてはならないのは、貨幣経済と言えども貨幣だけで成り立っているわけではない。ただ、貨幣経済で問題となるのは、貨幣の働きだということである。そして、皮肉なことに、貨幣経済で問題となる貨幣の働きが生じるのは、貨幣が全てだと錯覚することにある。

 多くの人は、貨幣価値に絶対的な価値を見出そうとするが、貨幣価値は相対的な価値である。貨幣価値を絶対視するから間違いが生じるのである。
 貨幣価値は、貨幣価値単独では成り立たない。貨幣価値が指し示す対象があって成り立つのである。貨幣は、交換手段であり、また、貨幣は交換価値を表象した物にすぎないのである。

 貨幣は、市場や財や目的によって独立した物、区分された物であった時代すらある。
 一律に単一貨幣だけで貨幣価値を測ることが効果的だとは限らない。目的に応じて、あるいは、財に応じて貨幣を使い分けるのも一つの手段である。
 また、貨幣も今日のように十進法に限ったものではない。四進法の時代や十二進法の時代や地域もあったのである。

 貨幣経済とは、貨幣を基盤とした経済を指すのである。貨幣を基盤としない経済とは、まったく違う仕組みで経済は機能している。だから、現在の経済を理解するためには、貨幣経済を理解する必要があるのである。その意味では、貨幣経済というのは、自明の体制、所与の体制ではない。人為的体制である。
 物の経済ならば、生産効率を高めることが重要となるし、人の経済ならば、組織効率や労働効率が問題になる。
 貨幣経済というのは、貨幣だけで成り立っているわけではない。貨幣経済で重要なのは、貨幣の役割と特性なのである。

 貨幣がない時代、或いは、あっても、部分的にしか貨幣が通用しない時代とでは、経済の在り方が大分違う。
 又、貨幣と言っても実物貨幣、兌換紙幣、不換紙幣と言った貨幣の性格によっても経済の有り様は違ってくる。
 つまり、貨幣経済というのは、貨幣があって成り立つ経済なのであり、貨幣経済が成立する以前の経済とは異質な経済であるし、貨幣の有り様によっても経済現象は変化するのである。

 貨幣経済では、貨幣経済固有の問題が発生する。
 貨幣経済には、貨幣固有の問題に端を発している事象が多くある。それを経済全般の問題と取り違えると貨幣経済の背後にある本質が見えなくなってしまう。
 「金」の問題だけれど「金」だけが総てではないのである。

 売るという行為は、財を渡して金を受け取る行為である。買うという行為は、金を渡して財を受け取る行為である。
 売買取引というのは、財と貨幣の双方向の流れを意味する。又、財と貨幣の二つの要素がなければ成り立たない。それが大前提である。
 又、財と貨幣価値は等価であることが前提となる。どちらか一方の流れだけを見ても取引の実体はつかめない。
 貨幣は、交換を促すことによって価値を顕現する。貨幣その物価値があるわけではない。同時に、交換が価値を持たないと成立しない。逆に言うと交換が成り立たないところでは貨幣価値は生じない。

 貨幣の流れを見極めないと経済を理解することはできない。そして、今日の中軸的貨幣は、不兌換紙幣である。
 貨幣には、実物貨幣、兌換紙幣、不兌換紙幣があり、各々性格が違う。それを一緒くたに取り扱うから経済がおかしくなるのである。

 厳密とに言うと実際に流れている貨幣は、ごく一部であり、大半の貨幣は流れているのではなく、充たされているといった方が妥当である。そして、銀行間のおいて決済されているのである。故に、決済の仕組みが重要となる。
 この点を鑑みると、労働と財、通貨の市場に流通する量、水準と流れる方向が均衡しているかによって経済の状態は決まると考えられる。

 市場を構成する貨幣価値には、動いている部分と静止している部分がある。貨幣は、動いている部分と静止している部分がある。そして、貨幣は、動いている部分と静止している部分では、働きに違いがあるのである。

 貨幣経済は、貨幣価値、即ち、数が貨幣という物的対象によって実体化されることによって成り立ってきた。

 実物貨幣や兌換紙幣は、数量に制限があり、貨幣その物が商品相場を形成する。不兌換紙幣は、基本的には物理的数量の制約がない。又、為替相場はあるが、商品相場の影響は受けない。

 紙幣は、貸出と公共投資によって市場に供給される。その元は、いずれも借金である。最初から紙幣が存在しているわけではないのである。

 公共投資は、大量の紙幣を市場に供給する。供給された紙幣は、初期投資以後、長い時間を掛けて回収される。回収の手段は、税金ではなく、返済である。返済の原資は、基本的に収益によって賄われる。即ち、紙幣は、投資によって市場に供給され、収益の範囲内で回収されるのである。投資された時点で市場に供給され、返済によって回収される。言い換えると投資によって紙幣は、市場の側に流れ、返済によって回収の側に流れる。日々の経済は、市場に流通する貨幣によって機能している。故に、市場に流通する通貨の量と流れる方向、回転数が経済状態を決定する。

 物価は、貨幣の供給量と回転数と利率で決まる。

 貨幣は、使用されることで効用を発揮する。つまり、「お金」は使うことを前提として成り立っている。つまり、今日の貨幣経済は、貨幣を使用することを前提として成り立っている。
 その為に、貨幣は、供給されるとすぐに使われる。言い替えると貨幣は、使うことによって供給され、循環する。
 貨幣の本質は、働きであって、貨幣は、その働きを仲介する物なのである。貨幣は、ただ持っているだけでは、何の役にも立たない。役に立たないどころか価値を減じていくのである。

 貨幣は、所得として供給される。貨幣は、供給されたと同時に、支出される。支出は、消費と投資と貯蓄に分類される。預金は、「お金」を貯める行為と見なされるが、実際は、金融機関への貸付である。貨幣価値には、時間的価値がかかるから時間と伴に減価する。故に、物価は、時間の関数である。

 金貨のような物としての価値を有する貨幣は、価値が時間に左右されることはない。しかし、物としての価値を持たない貨幣、例えば、紙幣やコインのような表象貨幣は、時間と伴に貨幣価値を減じる。
 故に、貨幣は、供給されると同時に使用される事を前提としている。

