2、人的経済

2-2 家族の事

かつて、家族は、経済の中心にあった。


 全ては、愛から始まる。


 父は、一人。母も一人。
 親は二人。
 二人の間から、唯一の自分が生まれる。
 自分とは、自らを他の存在から分かつ事で生じる。

 自分は、愛する人と結ばれて二となる。
 夫婦は二人。二人から、子供が生まれて三人になり。四人となる。
 それが家族の始まり。
 全ては、愛から生まれる。

 観光客は、ビル群を目指していくであろうか、それとも古い町並みを目指していくであろうか。無機質な空間が増殖し、人々のいる風景が失われつつある。
 現代の経済は、金と物とが中心で、人が排除されつつある。そして、それが経済を活性化させない最大の原因なのである。
 人中心の経済こそ本来の経済の姿である。なぜなら、経済とは、人が生きる為の活動を言うのであるからである。

 我々は、経済の役割について本質的な錯誤があるように思える。
 例えば、住宅について一方に空き家があるというのに、他方に、ホームレスの人々が溢れている。
 一方で餓死する人がいるというのに、他方で食料を余して捨てている人々がいる。
 デフレーションやインフレーションがおこるたびに、貧富の格差が広がる。
 生産量や消費量が変わらないのに、景気によって生活が一変してしまう。
 働いても働いても生活が楽にならない者がいるというのに、働かなくても生活が保障されている者がいる。
 生活に必要な物資が不足しているというのに、働き口がない。
 会社は儲かっているというのに、働く者は何も報われず、過労死や鬱病ばかり増えている。
 経済が主であって生活が従なのではない。生活が主であって経済が従なのである。

 なぜ、我々の祖先は、男女七歳にして席を同じゅうせずと男と女の関係を厳しく規制したのか。
 それは際限のない欲望が人を不幸にすることを、祖先は、自覚していたからである。
 だから何事もほどほどにと教えてくれたのである。
 金も又しかりである。金も又欲望の源となる。
 欲を解放するなら自制できなければならない。

 現代の日本では、少子高齢化問題が深刻化している。少子高齢化は、経済に甚大な悪影響を及ぼすと考えられている。
 少子高齢化問題は、少子化問題と高齢化問題という二つの問題を抱えている。そして、いずれも家族という関係が関わっている。言い換えると家族という単位が崩壊しつつある事が、少子化問題、高齢化問題の根っこにあると考えられる。

 今、街から人が消えつつある。私は、東京生まれの、東京育ちである。私が子供の頃から東京は人の住むところではないなどと悪口を言われてきた。それでも、私が子供の頃は、そこそこの路地裏や下町には人々の生活や活況があった。しかし、今、東京は、ビルの無機質な空間によって占められようとしている。人々の生活の臭いが失せてしまった。
 広大な倉庫のような店に、ただ、商品を積み上げ、店員は、レジ係と警備員、倉庫係だけ、そのレジすら無人化しようとしている。そうなると、店に残るのは警備員と倉庫係だけである。
 巨大な店の周りには、大勢の失業者であふれかえっている。その失業者は、失業保険や補助金で生活している。それが現代の経済を暗示しているのである。
 失業しても自分で商売を始めることができない。働きたくとも働けない。つまり、自分で商売を始めることのできない環境があるのである。
 自分が子供の頃は、八百屋の息子、花屋の娘、魚屋の兄ちゃん、たばこ屋のおばさん、下駄職人の息子と多種多様な職業の人々が混在して生活していた。今は、給与所得者しかいない。だから、不況になり、多くの企業か倒産すると行き場のない失業者に街はあふれるのである。
 今の日本は、家族とか社会と言ったコミュニティが崩壊してしまったである。それが、地方から活力を奪っているのである。
 現代人は、高齢者対策や育児対策として考えるのは、制度や施設と言った無機質なことばかりである。しかし、昔の人は、道徳や家族、近所づきあいと言った人の問題を核として考えていた。家族という人間関係が損なわれているのである。個人を基本とした経済体制を考えるのは良いが、それが家族という経済単位を否定する事に結びつくのは問題である。
 制度や施設を整えることを否定はしない。しかし、それは補助的な手段であり、主たる手段の主体は、家族や地域コミュニティにある事を忘れてはならない。それを忘れると制度も施設も経済的に成り立たなくなる。
 少子化の背景には、未婚者、生涯独身者、晩婚の問題がある。
 なぜ、現代の若者は、結婚をしないのか。それは、結婚をすること意義を見いだせないからである。結婚をする必要がないから、つまり、家族を作ったり、家族を必要とする意味が見いだせないからである。
 以前であれば、経済的にも、また、高齢化した時でも家族を必要とした。家族がなければ生活が成り立たなかったのである。
 しかし、現代社会では、家族を作らなくても日々の生活には何の支障も生じない。
 生じないどころか、むしろ、負担ばかりが多くなる。金で済まそうと想えば何でも金で済む。仮に、結婚する必要性があるとしたら、それは、寂しいという事である。
 そう言った状況を又、金や物で解決しようとする。例えば、保育園を増やし、又、介護施設を増やし、介護保険や制度を整えれば、結婚する気になると考えている。しかし、それは、逆効果である。
 人と人との関係を再構築し、封建的な家族制度に変わる新しい家族制度や思想を醸成する以外に未婚者を減らすことはできないのである。
 何でもかんでも、金や物の問題として考え、金や物を整えれば解決できると現代人は考えている。しかし、我々の祖先は、人間の心の問題、道徳や価値観の問題として捉えてきた。
 社会の問題を物質的な問題とするのか、それとも人間の心の問題とするのか、その違いにこそ現代経済の病巣が隠されているのである。
 人のいない空間でどうやって経済を活性化しようというのであろうか。
 経済の主役は人なのである。
 人の問題は、所得の問題に還元される。所得問題を市場側から見ると人件費、即ち、費用の問題となる。
 景気が悪くなると、現代人はも費用が悪いとと決めつけ、費用の中で最大の固定費である人件費の削減ばかり考える。そのために、結局、経済は縮小均衡の方向に向かうのである。なぜならば、費用を裏返すと所得となるからである。
 費用が悪い、借金が悪いと費用や借金をただ否定しているだけでは、費用や借金の効用を引き出すことはできない。
 市場経済は、裏返してみれば、費用と負債の経済なのである。
 費用や負債を直視しないかぎり財政破綻からも逃れることはできない。
まず、人間性を取り戻すことが経済を立て直すことに繋がるのである。
 街には、スーパーができやがて郊外型ショッピングモールができ一見住みやすくなったように見える。しかし、スーパーや量販店によって中小の商店がシャッター街に替わり、そのスーパーも郊外型大型店の進出によって淘汰され、郊外型ショッピングモールも競争によって選別が始まっている。その結果、高齢者が歩いて行ける範囲にお店がなくなり、地域の共同体も失われてしまった。周囲に歩いて行ける商店がなくなり、たとえ都会の真ん中に家があったとしても経済的に孤立してしまう。それが買い物難民と言われる人々である。この買い物難民が急増している。
 地域経済の核が失われつつあるのである。
 土地があっても自分では商売をせずに、貸しビル、駐車場にしてしまう。貸しビルや駐車場によって東京はゴーストタウン化している。
 その上、町工場は倒産し、大型工場は無人化しています。これでは経済は活性化しようがない。求められているのは貨幣的効率と物理的効率だけだからである。そのしわ寄せが人間の生活に及んでいるのである。
 小さな雑貨屋に小金を持った子供が来て「おばちゃん、これちょうだい」という世界を否定して成り立っているのが現代社会である。
 競争、競争と煽る前に、まず、シャッター街をどうにかすることが経済を活性化する鍵を握っているのだと思う。
 そして、自分の家を大切する事なのである。家族の絆こそ、財政を再建する鍵でもある。
 地域社会では、年寄りだけの空間が広がっている。なぜ、年寄りだけの空間が広がるのか。それは、年寄りにとって田舎が住みやすいのに、若者にとつては住みにくい。なぜ、こんな事が生じたのであろうか。
 一つは、個人事業者が成り立たなくなりつつあることである。もう一つは、都市化の問題である。本来ならば、地方の方が住みやすいはずである。それを住みにくい環境にしてしまった。しかし、交通機関が発達し、情報ネットワークが張り巡らされた今日は、状況が又変わりつつある。在宅勤務、在宅医療を発達させれば、かえって地方の方が住みやすくなる。つまり、人間の生活、人生全般を設計し直すことで、経済を根本から考え直す。そこにしか、財政の再建や新しい経済の発展の芽はない。
 人間中心の経済を取り戻すこと、それこそが経済成長の鍵である。

 エコノミーのエコというのは、元々、オイコス(oikos)、即ち、家とか、共同体を意味している。ノミーは、ノモス(nomos)規則、規範を意味し、エコとノモスが結びついてエコノミーになった。エコロジーは、エコにロジー(ロゴスlogos)論理が結びつくことによって出来ている。本来、経済の本質は家や共同体にあった。
 家族とは、経済の基本単位である。家計は、経済の本質であり、力の源である。この家族という基本単位が揺らいでいる。共同体が崩壊しているのである。(「経済学の哲学」伊藤邦武著 中公新書)

 家族には形がある。その形から関係が生じるのである。

 少子問題、高齢化問題の原因には、家族制度の崩壊が考えられる。家族という単位が個人という単位に置き換えられつつある。それが、家族という経済単位を崩壊させる要因の一つとなっている。
 家族のあり方を問題にするのは良いが、家族そのものを否定するのは行き過ぎである。

