1.経済数学

1-6 量と方向

変化の方向と量





 一つ一つの数の素が集まって、数の塊となる。
 一つ一つの数の素には、何等かの対象がある。その対象と一つ一つの言葉や象徴、記号が結びついて数の塊となる。それが一対一の対応である。つまり、数の素となる対象と数を表す言葉や象徴、記号とを一つ一つ結び付けるのである。
 そうすると数の塊ができる。それが数の集合である。
 数の塊を一直線上に並べて順番をつけると数は量や位置を表すことが可能となる。
 一つ一つの数に序列が決まると数は順序に従って並ばされる。点と点、即ち、数と数の順序が決まると言う事は、数の位置が定まることを意味する。位置が定まれば、距離が生じる。点と点を結べば、距離が定まる。距離は線分となり連続量となる。

 最初、一つ一つの数の素は点と見なすことができる。
 元となる対象を何らかの共通した性格に依って象徴化し、象徴化した物を点とする。点と数とを一対一に結びつけて対象を数値化する。

 一つ一つの点に一つ一つの名前がつく。その時、一対一の関係が生じる。一対一に対応する数は、自然数であり。
 なぜならば、自然数は、一対一に対応することができる数だからである。一つ一つの点に対応する数は数えられる数、すなわち、可算数でなくてはならない。
 自然数は、可算数である。可算数である自然数が経済数の根源となる。
 一つ一つの点に名前がついて数となる。数の名前と点とは、一対一の関係にあり、数は、数の体系を構成する点の固有の名前である。
 つまり、閉ざされた数の体系の中では、一は一つ、二も一つ、三も一つ、百も一つ、百一も一つ、百億も一つしかない。

 点に名前がつくと、点に順序が生じる。
 点が集まり、点に順序ができると点は列となる。
 点の列は点列である。

 点列は、数列となる。数列は点列である。
 点が集まり、点に順序が決まると点列が形成される。
 数が集まり、数に順序が決まると、数列が形成される。

 一の次に二が来て、二の次は三。数に順番ができる。数に順番ができると数は位置を表すようになる。この時点でまだゼロはない。
 数が位置を表すようになると、数によって物の長さや距離を測ることができるようになる。物の長さや距離を数が表すようになると、数によって長短を比較することができるようになる。長短を敷衍すると数は、物の大小、高低、多少を表すことができるようになる。
 物の長短、大小、高低、多少を数が表すことができるようになると、単位を決めることができるようになる。単位の元は一である。

 点と点は、結ばれて線となり、量となる。点は離散で、線は、連続である。
 順番に数が、一直線上に並ぶと、線は、次元を作り出す。次元が形成されると方向が生まれる。更に、二つの線が交わると面ができる。面が交わると立体となり三次元の空間が形成される。そして、これに時間軸が加わると四次元の現象が、認識上に現れる。

 数列は、次元を構成する。特に時系列的な数列は、事象を数学的に表現することを可能とする。
 点は、線となり、線は面を構成する。面は、立体へと発展する。点が線となり、面となり、立体につれて次元は増えていく。
 次元は空間を生み出し、場を形成する。

 数は、順序によって位置付けられる。数が位置付けられると位置と運動と関係を生じる。
 位置と運動と関係が明らかにされると方向と量と働きが成立する。働きは質に変換する事ができる。
 位置と運動と関係は、空間と時間と力によって形成される。

 位置は定数に変換され、運動は、変数に変換される。
 働きは、位置と運動から派生する。
 運動は、位置と時間の関数である。
 運動は、位置と時間に写像される。

 働きには、量と方向がある。

 貨幣価値は一様な数列である。貨幣価値は、離散数列である。貨幣価値は、分離量である。貨幣価値は自然数である。貨幣価値は絶対値であり、基本的に負の値はない。
 故に、会計において貨幣価値の働きを知るのに大切なのは、会計上の位置である。

 貨幣価値は、自然数である。即ち、貨幣価値は分離量である。なぜならば、貨幣価値を実体化する支払手段は、貨幣であり、貨幣は実物だからである。つまり、貨幣価値は、貨幣価値を表す貨幣の集合と一対一の関係にある。

 変化は、時間の関数である。時間は、存在に関わる概念である。我々は、変化によって対象の存在を認識する。変化のない対象を認識することはできない。物質は、例え、静止していても存在することで変化している。存在に対するは、変化を前提として成り立っている。変化が見えない対象は、認識する側が自分の位置を移動させることによって変化を引き起こして認識する。自分か、対象、いずれにしても認識は変化を前提としている。故に、認識は、相対的なのである。

 変化を知る事によって変化する対象の背後にある動かざる事、不動、不変な真理を知る。それが知識である。

 変化は、時間の関数である。故に、変化の働きを知る上で重要なのは、時間の働きと価値である。

 貨幣価値は、位置と運動と関係を生み出す。つまり、貨幣はそれが指し示す対象のその時点における交換価値を表す。それが貨幣価値が指し示す対象の位置と働きと関係である。

 千円という定価の書籍には、千円という貨幣価値の位置を持つと同時に、千円という貨幣との交換取引を約束する働きを持ち、千円札と該当書籍との関係をもたらす。

 この様な取引には、財と貨幣の流れる方向と量がある。
 流れる方向が運動を量が位置を指し示す。そして、運動と位置によって働きが生じる。

 市場は取引の集合体である。
 会計は、取引を集計した記録である。

 貨幣経済は、貨幣の流れと財の流れによって成り立っている。

 通貨の流れる方向は、第一に、通貨は、売る側から買う側に流れる。第二に、通貨は、借入をする場合は、貸す側から、借りる側に流れる。第三に、債務を解消する場合は、借りた側から貸した側に流れる。第四に、投資する側から投資される側に流れる。第五に、通貨は、金利が低い方から高い方に流れる。第六に、通貨は、物と逆の方向に流れる。物は、価格が低い方から高い方へ流れる。故に、通貨は、物価が高い方から低い方に流れる。第七に、購買力が均衡する方向に通貨は流れる。

 通貨の流れる量は、第一に、貨幣の供給量に関連する。第二に、通貨は、取引を媒介にしてに市場に流通する。故に、市場の取引の量に比例する。第三に、取引の量は需給に基づく。

 通貨価値は、第一に、通貨の流れる方向によって定まる。例えば、売る側は下がり、買う側は、上がる。第二に、通貨の流れる量によって定まる。

 取引が成立すると通貨が流れることによって通貨が流れた量と同じだけの債権と債務が同時に発生する。
 債権と債務は、通貨が反対方向に流れる、即ち、決済されることによって解消される。

 経常収支においては、輸入する側は、自国の通貨を売って、輸入国の通貨を買うことで、物を買うのであるから、輸入国側の通貨は、輸入国に滞留し、輸出国は、売買取引によって財と通貨が交換されることによって輸出国の通貨は、自国に環流する。その結果、輸入国の通貨は、外貨準備高として輸出国に蓄積される。同時に、輸入国の通貨価値は、下落する。

 資本収支は、投資する側は、投資する相手国の通貨を借り、あるいは、買い。投資される側は、投資する側に通貨を貸す、あるいは売ることによって投資を実行する事で成立する。



情報系



 社会や組織、市場、制度は、情報系である。情報系とは、情報を伝達し、処理する為の仕組みである。情報を伝達し、処理する仕組みを具現化したものが、手続や事務である。だから、組織や社会においては、事務や手続が重要となるのである。
 又、貨幣も情報を伝達する手段である。言語体系も情報系の一種である。情報というのは、無形である。
 故に、社会や組織、市場は無形な存在である。
 目に見えないけれど、確かに存在するそれが社会であり、組織であり、市場である。これら無形の存在は、認識上の存在でもある。
 人間の社会や組織、市場を認知しない動物にとって人間の社会も組織も市場も存在しない。逆に、人間が認知しない自然界の掟は、人間にとって存在しない。社会や組織、市場とは、そう言う存在である。
 動物達にとって目に見えない国境などないのである。国という存在は、国という観念を認識できないものにとっては存在しないのである。認識とはその様な行為である。そして、認識を司るのが情報の形態である。情報は、情報を伝達する形態によって規制される。

 電気製品が電気が流れることによって動く仕組みであるように、情報系は、情報が流れることによって動く仕組みである。

 社会や組織、市場は、複数の人間が、共通の目的を持った作業を行う場だと言う事である。複数の人間が、共通の目的を持って共同の作業を行うためには、情報を共有する必要がある。しかし、情報そのものは、無形な対象であり、情報自体を何の媒体もなく伝達することはできない。その情報を伝達する媒体が言葉という音声であったり、書類だったり、貨幣だったりするのである。最近は、情報を伝達する手段として電気信号が発達している。
 重要な点は、複数の人間が情報を共有することで、社会や組織、市場は成り立っているという事である。

 この様な情報系においては、論理式、ブール代数が威力を発揮する。
 意思決定の仕組みも組織も二進法である。イエスか、ノーか。オンか、オフか。いずれにしても二進法である。

 国家も又情報系である。故に、国家体制を考える場合、重要となるのは、設計思想なのである。むろん、国家のみでなく、あらゆる組織、制度を考える上では、設計思想がしっかりしていないと、どんな組織も制度も一体性、整合性を保てずに瓦解してしまう。

 情報系の基盤は、構造である。

 社会や組織、市場、制度と言語体系は、共通の構造を持つ。
 世の中には、筋と順序と順番がある。その筋と順番と順序が護れなくなるから秩序が乱れるのである。
 今の世の中、あべこべな事が多すぎる。良い例が結婚である。今の結婚は、先に子供を作ってそれから相手の了解を得て、結婚式をして、最後に親の承諾を得る。これでは順序が逆さまである。先ず、プロポーズをしてそれから親の承諾を得ることが先決である。
 これは、社会の決まり事だが、現実の事象は、前後の順番が明確にある事象が多い。それが因果関係の本となる。因果関係は時間を形成する。
 例えば生まれて、成長し、やがて老いて死を迎えるというような事象である。

 無形というのは目に見えないものである。無形である情報をに形を持たせるための手段が、貨幣化する事であり、文書化する事である。そこに、貨幣や書類の働きがある。
 そして、貨幣の在り方によって経済は、制約される。

 情報を伝達する手段は、認識できない対象を認識できる対象に置き換える事である。認識できない対象を認識できる対象に置き換えるとは、例えば目に見えない物を目に見える物に置き換えたり、音声にすることである。つまり、無形な対象を雄勁な対象に変換する操作である。この様な操作し基本的に形式化を意味する。故に、情報系では、形式が重要となる。

 数とは、数の概念に数字を一対一に結び付ける操作によって成立した。

 社会や組織、市場、制度は、情報によって動かされる仕組みである。情報を伝達する手段に貨幣や文書がある。典型的な文書が伝票である。

 社会や組織を動かしているのは、手続である。そのことを忘れてはならない。手続を定めたのが法なのである。
 又、礼儀作法も情報を伝達する手段の一種である。
 手続を面倒臭かったり、軽視する傾向があるが、手続を無視したら社会も組織も動かなくなる。特に、法治国家は手続がなければ機能しない。民主主義とは手続の思想なのである。手続そのものが悪いのではなく。非効率な手続が問題なのである。手続を効率よくするためには、簡素にする必要がある。なぜならば、手続は、それを活用する者全員に周知しておく必要があるからである。

 手続は、必要であればあるほど煩雑になるとかえって障害となる。又、特権階級を生み出す要因となる。

 情報は、流れなければ効用を発揮しない。故に、情報には流れがある。流れには、方向と量がある。

 情報には、流れる方向がある。
 貨幣や書類にも流れる方向がある。
 情報には、流れる経路がある。情報が流れる経路は筋になる。情報の経路には、予め定められた、公式、正式な経路と予め定められていない非公式な経路がある。情報の流れは、情報の流れに沿って力を生み出す。なぜならば、情報には働きがあるからである。働きは効力を発揮する。効力は力の源である。
 非公式な情報の流れは、予め定められた以外の効力を生み出し、その結果、公式な情報の流れを乱し、破壊する。故に、組織や社会では、筋が大切になる。

 情報は階層を生み出す。なぜならば、情報は、位置と運動と、働きを形成するからである。働きは関係に還元される。
 位置と運動と関係は、空間と力と時間を生じさせる。時間は変化の単位である。
 位置と運動が、方向と働きを生む。
 空間は、水平的位置と垂直的位置とから成る。
 位置と力は、水平的方向と垂直的位置は、水平方向の働きと垂直方向の働きを生じさせる。それが階層を生み出す要因となる。

 貨幣が流れる方向の反対方向に財は流れる。財は、物か用役である。つまり、貨幣の流れがあれば、その反対方向に、財や用役の流れが隠されている事になる。
 この事から、貨幣の流れには、財を反対方向に流す働きがあることが判る。貨幣が財の流れを促す働きがあるのは、貨幣が交換価値を表象した物だからである。貨幣価値とは、交換価値である。貨幣とは、貨幣価値を表象した物である。貨幣は物である。ひして、現代、貨幣は、物から情報、即ち、記号や信号に変化する過程にある。

