1.経済数学

1-4 等しいという事

等しいとするのは人である。


 等しい事は、引くと零になり、割れば一となる。
 また、足して零になる事も等しい事である。
 零は、空(から)と均衡を意味する。
 一は、単位と全体を意味する。
 市場全体の取引によって形成される貨幣価値の総和は零に設定されている。
 全体が零となるのは、全体の一を零とする事である。また、零は、均衡状態を意味する。
 数学的に等しいと言う事は、引くと零に、あるいは、足すと零になり、割れば一となる状態を意味する。

 逆数の積を一とする。
 逆数の積は一に等しい。
 逆数の積は一になる。

 最初はするのであり、それが、やがてなるになる。
 するからなるに変えるのは等しいという概念である。

 始まりは空(から)であり、元(もと)は一である。
 原点は零か一である。
 空間は、零として均衡している。
 空間は、一として満たされている。
 零は空間であり、一は全体である。
 全体は、零で均衡する。

 一足す一を二とする。
 一足す一は二に等しい。
 一足す一は二となる。
 二足す一を三とする。
 二足す一は三に等しい。
 二足す一は三になる。

 リンゴが一個、二個。
 自動車が一台。二台。
 船が一艘。二艘。
 一円、二円、三円。
 一ドル、二ドル、三ドル。
 一元、二元、三元、

 等しいとは何を意味するか。

 等しいと言う事や物は所与の事や物ではなく。任意の物や事である。

 等しいとする事や物を、等しいとする。
 等しい物や事を等しいとするのではなく。等しいとする物や事を等しい物や事とする。

 私とあなたは、人間として同じであるが、私とあなたは違う。
 私とあなたは違う人間だけれど、私とあなたは、一人の人間として等しい。
 私とあなたは一人の人間として等しいが、私とあなたは違う。
 私とあなたは一人の人間として一として等しい。
 それが前提としての平等。

 身長と体重は、一人ひとり違うが人間として等しい。
 15歳の私、20歳の私、50歳の私は年齢に違うが一人の私として同じ。

 等しいというのは、暗黙の合意を前提とする。

 食べ物が二十個ある。そのうち果物が十個、その中にリンゴが二個。
 船が十艘停泊している。客船が二隻、貨物船が三隻、軍艦が二隻、漁船が四隻、巡視船が一隻。
 数は、対象を集約し、共通項で分類する。数で大切な事ーとは、元となる一である。
 数は、何を全体として等しいとするかによって定まる。何を全体として等しいとするかは、何を同じとするかによる。
 同じだけれど等しくない部分もあり、等しいけれど同じじゃあない部分もある。
 部分的には等しけれど、各々違う全体もあれば、全体は同じでも等しくない部分もある。

 リンゴ一個も、ミカン一個も、船一艘も、馬一頭も一として等しい。
 何を一とするか。

 一人、一族、一社、一国。
 アメリカも一国、日本も一国、モナコも一国、一国は一国。
 一は一として一。一として等しい。

 一個、百円のリンゴ。一個、二百円のリンゴ、一個、八十円のリンゴ。
 一個は、一個。

 あの家は、お父さんとお母さんと子供二人で一世帯。
 あの家は独身の男性一人で一世帯。
 あの家は、祖父母と子供二人で一世帯。
 あの家は、夫婦二人で一世帯。
 一世帯として、等しい。

 単位は、任意の基準を一として等しくする事によって成り立っていいる。

 単位の一は、掛けても割っても相手の値を変えない。
 単位一の持つ値と相手の持つ数を掛け合わせると対象の持つ一が与えられる。
 単価掛ける数量が貨幣価値の総額となる。
 貨幣価値は、金額として表現される。

 一時間、一日、一月、一年。
 一時間は、六十分。
 一日は、二十四時間。
 一月は?
 一年、三百六十五日。

 一生。生まれて死ぬまでを一生とする。

 間違ってはいけない。等しいとするのは人間である。
 最初から何もかもが等しいわけではない。
 等しいという概念は、比較することによって成立する。比較する物がなければ、何と何が等しいか判別できない。
 等しいというのは、絶対的なのではなく。相対的な基準なのである。

