3.物理的経済と数学

3-1 物理的問題

貨幣経済の歴史は、まだ浅い。



 日本でも江戸時代までは、税は物納だったのである。又、報酬も物であった。だから、大名の領地は石高で示されたのである。
 貨幣は、補助的、或いは、代用的初段に過ぎなかった。その貨幣も、鋳造貨幣であり、貨幣その物が物としての価値を有していて、紙幣のような表象貨幣ではなかったのである。この点は、重要である。
 江戸時代では、現在の政府の相当する江戸幕府は、独自に生産的部分を持ち、君主である将軍家は、大地主でもあった。財政は、徳川家の家政、宮廷官房の延長線上にあったのである。
 つまり、近年まで貨幣経済ではなく、物経済だったのである。現代のような貨幣中心の社会になったのは、紙幣を中心とした近代貨幣制度確立された以後である。この点を理解しないと貨幣制度や財政問題の本質は理解されない。

 物の経済の時代では、貨幣と言っても物質的な裏付けが確保されていた。しかし、表象貨幣の時代、特に、不兌換紙幣の時代になると貨幣から物としての価値は失われ、物としての価値が信用に置き換わってのである。

 その事によって貨幣は、物としての頸木(くびき)、制約から解き放たれることになる。

 物の経済の時代と貨幣経済とでは、財政赤字の意味を大きく違ってくる。物の時代の財政赤字は、物の不足により、それを補う形で貨幣が使用された。又、財政赤字と言っても物としての裏付けは常に担保されていたのである。
 それに対し、貨幣経済下における財政赤字は、貨幣的事象なのである。だから、貨幣の働きによる貨幣の必要量が問題となるのである。

 経済は、貨幣だけで成り立っているわけではない。経済は、人的な要素、物的な要素、貨幣的要素の関数である。経済を成り立たせているのは、人、物、金の集合である。

 貨幣経済が確立される以前は、物の経済が主であった。
 我々は、貨幣の動きばかりに目をとられがちであるが、実際の経済は、金の動きの背後にある物の動きなのである。

 経済とは、生きる為の活動を言う。生きる為に必要な物を人の労働によって生産し、或いは獲得するそれが、経済の本質なのである。
 金は、社会が形成され、分業によって財を共有する過程で生じた道具である。つまり、分配の手段である。経済の実体は、人と物にある。

 インフレーションにしろデフレーションにしろ、物の過不足、人の過不足、金の過不足といった要素が重ね合わさって引き起こされるのである。金だけが原因なのではない。むしろ、深刻な影響を与えるのは、物や人の要素である。

 人は、需要の側にあり消費を担う。物は、供給の側にあり生産による。金は、市場の側にあり、分配の働きをする。そして、これに時間的価値が加わった時、経済の仕組みは形成されるのである。金が先にあったわけではない。

 貨幣を得る手段は、働く(人)か、物(物)を売るか、借金(金)をするかしかない。

 経済現象は、物の経済の基づく要素と人の経済に基づく要素、金の経済に基づく要素、時間の経済に基づく要素が複雑に絡み合って引き起こされる。単純に金の動きだけを見ていたら経済の本質は理解できない。

 経済の基本は、天の時、地の利、人の和である。
 その事を忘れた時、経済の本質は見失われる。

 貨幣というのは、物を動かす為の道具に過ぎない。
 貨幣経済が確立する以前は、自給自足経済であり、物々交換による経済だったのである。

 貨幣というのは、仮想的な基準であり、抽象的な概念である。

 お金は何にでもなると考えられている。しかし、裏返してみるとお金は何でもないのである。お金自体は、何もならないとも言える。紙幣はただの印刷物であり、貨幣という機能がなければ、ただの印刷物に過ぎない。多くの人にとっては無価値である。

 よく言われるのは、無人島に流されたらお金をいくら持っていたところで何の役にも立たないという事である。

 経済の本質は、お金にあるわけではない。生きることにあるのである。生活にあるのである。
 お金は、使うことではじめて役に立つのである。お金もただ貯め込むだけでは、お金としての機能を発揮することができないのである。

 経済の本質は、生活の実態にある。現実生活にある。

 特石法が廃止されることで過疎地にあるガソリンスタンドの採算が悪化し、経営が成り立たなくなった。その結果、過疎地のガソリンスタンドの廃業が相次いだのである。そうなると過疎地の住民の生活に支障が生じる。そこで、過疎地の住民が金を出し合ってガソリンスタンドを開業せざるを得なくなる。むろん、採算の見通しが立たないことを承知の上でである。
 沖縄では、ガソリンスタンドで働く人間のわりが多かった。しかし、過当競争の結果、合理化が進む、ガソリンスタンドの数も従業員の数も減った。しかし、元々、沖縄には、働く場所が少なく。ガソリンスタンドが雇用の受け皿になっていたという事情がある。闇雲に規制を緩和し、競争を煽るのが、経済的だとは言い切れないのである。経済的問題を多くのマスメディアは、「競争は、善だ。」「規制は悪だ。」と囃し立て、あたかも、道徳的問題のように扱っている。