 家族の有り様、形は、経済の有り様、形を制約する。例えば、第二次世界大戦以前、日本は、大家族制度、家長制度が基本であった。
 戦後は、この大家族制度、家長制度が法的に否定され、核家族へと変質していった。
 家族制度で重要な働きをするのが相続の形である。戦前の相続は、長子相続であり、長子相続が大家族制度を支えていた。長子相続は、代替わりによる資産の散逸、分散を防ぐ為の制度である。しかし、反面において本家、分家の格差を拡大する。これらは封建制度や階級制度の基礎ともなる。

 民主主義は、階級制度や封建制度を否定することによって成立してきた。そのために、封建制度や階級制度の下地となっている大家族制度や旧家族制度を否定したのである。
 家族の有り様というのは、社会の有り様や経済の有り様の土台、基礎となる。故に、家族の有り様を改めることは、社会変革の第一歩である。逆に言うと家族の有り様が変化しなければ、社会の基礎となる思想は変わらないのである。
 第二次世界大戦後に社会主義国になった国の多くが近年になって自由主義的体制に復帰すると、半世紀以上も経過するのに、社会主義以前の生活に逆戻りするのは、家族の有り様を変えられなかったからである。
 逆に、日本の経済発展の背景には、家族の有り様の変化が隠されているのである。

 現代社会は、個人主義、即ち、個を基本単位とした社会になりつつある。しかし、個は、要素になり得ても構造にはなりにくい。
 本来は、家族という単位が経済の基本単位であるべきなのである。なぜならば、家族は、構造を持つ。しかも、家族の構造はフラクタルな構造だからである。
 そして、かつて日本的経営と言われた家族主義は、家族をフラクタルな構造として経営組織にまで拡大した経営形態なのである。
 この家族という形、単位が共同体の基本単位でもある。

 先ず一組の男と女がいる。その一組の男と女が愛し合って子供が生まれる。全ての人間関係は、一組の男と女の関係から誕生する。それは生きることの始まりでもある。

 関係は形態的なものである。家族は、二を核とした関係である。二が始まりだから増減が生じる。二から一が生じ、その一が又新たな二を組成する。
 二は三となり、四となる。ねずみ算的に家族は拡がっていく。

 家計の基本となる経済単位をどうするのかによってその国の国民生活の在り方も変わってくる。
 家計の基本単位を個人に置くのか、家族に置くのかに依っても違う。これらが実体的に現れるのは税制である。

 経済の根本は、家族のという単位である。家族という単位に基づく経済単位には、家計がある。かつては、家族こそが経済の基本単位であった。そこから家政が生じ、家政から財政が生まれたのである。
 基本的に経済の単位は、共同体の単位を意味する。共同体の単位とは経済主体の単位である。
 経済主体というのは、個人の集合体を意味する。つまり、経済主体は、人的主体の集合体を意味する。故に、経済の最小単位は個人に還元されるのである。ただ、経済を構成する基本単位は、共同体である。
 経済は、私的共同体と公的共同体に分類される。
 共同体は、内と外の空間を生じさせる。共同体の内側は、第一に内的規範に支配された、道徳的空間であり、第二に、規律や統制を重んじる組織的空間であり、第三に、非貨幣的空間である。それに対して共同体の外は、第一に、非道徳的空間であり、第二に、外的制約に支配された自由な市場的空間であり、第三に、貨幣的空間である。共同体内部での分配は、組織的に行われ、共同体外部は取引によって行われる。共同体内部は、内的な規範によって統制される不文律な空間であり、共同体の外部は、契約や立法の基づく成分法による空間である。

 税制における経済単位には、個人と世帯の二つの基準がある。そして、この二つの基準の何れを選択肢、又、どの様に定義するかが税制の根本的な思想の元となるのである。

 現代の社会制度は、家族中心主義から個人中心主義へと移行してきた。その移行に従って大家族主義から核家族へ、そして、個人へと経済主体は変遷してきたのである。
 この変遷は、婚姻制度にも重大な影響をもたらした。今日では、男女別姓や夫婦別会計なども現れている。反面家庭崩壊や少子高齢化問題も浮上しているのである。又、拝金主義、極端な利己主義なども蔓延している。

 現代社会は、なぜか、家族という単位を認めたがらない。家族や世襲制度に対し否定的か、良くても無視を決め込んでいる。あたかも、家族という単位は、悪の根源のようだとでも言わんばかりの見方をしている者までいる。少なくとも積極的に肯定しようと言う風潮はない。家族や世襲というのが、封建制度や階級制度猛者別制度の下地になっていると考えられているからであろうか。
 しかし、人間関係の原点は家族の絆である。かつては、総ての社会の基盤でもあった。
 それに、一組の男女の間から子供が生まれるという生物学的関係がある以上、家族の絆を根底から否定する事はできない。
 家族という単位を否定してしまったら経済どころか社会すら成り立たなくなる。

 現代人は、誰の世話にもならないで生きていきたいと思い込んでいるように見える。他人の世話どころか、家族の世話にもなりたくないと頑迷に言い張る人が多い。しかし、それは傲慢なことだ。
 お世話をさせていただく。そして、お世話になる。かつての日本人は、お世話様ですとお互いに声を掛け合い感謝したものである。

 従前の経済は、家族を中心とした体制であった。ところが家族中心の体制を封建的として否定しているのが、現代経済である。注意しなければならないのは、家族を中心とした経済体制を資本主義も自由主義も否定していないという事である。家族中心主義を否定しているのは、社会思想であって経済思想とは無縁である。
 家族というのは、一種の共同体であり、共同体の内的経済を前提としている。内的経済というのは、非貨幣的経済であり、家族主義を否定する事によってこの内的経済が危機に瀕している。それが、資本主義や自由主義にも決定的な働きを及ぼしているのである。

 かつての婚姻制度は、家対家の関係の上に成り立っていた。現在は、個人対個人の関係が優先されるようになった。
 それの変化は、見合い制度や仲人、神前結婚、結納と言った手続や風習が廃れ、人前結婚式や新婚旅行といった結婚式自体の形態的変化として如実に現れている。
 かつては、結婚式が終わって始めて新郎新婦が対面したなどと言う極端な例があったのに対し、今日では、親の承認を受けずに結婚する例が増えている。
 この様な事例は、結婚生活の有り様を根底から変えてしまっている。

 また、女性の社会進出に伴い。女性の結婚の動機が経済的な動機ではなくなってしまった。経済的には、結婚は、負担を増加させる結果になり、結婚を忌避する動機にもなっている。要するに、独身で居た方が経済的には楽なのである。それが少子化に拍車をかけている。
 又、家という概念の崩壊は、家族の崩壊や少子化の原因にもなっている。老人介護も、親孝行といった倫理的問題、即ち、人的問題から、介護施設や年金制度、社会保障と言った物的問題へと変化してきているのである。

 女性の社会進出は、共稼ぎ世帯を増加させ、結果的に家内労働の否定へと帰結する。又、家内労働の否定は、労働の外生化を促している。それは、外食産業などの新しい市場を造り出す要因伴っている。また、国民の人生観や価値観に重大な影響を及ぼす結果をも招いている。

 これらの家計の根本には、家内労働から賃金労働、賃金労働から給与へとの変遷がある。つまり、非貨幣的労働から貨幣労働に、そして、定収へと労働の成果配分の在り方が変化し、それに伴って家族という運命共同体の基盤が変質してきたのである。

 家族が男女差別の元凶のように思われている節がある。しかし、それは、所得を外部から求めるようになってからの話である。
 かつては、母親を中心とした社会が成立していたのである。
 レディファーストというのも女性を中心とした考え方だと言えなくもない。むしろ、女性の地位が低くみられるのは、従来、女性の仕事とみなされてきた仕事が低くみられてきたことによるとも言える。
 いずれにしても、家族は人間関係の核にあることには違いがない。

 少子高齢化を問題とするが、少子高齢化は、子供を産んで育てるという事に価値を見出せる社会の仕組みでなくなったことに起因するといえる。
 適齢期を迎えている男女は、経済的に結婚することは、独身でいるときに比べて、圧倒的に不利なのである。
 男女が同じ所得を稼げるのならば、各々が経済的に自立していた方が実入りは良い。今結婚をすれば、所得は減少する上に、支出は増えるのである。それでは結婚しない方が良い。要するに結婚することによって生じる経済的メリットがないのである。この点を改善しないかぎり独身者を減らすことは困難である。
 この事は、出産や育児においても同じである。出産や育児は、経済的な負担を増加させるだけなのである。それでは、保育園や幼稚園を増やせばいいのかと言うと、それは、物事の本質を見誤っているだけである。

 なんでも、金や物で解決しようとする社会、風潮が悪いのである。

 これは高齢者介護の問題も通じる問題である。介護保険や介護制度、介護設備を整えれば解決できるというものではない。ただ、社会の負担を増やすばかりで、しかも人々を不幸にするだけである。目的を間違っているのである。

 総所得の基礎は、個人所得にある。個人所得の総量は、労働人口と平均所得の積によって導き出される。
 人口や所得では、平均だけなく分散も重要な要件である。
 総所得を増やす為には、労働人口を増やすか、平均所得を上げるさせるかのいずれか、あるいは双方が必要がある。
 支出から見た場合、市場規模が基礎となる。市場規模は、消費者人口と単位消費量の積で表される。
 問題は、労働人口と消費者人口、平均所得と単位消費量の均衡である。所得を貨幣的側面だけから見ていたら総所得は改善されない。労働人口と消費者人口、平均所得と単位消費量の不均衡が景気を悪化させるのである。そして、人口も、単位消費量も「お金」の問題ではない。人や物の量の問題である。
 労働人口と消費者人口の問題は、少子高齢化や失業率と深く関わっている。平均所得を向上させても労働人口が減少し、消費者人口が  拡大していたら総所得の増加にはつながらない。また、生産量が伴わなければ単位消費量の改善にはならない。
 総所得は、お金の問題だけに還元する事はできないのである。人や物こそが経済の根底をなしているのである。
 収入だけ増やしても生産や仕事が伴わなければ経済的不均衡を増大させるだけである。
 いくら所得を増やしても国民の厚生が改善されないと経済は豊かになれない。そこに求められるのは量だけでなく、質なのである。