 この様な貨幣制度下では、供給量と回転数が物価を決めるのである。つまり、市場に供給された貨幣の総量が機能することを前提として成り立っている制度だからである。







キャッシュフロー


 キャッシュフローというのは、貨幣が流れた痕跡を意味する。
 我々が、一般に抱く「お金」に対する印象は、お札や、硬貨、即ち、物としての実体を持つ貨幣である。しかし、今日、自宅に金庫を備えてお金の現物である現金を蓄えている人は稀である。
 では、大量の現金はどこへ行ったのか。それは金融というシステムの中で流れているのである。今や現金は物としての実体が稀薄になり、情報となって経済を動かすエネルギーと化しているのである。
 だから、現在の経済を知るためには、貨幣の流れ、つまり、キャッシュフローが重要となるのである。

 経済主体というのは、貨幣が流れることによって動く仕組みなのである。貨幣が流れなくなれば、経済主体は成り立たない。つまり、電化製品における電気と同様の作用が貨幣にはある。
 電力同様、現金が不足しないように通貨を供給する必要があるのである。

 故に、通貨の問題は、電力問題によく似ている。発電量ばかりを取り上げて、必要量を忘れている。必要量は、使用量に基づいて割り出される。使用量は、何に対してどれだけの量の電力を費やすかによって導き出される。
 貨幣も量的問題ばかりが注目され、貨幣が何に対し、どの様に使われているかの問題が等閑(なおざり)にされている。それでは、貨幣本来の機能が発揮されるはずがない。なぜならば、肝心なのは、発電量でも、発電能力、送電量でもなく、電力をいかに効率よく活用するかなのである。使用目的も考えずに、発電効率や送電効率ばかり問題にしても意味がないからである。

 電気、同様、貨幣は、流れることによって効用を発揮する。貨幣価値は、貨幣が流れることによって生じる。物には、最初から貨幣価値が存在するわけではない。この点が肝心なのである。だから、貨幣は、流れている量だけが問題なのではなく。流れる方向が大切になるのである。

 その意味で、通貨というのは、我々にとってはスカラー的に振る舞うが、実際はベクトル的な働きをするのである。

 電力使用者が存在しなければ、産業として成り立たない。初期の頃は消費者が少ない。だから、電力の使用者の増加に全力が尽くされる。しかし、一旦、電気網が確立されたら、効率の良い電力制御が求められるのである。

 貨幣も当初は貨幣の信認を高め、社会に浸透させることが求められる。しかし、一度、信認が得られ貨幣が浸透したら、その次は、流通する量の制御と管理が求められるようになるのである。
 政府が直接発効する紙幣と、現行の紙幣との違いの意味が隠されていてる。紙幣は、当初、政府の借用書として流通するのである。現行の貨幣制度を理解するには、紙幣発行の仕組みが重要な鍵を握っている。

 金融機関は、資金の供給を通じて産業や生産を制御する。つまり、中央銀行が発電所とするならば、民間金融機関は、いわば、送電所、配電所にあたる。

 電力に強電と弱電があり、配電する過程で調整、制御されるように、金融の仕組みにも貨幣を供給循環させる過程で調整、制御されなければならない。

 過剰に貨幣が流れれば、貨幣制度は暴走するし、貨幣が流れなくなれば停電、即ち、機能が停止してしまう。それが貨幣制度の仕組みである。

 貨幣の供給量と流量を制御するのが金融制度の最大の仕事である。
 気をつけなければならないのは、貨幣の供給量と貨幣の流通量は違うと言う事と、貨幣の供給量と流通量は、それぞれ相互に影響しながら違う働きをするという事である。

 貨幣の供給量と流通量の差は、期間損益とキャッシュフローとの関係を知る事によって明らかにできる。

 水力でも、電力でも広い範囲に流すためには、圧力が必要となる。貨幣も同じである。貨幣にかかる圧力は金利である。金利は時間的価値である。金利の高い低いによって貨幣にかかる圧力は変化する。

 金融の仕組みが適正に機能しなければ、貨幣制度は機能しないのである。

時間の働きが経済を左右する


 市場経済では通貨が常時流れるようにしておかなければならない。通貨を常時流れるようにするための原動力は時間価値である。つまり、時間の歪みである。時間の働きが市場経済を動かしているのである。

 経済においては、時間の働きは、長さによって性格が変わる。経済的事象は、時間の働きは、長さによって性格付けられる。故に、会計では、時間は長さを基準にして測られる。

 投資が長期資金の流れを形成し、消費が短期資金の流れを形成する。投資と消費の比率が資金の働きを決定付ける。
 長期資金の働きは、市場に流通する資金を一定量に保つことである。短期的資金は、市場の分配機能を発揮させることである。そして、分配機能を有効にするためには、所得と消費を均衡させることである。それは、収益と費用の関係によって実現する。それが市場経済の構造である。

 消費は費用となり、収益に還元される。貯金は、投資となり負債に還元される。

 投資によって供給された紙幣は、消費に向けられて効果を発揮する。消費は、費用や収益、所得に転じるからである。消費によって分配は完結するのである。

 長期資金の回収は、収益の中から捻出される。つまり、収益は、長期的資金の回収を前提として設定されるべきものである。ところが長期的資金の回収、長期的資金の返済は、期間損益上は表面に現れてこないのである。そのために、収益が悪化したり、市場競争が激化すると長期資金流れが滞るようになる。挙げ句に、金融機関は、長期資金を引き揚げようとする。その為に、市場の資金が枯渇する現象が起こるのである。

 本来、長期資金を取り引きするはずの資本市場や金融市場が投機の的となり、短期的な資金が大量に流れ込んだと思ったら、何かをキッカケにして急速に引き上げられるたりすると、長期的資金の働きが攪乱される。そのことによって幾つかの国で通貨危機が発生した。
 これなどは、津波のような資金の流れのうねりが作り出した危機である。