 数は数自体で存在するわけではない。
 数は数が指し示す実体を前提として成立している。
 数は抽象概念である。

 数学が数学として成立したのは、その根底に形が存在したからである。
 形が分数、小数、無理数を成立させた。
 なぜならば、数えるための手段としての数は自然数で間に合っていたし、又、自然数でなければならなかったのである。
 数の基底に形があったから割りきれない数が成立したのである。
 それ故に、割り算という演算は、数学の基点でもある。

 演算の基本は、足し算と割り算である。
 引き算とかけ算は、足し算の変形、延長線上でとらえる事ができる。
 割り算は、分割、分配を前提として成り立っている。
 割り算によって分数、小数、有理数、無理数、虚数などが生まれた。
 すなわち、割り算は整数以外の数の根拠でもある。

 分数は部分を表す。
 何を全体とし、何を何の部分とするかが大切。
 何を分母とし、何を分子とするか。

 公理
 1、同じものに等しいものは互いに等しい。
 2、等しいものに等しいものを加えれば,また等しい。
 3、等しいものから,等しいものを引けば,残りは等しい。
 4、互いに重なり合うものは互いに等しい。
 5、全体は部分より大きい。
 以上は、ユークリッドの「幾何学原論」における公理である。

 数を成立させている要素は、数と数が指し示している対象と数と対象とを関連づけている主体(人)の三つの要素である。
 1、2、3。3次元。
 点、線、面という位相から見ても3次元。

 これは、経済にも当てはめる事ができる。

 1、同じ貨幣価値のものに等しい貨幣価値のものは互いに等しい貨幣価値を持つ。
 2、等しい貨幣価値のものに等しい貨幣価値のものを加えれば貨幣価値は等しい。
 3、等しい価値のものから、等しい価値のものを引けば等しい貨幣価値になる。
 4、互いに重なり合う貨幣価値のものは互いに等しい貨幣価値を持つ。
 5、全体の貨幣価値は部分の貨幣価値より大きい。

 我々は何気なく、お金を使っているが、市場取引は、等しいという概念に対する同意、合意を前提としている事を忘れてはならない。
 なぜならば、等しいという概念が貨幣価値の基礎を構成しているからである。

 貨幣価値は虚構である。
 貨幣そのものが価値を持つわけではない。
 貨幣は、物や用役と結びついて交換価値を数値化する為の媒体に過ぎない。
 物の量や時間と単位当たりの価格を掛け合わせる事で対象の交換価値を数値化したのが貨幣価値である。
 貨幣は、交換を成立したら、交換価値を保存する。
 つまり、交換という働きを数値化した値が貨幣価値である。
 貨幣は、市場で物や用役と交換する権利を表象化した物である。
 貨幣価値とは働きである。

 等価という概念が貨幣価値の基礎を形作っている。
 すなわち、経済は形によって成り立っている。
 形とは、形ある物を前提としている。
 形ある物とは有形である。
 はじめは、貨幣は有形な物を前提としていた。

 経済は、質的に等しいという概念と量的に等しいという概念の二つを合わせもつ。
 貨幣価値は、質的な要素を量的な要素から切り離す事によって成り立っている。

 貨幣価値で等しいと言う事は等価である事を意味する。
 質的に違う物でも同じ貨幣価値の物は等しい。

 一つの会社は一つの経済主体として数えられる。
 その意味で会社は、規模にかかわらず一社は一社である。
 同様に一国は一国である。
 一人は一人である。
 日本人も、アメリカ人も、中国人も、イスラム教徒も、キリスト教徒も、一人は一人であり、一として等しい。