 貨幣の生み出す情報は、数値情報を基とする。
 貨幣が伝達する情報は、財の持つ交換価値、即ち貨幣価値である。

 貨幣は、働きが社会的に承認されると力を生み出すことになる。貨幣は、富を象徴することになり、富そのものを生み出す素になる。

 貨幣価値を基礎として成り立っている会計も又情報系である。そして、会計にも構造がある。
 情報系である会計には、取引からは制した勘定に位置と運動と関係が生じる。
 会計的手続きを経て成立する資産、負債、資本、収益、費用は、幾何学的である。
 幾何学的だから近代の市場経済の仕組みは欧米において完成したとも言える。

 例えば、償却である。償却は、時間と効用が形成する面積が価値の量の時間的変化と総量を表す。

 負債も又幾何学的である。つまり、元本、返済期間、金利、返済額が作り出す図形が負債の働きを描いているのである。

 損益分岐構造、現在価値の割引計算と会計は、幾何学的だと言える。


近代は、変化を基とした時代である


 現象として明確に認識できる変化には何等かの原因がある。変化は、数値化すると数列になる。
 経済的事象には、至るところに数列が現れる。その数列の在り方や構造、又、一つの事象を構成する数列の関係が、経済や経営に決定的な働きをしている。経済現象を解き明かすためには、数列の性格を解明することは不可欠な要件である。数列に背後に隠された法則を見出せるかどうかが鍵を握っているのである。

 近代になると人々は、流行を追い求めるようになった。近代人は、無意識に変化に価値を見出す様になったからである。物事は進化すると決め付けている。新しい物は、古い物よりも良いに決まっている。そう近代人は思い込んでいる。現代人にとって過去は、切り捨てるべき物なのである。
 しかし、近代以前の人間は、普遍的な物に価値を見出した。普遍的に物は、時間が陰に作用している物である。変わらない物にこそ価値を見出したのである。何時までも変わらない絆、思い、不変的な物を大切にしてきた。だから、一つの物を大事にしてきたのである。無闇に流行(はやり)を追うのは賤しいと考えられてきた。流行はい一時のことであり、不変的な時には、永遠が潜んでいると信じていた。
 肉体は老いさらばえていく物なのである。普遍的な愛にこそ価値がある。だからこそ刹那的な快楽を追わず、不変的な愛を追い求めたのである。少なくとも、一瞬の時と永遠の時の区別はしていた。今、一時の快楽と永遠に続く喜びとが区別できなくなった。人生は点となり、一つの流れではなくなったのである。罪と罰とは、時の流れとは無縁なものと思われるようになった。今がよければ、全て許されると信じている。だから、永遠の存在者、神など信じる必要を感じなくなりつつあるのである。
 しかし、時は容赦なく流れさる。若いときは瞬く間の内に過ぎ去っていくのである。故に、老いは罪となる。それでも、現代人は、愚かにも、昔の人間よりも自分達の優れていると思い上がっている。

 近代、経済的価値に、時間的価値が加えられた。それが自由主義経済の根幹をなす。故に、自由主義経済における経済的変化を理解するために重要なのは、時間的価値である。

 経済に携わる者は、数字が好きである。元来が、貨幣は、数値によって表現されている価値である。貨幣経済下では、数字が絶対的な威力を発揮する。
 しかし、数字や数式によって表現できるからと言って数学を理解しているとは限らない。数字を濫用することでかえって数学の本質を見失わせる結果になっている場合が多い。
 経済を理解するためには、時間的価値をいかに数式で現すかが重要なのである。ただ、数字として現れた結果を、自分の都合に合わせて加工したとしても、現象の背後にある真実を明らかにした事にはならないのである。

 経済ほど、資金の方向性が重要な分野はない。それでありながら、経済ほど、方向性に無関心な分野もない。経済に携わる人間が量ばかりを問題としているからである。つまり、経済の動きを明らかにするためには、量ばかりではなく。方向性も示す必要があるのである。
 
 古典的数学では、数学の対象は、静止した図形、固定した対象に限られていた。現代数学では、変動を表す数式が主になりつつある。
 変動とは、運動をも意味する。

 運動を解明する数学の手段の一つとして微分、積分は発達してきた。微分、積分の発達は、数学が静止した事象を対象とした学から変動や運動を対象とした学へ変化したいい証左である。

 又、運動を表す数として方向性を持った数が考案された。それがベクトルである。

 運動を表す数の要素は、時間と方向と働きの程度である。働きの程度には、強弱、速度、温度等がある。

 変化とは、位置の移動でもある。つまり、一定の時間が経過した後と前の位置の差が変化の度合いを表しているのである。問題は、位置の軌跡とその距離である。そこから変化の程度を明らかになるのである。それを知るためには、変化の量と方向と働きの程度が重要な要素となる。



経済的量と近代会計の関係


 経済的量に方向性を与えたのは近代会計である。近代会計は、期間損益の上に成り立っている。会計において重要なのは、期間、即ち、時間の概念である。単位時間を基準にして固定性と流動性を測られるのは、会計において時間が決定的な働きをしているからである。

 最近、経済では、量ばかりを問題にし、資金の流れる方向を見ない。日本の財政問題も国債残高の量ばかりを問題にして、国債によって発生する資金の流れを見ようとしない。それでは、財政問題は解決しない。重要なのは、資金の流れる方向なのである。

 我々は、商品や用役を購入し、支払をする際お札と硬貨を出す。我々は、このお札と硬貨を区別して使うことはない。ただ、持ち運びや使用に便利であるかどうかが問題なのである。そして、なんとなくお札は高額で、硬貨は少額だという意識を持っている。
 
 紙幣は、貨幣自体に実物貨幣のような相応の価値を有さないために、発行の際、債権債務関係を生じさせる。
 それに対して硬貨は、政府発行であり、実物貨幣であるから債権債務関係を生じさせない反面、長く市場に滞留、即ち、回収が困難が困難だという性格ある。
 この紙幣と硬貨の違いは、財政を考える上で重要な意味がある。一口に貨幣と言うが、貨幣と見なされる物は、一種類ではなく、それぞれの働きに微妙な差がある。紙幣と硬貨の発行比率にも重要な意味が隠されている。

 国家は、やろうと思えば、紙幣を無制限に発行することが出来る。

 通貨管理の仕組みは中央銀行の決算書を見るとある程度、垣間見える。組織や市場の構造は、事務手続きによく現れる。事務手続きを開設して、そのアルゴリズムを知る事は重要な仕事である。

 相関関係の中でも因果関係が重要である。何が原因で、どの様な結果が得られるかを明らかにすれば未来が予測できるからである。

 因果関係が成立するのは、要素が何等かの作用によって結び付けられている場合に限る。また、時間的な順序関係が明らかである場合である。
 連動して変化しているからと言って因果関係が成立するとは限らない。

 経済現象を分析する際、経済主体を基として経済の動きを見るか、経済の働きを基として経済の動きを見るかが重要になる。
 経済主体は、家計、企業、政府、海外の四つの主体がある。そして、働きには、支出(需要)、分配(分配)、生産(供給)の三つの働きがある。
 主体を代えてみると同じ働きでも解釈は正反対になる場合がある。例えば、家計の納税行為は、政府にとっては徴税行為である。預金は、家計や企業から見て金を預ける行為だか、金融機関にとっては、金を借り入れる行為と変わりない。

 経済主体と働きをどの様に結び付けて認識するかは、それは経済に対する認識の本質的な問題なのである。

 現在の会計制度は、基本的に総額主義と純額主義が混在している。

 資金の流れは、総ての量と流量と残高として現れる。
 損益は、流量を表し、貸借は残高を表している。貸借は、残高主義である。
 総額は、流量を表している。
 純額は、流量から残高を差し引いた値である。

 GDPやGNPを計算する時、総額か、純額かは重要な意味を持つ。

 個々の要素に於いては、因果関係が成立するかどうかが重要な鍵を握っている。

 貨幣は、公共投資(社会資本、国防、行政費用)を通じて供給される。

 現代の市場経済では、現金主義と期間損益主義が混在している。例えば、財政や家計は、現金主義で民間企業は期間損益主義である。
 その為に、税制度が現金主義と期間損益主義との折衷的な制度になっている。この事は、財政や家計と民間企業とでは、制度的に連続しておらず、制度的整合性が保たれていないことを意味する。これが財政問題の基調に存在する。

 国債を担保とした紙幣と実物貨幣である硬貨によって供給された貨幣は、公共投資によって資産に変換され、資産に変換される過程で投資相手の収益に還元される。収益は、利益と費用に分解され、そして、費用は、収益に還元される。この過程をついじて貨幣は、循環し始めるのである。
 貨幣の流通を表しているのは、期間損益においては、基本的に収益と費用であることを忘れてはならない。つまり、収益と費用は、単位期間における現金の動きと財の関係を表しているのである。

 資金さえ回っていれば、赤字も、黒字も関係ない。黒字倒産もあれば、公共事業のように赤字なのに継続できる事業もある。要は、経営主体を維持制御しているのは、貨幣なのである。この事は、財政や家計にも言える。財政問題を考える場合、この点を見逃していると飛んでもない結果を招くことになる。

 根本的には、市場経済を動かしているのは現金である。

 貨幣の本質、働きにあり、貨幣その物は、貨幣の働きを媒介する物なのである。
 貨幣は、その働きに応じて変化してきている。貨幣の働きは、貨幣の歴史的経緯の結果、形成されてきた。故に、貨幣の働きを正しく認識する為には、貨幣の歴史的経緯を知る必要がある。

 現金の中に預金を含めることもあるが、預金の本は現金である。

 ではなぜ、現金収支だけでは限界があり、期間損益を併用する必要があるのか、それは、現金収支だけでは効用が解らないからである。言い替えると期間損益は、費用対効果を測定し、それに逢わせて資金を供給することが目的なのである。単純に利益を上げるための指標を作ることが目的なのではない。

 貨幣価値と貨幣とは、別のものである。

 貨幣価値の総量は、通貨の流量を基にして定まる。
 貨幣が流れた量によって貨幣価値は生じ、又、清算される。貨幣が流れる量は、取引の回数×1回の取引によって流れた量と流れた方向によって定まる。
 故に、貨幣価値の総量は、通貨の流通を基にして定まる。

 バブルとは、通貨の流量に比して貨幣価値が異常に増殖することを言う。それは資産市場における通貨の回転数が実物市場に対し相対的に高まることを意味する。実需との乖離が頂点に達すると必然的に反動的な動きに転じる。それがバブルの崩壊ある。バブルには限界があるのである。

 要は、決済するための資金が指定日までに用意できなければ破産するのである。それは、国家も、民間企業も、家計も同じである。
 つまりは、資金の流れを理解することが国家や、民間企業、家計を破綻させないためには、不可欠な事象なのである。

 決済が現金で成されている事実を忘れてはならない。貨幣経済を動かしているのはあくまでも、現金なのである。だからこそ、現金の流通量を制御できなければ市場は制御する事が不可能なのである。

 故に、どの様な機関が、どの様にして、何を担保として資金を市場に供給しているのか、つまり、何が、どの様に通貨の流通量の増減に関わっているのかが重要となる。
 中央銀行制度は、中央政府が国債を発行したら、中央銀行は貨幣を発行する。中央政府が国債を発行したら、その国債を担保にして中央銀行が、市中銀行に貨幣を貸し付けて、紙幣を供給する。中央銀行制度では、国債の売り買い、貸し借りを通じて貨幣の流通量を調節するのである。

 現実には、銀行券は、政府が、直接発行して市場に供給するのではなく、中央銀行が発券した上で、中央銀行を中核とした金融制度を使って、貸付金という形で市場に供給される。
 その場合、紙幣の流通量の測定は、単位期間に発行される銀行券の量だけでなく、市場における回転数を加味して成されなければならない。つまり、紙幣がどれだけで市場に供給されたかではなく、紙幣が単位期間内どれだけ流れたかを知る必要があるのである。
 なぜならば、貨幣は、静止した状態では、その効力を発揮しないからである。貨幣は、流通することによって効力を発揮する。つまり、一定期間にどれくらいの通貨が、流通したかによって貨幣の働きは測られるべき値だからである。
 故に、通貨の流通量は、供給量と回転数によって分解される。

 例えば、歳入の回数が年に一回なのに対して、民間経営主体の収支と家計の収入は、年間12回を基本としている。これは、資金の回転の回数の基礎となる。又、経営主体の決算の場合では、収入ではなく、収益になる。

 いずれにしても通貨の流量が経済の動きに決定的な作用を及ぼしている。貨幣の中でも、紙幣の流量が重要となる。
 紙幣をどの様な機関が、どの様な機関を使って、どの様な手段で市場に供給するのか、その仕組みが鍵を握っているのである。