 出版業界の人間は、再販制度の問題を棚上げして、正義感面して規制緩和、競争原理と騒ぐが、大事なのは、どの様な国に、どの様な社会にするかの具体的な構想である。多くの知識人は、現在の体制を否定的にとらえ、その裏で社会主義的体制に転覆することを暗黙の前提としているかのようにすら見える。たとえ、現状に不満があるとしても、自分達の考えを秘匿して相手の矛盾ばかりを攻撃するのは卑怯である。何でもかんでも反対すれば善いというわけではない。
 大事なのは、実体的社会をどうするのか。それなりに自分の構想を明らかにするべきなのである。

 会計制度を基盤とした現代の市場経済において、あらゆる債務は、国債といえ、企業の借り入れといえ、住宅ローンといえ収入に基づいて決済される事を原則としている。
 故に、適正に収入が確保されなければ、債務関係は解消されない。
 だとしたら、債務の返済に充てられる部分の収入が適正か、否かは、期間損益による。期間損益上、収入に相当する部分は、収益である。故に、良好な経済環境、状態が維持されるためには、適正な収入が維持できるような市場の仕組み、収益構造が前提とされるのである。



物的経済、人的経済、貨幣的経済


 足らざるを補い、余りを活用することである。経済の役割は、過剰な処から不足している処に人や物を転移することで過不足を是正することなのである。

 人が余っている処から人の処ところに、食料が余っている処から食料が足らない処へ、余剰の石油を持つ国から石油が不足している国に、余剰の資金があるところから資金が不足している所へ、人、物、金を回す。それが本来の経済の在り方なのである。
 ただ、人も、物それ単体では一方通行の関係しか生じない。それでは、経済運動の均衡が保てないのである。だから、交換という行為と反対方向の貨幣の流れを組み合わせることで経済の均衡を計る仕組みが貨幣制度なのである。

 経済一番の問題は、不均衡の是正である。結局、問題となるのは、恒久的に物が、或いは、人が不足している所と恒久的に物が、或いは、人が不足している処があることである。その様な構造的不均衡をどう是正するかが、経済最大の問題なのである。

 経済には、物的経済、人的経済、貨幣的経済がある。物的経済の運動量は、生産量であり、人的経済の運動量は、労働量であり、貨幣経済の運動量は貨幣量である。そして、いかにこれらを均衡させるかが重要なのである。

 現代の市場経済では、先ず貨幣を得ることが前提となる。なぜならば、現代経済は、市場から生活や生産活動に必要な物資や用役を調達することによって成り立っており、市場から必要な物資や用役を調達する手段として貨幣は不可欠な物だからである。貨幣を得る手段は、働く(人)か、物(物)を売るか、借金(金)をするかしかない。貨幣経済は、人、物、金がその基盤にあり、貨幣の根源は借金なのである。

 物的経済、人的経済、貨幣的経済を結び付けているのは、分配であり、その分配の基準は労働によって構築される。故に、経済は、労働と分配なのである。
 この労働と分配を仲介するのが貨幣である。経済の実体は、物と人にあり、貨幣はあくまでも陰である。

 大量生産の落とし穴は、生産と労働とが不均衡になることにある。即ち、生産量と労働量の均衡が保てなくなり、労働と分配を仲介する所得の量が減少してしまうのである。それを解消するためには、労働の質いかに取引の中に織り込むかが鍵になるのである。

 損益は会計上の問題と限ったものではない。物的な損益、人的な損益、資金的損益もある。
 例えば、減価償却が好例である。減価償却とは、一般に会計処理上の問題として捉えがちである。しかし、減価という事象は会計上の問題だけではない。

 一口に、減価には、どの様な事象があるのか。減価償却の意味を知るためには、減価という事象の実態を知る必要がある。減価というのは、本来、物理的な要素が強いものなのである。
 会計的な意味での減価以外に、物的な減価、人的な減価、資金的な減価が考えられる。
 物的な減価には、劣化、老朽化、寿命、陳腐化、故障等がある。また、人的な減価には、技能や知識の劣化、陳腐化、人件費の上昇、専門家の育成などがある。資金的な意味での減価には、借入金の返済、資産価値の劣化、更新資金・買い換え資金の貯蓄、また、保守修繕費用、検査費、保険費等と言った費用面からも捉える必要がある。

 そして、経済や経営は、例えば資金計画や保守保安計画、生産計画等、会計以外の要素の働きによって決まる部分が多く含まれていることを忘れてはならない。期間損益を検討するためには、会計以外の部分の働きが利益にどの様な影響を与えるかが重要な鍵を握っているのである。

 貨幣価値は、極言すると自然数である。故に、貨幣経済は、自然数の集合である。貨幣単位は、数直線である。自然数は無限に拡散する。故に、貨幣価値も無限に拡散する。貨幣価値を抑制するのは、人と物の経済である。