 家族の始まりは、一人の男と一人の女の出会いである。そこから総ては始まるのである。一組の男女が、家族の単位の原点なのである。



母性を保護するのが、本来の経済の役割だった。


 本来、母親を護ることが社会の役目だった。母性の保護こそ集団を形成する主たる動機なのである。
 どんな生物でも子孫を残す事を最終的な目的としている。その子孫を残す仕組みを疎かにすれば、その種はやがては衰退する。そのことを肝に銘ずるべきである。

 男尊女卑的な社会や封建的な家族制度がいいと言っているのではない。
 男と女を差別することではなく、男と女の違いを自覚して各々が自分の役割や能力を果たし、その上で、お互いが経済的に対等な関係を築ける体制が求められているである。
 その為には、もう一度家族の在り方を見直す必要がある。

 最初から男尊女卑的な関係が存在したわけではない。男尊女卑的な思想は、共同体内部における力関係や序列によって形成されたのである。故に、重要なのは、共同体内部の力関係であり、序列である。

 経済は、非貨幣的空間と貨幣的空間によって成り立っている。
 貨幣的空間が総てではないのである。そして、非貨幣的空間の一つが家庭である。
 家族というのは組織的関係である。家族は、秩序の原点である。社会的関係は家族の関係を起源とする。
 結婚をして、子供を産み、育てる。その家庭で家族は成立していく。
 賃金労働だけが労働ではない。むしろ非賃金労働こそが経済の根源なのである。
 共同体をそ外敵から守ることによって共同体は形成されたのである。これが経済の基点である。

 共同体は、市場という海に浮かぶ島のようなものである。

 経済は、人と人の関係によって成り立っている。経済は、本来、共同体の問題であり、人の心の内側の問題である。
 それを市場や貨幣という経済の外側の問題に総てを置き換え、刷れ変えていることが、現代経済を深刻な状態に追いやっているのである。

 この様な社会の仕組みや文化が、少子高齢化を招いているのである。少子高齢化を是とするのならば、それも正しい。しかし、少子高齢化を問題とするのならば、家族制度を否定するような仕組みを奨励すべきではない。

 家族は、人間関係の核であり、社会や経済を構成する最小単位である。
 家族に対して、現代人は否定的であるが、家族というのが、人間関係の原点、始源であることは間違いない。何よりも重要なのは愛情の源泉だと言う事である。
 なぜならば、家族は、人間の誕生と死に直接かかわっているからである。人間を家畜のように産み育てるか、工場生産のように生産するようにならない限り、夫婦、親子関係というのが人間関係の核であることに変わりはない。
 また、人間を家畜のように産み育てる事も化学工場で生産するのも人間の尊厳に関わる問題であり、愛情を否定する行為である。それは又、神を冒涜する行為でもある。
 故に、人間関係の核として、又、社会や経済の最小単位として前提する事に異論があるのは、むしろ、哲学的、宗教的な問題だと言わざるを得ないのである。

 経済の根本にあるのは、人と人との関係である。経済現象を生み出し左右するのは、日々の生活の周期と冠婚葬祭と言った人々の人生の周期、そして、それを生み出す、人と人との関係である。つまり、縁である。縁が因果を生み出し、経済の機能を働かせいている原動力なのである。

 最近、テレビや週刊誌で無縁社会という特集がよく組まれている。しかし、今更何をいっているのかと鼻白む思いがする。そう言う状況を作り上げてきたのは、誰なのか。その張本人達が今更、したり顔して、無縁社会、無縁社会というのはおこがましい限りである。厚顔無恥な話である。
 縁というのは、人と人との絆、結びつき、繋がりを言う。その縁を否定してきたのは、今、無縁、無縁と空騒ぎをしている連中である。
 血縁、地縁、社縁、そう言う、縁を悉く否定し、やれ、個人の権利だと義務だと個としての関係ばかりを殊更に強調してきた結果が無縁である。
 自分達が理想とした社会が現出しただけである。それを何を今更、不人情な社会になったというのか。義理だ人情は古くさいと頭から否定してきたのは誰なのか。
 縁がなくなったのは、生活の場と、仕事の場、そして、死ぬ場所が分離された結果である。人々が助け合って生きてきたら簡単に縁などきれはしない。定年退職が仕事仲間との縁を断ち切った。だから、人間は、一人で死んでいくことになる。例え、それが高級な介護施設であろうと、病院であろうと孤独である事に変わりはないのである。
 かつて、志を同じくする者達は、生まれた時と所は違っても死ぬべき時と所は同じだと誓い合い。俺の死に水をとってくれと約束したものである。夫婦は永久(とこしえ)の縁を近い。子は孝養を尽くすことが人として当然の努めとされた。
 縁という言葉の意味も知らずに、無縁、無縁と言ったところで何の解決にもならない。それこそ縁なき衆生は度し難い。
 縁は大切にすべき関係である。良縁は、大切にしなければ、育たない。それこそ出逢いである。出逢ったところで自分から絆を求めていかなければ、縁は生じない。逆に言えば、悪い縁も又、出逢いから生じるのである。
 縁を大切にしようとすれば助け合うことである。助け合うことによって人と人との関係は生じ、又、強くなる。
 例え、親子であろうと、縁を大切にしなければ疎遠になる。遠い親戚より近くの他人という。だからこそ、昔の日本人は、縁を大切にした。無縁になってから縁を求めても遅いのである。
 大家にとって店子は子も同然、雇い主にとって働き手は子も同然、だから、親分、子分という。結婚していない者がいれば、世話焼きがいて、見合いを世話し。家がなければ、適当に住む場所を手配してくれた。それがコミュニティーなのである。
 春には、花見をし、夏には、海水浴を、そして、互助会や婦人会を作って一つの疑似家族を作ってきたのである。それも又、縁である。
 自分は、社会との関わりがないと思い込んでいる人の多くは、支えてくれる人がいない、自分を必要としてくれる人がいないと嘆いている。なにをか況わんやだ。自分で招いた事態に自分が苦しんでいるだけだ。それを自業自得という。自縛にすぎない。自分で己の業を断ちきらない限り、縁など生まれはしない。
 自分が相手を受け容れない限り、誰も胸襟を開いてはくれない。
 無縁か、否かは、心の問題である。定年制度は、愛社精神にまで、定年制を設ける。そして、無縁、無縁という者は、会社や仕事が、縁の源であることを否定している。だから、彼等の議論は、どこまでいっても虚しいばかりなのである。
 そして、その果てに、結局、社会が悪い、何とかしなければ、制度や設備を作れとお題目のように唱えるばかりである。
 人と人との縁を否定すれば、無縁社会になるのは道理である。その道理も解らぬ者が、いくら無縁、無縁と言ったところで始まらない。それよりも、自分の身近にいる人々との関わりをもう一度見直し、人としての上を取り戻すことが先決なのである。
 あなた方は、間違っている。我々は、間違ってきた。先ず自分の過ちを認めろ。そうしなければ、何の解決も得られない。
 縁がないわけではない。縁を自分から求めていかない限り、縁が結べないだけなのである。縁は、縁があることを認め、縁を結ばない限り、成就しない。縁を認めなければ、縁はないに等しい。だからこそご縁というのである。縁がないのではなく。自分が縁を認めていないことを悟るべきなのである。だからこそ、縁を認めてこなかった者が、縁がない、縁がないと言ってもはじまらない。それは、自分が縁を認めていないだけである。

 家族主義のどこがいけないのか。それは、人と人とを背かせ。家族や社会を解体し。国家を転覆しようと思うものが望むことである。

 家族というのは、一つの共同体である。経済主体である。最小の経済単位の一つである。この様な家族の内部、家内は、非貨幣的場である。

 家族は、人の集合、集団である。家族は、主として血縁関係によって結ばれて関係である。血縁によらない者でも、擬似的な血縁関係によって家族の関係、絆は、結ばれる。

 確かに、家族主義、大家族主義にも弊害はある。しかし、その弊害を差し引いても家族という単位を否定しきれるものではない。
 なぜならば、人間は、一組の男女があって生まれるものだからである。この関係を否定できるものではない。
 仮に、この関係をも否定し、人間の誕生を単なる物質的な化学反応の一種だとするようになったら、それは人間が生命の存在を、頭から否定した事を意味する。



経済の本質は、生活にこそある。


 多くの現代人は、経済の本質を誤解をしている。経済の本質は生活にある。人々の生活をより豊かにし、幸せにすることにある。単に、利益を追求し、或いは、生産性を高めたる事にあるわけではない。人々の生活を豊かにするという事は、財を生産するだけでは実現しないことを忘れてはならない。財を必要とする人々に公正に分配されるなければ人々を豊かにすることはできないのである。生産性や利益を追求するだけでは、肝心の人々が忘れ去られてしまうのである。それでは何のための生産性か解らなくなる。人々を豊かにするためには、生産する手段だけでなく、分配する手段も重要なのである。
 経済を貨幣的な空間の事象だと現代人は錯覚している。しかし、経済現象は、非貨幣的空間でも発生している。経済というのは、貨幣的空間だけに限定的に現れる事象ではない。ただ、貨幣経済体制では、経済事象を成立させるためには、貨幣的空間が不可欠だというだけなのである。だからといって貨幣が全てに優先されるわけではない。むしろ経済の基盤は非貨幣的空間にあると言っていい。
 貨幣的空間は、部分であって、全体ではない。貨幣的空間を全体だと錯覚しているところに問題があるのである。