 どの様な機関が、どの様にして、通貨の流通量の増減に関わっているのかを知るためには、何を明らかにすべきなのか。それが貨幣の流れる道筋を示してくれる。

 それを明らかにするためには、主要貨幣である。紙幣の発行量を誰が決め、又どの様な仕組みによって制御しているのかを知る必要がある。

 紙幣には、政府紙幣(Print money) と銀行券(Bank note)がある。
 どちらの紙幣も法的通用力、強制力があるという点で共通している。その為に、混同される場合が多い。しかし、両者には本質的な差がある。
 政府紙幣は、時の公的権力のみ紙幣の信用を保証するものであり、政府の負債としては認識されない。
 それに対して、銀行券は、発券銀行(中央銀行制度では、中央銀行)が保有する金融資産を担保とし、発行額は、発券銀行の負債勘定に計上される。
 銀行券は、当初、銀行が準備した正貨(本位貨幣、金本位では、金貨や金地金)を担保として発行された一覧払いの約束手形であり、銀行が手形を割り引いいたり、社債を購入する代金と支払われることによって発券銀行以外の金融機関に供給され、償還期間を経て発券銀行に回収された。
 その意味で、銀行券とは、発券銀行によって発行された無期限の約束手形のようなものだと言える。

 紙幣に政府紙幣と銀行券の二種類があり、その働きや発行の仕組みが違うとしたら、政府紙幣の発行と回収の仕組みや手続、銀行券の発行と回収の仕組みや手続が構築されることで通貨の供給と制御が可能になる。また、発行と回収の仕組みと手続をどの様に設計するのかによって、通貨の供給と流量の制御の仕方が違ってくる。思想というのは、その設計思想を言うのである。

 貨幣経済を考える上で、重要なことは、政府は、非生産的部門だと言う事である。この様な政府機関が一方的に通貨の発行権を握ると通貨の流量を制御できなくなる。

 今日の貨幣経済では、財政収入は総て貨幣で支払われるという事を忘れてはならない。その貨幣は政府が供給するのである。

 銀行券の発行量は、正貨保有量を根拠とすべきだという考え方と、発券銀行の裁量に委ねるべきだという二つの考え方がある。
 現在の日本では、銀行券の発行量は、発券銀行の裁量に委ねることを原則としている。(Wikipedia)

 銀行券の発行量は、中央銀行に委ねられていると言っても無原則に発行できるものではない。銀行券を発行するためには、銀行券を発行するための仕組み、手続がある。
 日本の場合、一つは、中央銀行に金融機関が当座預金をしてその預金を引き出す際に銀行券を供給する。もう一つは、国債を中央銀行が買い取ることで銀行券を発行する。前者の場合、固定預金の量の総計が上限となり、後者の場合、国債の残高が上限となる。
 前者の場合、紙幣の流通量が前提となり、後者の場合、国債の発行残高が前提となる。

 通貨の供給の仕組みに関しては、道具としての国債と通貨、主体としての発券機関と政府、金融機関との関係を明確にすべきなのである。何を担保として紙幣をどの様な仕組みによって市場に供給するかを明確にする事、それが、通貨の流量を制御する上で不可欠なのである。

 ユーロのように複数の政府機関が連合して形成されている経済体制では、発券銀行と発券銀行以外の銀行の機能をどの様に位置付け制度を構築するかが、重要となる。
 つまり、どの様な機関が通貨の供給量を制御するかが重要となるのである。それは同時に国債や公債の処理の仕組みの重要性も意味する。(例えば、中央銀行が、国債を担保にして紙幣を発行する等)
 そして、制度と手続の透明性をいかに保障するかが鍵となる。なぜならば、金融制度は、即ち、信用制度でもあるからである。

 経済の状態を予測するためには、貨幣の働く具合を知る必要がある。貨幣の状況を知るためには、まず、何を明らかにすべきなのか。

 資金の働きを知るためには、長期資金と短期資金を分けて考える必要がある。長期資金と短期資金は、資金の流動性に関係してくる。

 通貨の流通量は、供給量と回転数によって決まる。要は、収入と支出が単位期間内に通貨は、何回転するかが重要な意味を持つのである。

 貨幣の状況を知るためには、資金の市場への流れの入口と出口を捉えておく必要がある。それは、貨幣の供給口と回収口である。
 貨幣の供給口は、中央銀行と政府がある。

 貨幣の供給口を明確にするためには、中央銀行から金融機関への流れも把握しておく必要がある。
 その為には、日銀当座預金残高などを知っておく必要がある。更に重要なのは、ベースマネーである。

 問題は、貨幣の入口と出口の大きさ、つまり、供給口と回収口の大きさである。この入口と出口は一定ではなく、常に変化している。その変化が経済活動に影響を受け且つ又、経済活動を規制しているのである。

 市場の入れ口は投資、即ち、支出である。

 市場に対する入口は、金融機関からの投資、即ち、貸付、融資であるから貨幣の効率を知る為には、預貸率が重要となる。

 そのうえで、資金の流れを知るためには、総所得の内訳を知る必要がある。

 総支出を見方を変えると総所得になる。故に、総支出からの流れを知るためには、総所得の内訳を知る必要がある。
 更に貨幣が流れる過程をおさえるためには、次ぎに、総生産の内訳を知る必要がある。

 経済を動かす原動力は、均衡しようとする働きと均衡を崩そうという働きの相互作用にある。それは、複式簿記の仕組みによって貨幣の働きが双方向の働きだという事に起因する。

 また、貨幣価値は名目的な動きをする。名目的動きとは、閉じられた空間で、独立した動き、中立的な動きをするという事である。なぜならば、貨幣価値は、無次元の量であり、自然数の集合だからである。貨幣価値は、集合であり、群だと言う事である。

 投資によって金融機関から企業に貨幣は供給され、それが、企業の所得を形成し、その所得が、生産活動を経て消費や投資、貯蓄へと分流されていく。この投資と所得の連鎖が市場へ経済活動を動かしていくのである。
 また、所得に流れる資金は、家計所得、企業収入、歳入、経常収支に分配される。

 金融機関は、家計、政府、企業、海外の間に立って資金が余剰な部門から資金が不足している部門へと振り分けるのが役割である。

 貨幣の供給と回収をおさえたら次ぎに、貨幣の流通量を知る必要がある。その為には、マネタリーベースを知る必要がある。
 マネタリーベース=「日本銀行券発行高」+「貨幣流通高」+「日銀当座預金」
 IMF金融統計マニュアルでは、マネタリーベースとは、中央銀行および政府の通貨制負債であり、通貨、信用を増加させる基礎となる金融手段と定義されている。(日本銀行調査統計局)

 次ぎに国債の流通量である。国債の発行残高、国債の内訳(長期国債、短期国債、外債)借り換えを除いた国債の発行高を調べる必要がある。
 中でも、総量とその内の借り換え債の比率が重要となるである。
 更に、外貨準備高を明らかにする。なぜならば、短期国債には、為替介入の様な特定目的のための「政府短期証券(FB)」と歳入を補うための「割引国債(TB)」の二種類があるからである。

 経済主体は、第一に、「家計」。第二に、「企業」。第三に、「政府」。第四に「海外」に分けられる。
 また、経済活動は、第一に、「支出(需要)」。第二に、「生産(供給)」第三に、「収入(所得)」の三つの側面からなる

 全体を0とすると個々の部分は、全てが0にならない限り+があれば-もある。全ての国の経常収支が黒字になることも、赤字になることもない。必ず、黒字と赤字が混在し、その総和は、0になるのである。
 全ての通貨価値が上昇することはない。上昇する通貨があれば必ず下降する通貨がある。
 全体は、一で、総和は0という関係に核心がある。そして、この関係を構成する方程式に経済の基礎構造は現れる。
 一国全体で見れば、総所得、総生産、総支出は一致する。

 GNP(分配)=消費+貯蓄
 GNP(支出)=消費+投資+経常収支
 故に、貯蓄-投資=経常収支
 経常収支+資本収支+外貨準備増減=0
 貯蓄-投資+資本収支+外貨準備増減=0

 投資と貯蓄も経済全体から見るとゼロサムである。個々の経済主体別に見ると不均衡になる。
 この様な個々の経済主体の貯蓄と投資の差をI-Sバランスという。これに、資本移転の受払を加えたものが「純貸出(+)/純借入(-)」(Net Lending / Net Borrowing)である。これは、資本蓄積の原資と非金融資産取得のバランスを表している。
 各部門の「純貸出(+)/純借入(-)」は、金融取引によって調整される。金融資産の純増と負債の純増の差が「純貸出(+)/純借入(-)(資金の過不足)」である。
 国民経済計算では、資本調達勘定の実物勘定表と金融勘定表のバランス項目となっている。(内閣府)

 民間貯蓄投資バランス+政府貯蓄投資バランス=海外貯蓄投資バランス
 (家計貸借-家計投資)+(民間企業貸借-民間企業投資)+財政収支
    +資本収支+外貨準備増減=0

 純貸出= 純貯蓄+純資本移転-固定資本形成
                +固定資本減耗-在庫品増加-土地の購入
 純貸出は、言い替えれば、政府貯蓄投資バランスである。政府貯蓄投資バランスは、財政収支とも関係する。
 というよりも、政府貯蓄投資バランスというのは、財政収支に他ならない。

 財政収支=(税収+税外収入)-歳出

 単年度均衡予算主義というのは、常に、
 (税収+税外収入)-歳出=0にすると言う事を意味する。
 しかも税収と税外収入は不確定な上に歳出は、法的手続によって予算として事前に確定している。
 こうなると、財政は、一旦赤字になると黒字化することが技術的に困難になる。

 歳出=政府最終支出+公的固定資産形成+公的在庫品増加
    =行政費消費+公共投資
 歳入=歳出
 歳入=税収+税外収入+国債
 財政収支=国債

 つまり、財政収支は国債を意味するのである。

 財政赤字になると政府部門は、資金不足だと判断されるが、しかし、政府部門は、資金の供給源だと言う事も忘れてはならない。市場が拡大すれば、必然的に資金の供給量も増やさなければならない。逆に、市場が縮小すれば、資金の供給も減らす必要がでる。問題は、資金の供給の増減が原因で市場が拡大したり、縮小したりするのか、それとも、市場が拡大したり、縮小したりすることで資金の過不足が生じるのかである。どちらが是か否かの問題ではなく、何れの場合も考え得る。ただ、重要なのは、市場の規模と貨幣の供給量が不適合な場合である。

 前提は、家計部門、企業部門、政府部門、海外部門の全てを黒字にすることも、赤字にすることも出来ないという事である。そして、市場全体で見ると総和は0になるという事が前提である。つまり、何を黒字とし、何を赤字にするかの問題なのである。

 更に、家計部門、企業部門、政府部門、海外部門の赤字と黒字の総和は等しい。故に、何が赤字で、何が黒字かという点とその総和の幅が重要になる。

 ユーロのような共通通貨体制では、経常収支は、顕在化せずに、資本収支が顕在化する性格がある。

 ギリシアは、民営化によって政府部門の赤字を民間に転移し、その上で、経常収支を黒字にするか、あるいは、資本を域内から呼び込んで資本収支を黒字にするかである。
 いずれにしても行政コストは、抑えた方が良い。その為には、小さな政府にすることである。又、所得の転移は総生産を増やさないのに財政を硬直化させる傾向があるであるから、拡大再生産が期待できる、特に、公共投資社会資本を充実させるに資金を向けるべきなのである。

 政府部門、公共部門の収支は通貨の流通量の総量に関係してくるため、ただ、緊縮財政をとればいいとは決め付けられない。むしろ支出や投資の質が問題なのである。
 物価は、貨幣価値の濃度、密度に関係している。故に、物価は、公共部門の支出や投資の質の影響を強く受ける。
 補助金や年金のような所得の再分配を目的とした支出や投資は、慎重に行われなければならない。拡大再生産に結びつかず、付加価値の増大に繋がらなず、結果的に、所得の移転だけに終わってしまうことがあるからである。
 所得の再分配のような所得の移転を目的とした支出は、分配の効率を高める事に有効である。ただ、所得の移転は、市場規模の拡大や縮小に応じて拡大、縮小が出来ないと財政収支の均衡を損なう危険性がある。

 財政が本来の機能を果たすためには、第一に、単年度均衡予算主義を止める。第二に、現金主義から期間損益主義に変更するか、期間損益主義を併用する。第三に、税外収入を増やす。第四に国債の一部を資本化する。国債の一部を資本化することによって紙幣の発行量の上限を確定する。

 また、貯蓄投資バランスを問題とするならば、経常収支ではなく。資金の流れを表している資本投資を基準とすべきである。

 又、民間企業の収支から貸借と損益は、導き出される。

 景気が硬直的になるのは、財政が恒常的な資金不足に陥っていることが問題なのである。その原因は、財政の単年度均衡主義にある。公的機関も、自由主義体制では、利益を追求すべきなのである。
 財政が恒常的に赤字だから景気の変動に対して効果的に財政を発動できない。また、予算主義によって機動的に行動できないために、効果的な施策を打つ時機を失うのである。