 実体のない資金の流れによって引き起こされる現象によって実体経済が攪乱され、幾つかの危機を引き起こした例である。。
 実物市場で運用しきれない余剰の資金が手っ取り早く利益をあげようとして、金融市場や資本市場、商品先物市場に流れ込み、それがその国の信用制度の土台を切り崩してしまうのである。第一に言えるのは、実物市場で吸収しきれない余剰の資金の受け皿である。次ぎに言えるのは、実物市場によって資金を吸収できない収益構造の歪みをどうするかである。

 税の働きは、通貨の循環と所得の再分配である。所得の再分配の役割は、通貨を効率よく循環させることである。

 紙幣を公共投資によって市場に供給する期間と回収する期間とに時間的な隔たりがある。この隔たりを利用して長期的資金、即ち、市場に流通する紙幣の量を調整するのである。

 貨幣は、あくまでも経済活動の道具である。それ自体を蓄積することに目的があるわけではない。

 市場に流通する紙幣には、常に回収圧力が働いており、その圧力によって紙幣は、市場を循環しているのである。しかし、回収するだけでは、市場に流通する貨幣の量は、減少し続けることになる。故に、一定の投資を継続する必要性が生じるのである。しかし、闇雲に公共投資をすればいいのかというとそれでは、紙幣が市場から溢れ出してしまう。それ故に、供給する紙幣の量には、経済規模、市場規模に応じた制限がある。

 貨幣価値は分離量であり、数量は連続量である。

 手当たり次第に方策を講じるのではなく。何が原因なのかを見極めることが大事なのである。資産価値が下落することによって生じた問題は、資産価値を適正な位置に戻す方策を考えるべきであり、長期資金が原因ならば、長期資金を是正することが大切なのである。ただいずれ方策を採用する場合でもその基盤となるべき部分は収益に求めるのが本筋だという点を忘れてはならない。
 バブルという現象が資産価値の異常な高騰が原因でとしても、バブル崩壊後の資産価値が景気の足を引っ張っているとしたら資産価値を是正を躊躇うべきではない。逆に、収益が悪化している時に、長期資金の回収を急げば相手が破綻を促す結果になることを留意しなければならない。表に現れた症状だけで対処療法的な施策を施すとかえって事態を悪化する恐れもある。

貨幣は循環することによって効力を発揮する


 貨幣は、循環することで効力を発揮する。
 債権、債務の働きと貨幣の流れによる働きを明確に区分すべきである。そして、それが会計の原則でもある。
 貨幣の運動量は、貨幣が流れる量と速度の関数である。速度は、時間と距離から求められる。貨幣の速度は、貨幣が循環する速度でもあるから、貨幣の速度は、回転数として表現される。

 市場が貧相になっている。只、貨幣を循環させればいいと言うのではない。貨幣が循環する過程で起こる働きが重要なのである。貨幣の循環によって成立する市場がどの様な働きをするかが問題なのである。
 消費だけが通貨を循環させているわけではない。預金や決済も通貨を循環させる働きをしている。そして、消費や預金、、決済によってどの様な現象が起こるかを見極める必要があるのである。

 貨幣の働きは、貨幣制度の仕組みによって制御される。貨幣制度の仕組みとは、貨幣の発行から回収に至る過程にある。

 経済制度というのは、基本的に、相互牽制と均衡の仕組みである。相互牽制と均衡が市場の働きを規制し、産業の構造の重要な要素なのである。
 この様な相互牽制や均衡の仕組みは、経済量を表す数直線を比較することで解明することが可能である。
 貨幣単位は、数直線で表される。貨幣価値は数直線で表される。価格構造は数直線で表される。収益構造は、数直線で表される。費用構造は数直線で表される。

 経済現象は、数列として表現される。経済現象が継続を前提とした時から経済を表現する数列は無限数列となったのである。

 数列も一つの線分からなる数列と幾つかの線分を積み上げた線分からなる数列がある。

 貨幣は、流通循環することによって効能を発揮する。
 経済体制とは、貨幣が流通、循環することによって動く仕組みである。経済は人為的仕組みである。自然に成る法則ではない。人々の合意の上に成り立つ仕組みである。
 貨幣は流れてることによってその働きを発揮する。貨幣は停滞することは、効能を発揮するどころか弊害にすらなる。
 故に、企業は、手持ちの現金は、決算書に記載されている資金の総量に比べて少量である。資金繰りに失敗すれば、簡単に企業は潰れてしまう。そう言う仕組みに企業はなっているのである。
 決算書には、多額の金額が記載されているが、それらの多くは、潜在的貨幣価値を表しているのに過ぎない。

 貨幣は、資源化されることによって資金となる。資源化するという事は、現金化されることを意味する。つまり、流動性を持たされることによって貨幣は資源化するのである。貨幣価値は、流動性がなければ、名目的、即ち、見かけ上の働きしかしないのである。
 経済上計上される貨幣価値の量と市場に流通する資金の量とは一致しない。

 貨幣の運動量は、貨幣の流量と働きのである。
 財の働きは直線的な働きであるのに対し、貨幣の働きは、循環的な働きである。財と貨幣の働きの差は、取引における財と貨幣の運動の差としても現れる。財の運動は、個々の取引において完結するが、貨幣の働きは、次の取引に対して連鎖的に影響する。それは貨幣が交換の手段であることに起因する。
 故に、財の働きは単一方向のものなのに対して、貨幣の働きは、二方向の働きとなる。即ち、売りと買い、貸しと借り、入りと出と言うように必ず一つの方向の働きには、反対方向の同量の働きがある。その結果、働きの総和はゼロとなる。そして、その働きは、経済主体に対して内と外、自と他という形で表出する。

 この財と貨幣の働きの差は、費用の働きにも影響する。

 財の動きというのは、財の必要性に基づいた生産から供給という直線的な動きである。それに対して、貨幣の動きは、交換取引を前提とした循環的動きである。

 取引が成立するためには、買い手と売り手、即ち、人的要素。財、即ち、物的要素。そして貨幣の三つ要素がなければならない。

 これらの三つの要素は、人的流れ、物的流れ、貨幣的流れの三つの時系列的流れを形成する。
 人の流れは、労働から消費。また、労働と金との収支関係は、労働によって収入を得て、その収入の範囲内で市場から財を得て消費するという流れを形作る。
 物の流れは、生産から供給。即ち、財を生産して市場を供給するという物の流れに対して、物と金の収支関係は、財を生産する過程で支出して、財を供給して収入を得ると言うように流れる。物の流れは、支出してから収入を得るという流れとなるので、最初の資金は、外部の出資者から供給される事を前提とする。