 仕事の為に、家族があるわけではない。家族の為に仕事があるのである。
 金の為だけに働くのではない。人の為に働く事もあり、物の為に働く事もある。かつては、神や国家、社会のために働いた者達もいたのである。況や、遊ぶために働いているわけではない。本来、世の為、人の為に働くのである。
 人間は、生きる為に働いているのであり、働くために生きているわけではない。

 金のために生きているわけではない。生きる為に、金が必要なのである。金のために家族を養っているわけではない。家族を養うために金が必要なのである。金のために国があるわけではない。国家を維持する為に金が必要なのである。

 現代人は、仕事の為に家族を犠牲にしたり、遊ぶ金ほしさで家族を犠牲にしたりする。生き甲斐を家族の外ばかりに求めて、家族を顧みることすらなくなった。お金を儲ける仕事ばかりが尊くて、世の為、人の為に働く仕事を疎んじるようになった。今は、世の為、人の為という言葉は、死語になってしまった。
 そして、仕事というのは、家の外へ出て「お金」儲けをすることと思い込んでしまった。
 しかし、仕事というのは、「お金」儲けをすることとは限らない。家族のために働く事だった立派な仕事なのである。

 「お金」「お金」と言うが、「お金」は実体を持たないのである。
 「お金」は、家族を養うために必要なのであって「お金」の為に家族を捨てたり、家族が崩壊したのでは、本末転倒である。

 経済変動の基礎を構成している要因は、日々の生活の周期である。
 朝、起きて、食事をし、働いて、又、食事をし、その後仕事をして、夕食をとってから睡眠をする。一週間のうち一定期間働き、又、休日をとる。この周期的な生きる為の活動が経済に一定のリズムを生み出すのである。

 又、生まれて、学校へ行き、結婚をして、子を産み育て、老い又病気をして死んでいく。この人生の過程や節目が経済に一定の旋律を作る。
 この様なリズムやメロディーに依って景気は、奏でられているのである。リズムとメロディーが不協和音を奏でた時、景気は破綻するのである。

 経済の基盤は、人的構造、物的構造、貨幣的構造から成る。
 人的構造には、人口の構成、密度、分布等がある。又、家族構成や労働人口の在り方、所得水準や家計構造等がある。その他には、政治体制や婚姻制度、教育制度も人的構造に含まれる。
 物的構造の基本は、物的生産手段の在り方にある。即ち、物的構造には、石油や天然ガス、水といった天然資源の有無や分布が経済に及ぼす影響。電気、ガス、水道、交通、通信と言った物的インフラストラクチャ、社会資本の状況等が経済に及ぼす作用等である。その他に、公共投資や設備投資、住宅投資などの構成。又、地政学的、地理的要件などもある。
 貨幣的構造には、貨幣制度、金融制度、税制などの財政制度、会計制度、市場の仕組み、経済体制などがある。

 家計を構成する要素は、貯蓄、借金、投資、消費、所得である。そして、資金の流れとして現れ、資金の流れは、収入と支出から構成される。

 所得で重要なのは、可処分所得である。可処分所得というのは、解りやすく言えば、収入のうちで自分が自由に使える部分を指して言う。
 では非可処分所得とは何かというと、税とか社会保険と言った所得のうちの公の取り分とローンの返済と言った長期借入金の返済部分である。これらの部分は、家計内部で自由に決められず、家計外部によって決められる。故に、所得が減じるとこの部分は、家計に深刻な負担となる。つまり、書けいないにおける固定費と見なされる部分が非可処分所得である。
 この様な家計内部に一定の非可処分所得が設定できるのは、一定の収入が一定期間保証されていることを前提としている。そして、この家計による長期負債と貯金が国家経済の基盤(インフラストラクチャー)の一端を構成しているのである。

 貯蓄量は、投資を制約し、投資は、収益率と借入率の関係によって規制される。収益は、消費によって制約され、消費と貯蓄は所得の範囲内に制限される。

 人口構成によって労働力の分布や所得構造、貯蓄量、借入状態、消費傾向などは影響される。労働力の分布は、所得に影響し、貯蓄や借入状態は、所得、即ち、収入の在り方に影響し、生活水準、即ち、消費の傾向を左右する。貯蓄、借金、投資、消費、所得は、需要の基礎を構成する。

 家計の定収入化は、住宅ローンなどの長期借入を可能とし、それが、借入、貸付技術の発展を促している。

 今日の経済は、借金によって支えられていると言っても過言ではない。又、借金は、不換紙幣による貨幣経済の本質でもある。
 借金は、現代人が生きていく為には不可欠なものになりつつある。しかし、人を破滅させるのも借金であることを忘れてはならない。つまり、負の経済の仕組みをいかに構築するかが、現代の市場経済を決定付けているのである。

 小判なら壺に入れて隠していても価値は、代わらない。時代を経ても金貨として価値を持ち続ける。それに対して紙幣は、貨幣としての価値を持ち続けることは出来ない。第一物理的にも放置すれば分解されてしまう。
 この事は、今日の貨幣経済を象徴している。今日の貨幣経済では、貨幣は、流通し、使用されることによってのみ効用を発揮するのである。貯蓄は、使用を準備する為にのみ意味がある。流通を前提としない貯蓄は正の効用を発揮しない。

 物質的な繁栄と金銭的な繁栄は違う。また、人としての幸せを物質的繁栄や金銭的繁栄がもたらすとも言い切れないのである。

 根本にあらねべならないのは、人間いかに生きるべきかという人生哲学である。

 教育投資も馬鹿にならない。教育産業が形成されるほどである。

 私の父の世代は、戦前、戦中派に属し、焼け跡から這い上がり、今日の日本の繁栄を築いた。反面、莫大な財政赤字を残したのである。

 我々の世代は、物質的には恵まれている。しかし、金銭的には莫大な借金を負っていることになる。物質が転化した科目は資産であり、金銭が転化した科目は負債と資本である。つまり、資産は増えたが、同時に、負債も増えたと言える。
 なぜ、この様なことになるのか、それは、構造的な問題でもある。つまり、物を買ったり、設備に投資すれば、資産は増えるが、反面に、負債も増える。なぜならば、金銭の源は、借金だからである。

 誰も、莫大な財政赤字を残そうとした者はいないであろう。その時その時に常に最善だと思われる策を講じてきたのであろうし、また、財政赤字を解消しようとして最善の努力をしてきたと思う。現に大蔵大臣の時に発行した赤字国債が大平正芳の死の遠因となったと言われ、また、又、中曽根政権では、行政改革を断行して赤字の解消に努めたが、結局、赤字は解消されるどころか拡大を続けて今日に至っているのである。
 問題なのは、財政支出の抑制が効かずに際限なく借金が増えていることなのである。

 正の遺産を引き継ぐことは、負の遺産を引き継ぐことであり、負の遺産を引き継ぐことは、正の遺産を引き継ぐことでもある。
 正とは、物理的な部分を言い、負とは、貨幣的な部分を言う。物理的とは、実体的な部分であり、貨幣的とは、名目的な部分を言う。実体的とは、資産を言い、名目的とは、負債と資本を言う。

 現実の世界は、金や物だけでは片付けられない世界だと言う事を忘れてはならない。
 例えば、高齢者問題や女性問題、育児問題である。これらの問題の根底にあるのは、市場と貨幣だけの問題に収斂させようと言う考え方である。唯物論的考え方である。
 金と物だけで割り切ろうとする次の世代の価値観にどうにもならない違和感を感じるのである。そこには、共同体の入り込む余地がないのである。
 仕事や金では割り切れない絆を断ちきってしまう。
 終戦直後の日本人は、何にもなかったけれど大勢の人に助けられて生きてきたのである。
 仲間、家族、同僚と言った人と人との絆の上に築かれた人間関係を土台とした社会、いわば共同体だった。この点を無視しては、財政は、立て直せない。
 つまり、高齢者の面倒を誰が、どの様に見るかの問題である。それは、制度や建物を整備すれば片付くという性格の問題ではないのである。いわば、人生観の問題である。この問題は、道徳や価値観を見直さないと、経済問題の根本原因は解消できないのである。
 世の中は、力無き者に冷淡になりつつあります。しかし、本来、弱き者を護り、助けあっい、かばい合って生きていくのが社会の目的だったはずです。
 老いて力がなくなれば、家族や世の中からうち捨てられてしまう。
 国民国家と言えども権利や義務だけで成り立っているわけではない。
 そして、行き着くところは、無縁社会である。
 隣は何をする人ぞになっしまう。それが、問題の本質的解決を阻んでいるのである。例えば、家事労働を賃金に換算するとどれくらいなるであろうかという問題である。極端な話し、亭主が稼いできた賃金の全て、あるいは、それでも足りないくらいになる。貨幣というのは、元々、共同体が生産する物で足りない部分を補う物が当初の目的だったのである。
 財政で、社会福祉費としてどれくらいを負担すべきかは、家計と財政との関係から割り出されるべきものなのである。
 高齢者や出産育児の負担を財政だけに、あるいは、家計だけに負担させようという事自体が無茶なのである。
 親の面倒を子供がみる中で、足りない部分をどの様に、どの様な形で補助するかが、本来、財政と家計との問題なのである。全てを財政の負担にしても家計の負担にしても破綻することは、明らかである。
 全てを金や物だけで片付けようという思想自体を改める必要があるのである。



家族は、運命共同体である。


 家族は、共同体の一種である。共同体である家族には、内的経済と外的経済が形成される。内的経済空間は、非貨幣的空間であり、外的経済空間は、貨幣的空間である。

 又、内的経済は組織的空間でもあり、外的経済は、市場的空間でもある。

 家族が否定的にとらえられる要因の一つに、性別問題がある。男は外に働きに行き、女は内を護るという住み分けが問題視されるのである。それが男女差別を生み出す原因だとされるのである。
 しかし、その問題の根底には価値観や文化、社会の仕組みの問題と生物的な在り方の問題が潜んでいることを忘れてはならない。この二つの問題を混同してしまうと男女差別の本質が見えてこなくなる。

