1.経済数学

1-1 経済と数学




 なぜ一を一とするのか。
 何を一とするのか。
 それが問題なのである。

 最初に、人が一を一としたのであって、はじめから一という一、一という存在があるわけではない。
 一は、人が任意な対象を一とする事で成立したのである。
 一を一としたのは人間の意識、意志である。

 一には、絶対的一と相対的な一がある。

 絶対的な一は、認識の前提となる一であり、始まりを表す一である。
 唯一の存在を表す一であり、全体を表す一である。
 全ての認識の前提となる一である。
 つまりこのような一は、神を表す一である。
 この様な一は、直感的にしか認識できない。

 唯一の存在は、神と自己しかない。

 絶対的な一は、最初は意識されない。故に、一の始まりは相対的一である。
 相対的な一は、二を前提として意識される。つまり、分別によって一と二は生じる。
 何かを一とした時、二が生じる。それが相対数の一である。

 一、二と数える事によって数の概念が形成されるのである。

 一、二と数える時、一は始まりを表す。
 一以外に始まりを表す数は、ゼロがある。ゼロは、距離を測る時の視点である。距離は量を表した概念である。

 一を始まりとするか、ゼロを始まりとするかは、人の意識である。

 全体を分割すると、数は一とゼロの中に凝縮される。
 一とゼロの間に全体は隠されている。一とゼロの間に無限が隠されている。
 一とゼロとの間に数が凝縮されると、ゼロが始点、一は終点となる。

 数や数学の元は割り算にある。無理数も、有理数も、分数も、小数も割り算によって生まれた。

 対象を意識する為には分別が必要である。
 分別は、対象を識別される為に派生する。
 分別によって生じる一は、意識によって創作される一である。
 絶対的な一は、分別する事ができない。
 分別したら一は絶対的でなくなる。
 この様な一は基準となる。
 基準となる一が作られると二が生まれる。
 一は二となる。

 二は分別の始まり。

 一は、一番最初の数。一の次に二が来て、三が来る。

 数は一を始まりとし、量は零を起点とする。

 等しい事は、引けば零となり、割れば一となる事を意味する。

 一にはいろいろな意味がある。
 一という物があるわけではない。
 一というのは表現である。
 だから一が何を表しているかが大切なのである。

 最初に表す一は、全体を表す一。
 全てを表す一。
 唯一絶対の一。
 この一は神を表す一。
 全てを統一する一である。
 比較しようのない一。この世にただ一つしかない一。
 又、単位を表す一がある。
 この一は同一性を表す一であり、均一を表す一である。
 単位が表す対象には、数と量がある。
 一という数は一つ、二つと数える一。
 独立を表す一。
 部分を表す一。
 一という量は、測る一。量る一。
 距離を測る一。
 重さを量る一。
 量の始まりは零であり、数の始まりは一である。
 全体を一とすると零から始まる。
 一に次元を表す一がある。
 この一は単一の一、単色の一、線分の一。
 一は全ての始まりであり。
 一が生じた時、分数や小数は未だない。
 一から二に分かれた時、分数や小数が芽生え、足し算、引き算、割り算、かけ算が生まれた。
 零と負の値は未だ生じていない。

 数は一つの要素だけで成り立っているわけではない。数は、特定の実体に対していろいろな位相から数は成り立つ相対的概念なのである。
 例えば、三年三組は、男子二十六人、女子二十四人からなる総数五十人の一クラスである。全校生徒の中では、三十%を占めている。
 この様に幾つかの数が組み合わさり、重なり合って対象を表現している。それらの要素、局面が位相を形成する。
 2017年2月27日現在、名目GDP539兆円、実質GDP524兆円、経常収支1兆11億円、人口1億27百億人、日本を表す数字の一端を表している。
 トヨタは、2017年3月期の連結営業利益(米国会計基準)が前期比44%減の1兆6000億円になりそうだと発表した。売上高は8%減の26兆円を見込む。グループの販売台数は1015万台と従来予想を維持。純利益は37%減の1兆4500億円と、従来予想を500億円下回るもよう。従業員数は、35万人。これはアメリカ基準に基づくもので日本基準とは数字が違うし、単独決算でも違う。また、刻一刻数値は変化している。(日本経済新聞)
 数字は、いろいろな局面を持ち、それが、局面局面毎に位相が違っているのである。




経済数学の基本は四則の演算である



 経済は、自然現象ではない。
 貨幣は、自然に成る物でない。貨幣現象は自然現象ではない。
 貨幣は、それを使う人がいるからその機能を発揮する。
 貨幣は、その価値を認める人がいるからその機能を発揮することが出来る。
 経済は、人工的、人為的な産物である。
 貨幣を基本とする経済は、人為的な空間である。
 人工的、人為的なのは、数学も同じである。
 そして、数学は経済に、成立当初から密接に絡み合っている。
 このことは、経済を考察する上での大前提である。

 経済は、数学と伴に発展してきた。なぜならば、経済は、物を数えたり、測ったする事から始まるからである。この事は、経済の根源をも意味している。経済は、獲物や収穫物、或いは、家畜や土地の全体を知り、獲物や収穫物、家畜や土地を配分する事を端緒としているからである。これは経済の本質を示唆している。
 家畜や土地というのは生産手段を指して言う。

 数を使って人は、集めたり、分解したり、分けたり、割ったり、切ったり、仕切ったり、配ったり、結んだり、束ねたり、税を収めたり、繋げたり、並べたり、数えたり、勘定したり、勝負をしたり、揃えたり、比較をしたり、測ったり、合わせたり、交換したり、売ったり、買ったり、貸したり、借りたり、返したり、取引したり、組み合わせたり、足したり、引いたり、減らしたり、増やしたり、切り分けり、決めたりする。
 数学は、数を基礎として成り立っている。故に、数の働きや属性によって数学の有り様は制約されるのである。
 集めたり、分解したり、揃えたり、足したり、引くという行為にこそ数学本来の姿が隠されている。
 そこから、ソロバンや物差しや升、縄張りが成立したのである。

 数学の本質は、数の使い方にある。
 そして、数の使い方に基づいて演算は生じたのである。

 我々は、数を数として最初に習う。しかし、数学の始まりは数の成立にあり、数はその使い方を根拠にして成立したのである。数の根拠は生活にある。数の根拠は生きる為のしぐさ、動作にある。数は数としてのみ存在するわけではない。
 数が成立するためには、数を成立させた実体があるのである。それが生活であり、経済である。なぜならば、経済は、生きる為の活動だからである。この点を忘れると数学は単なる観念的な遊びになってしまう。
 数というのは、数学というのは、元来、実用的なのである。

 人生の過程においては、得る物と失う物がある。人は得る物を数え、失う物を数えて生きているのである。それが、人と他の生き物との決定的な差とも言える。

 数学というと計算問題や数式を解いたり、証明をすることと錯覚している人が多くいる。確かに、学校で習う数学や算数は、結局、試験を前提としているために、試験問題が基礎となる。結果的に、学校で習う数学は、計算や数式、証明などが主となる傾向がある。
 しかし、社会に出て目にする数学というのは、学校で習ったように、問題が予め決められていたり、答が一つしかないと言った類のものではない。
 我々が社会に出て一番最初に習う数学は、金勘定だろう。また、人数や物の数を数えたりすることであろう。このような数学というのは、数の裏側に、生活という実態がある。数字の裏には、生きていく為の日々の生業がある。その実態を知らなければ成り立たないのが、実際に社会で使われている数学である。このことを理解しておかないと数学の真の意味は理解できない。数字の裏には生々しい現実が隠されているのである。
 平均所得によってその国の人々の所得を代表しても、その数字の背後には、貧富の差や生活水準まで知ることはできない。偏差値で人生を決められて堪るかと言ってみても、偏差値によって差が付けられていることもまた事実なのである。
 しかも、実際に社会で使われている数学というのは、難解で専門家にしか理解できないような代物ではあってはならないのである。きわめて単純で、万人に理解できるものなのでなければならない。又、万人に理解できるからこそ、数学は、社会で通用するともいえるのである。
 単純に計算したり、数式を解いたり、証明したりする事だけが数学なのではない。計算したり、数式を解いたり、証明したりする以外の部分、例えば、数値の変化を見て、観察をしたり、その背後にある要因や仕組みを解明し、将来起こるであろう事を推測するのも数学の在り方の一つである。
 このような数学は、必ずしも答えが予め決まっているとは限らない。
 早い話、必ず儲かるという商売はないし、方程式に当て嵌めたように成就するという事業もない。

 大切なのは、問題意識である。問題意識というと難しく聞こえるかもしれない。要は、問題を見いだし(問題認識)、問題を設定することである。
 学校では、問題を解く事ばかりを教えるが、社会に出たら問題点を探って、問題を作る事の方がずっと大切なのである。

 論理的事象には、始まりと終わりがある。学校では、その始まりと終わり、即ち、問題の設定と解答は、予め用意されている。その為に、始まりの部分と終わりの部分がどうしても思考から抜け落ちて論理過程のみを繰り返し試験されることになる。
 その為に、数学を始まりと終わりが確定している学問だといつの間にか刷り込まれてしまうのである。しかし、数学で大切なのは、始まりと終わりであり、又、面白いのも始まりと終わり、即ち、問題設定と対策にある。だからこそ、社会に出ると問題意識が問われるのである。それは認識の問題でもある。

 その様な視点からすると確率や統計というのは、最も、数学的なものと言えるかもしれない。だから、世の中に出ると学校で習った数学よりも、統計的数字や確率的発想が力を発揮するのである。

 数を数えたり、物を測ったりという行為は、本来、経済的動機から発する考え方である。故に、数学は経済から生じたと言えるのである。逆に言えば、経済に結びつかない数学は、当初、役に立たないと思われてきたのである。

 数は数えるという行為と測るという行為から発達した。最初の数は数えることから発生した。数えるという行為の延長線上に四則の演算がある。
 経済の根本は、分配である。つまり、獲物や収穫物の分配が根本である。つまり、分配は割り算である。故に、比較的早い時期から割り算は確立されていた。


数にもいろいろな性格がある


 数え切れない物は、器で数える。例えば、砂や麦粒などは、いちいち数えていたらきりがない。又、水のような液体も一つの物として数える事はできない。この様な物は、器で数える。それが量である。
 数え切れない物には、面積や体積もあった。それらも、量である。この様な量は、器を応用して考える。大麦の種を一定量まける範囲の面積を蒔いた大麦の数で測定する。

 数は、可算名詞であり、量は不可算名詞である。可算数とは、一つ、二つと数えられる数をいい。不可算数とは、一つ、二つと数えられない数をいう。例えば、リンゴは一個二個と数えられるから、リンゴの個数は、可算数である。しかし、体重は、五十、六十と数えられないから不可算数である。そして、原則的に数は可算数であり、量は不可算数である。

 数にも性格がある。
 イギリスには、count nounとmass nounという名詞がある。(「面積の発見」武藤 徹著 岩波書店)
 count nounは、数えられるものを現し、mass nounは、麦や米のような一つ、二つと数え切れないものを表している。むろん、麦や米でも一粒一粒、数えようとすれば数えられないわけではないが、忙しい人間に一々米や麦を一粒、一粒、数えるなどと言うのは非現実的である。

 数え切れない対象は、それを盛る器で数える。そして、一つ一つ数えるかは、器で数えるかは、数に一定の性格を持たせる。そして、この性格は、経済にとって重要な意味持つ。

 数え切れない対象には、液体もある。今日では、液体は、重量で量る。しかし、当初は、液体は、器で測っていた。器で測るというのは、体積を意味する。
 体積は、器の形によって規制される。故に、数には、形が重要な意味を持つ。
 方形の形は、長さの積によって表現される。器を立方体にすると数は長さと結びつく。立方体を基礎とした場合、同時に、立方体と線分とが結びつく必要がある。即ち、器と数が結びつく時、かけ算が成立しなければならない。
 そして、それは面積の問題でもある。かけ算は、面積や体積の計算方法として解釈することができる。

 数によって、個数、体積、重量は、実体的に関連づけられているのである。そして、数と貨幣価値は結びつくことによって個数、体積、重量と貨幣価値とは関連づけられるのである。

 貨幣単位は、可算数でなければならない。故に、貨幣単位は、一つ、二つと数えられる数である。
 単位の根本は個数である。単位は、個としての概念を確立させる。個は、独立して、全体にもなり、部分にもなる。

 数は一つの要素だけで成り立っているわけではない。数は、特定の実体に対していろいろな位相から数は成り立つ相対的概念なのである。例えば、三年三組は、男子十六人、女子十四人からなる総数三十人の一クラスである。全校生徒の中では、三十%を占めている。
 この様に幾つかの数が組み合わさり、重なり合って対象を表現している。それらの要素、局面が位相を形成する。
 2017年2月27日現在、名目GDP539兆円、実質GDP524兆円、経常収支一兆一千百億円、人口一億二千七百億人、日本を表す数字の一端である。
 つまり、数字は、いろいろな局面を持ち、それが位相を表しているのである。


数は、実用性から発達した。


 古代エジプトでは、税のために幾何学が発達したし、バビロニアのパピルスには、粘土板に、約束手形、信用状、抵当証券、据置払金、利益配当などが記されていた。 これらの元は、経済的な概念である。
 この様に、数学の始まりには、常に、経済があった。また、経済の始まりには数学があったのである。

 数の概念は、文明の発祥と切っても切れない関係にある。数の概念が確立されたことによって文明は、発祥したとも言える。
 又、数をどの様に認識するかによって文明の在り方も性格付けられたと言っていい。
 数字は、他の文字に先駆けて確立された最初文字でもある。文字は、印、記号である。

 数字化とは、第一に、抽象化。第二に、一般化。第三に、単純化。第四に、標準化を意味する。言い替えると数字化される前の対象、つまり、現実の世界は、具象的で、特殊で、複雑で、統一化されていないのである。それを抽象化し、一般化し、単純化し、標準化したものが数字である。そして、それは正規化へと発展していく。
 数字の概念が確立されることによって一つの普遍的体系が確立されたのである。それは文明の始まりでもある。

 数の概念が確立するためには、第一に、文字。第二に、数の概念。第三に、量の概念。第四に、数の記法が必要である。
 数学は、生活をしていくための必要性、即ち、実利的な要素によって確立された。最初に数学を確立した必要性は、第一に、収穫物や家畜を計量、保存管理、配分するという事。第二に、測量。農耕の目的で土地を測量し、配分しなければならなかった。又、水利の必要性から幾何が生じた。第三に、暦である。これも、農作業をするために、暦が必要になったことによる。(「始まりの数学」野崎昭弘著 ちくまプリマー新書)
 当初は、まだ、数と量を結び付けて捉えることは出来ても、数と順序という概念(数を数える)は、必ずしも結びついて捉えてはいなかったと思われる。数を数えるというのは、位取り記数法が確立されなければならない。
 数の概念は、量と位置、即ち、順序の二つの要素が合わさることで完成されるのである。

 また、数には基数と順序に結びついた順序数がある。
 数の性格において順序というのは、重要な働きの一つである。ある意味で順序があるから、数は、成り立っているとも言えるぐらい重要な性格である。

 順序の概念と結びついていない数は、即物的で、量と一対一に結びついていたと考えられる。量というのは、塊、即ち、集合である。
 数が順序と結びつき、更に、位置と結びつくのはずっと先の話である。

 ただいずれにしても、数は、計量、測量、暦(予測)の三つの要素に端を発している。この三つの要素は、何れも経済に関わる要素であり、数学や科学の始まりを示すと同時に行く末を暗示している。即ち、代数と幾何、天文が数学の基礎となるのである。天文は又、時間の概念の本でもある。
 重要なのは、数と図形が合わさることで位置、即ち、順序の概念と数の概念が結びついたと考えられることである。即ち、幾何が数学に果たした役割を正しく認識する事が大切なのである。
 時間の概念は、変数、数直線の概念の下地となる。変数と数直線は、変化、運動の概念の本でもある。
 順序は論理の基礎となり、推論の基本となる。