 取引においては、取引の主体と相手に働く双方向の作用を基としている。それは、費用の働き中に、財の提供を受ける物のとしての働きと貨幣を支払うという貨幣の働きの差を生じさせるのである。費用は、収益、所得に転換される。つまり、費用には収益や所得という裏の働きがあるのである。

 財の働きは、生産から供給といった直線運動である。人の働きは、収入から支出と言った直線運動である。この物と人の直線的働きを貨幣の回転運動によって駆動し、制御するのが貨幣経済である。つまり、貨幣経済の動きは、ピストン運動みたいなものである。
 経済主体は、生産主体、消費主体、収入主体、支出主体の四つの側面を持つ。供給は、生産の範囲内で行われ、消費は、労働の対価としての所得の範囲内で行われる。そして、余剰の生産物や収入は、在庫や貯蓄に、即ち、ストックに廻される。
 貨幣経済は、経済の基数は、生産を分母とし、消費を分子とする。また、収入(所得)を分母とし、消費、支出を分子とする。その上で、貨幣価値は、ゼロサムになるような仕組みになっているのである。

 そして、生産は、労働と結びつき、労働は報酬となり、所得、収入に還元される。消費は、家計に結びつき、支出に還元される。
 つまり、生産(物的要素)と収入(貨幣的要素)は、労働という人的な要素によって結びつき。消費(物的要素)と支出(貨幣的要素)は、費用、家計、生活という人的な要素によって結びついている。その効用は、費用対収益によって測られる。その指針の一つが利益である。
 
 生産と雇用は関連しており、雇用と所得とは結びついている。所得は、負債の裏付けとなる。所得と負債は、収入に転化される。負債は、資産、債権へと形成する。収入は、支出、貯蓄とに転化される。支出や貯蓄は、消費、投資、費用となる。
 生産力が低下すれば雇用も低下する。雇用を減らせば所得も減る。所得が減れば負債の返済力が落ちる。負債の返済力が低下すれば、投資力も減退する。消費力も低下する。資産価値も下落する。そして、巡り廻って生産力も低下する。
 景気や経済の問題は、財の生産量、或いは、供給量と雇用(所得)、そして、通貨の流量の均衡の問題なのである。

 市場が成熟し、人件費が高騰すれば、高度な技術を必要とする特殊な商品、或いは、多様で手数がかかる高価な商品に携わる仕事か、その土地でしかできない仕事に雇用は偏ってしまう。
 重要なのは、適正な所得を分配できるような収益を維持できるように市場の構造を構築することなのである。その為には、適正な所得を維持することができる環境が前提となる。ただ、安さだけを追求し、無原則な競争を煽れば、雇用は損なわれ、結局、市場全体を収縮させてしまう。所得と収益は、経済の両輪なのである。

 経済の均衡を保つために求められるのは、勝者の自制なのである。

 現代人の多くは、経営の目的は利益の追求にあると錯覚している。利益は、一つの指標に過ぎない。経営の目的は、貨幣の循環過程において適正な費用を形成することにある。即ち、費用を形成する過程で所得を生みだしていくことにあるのである。

 適正な費用が維持されないから景気は回復しないのである。

経済主体によって資金は循環させられる


 経済主体が、貨幣を流通、循環することによって貨幣経済は成り立っている。

 故に、常時、企業や家計には、資金が供給され続けなければならない。その資金の源泉は、収益や所得が基本でなければならない。つまり、借金や贈与、相続は、臨時的なものであることが原則なのである。

 貨幣を得る手段は、働く(人)か、物(物)を売るか、借金(金)をするかしかない。

 貯金は、負債に、投資は、資本に、消費は収益に置換される。負債と資本は、長期資金として調達され、収益は、短期資金の調達に結びつく。可処分所得は、消費に向かい、非可処分所得は、長期資金の返済に向かう。

 経済上の運動量を規定するのは、貨幣の流れである。

 貨幣は、資源となった時、資金となる。

 資金の流れには、流れる方向と、速度がある。貨幣の流れる方向と速度は、貨幣の総量から求められる。貨幣の流れる方向と速度を求める手段は微分であり、総量を求める手段は積分である。

 資金の流れる方向は、第一に、不動産や株等、資産相場の水準。第二に、資産と負債との比率。第三に、金利水準。第四に、経済成長率。(収益力)第五に、費用対収益の比率。第六に、物価水準(費用の水準)等によって決まる。

 バブルが崩壊したことによって生じたデフレは、市場に、即ち、投資の方向に資金が流れず、貯蓄、返済、即ち、回収の側に資金が流れたことによって引き起こされた。
 それは、資産価値の高騰によって負債残高の水準が異常に高騰した後、資産価値の水準が著しく低下したことによって負債の残高と資産の水準が回復が出来ない程、不均衡になったことが原因である。
 この様な状況は、負債残高の水準を圧縮すると同時に、資産価値が上昇するような施策を採用する必要がある。

 投資のための資金は、資本家(資本)や金融機関(負債)から投資や融資を受けて建設業と資材産業へ資金を供給する流れをつくる。
減価償却費(費用)は、償却資産(資産)の借入の返済の原資となるから、粗利益(収益)から金融機関(負債)へ資金を環流する。人件費(費用)は、粗利益(収益)の中から所得(収入)として家計に供給される。その他の経費は、取引先の企業の収益として費用の中から供給される。

 収益は、単価×数量によって求められる。
 産業革命以後の市場経済は、数量を増大させることによって操業費用を削減し、単価を下げ、商品の回転を高めることによって成り立っている。その為に、市場は常に飽和状態におかれている。
 この様な市場の構造は、回転が止まると途端に破綻してしまう。