 貨幣価値は、自然数によって表現される。自然数は無限の広がりを持つ。故に、貨幣価値は、抑制を失うと際限なく膨張するのである。
 それに対し、物は有限である。物には、物質的な制約がある。人の力にも限界がある。人間が与えられた時間は、限りがあるのである。人は、必ず死ぬのである。これも仮定である。しかし、誰もがそれを自明だと信じている。それが重要であり、大前提となるのである。

 数とは、対象の属性を数的なものに特定し、他の属性を削ぎ落とすことで成立する。対象から数を抽出することによって数学は成り立っている。そして、数学が成立することによって近代という時代の礎は形成された。しかし、それは同時に、対象から、数字以外の意味を喪失させる結果も招いている。

 先ず一という長さがあり、それを例えば、十個繋げると十という長さになる。その一の長さを一メートルとしたときはじめて十メートルが測れるのである。
 一という数があり、そこから、十という数やメートルという単位が派生しているという事である。

 一つの物があり、それを十集めると十になる。その一を一個とする。その一個の物を十円とする。そうすると十個の物は百円になる。この様な関係が成立する。
 ここでも一という数があり、十という数や円という単位が成立している。

 一つの物がある。その一つの物を一個のアメとする。それを一つの十円玉と交換する。そうすると一個の飴は十円となる。
 ここでは、一という数と一個という単位と一円という単位が掛け合わされて、一つの貨幣価値を形成しているのである。

 注意しなければならないのは、対象自体に一という属性はない。一という性格は、他との関係から生じる。即ち、一という数は、何等かの他の存在との比較の上に成りたっているのである。

 対象持つ意味や属性を数値に置き換えることは可能である。例えば、時間や場所、対象、仕事と言った意味を数字で表すことは可能である。逆の操作で言えば、数値に時間、場所、対象、作業と言った意味を持たせることも可能となる。この様に意味や属性を数値化する事によって意味や属性の働きだけを取り出すことも可能である。
 この様に対象の属性や意味を数値化し、集合とする事ができれば、複雑な概念も集合や群を構成する事が可能となる。

 この様な働きの中で重要なのは、数の位置と順位である。それが数の大小、前後などを表す。又、数は、数えることを事を可能とする。数えることが可能だと言うことは、計算を可能にすることを意味する。

 又、貨幣の働きは、交換にある。交換のために、数の属性が重要となるのである。


数と貨幣経済の関係



 物の数の数える手段は、単位、助数詞から成る。物の値段は、この単位、助数詞と単価の関数である。

 助数詞とは、物や人を数える際の基準である。その意味で助数詞は、数と物とを結び付けている概念である。

 我々は、物の数を数える時、一つ、二つとだけが数えたら何を数えているのか解らない。豆腐、一丁とか、船が一艘、子犬が一匹、お米が一俵、お菓子が一袋、ビールが一ケースと助数詞をつけることで、具体的な対象に結び付けることができる。それが助数詞の役割である。助数詞は、対象の一つの塊の全体を表す単語なのである。
 この助数詞は、経済の在り方を暗示している。即ち、経済的数というのは、単位、或いは、助数詞と単価が組み合わされた概念なのである。

 人と物は所与の空間なのに対し、金は、任意、即ち、人為的空間なのである。貨幣価値は、任意の空間である。人間の意識が生み出した空間である。故にその基盤は人間の意識の所産、即ち、思想である。
 貨幣空間が任意の空間ならば、貨幣空間を形成する前提は、合意であり、社会契約である。そして、貨幣によって作られる空間が任意に基づく空間だとしたら、貨幣空間とは、主観的な空間でもあるのである。

 金は、数であり、人、物、時間は、量である。
 人と物の経済は、質、量、即ち、密度によって測られる。例えば労働である。労働には質と量がある。単純に、量、特に、時間の量だけで労働の価値を測るのは危険である。経済が量から質への転換期にある時は、特に、質的な部分を銅計測するかが重要な鍵を握っている。手作りの高級品と工場生産の普及品との均衡をどう保つかが、経済の運営の要となるのである。

 物や人には、定量的な部分と定性的な部分があるのである。
 それに対して、お金は、定量的な物である。貨幣価値とは数値なのである。

 物には、貨幣にはない固有の属性がある。例えば重いとか、大きいとか、長いとか、厚い、冷たい、或いは、壊れやすい、腐りやすい、危険、液体、気体、固体と言ったことである。
 これら物の属性を抽出化し、更に、数値化する事によって貨幣価値は形成される。鍵を握っているのは、数値化の技術である。
 表象貨幣には、物にあるような属性は基本的にはない。物の持つ属性があるのは、実物貨幣である。