 ギリシア数学が近代数学の根源となったのは、幾何、即ち、図形が数学の基礎にあったことによる。図形が数学の基礎にあったからこそ、数の概念の根っ子の部分に無理数や数直線、座標、負の概念といった近代数学の素因へと繋がっていったのである。

 数学は、元来、経済行為の一種なのである。それが自然科学に活用されることによって飛躍的に進歩した。その為に、数学は、経済から独立し、また、数学の基礎が経済学から失われてきたのである。



数と経済の関係



 数学の話がでると、科学、技術とあわせて会計の名前が挙がる。それでありながら、数学と会計とを結び合わせて考えることは稀である。
 会計で使われる数学は、単なる計算の技術に過ぎないと思われがちである。しかし、会計は、市場経済の文法のようなものである。会計が数学ならば、経済こそ、数学の精華なのである。

 数学や哲学は、社会の役に立たないと言う誤解があるが、それは重大な間違いである。役に立たないどころか、社会の根本にあって当然のような事柄であり、潜在的な事象になっている。それだから、数学は社会に役に立っていないように見えるだけなのである。それで、多くの人々が数学は役に立たない学問だと思い込んでいるのである。
 経済の根本で働いている数学こそ経済の本質なのである。
 そして、哲学は、国家や人生の根本である。哲学は、人が生きるための根本的な価値判断の基となる。
 経済は、人々が生きる為の活動である。経済が人が生きるための活動であり、哲学が、人が生きていくための指針となる価値判断の基となる体系だとしたら、人間や社会にとって経済と哲学は、表裏の関係にあることを意味する。
 だからこそ、人々の生活の根源に数学や哲学は常に存在しているのである。そのことを忘れたら、経済の本質も人生の本道も理解することは出来ない。
 故に、経済を知るためには、数学や哲学を理解することが不可欠な要素なのである。

 そして、数学の基本にある考え方を知る為には、数とは何かを知る必要があるのである。
 数は数である。数は手段であり、道具である。数は数として単一に成り立っているわけではない。数そのもので成り立っているわけでもなく、数そのものが目的となるわけではない。
 数は、数を使おうとする主体と数えようとする対象と数そのもの基準から成り立っている。三つの要素のいずれがかけても成り立たない。
 この点は、数を根本とする概念全てに共通していると言っていい。その典型が貨幣価値である。
 貨幣も、貨幣そのもので成り立っているわけではない。貨幣が指し示す基準(価格)。貨幣を交換する主体(売り手と買い手)。貨幣と交換する物の三つの要素から貨幣価値は成り立っているのである。

 数とは何かを考察しようとする場合、勘違いをしてはならないのは、数の本質は数そのものにあると思い込む事である。数の本質は、数そのものにあるわけではない。数は、数単独で成り立っているわけではない。
 数の前提、根底にあるのは、数そのものではなく、何かを測ろうとする、あるいは、数を数えようとする目的や動機、数を数える対象、測る対象である。
 測ろうとする、あるいは、数えようとする目的や動機、対象によって数の性格は違ってくる。数と言うのは、あくまでも、手段、道具であって数自体に意味があるわけではない。
 数は、何か測るとか数える対象と測るとか、数える目的があって成り立っている。いわば二義的に概念である。その根本にあるのは、数を生み出している対象や目的、動機である。その対象や目的、動機を見失うと数学を成立させている基盤そのものを見落とす事になる。
 この点を正しく理解しておかないと数の概念の本質は理解できない。例えば、なぜ、有理数と無理数の別があるのか、理解する事ができない。円周率やピタゴラスの定理などは、図形を基本にしなければ意味が分からない。それでは、数を数として鵜呑みにするしかなくなる。理解とはほど遠い状態になる。それけでも、計算をしたり、数学の問題を解く事はできる。しかし、それは、数学の本質とはほど遠い事柄である。
 近代数学が欧米において成立し、発展したのは、幾何学を根本においたからである。つまり、欧米の数学の原点に図形があるからである。

 数学の本質は、実用性にある。ただ、数学を発達させたのは、学問的動機である場合が多い。学問的動機は、必ずしも、実用的動機だとは限らない。むしろ、実用とはかけ離れた動機であることの方が一般的である。故に、数学は実用的でないという誤った認識が広まったのである。

 原初の数は自然数である。自然数は存在物に基づく。
 つい最近まで、数というと自然数を指していた。それもゼロを含まない自然数である。
 ゼロも、自然数にない負の概念も比較的新しい概念なのである。
 自然数には、ゼロを含む体系とゼロを含まない体系がある。
 当初の自然数はゼロを含んでいなかった。
 自然数の中にゼロを含ませることによって数の概念に、連続性と順序の概念が導入された。0の概念が含まれる以前の自然数は、対象間の大小、多少を表すだけであった。
 数に、連続性と順序の概念が含まれることによって増減という変化の概念が成立するのである。

 数の本は、自然数である。
 数を数えるというのは、自然数による。量は、対象を測ることによって生じるが、対象を測るための前提は、何を単位とするかであり、何を単位とするかは、何を一とするか、そして、単位は自然数を本としている。つまり、自然数を置く事を前提として量は成り立っている。
 自然数以外の数は、演算によって派生した体系である。分数も、小数も、有理数も、無理数も、負の数、整数も、複素数も、演算によって導き出された数の体系である。
 そして、演算の根拠は、演算の目的にある。言い換えると、なぜ、何の目的で、足したり、引いたり、かけたり、割るのか。そこに数学が成り立つ根拠がある。そして、その根拠こそ経済と深く関わっている部分なのである。
 そこに、自然数が経済に果たしている重大な意義が隠されている。

 微分せよ、積分せよ、大本には自然数がある。そして、大本にある自然数の性格こそ演算の目的に依拠しているのである。その点を見落とすと数学の真の働きが失われてしまう。
 そして、それこそが数が成り立つ根拠でもあるのである。

 経済の仕組みが自然数を基にして組み立てられているのには、意味があるのである。

 自然数は、加算、積算に関して閉じている。
 整数は、加算、積算、減算に関して閉じている。
 有理数は、加算、減算、積算、除算、すなわち、四則の演算全てに関して閉じている。
 実数は、加算、減算、積算、除算、すなわち、四則の演算全てに関して閉じている。

 ゼロの経済的意義は重大な働きを持つ。
 ゼロは、原点である。
 足して同じ数を引いた値がゼロである。
 ゼロは、限界を表す。



経済は、自然数が基礎である。


 現実の経済では、負の数、則ち、ゼロ以下の数は存在しない。
 そう言う意味で、経済の世界では、負の数というのは、あくまでも架空の数なのである。
 ガソリンがゼロ以下、即ち、なくなれば車は動かなくなる。それがどれくらい不足していようとそれは関係ない。不足は、不足なのである。
 二回、不渡りを出せば、銀行との取引は停止される。それは、実質的な倒産を意味する。不足した金額が一円でも、百万円で、一億円でも関係ない。金額には関わりなく、不渡りは不渡りなのである。

 又、金利はゼロ以下にはならない。名目的には、マイナス金利というのは存在しないのである。

 この様な性格は、経済や経営に一定の制約、枠組みを持たせている。自然数の持つ制約による経済や経営に対する制約や枠組みは、経済の原則の源となるのである。つまり、自然数の性格は、経済現象の根本を為しているのである。

 現金の残高は常に正、即ち、プラスでなければならない。
 原則的に、支出を上回る収入を確保することが求められる。原則的とするのは、貯蓄があるからである。即ち、収入が不足したら、貯蓄を取り崩して不足分を補うことが可能だからである。ただ、貯蓄もなくなったら、経済は破綻する。これは、家計も企業も財政も同じである。ただ、財政は、貨幣の発行権、紙幣だと発券権を持つ。
 収入は、収益と借金によって賄われる。

 一般に損失をマイナスとして捉えがちであるが、実務的には、会計上、損失も自然数、正の数である。利益と違うのは、表現される場所、位置である。

 自然数には、自然数の世界があり、整数には、整数の世界、無理数には無理数の世界、実数には実数の世界がある。
 経済は、基本的に自然数の空間である。

 分岐点、変更点は、極大値、極小値を意味し、微分的に見るとゼロを意味する。

 この様に考えるとゼロは、限界を表していると言える。
 貨幣価値は、ゼロ以下にならず、又、残高も、ゼロ以下にはならない。
 また、経済的価値は自然数であり、小数、分数、有理数、無理数も含まない。

 厳密に言うと、貨幣価値は、自然数の集合であるから負の数は存在しない。故に、赤字というのは、マイナスを意味するのではなく。費用と収益の差を意味する。
 利益や損失は差と方向を意味する。差とは距離である。つまり、経済で重要なのは、方向なのである。

 経済で重要なのは、余りである。余りとは残高である。つまり、経済は基本的に余り算、残高主義である。
 同時に端数をどう処理するかが、経済では重要な問題となる。

 そして、現金の残高が経済活動を動かしているのである。

 自然数の集合である事が、貨幣価値の限界を規定する。

 数は、最初から順序だっているわけではない。数が指し示すのは、最初は、数が指し示す対象の多少、大小である。それは、経済的意味の原点でもある。ゼロは、その基点を意味する。
 しかし、実際的な経済的数は、ゼロ以下にはならない。

 数学は、数という抽象的概念を基とした体系である。抽象的という事は、抽象化する以前に実体があることを前提とされる。抽象化する以前に存在する実体からなぜ、何によって数学的概念を抽象化するのかが鍵を握っているのである。つまり、数学的概念が表す以前の実体に数学の根源的な本質は隠されている。
 現代社会において経済と数学は切っても切れない関係にある。その為に、経済的現象は、数字的なものだという認識がある。しかし、経済の実体は、その数学の背後にある事象だという点を忘れてはならない。
 だからこそ経済と数学との関係を知るためには、実体から数学を抽象化する過程に潜む本質を明らかにする必要があるのである。

 数学の本質を計算をしたり、数式を解いたり、証明をしたりすることだと思いこんでいる人達が大勢いる。しかし、数学の本質は、数を上げたり、計算をすることではない。数学の本質は、論理にある。抽象化にある。そして、数学の基本は、その考え方にある。数値や計算というのは、結果的、あるいは副次的なことに過ぎない。

 経済の構造は、恒等式や方程式に表される。
 恒等式とは、式の中の文字にどんな値を代入しても成り立つ等式である。
 恒等式とは、「すべて」の数を代入しても成り立つ等式であり、方程式とは、「ある」数を代入すると成り立つ等式である。この点をよく見極めておく必要がある。
 方程式とは、恒等式でない等式である。つまり、未知数を含む等式で特定の値を未知数に代入した時にのみ、成り立つ等式である。その未知数を方程式を根(解)とするのである。根の全てを求めることを方程式を解くとする。
 恒等式や方程式は、前提条件や定義によって成り立っている。

 経済的事象で重要なのは、解答ではなく、形である場合がある。利益は、答と言うより指標である。問題は、利益の本となる方程式であり、恒等式である。
 答は、利益として現れた数値より、利益を導き出すための方程式や恒等式を構成する個々の要素の数値の大きさや全体に占める比率から導き出されることがある。なぜならば、実際の判断に役立つのは、数値の背後に隠されている実体だからである。数値は、抽象であり、実体を写し出す影なのである。利益は影なのである。写し出される角度、観察者の立ち位置、前提条件によって値は、違ってくる。

 だからこそ、経済的事象では、答は一つだとは限らない。答を一つととするのは、学校の数学、算数である。それが、現実の数学の在り方を偏らせている。
 経済に関わる数学は、答が一つだとは限らない。答が一つとしかない様な問題は、むしろ、稀なのである。
 そして、答が複数あるような数学も、現実の社会では、成立するのである。


会計は数学の一種である



 経済現象を表す数学、即ち、会計では、位置が重要な意味と働きを持つ。会計は、数学の一種である。
 会計も、「結合」「交換」「分配」の働きが重要な意味を持つのである。
 そして、位置と働きは、最初の定義、設定によるのである。会計上の定義は、要件定義、即ち、実際の取引を前提として成される。
 会計を構成する勘定では、位置が働きを示す。即ち、資産、負債、資本、収益、費用は計算書上の位置によってその働きは規定される。
 資産、負債、資本、収益、費用の概念は、複式簿記によって成立した。負債を表す手形や証券、資本を表す株券によって負債の概念や資本の概念は、簿記上において確立された。この様に経済数学の基礎は、実際に実物や労働、貨幣を遣り取り、交換することによって実現する。故に、経済数学は、要件定義の上に成り立っているのである。
 また、資本は、複式簿記を前提とし、複式簿記によって定義された思想である。それが資本主義の定義を難しくしている原因でもある。

 失われた十年などと言われ、不良債権の存在がデフレの原因とされる。
 ただ、気をつけなければならないのは、不良債権の問題とバブルの問題は、裏腹の関係にあるという事である。
 不良債権とバブルは表裏の関係にある。いずれも、名目価値と実質価値の乖離が原因なのである。バブルというのは、資産の名目価値に対して実質価値が上昇し、その結果、名目価値である負債が急激に増加する現象をいい、不良債権は、逆に、資産価値が名目価値に比べて減少した結果として現れるのである。
 このカラクリが理解できないとバブルとバブルが破裂した後の経済状態の原因は理解できない。

 経済を構成する要素は、人、物、金である。
 人、物、金の中でも経済の仕組みの基礎は、人である。金でも、物でもない。なぜならば、経済の主体は、人を基本とした単位だからである。人というのは、労働と所得である。
 人間の社会において特に経済の仕組みでは、主体が何であるかが、重要なのである。経済主体によって金や物は、働きを発揮する事ができる。経済主体が機能しなければ、物も金も機能を発揮する事ができない。故に、経済主体が経済の仕組みの基盤となるのである。
 経済的な主体は、第一に、個人である。第二に、何らかの集団、組織である。
 集団、組織の主体は、第一に、家計主体。第二に、経営主体、第三に、財政主体、第四に、海外主体である。
 物や金の動きを見ているだけでは、経済の仕組みの本質は理解できない。
 経済の根本は、所得の有り様であり、雇用である。その上に、物の生産と消費、さらに、生産と消費を結びつける手段として「お金」の問題が生じるのである。ところが、現代の経済は、最初に「お金」ありきになっている。それが経済問題の本質を見失わせる結果を招いているのである。

 経済主体の運動は収入と支出が基礎である。
 資金の動きが経済主体を制御しているからである。しかし、資金の動きだけでは、経済主体の働きを解析することが出来ない。
 そこで、長期的働きを貸借によって短期的働きを損益によって測るのである。
 期間損益において経営主体を正常に保つのは、収益力である。経済主体の動きを発展させるためには、収益の向上が基本である。つまり、期間損益では、収益が中心なのである。
 そして、収益は、適正な費用によって支えられる。収益は、構成するのが費用と利益だからである。

 現在の収支と期間損益主義の違いは、減価償却費、長期借入金の残高、在庫等に現れる。

 会計上においては、経済は、資産、負債、収益、費用の増減運動として表される。取引上、借方と貸方は均衡している。即ち、ゼロサムであることを前提とする。つまり、市場全体で見ると資産と負債の総額は、同値であり、ゼロサムであり、収益と費用の総額も同値であり、ゼロサムである。収入と支出も同値であり、ゼロサムである。つまり、一時点をとると利益を上げる者がいれば、損をする者が出ると言う関係が成り立つ。ただし、現金残高がマイナスになると経済は破綻する。後は、時間の問題である。つまり、市場は、時間差によって全体の収支、損益が均衡するようにしなければ市場経済は成り立たなくなる仕組みなのである。問題は、長期的資金の働きと短期的資金の働きをいかに均衡させるかである。

 期間損益主義は、貸借と損益から構成される。貸借は、資金の調達と運用を表し、損益は、資金の回収と効用を表す。市場全体における貸借の総量は、資金の供給量を表し、損益は、資金の流通量を表しているのである。
 貸借は基礎数であり、損益は、資金の回転数を表す。
 費用は、実績を表し、収益は原資を意味する。費用は分配であり、収益は資金の回収を意味する。
 費用と収益の関係は、費用は過去の実体を表し、収益は、将来の状態を示している。費用より、収益が大きい、すなわち、利益が計上されている時は、経済は拡大しているが、費用より収益が小さい時、すなわち、損失が計上される場合は、経済は縮小していると考えられる。