 資金が消費の方向に流れるか、投資の方向に流れるかが、重要なのである。
 投資にも、在庫投資、設備投資、建設投資、金融投資、軍事投資がある。在庫投資は、製造業に、設備投資は、機械産業に、建設投資は、建設業に、軍事投資は、軍事産業に資金を環流する。
 気をつけなければならないのは、軍事産業は、拡大再生産のない、自己完結型の閉ざされた産業だという点である。

 収益は、原価と付加価値から成る。
 経済的価値は、付加価値によって形成される。
 付加価値は、人件費と減価償却費、利子、地代、そして、利潤である。付加価値は、費用と利益によって構成されている。
 人件費は、所得を形成し、利子と地代、利益は、時間価値を形成する。
 資産に対する投資は、他経済主体の収益、所得の方向に資金を流す。資産には、償却資産(建物、設備)と非償却資産(土地)がある。償却資産は、費用性資産であり、将来費用に転化する資産であると同時、負債の返済原資となる。
 投資は、資産を形成すると同時に負債を発生させる。一度負債が形成されると負債に対する返済義務が生じる。
 元本(負債)の返済資金にあたる部分は、減価償却費(費用)と税引き後利益(資本)である。
 元本(負債)の返済と金利(費用)で、この部分は、金融機関に環流する。
 非償却資産の返済資金は、費用化されずに、新たな借入の因子となる。この部分は、長く滞留して、貨幣の通貨量に影響する。

 地価の下落すると借り換え資金の担保価値を減じてしまう。地価が下落している時に、収益が悪化すると負債の返済が滞ることになる。その時に、金融機関が資金の回収に走れば、連鎖的な倒産を引き起こし、結果的に金融機関の経営も危うくする。バブルの後に生じる金融危機の構造は、えてしてこんな事が原因となる。

 インフレーションやデフレーションのような経済現象は、名目的価値と実体的価値が乖離し、不均衡になる事によって生じる。また、名目的価値と実体的価値の長期的な働きと短期的な働きの相互作用にもよる。
 名目的な価値とは、貨幣に依拠する価値であり、実体的価値は、物の価値、即ち、物価である。
 名目的で長期的な働きは、負債と資本を形成し、名目的で短期的な働きは、収益になる。実体的で長期的な働きは、資産となり、短期的な働きは費用を形成する。

 インフレーションは、物や労働力の不足か、貨幣の過剰な流量のいずれか、また、両方によって引き起こされる現象である。

 資金はベクトルであり、故に、資金の外形的量だけで経済を解明することは不可能である。重要なのは、資金の流れる方向である。

 全体の力の方向性と個々の力の方向性が問題なのである。全体と部分との力関係、つまりベクトルの問題である。

 市場経済では、市場の運動は、取引として現れる。
 取引とは、物と貨幣価値とを一対一の対応によって結び付ける操作である。貨幣は、取引を仲介する媒体である。
 物とは三次元的対象である。貨幣価値は、無次元の量である。取引とは、三次元敵対象を無次元の量に変換する操作である。

 貨幣価値は、方向と量を持った数値的価値である。数量を示す方向性と非対称性が複式簿記を考える上で重要となる。

 ベクトル空間では、始点を原点とし、働きの方向と量を測る。

 何が起点なのか。何が基点なのか。何が、原点なのか。何が始点なのか。何が中心なのか。
 経済分析の多くは、統計資料を基として成される。統計に基づいて経済分析をする際、統計の前提をよく確認する必要がある。統計は、距離が重要な概念である。つまり、統計とは、範囲の問題であり、中心の問題であり、バラツキ、偏りの問題なのである。

 貨幣が生み出すベクトル空間に時間軸が加わることによって貨幣は効力を発揮する。

 貨幣の運動量は、距離と時間の関数である。仕事量は、運動量と時間で決まる。
 
 資金の流れには、流れる方向と、速度がある。それが固定性と流動性、長期、短期の違いを生み出している。

 時間的、空間的金利差は、資金の流れる方向と速度に影響する。時間的というのは、過去、現在、未来の金利差である。時間的金利差は、長期、短期である。又、未来は、予測の域を出ない。空間とは、特に、国の内外の金利差が影響する。

流動性と速度


 資金は、流動性と流れる速度によって働きに違いが生じる。
 流動性とは、換金化されるのにかかる時間の差によって生じる基準である。即ち、流動性が高いというのは、換金する時間が短いことを意味し、必然的に、現金が最も高い。それに対し、換金に時間がかかる多くの固定資産は流動性が低いことになる。
 流れる速度とは、回転する速度を言う。長期的資金、即ち、回転速度の遅い資金と短期的資金、回転速度の速い速度では、働きと役割に差が生じる。

 貨幣の時間的働きの違いが、長期的資金と短期的資金の差を形成するのである。長期資金とは、単位期間内では、時間が陰に作用する資金を言う。短期資金とは、単位期間内で時間が陽に作用する資金を言う。資金の動きによって短期か長期が決まる。

 資金の流れは、調達から、運用・投資への方向に流れる流れと回収から返済に流れる流れがある。
 経済の仕組みとは、本来、灌漑設備のようなものである。

 投資はキャッシュフロー、生産手段に対して支払われる資金の流れである。
 財務キャッシュフローが表すのは、取引や経営に必要な資金の調達と貯蔵、そして、返済(回収)として活用される資金の流れである。
 営業は、労働と分配に対する資金の流れである。

 貸付金の減少は投資の収縮を意味し、預貯金の増加は、消費の減退を意味する。目安となるのは、超過預金額である。

 貨幣は交換手段、資産は、生産手段、所得は、分配手段である。

 労働の対価として所得が支払われ、それが、消費と貯蓄にまわされる事によって貨幣は循環する。所得は、労働の質と量に対する対価として支払われる。

 長期的な場というのは、必ずしも現金の動きを伴っているとは限らない。過去の現金取引の名残や返済義務のような部分が多分に含まれている。それらが、債権や債務を形成し、資金の流れる方向を決定付けている。