 故に、実物貨幣は、貨幣としての働きだけでなく、物としての働きをも併せ持つ。例えば、金貨は、金の相場の影響を受ける。

 ICチップのような小さい割に高価な物は、空輸しても一個あたりの運賃は、さほど負担にはならない。しかし、大型機械などを飛行機で輸送する時は、運賃は馬鹿にならない。これらは、物理的要件が経済に及ぼす影響を意味している。
 しかし、この様な物理的要件は、直接的な貨幣価値を意味しているわけではない。貨幣価値は、物の価値を取引によって交換価値に置き換えることによって成立する。

 人には個性がある。体型も容姿も人それぞれ違う。能力にも違いがあるし、趣味や嗜好も違う。人は皆違うのである。しかし、人は人であり、人として平等な存在である。平等とは存在に基づく概念なのに対して違いは、認識によって生じるのである。

 貨幣価値は、人の意識、認識の差によって成立している。差を認識できなければ、貨幣価値は生じない。経済の本質は、違いを知る事によって成り立つ。経済は認識が生み出す事象なのである。故に、貨幣価値は、人と人との関係、即ち取引によって生じ、成立する。

 貨幣経済では、貨幣が表す数以外に物が表す数量がある事を忘れてはならない。物が表す数量は、体積や面積、長さ、重さ、人数と言った存在、実在に関わる量である。そして、貨幣経済は、この実在に関わる数と作られた数値、即ち、貨幣価値に基ずく数値の二つがあり、この二つの数値が作り出す空間は、相互に独立しているのである。この相互に独立した空間を結び付けているのが取引という運動、行為である。

 貨幣制度、会計制度は、数学的体系を持つ。
 経済では、数とその持つ意味が重要なのである。
 数学とは、抽象化の過程によって成立する体系であるが、経済は、数として抽象化された対象も、最後には、現実、実物に結び付けられなければ完結しない。
 故に、経済では、最終段階において、数を現実の対象に還元することが要求されるのである。その為の手段が貨幣である。それが純粋数学との違いである。

 貨幣価値の前提は、貨幣の存在であり、貨幣の前提は、交換という行為であり、交換という行為の前提は、交換する場と物の存在である。故に、貨幣価値の根底には物がある。

 最後は、人であり、物なのである。金ではない。経済とは、現実の生活の上に立脚した事象であり、お金の上にある虚構ではない。

 経済の目的は金儲け、つまりは、利益にあるわけではない。人と物との調和にあるのである。

 貨幣価値は、対象の交換価値を指す。貨幣とは、その時点における貨幣価値を表象する物である。取引とは、同一の貨幣価値の貨幣と財とを交換することによって貨幣価値を確定する行為である。市場とは、取引を成立させる場である。財とは、貨幣価値の本となる事象である。

 財が貨幣という道具を用いて、取引という手段によって、貨幣価値を形成する過程で、市場は形成されるのである。それが市場経済である。

 市場を構成するのは、売り手と買い手である。売り手が成立する前提は、売る物、つまり、商品の存在である。商品とは生産財である。生産財は、生産によって得られる。生産には、生産手段と資源が不可欠となる。生産手段と資源は、費用を構成する。売り手の目的は、商品とお金との交換にある。故に、商品の価値は交換価値である。商品の生産は、交換価値の創出に目的がある。
 買い手は、お金(貨幣)を持っていることが前提となる。貨幣は、交換手段である。貨幣は、収入によって調達する。収入は仕事によって得られる。収入は、労働の対価として得られる物と資本の付加価値によって得られる物がある。商品を市場から得る目的は、消費にある。故に、買い手にとって商品の基本は消費財であり、商品の価値は使用価値である。

 貨幣価値は、数であり、貨幣は、貨幣単位である。会計上、取引によって貨幣側が債務を物(財)の側が債権を形成する。物(財)は、量であり、物の価値は、質と量によって決まる。

 会計上、即ち、取引の上では、貨幣価値、即ち、債務と物の価値、債権の値は、同一で均衡している。

 貨幣価値は、交換取引によって生じる。物と貨幣価値とは、取引によって一対一の関係で結ばれている。

 数と貨幣との関係は代数的な関係である。

 貨幣価値は、数への変換を二重にすることによって成立する。第一段階で物や労働の量への変換であり、次ぎに、物や労働の量を貨幣価値に変換するのである。

 労働を労働時間や成果物に転化し、その労働時間や成果物を貨幣価値に換算する。
 物の単価を定め、単価に数量をかけて価格を算出する。

 物には、質的性質と量的性質がある。先ず質的な価値を単価によって貨幣価値に変換し、単価に量をかけて貨幣価値を割り出すのである。

 価格には、単に、数値的な意味だけでなく、数値以外の情報も本来含まれている。つまり、価格というのは、単位あたりの値段と価格が指し示す財の量の積である。
 この様に、数値化する事によって次元の違う対象間の演算も可能となる。しかし、価格だけでは、一体その価格が何を指し示しているのかは解らない。パンの価格なのか、チョコレートの価格、ケーキの価格なのかは、値段を見ただけでは解らない。又、同じケーキでもどの様なケーキで、どこのメーカーのケーキ、又、ケーキはどれくらいの量あるのかも解らない。実際の商品を見てみないと値段が妥当であるかどうかの判断は付かない。
 例えば、労働と仕事を足したり引いたりすることも可能となる。しかし、それだけでは、経済としての用をなさないのである。貨幣価値は、最終的に、現実の財に交換されることによっじつげんする。