 (家計貯蓄-家計投資)+(民間企業貯蓄-民間企業投資)+財政収支=経常収支

 国際収支もゼロサムが基本である。つまり、国際収支で重要なのは、経常収支と資本収支、外貨準備高の関係である。
 経常収支+資本収支+外貨準備高増減=0
 経常収支=貿易収支+サービス収支+所得収支+経常移転収支
 資本収支=直接投資+証券投資+金融派生商品+その他投資
        +その他資本投資
 貿易収支+サービス収支+所得収支+経常移転収支
  =直接投資+証券投資+金融派生商品+その他投資
        +その他資本投資+外貨準備増減

 重要な前提は、世界全体で見ると経常収支の総和は0になるという事である。まず、この経常収支は、全体は一つ、総和は0という関係を前提としなければならない。

 家計部門+企業部門+財政部門+海外部門=0が成り立つ関係式が重要なのである。
 この様な関係式と経常収支、資本収支、外貨準備高が世界市場ではゼロサムだという関係式を結び付けると世界経済の図式が明らかになってくる。
 特に、外貨準備高は、基軸通貨国は、赤字であることが常態化する性格がある。

 家計の貸借+企業部門の貸借+企業の貸借+海外部門の貸借=0
 この根本には、貸し借りは均衡しているという前提がある。
 同様に、家計収支+企業収支+財政収支+経常収支=0
 誰かの収入は他の誰かの支出になる。誰かの支出は、他の誰かの収入になるからである。
 貸すというのと、借りるというのは、貸す側から見ると金を貸し出すと言う意味であり、借りるというのは、借りる側から見て借り受けるという意味です。支出は、払い手が払い出すという意味で、収入は、受け手が受け取るという意味である。つまり、貨幣が流れる方向が違うと言うだけで結局、同じ運動を主体を代えてみているだけなのである。
 また、ゼロサムが成立する関係では、前期-当期もゼロサムが成立する。

 個々の部分をそれ自体で均衡させようとすると貨幣は流通しなくなり、経済は活力を失う。なぜならば、貨幣を流通させているのは差なのである。
 問題は、関係が恒常的な関係が、一時的な関係かである。経常赤字の国と経常黒字の国の関係が恒常的なものだとすると赤字も、黒字も一方的に累積することになる。
 この事は、家計と政府と企業と海外の関係においても同様である。

 貨幣の働きは、流れていく方向と量が問題となる。
 その為には、貨幣が流れた行き行き先毎、即ち、家計、財政、民間企業、そして海外のどちらの方向にどれだけ流れているのかを明らかにする必要がある。
 また、貨幣が実物市場に流れているのか、貨幣市場に流れているのかが、経済の状態を知る上では鍵を握る。適正な量、貨幣が実物市場に供給され、流通していないと市場は正常に機能しなくなる。

 国内総所得を見る時、人口の増加、即ち、世帯数の推移を見ることは重要である。世帯は所得の基礎となる単位だからである。つまり、世帯数が増えれば所得も増えなければならないのである。

 家計部門では、可処分所得が企業における収益を構成する。
 例えば、家計部門で借入を興す場合、担保されるのは、定収である。
 貨幣空間では、全体的に見ると基本的にゼロサムを前提としている。
 複式簿記的空間はその典型である。

 家計は、その国の消費性向を表している。つまり、消費は文化である。

 注意しなければならないのは、必需品が供給不足に陥ることである。なぜならば、インフレーションやデフレーションは、人、物、金の需給の不均衡によって引き起こされるからである。貨幣が過剰に供給されただけでは、インフレーションが起こるとは限らない。

 更に、財政状態を知るために、歳入と歳出の内訳を知らなければならない。財政の入口は歳入、出口は、歳出である。再配分の働きは、市場の偏りを是正することにある。
 歳入は、税収、税外収入、国債からなる。
 歳出は、公共投資、行政費用。国債の利払いと返済からなる。これらによって資金の流れを掴むのである。

 期間損益主義に基づけば、貨幣の働きによって生じる要素は資産、負債、資本、費用、収益の五つに分類される。

 民間では、借入金、資本、利益によって調達した資金を資産を介して収益によって回収し、費用で分配する。
 収益の内訳は、仕入れ原価、労務費、経費、償却費、そして、利益である。
 償却費と利益で借入金の元本を返済する。利益と償却費が不足すると借入金は増加する。

 利益は、税と配当、長期借入金の元本、報酬に分解される。費用の中の償却費は借入金の元本の返済に充てられる。

 期間損益主義で見た場合、は、財政も同じである。
 ただ、財政と民間では、個々の要素を形成する部品には違いがある。
 例えば、財政上の収益は、税収と事業収益である。

 税制を構成する税の多くは、単位期間など一部の税を除いて単位期間内に一回転しかしない。それが事業収益との違いである。

 収益を決めるのは、量と回転である。
 単位期間内において一回転しかしない税収によって国家収益を高めるのは限界がある。国家収益あげるためには、回転率の高い税制を導入するか、事業収益の比率を高めることを考えるべきである。

 ギリシア問題では、財政再建に民間の資金を導入しようとして反撥を受けている。
 民間金融機関にとって公共機関は、最も安心して融資できる相手であるはずである。
 ただし、公共事業を事業として認知することができればと言う前提である。公共事業を事業として認知できないから民間の金融機関は、融資を渋るのである。

 資本主義経済の担い手の一つは、民間企業である。企業は資金と財を動かす機関としての役割を果たしている。企業が機能しなくなると資金は環流しなくなる。企業に資金を供給しているのが金融機関である。金融機関は、経済の大動脈だと言える。

 企業会計上において、総資産が拡大する方向に動けば、運用の側に資金は環流し、収縮する方向に動けば、資金は調達側に逆流する。この動きが経済に対して決定的な働きをもたらすのである。

 企業は、投資と返済を繰り返している。投資の流れと、返済の流れは必ずしも連動しているわけではなく。企業が置かれている環境によって変化する。

 投資は、市場の入り口にある。収益は、市場の出口にある。なぜならば、収益は、返済や配当、費用の原資として使われるからである。

 貨幣価値は、取引を経由して発生する。取引が成立すると同量の現金と債務と債権が生じる。現金は、一旦、運用先の手に渡り、それが収益を経て回収される。回収された資金は、資金の調達元に支払われる。即ち、返済に充てられる。資金は取引を通じて現金化され、経済主体の間を循環した後、回収される。
 資金は、収益によって回収される。収益の一部は費用として支払われ、市場に出回る。貨幣は、発行元に回収されることによって清算される。

 資金の使い道によって資金の流れる方向が変わるのである。

 将来の支出に備えて貯蓄するか、今、消費するか、将来の収入をあてにして借金をするか。貯蓄をすれば資金は、預かり手には負債、預け手には、投資として表れ、消費をすれば企業には、収益として表れ、借金をすれば、貸し手には投資、借り手では、負債として現れる。

 家を購入した場合を、考えてみればいい。家を買った時は、資金を銀行から借り、その後、収入によって定期的に資金を返済することになる。つまり、市場に資金が流れるのは、家の代金を支払った時だけで、後は、金融機関に資金は回収される流れだけが残るのである。
 投資が一巡した後は、資金は、回収の側に流れるのである。

 貨幣価値は、取引によって発生する価値である。取引によって貨幣が市場を循環することによって市場の内部に貨幣価値による圧力が生じる。その圧力によって経済価値は保たれるのである。貨幣が市場に循環しなくなれば、忽ち、圧力が減少し、経済は、活力を失う。

 収益によって回収が進んでも再投資に向かわなければ、資金は市場に環流しない。



量的拡大は質的変化を伴う。


 月、50ドルで生活できる国と5,000ドル稼がなければ生活が成り立たない国とを同じ基準で測ることは馬鹿げて事である。
 ところが、産業によっては、同じ土俵で争わなければならなくなる。
 それで公正な競争云々と言ってもはじまらないのである。重要なのは、競争するにしても同じ条件で競争できるようにしなければ公平とは言えない。
 とくに、ローカルな市場を土台とした産業では、一定の条件を競えるように市場を設定しておくべきなのである。

 国際収支は、基本的にゼロサムである。
 個々の国の経済の実体は、経常収支がよく表している。逆に言うと経常収支をよくすることがその国の経済をよくすることにも繋がる。経常収支をよくすると言うことは、単に、経常赤字をなくせばいいという事ではない。

 経常収支を改善するためには、経常収支の構成を見て、何を黒字にしていくかを考える必要がある。

 資源を持つ国と資源を持たない国とでは、経常収支の有り様は違う。自前の資源を持たない国は、他の国から資源を調達してこないと国が成り立たなくなるからである。少資源国にとって交易は死活問題に直結している。

 少資源国が成り立つ為には、幾つかの型がある。その型を幾つか上げてみると日本型、英国型、スイス型、モナコ型、ハワイ型、シンガポール型、学園都市型等、特定の型がある。

 経常収支=貿易収支+サービス収支+所得収支+経常移転収支

 経常収支の中の貿易収支を核とした型が、日本型である。日本型というのは、原材料を輸入し加工した上で輸出する型である。

 金融を重視する国には、英国やスイスがある。

 金融を重視する型とは、経常収支の中の、所得収支を重視した型である。所得収支は、対外純資産の増大や海外現地生産の拡大によって上昇する。

 経常収支の対極には、資本収支がある。

 資本収支=直接投資+証券投資+金融派生商品+その他投資
        +その他資本投資

 スイス型とは、金融や技術立国を言う。
 金融収支を基盤とした型がスイス型であるが、スイスは、精密機械のような加工貿易も盛んであり、その意味では、均衡がとれた経済体制と言える。

 モナコ型は、エンターテイメント立国型、即ち、サービス収支を核とした型である。同様にサービス収支を核とした型にハワイ型がある。ハワイは、リゾート立国の型である。シンガポールは金融と交易を組み合わせた形である。学園都市型とは、大学や知的所有権に基づく立国である。
 いずれにしても成熟した市場を前提とした産業を構築しなければ、経常収支は均衡しない状態が続くことになる。

 少資源国では、元々、資源による収入が少ないのだから、サービス産業に基盤を置かなければ産業は成り立たない。つまり、小さな政府と活力のある民間企業を基礎として国家を建設する必要がある。

 ギリシアのような国は、人口が少なく、資源に乏しい国は、政府を小さくして民間の経済に比重を置く必要がある。

 少資源国では、政府が大きくなりすぎるのは、経済的に好ましくない。なぜならば、政府の行う仕事は、市場性が乏しく効率が悪いからである。なるべくならば、政府は小さくして、市場を活性化した方が良い。なぜならば、少資源国は、海外の変動の影響を受けやすいからである。環境の変化に柔軟に対応するためには、硬直的な部分を最小限に止めた方が効果的である。大体、単年度均衡主義を財政がとるのは間違いである。景気の変動に合わせて行政は機動的に動く必要があるからである。景気が良くて税収が多い時は、緊縮的政策を採り、景気が悪い時には、拡大的政策をとる事が原則である。つまり、市場の動きとは、正反対の反応をしなければならない。その為には、景気が良くて税収が多い時には、内部留保を蓄え、景気が悪くて税収が好くない時に、資金を市場に放出する必要がある。行政こそ、利潤を追求する必要があるのである。

 生産技術が進歩すればするほど、経済が衰退する。それは、生産に偏りすぎた体制だからである。経済は、生産だけで成り立っているわけではない。経済というのは、本来、生きる為の活動を言う。消費や労働、分配も重要な要素なのである。現代の市場経済の問題点は、生産に偏りすぎて分配を軽視している点にある。
 市場、市場と言うがそれは、生産者側から見た市場に過ぎない。
 消費者側から見た市場の在り方、即ち、消費経済の確立がなければ、経済は早晩成り立たなくなる。

 日本には、資産家の貧乏人が多くいる。資産家の貧乏人というのが、現代日本のみならず先進国の置かれている状況を象徴しているのである。
 資産家の貧乏人というのは、資産はあるけど、収入が少ないか、決まった収入がない。
 支出を収入で賄えない部分は、借金で補うしかない。収入がえられなければどんどんと借金が増えることになる。
 収入が確保されない反面において固定的な支出が増えて、可処分所得が減っていく。固定的な支出を構成するのは、ローンの支払い、税金や公共料金、医療費、社会保険料などである。
 また、たとえ、名目的な収入は増えても、実際に使えるお金(可処分所得)は限られているのである。なぜならば、堆積物の様な固定的な負債が累積しているからである。

 景気が悪くなり収入が悪くなった時、地価や株が下落して担保割れしたからといって借入金の返済を強要されたら、たまったものではない。それがバブル崩壊後に現実に起きたことである。

 もっと悲惨なのは、バブルの時代に首都圏に居住する者の多くは、法外な地価の上昇に悩まされた。地価の上昇に伴って資産家にはなったが、現に住んでいる家を売るわけにもいかず。かといって莫大な相続税を支払わなければならなく事が予測された。そこで、借金をして資産を購入し、資産価値を相殺する手段がはやったのである。その後で、バブルが崩壊し、莫大な借金だけが残った。この図式は、サブプライム問題の時も似たような形で現れている。