 問題は、税と長期借入金の元本の返済、配当、役員報酬が、利益処分の中から成される。即ち、費用とは別勘定だという点である。長期借入金の元本の返済は、計上すらされない。その為に、分配に齟齬が生じるのである。

 資本は、資金を調達するための担保となるものである。今日の会計では、資産から負債を指し引いた値を指す。資金を調達するために担保となる物というと現実には、非償却資産、即ち、土地である。つまり、企業会計は、土地本位制度とも言える。ちなみに、金本位制では、金が担保になった。今日、金に変わる物は、経常収支と資本収支の差が国家が資金を調達する為の根拠となる。即ち、外貨準備高である。外貨準備は、基本的に基軸通貨を充てるから、ドルが金に変わったといえる。

 数は集合である。

経済の基本と四則の演算の働き



 演算とは、足す、引く、かける、割ると言った操作を言う。
 四則の演算とは、足す、引く、かける、割るの四つの操作を言う。

 四則の演算とは、数の集合を結合し、交換し、分配する操作を言う。その大本は経済である。

 数は、集合である。数は、幾つかの数の塊の集合である。
 数とは、幾つかの数を足し合わせたり、掛け合わしたものである。この事が四則の演算が成立する事の前提となる。そして、又、経済を考える上で重要な要件となる。

 物を集め、分配し、交換する行為の本は経済にある。

 生産は、結合。所得は、分配。消費は交換とも言える。さして、生産=所得=消費は三面等価の原則を表す。

 経済を表す数学では、等式によって表される関係が重要となる。

 例えば、売上-原価-経費=利益。
 これが等式するのは、売上から原価、則ち、製品を作る、或いは、仕入れるのにかかった費用と経費、原価以外の費用を引いた値が利益であるという事を定義している。
 この式を変形すると、売上=原価+経費+利益で売上は、原価と経費と利益によって構成されていることを定義する式になる。
 この様に足し算と引き算、結合、交換、分配は密接な関係を持っている。

 演算の基本は、足し算と引き算にある。
 先ず、足し算である。足して引くのである。
 全ての演算は、足し算と引き算を基としている。
 そして、足し算の延長線上に掛け算がある。引き算の延長に割り算がある。
 足し算と掛け算は、結合を意味する。その次ぎに引き算がある。引き算は、交換を意味する。そして、割り算である。割り算は、分配を意味する。
 引き算は、負の概念の本となる。
 割り算は、引いて引いて、余りは幾つかが原点にある。
 余りをどうするかが大切である。
 引き算から整数が生まれる。
 割り算から有理数と無理数か生まれる。無理数の延長線上に実数がある。
 実数から、連続数と変数が生まれる。
 問題は、何を合わせ、何の塊を集め、何を差引、何を基にして分配するかである。表に現れた数は抽象に過ぎない。
 足し算は、構成する要素を結合する意味にもなる。

 権利や設備、使役等は、貨幣価値に換算すれば、足し合わせることができる。それが貨幣の効用の一つなのである。
 いずれにしても、先ず、足す事と掛ける事である。その次ぎに利益のような差を見る必要が生じ、その後、比をもって分析するのである。
 故に、経済の基本は加算主義なのである。

 足し算による概念の定義が基本である。
 例えば、ハイパワードマネー=中央銀行・政府が発行した現金+中央銀行当座預金。
 マネーストックの定義。
 M1=現金+要求払い預金
 M2=現金+要求払い預金+定期預金+外貨預金+譲渡性預金
 費用=原価+経費

 足し算は、結合を意味する操作である。
 足し算は、総合を意味する。結果は集計、総数になる。

 積分の基本は、足し算にある。

 数学とは、対象を部分に分割し、部分を全体に再統合することによって成立している。部分に分割する際に派生するのが微分的発想であり、再統合する際に派生するのが積分的発想である。

 会計書類は、基本的に集計表である。即ち、複式簿記は、加算を基としている。

 何を何を足した値なのか。それが足し算の実体的な意味を表している。つまり、足し算は、対象の全体と部分の構成を表す。

 足し合わせる物には、有形な物も、無形な物もある。異質な対象を足したり、引いたり、掛けたり、割ったりするためには、対象の持つ価値を貨幣価値に還元する必要がある。

 費用と利益を足した値、合算した値が収益なのか。
 費用とは何を(何の集合を)足し合わせた値なのか。
 損金と益金を足した値が所得なのか。
 総資産残高とは何を足し合わせた値なのか。
 総資本残高とは何を足し合わせて値なのか。

 総資産は、流動資産と固定資産を足し合わせた値である。
 総資本は、負債と資本(純資産)を足し合わせた値である。
 負債は、流動負債と固定負債を表した値である。

 引き算は、過不足を表す。過不足は、損益の基となる概念である。
 引き算は差を意味し、引き算は、微分の本となる。
 引き算は、増減の根拠となる数を作る。

 自然数には、マイナスはない。差と方向があるだけである。
 差は値で示される。経済では、差は、距離を意味する。
 故に、経済では位相構造が重要となる。

 収益から費用を引いた値が利益なのか。
 当期総資本残高から前期総資本残高を引いた値が利益なのか。
 当期総資産残高から前期総資産残高を引いた値が利益なのか。
 では、収入から支出を引いた値は、どこに、どの様に表れるのか。
 この事が、会計における経営という行為の意味と目的を規定している。

利益は引き算によって求められる



 利益、また、損失は、収益と費用の差として表される。
 利益は、前期の当期の総資本の差として表される。利益は、差である。差が意味するのは何か。なぜ差なのか。
 利益は、費用対効果を差として表している。問題は、収益と費用、前期と当期の関係である。それは比べてみると解る。即ち、比である。比は割り算によって求められる。

 利益も損失も差であり、収益と費用との距離を意味する。
 利益は、貸方に表示され、損失は、借方に表示される。
 どちらも残高であり、マイナスではない。

 経済には、位相構造のみならず、代数構造も、順序構造もある。

 足し算と引き算の関係は、等号によって交換の関係を生み出す。

 等式の右辺と左辺の値を交換することが可能なのか。
 足し算を引き算に変換することが可能なのか。
 複式簿記は、加算を基としている。複式簿記では、減算をどの様に処理をしているのか。そこに、数、又は、経済の価値に対する一つの思想が隠されている。
 複式簿記では、経済的価値は、取引によらない限り、増えも減りもしないことを前提としているのである。

 交換の法則が成り立つか否かより、交換する意味や必要性の背後に経済的意味は隠されている。

 「結合」「交換」「分配」この関係に群論を成立させる要素が隠されている。

 掛け算は、一定の数を足し合わせる操作と言える。また、一定の数を掛け合わせると指数になる。
 掛け算と足し算は、積分の本となる。
 その値は何を掛け合わせた値なのか。それが問題なのである。
 数量と単価を掛け合わせた値が売上になる。
 時間と賃金を掛け合わせれば報酬となる。
 何が累積した値なのか。

 掛け算は、次元を掛け合わせ、変換する働きがある。

 掛け合わせた数だけ次元が増える。
 一次式を一次元を意味する。
 一次式を二つ掛け合わせると二次元になる。
 掛け算は変化を表す。変化は、変数になり次元を形成する。

 累乗は次元数を意味する。次元が意味するのは、位置と方向である。故に、ベクトルと微分が重要な働きをする。

 累乗は指数関係を生み出す。指数は対数の基となる。

 経済価値の演算は、貨幣価値に換算した上で行うのが原則である。

 貨幣価値は、貨幣単位と量に分解できる。即ち、貨幣価値は、単価と数量を掛け合わせた値である。

 貨幣価値は、二次元的価値である。即ち、実物に単価を掛けることで成立する価値が貨幣価値である。
 単価、即ち、貨幣単位は、無次元の自然数の集合である。即ち、点の集合である。

 貨幣価値は、自然数の集合である。
 貨幣価値は、自然数の集合であるが故に、立体的にならざるをえない。その好例が、複式簿記の仕組みであり、複式簿記を基礎とした会計制度である。会計制度、そのものが、一つの数学の枠組みなのである。
 会計は、構造的な数学である。

 経済を表す数学が立体的という事は、一つの現象を一つの方程式や恒等式で表すのではなく。複数の方程式や恒等式を組み合わせて表現する必要がある。
 それは、連立方程式や恒等式をもちいる事を意味する。そして、行列が有効であることをも意味する。

 貨幣価値に換算することで異質な財を足したり引いたりすることが可能となる。
 財には、無形なサービスや権利と有形な設備や商品と言ったいろいろな形態がある。それをそのままでは、足したり引いたりは出来ない。貨幣価値に換算することによって経済的を一元的に扱うことが可能となるのである。

割り算は分配を本としている。



 最後に割り算である。

 割り算の根本は、分け前にある。

 割り算とは、分配を意味する。
 世の中に割り切りないことが多い。
 よく足して二で割るようなわけにはいかないんだよと言われる。数学や自然科学は、無理数のような割り切りない値をどの様に処理するかが最大の課題だったと言える。
 しかし、経済は、割り切れない場合は、余りを出す。そして、その余りをどうするかを問題とする。経済においては、余剰価値とか、余剰人員と言った余った部分をどうするかが、重要な意味を持つことが多いのである。
 なぜならば、経済的価値は自然数を基としているからである。

 割り算から分数と小数が生じる。また、有理数が生じる。
 割り算と指数から無理数が生じる。
 割り算は比を意味する。割り算によって比率が表される。
 また、割り算の本となるのは分配である。

 割り算の根本的考えは、分配にある。割り算は、分配のための手段の一つである。故に、割り算は、分数をもたらす。

 割り算は、全体と部分の関係を示す。

 割り算は、全体に対する部分の積み上げ回数を意味する。或いは、回転数を意味する。

 割り算の本となるのは、何を一とするのかである。つまり、何を基本単位とするかの問題でもある。また、基本単位となる物が何回転しているかを表している。
 割り算は、対象となる値を単位に還元する。割り算は、分子の値を、単位を基とした値に分割する。

 割ると分母は、一となり、分母は一つの単位とする事ができる。

 割り算は、割る数と答とを交換しても形式は変わらない。それは、割られる数と割る数と答との関係を表している。

 売上を総資産で割った値が、回転率を表す。総資産を売上で割った値が、回転数を意味する。単位時間(日、月)と回転率を掛けたものが回転時間となる。

 何を分母とし、何を分子とするかそれが問題だ。何を分母とし、何を分子とするかが定まれば、答は自ずと決まる。それが数学である。だから、何を分母とし、何を分子とするかが、問題なのであり、そこに意義がある。
 何より、前提がものをいうのである。答ばかりに気を取られて、前提を忘れてはならない。なぜ、何によって、どの様な道筋でその答が得られたのか。そこを検証する必要がある。

 割り算は比較を意味する。
 比率には、第一に、全体と部分の関係。第二に、対比の関係、第三に、推移の関係がある。

 比較には、同質な対象の比較と異質な対象の比較がある。異質な対象を比較した値を交差比率という。
 利益を業界平均と対比した値が前者であり、それに対し、例えば、総資本利益率の様な比率は交差比率である。

 変化は、推移の関係から観測される。
 推移の比率は、差を基にして求められる。

 何を足すのか。何から何を引くのか。そして、その値を何で割るのか。その形式に意味がある。

 データの値を足してデータの数で割る。それが平均値である。ただ、必ずしも単純にデータの値を足せばいいと言うのではない。どの様に足してどの様に割るかによって平均に対する考え方、思想が現れる。数学とは、定義と論理によって表す思想なのである。
 平均は、何と何を足し合わせるのか、そして、何の数によって割るのかが、重要になる。第一に、それは任意である。つまり、平均は所与の値ではなく、任意の値である。この事が意味するのは、平均は、合目的的な値だと言う事である。

 何を何で割ったらその値になるのかが、鍵なのである。それが答の意味である。経済事象では、答の値より、その値が意味することが重要なのである。意味も解らず値を出しても役に立たない。
 借金の一月の返済額は、何から何を割った値なのか。何を分母とし、何を分子としているか。それによって決まる。それは何を意味しているのか。
 一月の収入を分母とし、一月の返済がを分子とした値は何を意味するのか。その意味が理解できないうちは借金はしてはならない。なぜならば、借金が返せなくなるかもしれないからである。

 分数や指数は、位取りの基本的概念に関わっていている。割り算や累乗は、経済にも重要な役割をしている。

 二を分母とした世界が二進法の世界である。情報の世界は二進法の世界である。現代の貨幣経済は、十進法の世界である。つまり、十を分母とした世界である。何を分母とするかで世界の見方は変わる。見方が変われば認識も変わる。認識が変われば意識も変わる。

 経済数学の基本は四則の演算である。
 四則の演算の基本は、「分配の法則」「交換の法則」「結合の法則」であり、これは、経済の根底を成す法則でもある。

 利益は、差、即ち、引き算によって求められる。利益率は、比、即ち、割り算によって導き出される。
 変化は、差と比率から測られる。指標は、差によって求められる値と比によって求められる値がある。
 利益は差によって求められ。時間価値は比率によって求められる。
 利益は、時間価値の指標である。
 利益以外に、時間価値を測る指標には、物価や経済成長率がある。

 時間価値は、単位時間に対して複利の関係にある。故に、時間価値は微分と積分によって測られる。

 総資本利益率は、売上利益率と回転率を掛け合わせた値である。
 売上利益は、利益を売上で割った値である。回転率は、売上を総資産で割った値である。
 総資産と総資本は等しい。
 総資産利益率と総資本利益率は等しくなる。

 経済を考える際、先ず、全体の総所得、そして、人口数から平均、即ち、一人当たりの所得を見る必要がある。そのうえで、人口構成からバラツキを見るのである。それらの値が、総生産や総消費、そして、通貨の流量と適合しているかが、景気の動向を決めるのである。



演算が数を生み出してきた。




 四則と言うが、それぞれが数を生み出す原動力となる。加法は、自然数を生み出し、乗法は、桁や指数を生み出す。除法は、有理数、無理数、実数を生み出し、減法は、負の数、即ち、整数、複素数を生み出した。

 経済の基本となる取引上の操作の多くの部分は、数学的操作と共通している。
 結合、交換、分配は、数学の基本操作である。
 結合、交換、分配は、経済における基本操作でもある。

 演算とは、一定の規則に従って数や文字、記号、表象を他の数や文字、記号、表象に置き換える操作を言う。
 演算の代表的な操作は、足し算、引き算、掛け算、割り算、即ち、加算、減算、積算、除算の四則の演算である。
 これらの演算は、操作を表象する記号によって表現される。演算を表象する記号で代表的なのは、+、-、×、÷、そして、=である。

 経済数学の基本は四則の演算である。俗に言う高等数学ではない。四則の演算は、数学においては基本中の基本である。
 経済現象の基盤にある会計制度で用いられる演算は、物理学のように微分、積分といった高等数学ではない。会計で用いられる演算は、四則の演算で事足りる。
 この様に経済に用いられる数学が基本的なものだからこそ、数学の基本が重要となるのである。
 その意味で経済に使われる数学の根本が四則の演算だからこそ、経済は数学的な本質を実現していると言えるのである。
 経済に用いられる演算自体は、極めて初歩的、基礎的な操作ではある。極めて初歩的で基礎的な操作だと言ってもその果たす役割は重大である。むしろ、初歩的で基礎的だからこそ重大だとも言える。
 経済において数学の果たす役割で、重要な点は、量を数に還元し、更に貨幣価値に換算する過程にある。その過程に労働と分配、生産と消費が組み込まれ、経済が実体化するのである。それ故に、経済は数学的事象だと言えるのである。
 経済の本質は、確率統計や微分積分というようなところにあるのではなく。和・差・積・商と言った最も原初的な数学、有り体に言えば算数にある。
 だからこそ、経済と数学は切っても切れない関係にある。経済は数学だと言っても過言ではない。現に、経済は数学と伴に、数学は経済と伴に発展した。ところがいつの間にか、経済と数学は乖離し、あたかも別物であるように捉えられるようになってしまった。だからこそ会計を数学的事象として認識できなくなったのである。