 家族問題の根本に、出産と育児の問題があることを忘れてはならない。

 そこには、男と女の本質的な差がある。その本質的な差まで否定してしまう者がいる。それは、事実から目を背けているのに過ぎない。問題は、その差が、社会的な差別に繋がり、制度的な規制を受けることなのである。男と女の差を優劣に結び付けるのは愚かなことである。だからといって男と女の差を認めないのは、むしろ、差別の裏返しに過ぎない。かえって差別を増長させるだけである。

 問題なのは、家庭の外に働きに出ることばかりに意義を見出し、家事を疎かにする風潮である。特に、貨幣経済が浸透すると外に働きに出ることは、即ち、貨幣収入を得ることを意味するようになった。つまり、「お金」に絶対的価値を持たせることなのである。その為に、貨幣に換算されない物や行為に経済的価値が見出せなくなっているのである。それが問題なのである。貨幣経済が貨幣に依存し得なくなると貨幣収入を伴わない労働は、経済的に無価値な労働に思われるからである。しかし、本来、仕事は家庭の外にばかりあるわけではない。

 まるで、家庭の外で働く事が正しくて家庭内で働く事は、罪悪であるかの思想に支配されている。
 雇用の機会は失われるし、家庭内の働きは空疎となり、家庭は崩壊する。
 また、経済的行為が外的な行為に置き換えられてしまう。それが最大の問題なのである。
 経済というのは、共同体の外部にのみ成立するものではない。共同体の内部にある経済事象の裏返した経済事象が外的経済を形成するのである。
 家内労働を総て外注化したら経済は成り立たなくなる。経済は、貨幣的な労働だけで成り立っているわけではないからである。消費労働の多くは非貨幣的労働であり、貨幣価値に換算されない労働である。
 家族は一つの単位として計算されるから経済における貨幣価値は、足りているのである。これらの労働の総てを賃金化したら流動性が過剰となり、貨幣は、総ての需要を賄いきれなくなる。

 市場は交換を前提として成り立っている。
 物の価値は、使用価値であり、実質価値である。貨幣価値は、交換価値であり、名目価値である。
 交換を必要としていない部分においては、貨幣価値は用をなさないのである。

 「お金」を稼ぐことばかりが仕事なのではない。「お金」を稼ぐと言う事は、言うならば、獲物を捕ってくることと変わりはない。ただ、獲物には、実体がある。それに対し、「お金」には、物としての実体がない。交換する権利があるだけである。
 物としての実体があれば、獲物を狩るという労働も、獲物を調理するという労働にも労働として同等であることは一目瞭然である。
 それに対し、貨幣は、交換価値を表象しているのに過ぎない。
 たとえ、貨幣に交換されようとされまいと労働の本質に変わりはない。獲物を狩るというのと、賃金労働をするというのは、労働の成果が直接的に確かな実体のある物によって実現するのと、貨幣という表象によって不確かに物に、一旦、還元されるかの違いにすぎないのである。
 ただ、貨幣経済下では、獲物は、一旦、貨幣価値に換算され、貨幣に交換されることによって経済的価値が付与される。その為に、貨幣に換算されない労働は、社会的に認知されないというだけなのである。
 本来は、獲物を捕ることが目的だった。だから、獲物を捕れれば問題がなかったのである。しかし、貨幣に依ってしか必要な物資が調達できないとなれば、話が違ってくる。獲物という実体よりも貨幣という表象の方が力を持つように変質するのである。それが、貨幣経済である。そして、その為に、非貨幣的労働である家事労働が軽視され、それに従事する物の立場も比例して弱くなったのである。
 故に、女性は、家庭の外に出て働きたがるようになる。反面、家庭の内部か空疎となり、家族の崩壊が顕著となってきたのである。
 家族制度が瓦解したから家族が崩壊したのではない。家族制度の崩壊は、家族関係が崩壊した結果に過ぎない。家族の絆は、単に、制度だけで保てるものではない。家族内部の動機、規範によって家族は保たれるのである。なぜならば、家族を支えているのは、内的関係だからである。

 経済の実際は、価値観によって決まる。その中核は家族にある。つまり、家族に対する考え方が経済の在り方を規定しているのである。


家族問題は、人口問題である。


 家族の問題は、人口問題である。
 人口問題の根源は、家族の問題である。

 一方で人口爆発が問題となり、もう一方で人口の減少が問題となる。しかも、皮肉なことに、人口爆発が問題になるのは、貧しい地域であり、豊かな地域では、人口の減少が問題となる。
 少子高齢化で問題とされるは、労働人口の減少である。労働人口とは、つまりは貨幣的労働、賃金労働であり、非貨幣的労働、つまり、家内労働は除外されるのである。それが現代社会である。家族で家族の面倒を見ることは、現代社会では不経済な事なのである。だから、育児の問題や両親の面倒は他人に任せて自分は、賃金労働をすべきだというのが現代社会の前提となる。その結果、必然的に家庭は崩壊する。解りきったことである。
 少子高齢化対策というのは、家族の負担を軽減することに重点が置かれるのではなく。保育園や介護施設を充実する方に向けられる。その結果、公的負担が増大する。増大した公的負担は、賃金労働者から税金として調達する。結局、家計や企業の負担は増大する。つまり、蛸が自分の足を食べているのと同じ構図である。

 育児は、人生の目的ではなく、究極の道楽のようになってしまった。専業主婦というのは、外に働きに出られない、意識の低い者の労働だと決め付けている。しかし、かつては、家計というのは、経済の中心にあった。賃金労働こそが補助的な労働だったのである。
 今一番、豊かなのは、二十代の独身の男女である。一番、お金に困っているのは、三、四十代の働き盛りの妻帯者である。つまり、子育て世代である。だから、若年層は、結婚を忌避し、出産を嫌うのである。保育園が不足しているから、結婚をしないわけはない。
 結婚をすると生活水準が極端に悪くなるから結婚をしないのである。
 貨幣経済では、豊かさとは、自分が自由にできる「お金」がどれくらいあるかで決まる。所得の全てをお小遣いにできる世代と生活に必要な経費を差し引いた上に、お小遣いとして与えられた範囲でしか使える「お金」がない世代とでは、その差は歴然としている。
 これでは家庭を持つ魅力がない。結婚生活や家族に対して負の印象しか持たせてこなかった世代が、少子高齢化によって苦しめられるのは、自業自得に過ぎない。

 何が、人間とって幸せなのかを明らかにしようともせず。数字の上だけで経済の問題を明らかにしようとする、また、明らかにできると思う傲慢さが、問題なのである。経済の本質とは、生きる事であり、帳尻を合わせることにあるわけではない。幸せは、自分の問題であって、自分という主体的で唯一の存在を無視したところには、成り立ち得ないのである。

 なぜ、親子の温もりを否定したところに幸せが成り立ちうると思えるのであろうか。幸せは数字では表せない。つまりは、金で明らかにできる代物ではない。兼橋合わせになることを助ける手段かもしれないが、幸せそのものではない。況や、愛する者を金のために犠牲にしてしまったら、本末転倒である。

 家族はネットワークの要である。家族には、血の絆と言われるものがある。その血縁関係によるネットワークは否定しようがないという事である。当人が、望もうと、望まないとどこまでもついて廻る。それを厄介だと感じる者にとって家族の関係というのは否定するか、無視するかしかないのである。

 そして、この血縁関係は、民族や文化、又、国家を構成する核となる。逆に言えば、ロミオとジュリエットの昔から民族紛争や家族紛争、相続争い、果ては戦争の根源には血縁関係があるともと言える。
 男と女の関係は、愛と憎しみの関係と言われる由縁である。

 家族を肯定的に捉えた上で、その弊害を取り除くようにすべきなのである。

 人口問題と言うが、その根本は、国家観であり、世界観にある。
 一方において、少子高齢化が問題だとしながら、その一方で、人口爆発だと大騒ぎをする。
 第一に、人口の減少を問題なのか、増加が問題なのか、それを明確にしなければ議論は成り立たない。そして、人口の減少の何が問題なのか、人口の増加の何が問題なのかを明らかにするのは、国家観なのである。
 国家観の核となるのは、家族の在り方である。家族の在り方は、家族制度や婚姻制度に収斂される。

 最近結婚年齢が上昇し、一生結婚をしない人達が増えていることが社会問題化している。結婚してもすぐに離婚してしまう。家族が崩壊しているのである。
 独身者が増えれば、当然、人口は増加しない。

 大体、今の社会の仕組みでは、独身者にとって経済的な観点で良いところなんて何もない。しかも、根本的価値観まで家族に対して否定的である。家族という関係を一体的な共同体としてとらえていないからである。
 根本的に問題は、自分がどの様な生き方を望んでいるかであり、自分の望む生き方を実現するためには、どの様な社会をどの様な人間関係を国民が望んでいるかを明確に示していくことなのである。
 その大前提は、人間は一人では生きていけないと言う事実である。今の世の中ではこの大前提すら揺らいでいる。そして、自分一人で生きていけると思い込んでいる。また、自分一人で生きているという人間が増えているのである。それは思い上がりと言うよりも自分を取り囲む人間関係が見えていないのである。
 大事なのは、人生観である。人生観の上に構築された世界観、国家観なのである。その根源は、愛情の問題である。自分の人生をいかに愛するか、自分を支える人々、即ち、家族やつれ合い、友達や仲間、そして、社会の人々をいかに愛するかの問題が根源にあるのである。だからこそ、金や物の問題が重要にも成るのである。

 いくら上物や制度を作ったところで愛情がなければ意味がないし、経済的にも成り立たない。なぜならば、働きには、金に換算できない、物に代えられない部分が多く含まれているからである。