 百円のリンゴと百円のミカンの貨幣価値は等しい。
 百円の切符と百円のミカンの貨幣価値は等しい。
 百円のリンゴと百円の切符の貨幣価値は等しい。
 ただ、百円は百円である。
 百円は百円である事で貨幣価値は、成り立っている。
 すなわち、数値によって貨幣は成り立っている。

 一は一として一。
 一は一として均衡している。
 等しい物は一に還元される。
 割ると一、引くと零だから等しい。
 重ね合わせて一致する部分で等しい。
 故に、一に一として等しい。それが単位を形成する。
 このリンゴ一個いくら。このミカン一個いくら。このノート一冊いくら。
 一は一として等しい。値段は別。

 単価と数量を掛け合わせる事で貨幣価値は形成される。
 対象の単位一に対する単位当たり一の価格を対応させるすることで、単価が構成される。
 一個のリンゴ、一個百円で一個百円のリンゴの貨幣価値が形成される。
 五人で五時間かけて一つの仕事した場合。
 一人当たり賃金千円、一つの仕事当たり五時間、一つの仕事当たり五人、掛かる作業を掛け合わせる事で一つの仕事にかかった貨幣価値は構成される。
 単位当たり賃金、単位当たり時間、単位当たり人数の三つの要素が掛け合わさって貨幣価値は形成される。

 数値が意味するのは位置と量である。
 位置は、大小、順位を判定する。

 貨幣価値を成立させているのは、貨幣と貨幣が指し示す対象と、貨幣価値を決める主体(人)の三つの要素である。
 1つ金、2つ、物、3つ、人。貨幣価値は3次元を持つ。
 すなわち、人の次元、物の次元、金の次元の三つの次元から構成される。
 貨幣は貨幣、物は物としての次元、人は人としての次元を持つ。
 物の貨幣価値は、同量の貨幣価値との交換を前提とする事によって確定する。
 物は、連続数、貨幣は離散数。物の量と単価を掛け合わせる事で貨幣価値が確定する。
 貨幣価値は離散数である。

 物は有限、数は無限。
 物は有限、貨幣価値は上に開いて無限。

 お金、すなわち、貨幣は価値を数えられるようにするための手段である。
 貨幣は数える数である。故に、自然数を基本とする。又、離散数を基本とする。
 なぜなら貨幣の本源は物だからである。
 故に、貨幣価値における割り算は余り算を原則とし、残高の働き、扱いが重大となる。

 当初、取引は、物と物とを対比し、交換する事によって形成された。
 この時点における取引は、物々交換を前提とする。
 貨幣は、物と物との交換を仲介する事によって成立した。
 貨幣取引は、物と貨幣の交換、貨幣と物との交換の二つの働きによって成り立っている。
 そして、この働きは表裏の関係にある。
 物と物の交換から物と金の交換へと変化する事によって貨幣は機能するようになる。
 貨幣の働きは、物と物との関係、働きを交換価値に変換する事によって成り立っている。
 交換価値が成立する事によって貨幣は固有の価値を構成する事になる。

 貨幣価値によって経済的価値は金額に還元される。
 貨幣価値が指し示す対象と貨幣は、一対一に対応している。

 等しいというのは重なり合う部分である。
 リンゴとミカン、切符のどの部分が重なり合うのか。
 重なり合うのは、リンゴとミカン、切符の働きである。
 つまり、等価とは、働きを意味する。
 その働きに取引を通じて値段がつけられる。