 不思議なことに、本来、数学を日頃使い慣れているはずの経済学者や会計士ですら、数学的な発想に基づいて経済や会計を捉えようとしていない。
 多くの経済学者や経済評論家は、表面に現れた統計的数値に囚われているだけである。

 経済が数学的現象だというのに、外見を数学的に装うだけで、経済を数学的に理解しようとしないことが問題なのである。それでは経済の本質は見えてこない。
 人類にとって科学と経済は、いずれも数学を発展させた礎だというのに、なぜ、経済的な数学というものを数学者は軽視するのか。経済学者が数学を知らず、数学者が経済を正当に評価しないのは、人類にとって最大の不幸である。

 貨幣経済は、数学的現象である。貨幣経済が数学的現象というのは、貨幣価値が数値によって表現されると理由だけではない。貨幣経済の根底には、人的にも、物的にも数学的な論理が基盤にあるからである。つまり、貨幣経済は、数学的現象だと言える。
 そして、貨幣経済が数学的現象だと言う事が、貨幣経済の可能性でもあり、限界でもある。

 20世紀も終わろうとしていた1998年、ロングタームキャピタルが巨額の赤字を出して破綻した。
 数学に堪能であるはずの著名な学者、ノーベル賞受賞者までいるヘッジファンドが破綻した時、世間の人々は唖然とした。しかし、なんて事はない、彼等は、経済事象の不確実性を身を以て証明したに過ぎない。
 100%リスクがないという事はない。しかし、リスクを軽減する数学的技術はある。その数学的技術とは、数値処理だけではない。より重要なのは、数学的現象の根底にある考え方である。それが数学的現象の実体である。
 我々は、学校で数学的定義をあたかも自明のことのように教えられている。しかし、数学は、まだ発展途上にあり、完成されてはない。一見自明に見える命題も、一定の時点における一学説に過ぎない。だからこそ、数学を学ぶ時は、数学の歴史を同時に学ばなければならないのである。

 数学を構成する要素は、自明に命題ではなく、定義された命題である。なるものではなく。するものなのである。

 経済を動かしているのは、数の働きなのである。その意味では、数論的な部分こそ、経済の基盤となるべきなのである。
 そして、数に表れていない経済の実体と数値に表れている部分との関係を知らなければ、関わりを知らなければ、経済の真の姿を捉えることはできないのである。それが、経済の可能性と限界を知る事なのである。

 トランプは、一枚、一枚,順繰りにプレイヤーへ同じ枚数だけ札を配る。そして、個々の札には、数や象徴が描かれていて,グループ化され、一定の構造を持っている。このトランプの単純な構造によって多彩なゲームが成立する。これは貨幣経済の演算を示唆している。足して、引いて、余る。それが経済の基本である。


貨幣経済は数学的経済である。



 情報技術が発展するのに従ってコードが重要な役割を担うようになってきた。
 コードの起源は貨幣だとも言える。そして、それは、貨幣の本質的な性質をも暗示している。
 コードには意味のあるコードと意味のないコードがある。しかし、コードというのは、本来意味のない符号を指す場合が多い。意味のあるコードというのは、意味のないコードに意味を後で関連づける、結びつけられたものと解釈する事ができる。つまり、原始的なコードは無意味な符号、符丁、記号、数、表彰の集合だと言える。
 コードとは、任意の対象、又は、事象を指し示す記号や数、表象だと定義する。
 数はコードの一種だと言える。その延長で貨幣もコードの一種だと言える。

 コードというのは、何らかの名称だと言える。名称によって形成される価値であるから、貨幣を本として表される貨幣価値は、名目的価値だと言える。それに対して、何らかの実体、事象を本として形成される貨幣価値を実質的価値とするのである。

 データには、四種類の尺度がある。第一が名義尺度。第二に、順序尺度、第三に、間隔尺度、第四に、比尺度である。(「ビックデータに踊らされないための統計データ使いこなし術」(株)マクロミル 上田雅夫著 宝島社)この尺度の基準は、数の性格を表すと同時に経済にも重要な意味を持っている。
名義というのは、数以外の表象、外形的区分を言う。
 順序尺度から位置が生じ、間隔尺度から単位が成立する。比尺度から配分が成立する。比尺度はゼロの概念を前提として成立している。
 これらの四つの尺度は、数の持つ性格に依って形成されている。即ち、第一の性格は、他と区分される事によって数は成立するという事を表している。第二に、数には順序があるという事を示している。第三には、数は、間隔の有無、幅によって性格が規制される事を意味している。即ち、量的な事象か、数的な事象か。連続体か、不連続体かが定まる。第四に、数は零の有無と位置によって性格が異なっている事を表している。そして、この四つの性格に依って数の体系は形作られている。

 数学は、論理である。論理には、「演繹的」な論理と「帰納法的」な論理がある。論理は、文法を整え、文法は論理の基礎となる。そして、法や社会制度を下部にあって人々の行動は規範を制御する論理は、この「演繹的論理」か「帰納法的論理」のいずれかである。

 論理、文法にとって重要な要素は、位置と順番である。

 経済は、人、物、金で成り立っている。経済が、人、物、金で成り立っているという事は、人の経済、物の経済、金の経済がありという事である。現代の経済は、金の経済を専らとしている。故に、金以外の経済が忘れられている。その為に、金の経済も成り立たなくなっているのである。
 金の経済は、数字として表される。しかし、人の経済、物の経済にも数字で表される部分がある。そして、金の経済を成り立たせている数字、人の経済を成り立たせている数字、物の経済を成り立たせている数字を調和させることが経済の目的を実現する事なのである。
 経済の目的とは、人々の生きる為の活動を支援する事が最低限の目的であり、更に、自己実現を援助することが最終目的である。

 人の問題は、人の問題、物の問題は物の問題。お金の問題は、お金の問題である。
 人の問題は、労働と分配の問題であり、物の問題は、生産と消費の問題である。お金の問題は、フロートストックの問題である。
 分配は、所得の問題といえる。また、生産と消費は需給の問題でもある。フローとストックは、損益と収支の問題でもある。

 一方で住む家がなくて困っているというのに、一方で高級住宅が売れなくて解体している。これは、所得の不均衡がもたらした弊害である。一方で大量に食料が捨てられているというのに、一方で食べる物がなくて餓死する者がいる。
 これらの問題は、生産力がないという問題ではない。分配に偏りがあるからである。

 経済の仕組みは、人、物、金の働きや動きが調和した時、有効に機能する。
 故に、経済を動かしているのは、人、物、金であり、経済問題を突き詰めてみると基本的には、人、物、金の要素が複雑に絡み合っている。

 人、物、金とは、即ち、人口の問題であり、生産の問題であり、通貨の問題である。又、労働力の問題であり、生産力の問題であり、資金力の問題である。これらの要素の需要と供給の問題である。

 人口の問題とは、人口の量と分散の時間的、空間的状況が基礎となる。そして、寿命と出生率の問題でもある。

 経済は、生きる為の活動、則ち、生活である。

 生活の場は、生産の場、交換の場、、消費の場からなる。そして、各々の場毎に経済が成り立っている。

 経済の本は、人と物である。人と物を結び付ける働きは、必要性によって生じる。必要性は、当事者からすると使用価値である。交換価値は、必要性が多様化する過程で生じる。貨幣は、交換価値を表象した物である。「お金」、則ち、貨幣は、交換価値を表象した物である。
 経済の本は、人と物である。

 しかし今の経済で、問題とされているのは、物の経済ではない。人の経済でもない。貨幣経済なのである。
 だから貨幣の動きや働きが重視されるのである。
 「お金」の問題の最大の特徴は、物にも、人にも、数に還元する以前に実体がある。しかし、貨幣は、純粋に数の上の現象なのである。

 貨幣経済は、貨幣価値を土台とした社会制度である。貨幣は、貨幣価値の単位である。必然的に、貨幣価値は、貨幣の性格による制約を受ける。
 現在の貨幣体系は、十進法を基本としている。我々は、十進法の世界で生活している。しかし、かつて、貨幣体系は、必ずしも十進法と限っていたわけではない。又、貨幣体系によって人々の生活の有り様も違ってくる。貨幣の有り様によって住む世界まで変わってしまう。この点をよく理解しないと現代経済の本質は見えてこない。貨幣経済の本質は数なのである。


数は情報の一種である。



 数は、情報である。数は情報の一種である。
 貨幣は、数を表象する物である。
 貨幣と物とを交換することで、貨幣が表象する情報を遣り取りすることが取引なのである。
 貨幣は、情報の伝達手段でもある。情報の手段とは、コミュニケーション(意志疎通)の手段である。つまり、貨幣価値は情報の表現手段でもあるのである。そして、今日、貨幣の情報化が加速されている。
 貨幣価値は、貨幣という物と交換することによって価値を数値化する事によって形成される価値の指標である。

 本来、経済は、人が中心であり、次ぎに、人を生かすために必要な資源、則ち、物をいかに配分するかが基本であるべきなのである。お金は、人に物を配分するための道具・手段に過ぎない。
 ところがいつの間にか、お金が経済の主役になってしまった。そこに今日の経済の病巣がある。
 しかし、だからといって経済問題の全て「お金」の責任にしても問題の解決にはならない。
 「お金」は、経済を円滑に動かす為の手段、道具に過ぎないのである。問題は、使い手側にあり、又、「お金」を動かす仕組みにあるのである。

 貨幣制度も会計制度も仮想空間、抽象的空間における現象なのである。貨幣的現象、会計的現象は、数学的空間における現象である。この点を充分留意しておく必要がある。

 貨幣的現象というのは、虚構なのである。
 財政赤字が天文学的にあると言っても全ては、数字上の虚構なのである。その点を正しく認識していないと貨幣的現象の本質は理解できない。虚構でありながら、決定的な影響を経済に貨幣現象は与えるから重大なのである。

 足し算、引き算は、同じ種類、同じ質、同じ単位、同じ集合の要素でなければ、演算は成り立たない。(「算数再入門」中山理著 中公新書)
 異質な財の演算を成り立たせるために、貨幣はある。貨幣価値に還元することによって異質な財の演算が可能となるのである。それが貨幣の重要な働きの一つである。

 生鮮食品、工業製品、エネルギー、原材料、労働やサービス、無形な権利、土地や設備等、異質な財を貨幣価値に換算し、還元する過程が重要なのである。そして、その過程こそ経済数学なのである。

 貨幣経済も会計制度も分配の法則と交換の法則が重要となる。

 何を等しいとするか。数学や経済を考える場合、何を等しいとするかは、重要な鍵を握る。
 そして、等しいという事の意味は、ゼロの持つ意味にも通じる。ゼロには、第一に無と言う意味がある。第二に位取りの意味がある。第三に、基準という意味がある。等しいという意味は、これらの意味の各々に相当し、又、変化する。それは均衡であり、次元であり、原点である。

 何を等しくするかによって分配の法則や交換の法則は、その意味が違ってくる。特に会計においては、何を等しいとするは、どの様な次元において、何が均衡し、どの様な状態を原点とするかを確定する。

 変化は、関係から生じる。

 変化や関係は、一定なものとの結びつきによって捉えられる。変化や関係は、何等かの基準を設定し、それを一定とすることによって解明される。一定とする尺度が設定されていなければ変化や関係を測りようとすることができない。
 何を一定とするのか。第一に、単位である。第二に、和を一定とする。第三に、差を一定とする。第四に、積を一定とする。第四に、商を一定とする。
 変化は、一定の単位に沿った変化か、足し算的な変化か、引き算的な変化か、掛け算的な変化か、割り算的な変化かのいずれかに属するのである。
 単位を一定にするとは、何を元とするか、また、何を基準とするかを意味する。
 積が一定の関係とは、反比例の関係であり、商が一定の関係とは、比例の関係である。
 比例関係とは、割合関係や、比率関係と言い換える事もできる。

 現代は、任意な単位から普遍的単位への変遷によって始まる。ただ、貨幣単位は、一意的に定まるのではなく。為替や市場の仕組みによって構造的に決まる単位だと言う事である。それが、経済という数学を一見単純に見えて、実際に当て嵌めると複雑なものに、構造的なものにしているのである。

 掛け算には、同数累加と言う意味と次元を加えるという働きがある。同数累加は、基準単位を幾つ分、加えたのかという意味である。

 又、掛け算は、面積として表すことができる。掛け算を面積として表した図が面積図であり、面積として表すことで計算する方法を面積算という。
 面積は、二次元である。体積は、三次元である。面積は平方であり、体積は立方である。平方の解は平方根であり、立方の解は、立方根である。

 経済事象は、面積算によって表現すると解りやすい事象が多くある。

 経済においては、時間が重要な働きをする。つまり、時間軸をいかに掛け合わせるかは、経済現象を解明するために重要な鍵を握っているのである。

 経済においては、時間の働きは、長さによって性格が変わる。経済的事象は、時間の働きは、長さによって性格付けられる。故に、会計では、時間は長さを基準にして測られる。

 掛け算やわり算を考える場合、何から何を掛けるのか、或いは割るのか、そして、その結果として何を求めようとしているのかに、重要な意味がある。掛け算にとって重要なのは、何を一定とするか、何を基準とするか、何を単位とするかである。変化や関係を知るためには、何を基準とするかが大前提となるのである。

 なぜ、わり算をする必要があるのかを考える。わり算が成立する要素には、経済を成り立たせている重要な概念が多く含まれているのである。

 掛け算は、ある一定の基準を単位としてそれを何倍にするかを求める演算である。この様な行為を計量という。

 わり算は単位を求める演算だと言う側面がある。このわり算の持つ性格は、経済数学を考える上で含蓄がある事象である。

 中山理は、「算数再入門」の中で分数のわり算は、逆数の掛け算と同じだと言うことを証明するために、六つの仕方を提示している。この六つの証明の仕方は、経済数学にとって重要な概念である。
 第一の仕方は、わり算の性質を使って除数を一にすることである。第二に、掛け算の逆と等式の性質を使うことである。第三に、通分とわり算の性質を使うことである。第四に、比の性質を使うことである。第五に、面積の割合を求める計算を活用することである。第六に、わり算を割合として、一に当たる数を求めることである。

 そして、これらを前提とした上で、わり算をする目的の一つとして割合を導き出す事が上げられる。割合という概念が重要なのである。そして、特に経済現象を考察する上で、この割合が持つ意味が鍵となる。
 割合という概念には、基本的に二つの概念がある。一つは、包含的関係を意味するもの。今一つは、比の関係を意味するものである。割合関係を理解する上ではこの二つの概念を明確に分けて考える必要がある。そして、経済現象はこの二つの概念を正しく理解することが肝心となる。

 割合は、比較量を基準量で割ることによって求められる。つまり、何を基準とするのかが重要なのである。特に、経済においては、何を基準とするかが重要な意味を持ってくる。

 比例関係を解明する手段には、第一に何を倍するのかを知る。第二に、帰一法を用いる。第三に式から求める。第四に図から導き出すと言った四つの方法がある。(「算数再入門」中山理著 中公新書)この四つの方法も数学の本質をよく表していると同時、経済の在り方に対して色々と参考になる。
 特に、何を一とし、どの様に一を認識するかが経済数学にとって重要であるかを端的に表している。又、図や式を活用することが数学の原点であり、又、経済でも重要であることを示唆している。

 一を全体としてみるか。部分としてみるかによって、一の意味も、働きも変わってくる。

 経済上でも、何を一定とするのかが重要な意味を持つ。貨幣価値を一定とするのか。市場規模を一定とするのか。通貨の流通量を一定とするのか。収益を一定とするのか。負債を一定とするのか。時間、期間を一定とするのか。
 経済は、何を一定するかによって様相ががらりと違ってくる。何を基準とするかは、何を基盤として経済は成り立っているかを意味するからである。


ビジネスでは、数学は必須である。


 世間では、数学は役に立たないもの、抽象的なものだという批判がある。
 しかし、数学、本来、道具なのである。その証拠に現代社会にとって数字と切っても切れないものである。