 つまり、二つ目は愛情の問題である。現代社会の建前は、愛情は個人の問題だから、公は極力関与しないことになっている。しかし、世の中のもめ事の大多数は、愛情問題なのである。

 今、結婚すれば共稼ぎしないかぎり、収入は半減する上に、費用は、増える。当然、一人一人の可処分所得は減る。子供が生まれれば、更に負担は増加する。この問題は、育児所や保育園を増やせば解決するという問題ではない。心の問題が隠されているからである。
 しかも、結婚しなくても経済的には何も困らない。困らないような仕組みを一生懸命国家が構築しているのである。むしろ、結婚をして子供を作った方が困る事が多い。今の社会は、そう言う仕組みなのである。結婚すべきかどうかは、単に精神論に過ぎない。
 これでは、結婚しない、子供を作らない人が増えるのは必然的帰結である。結婚しても子供を作らない方が経済的に楽なのである。
 社会の仕組み、経済の仕組みが既婚者や親に不利益な仕組みになっているのである。社会や経済の仕組みを変えないかぎり、結婚を忌避する男女は増える一方である。と言うよりも結婚することは愚かであり、間違いだと社会の仕組みが教えているのである。
 これは高齢者介護の問題も同様である。金や設備、制度で全てが解決できるわけではない。金や設備、制度で解決できることは一部なのである。根本にあらなければならないのは、人生観や倫理観、哲学なのである。愛情の問題なのである。
 あらゆる家族制度、婚姻制度の本にあるのは、愛情の問題である。親と子、男と女、夫婦間にある愛情をどう捉え、それをいかに制度化するかの問題である。それを忘れているところに現代社会の病巣がある。
 近代的合理主義者と称する人達の言い分は、家族は、個人の集合体でしかない。父親や母親、兄弟という関係や序列は、存在しない。全てを対等な関係によって捉えようとしている。
 しかし、現実は、違う。幼児や赤ん坊は、誰かが保護し、扶養しなければ生きていけない。高齢者には介護が必要である。
 それを家族以外の施設やサービスに委ねてしまうと社会的負担が過大になる。家族とは、運命共同体なのである。

 為政者の多くは、あたかも、この世の全ても揉め事は、金や物で片付くと思い込んでいるように見える。しかし、根本的な問題は、金や物では片付かない。否、金や物では片付かないからこそ根本的な問題なのである。

 多くの人は、過去の歴史的、伝統的な家族制度を前世紀の遺物として蔑(ないがし)ろにしている。封建制度の名残や男女差別の象徴だと見なすものもいる。世襲制は、階級差別の根源だと悉く否定してしまう。
 しかし、女系家族制度のように、財産を女性が継承することで母性を保護しようという制度もあったのである。又、家族制度が失業者、弱者の受け皿として機能していた部分もあるのである。
 大事なのは、何から、何を、何が護るかである。又、家族にどんな働きを求めるかである。その為には、どの様な社会的仕組みが必要か、その根本的な考え方を明らかにすることである。
 なぜならば、家族関係を否定することは、この世の全ての人間関係を否定することに繋がるからである。人間関係の根本にあるのは愛情である。人間関係を否定することは愛情を否定する事なのである。

 経済は、労働と分配の問題である。だからこそ家族が大切なのである。なぜならば、全ての人間が労働の対価として所得を得られるわけではないからである。仕事の中には、対価として所得と結び付けられない労働や労働そのものに従事できない者も存在するのである。全てを所得に結び付けて経済を考えたら所得を得られない労働や人は、価値がなくなってしまう。人として存在するものに無価値なものはない。
 金にならない労働にも価値はあり、金を稼げない人も生きる権利があるのである。その点を現代社会は等閑(なおざり)にしてきた。そのツケが今廻ってきたのである。それが財政の破綻この根本にある。

 なによりも悪いのは、家族という関係を封建的だと頭から全否定して新しい家族の在り方を模索しないことである。

行政は、家政の延長線上にある。


 家計、企業会計、財政、個人は、市場経済を構成する基本単位である。

 経済は生きる為の活動である。つまり、経済の原点は生活、生計にある。
 家計は、生計である。つまり、生きる為の算段、手立ては家計にある。

 家計の基礎は、家内にある。家内というのは、共同体内部を言う。個人を除いた経済単位は、共同体を言う。市場経済における内部経済とは、共同体の内部、市場から見ると外側の経済をいう。
 家計は、家内経済である。家内には、経済的要素だけでなく。政治的要素がある。共同体内部の政治的要素を内政という。経済的要素から見た内部経済の切り盛り経営と言い、内政の切り盛りを運営という。

 市場経済では、貨幣は、外部より調達し、外部で使用する。そして、生産物は内部で生産し、市場で取引をする。企業生産は、家政の延長線上にある。

 家計の延長線上に財政がある。家計と財政は、消費経済の核である。財政学は、官房学が発展したものである。
 家内の運営を家政という。家政の延長線上に行政がある。

 本来、地方行政は、家内の人間が携わる問題である。
 仕事というと、賃金労働のみを指し、家内の人間を外部の仕事に従事させることばかりを優先する。

 しかし、公の仕事の多くは、内部経済に属する仕事である。
 子供の教育や高齢者の介護、ゴミの処理や上下水道、清掃やインフラストラクチャーの整備や管理、家事に必要な物資の調達などは、家内の仕事であり、その延長線上に地方行政がある。

 地方の行政は、育児を終えた家内の者が従事するのが、本筋なのである。家内の者は、行政に従事することによって生計を立てられるようにする。

 行政の主な仕事は、教育であり、社会資本の充実である。
 又、老人の介護は、地域住民の協力があって成就する。ただ金を出せば、設備や制度を整えればいいと言う問題ではない。
 人としての在り方、倫理観が確立されていてはじめて成就するのである。
 故に、公の仕事の基本は家内にある。

 それ故に、家内の仕事を拡大することによって消費経済を確立し、地域社会は形作られるべきなのである。

 家計が消費を主導する。その証拠に消費者運動の拠点は家計にある。
 行政は、家政によって成り立ち。家政は、行政によって保護されるべきものなのである。

 外部経済にのみ生活を依存し、労働の価値を認めていたら、内部経済は崩壊する。
 それは家庭の崩壊、共同体の崩壊、社会の崩壊、最終的には国家の崩壊を招く。
 何のために、誰のために働くのか。ただ金のために働いているわけではない。
 金儲けは生きていく為の手段であって目的ではない。金は、生きていく為の手段として貴いのであって自分の家族を犠牲にしてまで金儲けに奔走するのは、本末の転倒である。

 幸せの種は、家内にあるのである。


家計は、経済の根底を成す単位である。


 家計は、経済単位の一つである。

 主体とは、自己を拡大、延長したところに成立する概念である。例えば、家族であり、会社であり、地域共同体であり、国家であり、人類である。

 経済主体には、個人、家計、経営主体、国家等がある。経済主体は、経済単位でもある。故に、経済単位は、個人、家計、企業、国家である。

 家計は、消費の基盤を形成する経済単位である。経済は、消費によって完了すると言える。つまり、家計は、経済の最終出口(ゴール)である。

 消費が最終地点に位置する経済行為だとすれば、消費構造は、経済の土台、基盤だといえる。そして、消費構造の根幹を形作るのが家計である。故に、家計構造が経済の枠組みだといえる。

 消費の構造と費用の構造を結び付けて考えると経済の仕組みが見えてくる。
 人々の生活がどの様な消費構造に基づいているのか。それと費用構造がどう結びついているのか、それを明らかにすることが経済構造を解明する手掛かりとなるのである。

 消費構造を決める要因は生活様式(ライフスタイル)である。つまり、経済の基礎は生活様式の変化によって変わっていくのである。

 消費の在り方が生産の在り方を決めるのが本筋である。消費の根本は必要性から発する。必要もなく、商品を生産することを無駄と言った。しかし、今は、必要性という事がまったく無視されているか。或いは、まったく違う意味に使われている。

 必要性は、家計にある。いかに生きていくかこそが必要性の源なのである。

 消費と言う点からすると家計の対極に位置するのが、生産拠点である企業と財政である。
 家計は、生産拠点に対して労働力を提供することによって所得に依って貨幣を獲得し、その獲得した貨幣によって市場から生活に必要な物資を調達する。

 景気というのは、生産と消費の間にある現象である。つまり、産業から市場を経て家計へ流れ込むダイナミックな貨幣と財の流れが景気の勢いを決めるのである。

 この資金と財を流すパイプの太さが問題なのである。パイプが細くなれば当然景気はつまる。このパイプの太さを決めるのが企業収益であり、個人所得である。景気が悪化した時は、収益の安定を計る必要があるのである。

 個人所得というのは視点を変えると支出の原資となる収入であり、労働の対価であり、人件費という費用であり、貯蓄の元であり、生活費の原資でもある。

 経済とは、突き詰めて考えると分配の問題だといえる。そして、貨幣は、分配の手段の一つである。分配の手段の一つに交換がある。
 貨幣機能の一つに、交換の仲介がある。貨幣は交換の手段である。
 貨幣は、労働と財とを交換する手段でもある。

 分配率、特に、労働分配率で注意すべきなのは、所得水準の推移が費用構造にどの様な影響を与えるかである。
 労働分配率は、労働条件の問題や価格競争力にも深刻な影響を及ぼす。単純に価格だけを問題にすれば、労働分配率に隠された労働条件の問題を無視することになる。その為に、貧困や劣悪な労働条件、公害等を輸出しているという誹(そし)りを受けかねないのである。

 肝心なのは、分配率なのである。付加価値に占める労働分配率は、個人所得の原資であり、また、減価償却率は、設備や過去の投資に対する分配を意味し、税率は、公に対する分配を明らかにする。粗利益率は、裏返してみれば、原材料や仕入れに対する分配である。これらの比率の変化が産業構造や経済構造の変化を表す指標となる。