 長期資金は資金の流れる方向に作用する。

 長期資金には、運用圧力と回収圧力が常にかかっている。運用圧力は、利益に還元され、回収圧力は、金利に還元される。利益は、資産が、費用化され収益に転じる過程で生じ、金利は負債が費用に転じる過程で生じる。クロス取引である。
 圧力は、金利と元本の返済によって発生する。金利と元本の働きは、働く部分に違いがある。期間損益に基づくと短期資金に作用するのが金利であり、長期資金に作用するのが元本の返済である。

 金利と配当では構造的に共通している部分があるが、根本が違う。大体、元本は返済されるが、資本は返済されない。なぜ、株式投資をするのか。キャピタルゲインは最初から期待されていたわけではない。

 期間損益というのは、費用対効果の関係を明確にすることによって資金の流れを円滑にする目的によって形成された。故に、期間損益を真に有効たらしめるためには、貨幣の流れる方向と損益の関係を明らかにする必要がある。
 その為に、近年キャッシュフローが重視されてきたのである。しかし、現状を見るとキャッシュフローを明らかにすることの本当の意義が理解されているわけではなさそうである。それがキャッシュフロー万能の様な誤解や、又、現金収支、資金繰りとキャッシュフロートを混同する様な混乱を招いている。
 実際の資金の動きを知りたいならば試算表を解析するに限る。
 ならばなぜ、キャッシュフローを改めて計算する必要があるのか。それは、短期、長期で資金の動きがどの様に変化するかを知りたいからである。キャッシュフローというのは、資金の働きによって資金の流れを分類したものである。
 資金の働きをキャッシュフローは、営業と投資と財務キャッシュフローに分類する。

 キャッシュフローの観点からすると初期投資と運転資金によって形成される構造が産業の特性を構成する。


金利と利益の力関係


 金利と利益の力関係によって資金の流れ方向は変わる。

 資産価値の低下を招いているのは、資産の質の問題か、流動性の問題かを見誤ってはならない。

 レパレッジ効果とは、見かけ上の価値を増幅することで利益を嵩上げしているのであり、元の利益率は低い場合が多いのである。

 レバレッジを利かせれば見かけ上の価値は増幅される。

 国債は、借金なのであろうか。国債は、紙幣の裏付けではないのか。借金だと認識するから、国債の働きを正当に評価できず、かえって、国債の量を無用に膨らませてしまうのである。

 負の部分が貨幣循環の原動力となる。負の部分の働きが資金の流れる方向に決定的な作用を及ぼしている。負の部分の働きを定めるのは、資金の流れる周期、即ち、長期的資金であるか、短期的資金であるかである。

 国債は、表象貨幣制度において貨幣の流通に伴う、反対作用である。つまり、国債があるから表象貨幣制度は成立し、かつ、安定する。
 国債の働きは、紙幣の流通量の総量を制約する。金利の動向を定め、金利の下限、上限を制約する。
 国債は、通貨の総量を規制し、財政は、通貨の増減を調節する。
 それによって物価や景気を制御する。又、公共投資の有り様によって国債の性格は、負債に近いものか資本の近いものかを確定する。
 また、国債は、外貨準備金を用意し、経常収支の過不足を補う。国債が外貨建てか、自国通貨建てかでその働きに違いが生じる。
 
 貨幣を直接、国家が発行すると債権と債務の関係が成立せず。通貨の流れる方向と流量を制御する手段が限定的になる。即ち、国家と通貨の発券機関を別にするのは、技術的問題である。

 経済で問題なのは、人的経済、物的経済、貨幣的経済が一体でないことである。人的経済の運動量は労働量であり、物的経済の運動量は生産量であり、貨幣経済の運動量は、貨幣量である。これらの三つの量を均衡させることが経済の仕組みに求められているのである。

 財政問題は、収入と支出の不均衡の問題である。収益と費用の不均衡によるのではない。

 収入と支出とは、現金収入と現金支出を意味する。つまり貨幣の放出と回収である。財政の本質とは、この貨幣の放出と回収に他ならない。なぜ、貨幣を放出した上で回収しなければならないのかというと、貨幣の働きは、循環することによって発揮されるからである。そして、貨幣を回収しなければ、貨幣の量を制御できなくなるからである。

 所得と収益と税の関係が重要となる。それは、所得(労働)と収益(売上、売価)と税金(税制)の均衡の問題でもある。
 留意しなければならないのは、税には反対給付がないという点である。

 利益とは、収益と費用の差額を意味するのである。故に、実体は、収益の源泉と費用の中味である。
 賃金と物価との比較が重要となる。
 低賃金、失業をとるか安物をとるかの問題でもある。単純に安物を奨励するのは、低賃金や失業を奨励することをも意味するのである。それは所得格差をも増長する結果を招く。

 今の世論は、何でもかんでも安ければ良いみたいに囃し立てるが、収益の対極に所得があることを忘れてはならない。収益が圧迫を受ければ、所得は減退するのである。安いという事は、単価を下げることを意味する。単価を構成するのは費用と利益である。所得は収益の一部を構成する要素であることを忘れてはならない。過当競争によって一定の単価が保てなくなれば、人件費は削減されるのである。収益は、単価×数量によって求められる。産業革命以後の市場経済は、数量を増大させることによって操業費用を削減し、単価を下げ、商品の回転を高めることによって成り立っている。その為に、市場は常に飽和状態におかれている。過飽和にある市場は、何等かのキッカケによって暴走する危険性を常に孕んでいるのである。
 見方を変えると安物、物価をとるか、所得や雇用をとるかの選択とも言えるのである。



貨幣経済における貨幣の流通量と方向


 貨幣価値は、無次元の量、即ち、自然数の集合である。
 故に、貨幣価値は、上限が確定されていないと無限に発散してしまう。
 紙幣の発行量は、貨幣価値の総量を制約する。
 財政問題の基本は、貨幣の流通量をいかに制御するかの問題である。貨幣の流通量を制御する仕組みは、貨幣の発行の仕組みと金融の仕組み、財政の仕組みからなる。金融の仕組みは、貨幣の循環の仕組みであり、財政の仕組みは、貨幣の放出と回収の仕組みである。
 貨幣の発行量が発散傾向を持つか、収束的傾向を持つかは、財政構造による。そして、その根本は、数学的問題である。
 貨幣の供給量に制限を加えるのが国債なのである。