 お金もテストの点数も野球の試合の点数も、皆、数字によって表現されている。人口数も、山の高さも、車の走る速度も数字で表現される。政治家も選挙の投票数で、国会は、多数決を原則としている。つまり、数の論理がものを言うのである。善かれ、悪しかれ、現代は数字に支配されているのである。

 ビジネスの世界では、数学と言うより数字は必須である。数字が解らないとビジネスの社会では、一人前のビジネスマンとして相手にされないくらいである。しかし、数字に精通しているとしている人の多くは、数字をひけらかし、数字で誤魔化しているのに過ぎない場合が多い。

 明治維新までは、庶民教育というと寺子屋教育を指し、寺子屋では、読み書き算盤を習わせた。寺子屋で言う算盤とは数学であり、経済でもある。
 このように、江戸時代から商人に計算は付き物だとされてきた。しかし、その場合の計算は、必ずしも数学を指していたわけではない。そして、現代でも、商学部や経済学部では数学を必須とされているわけではない。

 経済は、合目的的なものである。故に、経済に関する数学も合目的的なものである。そして、経済の目的は、常に、必要性と結びついている。それが経済が軽んじられる原因でもある。しかし、生きていく為に必要な事象を前提とするから経済は有意義であるという事を忘れてはならない。

 何でも、算盤尽くと言う考え方は嫌われる。つまり、何でも損得を基本に考えると捉えられるからである。武士の時代は、読み書き算盤は庶民の学問であり、武士のする事ではないと考えられた。しかし、ドイツでは、クラウゼビィツが、戦略とは算術であると看破したように、又、ナポレオンが数学を重んじたように、計算が出来ないものは、戦略が立てられないとされた。その差が、東洋と西洋の差を広げたのである。

 厳密に言うと数学と算盤は、異質なものである。数学が科学ならば、算盤は、工学のようなものである。しかし、科学と工学が不離不可分な関係にあるように、両者は密接な関係があるといえる。

 経済が合目的的事象であり、故に、経済数学が合目的的だと言う事は、ある意味で、統計は、最も、経済的な数学だと言えるかもしれない。なぜならば、統計は、目的が定まらなければ成り立たない数学だからである。
 言い替えると統計は、設定や前提によってその後の展開が天と地ほど違ってしまう。

 数の論理は、政治思想にも軍事思想にも重要な意味を持っている。
 民主主義は、話しても解り合えないと言うことを前提としている。だから多数決なのである。
 この点のことを日本人は理解していない。だから、話せば解ると言うことを前提として民主主義は成り立っていると真反対の前提によって民主主義を捉えてしまうのである。その為に、多数決の論理が正常に働かなくなるのである。そして、密室とか談合が蔓延(はびこ)るのである。
 日本人は、計算が苦手だ。肝腎なところで間尺の合わないことをしてしまう。軍事も算が立たたない戦は無謀である事が大前提である。それなのに、日本は、どう考えても計算が合わない戦争をアメリカに仕掛けて負けたのである。
 この様に数学というのは、本来合目的的なものである。数学を軽んじていれば、政治も、軍事も、そして、経済も成り立たないのである。

 「数字」と「数学」は違う。
 昔からビジネスの世界では、「数字」は、必須の事柄だとされている。しかし、「数学」は、必須とされているかというと甚だ疑問である。近年では、大学の経済学を受験する際、数学は必須科目でなくなったりもしている。場合によっては、数学は、中学までの学力で充分だと言う事にすらなる。

 経済において数学が重要だと言われるのは、単に、数値によって表現されると言うだけではなく。数学的な論理、哲学が重要な働きをしているからである。

 数というのは、一定の性格を持った集まりに集約する作用があることを忘れてはならない。例えばリンゴが一つとった場合、リンゴと対象を特定することによって成り立っている。果物が三つと言った場合は、リンゴを含んだ果物の集まりに特定する働きが数にはある。
 四則の演算にも規則がある。足してはいけない数字や掛けても意味のない数字、引いてはいけない数字、割ってはならない数字がある。
 この様な数学とは、本来合目的的なのである。つまり、目的によって数数の働きに違いが生じる。だからこそ、経済などで数学を活用する際には、その背後にある目的や前提、実体を明らかにする必要があるのである。

 数が指し示す対象や集まり、つまり、何を数えるのか、何を測るのかによって数の単位や性格、計算の仕方も変わる。
 例えば、対象がリンゴなのか、果物なのか、自動車なのか、水なのか、人なのか、「お金」なのか、長さなのか、重さなのか、速度なのか、利益なのか、資産なのか、数える物や測る物によって数の意味や考え方、数え方が違ってくる。

 この様に対象によって性格が異なる物の経済的価値を同じ尺度で計算しようとした場合、貨幣価値に還元することによって演算が可能となるのである。
 例えば、自動車と労働の価値を、直に足したり引いたりは出来ない。しかし、自動車の値段や労働の報酬を足したり、引いたりは出来る。この様に、貨幣価値に還元することによって経済的価値を計算することが可能となるのである。

 確かに、数学には、数学固有の論理構造がある。しかし、数学は、本来合目的的なものである。故に、数学を活用とする際は、合目的的な道具となる。
 だからこそ、数学の基礎を学ぶ時には、なぜ、いつ、何の目的で数学が成立したかが、即ち、歴史が鍵となるのである。
 数学の歴史にこそ数学、本来の思想や哲学が隠されているのである。

 例えば、自然数、有理数、無理数、整数、実数といった数の概念がいつどの様な順序で成立したかは、数学を理解する上で不可欠なことである。
 数学は、単に計算や証明をするための技術ではないのである。

 数学を考える場合、何を前提とするかが、重要な鍵を握っている。

 自然科学の対象は、自明な物、所与の物を前提とするのに、経済学は、貨幣価値や市場と言った人為的な事象、人工的な対象を前提とする。つまり、経済は、作られた事象を対象としているのである。故に、経済学は、定義を元とする。それは、真実を前提とするか、事実を前提とするかの差になる。
 つまり、経済学の命題は、何々となるのではなく。何々とすると言う定義が前提のである。

 経済は、数の背後にある実体や要素によって数の性格も違ってくる。例えば、不換紙幣や貨幣価値は、無次元の自然数である。また、貨幣単位は、離散数である。それに対して、量は、無次元な値、一次元な値、二次元な値、三次元な値なものがある。そして、自然数なもの、有理数を含むもの、無理数を含むものがある。そして、量はスカラーである。また、量は連続数である。
 貨幣単位は、基本的に小数を含まれない。故に、経済計算は、余り残が原則となる。又は、切り上げ、切り下げの手段や考え方が重要となる。
 また、市場取引は、貨幣や財の遣り取りによって実現する。故に、負の数を含まない。故に、残高を基本とする残高主義となる。
 負の数は、数の位置によって成立し、方向を持つ。故に、ベクトルである。つまり、負の概念を含む整数はベクトルである。
 方向性が問題となるのは、変化があるからである。変化とは時間の関数である。つまり、座標軸に時間軸が加わると変数が成立し、数は実数となる。実数となると、数直線と無限の働きが生じる。
 経済現象では、方向性が重要であるから、ベクトルである。故に、経済現象を解析する場合、実数が用いられる。

 私は、五十九歳だという命題は、今年は真でも来年は偽である。この様に、真偽の判定は、時間軸が加わることによって時間の進行と伴に変化する。それが変数の概念の前提である。
 変化というのは、一定しているとは限らない。むしろ、一般社会では、不定な変化の方が多い。

 経済において時間軸を考える場合、生活のリズムが重要になる。つまり、三度の食事とか、労働時間、睡眠時間といった生活のリズム。修行、成人、結婚、出産といった人生における節目、節目の出来事である。それが経済のリズムを作り出すからである。そして、その生活のリズム土台を形成するのは、行動規範であり、混同規範の基礎は、思想や宗教である。

 変化の単位は時間の単位である。時間の単位は、十進法、十二進法、六十進法を組み合わせたものである。
 時間の単位は、生活の単位でもある。生活の単位は、一日、一週間、一月、一年、一生である。
 生活の単位というのは必ずしも一定していない。典型的なのは一月や一年を単位とした場合である。これも、又、数学である。
 この点を理解しないと経済の変化は読めない。

 現象に対する認識は、相対的なものである。相対的比較が重要となる。一つ一つの事象の変化を見ただけでは、その事象の変化の背後にある法則を見出すことは出来ない。

 収益だけを見るのではなく、又、費用だけを問題とするのではなく。収益と費用の関係を見ることが重要なのである。同様に、収入と支出、資産と負債の関係を見る事が必要となる。

 働きに見合った報酬(収入)を得ているか、収入に見合った生活(消費活動)をしているか、借入は、収入に見合っているか、借金に見合った生活をしているか、借金に見合った資産を持っているか、働きをしているか。

 貨幣経済においては、通貨の流れが経済を動かしている。故に、経済の動向を明らかにし経済を制御するためには、通貨の働きを知る必要がある。通貨の働きを知るためには、通貨の流れる方向と量を明らかにする必要がある。

 通貨の流れる方向と量を問題としたらその視点を変えてみると経済主体に対する現金の入りと出の問題になる。

 家計の収入は、企業、政府、海外部門いずれかの支出となる。家計の支出は、企業、政府、海外部門いずれかの収入となる。
 企業の収入は、家計、政府、海外部門いずれかの支出となる。企業の支出は、企業、政府、海外部門いずれかの収入となる。
 政府の収入は、家計、企業、海外部門いずれかの支出となる。政府の支出は、家計、企業、海外部門いずれかの収入になる。
 海外部門の収入は、家計、企業、政府いずれかの支出となり、海外部門の支出は、家計、企業、政府いずれかの収入となる。
 これを前提として資金の流れを把握する必要がある。

 ここで問題となるのは、複式簿記を土台とした会計に則る民間企業と財政、家計、海外部門とが制度的に整合性がないという点である。
 企業は損益主義であるのに対して、家計、財政、海外部門は現金主義である。
 この点を調整しないと経済全体の動きは理解できない。

 また、期間損益主義に則れば、利益は、短期的指標であり、長期的指標が資本である。現金主義では、現金の長期、短期の働きが測れないのである。

 問題は、借入金の返済をどうするのか。減価償却費の意味することは何か。そこに秘密が隠されている。なぜならば、借金の元本の返済は、会計上は費用としても、損金としても計上されないからである。
 それに対して家計も財政も元本の返済は支出として計上される。この認識の差が財政を難しくしているのである。何れは、どちらかに統合する必要がある。
 要するに、資金の長期的働き、短期的働きをどう捉え、どう処理するかの問題であり、思想的問題なのである。

 期間損益主義というのは、資金の長期的働きと短期的働きを分離し、単位期間における費用対効果を測定する手段として成立した。
 その点を国際収支の問題に置き換えてみると、経常収支は損益の部分と見ることができ、資本収支と外貨準備高は、貸借と見ることが出来る。

 そして、どの部分を赤字とし、どの部分を黒字とするのか、また、その幅をどの程度のものにするかによって経済政策は、立案されるべきなのである。


数学は文科系が源である。


 数学は、理科系の分野だと見なす傾向があるが、文化系の分野、特に、経済にとっても数学は、大学受験で必須であるか、否かに関わらず、必須の学問である事を忘れてはならない。

 数学は、理工学的な学問で文化系的学問になじまないと思っているものも多くいる。現に、文化系大学から数学が閉め出される傾向すらある。その原因として人為的な現象は主観が混じるために、客観的な数値に置き換えにくいと言う点を上げる者がいる。
 しかし、競馬や、競輪というのは、人工的な場で行われるからこそ予測がしやすいのである。同様のことはスポーツでも言える。
 経済や政治と言った人為的な空間において数学が成り立ちにくいのは、政治や経済に携わる人間の思惑に囚われやすいからに過ぎない。経済や政治が数学的対象にならないことを意味しているわけではない。

 むしろ、現代経済は、数学の上に成り立っていると言ってもいいのである。

 その証拠に、ルカ・パチョーリは数学の教科書である「スムマ」で簿記を取り上げ、それが簿記の嚆矢だとされている。つまり、簿記は数学の一部として教えられていたのである。

 今の会計に対する議論は、最初に会計ありきという前提に基づいている。それ故に、会計が学問として確立されず、単なる技術論に堕している。
 世の中には、会計や商業を経済学や政治学、法学より一段低く見る風潮があるが、会計は、思想や哲学と変わりないのである。
 会計は、経済に対する歴とした一つの思想であり、又、今日の市場経済の論理の骨格を成す理念である。故に、その根本思想や哲学から論を起こす必要がある。

 近年、確率統計の技術が発達し、それに伴って多くの統計資料が整備されるようになってきた。統計資料が整備されるにつれて経済現象を統計資料に基づいて数値的に表現し、或いは説明する事が増加した。
 その結果、経済を確率統計的な側面からのみ捉えようとする傾向がある。しかし、確率統計だけが数学の全てではない。又、経済は確率統計だけで捉えきれるものではない。

 確率統計も重要ではあるが、経済と数学との関係は、もっと根本的な部分でこそより深く関わっていることを念頭に置いておくべきである。
 なぜならば、現在の経済は、表象貨幣を基盤とした貨幣経済であり、表象貨幣は、自然数の集合だからである。貨幣単位、及び、貨幣価値は数直線として表現できる。
 表象貨幣を基盤とした貨幣経済における経済現象は、物理的現象よりもより純粋数学に近い現象といえる。貨幣経済は、数論、及び集合論、代数と言った基礎数学が重要になる。

 数学とは、読んで字の如く数(すう)を基本的要素として成り立つ学問である。
 数は、経済が経済として形成される当初から関わってきた概念である。と言うよりも数に触発されて経済は形成されてきたと言ってもいい。経済は数学だとも言える。

 経済は、数学と伴に発展してきたと言える。数学者の多くは、数学を哲学的なものとして捉えたがる傾向があるが、数学は、きわめて経済的なものであり、経済的だからこそ哲学的たりえるとも言えるのである。

 また、物理学的に見ると、経済は、流体力学、熱力学的な性格を持っている。

 数学は、必ずしも数値化を意味しているわけではない。
 よく経済的な事象を何でもかんでも数値によって説明をする人がいるが、数学的な説明になっているとはかぎらない。また、必ずしも数値の意味を理解しているとは限らない。むしろ、数値によっで説明することで数学的な要素を失っている場合すらある。
 数学というのは、考え方にあるのであり、数値化する事ではない。

 仕事をする際にも計算が必要となる。言い替えると計算が出来ない者は、仕事が出来ない。ここで言う仕事の計算というのは、四則の演算のようなことを言うわけではない。

 全体を幾つかの部分(作業)に分解し、それを共通の要素に基づいて、分類し、それを一定の枠組みよって再構築する。共通の要素とは、動作、行為、成果物、時間などである。

 いつ頃、完成させるのかの目処を想定し、それまでの、大枠の日程を立て、日数を計算する。その上で、やるべき作業を、重複なく、漏れなく、全て洗い出し、その作業を手順、段取り沿って組み立てて計画を立て、必要な人数を割り出し、分担を決めて組織化をする。その上で必要な費用の見積もりを立てて予算かをする。

 どの様にして目処を立てるかというと、大枠を設定し、打ち合わせの数を概算することである。
 打ち合わせの回数は計算するのが容易である。それに対して、作業量を計算するのは難しい。なぜならば、打ち合わせは一律に捉える事が可能だが、作業の多様だからである。
 一つの作業の前後には、打ち合わせがある。一つのイベントに対して最低前後に一回ずつ都合最低二回。最初の打ち合わせは、段取り。最後の打ち合わせは確認。
 打ち合わせ時間は、二分から三分、長くても五分を目安とすべし。

 仕事を遂行する上で必要となる計算は、この様に質・量ともに要求されるのである。



貨幣価値は、対象の交換価値を表象した値である。



 「お金」というのは、使わないと価値が発揮できないように出来ている。「お金」は、使うように出来ているのである。箪笥預金は、意味がないのである。金貨ならば、箪笥にしまっておいても金そのものに価値がある。観賞用にも使える。しかし、紙幣は、今の効果は、使わない限り何の役にも立たない。それが通貨の特性である。故に、通貨は、使用するように出来ているし、それ故に、不断に流動していることになる。
 貨幣価値というと静止している価値のように思われがちだが、不断に止まることなく、流動し、変化し続けているのである。