 数が交換価値と結びついて貨幣を生んだ。

 貨幣制度が成立する以前は、物々交換によって市場は成り立っていた。市場経済と貨幣経済は同一のものではない。しかし、一度貨幣制度が成立すると市場経済と貨幣経済は一体なものになる。

 貨幣は、当初、物としての価値から交換価値だけを抽出し、表象化することによって成り立っていた。交換価値とは、数である。それでも、金貨や銀貨は、物として価値を併せて持っていた。

 物としての貨幣と表象としての貨幣は、本質的働きが違う。

 物としての貨幣は、債権ではないので、債務を生じない。故に、金貨や銀貨で貨幣を賄えたうちは、公的債務は生じないのである。金貨、銀貨が不足するとそれを補う形で、表象貨幣が生じたのである。そして、俗に言う、債務のレパレッジ効果が成立するようになる。

 物の価値は、使用価値であり、実質価値である。貨幣価値は、交換価値であり、名目価値である。

 資産価値と収益の変動は、予測がつかない。負債と費用の変動は、ある程度計算ができる。故に、経済施策や経営計画は、計算ができる負債と費用を基にして構想を立てるのである。
 ただこの様な名目的な価値は、実体に結びついてはじめて実効力を持つのである。

 預金をするなというのではない。しかし、皆が預金ばかりしていたら、公的債務が増えるばかりで、経済は停滞してしまうのである。

 預金というのは、銀行から見ると借金負債である。優良な貸付先がなければ、銀行にとって過剰預金は過剰債務なのである。優良な貸付先とは、実物市場にある。金融市場は、ただ、金融機関の中で金を回し、貨幣価値を操作しているのに過ぎない。つまり、実体がないのである。その様な実体のない取引は、どこかの局面で実物市場に還元されないととらえどころがなくなってしまう。
 物の経済との結びつきを失った時、経済は、実体を喪失するのである。

 民間非金融部門への貸付が少ないという事が問題であることが解る。しかし、誰もその原因を問題にしようとはしない。民間非金融部門への貸付が少ない原因は、民間非金融部門に投資意欲がないという事と金融機関が民間非金融部門に対し有望な投資対象がないからである。
 投資意欲がないのも、有望な投資対象がないのも、共通していることは、収益の見通しが立たないことである。

 植民地から流入する金や銀が潤沢なうちは、金貨本位、銀貨本位の貨幣制度が成立していた。金や銀が不足することによって兌換紙幣、そして不兌換紙幣の時代に変化していったのである。

 兌換紙幣は、預かり証が原形であり、金と交換する権利を表象するものであり、物の価値を裏付けとして持っていた。しかし、不兌換紙幣になるとその裏付けは国債、つまり、権利を表象するだけとなったのである。つまり、抜け殻のようなものであり、あるのは国家に対する信認だけである。

 金貨、銀貨は、物としての価値も併せて持つ。故に、物としての相場の影響を受ける。金や銀の価格の変動の影響を直接、間接に受けることになる。兌換紙幣にも同様の制約を受ける。不兌換紙幣は、この様な制約から開放される反面、公的債務による制約を受けることとなる。

 貨幣は、価値を抽象化することによって成り立っている。しかし、貨幣に限定して言うとそれが貨幣の欠点でもある。貨幣価値は、物や用役に還元されてはじめて意味を持つ。

 会計がわかりにくいという意見がある。会計の根源に貨幣が存在しているからである。会計的価値は、貨幣的価値であり、物や人と直接的に結びついていないからである。そして、貨幣価値は数値的価値だという事である。
 会計がわかりにくいというのは、会計的対象が、図形的、映像的な対象ではなく、数値的対象だと言う事に起因していると思われる。その為に、対象を直観的に認識できないことがあると思われる。
 しかし、数値の背後には、生々しい物的な対象が隠されているのである。

 貨幣経済は、人の一生や家族、社会と言った人に纏わる人の経済、衣食住と言った物の経済の上に、成り立っている。ところが貨幣が取引の仲立ちをしている内に、あたかも貨幣が全能であるかの如き振る舞いを始めたのである。それに人間の強欲が拍車を掛けた。

経済の実体は、人と物の経済


 経済というのは、生きる為の活動である。金儲けのために、人間は生きているのではない。金儲けは、生きる為の手段に過ぎない。
 豚に真珠、猫に小判と人は、豚や猫を嘲笑(あざわ)うが、猫は、小判のために、仲間を殺したりはしない。だとしたら、猫と人間、どちらの方が正しい価値を知っているのだろうか。