 貨幣経済体制においては、貨幣の流通量と方向が経済的働きを決定している。そして、債権や債務は、資金の流れる方向に作用しているのである。

 市場や経済の規模に対して適切な量の貨幣が偏りなく供給される事が経済状態を安定させる条件となる。経済が不安定なる原因の一つには、市場規模や経済規模に比して過剰に貨幣が供給されたり、又、逆に貨幣の供給が途絶したり、又、偏りが生じるといった貨幣の供給の齟齬にある。

 市場の拡大や収縮に併せて貨幣の流通量は調節されなければならない。

 財政の健全さを分析するためには、収入と支出の問題は、一旦、切り離して考えるべきである。

 財政収入は、手段による制約を受ける。財政収入の手段は、通貨を回収する仕組みによる。つまり、財政収入の問題は、通貨を回収する仕組みの問題である。
 通貨を回収する仕組みは税制と事業収入、そして、通貨発行益、即ち、シニョレッジ、株式発行益である。株式発行益は、国営事業を民営化する際に発生する。貨幣発行益は、公的債務と公的債権を形成する。通貨発行益(シニョレッジ)や株式発行益は一時的収入である。また、通貨発行益は、財政上に発生するとは限らない。通貨発行益は、通貨の発券機関に帰すからである。
 ただ、いずれにしても財政を立て直すためには、通貨発行益(シニョレッジ)や株式発行益の活用が鍵を握る。

 又、財政の健全さを保つためには、税制は、経済規模を捕捉できると同時に、経済の方向を調整できる仕組みが組み込まれた制度でなければならない。

 負債は、資金調達手段の一種である。長期負債と、短期負債とでは、働きや運用に違いがある。国債であれば、長期国債と短期国債は、目的によって区分される必要がある。

 表象貨幣の根源は、無期限の負債であり、紙幣の起源は、借用証書である。
 紙幣の発行によって、同量の公的債権と公的債務が発生する。即ち、貨幣の発行によって生じるのは、貨幣、公的債権、公的債務である。
 公的債権は、紙幣の正の働きを公的債務は、紙幣の負の働きを表現している。

 借金は、必ず返済しなければならないと言うのは思い込みである。国債のような、公的債務は必ずしも返済を前提としていない。なぜならば、公的債務の対極に公的債権があり、通貨量の上限を画定する働きが公的債務にあるからである。問題は、公的債務が無限に発散する場合である。
 これは企業経営にも言える。企業経営にとって負債は、障害ではない。ただ、問題は、収益が悪化した時に、長期的資金を回収されたりして資金が行き詰まる場合と際限なく負債が増殖する場合である。しかし、長期資金が回収されるのは、経営上の問題と言うより金融上の問題である。

 重要なのは、公的債権、公的債務と流通する資金の量が経済規模に適合しているかである。公的債務、公的債権、流通する通貨の量が不均衡になると物価の上昇を招いたり、財政破綻を引き起こしたりする。又、国債の量を抑制することができなくなる。その目安は、プライマリーバランスにある。

 企業経営においては、債権、債務に対する利益や金利の比率である。

 国債を清算する手段は、税や事業収益、株式発行益によって通貨を回収することである。貨幣を清算する手段は、負債の返済による通貨の回収である。
 国債の残高、財政収入と支出、貨幣の供給と回収、これらの均衡が保てなくなると国債は、際限なく発散する。

 財政支出は、財政の機能によって求められる。財政の機能とは、行政機能と所得の再分配機能、そして、社会資本に対する投資がある。
 故に、財政支出を構成するのは、所得の再分配の原資、公共投資、行政費用である。
 つまり、財政支出の問題は、第一に、直接所得と所得の再分配をどう結び付けるかの問題、第二に、再生産、再投資に結びつく社会資本かどうかの問題、第三に、行政支出(国防費、教育費を含む)の効率化の問題の三つの問題といえる。

 所得の再分配が問題になるのは、所得と再分配の原資が乖離している場合である。再分配に所得の変化を反映できないと直接所得と再分配が連動しなくなる。その為に、不景気になり、直接所得が減少しているにもかかわらず再分配のための原資が膨れあがるという現象が引き起こされる事象が生じるのである。

 又、公共投資の問題は公共投資が拡大再生産や再投資に結びついていない事が主たる要因である。既得権益との結びつき、また、公共投資が硬直化することも問題なのである。
 公共投資は、国家構想に基づき長期的展望に立ち、その年度その年度の景気の状態に併せて勘案されるべきものである。場当たり的な景気対策として活用すべきものではない。

 財政を悪化させるもう一つの原因は、行政支出が過大である場合である。
 特に国防費は、その上限を画定しにくい科目である。それは、国防費は、費用対効果の測定が難しい上に、何分にも相手がいることだからである。
 国防は、国防思想に基づくものであり、国防思想は、建国の理念から導かれるものであることを忘れてはならない。その上で軍事行動は、最も財政を破綻させる要因であることを念頭に置いておく必要がある。

 財政赤字が解りづらいのは、民間企業と違い、赤字が現金収支を本にしているからである。現金主義では、資金の長期的働きと短期的働きが区分できない。その為に、費用対効果が曖昧になるのである。
 財政における会計的問題は、長期資金と短期資金との切り分けがされていない事に一因がある。
 行政の費用対効果を測定するためには、行政支出の一部を期間損益主義に切り替えるのも一つの策である。
 財政の基本である現金主義と期間損益主義の違いは、現金主義が単年度均衡主義なのに対し、期間損益主義は、長期均衡主義である。故に、現金主義と期間損益主義の違いは、長期資金に対する扱いに端的に現れる。
 期間損益に切り替える目的は、長期資金と短期資金を切り離し、費用対効果を明らかにすることにある。当然最終的には、労働と分配を結び付けることに帰着する。つまり、利益という思想を公共事業に導入するのである。その手段の一つが民営化なのである。その目的なくして、何もかも民営化してしまえと言うのも乱暴である。要するに、民営化の効果は、事業の働きと目的によるのである。