 貨幣制度というのは、貨幣が流れることによって機能する仕組みだと考えればいい。

 経済数学の目的は、経済的価値の測定にある。経済的価値には、物的な価値と人的な価値があり、それに、貨幣価値が加わったのである。
 物的価値とは、物その物が持つ効用、使用価値であり、人的価値とは、物に対する欲求の度合いを言う。貨幣価値は、物の持ち価値を人の欲求に応じて測定し、数値化した値である。物の価値を人の欲求に応じて測定する物と貨幣との手段は交換である。物の中に無形な用役を含めることで物は財となる。

 貨幣経済というのは、国家による貨幣を媒体とした統一的、統制的経済体制である。
 貨幣を流通させる仕組みによって市場を制御する制度が貨幣制度である。貨幣の流通が止まると市場や貨幣制度は機能不全に陥る。
 貨幣経済が確立される以前は、個々の経済主体が自律的に他の経済主体と結びつくことによって経済のネットワークが構築されていた。貨幣制度は、無秩序な経済体制に一定の枠組みをもたらしたのである。つまり、一つの貨幣制度によって一つの経済圏が成立したのである。この事を理解していないと貨幣の働きは理解できない。
 この事は、貨幣によって経済の仕組みの有り様がまったく違うものになることを意味している。
 経済主体は、共同体と言える。共同体内部は非貨幣的空間と言える。そして、共同体外部が貨幣的空間なのである。
 貨幣は分業を促進する働きがある。
 貨幣制度は閉じた制度でなければならない。閉じた制度は、閉じた系や閉じた空間を生み出す。貨幣制度は貨幣だけで成り立ったて閉じた空間を前提としている。

 貨幣には、交換手段と貯蔵手段の働きがある。もう一つの働きは、貨幣価値を確定する働きである。貨幣価値を確定するという事は、貨幣価値を測ることや創造することにも繋がる。

 貨幣価値は、対象の交換価値を表象した値である。
 貨幣は、その時点における貨幣価値を指し示す指標である。
 特に、表象貨幣は、貨幣自体が物的価値を持たず、貨幣価値のみを表象している。
 表象貨幣が現す値は、無次元の量である。

 対象の性格や質と言った部分を削ぎ落とすことによって量化される。
 対象は、物としての実体、形や性質を持っている。対象と数とを一対一に対応させることによって対象に数という性格を加えた上で数という概念だけ抽象するのである。
 一対一に対応させるための物は、数を象徴させる物ならば何でも言い。できれば、小石とか果物と言った均一の性格によって属性が隠れている物が良い。経済では、それが貨幣なのである。
 その操作は、先ず対象の数を数えることによって対象の性格に数という性格を付け加える。その上で数という性格だけを抽象化するのである。
 貨幣価値も同様の操作によって成立する。ただし、貨幣価値には、貨幣価値を指し示す者と貨幣価値を受け容れる者(容認する者)の二者の合意が必要となる。その合意に至る過程が取引なのである。
 そして、数の概念が確立されると数の概念が独立した概念となり、無形な対象にも敷延化していったのである。
 当初は数は対象と一体だった。或いは、従属していたのである。その段階での数とは自然数に限定されていた。
 貨幣価値は、この時の性格を依然として残している。貨幣は、自然数を象徴化した物であり、貨幣価値は自然数の集合である。

 貨幣価値は自然数の集合である。この事が意味するのは、マイナスの数と言うのは、貨幣価値にはない。つまり、マイナスの貨幣価値はないという事を意味しているのである。これは重要な前提である。この前提が貨幣価値の制約条件を派生させている。
 例えば、収益から費用を引いた値は、常に自然数、即ち、正の値でなければならないことを意味する。故に、貨幣価値は残高を表していることになる。

 所得は、消費と貯蓄からなる。
 所得≧消費。
 所得≧貯蓄を意味する。

 貨幣価値は自然数だとすると対象の価値は、必ず自然数に調整しなければならなくなる。
 貨幣価値は自然数であるから、小数がない。
 故に、貨幣価値は、余り残である。
 つまり、貨幣単位が十進法だとすると、貨幣価値は、対象の貨幣価値を十で割った値と余りからなる。

 対象となる物の価値を自然数に還元する操作が貨幣取引だとも言える。対象となる物の価値には、対象の持つ数もある。対象の持つ価値は実数である。

 スーパーで、一個、百八十円のリンゴを二個三百五十円で売っていたので四個買った。同じ店で百グラム四百三十円の牛肉を買い。途中で本屋によって一冊千二百円の本と三百五十円の雑誌を買った。
 この様に、個々の商品には、固有の属性がある。そして、本来ならば、肉やリンゴを足したり引いたりは、できない。しかし、貨幣という数に換算することによって異質な物の演算が可能となる。その為には、貨幣価値というのは無次元の量である必要がある。そして、貨幣価値は数直線として表せる事が可能となる。財は、貨幣に換算されることによって、物から属性が削ぎ落とされるのである。無次元の量だから、足したり、引いたり、掛けたり、割ったりができる。比較検討することもできるようになる。

 我々は物を購入する時、無意識に頭の中で、品名と数量、単価によって貨幣価値に換算する。数量は、外延的な数であり、単価は、内包的な量である。数量は、基本的に、連続量であり、単価は、分離量である。

 今日、貨幣価値は一様だと見なされている。しかし、かつては、貨幣価値は一様ではなかった。実物貨幣制度の元では、貨幣の持つ価値によって貨幣価値は測られていたのである。
 例えば、江戸時代では、同じ一両も、慶長小判と万延小判では、価値に相違がある。即ち、小判の質によって一両の価値が違ったのである。
 今日、貨幣価値は一様である。一様な数列として表される。一様と言っても一つの通貨圏内において一様なのである。
 そして、貨幣価値が一様な数列によって表現されるようになることによって経済の本質が変わってきたのである。
 今日の経済を考える上では、この点を見逃してはならない。
 貨幣価値が一様な数列によって表されることで、経済は数学となったのである。

 貨幣の特徴の一つに匿名性がある。匿名的な性格があるから、貨幣価値は無次元の量として効用を発揮できるのである。
 逆に、一度手に入れてしまえば、貨幣を入手する手段が見落とされがちなのである。言い替えると、貨幣を手に入れるためならば、手段を選ばない傾向を生み出す原因となるのである。金儲けは非倫理的な行為である。それが金儲けは不道徳な行為に見られる原因ともなっている。
 しかし、金儲けそのものは、道徳とは無縁な行為である。不道徳であるか、否かなのは、金儲けの手段と動機、つまり、主体の側の価値観にあるのである。
 罪は、金にあるわけではない。罪を犯した人にあるのである。悪いのは金ではない。人である。

 数学には、神秘的なところがある。そして、古来から世界各地でこの神秘的な部分に対して神の存在を感じ、崇める人々がいた。
 今日でも、数学を絶対視する人々が少なからずいる。しかし、数学というのは、あくまでも観念の所産である。数学そのものに力があるのではなく。数学を成り立たせている存在にこそ力があるのである。

 今日、数学というと、純粋数学を指して言う場合が多い。しかし、純粋数学だけが数学なのではない。多くの科学同様、数学も理論的な部分と技術的な部分の二つから成り立っている。数学を重んじる人々の中には、純粋数学を神聖視するあまり、数学の技術的な部分を世俗的なものとして軽んじたり、中には、数学として認めない傾向すらある。しかし、数学は、元々、世俗的なものとして発達してきた。そして、数学の威力、効用は、世俗的な部分でこそ発揮されてきたのである。

 むろん、純粋数学が実用的でないとして軽んじるのも問題だが、数学の技術的な部分を切り捨てるのは論外である。純粋数学と算術とは、不離不可分の関係にあり、両者が一体となって数学は成り立っているのである。



数学は、生活的な欲求から始まった。


 女性の地位が低い理由の一つが、女性の仕事に対する社会的な評価が低いことが上げられる。その点をよく理解しないと男女平等論は、偏狭なものになる危険性がある。
 女性の仕事とされる労働は、家政である。家政というのは、消費経済でもある。また、醸成の仕事とされている仕事の多くが共同体の内的な労働、則ち、非貨幣的労働だという点である。
 家政には、出産、育児、家事と言った消費に関わる労働がある。消費は生産に並んで、経済の両輪と言える。つまり、消費経済は、生産経済と同等の経済なのである。この消費経済が確立されていないところに今日の経済の欠陥がある。
 財政は、家政の延長線上に形成されたのである。つまり、家政と財政は、本を同じくし、また、同じ性格を持った分野だと言える。例えば、どちらも消費に属する労働だと言えることである。
 言い替えると財政問題の本質は、家政にあるともいえる。翻って言うと消費経済は、市場経済や財政に匹敵するほど重要なのである。
 ところが、家政は、非貨幣的経済であるが故に、適正な評価がされずに、数値化もされていない。
 しかし、物の経済は、物に関わる数字は、消費の中に隠されている。

 経済制度とは、通貨が流れることによって動く仕組みだと考えていい。

 「お金」は、人と物とを結び付ける媒体だといえる。
 経済の仕組みの目的は、生産物をいかに分配するかと言う事に尽きる。小人数の集落ならば、直接的な手段で生産物を分けることが可能だ。皆に公平な分け前、いかに与えるかは、分配に対する考え方、分配の仕方による。その集団における権力者、例えば、家長の考え方である。分け方、分配の方法は、功績のある者から順番に配るとか、年輩者を優先するとか、子供を先にするとか、その集団の指導者の考え方によって決まる。つまり、生産物は、直接的に人間に結びついている。
 この様な直接的な手段に対して、貨幣経済下では、何等かの基準によって先ず、貨幣を配ることから始まる。貨幣は、分配の手段、道具の一つなのである。貨幣は、市場で財と交換する権利を表象した物なのである。市場を成り立たせているのは、この権利を有効たらしめている力、権力である。

 経済の問題は、人口と生産物と通貨の流量だと言ってもいい。

 経済の基本は、生産、消費、分配である。見方を変えるとこれは、供給、需要、所得の問題だと言える。

 生産と所得と支出は一体なものであり、どれ一つ欠けても成り立たない。例えば、生産のない所得や支出は成り立たないのである。
 社会保障に支払われる費用の多くは、生産性のない費用だと言う事を忘れてはならない。失業手当を増やすことよりも雇用を増やすことが大切なのである。断っておくが、これは、善悪の問題ではなく。経済の問題だという事である。
 生産は働きによってもたらされる。働きのない所得や支出が問題なのである。
 何が経済に貢献していたかを考えるべきなのである。交際費は無駄遣いだからと言った短絡的な発想では、景気は良くならない。又、必要な費用を削れば、必ず闇経済が拡大するのである。
 所得の移転と付加価値の創造は別物なのである。

 経済数学では、恒等式や方程式の構造が重要な意味を持つ。数学とは、表現の一種でもある。例えば百人で一千万円利益を上げるのと、千人で一億円の利益を上げるのでは、一人当たりの利益は同じだが、意味が違う。
 大切なのは、方程式や恒等式を解くことではなく、値が指し示す対象の持つ意味なのである。又は、方程式や恒等式が表す状態が問題なのである。だから、経済数学とは、単なる計算を意味するのではない。

 数学というと、即、計算だと錯覚している人が多くいるが、経済を分析する際、必ずしも計算することが要求されるわけではない。
 恒等式や方程式を構成する要素の数字の大きさや変化こそ重要な意味を持つのである。
 経済の仕組みの働きを分析しようとしたら方程式や恒等式の形が重要な意味を持つ。
 数式を解くだけでは、経済の実体を理解することは出来ない。むしろ、経済数学では、変化を観察、見ることの方が重要な場合があるのである。

 何を分母とし、何を分子とするのか。例えば、売上高を問題にする時、分母を前年実績にするのか、過去三年間の平均とするのか。或いは、業界全体の売上高の集計にするのか。それによって、分子は何にするのか、或いは、分子の意味するところは違ってくる。
 何が定数なのか、何を変数とするのか。何を定数にし、何を変数とするかは、一律に決まるわけではない。多くの場合、定数は仮定でよる。
 何を独立変数とし、何を従属変数とするのか。
 何が内生変数であり、何が外部変数なのか。
 何が、原因で、何が、結果なのか。相関関係は、単に上っ面を眺めただけではよく解らない。
 何が、フローで、何がストックなのか。それが問題となるのである。

 経済構造は、表層に現れる現象と下部の基礎構造がある。
 表層に現れる現象は、単位期間における収入と支出、収益と費用の相対的な均衡によって引き起こされる。
 収入と支出は、現金の動きを示し、収益と費用は、単位期間における費用対効果を現す。基本的には、景気の動向は、収益と費用の関係によって左右される。収益と費用の関係は、利益によって測られる。景気を判断する上での利益の基準は、利益が一定しているか、変動しているか。利益が計上されているか、否か。利益が計上されている場合でも、利益は上昇しているか、横這いか、下降しているかによって景気の傾向が判断される。

 所得と支出は、連動している。
 所得の中味は、収入と借入と貯蓄の取り崩しである。自己調達資金は、収入と貯蓄の取り崩しから求められる。借入は、外部からの調達資金である。
 実際の資金の流量(フロー)は、消費と貯蓄の量、即ち、支出の量によって決まる。支出の限度量は、可処分所得に基づく。景気は、支出の量と質によって決まる。故に、どの様にすれば、可処分所得を増減させる事が出来るかが景気を制御する上で重大な課題となる。

 収入は総額(グロス)であり、可処分所得は純額(ネット)である。総額から何が差し引かれることで、純額は影響されるのか、それが景気を左右する要素でもあるのである。故に、総額と純額の関係と動向が、景気を考える上で重要となるのである。

 重要なのは、経済単位毎の動向である。経済単位には、生産、消費、分配と言う次元毎に主体が設定され、されに、時間の単位が設定される。
 また、生産、消費、分配は、均衡していて、その総和は0になるように貨幣制度上、初期設定がされている。
 経済主体は、家計、経営主体、財政、海外の四つである。

 経済の最小単位を個人に置くか、それとも、何等かの共同体、組織、機関におくのかは思想的な問題である。


フローとストックの関係。



 経済現象を引き起こす要因は、フローとストックの関係にある。
 収益と費用は、単位期間における経済主体の状態を表している。利益が維持されているのは、費用に対して収益が上回っていることを意味する。それは、経済規模の拡大を表している。問題は、フローである期間損益とストックを表す貸借の関係であり、それは、総資産を構成する費用と資産、総資本を構成する収益と負債、資本の比率の変化に現れる。
 又、経済主体間の関係として現れる。総ての経済主体が利益を上げることは出来ない仕組みになっている。経済主体間の損益の総和は0になる仕組みなのである。
 赤字が是か非かが問題なのではなく。どの経済主体がどの局面で赤字か、黒字か、そして、その幅はどうなのか。それは、一過性の問題なのか、構造的で、累積的な問題か、それが他の経済主体にどの様な影響を与えるのかが問題なのである。その上で、お金と財と人の欲求とが均衡しているかどうか肝腎なのである。

 現金の流れの働きを決定するのは、可処分所得である。故に、所得の総額と可処分所得の比率が重要な意味を持つ。現金の働きの効率を測定するためには、総額と純額の関係を確認する必要がある。

 会計は、通貨の移動を前提として成り立っている。故に、会計上、労働として認識されるのは、対価を前提とした労働に限定されている。
 現在の市場経済は、会計制度の上に成り立っているのである。
 故に、対価を前提としていない労働、特に、家庭内労働は正規の労働として認識されない。それが問題なのである。
 国民経済計算でも基本的には、家計が自らのために行う生産活動は、一部の例外を除いて労働として認知していない。(「マクロ会計入門」河野正男・大森 明著 中央経済社)