 元々、今の経済の仕組みでは、資産があるという事は、負債があることを前提としている。一見、借入をしていないような資産でも、相続の時に相続税という潜在的負債が顕在化する。

 早い話、景気を良くしようと思ったら、企業が儲かるようにすればいいのである。ところが、不景気になると企業はなかなか儲かるようにならない。それは、ストックとフローの関係に原因がある。

 経済は、基本的には、ストック(固定)とフロー(流動)の問題に行き着くのである。
 ストックの部分とフローの部分を区分したのが期間損益主義である。それまでは現金主義によっていたのである。
 企業では、ストックが貸借の部分を形成し、フローが損益の部分を形成する。ストックは、長期的働きを形成し、フローは、短期的働きを形成する。家計において収益にあたる部分を構成するのが可処分所得である。

 可処分所得を圧迫する要因は何か。それは長期借入金の返済、社会保険料、税金である。これが意味するところが問題なのである。つまり、過去の借金の累積、社会的義務、そして、税金である。

 例えば、家計で定収が得られるようになると自動車ローンや住宅ローンなどの長期負債が可能となる。長期負債を背負うとその返済によって可処分所得が圧迫されるが、家賃と相殺され、痛みを和らげる。長期負債は徐々に蓄積されて可処分所得を圧迫するようになる。それでもインフレの時で、収入の上昇が、ある程度見込める場合は、緩和されるが、デフレになり、給料が下がったりしたら家計を維持することは大変である。こんな時に安定した収入が途絶えたら破産するしかない。

 この事は企業にも言える。期間損益に置き換えてみると収益、費用、資産、負債、資本の均衡が破れ負債だけが膨れあがっていく状態なのである。収益が確保されない反面において固定的な費用が増え、累積的な借入金が増えて、自由に使える金、投資に回せる金が減っていく。

 過剰設備、過剰人員、過剰借入で思う様に、費用が収益に見合わなくなっているのである。収益に見合わない部分を借入で賄おうとするが、担保する資産が不足する。その為に、資金繰りがつかなくなる。挙げ句に、利益も確保できなくなる。例え、会計上、利益を計上できたとしても資金不足に陥って倒産する。黒字倒産である。
 つまり、金が廻らなくなって、利益が確保されずに債務不履行を引き起こすのである。

 生産性か、分配か、収支か、利益率か、何を基準として考えるかによって経済性や経済効率の意味も変わってくる。

 百人で一億円の利益を上げる企業と千人で一億円の利益を上げる企業ではどちらが経済的かというと生産性から見ると前者だが、分配面から見れば後者である。千人で一億円の利益を上げるというのは、千人の所得を賄いながら尚かつ一億円の利益を上げることを意味するからである。

 無制限に所得を分配することは、無制限に財を分配すること、無制限に財を手に入れられることを意味する。それは貨幣の働きを否定する事になる。つまり、無制限に財が手に入れられるのならば、お金なんてあってもなくても同じ事を意味するのである。それでは貨幣は機能しなくなる。

 世帯数が増えれば所得も増えなければならないのである。

 家計において企業の収益に相当する部分が可処分所得である。可処分所得を式に表すと、
 可処分所得=名目所得-長期借入金の返済-社会保険-税

 家計の「貯蓄」は可処分所得から消費支出を差し引いた残りはである。つまり、可処分所得は「最終的な消費支出と貯蓄を合計した値」と言える。
 可処分所得のうち、最終消費支出へと回った額の比率を「消費性向」、家計の貯蓄へと回った比率を「貯蓄性向」という。

 企業の可処分所得に相当するのが収益である。ただ、収益は、費用の中に減価償却費等が含まれるために、厳密な意味で可処分所得とは言い切れない。しかし、家計における可処分所得は、基本的には、収益に相当する部分と言っていいと思う。

 固定費は、付加価値を形成する。変動費は、原材料、即ち、生産財を意味する。
 無原則な過当競争は、無原則な固定費の削減を強要する。
 固定費の削減は、付加価値の削減を意味する。付加価値の削減は、市場を収縮させる。即ち、拡大均衡から縮小均衡へと転換させるのである。
 固定費と変動費を分けるのは、その効用が長期に渡るか、短期に発揮されるかにある。固定費は、効用が単位期間を越えて及ぶ費用を言う。故に、この様な固定費の削減は、長期的資金の働きに影響をする。

 今のマスコミの多くは、単に固定費を削減し、収益を改善した企業を筋肉質なき行になったと褒めそやすが、ただ生産効率ばかりを追求し、固定をギリギリまで削減する事が企業が社会的責任を果たしている事になるというのは短絡的である。企業は効率よくすることばかりが役割ではないのである。企業の重要な役割の中の一つに分配機能があるのである。

 個人収入を考える場合基準となるのは、住宅の価格が個人の年収の何年分に相当するか、又、自動車や家電、家具などの耐久消費財の価格の何ヶ月分に相当するかである。それらは、家計における負債を構成するからである。

 借金は、負の預金とも言える。社会全体から見ると借金は負の働きばかりではなく、投資という正の働きもある。現代市場経済の半分は、借金によって成り立っているという事が言える。個人も、企業も、国家もいかに借金を制御し、共存するか、その為の技術が問われているのである。

 個人収入と企業収入、国家収入は違う法則に従っているように思われるが、基本的には同じ原理で動いている。認識する時の論理が違うだけで、基本的には現金の動きに依るのである。

 基本的には、収益と費用、資産、負債、資本の働きを規制するのは、現金の動きである。故に、最終的には、ベースマネーとGDPの比率が重要となる。

 現代の市場経済は、個人収入と企業収入、国家収入によって成り立っている。企業収入は、利益によって成り立っている。利益は会計の論理による。会計の論理の基礎は、収益である。
 利益が確保されないのは、市場の仕組みに問題があるからである。

 要するに、市場経済では、個人収入と企業収益が保てなくなることが最大の問題なのである。

 早い話、景気を良くしようと思ったら、企業が儲かるようにすればいいのである。

 問題は、収入を保てなくなる原因と支出の内訳、性格にある。
 国家収入の源泉は、個人収入と企業収益である。個人収入の源泉は、企業収益である。企業が収益を上げられなくなれば、国家収入も個人収入も維持できなくなる。企業収益は市場取引に基づく。つまり、企業が適正な収益を確保できなくなるような市場の仕組みが問題なのである。

 個人収入と企業収入、国家収入の配分と比率が重要な鍵を握っている。

 市場が成立する要件、前提条件は、第一に、複数の買い手の存在である。第二に、複数の売り手の存在である。第三に、貨幣が市場に流通していることである。第四に、決済制度が確立されていることである。第五に、市場を規制する法と契約の存在である。第六に、財が供給されている事である。第七に、所得が確保されていることである。

 量的拡大は質的変化をもたらす。
 市場の成熟に伴って少品種大量生産型から多品種少量生産型へと質的な変化が求められるのである。
 
 費用を構成する要素が製造に関わる要素からサービスに関わる要素に質的な転換を図ることが重要になる。又、費用の変化に伴って産業も単純労働から熟練労働へと質的な変化をすべきなのである。

 ところが現代の市場経済は、この様な変化から見ると逆行している。生産性や効率性ばかりを追求する結果、労働から人間性を排除しているのである。それは、量から質への転換がうまくいかずに、換えって量的な効率のみを追求した結果である。

 収益を維持するためには、市場の規律が保たれる必要がある。市場の規律が保たれなくなれば、収益は維持されなくなるのである。

 何が市場の規律を失わせるのか。

 市場の規律を保つ要因には、収益の要因、費用の要因、資産の要因、負債の要因、資本の要因がある。そして、市場の規律を保つ要因は、即ち、市場の規律を失わせる要因でもある。

 収益や費用、資産、負債、資本の働きにおいて重要な要因は、一つは、長期か、短期か、もう一つは、固定的であるか、変動的であるかである。
 長期的働きか、短期的働きかの基準は貸借と損益を区分する、即ち、期間損益を測る基準である。
 そして、期間損益では、費用対効果に還元される。
 又、資金の働きを見るためにも長期と短期、固定と変動の視点が重要となる。

 費用の性格や構造によって収益や資産、負債の在り方、そして、産業の在り方も違ってくる。

 費用の在り方は、その国の産業の在り方の土台である。費用の在り方は、産業の在り方をも決めるのである。

 収益の要因は、基本的には、価格要因である。
 価格は、費用構造の要因と市場の要因がある。数量要因の中で、物的要因には、生産手段、即ち、資産の問題がある。
 価格要因には、単価要因と数量要因がある。数量要因には、物的要因と人的要因がある。
 単価は、費用構造によって決まる。費用の性格を決めるのは、原材料の性格と付加価値の構成である。
 費用の性格を決めるのは、第一に、固定的か、変動的か、第二に、長期的か、短期的かである。
 付加価値は、地代、家賃、金利、人件費、減価償却費である。これらは基本的に固定費を構成する。

 地代、家賃、減価償却費の基となるのは、固定資産である。これらの比率が高い産業は、資本集約型産業である。資本集約型産業は、初期投資の段階で総費用が確定する。
 それに対して労働集約型産業は、経済環境によって費用は左右される。

 この様な資本集約型産業や労働集約型産業の他に知識(情報)集約型産業が台頭してきている。

 費用の構成が、その費用に連動する産業や市場の在り方を規制している。

 拡大均衡段階の市場においては、負債による負担が軽減されるのに対し、縮小均衡段階の市場では、負債の負担が増加する。

 所得水準が高い市場では、結局、労働分配率が高まる傾向がある。そして、世界市場は、一定の、購買力、即ち、所得水準に均衡していこうという性格がある。
 いずれにしても、高い所得水準を保とうとしたら、例外なく、高度な技術や能力が要求されるのである。

 固定費用に対する内外価格差が重要な力を及ぼしているのである。

 費用構造は、内的構造であり、市場構造は外的構造である。

 外的構造である市場構造には、物的構造と人的構造、貨幣的構造がある。
 物的構造は、生産と流通、消費からなる。
 人的要因は、一人当たりの所得の問題と人口問題がある。
 貨幣的要因は、貨幣の流通量と流通速度である。

 一定の利益を維持しようとしたら、個々の費用の要素がどの様な要素と連動しているかを知る必要がある。例えば、石油業界は、当然、原油価格や為替の変動に連動している。

 生産財の市場と労働市場を同一視するのは、危険な思想である。大体、労働市場と言うが、市場と言っていいかどうかも解らない。労働市場と今言われている場は、組織的、体系的市場であり、相対取引の場とは明らかに異質である。
 また、労働は、質の違いの問題が大きい。労働は、単純労働に還元できない部分を持っている。又、互換性がある労働とそうでない労働がある。又、単位時間と言った何等かの基準によって一律、一様に測定できるものでもない。
 労働は、単純労働だけではなく。ある程度の経験や熟練度を要する労働、又、専門知識や技術がなければ出来ない労働、個性を要求される労働、資格や免許を必要とする労働、肉体労働と知的労働、あるいは、定型的な労働と不定型な労働と、労働の成果は、一律、一概に評価測定することが困難なものである。又、労働の成果は、主観的な評価による部分も多い。
 ただ単に労働を量として捉えているだけでは、労働の本質は理解できない。労働は、量と質から捉えるべきものであり、単位時間×作業時間と言った単純な関数に置き換えることは出来ないのである。

 市場は、原子炉内部の反応に似ている。つまり、取引の連鎖によって動いているのである。
 取引も交換取引、決算取引、資本取引だけでは付加価値は発生しないのである。付加価値を発生させるのは、損益取引によって利益を生みださなければならない。
 経済政策で重要なのは、所得の転移をもたらす施策か拡大再生産をもたらす施策かである。
 所得の転移、すなわち、所得の再分配は資金の効率を高める。しかし、価値を増殖するわけではない。価値を増殖するためには再投資を促す施策、即ち、拡大再生産を促す施策が必要となる。
 例えば、補助金によって資金をばらまいたとしても、「お金」が、投資、消費に廻らず貯蓄や借金の返済、納税に廻ったら経済に実態的な効果をもたらさない。
 しかもそれが国家の負債によって賄われていたら累積的に国家債務を増やすだけに終わってしまう。




経済が機能しないの理由


 なぜ、今、経済が円滑に機能しないのか。それは企業が利益をあげられなくなってきているからである。

 市場は統一された場ではない。幾つかの場が組み合わさり、あるいは重なり合って市場全体を形成している。
 市場を構成する場の動きも単一ではない。拡大成長している場もあれば、縮小均衡している場もある。故に、経済政策は、それぞれの場に適合した施策でなければならない。一律一様の施策では経済の変から対応しきれないのである。
 特に、経済の基盤となる市場の多くは、成熟し、停滞期にある市場であることを忘れてはならない。
 拡大成長期にある市場ばかりを前提とし、又、基準として、一律、一陽の施策を講じれば、経済の基盤となる市場を荒廃させ、破壊してしまうことになるのである。そうすると市場の底割れと言った状況が生じる。
 成熟し、停滞期をむかえた市場では、無原則な競争が成り立たない場合があるのである。