 価値が働きを意味するようになると貨幣価値は形から離れる。
 貨幣は無形な価値とも結びつく事になる。

 重なり合う部分を同じとして等価というのである。
 つまり、等価とは、貨幣的には、同値、同量を意味する。

 一対一に対応する物どうしは、一として等しい。
 物の量とお金の単位を関連付けると貨幣価値が生じる。

 リンゴ一個、百五十円。
 一ドル、三百六十円。

 貨幣価値を構成する要素は、数字と貨幣。
 貨幣価値は、数の性格と貨幣の性格を併せ持つ。
 数字は、数と量とを表す。

 数と量。金と物。金を数える。物を量る、測る。

 一人当たり、一家族当たり、一社当たり、一国当たり。

 数と量は、単位を形成する。

 一グラム。一メートル。一平米。
 一貫目。一尺。一坪。

 故に、貨幣価値は、物、金、人、数字、単位によって成立する。

 数は、対象を識別する。
 貨幣価値は、価値を数字に還元し価値を統一する。

 牛一頭と豚一頭は違う。リンゴ一個と蜜柑一個は違う。車一台と船一艘は違う。数は、対象を識別する。

 リンゴの数を数える場合、先ず、リンゴをリンゴ以外の対象から識別し、個数を判別し、数に置き換える。
 更に、100円のリンゴと150円のリンゴを分ける事もできる。その場合、リンゴを比較し、グループ化し、分類し、各々のグループを100円と150円の価値に結び付ける。
 また、数に結び付けるとは、順序付けを意味し、順序づけとは位置付けをも意味する。位置付けによって距離や長さが画定する。

 貨幣は物である。
 貨幣には、物としての属性があり、貨幣の働きはそれを前提として成り立っている。
 物であるから存在が前提となる。故に、貨幣価値は貨幣の残高によって計測される。

 物であるから、交換する事も持ち運ぶことも数える事も出来る。この様な貨幣だから、市場に流通することが可能なのである。又、貨幣は足したり引いたり掛けたりも出来る。
 貨幣には、価値がある。貨幣の価値は貨幣を用いる者同志の信認に基づく。貨幣を用いる者同志の信認とは、言い替えると市場の信認である。

 貨幣価値は信用の上に成り立っている。
 貨幣価値が成立する為には、貨幣価値の信用を保証する存在、権威が前提となる。

 貨幣は、貨幣価値を保存する。
 貨幣は、貨幣価値の尺度である。
 貨幣は、交換、取引の媒体である。

 貨幣は、貨幣価値の単位を象徴する。
 一円、十円、五十円、百円、五百円硬貨。
 千円札、五千円札、一万円札。

 家と自動車とは足せない。しかし、お金に換算すれば、家と自動車の価値を足したり引いたりできる。数は、家と自動車を識別し、貨幣は、統合する。

 貨幣価値における等しいという概念は、物と金とを結び付け、貨幣価値と対象とを関連付ける操作によって成立する。
 すなわち、貨幣の本性は操作性にある。つまり、貨幣は数を操作する事を本性とする。貨幣の本質は数値である。

 貨幣価値は、貨幣単体では成り立たない。貨幣と対象が一組で成立する。さらに、対象と貨幣との関係を認識する主体があって成立するのである。

 物と金とが結びつくとは、数字と貨幣とが結びつくことになる。数字と貨幣が結びつく事で貨幣価値は情報化される。貨幣は象徴化されると情報となる。

 貨幣価値に還元されることで演算が可能となる。演算が可能となることで貨幣価値は関数を形成する。
 関数とは写像であり、一対一に対象と貨幣価値を結び付ける。それが等しいという関係である。

 等しい事は、引くと零になり、割れば一となる。

 足すと零になる事も等しい。零は均衡点を意味する。

 何を等しいとするかが要点。
 等差数列的変化、算術級数的変化は、変化の幅、値を等しいとし、等比数列的変化、幾何級数的変化は、構成を等しいとしている。
 等差数列は、構造を歪める。等比級数は、幾何級数的な変化、発散的、複利的、爆発的変化を秘めている。

 変化の働きを解明しようとした場合、何を等しいとしているのか、それに対し何が変化しているかを明らかにする必要がある。

 市場は合意によって成立する。市場は、売り手と買い手の存在を前提とする。
 取引は、売り手の提供する物や事と買い手が提示する金額、価格を等しいと合意する事によって成り立つ。