 経済は、基本的に認識の問題の問題である。
 例えば、労働も、資源、取引、資産、負債、いずれも認識の問題である。
 そして、認識の問題で重要なのはいつ認識するかである。
 会計上、労働は、対価がなければ認識されない。反対給付のない労働は、会計上、労働とは見なされないのである。逆に、対価があれば、会計上は労働である。それが労働の価値を貨幣価値に換算することである。一度貨幣価値に換算されると労働の質は消えて対価だけが問題とされる。例えば、教育者が教育、医者が医療を神聖な仕事だと思っていたとしても、会計上は、単なる労働としか見なされない。貨幣価値は、労働の質を一元化してしまう。
 この点は、取引も同様である。例えば、契約を交わしただけで貨幣の授受や財の交換がなければ、会計上は取引と見なされない。反対に、盗難や火災でも、財の損失があれば、取引と見なされる。
 つまり、経済で重要なのは、貨幣と財の授受、交換と言う事実とそれが、いつ、どの様な形式によって行われたか、また、それを何によって認識したかなのである。

 貧困も意識の働きが重要な役割を果たしている。
 貧困と言ったも必要な物が本当に不足することによる貧困と格差からくる貧困とがある。
 足らざるは貧なり、満ち足りれば豊かになれる。

 炊事、洗濯、掃除、育児、介護などを外注に出して有料化した場合、それが、主婦が働きに出て得た収入と見合うかが問題なのである。
 単純に男女同権と言ってもその背後にはいろいろな問題が隠されている。その一つ一つの問題を解きほぐしていかないと経済の問題は解決できない。

 数学というのは、本来、世俗的なものである。数学は、抽象である。数学的抽象は、生活の必要性から生まれたのであり、哲学的な要求から生まれたのではない。数学や科学を万能として崇拝する見方がある。
 しかし、科学万能というのは、間違った信仰である。万能な存在は神でしかない。経済は尚更のこと世俗的なものである。

 科学的な数学と技術的な数学がある。科学としての数学が無限を追究すれば、技術としての数学は、限界に挑戦をする。いずれにしても数学は数学であり、かつては、数学と言えども実用性が重んじられたのである。経済で尊重されるのは、現在でも零を含む自然数であるし、有限な範囲での数学である。だからといって経済数学を軽んじるのは間違いである。経済は、経済で独自の数学の世界を発展させてきた。それが会計の世界である。

 数を数えるとか、物を測るという行為そのものが経済的行為でもあり、数学的行為でもある。故に、経済と数学は同根の概念だと言える。

 なぜならば、数える、測るという行為そのものが経済活動の端緒といえるからである。
 数えるという行為は、獲物や収穫物を分けるという行為から派生する。そして、分けるという行為は、社会の存在を前提した政治的、経済的、組織的行為である。

 そして、数学は、純粋数学に確立されるに従って経済から遊離し独自の世界を形成していくのである。
 しかし、経済は、以前として数学的なものである。そして、それが政治と決定的に違うのである。政治とは、どちらかと言えば質的な世界であり、経済は、量的な世界だとも言える。

 また、カール・フォン・クラウゼヴィッツは、戦術は、算術だと言い。軍事と数学が切っても切れない関係にあることを示唆した。そして、それは同時に、経済と軍事との関係をも意味している。つまり、軍事と経済は数学的な部分で繋がっている。


価値は、主体と対象を前提として成り立つ。



 価値は、主体と対象の存在を前提とする。主体と対象との関係によって認識は導き出される。価値は、主体の対象に対する認識から生じる。価値は、主体と対象との関係から生じる。

 認識主体である自己にとって存在すると事と認識すると言うことは同義である。即ち、認識主体にとって認識できる対象は存在するし、認識できない対象は存在しない。

 数字には、人的な数字と物的数字、指標的数字がある。指標的数字とは、尺度的数字であり、貨幣的数字である。
 人的な数字とは、主体的数字である。即ち、認識主体が一とする数字である。それに対し、物的数字とは、客観的な数字であり、一となる数字である。そして、指標的な数字とは、仲介的数字であり、一を指し示す数字である。

 経済数学というと、一般にお金、即ち、貨幣価値を思い浮かべるが、経済的価値の根本は、お金にあるわけではない。貨幣価値というのは、経済的価値を貨幣という次元に写像した陰影に過ぎない。つまり、貨幣価値というのは、経済的価値の一断面に過ぎない。

 経済的価値は、一人一人が生きていく上での有用性に求められる。有用性は、前提条件によって違いが生じる。故に、価値は相対的なものである。有用性の本質は、必要性であり、必要性の実体は使用価値である。交換価値は、使用価値の一部が転じることによって生じた価値である。貨幣の本質は、交換価値である。なぜならば、貨幣は、交換手段の一つだからである。

 経済現象には、人的経済、物的経済、貨幣的経済があり、現代の市場経済は、この三つの経済を会計制度によって結び付けている。
 故に、経済的価値には、人的経済価値があり、物的経済価値があり、貨幣的経済価値がある。そして、個々の価値を定義付けているのが会計基準である。

 そして、人的経済は、労働と分配が基盤であり、主として消費の場である家計に反映される。物的経済は、生産と消費が基盤であり、主として生産現場の核である企業を中心にして展開する。貨幣的経済は、貨幣の発行と流通の管理が主で財政や金融を基盤とする。現金収支を基準としている。
 貨幣経済の基準は現金収支であるのに対し、会計は、期間損益であり、その前提となる論理体系は、現金主義とは、位相を別とした体系である。

 人的経済というのは、人々の生活に根ざした根源的な経済である。人的経済は、共同体の経済である。組織の経済である。人的経済は、市場経済や貨幣経済が成立する以前から存在していたし、市場経済や貨幣経済の前提となる経済である。

 人的経済は、人口数、人口構成、人口分布、民度、文化、祭礼といったに人間社会の基盤に関する経済現象や労働時間、賃金といった労働に関する経済現象、個人所得や生活水準、消費者金融、家計と言った消費に関する経済現象からなる。

 中国には、人口六千万人の壁があったと言われる。前漢の末、平帝、元始二年(西暦二年)における戸籍登録人口は約六千万人。それが、前漢の滅亡と戦乱を経た光武帝、中元二年(西暦二五年)の戸籍登録人口は、二千百万七千八百二十人、つまり、半減したと言われる。 この様に中国では、国家の興亡によって人口の増減が清まで繰り返されてきた。「貝と羊の中国人」の著者である加藤徹氏は、中国の人口規模の限界は、「戸籍登録人口、六千万人、実人口一億人」とし、この人数を超えると農業生産が社会不安を引き起こし、流民、移民が発生して王朝が滅亡すると記している。
 歴史的に中国では、人口一人当たり農地が四畝(約二四アール)を切ると農村は疲弊し、社会は無秩序になると考えられている。

 加藤氏は、三百年を越えて存続した王朝はなく。人口の増減のサイクルによって中国の王朝は、寿命が決まっていたとしている。

 中国のみならずその国の国力によって人口の伸びには、一定の限界があったと考えられる。国力は経済力と言ってもいい。
 その国の国力、経済力の限界に達すると、人口が急激に減少する例が歴史には、多く見られる。
 人口を急激に減少させる原因には、旱魃による飢饉や地震、津波、嵐、山火事、洪水と言った災害、ペストのような疫病、内乱や戦争といった事である。しかし、根本は、人口の増加に伴う経済の問題である。

 中国は、十七世紀まで、戸籍登録人口で六千万の壁を突破できず。(その時代の領土の広さや誤差、脱漏、又、その時の制度の状態、行政の状態にもよるが、それでも、一つの見解としては成り立っていると思われる。)清朝になってはじめて六千万の壁を突破し、四億人まで急増させた。近年では急上昇し、二千五年には、十三億人を上回っている。

 この様な人口の急増を可能としたのは、技術革新による生産力の向上は当然だが、それだけでなく、交通機関や食料の保存技術、通信技術の発達などの要因による。

 この様に、人口や社会インフラは、経済に対して重要な働きをしている。

 物的な経済とは、財の生産に関わる経済である。即ち、生産性や効率性、資源開発と言った物理的経済である。故に、使用される数学は物理量が基本である。

 貨幣的経済とは、貨幣の発行や流通に関する経済である。金利や物価、為替と言った問題を取り扱う経済である。故に、使用される数学は貨幣価値を基本としている。一般に狭義の経済というと貨幣的経済を指す場合が多い。

 人的経済、物的経済、貨幣的経済は、いずれも数量に還元される。数量に還元するためには、対象を数値化する必要がある。

 数値化とは、対象の持つ一定の性質を数に置き換える、操作、又は結果を言う。

 数には、数えるという側面と測るという二つの側面がある。数えると言う事と、測ると言う事の違いは、分離量と連続量の違いであり、数の本となる対象が連続した対象か、不連続な対象化の違いでもある。
 数値とは、量と比を表している。数えると言う事は、対象を一個の全体として先ず認識する事にある。次ぎ、それを自己と対象との間で一対一として認識する事である。そして、其の後、最初に認識した対象と他とを比較することである。故に、数の最初の認識は、他との比較に基づく。

 先ず、一という事、一の成り立ち、一の持つ意味が重要である。一は単位になる。何を一とするのかが重要となる。そして、それを何と比較するかである。比較する対象は、相似的対象である。

 他との比較は、対象の識別の始まりである。識別とは、分割、分別、分類を前提とする。即ち、数とは、分割、分別、分類によって生じる。

 自己と対象の存在に対する認識が在って、その認識上において自己と対象との一対一の関係は成り立っている。
 まず、対象と自己と一対一の関係によって対象を名付け、識別する。その上で、識別した対象から数と言う性格を抽出する。数は、自己と対象との関係から抽象化された性格、概念、認識である。数は又数詞によって識別される。

 経済的行為は、経済的価値を数えること、測ることに始まるとも言える。そして、経済的価値を数量化した物が貨幣である。

 数値化する事によって経済的価値は再構成することが可能となる。

 計算という行為が経済的行為を発展させる。捉えた獲物や収穫物を分解し、それを再構築して分配する。それが数を数えるという行為の根底を成す。
 ある全体を一とし、それを分割した部分をも一とする。全体の一と部分の一とを比較する事によって単位を設定する。それが一の始まりである。そして、数は一より始まる。

 計算は、その様な生きる為の活動、生活の要請によって成立する。生きる為の活動とは、即ち、経済である。故に、経済は、数学的な行為である。

 数学と経済との関係は、算盤(そろばん)に象徴される。算盤は、計算をするための手段、道具である。そして、経済行為には、欠くことのできない道具である。しかし、算盤は、技術的な範疇を超えることができなかった。読み書き算盤と言われ、社会生活の基盤、リテラシーとなりながらも学問の域に達することができなかったのである。結局、和算も学芸の域を超えることはできなかった。経済に関わる数学もまだ、技術の域を脱していない。経済がより高度な次元に到達するためには、数学をその身の内に取り込む必要がある。

 分割、分別、分類した要素を集め、再構成する事によって貨幣価値は成立する。故に、貨幣価値は、集合によって表現することが可能である。

 価値とは、位置である。即ち、位置で重要なのは、順序であり、差である。経済的価値は、貨幣的価値の位置によって優劣が評価される。

 貨幣というのは、その時点での貨幣価値を表示した物である。現金とは、その時点での貨幣価値を実現した物である。

 経済的尺度である貨幣は、尺度である貨幣自体が価値を持つのが物理的尺度との違いである。

 価格は、経済財の経済的価値を貨幣価値に置き換えた値である。価格は、一回一回の取引によって定まる数値である。

 そして、貨幣価値によって経済的価値に時間的価値が加わる。時間的価値は、変化を意味する。時間は連続量であり、時間的価値は、基本的に差か、比である。
 金利で言えば、単利か複利である。ただし、時間の性格からして時間的価値の基本は比である。即ち、複利である。

 時間は、連続量である。故に、時間的価値を加えるために、期間という時間の単位を設定した。期間には、時間、日、週、月、年、会計期間などがある。又、期間を設定するためには、始点と終点を定義し、設定する必要がある。

 期間を設定することによって期間損益の概念が成立した。期間損益の概念が成立することによって企業は、継続性を前提とすることが可能となったのである。

 企業が継続を前提とした時から経営や経済の中に無限や極限の概念が入り込んできた。それは、経営や経済の中に微分的発想や積分的発想を取り込む事を意味する。


政治や軍事だけでなく経済を正しく理解しておく必要がある。


 第一次世界大戦、第二次世界大戦を引き起こし、或いは、両世界大戦を通じて独裁主義や全体主義者、軍国主義者の暴虐を誘発したのは、思想なのか、経済なのか。ドイツの歴史は、如実にその事情をあからさまにしている。ハイパーインフレにせよ、大恐慌にせよ、又、バブルにせよ、単に、生活を破綻させるに止まらず。人々の精神を荒廃させ、道徳心をズタズタにして失わせてしまう。
 人々の生活を根底から覆してしまうような経済状況がなければ、少なくとも、自分達の生活の本質まで変えてしまうような変革を人々は、容易く受け容れたりはしない。思想によって生きているわけではない。生きることができなくなるような状況に置かれているからこそ過激な思想にも耳を傾けるのである。
 我々は、経済の持つ潜在的力をもっと正しく理解しておく必要がある。

 経済の基本は、労働と分配の仕組みである。労働と分配を支えているのが生産と消費であり、その結果として需要と供給関係が生じる。最初に需給関係ありきではない。
 経済で決定的なのは、生産量と通貨の流通量と需要である。生産量は、供給力によって制約を受け需要は、消費量によって決まる。

 どの様な仕事が必要とされるかではなく。どの様な仕事が労働として認知されるかである。労働として認知されれば、所得、即ち、貨幣収入を得る資格が認められる。それが社会的に必要であるか、否かは、別の問題である。

 高額所得者名簿には、芸能人、小説家、歌手、プロスポーツ選手、特許権取得者などが並んでいる。この様な労働は、他の労働に比べて社会的に必要かというと疑問である。ただ、数多くの人に労働として認知されているという事を意味する。
 一度、労働として認知されれば、取引に応じて収入を得ることができる。それが市場経済である。
 取引の基準は、是非善悪ではない。その対象を欲するか、否かである。取引の根本は、損得であって是非善悪、即ち、道徳ではない。
 要するに、経済というのは、生産物を以下に労働に応じて分配するか、その仕組みの問題なのである。

 数学と計算を同じ事だと勘違いして、数学を誤解している人が沢山いる。計算は、数学の基本ではあるが、数学ではない。計算と数学を同一視することによっる誤解とは、数学は、機械的な操作によってたった一つの回答を得る技術だと思い込んでいるのである。与えられた条件や式を機械的に操作することで、一定の答を導き出せるという事になると数学とは、考える余地のない問題だという事になってしまう。この様な考え方は、数学本質の対極にある考え方である。そして、この様な考え方が数学嫌いを生み出す原因の一つになっている。
 この事は、多分に今の学校教育の影響による。

 今の学校で習う数学は、予め、問題が設定されていて、しかも、正解が一つだけしか設定されていない。問題を解く過程も一つしか用意されていない場合が多い。なぜならば、数学を教える目的が受験制度によって歪められ、選別が主になってしまっているからである。
 数学に限らず、科学は、問題を見出すところが肝心要なのである。その上で、問題をいろいろな角度から検証していくのが科学である。予め答が設定されているような問題は希にしかない。と言うより、科学をする意味がない。
 ところが、日本では、問題が設定されていて、それを予め決められた道筋で解き、たった一つの解答に到達することだけを最低でも九年間、長くて十六年間も繰り返し、躾られるのである。数学の本質が見失われるのは、当然である。
 重要なのは、数学や数字の背後にある実体であり、問題設定や前提条件によって道筋も答も違ってくるのである。
 特に、経済数学を学ぶ時は、その点を心して学ぶ必要がある。一方的な決めつけや早とちりはこそ物事の本質を見失わせるのである。
 人生は一回きりだけど、一筋ではない。