 そう言う意味では、コモディティとか衰退的市場と見られている伝統的産業、即ち、成熟した既存の市場の動向が経済全体に及ぼす影響が重要になってくるのである。ところが、現代は、変化、即ち、拡大成長を続ける新興市場のみを基準として経済施策が採られる。成長や拡大の要素もない市場を無理に歪めてでも変化を導入しようとする。その為に、市場の規律が失われ、荒廃してしまったとしてもである。その結果、経済の地盤沈下が起こっているのである。
 景気を回復するためには、疲弊した市場の秩序を回復する必要があるのである。大切なのは、市場の規律である。

 市場の荒廃は、市場の機能不全を引き起こす。
 市場の規律を守ることと保護主義とは違う。関税を引き上げれば、市場の規律が守れるというものではない。

 市場の原理として競争を絶対視する傾向があるが、市場の働きは、競争にあるわけではない。競争は市場の働きの一部である。
 市場の働きは、第一に分配機能にある。第二に、価格決定機能にある。第三に、価格の平準化。(価格のバラツキを平準化する)。第四に、需要と供給の調整にある。第五に、資源(人、物、金)の調達、貯蔵、流通、管理。第六に、財や労働、生産手段の品質保証。(安全や保守、技術などを含む)第七に、環境保護。第八に、生産量の調節。第九に、消費者保護。第十に、雇用の創出と維持。定収入の確立。第十一に、投資の促進と調節。第十二に、信用制度の確立。(負債の保障)。第十三に、取引のルール化と規律維持。第十四に、貨幣の信認と流通。第十五に、産業の保護育成。第十六に、非効率な産業や経営主体の淘汰、第十七に、内外価格差や為替変動の調節である。

 第一の分配機能とは、財と貨幣との交換を通して財の分配を促す働きである。第二の、価格決定機能とは、市場取引を通してその時点での財の貨幣価値を決定する働きである。第三の、重要と供給の調整機能は、需要と供給を調節することを通じて生産や消費を制御する事でもある。
 競争は、価格決定機能の中の一つの働きであり、競争の役割は、競争を通じて適正な価格を決める事にある。つまり、競争の目的は適正な価格を決定することにある。逆に言えば、競争が適正な価格を阻害する場合は、競争はかえって弊害になる。

 市場の働きで持つとも重要なのは、分配機能である。分配機能とは、市場取引を通じて財を分配することにある。
 市場で適正な分配が実現するためには、貨幣が、市場の参加者に万遍なく行き渡っている必要がある。貨幣は、市場において財と交換する権利を表象した物である。

 貨幣価値だけが市場価値を決めるわけではない。貨幣価値だけが市場価値を決める体制が問題なのである。市場価値を決めるのは、消費者の価値観である。消費者の価値観は、貨幣価値だけで推し量ることは出来ない。
 ただし、市場価値は、最終的には、価格に還元される。価格は貨幣価値によって表現される。その為に、市場価値を決定する要素は貨幣価値だけだと錯覚するのである。価格は、貨幣価値によって表現されるが、価格を決定する要因は、金銭的動機だけではないのである。
 確かに、市場価値は価格に反映される。しかし、競争の要素は、価格だけに限定することは出来ない。
 価格以外にも品質、デザイン、性能、メンテナンス、新鮮度等、市場競争をすべき要素は沢山ある。それが価格だけが全てであるような考え方をするから、価格以外の要素が打ち消されてしまうのである。

 市場競争が適正な働きをするのは、適正な価格を形成するという点においてである。
 公正な競争は、公正なルールがあって成り立つことを忘れてはならない。ルールがない無原則な争いは、競争ではなく、闘争であり、喧嘩である。最終的には殺戮に繋がる。戦争にすらルールがあるのである。
 ルールとは、規制である。規制を緩和すれば、公正な競争が保障されるわけではない。
 無原則に規制を緩和することは、単に闘争を煽ることであり、公正な競争を保障することではない。現に規制を無原則に緩和した市場は、荒廃し、結局、寡占、独占を促す結果を招いているのである。

 公正な競争が成り立つためには、前提がある。前提とは、適切な会計処理がされているかという点と経営主体が採算を度外視した販売をしないと言う点である。これらの前提が守られれば競争は、最大限の効率をもたらすはずである。しかし、この原則は往々にして破られる。大体、利益の客観的基準がないのだから、最初から公正な競争をしようがないのである。各々がルールを勝手に解釈しても許されるようなものである。

 無原則な競争は、企業収益を圧迫し、資金の流れを悪くする。血の巡りが悪くなるのである。

 市場の役割で重要なのは、価格調整を通じて付加価値を維持することである。適正な価格は、適正な費用の裏打ちがあって成り立っている。ただ安ければ良いという発想は、貨幣価値の本質を理解していないのである。根拠のない廉価は、貨幣の信認を貶めているだけである。

 競争ばかりを奨励する施策は、結果的に、企業収益を悪化させ、資金の流れを遮断している場合が多い。
 競争は規制によって成り立っている。経済の情勢によって規制の有り様は調整されるべきであり、規制は是か否かという議論は、それ自体が矛盾しているのである。状況によっては、規制は緩和されるべきであり、規制は強化されるべきなのである。又、同じ状況でも規制を緩和すべき業界と規制を強化すべき業界があるのである。規制を緩和することを絶対視すること自体、危険な思想なのである。

 市場は、人工的仕組みであって自然に成った場ではない。市場が仕組みであるならば、市場が正常の作動するためにはいろいろな安全装置を必要としているのである。

 現在の市場経済は、定職、定収を前提としている。定収、定職が確立されることによって成り立つ信用制度が基盤にある。故に、定職体制が崩壊すれば途端に瓦解することになる。
 例えば、我々が住宅を購入しようとした場合、その際に、住宅ローンを組む為には、定職につき、定収入があることが前提となる。失業し、定収入が得られなくなると途端にこの構造は破綻する。返済が滞った場合、ローンそのものの全額返済や担保物件の処分が要求されることになる。
 問題は、収入なのである。それも一定の収入なのである。いくら生活費を切りつめ、蓄えを取り崩しても、収入が得られなければ、問題は解決されない。
 企業経営も、財政も、同じ構造を持っている。故に、収益を改善しない限り、問題は解決されないのである。

 所得や収益の背後には、購買力の問題が潜んでいる。所得の効用は、購買力を根源としている。いくら、所得があっても購買意欲がなければ消費には結びつかない。又、消費者が望む財、安心して購入できる財が供給されなければ、購買力意欲は向上しない。ただ、単に生産性の問題だけではないのである。
 むろん、所得を保障する雇用の質の問題もある。雇用の質が劣化すれば必然的に経済は不安定になるのである。

 観光業が成立するためには、一定量の観光客の存在を前提とするのである。一定量の観光客の存在を前提とするためには、旅行に対するニーズや意欲が必要なのである。更に、観光旅行ができる環境を整える必要がある。つまり、旅行ができる環境を前提とし、旅行をしようとする意欲がなければ、観光産業は成立しない。
 しかも、観光に対するニーズが顕在化していないで潜在化している場合は、その潜在的な需要をどう見積もるか、又、どの様な手段によって顕在化させるかが、鍵を握っているのである。
 失業していて、旅行どころではなく。又、観光地も荒廃していて見るべきところがない。サービスも悪いでは観光産業は育成できない。そんなところに、いくら投資しても投資の効果は期待できない。そうなると負の部分が実体経済を侵蝕してくるのである。

 名目的価値と実物的価値の非対称性が今日の貨幣経済を形作っている要素である。名目的価値と実物価値が非対称だから貨幣が流通し、利益も成立し、又、問題も生じるのである。

 通貨がどちらから来てどちらの方向に流れていくのか。

 流れる方向は、収支という形で現れる。収支とは収入と支出である。通貨は、収入として流れ込み、支出として流出する。収入は所得である。
 所得は、家計、企業、財政、経常収支へと分岐して流れる。

 第一に民間企業に収入として流れ込んだ通貨が支出として流出する。その際、支出が返済に向かうか、投資に向かうか。
 家計の支出が消費に向かうか、投資に向かうか、貯蓄に向かうか、借金の返済に向かうか。それが肝心なのである。

 投資というのは、最初に、資金を調達し、資産を手に入れることを意味する。資金を調達するというのは、負債という形をとろうと、資本という形をとろうと債務を負うことには変わりはない。
 投資は、その性格上、投資が成立した時点から債務と債権の非対称性が顕著となる。
 問題は、資産の下落である。資産は、土地の様な一部の資産を除いて所有権を獲得した時点から劣化する。資産が問題となるのは、債務が資産を担保しているからである。収入によって債務の返済が保障されている場合は、問題が表面化しない。しかし、収益が悪化すると不良債権として表面化してくるのである。

 民間投資を促すのは、本来金融機関でなければならないのである。公共の直接投資ではない。公共投資は、ある意味で触媒である。

 三億円を投資するというのは、三億円の資産を手に入れると同時に、三億円の資金をどこからか融通してくることを意味する。この点を忘れてはならない。そして、三億円の資金を調達すると言う事は、三億円に対する返済義務、つまり、債務を負うと言う事である。これは資本でも同じである。この返済は、基本的に収入の中から捻出されるべきものである。ここで重要なのは、収益ではなく、収入の中から捻出しなければならないと言う点である。
 問題は、借入金の返済資金が収入によって賄えなくなると負債が増大するか、資金繰りが破綻するかだと言う事です。長期借入金の返済額を上回るような利益を上げられるかどうかが、総資本の動向を左右するのである。尚かつ、収益が悪化した時に、長期借入金の元本の返済を迫られれば、経済は成り立たなくなる。
 問題は、収入と支出にあるのです。
 期間損益では、収入は利益に基づきます。利益は、収益と費用の均衡によって成り立っている。結局、一定期間内における収入と支出の不均衡を是正するために、収益と費用が設定されたのである。そして、期間損益の過不足を長期的資金の有り様によって均衡を保とうと言うのが期間損益主義である。
 期間損益の期間となるのが収益と費用である。つまり、収益と費用の均衡が保てなくなると経済は成り立たなくなるのが期間損益主義なのである。
 ところが、個々の産業や経営主体は安定的な収益を恒常的に保つことが難しい。だからこそ、政治の働きが重要となるのである。

 収益が悪くなれば、再投資の道も閉ざされることになる。つまり、収益は、資金の通り道といえる。収益を悪くする要素は、資金の流れを阻害する要素でもある。いわば、市場のコレステロール (cholesterol) である。
 現代の経済は、いわば血栓ができて血液の通りが悪くなっているようなものである。血栓ができて資金の通り道がふさがり、その結果、金融市場や先物市場に貨幣がたまり、膨張し、最後に破裂するのである。いわば経済の脳梗塞のようなものである。
 実物市場への資金の流れが遮断され、金融市場に資金が退寮し、その資金が膨張して破裂したのが金融危機である。

 なぜ、公共投資として土木や建築がいいのかというと投資や消費を前提とした事業だからである。即ち、回収を目的としていない事業だと言う事である。建築や土木は、収益を目的としていない事業だと言う事である。

 経済的時間価値の基準は金利である。金利は、時間的価値の指標である。そして、金利は、時間的な価値を創出する。つまり、会計を基盤とした経済体制では、金利は経済的変化に決定的な働きをしている。

 今日、日本は、金利が限りなく零に近い状態に置かれている。それは、時間的価値が消失していることを意味する。つまり、経済基盤から変化の原動力が失われているのである。その点を考慮しないと現代の経済情勢は、説明が付かない。

 金利は、地価の変動や所得の変化、物価の動向、為替の動向に作用する。結果的に企業収益にも影響を及ぼす。金利の動向は、経済の動向を左右するのである。

 経済的価値を決める要素には、金利の他に利益や所得の上昇率等がある。
 利益や所得の上昇率は、複利で上昇することを忘れてはならない。時間的価値というのは、本来、単位期間対して作用するものであり、必然的に複利によって上昇するのが原則なのである。

 金利と利益の力関係によって資金の流れ方向は変わる。
 金利は、負債が費用に転じる過程で生じ、利益は、資産が収益に転じる過程で生じる。

 資金の流れには、投資(運用)の流れ、回収(調達)の流れ、会計(償却、借入、増資、金利、税務等)上の流れの三つの流れがある。そして、この流れを左右するようには、第一に、金利、第二に、収益、第三に税金がある。金利は、通貨の総量と通貨価値に依存している。収益は、物価と償却力に依存している。税は政策による。これらの要素が貨幣の流れる方向を決めるのである。