 経済は、連鎖的な反応なのである。個人所得、企業利益、財政、地価などを個々の独立した指標としてのみ捉えるだけでは、経済の動きは理解できない。個人所得を収益や物価水準、財政に結び付けて経済を考えられなければ景気の動向を予測することは不可能なのである。

 家計の借金、企業の借金、国の借金、また、家計の収入、企業の収入、国の収入、そして、家計の資本、企業の資本、国の資本、各々働きが違う。又、各々が各々の役割を果たすことで全体の機能を発揮できる。

 何が何に対してどの様作用を及ぼし、或いは結びついているのかその関係を明らかにすることが鍵を握っているのである。
 家計の借金と企業の借金、財政の借金は、深く関わり合って各々の役割を果たしている。また、家計の収入と借金も相互に結びあって成立している。企業収益と個人所得、国の収入も然りである。また、金融機関の収益と国の負債にも関わりがある。財政上の借金ばかり、単体で問題にするだけでは、財政問題は、解決できないのである。

 企業収益や財政の中に占める個人所得の量、個人所得の中に占める支出や税の量、投資に向けられる個人所得の量や税収、それらの均衡をいかにとるかが、経済の最大の問題なのである。

 神を信じられない者は、親子、兄弟、配偶者、愛人、血縁者しか信じられる者がいない。契約に基づく人間関係もあるが、契約は、契約に過ぎない。だからこそ、一神教を信じない者は、世襲に傾くのである。そして、近代的契約概念の根本には、神に対する契約がある。
 そして、近代的個人主義以前の社会では、世襲、同族的な共同体が根本にあったのである。

家計は現金主義である。


 期間損益主義というのは、資金の働きを短期、長期に区分し、短期の資金の働きを収益と費用、長期の資金の働きを資産と負債として対応させよる事によって費用対効果を明らかにし、その差額を資本と利益に集約させようという思想である。
 家計と財政は、この期間損益主義に立脚していない。
 その為に、収支という現金の流れはつかめても、長期的な資金の働きを解明するのが困難なのである。

 家計は、現金主義である。 基本的に期間損益主義は採用されていない。それは銀行から融資を受ける際も、税金を計算する際も同じである。
 例えば、5000万円のローンを組んで家を買ったとしても、残るのは、5000万円の借金である。家という財産は、相対勘定として表面には現れないのである。故に、負債と資産とは均衡していない。これは財政も同様である。財政破綻と言うが実際に債務超過に陥っているかどうかの判断は下せないのである。

 故に、破産と言っても家計の破産と財政破綻、企業経営の破産は同次元では語れない問題なのである。
 損益上の損失というのは単位期間内の費用対効果の釣り合いをとれなくなることを言うのであり、財政や家計の破産というのは、借金の返済ができなくなることを言うのである。又、破産と言うことで言えば、企業経営上の破産も同じである。

 期間損益上、費用対効果があっていれば、多額の借金があっても論理的には新たな借入は可能であるが、現金収支上では、収入と支出が釣り合わなければ即破産とみなされてしまう。破産すれば新たな借入は原則不可能になる。

 自由主義経済の特徴の一つは、収入と支出の定型化である。一つは、所得の定収化、今一つは、支出の定型化、即ち、借金である。定収化と借金によって長期的な収入と支出を固定化する。収入から固定化した支出を差し引いた部分を可処分所得として消費にあてるのである。
 つまり、長期的資金の流れと短期的資金の流れが実質的に区分されているという事である。

 家計も財政も長期的負債が生活の土台を形成するようになった今日、目先の事、単年度収支を均衡させるという思想は成り立たなくなったのである。

 収入が安定してくると計画的な借入も可能となる。収支が安定してくると今度は、消費構造の変化が重要となる。消費が予測することが可能になることによって産業は計画的な生産を行うことが可能となったのである。
 この様な消費の在り方の変化が、自由主義経済を発展させ、又、安定させた要因である。

 収入と支出を平準化する機能を持っているのは、企業や政府と言った事業機関である。

 問題となるのは、収入というのは必ずしも安定していないのに対し、借入金の返済は、確実に要求されるという事である。失業をすれば借金だけが残って収入が途絶えることになる。それが景気に決定的な働きをしている。

 この点は、家計も企業も同様の体質を持っている。企業も不景気になれば、借入金の負担が大きくなるのである。
 この事からも雇用の重要性は、定収入の維持確保にある事が解る。

 かつて個人収入は安定していなかった。収入が一定していないのは、現代の個人事業主も同様である。しかし、支出は、固定的な部分が多い。

 この点は、企業も同様である。収益は一定していないが費用には、固定費がある。この様な不安定な収入と固定的な費用を調節する機関が企業である。

 波のある企業の収支を整流する装置は、会計基準に従って資金の流れを調節する金融機関である。つまり、金融機関の役割とは、資金の流れを長期、短期に分流して調和することにある。
 この機能が上手く作動しないと景気の変動は乱れるのである。

 消費者には、長期的資金の貸出をする銀行と短期的資金の買い出しを受け持つ消費者金融が区分されている。
 かつて、日本の金融制度も超長期、長期、短期や企業の業種によって金融機関も別れていた。

 家計の範囲にいかに支出を抑え込むかであり、それが所得構造を規制するのである。所得の在り方は、企業の収益構造や財政の税制構造にも反映されなければならない。そして、これらの構造が経済の基礎的構造となるのである。

 又、産業構造は、消費構造を反映した構造である。

 収益に波がある産業の消長を決める幾つかの要素がある。これらの要素は一定の周期がある。一つは、消費の周期であり、もう一つは投資の周期である。
 消費と投資を分かつのは、決済期間、即ち、支払が長期にわたるか、短期に終了するかの問題である。

 住宅や自動車をみてみると産業と家計との関係が浮き彫りになる。
 例えば、自動車を例にとると、自動車本体には、自動車の耐久期間、車検のようなメンテナンス、性能やデザイン、モデルチェンジの周期、新車の価格と中古車の相場と言った要素がある。
 消費者側からすると第一に、支払のことがある。第二に、買い代え時期の問題がある。支払というのは、支払手段、借入か、自己資金か、リースかの選択。月々の支払額。支払期間。金利などの問題である。
 自動車の持つ要素と消費構造によって企業の設備投資や収益が規制される。そして、産業の在り方も消費構造の影響を受けるのである。

 消費にも生産にも質と量がある。現代社会は、量を重んじて質を軽んじる傾向がある。それが大量消費、大量生産型社会である。良く犯す間違いは、大量生産型経済、大量消費型経済と資本主義経済、市場経済を混同することである。大量生産型経済、大量消費型経済と資本主義経済、市場経済は同一ではない。資本主義も、市場経済も成熟するにつれて量から質へと転換していく。即ち、大量生産型から多品種少量生産型経済へと転換していく。この転換が円滑にされないと資本主義経済も市場経済も衰退へと向かうのである。

 例えば、自動車市場も、市場が成熟するにつれて普及車から高級車、或いは、多目的車へと変化していくべきなのである。変化できなくなければ、市場は飽和状態に陥り、やがては衰退していく。経済において問題なのは成長市場ではなく。成熟市場の方であることを忘れてはならない。成長市場は、市場の拡大に伴って産業構造を調節できるが、成熟市場は、縮小している中で構造改革を推し進めなければならないからである。

 高級車は、普及車よりも耐久力が優れている。それだけ、耐用年数も伸びる。その分、自動車の更新期間も延長でき、借入期間も長くできる。それは、月々の支払負担を軽減することにも成る。ただし、借入期間を延長するためには、長期にわたって収入の安定が計られていなければならない。現代の経済危機の背後には、この仕組みが円滑に作動していないことがある。
 経済を立て直すためには、経済の仕組みを見直す必要があるのである。

 ある程度、自動車が普及したら、自動車の性能を向上させる。即ち、高性能な上、多様な目的に応じた車作りに産業を転換するのが理想である。その為には、一方で所得を安定させ、もう一方で長期借入の技術を向上させることなのである。即ち、人、物、金の技術革新があって市場を量から質へと転換することが可能となる。

 物の価値と貨幣価値とは必ずしも一致していない。設備の償却の基準と借入金の返済計画とは、一致しているわけではない。設備の更新計画と借入金の資金計画の微妙なヅレが資金の流れに重大な歪みを生み出すのである。

 量から質への転換は、自動車の生産の技術、自動車の性能の変化と言った物質的変化と借金の技術、長期雇用といった貨幣的変化、運転技術の変化といった人的変化の均衡によってもたらされる。
 社会は、これらの変化に対応できる仕組みが要求されるのである。

 量より質への転換の成否は、市場の多様性にかかっている。
 ところが、現代の経済政策は、市場の標準化を推し進めてしまう。市場の一様化は、市場の非人間化でもあることを忘れてはならない。真の自由市場とは、市場の多様性が維持されてこそ実現するのである。

 安価で、簡便な使い捨て商品が悪いというのではない。ただ、安価で簡便な大量生産品によって何世代にもわたって使われてく様な手作りで高価な商品が駆逐されてしまうことが問題なのである。
 市場は、廉価で簡便な使い捨て商品から芸術的な工芸品まで幅広く多様な欲求に応えられるからこそ存在意義があるのである。

 競争というと価格競争ばかりを指すようである。だから、過激な安売り合戦が勃発して全ての企業が体力を消耗することになるのである。しかし、競争には品質の競争もある。価格競争が商品の均一化に向かえば、品質競争は、商品の多様化に向かう。競争と言っても一様なのではない。何を一定とし、何に変化を求めるかが競争の有り様を決める。
 一番困る基準は、あるようでない、ないようである基準である。