人、物、金の動きの偏り


 経済の異常現象の原因は、物質的な要因として、過剰生産と物不足の二つがある。貨幣的観点から見た要因は、貨幣の過剰供給と貨幣不足。人的要因から見ると過剰消費と買い控えである。
 人、物、金の動きが一方に偏った時、経済は抑制を失うのである。この様な偏りを防ぐために市場の仕組みと規制が必要となるのである。

 また、規制にも、物に対する規制、金に対する規制、人に対する規制がある。

 物不足は物不足である。金に振り回されていると物不足の現実が見えなくなる。物不足の原因も配分に偏りが生じているのか、絶対量が不足しているのかによって規制の在り方にも違いが出る。
 物流は、差によって起きる。しかし、物流を滞らせるのも差である。差の働きに期待しながら、いつの間にか解消できない差が付いてしまう事がある。

 必要な物が、必要なだけ(量)、必要な時に、必要としている人のところに供給される仕組みが経済の仕組みの土台となるべきなのである。

 所得の差がなくなれば流動性は低下する。極端な格差は、貨幣の偏りを生み貨幣効率を低下させる。いずれも貧困の原因となる。貧困とは、生活に必要な物資が乏しい状態を言う。
 それは、単に貨幣の過不足の問題とは限らず、生産の問題か、所得の問題か、消費の問題かそれを見極めて対策を立てるべきなのである。

 第一次大戦後のドイツのハイパーインフレも金本位制度下における金不足に起因している部分があると思われる。

 規制というのは、非常に繊細である。どの様な効果を期待し、何を、どの様な局面を、どの様に規制するか、それによって規制の効果は微妙に違ってくる。
 例えば、バブルを潰そうとして執行された金融規制の際、ノンバンクと農林系金融機関に対する規制がもれたために、その後、ノンバンクと農林系金融機関が大打撃を受けることになる。
 規制を有効ならしめる為には、市場の仕組みに熟知している必要がある。市場の仕組みを上手く活用しないと規制は有効に機能しない。市場の仕組みに逆らえば、当初期待した効果を上げられるどころか、逆効果にすらなりかねない。

 市場を成立するために必要なだけの貨幣を供給する局面と市場に必要なだけの貨幣を供給した後の局面では、市場環境に違いがある。必然的に、仕組みも、施策も規制も違ったものになる。

 表面的な現象に目を奪われがちであるが、実際の市場取引は、思われているほど複雑なものではなく、単純である。即ち、売りと買いが原則である。売り圧力が強いか、買い圧力が強う科によってお金の流れる方向が決まり、金の流れる方向によって全体の水準が上下するのである。

 この様な市場取引の性格と市場の仕組みを前提として考えると、直接的に取引に介入するような規制は、リスクが高い上にあまり効果が期待できないので得策とは思えない。
 例えば、変則的(イレギュラー)な取引を規制したいと考えた場合、変則的な取引が発生する原因や仕組みを変えるべきなのである。取引そのものに働きかけたり、取引そのものを規制しようとしても狙った効果が上げられるとは限らない。変則的な取引と言えどもその取引が発生した要因がある。又、どの様な副作用、影響がどこに出るかの予測がかえって付きにくい。
 異常な取引が資金の流れに起因している事象ならば、資金の元を閉めるとか、資金の流れに何等かの負荷をかけるとか、資金の流れる方向を変えたり、分散させるのも一つの手段である。又、障壁を設ける手もある。基準を変えるのも効果的である。資金の流すパイプを太くするのも手段である。取引の前提となる条件に範囲を特定したり、制限、制約を設けるのも一つである。規制というのは、仕組みに対して構造的な掛けるものであり、力ずくで抑え込むことではない。
 現代経済の混乱は、負と規制の働きを認めないことに起因している。

 新興国の景気が良くて先進国の景気が悪いというのを言い換えると新興国では物がよく売れて先進国では物が売れないという事である。考えてみれば、これは当然のことである。市場が成熟した先進国では物が売れず、拡大期に入った市場の新興国で物が売れているだけである。問題は、物の流れに対して金の流れが追いついているかである。
 一つは、所得の問題がある。停滞した市場から拡大している市場により多くの物が流れるのは道理である。しかし、その為には、拡大している市場に多くの交換手段、即ち、貨幣の供給がされていなければならない。その為に、所得が新興国の市場に転移する。その時に生じる落差が経済的混乱を引き起こすことがある。
 つまりは、新興国と先進国の市場の問題は、物の問題であり、所得の問題である。それに対して、景気の動向は金銭的な現象だと言う点にある。人、物、金の問題が乖離して別々の動きしてしまうことが問題なのである。

 過当競争を放置すれば、収益は、限りなく圧縮され、利益は失われ、付加価値は削減されていくことになる。
いい例が、知的所有権である。知的所有権は、保護されなければ、無価値な権利である。ある意味で、知的所有権は利権の最たるものである。知的所有権が利権化するのは、知的所有権のみが特別扱いを受けているからである。
 市場競争は、価格を適正化するために、不可欠な要素ではあるが、絶対的な要件ではない。

 以前の日本人は、お互い様、お世話様、お陰様と挨拶を交わすことによってお互いの人間関係を確認してきた。このお互い様、お世話様、お陰様という言葉は、双方向の働きを内包している。つまり、日本人はかつて、双方向の人間関係を前提としていたのである。ところが、近年この言葉が廃れてきている。それと伴に、人間関係が一方通行の働きになり、それに連れて人間関係が対立を基礎とした関係に移行しつつある。つまり、社会の行動規範が対立と競争、闘争を基礎とした社会に変質してきた証左である。
 市場競争は、必要である。市場競争は、必要ではあるが、市場の働きの全てを支配しているわけではない。市場競争が有効なのは、貨幣価値が相対的であり、市場取引における相互牽制によって市場価値が定まるからである。しかし、競争が激化するとこの相互牽制が利かなくなる場合も生じるのである。その場合は、競争は、かえって弊害となる。
 何が何でも競争は正しい。競争させればいいといった頑なな態度では経済の実相を掴むことはできない。
 真実を直視する柔軟性こそが重要なのである。


       

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