 貨幣経済において経済を牽引するのは、現金の流れである。現金の働きを知るためには、現金の流れる経路が重要となる。
 そして、現金の働きは、現金の流れる量と方向、速度、範囲によって決まる。速度は視点を変えると回転を意味する。
 貨幣が市場に供給される手順は、発券機関が公共機関や金融機関に貸し出す、それを金融機関や公共機関が投資する事で市中に貨幣を供給する。投資は、資産に転じ、資産は、費用に転じる。費用として支出された資金は、収入と所得になる。収入と所得は、消費、貯蓄、借金の返済、税へと分配される。貯蓄や税は再投資されて市場に環流される。借金の返済は、清算される。その上で、消費や再投資は、収益に還元され、費用として再分配される。この繰り返しが市場の仕組みを維持しているのである。
 貯蓄にせよ、借入金の返済にせよ金融機関に回収されることには変わりはない。市場に環流されるのは、消費した部分である。
 市場の仕組みは、現金が環流することによって維持されている。現金の流れが止まると市場の機構は破綻する。
 経済を牽引するのは、通貨の流れなのである。そして、通貨が市場に流通する量の最終的な基礎は、収入であり、所得にある。
 収入や所得は、量と回転が重要となる。つまり、所得で言えば支給額と支給回数である。
 税は、公共投資と所得の再分配に向けられる。所得の再分配で重要なことは、国内総所得に占める割合である。所得の再分配に資する比率が高くなる。即ち、一人の所得でかかる再分配に要する比率、社会全体の生産に寄与している働き手が人口が人口全体に占める割合が重要となる。なぜならば、所得に占める税の比率が高くなれば、必然的に一人当たりの所得を高い水準を維持する必要が生じるからである。少子高齢化の問題は、所得と分配の問題に還元される。

 経済的価値は、複数の制約によって構成される。単一な要素によって決められるものではない。個々の部分の相互作用によって全体は形成されているのである。

 現代経済は、最終的には、資金の流れに収斂される。
 例えば、企業経営は、投資による資金の流れ、返済による資金の流れ、経営活動による資金の流れの均衡上において成り立っている。それがキャッシュフローである。資金繰りが破綻すれば企業は継続できなくなる。企業は、社会的な働きができなくなるのである。その点を理解しなければ、市場経済を理解することはできない。
 経営も、経済も連立方程式なのである。経営も経済も、必要とするものと供給するものと貨幣の量、そして、時間と距離の関数なのである。

 経済的価値で重要なのは、固定的な部分と変化する部分を見極めることである。そして、固定的な部分と変化する部分を位置付け、その上で固定的な部分と、変化する部分との関係と相互の働きを理解することである。それが会計の仕組みである。そして、会計は、数学の一つの分野でもある。

 実際に流れている資金の量と表面に計上されている貨幣価値の総量とは一致しているわけではない。
 貨幣価値が成立するためには、必ず反対取引が存在する。なぜならば取引とは、認識上の問題だからである。
 



償却という思想


 会計上の時間の流れには、償却の流れがある。償却の流れと資金の流れは必ずしも一致していない。

 減価償却費や利益、資本というのは、会計上の一種の思想だと思えばいい。
 本来、減価償却費とか、利益とか、資本というのは架空の概念なのである。何等かの実体があるわけではない。減価償却費も、利益も、資本も、期間損益を確立する上で想定された概念なのである。だから減価償却費や利益、資本というのはなかなか理解されないのである。

 まず第一に言えるのは、期間損益を計測するためには、収益と費用を特定する必要がある。その前提は、損益と貸借の分離である。損益と貸借の分離は、取引が単位期間内に決済されるか否かである。期中に決済される取引の勘定を損益に振り分け、期を跨いで決済される取引の勘定を貸借に振り分けるのであるが、一時的に大きな支出のある取引に関しては、一定期間効用があることを前提にして一度資産に計上した上に幾つかの期に費用を振り分けるのである。振り分けた費用を減価償却費とするのである。
 なぜ、この様な処理をするのかというと実は、この背景として長期借入金の返済額が、会計上、どこにも計上されていないと言う事情があるのである。
 問題なのは、減価償却費と対応していない資産である。この様な資産の償却、即ち、長期借入金の返済額はどこにも計上されないのである。
 ではこの様な資産、即ち、非減価償却資産、有り体に言えば、不動産であるが、この返済原資はどこに求めるかと言えば、税引き後利益である。
 つまり、純利益の分配は、第一に、税。第二に、株主への配当金、第三に、経営報酬、第四に、内部留保であり、長期借入金の返済額の原資は、第四の内部留保に求めるしかないのである。しかし、税制も会計もこの内部留保を公式的には認めていない。こうなると長期借入金で非償却資産に相当する部分は、資本金で対応する以外に返済することができないと言うことになる。
 この事は、金融機関が企業経営の安定性を長期借入金を減価償却費と税引き後利益との和で割って求めた値から推測する事からも解る。
 問題は、収益が悪化した時、収益が悪化したことを理由にして長期資金を金融機関が回収することにあるのである。

 会計上の出来事は、数列に表現することが出来る。会計上の事象を数列に表すことによって会計上の事象を予測したり、計画を立てることが可能となる。

 数列の典型が減価償却費や借入金の返済計画である。減価償却費も借入金の返済計画は、有限数列である。

 減価償却費も、借入金の返済も資金計画である。資金計画は、数列として表現することが可能なのである。

 減価償却の計算方法には、第一に年数法、第二に、比例法があり、年数法には、定額法と定率法がある。更に定率法には、逓減法と逓増法がある。逓減法は、定率法と級数法がある。逓増法は、償却基金法を言う。

 この様に、減価償却の手段は多様であり、その選択は恣意的である。

 定額法は、等差数列である。それ以外の計算方法、即ち、定率法や比例法は、等比数列である。

 減価償却は何に基づくかは、目的によって違ってくる。
 減価償却に関わるのは、利益、納税額、借入金の元本の返済額、更新資金、保守修繕費、保険料等である。
 減価償却費は、期間損益を計算する上での前提となる科目である。故に、減価償却費は期間損益を計算する目的や動機から設定されるべきものである。しかし、現実には、決算対策として利用されている場合が多い。つまり、利益を出すための方便に減価償却の計算方法が使われるのが実情である。
 それは期間損益の目的が見失われているからである。

 減価償却の計算方法というのは、期間損益を計算する上で根幹となる部分である。故に、減価償却の計算方法は、期間損益に対して決定的な働きをする。

 ところがその計算方法が実際にはご都合主義によって決められている。それが問題なのである。選択肢を与えることの是非の前に、その根拠が曖昧なのである。しかも、その様に重要な決定が無作為にされるといることが問題なのである。
 その結果に、期間損益の意義が失われつつある。利益を算出されることが優先され、損益の原因がおざなりにされているのである。その為に、外見だけ取り繕って問題は先送りされる傾向が強くなっている。

 問題は、利益を上げられない原因なのである。その原因が一時的現象に依拠しているのか、構造的な問題なのかで、処方箋も違ってくる。黒字か、赤字かが重要なのではない。問題は、病根なのである。殺すことではなく。生かすことを考えるべきなのである。

 減価償却の計算方法は、期間損益を計算する意義に関わる問題である。つまり、期間損益の本質を表している。故に、減価償却の実体は、現在の自由経済の実体を現しているとも言える。
 どの様な計算方法が妥当なのかではなく。なぜ、その計算方法を選択したかの動機が問題のである。

 減価償却は、期間損益と現金主義、即ち、資金の流れとを変換する操作に深く関わっている。減価償却の有り様一つで利益の額は大きく左右される。そして、それは資金の流れにも重大な影響を与えるのである。

 償却というのは将来支払われる予定の費用の塊だという設定である。これは、あくまでも設定であり、任意なのである。つまり、償却とは思想なのである。
 償却は、実体的な資金の流れを前提としているわけではない。償却費というのは、仮想なのである。しかも減価する資産を前提とした仮想なのである。実際に資産がどれくらい減価しているかではなく、減価していると想定しているのにすぎない。
 土地などの減価することを想定していない資産は、償却の対象にならない。
 故に、費用の定義が重要となる。費用の定義をするのは会計である。

 実体的資金の流れを伴わないために、償却の計算の仕方をどう設定するかによって利益が大きく左右されることになる。
 同時に、実際の資金の流れと会計の数値を乖離させる原因ともなる。

 なぜ、この様な償却を設定したのかというと、現在の資本主義経済の根本的な思想に行き着く。それは、経営主体の経済的独立性を維持すると言う思想である。償却を設定することによって経営主体の独自性、独立性を保持する事が背後にある。つまり、償却をいかに設定するかは、経営主体が決めるべき事だという事である。そして、その結果に対しては、経営主体が責任を持つ。それが、市場経済の鉄則なのである。
 言い替えると、償却に対する考え方によって利益は操作は可能だと言うことである。

 償却という思想の背景には、長期資金の流れ、特に、長期借入金に対する資金の流れが隠されている。
 故に、減価償却費を考える場合、キャッシュフローが重要な意味を持ってくる。
 問題は、償却の対象とならない資産に対する長期的資金の手当てである。地価が上昇している場合は、含み益を当てにすることができる。しかし、一旦地価が下落し始めると今度は含み損を発生させる原因となり、資金繰りを悪化させる。
 又、この簿記上の資産価値と土地の実勢価値の関係がバブルを生む要因の一つでもある。即ち、含み益がある時は、余剰な資金を生み出し、含み損が発生すると資金繰りが悪くなる。

 債権と債務は、通貨の流れに添って一組みになって派生する。そして、債務は、貸し手と借り手がいるから借りてから見て貸し手側の外的債務(貸し手側から見ると不良債権)と借り手側の内的債務の二つが同時に成立する。
 不良債権だけを処分すると債務だけが取り残される結果になる。それが、潜在的な不良債務になってしまうのである。しかも、その不良債務は、借り手側の内的債務としてだけでなく、貸し手側の不良債権として取り残されてしまう。

 経済主体は、債権と債務によってリンク、結び付けられているのである。

 不良債権の意味には、第一に、返済が滞っている債権と言う意味と、第二に、担保価値を割っている債権という二つの意味がある。
 第一に意味で言う不良債権は、収益や利益、費用が問題である場合が多いのに対して、二番目の意味での不良債権は、地価と言った資産価値の変動に起因している場合が多い。原因がまったく違うのである。それでありなから、不良債権という言葉が用いられる場合、どちらの意味で用いられているかが、曖昧である事が多い。そして、その対策も要因に応じてなされるのではなく。単に不良債権として一括りで処理される場合が多い。それが不良債権問題を深刻化させているのである。

 償却費も長期債務の返済金も名目的価値に基づいていて、一定期間、一定額、継続的に発生する固定費である。
 償却費や長期債務の返済金は、中長期的な資金の流れを拘束するのである。
 又、気をつけなければならないのは、償却費は固定資産全てを網羅しているわけではない。

 資産は、未実現利益の資金化の裏付けになる。逆に、未実現損失が生じると資金繰りの阻害要因になる。それがバブルを生みだし、バブルを崩壊させる直接的原因でもある。

 社会全体の効用からすると地価の下落は、担保力を低下させるから民間企業の投資意欲を削いでしまう。それが景気を悪化させ企業の収益力を低下させるという悪循環を引き起こすのである。

 また、収益が悪化している時に、担保価値を割ったとして長期資金の返済を迫られれば、経営は破綻してしまう。

 しかも、長期借入金の返済額は、会計上正式には表面に現れてこない。故に、その原資は、税引き後利益から求められる。税引き後利益から差し引かれるという事は、税金の分だけ借入金の原資は目減りする。又、基本的には、長期借入金の返済は認識されていない。不良債権というのは、対極に不良債務を持つ。収益が悪化した際に不良債権を処理すると資産は処分されても不良債務は残る。つまり、結果的に債務は累積するのである。問題は、収益の悪化が根底にあることを忘れてはならない。
 もう一つ危険なのは、債権が清算されて債務だけが残った場合、通貨だ余剰に流通すると言う事である。通貨が余剰に流通することは、過剰流動性を発生させる。過剰流動性は、将来のインフレーションの原因となる。

 この点を理解して税制などの設計はされなければならない。

 そして、現在の市場経済においてこの減価償却費は決定的な役割を果たしている。この点を理解しないと市場経済に生起する現象の原因は解明できない。

 過剰流動性によるインフレ圧力と円高によるデフレ圧力の奇妙な均衡がバブル崩壊後の日本の経済状態である。

 今の市場経済を動かしているのは、会計の論理である。その点を忘れてはならない。




投資対効果



 近代会計制度が成立した契機には、運河や鉄道と言った巨大投資がある。近代会計制度が確立された背景には、資本の確立がある。資本が確立されたのは、小口の資金を広く大衆から調達した方が結果的には、巨額の資金を調達する事が可能である事が明らかになったからである。それは、税制にも反映されている。
 つまり、近代会計や資本主義を確立させたのは、巨額な投資なのである。そして、近代は、大衆の時代でもあるのである。

 投資と効果を分析する手法には、第一に、収益面から分析する手法がある。収益とは、単位期間内の費用対効果に基づいて分析する手法である。(収益還元方式)第二に、費用面から分析する手法。第三に、負債と回収から分析する手法。第四に、資産価値、担保力、キャピタルゲインから分析する手法。第五に、資本、即ち、利益から分析する手法。第六に、資金収支から分析する手法、第七に、金利から分析する手法がある。