 価格を競わせるべきか、品質を競わせるべきかでとるべき政策も違ってくるし、また、市場の仕組み、有り様も違うのが当然なのである。

 敗戦後、高度成長の初期の日本には、何もなかったが、希望だけはあった。今の日本は、物質的には恵まれているが、希望だけがない。それが、今日の日本の経済の状態を象徴しているのである。
 希望の源泉こそ家族なのである。

家計と経済


 家計は、経済構成する三つの要素、即ち、財政、企業と経済の一翼を担う要素である。それでありながら、家計が経済に果たす役割機能という物の解明が遅れている。それは、一つは、消費経済が確立されていないことに一因していると思われる。

 経済というのは、貨幣的現象であると伴に、物理的現象でもある。経済的破綻と言って貨幣的に破綻しているのか、物理的に破綻しているのか、何れなのかが重要なのである。

 ただ、生産を機械化し、効率化すれば経済は、良くなるとは限らない。生産力のみを土台とした現代社会の重大な落とし穴がそこにある。

 生産は、もう一方に所得がなければ成り立たないのである。つまり、生産をした物を分配し、消費する仕組みがなければ、いくら生産力を高めても経済は成り立たないのである。

 経済を構成する要素は、GDP(国内総生産)に集約することが出来る。

 GDPを取引によって表現すると生産と所得になる。そして、付加価値が問題となる。 言い替えると収入=支出。そして、分配が問題なのである。

 何と何が均衡し、何の量が変化し、何の比率が変化し、何と何が連動としてどの様に変化するのか。

 増税は、配分の問題であり、社会全体の所得の絶対額と比率の関係によって解き明かされなければならない。つまり、経済全体の絶対額が増えない状況で増税すれば、増税した分他の所得の削減する効果しかない。

 支出には、投資と費用がある。

 大雑把に言うと(厳密ではない)キャッシュの流れは、
 収益+前期借入金残高-期末借入金残高=収入
 費用-減価償却費+期末借入金残高-前期借入金残高=支出
 として捉えることが出来る。

 収入=売上+営業外収入+特別収入+借入金+資本
 収入=支出+貯蓄

 家計では、生産と消費と所得は一致している。

 又、財政や家計では、歳入=歳出の等式が成り立つ。

 ストックというなんだか金が溜まっていくような錯覚がある。
 ストックというのは、資金が流れたことによって生じた軌跡のようなものである。

 今日の経済的行為とは、先ず時間的な行為であり未来に向かって開いている点である。それが所得や負債、資産、費用の大前提となっている。
 つまり、一回、一回の取引によって経済行為は完結していないのである。

 家計は、第一に、労働者、即ち、労働力の供給源である。第二に、消費者である。第三に、納税者、税源である。
 貨幣は、所得を通じて消費者に、分配、供給される。
 家計で重要なのは、雇用(所得)、消費、貯蓄、借金、納税である。

 借りる。(貯蓄)貸す。売る。買う。生産する(作る、働く、稼ぐ)。消費する。これらが家計における経済行為の基本である。

 売り買い、貸し借り、贈る贈られるが経済の基本行為である。そして、基本行為を構成する要素は、人(役務)、物、金である。
 売り買いは、人や物と金との双方向の流れを生む行為であり、貨幣経済を構成する取引の根本的行為である。
 それに対して、貸し借り、贈る贈られるは、単一要素の運動である。例えば、物の貸し借り、用役の貸し借り、物を贈り、贈られるというようにである。

 また、これらの基本行為は、鏡対称関係にある。

 資産には、買うという選択肢の他に、借りるという選択肢がある。

 物や金には、使う、消費するという選択肢の他に、貸す、預けるという選択肢がある。

 貯蓄は、金融機関との関係で見ると貯蓄者が金融機関に貸すと言う関係が成り立つことが解る。

 物の生産には、物理的な制約があるのに対して、貨幣価値には、貨幣自体の価値を度外視すれば物理的な制約はない。特に、不換紙幣は、物理的な制約から開放された結果成立したのである。
 物の働きと金の働きの差が、インフレーションやデフレーションといった貨幣経済における経済現象を引き起こす原因となる。

 投資とは、貨幣価値の転化を目的として資金を投入する事である。例えば、設備投資とは、原材料を商品に転化すること目的として設備に資金を投下する事である。
 故に、投資は過程であり、消費は帰結である。
 投資は、生産に関わる事象である。消費は清算に関わる事象である。
 企業は、基本的に消費行為がない。企業の行為は、投資を基本とする。

 貯蓄と投資とのバランスが経済の基本である。

 経済の根本には、貯蓄と借金がある。
 つまり、投資と貯蓄と負債の関係が経済主体にとって重要となる。

 先ず経常収支の均衡が重要となる。経常収支がマイナスである場合は、不足した部分、外貨を外国から補充しなければならなくなる。
 次ぎに、財政収支の均衡が重要となる。財政収支が不足すれば、政府は、借金をしなければならなくなる。
 そして、民間収支が不足すれば、民間企業は、金融機関から資金を借り入れなければならなくなる。
 最後に家計収支が不足すれば、家計は、外部から金を借りることになる。
 又、経常収支と財政収支、企業収支、家計収支は、次の式が成り立つ。

 経常収支=家計の貯蓄投資バランス+企業の貯蓄投資バランス
                       +政府の貯蓄投資バランス
       =家計の貯蓄余剰+(-企業の資金借入)+財政収支

 更に、経常収支は、資本収支と原則一致する。ただし、政府が為替に介入した場合は、外貨準備高増減に反映される。
 即ち、経常収支+資本収支=外貨準備高増減
 財政収支=財政資本収支
 民間収支=民間資本収支
 家計収支=家計資本収支

 歳入=歳出
 歳入=税収+税外収入+公債

 収益-費用=当期総資産残高-前期総資産残高
        =当期総資本残高-前期総資本残高

 国内総生産=国内総所得=国内総支出

 この事は、海外、財政、民間経営主体、家計の間の貸し借りが市場経済の土台を形成していることを意味する。

 金融機関の役割は、余剰の資金を持つ経済主体から資金が不足している経済主体へ資金を廻すことにある。
 しかし、問題なのは、余剰の資金を持つ経済主体と資金が不足している経済主体が一定していないという事である。
 かつては、家計が、余剰資金を貯金に廻し、それを金融機関が資金が不足している民間企業の設備投資や財政の公共投資へと振り向けていた。今日では、民間企業の余剰資金が会計の余剰資金と合わさって財政上、不足している資金を補っている。この様な変化は、財政収支や経常収支といった経済の基礎的な要素に重大な影響を与えている。
 又、不良債権問題等で金融機関自体が資金が不足している経済主体へ資金を廻すことを躊躇するようになることである。
 この様な状態に陥ると金融機関は、本来の機能を発揮できなくなる。

 赤字の経済主体の問題は、黒字の経済主体の問題でもある。
 赤字国があって黒字国がある。それによって経済の均衡は保たれている。赤字国の問題は、黒字国の問題でもある。赤字国の財政や経済の破綻は、必然的に黒字国にも及ぶ。

 貯蓄と負債は、背反関係にある。

 貯蓄と消費、借入の関係が消費経済の有り様を決める。そして、消費の有り様は、分配の有り様や生産の有り様を規制する。
 そして、貯蓄、消費、借入金の関係は、所得によって決まる。
 それが経済である。

 貯蓄は、可処分所得と消費との関係によって求められる関数である。消費は、生活環境によって定まる関数である。

 要するに、貯蓄と消費の関係は、金を使うか、使わないかの二者択一に要約され。資金の調達は、借りるか、働いて金を稼ぐかの二者択一に要約される。

 貯蓄率=100-消費性向

 借金は、将来の収入を前提として成り立ち、貯蓄は、将来の支出、消費を前提として成り立っている。

 故に、貯蓄や消費に対する選好は、将来に対する認識によって左右される。
 将来に不安がなければ、今を楽しもうとして、消費が盛んになる。将来に不安を感じれば、将来に備えて、今、節約をして、蓄えを増やす。
 将来、一定期間定収が期待できれば、借金をしてでも資産を増やそうとするが、収入が一定しなければ、借金を返済するために、消費を控える。

 将来の支出の予定があれば、消費を抑え、支出を削減しようとするし、将来の収入に不安があれば、借金を抑え、返済を急ごうとする。 

 この様な将来に対する認識を醸成するのは、その時代時代の経済環境である。経済環境というのは、市場の状況である。市場が拡大成長期にあれば、大衆は、将来に希望を抱き、縮小収縮期にあれば将来を悲観する。それが直接的に人々の経済行動に現れるのである。
 社会全体の時代時代の流行、嗜好は資産価値に重大な影響を及ぼす。

 貯蓄があっても、借金をするし、借金があっても貯蓄をするのは、貯蓄と負債の働きが違うからである。

 将来に対する認識は、貯蓄に対する考え方を規定する。
 貯蓄に対する考え方は、消費の在り方を決める。
 消費の在り方は借金に対する思想に作用する。

 貯蓄の増大は、間接金融によって民間投資を増大させる。民間投資の増加は、貸出を増加させる。貸出の増加は、負債の増加を意味する。

 借金が成り立つのは、一定の収入が保証されるからである。
 つまり、借金は、収入と時間の関数を前提として成り立つ。そして、資産と負債は、表裏の関係になるのである。収入は、資産を購入する為の担保となる。
 所得×時間は、借入金の限度の上限を制約する。それによって資産の購入限度が決まる。

 ローンのような長期負債の増加は、直接金融によって民間投資の増加を増加させる。投資の増加は、貸出を増加させる。貸出の増加は、負債の増加を意味する。

 ローンのような長期借入金は、定収入が保証されていて成り立つ。

 負債は、定収によって成り立っているのである。

 必然的に、所得の水準が下がれば負債の負担が増す。

 現金主義である家計は、インフレーションの時は、時間と伴に負債の負担が軽減される。がデフレーションの時は、負債の負担が増す。


       

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