 経済力と、競争力とは違う。競争力のために、国民生活を犠牲にしたら、競争する意味がない。競争は手段であって目的ではない。

 現代人は、経済の目的について勘違いをしている。経済の目的は、第一に国民生活を最優先すべくなのである。経済の目的は、競争力を高めることでも、利益を独占することでもない。況や、経済的に他国を支配することではない。
 国民生活を維持するために、必要な物資を生産し、或いは、調達をした上で、それを分配することが経済の目的である。その為に国内の市場を整備し、海外との取引を活発にするのである。
 その為には、内需型の産業と輸出入産業とは、分けて考える必要がある。なぜならば、内需型の産業は、生産と分配(雇用)が主たる役割なのに対して外需型の産業は金や物資の調達が主たる目的だからである。

 いくら金があっても金だけで生活ができるわけではない。そんなことは、常識である。金をいくら溜め込んでも餓死したら意味はない。金を食べて生きていくわけにはいかないのである。こんな道理も現代人は解っていないらしい。

 人は、パンのみに生きるにあらずと言われたが、金のために生きているわけでもない。生きることが目的であり、パンを食べるのも、金を儲けるのも生きる為の手段なのである。
 処が現代人は、手段によって目的を見失っている。

 国内の市場の在り方の根本は、分配にある。つまり、生活していくために、必要な物資を分配する仕組みが基礎なのである。その為には、どの様な生活をおくるかが基本になければならない。人々の生き様や文化の問題である。
 分配の手段は、所得であり、所得を成り立たせているのは、労働と貨幣である。労働とは仕事である。仕事の有り様によって内的市場は、規定されるのである。それを間違ってはならない。労働で大事なのは仕事の質である。誇りの持てる仕事であるか、否かが重要になる。誇りを持てるかどうかは、仕事に対して主体的に関われるかの問題である。根源は一人一人の人生観にある。金儲けにも、効率性にあるのでもない。

 ただ、贅沢な生活をするのは結果である。大切なのは、自分がどの様な生き方を望むかである。贅沢で自堕落な生活を望むのか、それとも、質素だが清潔で節度がある生活を望むのか。どちらが人を幸せにするのか。それは個人の価値観の問題である。しかし、その価値観が、人々の生活を決め、世の中の仕組みを作り上げていくのである。
 主は、人間であって物ではない。況や、金ではない。物も金も従なのである。処がいつの間にか金が主となって物も人も片隅に追いやられてしまった。
 そして、値段でしか、価値を測ることができない人間が増えているのである。それが強欲の正体である。強欲とは、金の亡者になって人間としての魂を失った結果に過ぎない。

 人としていかに生きるべきか。それが経済の根本になければ、見せかけの経済体制に過ぎない。内向け経済体制と外向け経済体制の設計思想は、別なのである。

 だからこそ、内需型産業と交易型産業とは分けて考えるべきである。内需というのは、国民に必要な物資を分配することを目的とした産業であり、基盤は雇用である。交易というのは、海外から国民が必要とする物資を調達することが目的の産業である。基盤は、輸出入にある。何を輸出入するかが問題となる。輸出入する対象は人、物、金である。

 マイスター制度や徒弟制度を封建的と頭から否定するものもいるが、しかし、マイスター制度も徒弟制度も職業集団の一つの形を示している事実を否定すべきではない。大切なのは、どの様な職場環境や人間関係を築くかである。
 生活空間の主役は人間であり、その根幹は人と人との関係なのである。

 内需型市場の整備の前提は、生活空間の設計にある。つまり、どんな街にするのか、その根底は、都市計画や国家観にある。又、人生観でもある。人は、どの様に生き、どの様な一生を望むかである。

 内需型空間というのは、生活空間である。又、生活空間でなければならない。
 効率性の追求よりも快適さを重んじるべきであり、量より質が大切とされる空間であらねばならないのである。
 生活弱者か、生活難民が社会問題となっている。大型店、安売り店、インターネットばかりが重視されることで、人と人とのふれあいが置き去りにした。その結果真超されたのは荒廃した市場である。その好例がシャッター街と言われる衰退した地域の商店街である。商店街が衰退したことで、多くの商店主、個人事業者、店員が職を失い。挙げ句の果てに、陸の孤島を生み出している。これなど好例である。
 住む人本位になった街作りが忘れられ、単に効率性や生産性、競争力、廉価と言った供給側の都合だけが優先された結果である。市場は、供給側だけ築くのではなく、働く者も消費者も一緒になって築く場なののである。

 お金の上、つまりは、会計上に表れた価値だけで、経済の有り様を定めようとすれば、重要な過ちを犯す。
 経済というのは生きる為の活動であり、根底にあらねばならないのは、人間としての生き様なのである。