 投資と効果は、いずれにしても時間価値に関わっている。
 その好例が現在価値法による投資効果の測定である。
 収益面からの分析は、単位期間内における費用対効果の測定による。
 又、費用面から分析は、投資に要した費用とそれに対する効果から投資の是非を解析するのである。
 負債面からの分析とは、金利プラス資金の回収を基礎としている。
 資本は、配当の計算方法を基礎としている。
 資産は、投資した資産の現在価値と将来価値の差に着目している。
 資金収支は、最終的な現金収支に還元することで投資の効果を測定しているのである。

 これらは、投資家が、時間価値が何によって形成されるかを考えているかを知るための良い参考資料となる。

 現在、用いられている手法には、どの様な手法があるかというと、例えば、キャッシュフローによる分析、限界利益に基づく手法、或いは、回収期間法、会計的投資利益率法、現在価値法などがあり、現在価値法には正味現在価値法、内部利益率法の二つがある。

 ただ、現在の投資対効果の測定方法は、個々の事業体、経営主体を基本としたものであって社会全体にとっての投資対効果を測定する目的ではない。

 投資の経済効果を測定する手段はないことはない。しかし、その結果に基づいて投資をしたからと言って所定の効果が得られるとは限らない。むしろ、公共投資に対する経済効果の測定が、為にすることを目的としているのは歴然としている。あからさまだ。投資が社会全体に対する経済的効用を土台としているものはでない。

 投資の経済的効果を測る上で鍵を握るのは、資金が流れる方向と量をどの様に測定するかなのである。

 資金の流れる方向や量を測定するという観点からすると現行の会計制度だけでは不備である。特に、公共事業には、期間損益という発想すらないのであるから、測定以前の問題である。

 期間損益において投資効果を測るのに鍵を握っているのは減価償却費である。減価償却と言っても実際に資産の価値が減価しているわけではない。減価するのは、あくまでも会計上の話である。減価する部分が費用計上されるからと言って現金支出があるわけではない。反対に、借入金の元本の返済金が計上されるわけでもない。つまり資金の流れとも一致していない。
 会計的現実と物的現実、資金的現実は、一致しておらず、乖離している。この事を熟知していないと経済現象や経営実体について惑わされ、結局、帳尻合わせに終わってしまうことになる。
 会計というのは数学の一種なのである。

 法人税率の上昇は、負債の水準の上昇を招く。なぜならば、借入金元本の返済は、税引き後利益と減価償却の中から支払われるからである。税率が上がれば借入金の元本の返済原資が圧迫されるのである。
 自己資本率が高ければ、経営主体にとって有利かと言えば、必ずしも有利とは限らない。なぜならば、結局、利益配分によって利益が分配されてしまうからである。経営主体内部に蓄積される資金は、基本的に認められていないのである。
 問題は資金が流れていく先である。公的分野に流れていくのか、家計の方向に流れていくのか、投資の方向に流れていくのか。流れていく先と量によって働きが決まるのである。

 資金の流れには、循環的資金の流れと固定的資金の流れがある。
 循環的資金の流れは、運転資金を指し、短期的資金の流れを形成する。それに対して、固定的資金の流れは、投資資金を意味し、長期的資金の流れを形成する。

 循環的資金の流れと固定的資金の流れは、家計にも、企業にも、財政にもある。そして、各々が資金の流れを形成する。

 資本主義は、固定的資金の流れが確立されたことで成立した。固定的資金の流れが確立されることで、期間損益主義が成立したのである。

 資金の働きは、資金の流れる経路によって決まる。故に、資金の働きを知るためには、資金の流れる経路を明らかにする必要がある。

 景気を悪化させる原因には、循環的資金を原因とした場合と固定的資金を原因とした場合が想定される。景気の悪化は、一過性である場合が多いが、それが長期にわたることになると経済の基盤構造を破壊してしまう事がある。
 景気の悪化を長引かせる要因の一つに、固定的資金を原因とする事象が考えられる。それは、景気の悪化に伴って固定的資金を回収しようと言う動きである。

 総資本は、貨幣の供給量を意味し、費用は、貨幣の流量を形成する。つまり、総資本とは、固定的資金の量を表し、費用は、循環的資金の量を表す、故に、社会全体化に見ると総資本の総量は、市場に供給されている資金の総量を意味し、費用の総量は、市場の流通している貨幣の流通量を表している。

 固定的資金は、投資によって生じる。
 では、投資とは何か。 投資とは、現在の価値よりもより高い経済的価値や効用を将来獲得するために、資源を提供、或いは、投入することである。
 投資には、設備投資、資本投資、住宅投資、人材投資、研究開発投資、不動産投資、在庫投資などがある。

 金融機関に対する資金の調達は、主として預金の側からと貸付金の側から為される。預金の側は、預金の獲得として負債の増加を意味する。
 金融機関にとって外部に対する資金の供給の主たる手段は、貸付金の増加させるか、預金を払い戻すかにある。
 貸付金の側はからは貸付金の返済として資産の減少をもたらす。つまり、預金の増加は固定的資金の増加を貸付金の減少は、固定的資金の減少を意味する。
 金融機関に置いて、貨幣の流量を表で主導するのは、預金であり、裏で支えているのが、負債である。
 故に、借金の元本を返済されれば貨幣の供給量は圧縮され、預金に廻されれば、供給量は拡大する。

 賃金は、預金口座に振り込まれる。そして、必要に応じて預金口座から引き下ろされて支払に使用される。支払われて「お金」は、支払先の事業体の収益となる。事業体の収益は、費用として支払われる。支払われた費用は、支払先の収益となる。この様な資金循環が生まれる。
 それに対して、借入金の返済は、費用としては計上されずに、金融機関の貸付金(資産)を減少させて、現金等(資産)を増加させる。この取引では、金融機関の負債も収益も直接的には、変化させない。そして、市場に対して資金は、逆流するから資金の循環を阻害する事になる。
 この様に資金の働きと景気との関係を知るためには、資金の流れる方向と量を確認することが大事なのである。

 諸行無常。この世の中に滅せぬ物はない。物の価値は失われていく。つまり、財は使用されれば価値を失っていくのである。
 料理のように購入した時点で価値が失われる物もある。自動車のように徐々に価値が失われていく物もある。逆に、美術品や株のように価値が上がっていく物もあるが、その様な財は稀にしかない。大体の財は、購入した時点から価値が減じていく。
 それに対して、貨幣は、変わらない。元々実物貨幣は、変質しない素材をもつにして鋳造されていた。現在の紙幣も根本では、変質しないことを前提としている。故に、額面の値は減じない。ただ貨幣価値は、時間価値によって減価する。だから現在価値を測るのである。

 この事が意味するのは、貨幣は、相対的な表象的基準だと言う事である。

 貨幣は、消費されない。ただ交換手段として機能するだけである。貨幣その物が物理的に消滅するわけではない。「お金」を使ったとしても「お金」そのものがはなくなるわけではない。「お金」の所有者が変わるだけである。しかも「お金」は匿名な物である。
 それに対して、財は違う。財は、使用すれば価値が減じる。中には、購入された時点で価値がなくなる物すらある。

 つまり、財は、失われるが、貨幣は失われないのである。これは財と貨幣の本質なさである。

 ある企業が銀行から一億円を借りて設備投資を実行した場合、借り入れた一億円は、設備を購入した相手の銀行の当座預金に振り込まれる。設備を売った相手は、設備を製造するためにかかった費用の支払を支払先の銀行口座に振り込む。この様な過程を経て資金は循環するが、資金の多くは、金融システムの中で処理され、現金として金融システムの外部に流出する資金は、循環している資金の総量に比べると相対的に少ない。

 資金の多くは、金融システムの中を流れている。金融システムの外部に流出する資金は、相対的に少ないのである。

 市場環境によって収益が悪化したからと言って長期的資金の回収を一斉に計れば、健全な収益力を持つ企業まで破綻させてしまう。収益を悪化させている原因が何か、一過性の要因なのか、それとも、恒久的な問題なのか、また、外的要因なのか、内部構造の問題なのか、それを明らかにしない限り、効果的な対策は立てられない。

 ところが、現在の金融機関の経営者や為政者は、競争力を収益力と取り違えている。そして、収益が悪化すると固定的資金、即ち、長期資金の回収を計る。その為に、市場に対する固定的資金の供給が滞ることになるのである。

 結局、日本の金融機関の投資評価は、資産価値、担保価値につきてしまう。事業収益にに依らず、残存価値、回収価値に価値を見出すのである。しかし、残存価値は、幻影に過ぎない。
 また、担保価値も残存価値も清算価値であることを忘れてはならない。

 民間企業において通常の営業活動による資金の供給は、収益によって為される。故に、景気に与える企業業績の是非は収益力によって左右される。
 そして、収益を何に還元するかによって資金の流れは決まる。即ち、費用に向ければ分配が促進され、資産に向けられれば投資が増える。負債に向けられれば、回収の方向に資金は流れる。資本の側に流れれば、配当が増える。
 ただ、投資に対する資金の流れは、負債と資本に依る手段によっても為される。

 景気を悪化させる最大の原因は収益力にある。収益力で一番重要なのは、費用対効果の問題である。
 収益を悪化させる原因には、競争力と費用の問題がある。単純に人件費を比較した場合、10対2くらいの賃金格差があったら、とても競争にはならない。しかも、労働環境は内政問題である。必然的に賃金が低い地域に生産拠点、労働拠点が移転することになる。賃金格差は、労働条件や雇用環境に直結している。極端に格差があるという事は、劣悪な労働環境に置かれているという事が充分に予測される。
 つまり、劣悪な労働環境に置かれている生産拠点の方が競争力がある事を意味している。その結果、悪貨は良貨を駆逐するというように、生産拠点は、良好な雇用環境の拠点が排除され、劣悪な労働環境にある方が生き残ることになるのである。それが貧困の輸出という現象である。
 単純に競争力だけを目的にして規制を緩和することは、労働条件の悪化を容認することにも繋がるのである。
 自由経済の仕組みの目的は、労働と生産財とを貨幣を媒体として結び付けて適正な配分を実現する事にあるのである。
 ただ安ければ良いというのは、安易で、短絡的な発想に過ぎず。行きすぎると経済体制の根幹を破壊してしまうことにもなりかねない。無法な安売り業者を意味もなく英雄扱いしたり、泥沼のような安売り合戦を推奨することは、戒めるべき事である。

 設備には、ライフサイクルがある。商品にもライフサイクルがある。人にもライフサイクルが。つまり、寿命があるのである。
 物や人のライフサイクルは、資金の流れに対して決定的な影響を及ぼしているのである。
 ライフサイクルはその時々の投資を生み出す。喩えは、設備投資、住宅投資、在庫投資、教育投資等である。だから、資金の流れに対して決定的な影響を及ぼすのである。
 故に、物や人のライフサイクルを熟知しないと景気の先は読めないのである。

 公共投資における投資対効果の測定ほど当てにならないものはない。元々、公共投資には、利益という概念が欠落しているのである。利益という概念が欠けていて投資対効果を測定するのであるから、為にする効果しか期待できない。
 為にするというのは、公的な意味での経済的効果ではなく。政治的効果や利権、既得権と言った私的な経済的効果でしかない。これは、本来の意味や目的から逸脱した行為である。

 公共事業というのは、国家経済の基盤を構築する事業である。故に、公共事業の根底には国家構想がなければ有効に機能しない。私的な分野に資金を流し続けることは、公共の富を私的な富に転移しているに過ぎないのである。
 自由経済の仕組みは、労働に応じて資源を配分する事が目的である。
 公共事業の重要な役割には、資金の環流と資源の配分がある。
 故に、公共事業において重要なのは、資金の流れる量と方向である。

 投資で重要なのは、資金が流れる方向と量である。闇雲に投資をしても投資した資金が、市場の側に流れていくとは限らないのである。
 投資というのは、投資が発生した時点と投資が実行された以後では流れる方向が違う。
 例えば、設備投資は、設備に投資する際は、設備の製造や設置業者の側に資金が流れるが設備が運転を開始したい後は、返済の方向に資金は流れる。
 公共投資も事業初期の投資は、市場の側に資金を流すが、投資が実行された以後は、資金は回収の側に流れる。
 故に、公共事業の経済的効果を測るためには、資金の流れる方向を見極めることが重要となるのである。

 発熱の原因は一つではない。経済現象の原因も一つではない。発熱の原因によって診断も、処方箋も治療方法も違ってくる。治療法は一律ではない。経済現象も然りである。同じように見える経済の症状でも原因によっては、まったく異質の対策を立てなければいならない事もある。なのに、現在の経済学は、経済現象が起こる原因を探しもとめて彷徨う。
 今の経済学者は、発熱の原因は、一つだと断定し、何でもかんでも解熱剤を飲ませればいい思い込んでい医者のようなものである。
 正しい処方箋を書き治療をするためには、病気の原因を明らかにする必要がある。
 企業も同様である。何が企業を動かしているのか、それを正しく認識する事が全ての始まりなのである。


       

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