定義と公理



 何を信じればいいのかは、科学の根本である。それは何を前提とするのかの根拠となるからである。

 定義や公理、定理は、理論を論理によって展開する際、前提となる、あるいは基礎となる命題である。

 失業の定義がされないと、失業率を計算することは出来ない。

 定義とは、言葉の意味を特定する命題である。
 定義とは、言葉の意味の共通認識を持つ事を意味する。それは、了解可能性の問題である。定義とは合意を前提とした命題であり、何等かの真理を指すわけではない。むしろ仮定である。定義とは、言葉の使い方や範囲を限定する命題である。

 定義の重要性は、経済のような現象を解析するような際に、特に、重要さが増す。なぜならば、経済は、物理的な現象と違い目に見える物を対象としているわけではないからである。つまり、経済学は、定義することによって想定される事象を対象としているのである。

 公理や定理における自明な命題とは、他の根拠を持ち出して証明する必要のない明確な根拠と言える。しかし、これは認識の問題である。
 何を自明な命題とするかは、直感に頼るしかない。
 公理は、言語的な要素において自明な事象であり、定理は、現象的な要素によっ自明な事象である。

 公理は、言語を前提の根拠とし、定理は現象を前提の根拠としている。

 物理学は、現象を、数学は命題の無矛盾性を、会計は、合意、契約を前提としている。

 公理の中で使用される基本的な言葉は、定義に基づく必要はない。論理を展開する上で公理を満足させる命題だ考えればいいのである。(「公理と証明」 彌永昌吉 赤攝也 著 ちくま学芸文庫)
 この様に公理の中で定義に基づかないで使用する言葉を無定義述語とする。

 定義、公理、定理は、その論理的構造や働きによって成立しているのであり、その命題によって成り立っているのではない。重要なのは構造なのである。
 命題そのものは絶対的ではなく。相対的である。なぜならば、前提条件に基づいて命題は成り立っているからである。その前提条件の一つが定義である。

 定義や公理、定理は、了解可能性の上に成り立っている。提示された命題を了解することが出来るか、否かを前提として成り立っているという意味で了解可能性が重要となるのである。
 早い話、神の存在を自明とするか、否かが好例である。神の存在を認める者にとって神の存在は自明な事である。神の存在を否定する者にとって神の非存在は自明である。この両者においては、神の存在の定義や定理は成り立たない。
 了解可能性に根本は、存在、則ち、「ある」である。
 この了解可能性は、科学においては仮説を前提とし、社会においては、契約を前提とすることを意味する。

 最初の認識は、直観によってなされる。論理的帰結による観念ではない。最初は全て混沌としている。

 論理的手段では、証明不能な命題に至る。
 その命題は、存在証明によって前提とされる。存在証明の根拠は了解可能性である。
 「考える故に吾、在り。」は、自己の存在証明の一つである。自己の存在証明は、考えるに特定することはない。「走る故に吾在り。」でも、「食べる、故に、吾在り。」でも良いのである。重要なのは、存在、則ち、吾は在る事を直観的に了解できればいいのである。それは、論理的には、証明できない。前提は、直観であり、主観である。

 結局、公理にせよ、定理にせよ近似的な命題にすぎない。
 そして、任意の理論の基礎とされる公理の集合を公理系とし、公理系の対象となるものの集まりの全体を公理系の「対象領域」とするのである。

 神を信じるか、否か。又、信じるならば、どの様な神を信じるかによって世界は変わる。認識によって成立する世界は、何を前提としているかが重要なのであり、前提が違えば、まったく違う世界になるのである。

 公理系が有効に機能するためには、一つの公理系を構成する公理が相互に矛盾しない事が前提となる。公理が相互に矛盾しない関係がどうかを検証するのが無矛盾性の問題である。



会計は公理主義である。




 数学、物理学、会計、全ては、定義に基づいている。
 数学は、公理を、物理学は、定理を、そして、会計は、合意を前提として成り立っている。

 会計は、本来、公理主義的な性格を持つ。
 会計の前提は、合意であり、社会契約である。つまり、会計は、定義に基づいた任意な命題を本として成り立っている。

 会計や法も、又、前提となる命題が重要となる。ただ、それは、公理や定理と違って合意に基づく契約だという点である。故に、自然になるものではなく、人間の意志に基づいてするものなのである。

 会計の前提となる勘定を定義する事によって勘定の働きや対象の領域が特定される。
 複式簿記は会計における関数を構成する。
 この様に経済制度や社会制度は公理主義的な体系を持っている。故に、数学的なのである。

 貨幣価値は自然数の集合である。
 貨幣価値は、財の価値と取引が実現した時点に流れる貨幣の量とから成る。
 貨幣価値の集合をVとし、自然数の集合をNとすれば、Vの各元は、自然数なのであるから、当然、また、Nの元である。
 貨幣価値は、自然数の真部分集合である。
 自然数は、無限集合であり、下部が閉じていて、上部が開放されている。
 それに対して貨幣価値は、有限集合であり、上下共に閉じている。

 自然数は、0に始まり無限に至る。貨幣価値は自然数の集合である。故に、貨幣価値は、0と無限の間にある。また、貨幣価値は、有限である。故に、範囲が重要となるのである。

 リセットというのには、全てを最初の状態に戻し、再開、やり直しするという二つの意味がある。

 貨幣とは、貨幣価値を表象した物である。「お金」という場合、貨幣を指す。
 資金とは、貨幣の働きを表象した値である。
 現金とは、その時点、その時点の貨幣価値を実現した物、ないし、値である。
 通貨とは、流通する貨幣である。

 経済主体は、継続性、会計期間、貨幣的評価を前提として成り立っている。
 継続性は、連続性を前提として成り立っている。
 経営は、資金の循環によって維持されている。則ち、経営の連続性は、不断の資金の供給によって維持されている。

 デカルトは、量を線分で表す手段を発明した。それが座標である。貨幣価値も座標として表すことが可能である。

 財は、正の空間を貨幣は、負の空間を形成する。
 財の流通する方向を正の方向だとすると資金の流れる方向は、負の方向である。

 会計も一つの数学の分野だと考えるべきなのである。T字勘定も数学の一つの表現だといえる。

 経営活動は、資金と時間の関数として表現することが出来る。
 資金と時間の関数として表現される関数は、時間に対して二つの系統を持つ。則ち、時間が陽に作用する系統と陰に作用する系統である。時間が陽に作用する系統は動的であり、陰に作用する系統は静的である。動的系統が損益を表し、静的系統が貸借を表す。
 資金の流れは、時間軸に対して水平に交わる。資金の流れの逆方向に財は流れる。また、債権と債務は、時間軸に対して垂直方向に派生する。
 貸借も損益も資金が通過した結果を表したものである。

 経済主体は、資金の流れによって動く仕組みである。

 要は、資金の調達力が維持されれば経営活動は、継続されるのである。
 経営主体においては、資金がどこから、どの様に、流入し、どこからどの様に流出するかが重要となる。

 借入であろうが、投資であろうが、収益であろうが、資金の調達を意味したものであることには変わりない。
 資金は、資産や費用に転換されて流出していく。

 会計手続に従って作成される財務諸表は、経営活動における資金の流れを直接的に表すのではなく。間接的に表現したものを集計した計算書である。



計算と変化



 数は、演算を許し、量は変化を許す。(「数学という学問」志賀浩二著 ちくま学芸文庫)
 数と量が一体となった時、実数は成立する。

 先ず実数の概念が成立し、次ぎに実数から数直線が生じ、座標とグラフとなり、それから変数が成立した。変数は、関数の概念の前提となる。

 数字では、位置と順番が重要な意味を持つ。この様な点を鑑みると数は、直線的な性格を持っているといえる。

 数学では、座標もグラフも重要な役割を果たしている。

 現代の日本人は、数学を代数的なものとして受け止めるが、本来、数学は図形的な側面をも持つ。だから、数は、位置と順序の概念と結びつくのである。

 最初から数の概念と位置や順序が結びついていたわけではない。
 最初、数は、一塊りの物に対応していた。
 幾つかの塊と余り、それが、数字の基本的構造を作り上げた。一定の一塊りが、一桁になる。

 貨幣価値において現在という時間が重要な意味を持つ。現在とは今である。経済では、今実現している貨幣価値が重要な働きをする。それが現金である。

 今という時間の連続が描く軌跡を突き詰めると数直線の概念が見えてくる。この様な数直線の概念を本に実数の概念は形成されたとも考えられる。

 この様に実数の数直線上を動く数、変動する数を変数という。つまり、変数とは、静止した点ではない。静止した点ではないが故に、変数は連続していると言えるのである。

 点の動きと軌跡が変数になる。

 この様な数直線は緻密である。つまり、数と数との間に隙間がない。それが極限であり、極限であるから、連続していると言えるのである。

 今という時間は、絶え間なく前進している。今という時間は、動くように実数は、「動点」と言える。そして、同様に今という時間と伴に貨幣価値も動いているのである。

 時間も、貨幣価値も変数だといえる。貨幣価値は、時間と伴に変化する。故に、貨幣価値は、時間の関数だと言える。

 変数xの値に対し、変数yの値か決まる関係が成り立つとき、狭義の意味で、yはxの関数という。

 つまり、狭義の関数とは、二つの変数を繋ぐ関係を言う。

 時間を変数として表現できるようになった事により、時間と伴に変化する何等かの量を変数として表現することが可能となった。それを時間の関数として捉えることは可能である。(「数学という学問Ⅰ」志賀浩二著 ちくま学芸文庫)
 変数が成立することによって物理的現象や経済的現象といった変化する事象を変数の間の関数関係として方程式に表現することが可能となったのである。

 物理学的現象を、等式として表す事で近代科学は、発展した。しかし、これは代数における等式ではない。この事は、経済的現象においても応用できる。

 物理学的現象や経済学的現象を等式に置き換えようとした場合、変数の意味が重要になるのである。変数を変化の軌跡と捉えれば、変数を構成する個々の点は、動点と言える。

 主要な経済現象は、変数として表すことができる。故に、経済現象の多くは、連続関数として表すことができる。なぜなら、経済は連続した現象と言えるからである。経済の連続性は、資金の動きに現れる。と言うよりも経済の連続性は、資金の動きによって成り立っている。それは、経済主体の在り方による。

 経済的な変化を時間の関数としていかに表現するかが、経済学の重要な役割の一つである。
 経済現象を理解するためには、市場に現れる様々の形の連続的な変化をいかに捉えるかが鍵を握っている。関数は、変化は、瞬間、瞬間の動きの連続した軌跡として表現する。経済学では、この瞬間の動きを解析することが重要なのである。だから、微分的発想が要求されることになるのである。

 問題は仕組みにあるのであり、現象は、仕組みによって引き起こされるのである。競争の原理だけで動いている仕組みはこの世の中にはない。競争は、手段の一つに過ぎない。

 経済現象を表す関数を考える時、重要なのは、その関数によって何が表現されているかである。経済成長というのは、何と何の関数なのか。その変化を引き起こしている要因は何か、変数は、何によって動かされているのかを明らかにしなければ、則ち、前提を明らかにしない限り、関数が何を表現しているかを理解することは出来ない。そこで決定的な役割を果たしているのが、財と資金である。

 関数には、等式と不等式がある。等式には、方程式と恒等式がある。方程式とは、特定のXの値にしか成立しない等式であり、恒等式とは、任意のXの値に成立する等式を言う。
 
 経済学の恒等式では、ケインズの恒等式が有名であり、今日の経済の基礎を表している。
 ケインズの恒等式は、Yを所得、Cを消費、Iを資本形成、Sを貯蓄とするとY=C+I、Y=C+S、I=Sとする。

 この様な恒等式においては、何が変数で、何が定数かが、重要となる。



会計は取引の集合によって成り立ている。



 会計の対象領域は、取引によって実現した貨幣価値の集合である。
 会計は、取引の実現の認識を了解点とし、それを前提とする。

 貨幣価値とは、財の価値、則ち、正の価値と貨幣単位、則ち、負の基準を掛け合わせた値である。

 貨幣価値とは、交換価値の量を表している。その為には、取引の実体を知るためには、交換価値の量を測定することが前提である。交換価値の総量が取引の規模を表すからである。

 貨幣と物の交換が実現したと認識された時点で取引は成立したと見なされる。それが複式簿記における実現主義である。
 取引が実現したと認識された時点で、物の価値は、借方に、「お金」の価値は貸方に記帳される。それが複式簿記の原則である。
 物の価値は、実物価値であり、「お金」の価値は、名目的価値である。
 借方は、単位時間によって資産か、費用かに区分され、貸方は、資金の調達手段によって負債、資本、収益に区分される。
 更に、借方と貸方の勘定が貸借関係か損益関係かによって貸借取引か、資本取引か、損益取引かに区分される。
 以上が仕訳という操作である。仕訳は関数と言える。

 単位期間内に清算される資金と単位期間を越えて清算される資金がある。又、単位期間内に費消される財と単位期間を越えて費消される財がある。単位期間内に清算される資金を短期資金と言い、単位期間を越えて清算される資金を長期資金という。単位期間内に費消される財は短期資金によって賄われるのを原則とし、単位期間を越えて費消される財は長期資金で賄われる事を原則とする。なぜならば、単位期間内に費消する財に対する資金が短期資金でなく長期資金によって賄われると長期資金の増殖が抑制できなくなるからである。短期資金は、収益と言い、長期資金は、借入と資本からなる。単位期間内で費消される財は費用であり、単位期間を越えて償却される財は資産である。

 財の価値は、価格として表現される。

 財は、実数の集合である。
 財においては、分数は重要である。

 財の価値と資金の量は、貨幣価値に還元される。
 財の価値と資金の量は、仕訳によって貨幣価値に対応させられる。取引は、仕訳によって勘定に分類される。故に、仕訳の定義域は、自然数であり、自然数全体が仕訳の値域である。

 仕訳の操作は、加法、乗法を原則とし、特別な場合を除いて減法は用いない。除法は、基本的に使用しない。則ち、加算主義である。
 仕訳は、最終的に単位期間の基づいて決算書に集計される。決算書に表されるのは、残存価値であり、簿記は、残高主義である。

 資金的援助を冨の転移と考える傾向があるが、資金の働きを負の働きだとすると資金的援助は、冨の転移と言うより負の転移と言える。

 「お金」の価値は、負を意味する。財を要とするなら「お金」は陰である。則ち、お金は影なのである。「お金」は、特に、紙幣は、単独では機能しない。「お金」は、「お金」が指し示す対象と対になってその効用を発揮するのである。

 借金を頭から悪いと決め付けず、その借金が発生した状況とその借金の働きを見極めることが重要なのである。場合によっては、返せない、あるいは、返す必要のない、返してはならない借金もあるのです。問題は水準であり、負債だけでなく、資産や収益、費用、そして資本との関係と働きが重要となるのである。

 物と「お金」との交換を実現する事を決済という。取引は、決済をもって完結する。

 未決済な資金が流通するのである。未決済な資金は、債権と債務を生み出す。債権と債務は、資金の流れる方向に影響を与える。

 実物経済においては、資金の流れが生み出した債権、債務の大きさが問題なのではない。流れた量が問題なのである。

 経済主体を経営する際、問題となるのは、資金をどの様に調達したのか。借入金によって調達したのか、投資なのか、収益なのかである。

 資産を購入する場合でも、収益の中から分割払いをすることと借入による一括払い(収入による返済)かは、根本的にな部分では同一だと考えることが出来る。

 収益や費用は、期中に決済された勘定である。取引では、決済が重要な意味を持つ。

 経済においては、一人当たりというのが基本単位となる。その場合の指標として用いられるのが平均値である。その核となるのが所得である。則ち、一人当たりの所得の平均と分散が基本となるのである。

 所得水準が一致点が物価の安定水準である。

 公理主義は、形式主義でもある。民主主義の土台も形式である。形式を軽んずるのは、現代人の悪癖の一つである。





参考 「公理と証明」 彌永昌吉 赤攝也 著 ちくま学芸文庫
    「数学という学問Ⅰ・Ⅱ」 志賀浩二 著 ちくま学芸文庫
    「今すぐ仕事に使える数学」内山 力著 PHPビジネス新書
    「数字のカラクリを見抜け!」吉本佳生著PHPビジネス新書




       

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