 家の問題は、金の問題ではない。生活空間の問題である。どのくらい金をかけるかが問題ではなく。どの様な生活をするのかが問題なのである。そこから、価格の問題は派生する。

 ただ、立派な建物や最新の設備を整えれば、或いは、制度を作れば高齢者問題や少子化問題の解決ができると思うのは大きな間違いである。それは唯物論者の傲慢さが為せる業である。
 仏造って魂を入れず。心の問題を等閑(なおざり)にしては、経済の問題は解決できないのである。

 生活空間を作り出すのは、そこに住む人々の思いであり、記憶である。だからこそ、文化が大事であり、文化は、一見無駄に思えるような処にこそあるのである。その本質は、物と人の経済である。

 ただ広く、人気のない、倉庫のような空間に雑然と商品のおかれた大きな店舗と狭いけれど、気さくな店員がいた気の利いた空間に店主の人柄が感じられる店とどちらに生活感を感じるであろう。経済の本質は生活なのである。生きることなのである。

 先ず物的な経済の根本というと、人間が生きていくために必要なものがあげられる。人間が生きていくために、必要な物で、一番にあげられるのが衣食住である。これが、物的経済の根底を成すことになる。

 そして、人間が生きていく上で欠くことができない関係に人と人との関係がある。この人と人と関係を維持するために必要な物資が、物的経済の付随的要素となりのである。

 衣食住を考える上では、先ず必要量を計算する。その上で消費量を調べるのである。次ぎに、生産量が問題になる。生産量も生産地が重要になる。生産地から消費地までの距離が問題になねのである。生産地から消費地の距離によっては、運送経路と運送手段を知る必要がでてくる。その為には、地理的な条件、地質学的な条件、地政学的な条件を予め設定しておく必要があるのである。
 つまり、物的経済というのは即物的経済であり、それだけ人々の生活に密着していることになる。
 そして、物的経済の根底になければならないのは、国家観や人生観であり、又、風俗習慣と言った文化的な要素なのである。
 気候、風俗に基づく食文化や服飾文化、建築文化が物的経済をの基盤となる。つまり、経済とは文化なのである。

 今、家を建てようとすると、大工と建築資材、建築費の三つが必要となる。考えてみると、この三つの要素の中で大工と建築資材があれば、家を建てようと思えば建てられるのである。建築費は、絶対条件ではない。
 つまり、経済を実質的な部分で成り立たせているのは、人と物である。
 ところが現代は、「お金」がなければ家は建てられない。それが貨幣経済なのである。

 家を実際に建てる時に先ず必要とされるのは、設計図である。むろん、予算も大切である。しかし、設計図がなければ家は建たないのである。次ぎに工程表である。そして、強度計算。いずれにしても物や人にに関連した計算が必要となる。「お金」の計算だけしても家は建たないのである。ただ、今日では、家を実際に建てるのは、工務店や建設会社であって施主の最大の関心事は「お金」の問題である。だから、経済を「お金」の問題と、限定的に捉える傾向があるのである。

 しかし、経済の本質は、人と物の経済にある。

 かつて、田舎で家を建てる場合は、村中総手で手助けをした。
 今は何でもかんでも金、金を払わなければ、一人前の仕事として認めてくれないが、勤労奉仕や無償労働というのが、当たり前に存在していた。そして、勤労奉仕や無性労働の方が価値があると見なされていた時期もあるのである。

 十・五・三、或いは、九・六・四、即ち、給与所得者が税の捕捉率が百%、ないし、九割、個人事業者は五割、或いは、六割、農業は、三割、四割と個人事業者、農業は優遇されていたと考えられていた。それは、個人事業や農業には、単純に賃金として捉えられない報酬があることを意味している。お金が全てではないのである。

 かつて、農業に従事する傍らで副業をしている人が沢山いた。それが半農と言う在り方である。
 つまり、以前は、自分や家族が食べる分は、自分で育てて、それ以外で現金が必要な分を外に働きに出て臨時収入で得ると言う生活が成り立っていたのである。その典型が出稼ぎである。
 ただ、税制上、農業で得た収入も現金化する事が義務づけられ、やがて、全ての所得が現金化されたことによって半農という生き方が、今日では、許されなくなってきたのである。

 全ての所得を現金化する、全ての生産財を一旦現金に換算することが強要されることは、ある意味で、労働の全てを賃金労働に置き換えることである。
 労働の全てを賃金労働に置き換えることは、人の経済と物の経済、そして、貨幣経済を明確に分離する結果をもたらす。
 その変化が、現代経済の地底で働いていることを忘れてはならない。

 経済の仕組みの役割は、物の流れと所得の公平を保つことである。物の流れは、物資、資源の偏在に起因し、所得の公平な分配は、雇用を維持する事によって実現する。つまり、生活に必要な物資は偏在しているのに、仕事は、公正に割り当てられなければならない。その均衡を保つ仕組みが経済の仕組みなのである。