 市場における等しいとは、売り手と買い手の合意を前提とする。その合意は、無意識に為される、暗黙の合意であったとしても合意がなければ成立しない。

 市場では、等しいというのは所与の事象ではない。等しいとするという合意によって成り立つ事象である。
 合意とは、合意するという操作を意味する。すなわち、等しい事とは、操作によって成立する事象である。

 複式簿記を基礎とする会計は、借方と貸方を等しくするように設定されている。
 貸方と借方は、お金の働きを表している。

 経済では、何と何を等しいとし、何を全体として、何を部分とするかが重要な意味がある。

 何を一とするか。何を根源的一とするか。
 何を全体な一とするか。何を部分としての一にするか。
 それが経済を知る上で鍵となる。

 貨幣価値は全体しての一がある。
 その一の状態は零で均衡する。
 貨幣価値には部分としての一がある。
 部分の一の働きは、零で均衡する。

 一としての市場全体の取引の総和を零にする。
 一としての市場全体の取引の総和は零に等しい。
 一としての市場全体の取引の総和は零になる。

 一つひとつの取引を構成する要素を零に均衡させる。
 一つひとつの取引を構成する要素は等しい。
 一つひとつの取引を構成する要素の総和は零になる。

 数の構造を解きほぐす事で経済の基底が見えてくる。



市場経済は等価交換を前提として成り立っている。



 自由と平等は、現代社会の基盤となる思想である。しかし、自由とは何か、平等とは何かを問われるとなかなか難しい。

 特に、平等と言った場合、何をもって等しいとするのかが重大となる。
 等しいというのはどういう意味なのであろうか。それが問題なのである。

 何をもって等しいと言うのだろうか。等しいという意味には、第一に同じと言う意味がある。第二に、均衡。第三に、対等。第四に、均一、第五に、ゼロ、そして、第六に方程式の解と言う意味がある。
 また、等しいという事は、等号によって現される。等号によって結ばれて方程式を等式という。等式には、対称な式と非対称な式がある。

 等号によって結ばれた右辺と左辺は、同じだという意味がある。又、右辺と左辺は均衡しているという意味がある。その他には、右辺と左辺は均一であると言う意味もある。更に、全ての未知数、既知数を集めるとゼロになると言う意味がある。そして、方程式と方程式を解いたときの解を意味する。この様に等号に結ばれた関係が重要となり、その時の等号の働きを明らかにすることによって等しいという意味の質的な差を知る事ができる。

 ゼロには、始点、原点という意味がある。ゼロは空(から)という意味がある。ゼロのこれの意味は、等号の働きを示唆している。

 数量×単価が=価格となる。つまり、物理的量と単位価格の積が貨幣価値を構成する。貨幣価値において、等しいと言うのは、物理的量と単価を掛けた値が貨幣価値と等しいことを意味する。この等しいという事が貨幣価値の大前提となる。

 数学では量化することによって等しいという事を一意的に解釈する。それが数学の普遍性を保証していると同時に限界でもある。この数学の特徴を理解しないと現代社会は理解できない。
 なぜならば、現代社会は貨幣経済社会であり、貨幣は自然数の集合だからである。

 今、巷間、百円ショップが流行っている。百円ショップで売られている商品は、何千、何万アイテムあろうとも貨幣価値は百円である。つまり、どの様な素材で、又、どの様な工程で、どこで作られていようとも価値は、一様に百円なのである。百円という貨幣価値では、質は問われていないのである。

 経済数学では、量だけでなく質が重要となる。

 経済とは現実である。現実の対象から数を抽象化する事によって対象を無次元化し、演算を可能とする。しかし、そのままでは、現実に適合しない。故に、経済数学は、抽象から具象化することが、最終的に要求されるのである。

 経済を理解する上では、数量を対象から抽出し、それを貨幣価値に転化した上で演算をする。その結果を現実の対象に転化するという過程が貨幣経済を実体化するのである。

 経済的価値を確立するためには、演算の可能性の問題がある。演算が可能でなければ交換価値は成立しない。
 演算の可能性を評価する基準の一つに、逆演算をすると元の状態に戻るかと言う事がある。それが群か、否かを判定する基準である。