物質革命


 経済というと、つい「お金」の話だと思われがちだが、今日の経済の基盤には物の革命があったことを忘れてはならない。産業革命に端を発し、科学技術の発達の結果、大量生産方式が博く社会に浸透したことが経済の基盤を作り上げたのである。むしろ、物の革命に「お金」の制度がついていけないのが、経済の混乱を招いていると言ってもいい。

 産業革命、農業革命、生産革命、エネルギー革命、交通物流革命、情報革命、通信革命と言った物的技術の革新があったからこそ現在の経済は安定していられるのである。

 近代経済学では、恐慌や不況の原因として専ら貨幣の振る舞いが問題にされ、物質的問題がないがしろにされる傾向がある。しかし、実際は、物的要因は、貨幣的要因に勝とも劣らない影響を与えている。

 だからこそ物の経済の在り方こそが経済の基盤をなしているのである。

 享保の飢饉の際、百両の大金を首から提げたまま餓死した商人がいたという記録が残っている。この男は、百両の大金を持っていたのに、米一粒、買えないで飢え死にしたのである。飢えた時に必要なのは、食べ物であって、金ではない。例え、金がなくても、植物に対する知識、知恵があれば、野草を食べて生き残る術もある。経済の根本は、物の経済である。(「近世の飢饉」菊川勇夫著 吉川弘文館)

 根本は、自分が、或いは、社会が生きていく為に必要な物資、物は何かである。それは現実的な話であり、空想的な話ではない。

 例えば、水や食べ物である。
 一人の人間が生存するために必要な食料の一日の最低限度量は、どれくらいなのか。食料の実際の消費量はどれくらいなのか。一体、日本人は、どの様な種類の食べ物をどの様に消費しているのか。これは食文化の問題である。それに対して、日本の食料の生産量はどれくらいなのか。日本はどれくらいの食料を輸入し、又、輸出しているのか。日本の食糧自給率はどれくらいなのか。日本の食料備蓄量はどれくらいなのか。日本の耕地面積はどれくらいなのか。食糧増産の可能性はあるのか。日本人の食料の生産地はどこなのか。どの様な経路をとって、どの様な手段で食料を運送しているのか。これらの事を前提としてそれを貨幣に還元するのである。経済というのは、最初に「お金」ありきではない。

 それでなくても、日本の食糧自給率は低いのである。国際市場の中で生き抜く知恵がなければ、国民は、忽ち、飢えることになる。それが現実であり、日本人に、禁物なのは奢りである。

 人々の生活を成り立たせている生命線、ライフラインも、物の経済を考える上で重要な要素の一つである。即ち、地理的条件、地質的条件、地勢的条件である。

 港湾、空港、鉄道、道路、通信、水道、鉄道、電気、ガスといった社会の基盤(インフラストラクチャー)も物的経済の基盤である。

 物的経済で重要な要素の一つが距離であるが、距離も単純な長さの単位だけでなく、時間を加味した時間距離や費用を加味した貨幣的距離などもある。つまり、経済的距離とは、経済的に見て、最も最短距離は何なのかの問題なのである。

 こう考えると物の経済の根本は国家観、世界観に基づくことになる。どの様な国にするのかがあって、つまり、国の設計図や青写真があってはじめて、物の経済は成立するのである。
 そして、どの様な国にするのか、どの様な社会を実現するのかという物質的構想の上に国家財政や家計、企業経営が成り立つのである。「お金」の為に経済は成り立っているわけではない。
 現代は、まず「お金」が問題になる。売るために製品を作るのであり、「お金」の為に財政が活用される。本当に必要な物かどうかが判然としないままに物が浪費される。
 人生設計がないままに、「お金」のために働いているようなものである。それでは主体的な生き方などできはしない。
 資源の無駄遣いも、環境破壊も、物の経済が忘れられているからである。だから、節約も倹約も空疎でしかないのである。
 本当に必要な物なのか、どうなのか、その根本が何ら問われることなく。ただ、金のために経済があるかのように錯覚しているのが原因なのである。

 物の経済こそ確立されるべきなのである。

 科学的な数学と技術的な数学がある。科学としての数学が無限を追究すれば、技術としての数学は、限界に挑戦をする。

 科学技術の発達と言うが、人間が驕慢になった時、自然界から強烈なしっぺ返しを受けることになるだろう。それは、人間は自然環境の中でしか生きられないからである。環境を破壊するのは、自分達の生存空間を狭めているのに過ぎない。

 人は、豊かになると天を嘲笑うが、災難に逢うと天を呪う。しかし、天は天である。自然の恩恵である資源を必要としているのは人間である。自然界が人間を必要としているわけではない。自然は自然なのである。自然環境は、一度失われれば元通りには戻らないのである。

 科学というのは、本来、世俗的なものである。科学万能というのは、間違った信仰である。万能な存在は神でしかない。経済も又然りである。神を否定する者は、自らを神とす。怖れるべきは、人間の強欲であり、驕慢である。


       

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