 車と家は足し算ができない。しかし、貨幣に換算すれば足し算が可能となる。貨幣は無次元の数なのである。

 貨幣経済では、経済的価値は、貨幣価値と等しいとされている。これが前提である。故に、貨幣的価値が生じた時、その指し示す対象の価値と貨幣によって表示された価値とは等しいという事が前提となる。
 ただ気をつけなければならないのは、貨幣その物には、使用価値はなく、交換価値しかないという事である。貨幣は、天秤ばかりの錘(おもり)の役割を果たしているのに過ぎない。

 我々は、等しいと言われると、自ずと等しいと思いがちである。つまり、確実に等しいことと捉えがちである。
 しかし、等しいというのは、本来、等しいとする事なのである。その点に、等しいという事の意味の本質が隠されている。
 等しいとするからには、大切なのは、何を等しいとするかである。
 一つの事象をもう一つの事象に結び付けて等しいとする。それが数学的にみて等しいという事である。一対一の関係から成り立っている。その点に、統計的発想の端緒がみられる。
 つまり、数学的に等しいというのは、確実なことばかりではなく。どこかに不確実な要素が含まれている場合があるのである。
 この延長線上に会計がある。会計上の等しいも一対一の関係にあり、ある取引上の事象を一対一に結び付けて等しいとするのである。
 この様な等しいという関係には、当然、対称性がある。この事は、等しいとされる事象には、合同と言う概念が含まれる事を意味している。つまり、図形的に合同という意味もあるのである。更に、図形的な概念を拡張して観念的な合同も等しいとされる。例えば、会計上、取引と取引が合同であることも等しいとする。
 等しいとは、等しいという思想が大事なのである。

 大きなお金の基本的流れというのは、お金を借りて物を買う、あるいは投資をするという流れと、お金を貸して物を売る、あるいは、投資をさせるという形の二つが主である。この他に、お金を無償で相手に渡して物やサービスを売るかあるいは投資を促す、又は、無償でお金を受け取って物やサービスを買うか投資をするという場合もあるが、それはきわめて稀である。故に、基本的には、お金の流れは、借りて物を買うか、投資をする。お金を貸して物を売るか、投資を促すのいずれであるが、この関係は、表裏をなす関係である。
 お金を貸して物やサービスを売る、あるいは投資を促すという行為とお金を借りて物やサービスを買う、あるいは、投資するという行為は表裏をなしていてその量は等しい。それは個々の取引が等価である事を前提とするからである。
 そして、この関係は、取引によって生じる市場全体の貨幣価値の総和は零である事を意味する。これが現在の市場経済の大前提である。

 資金の転移は、贈与のような反対給付が期待できないことは資金の環流を引き起こさない。何らかの生産手段に対する投資でなければならない。

 財政赤字の国は、お金を貸して物を買う。あるいは投資をしているから赤字になるのである。また、経常赤字の国は、お金を貸して物を売る量よりもお金を借りて物を買う量の方が多いのである。この点を考慮しないと経常赤字の働きや財政赤字の働きは理解できない。
 基軸通貨国になる為には、他国に自国の通貨を準備金として持たせておく必要があるから、必然的に、お金を借りて物を買う。つまり、経常赤字国にならざるを得なくなる。
 慢性的に赤字を続けると負債は、累積する。
 企業が大きくなると多国籍化せざるを得ないのは、赤字と黒字を国家間でスイングしなければ均衡が保てなくなるからである。
大きなお金の流れというのは、お金を受け取って、又は、借りて物を買うか、投資をするという流れと、お金を、渡して、又は、貸して物を売るか、投資をさせるという形の二つしかない。

 無償でお金を手渡す行為は、贈与である。国家的な贈与の例としては、戦時賠償や戦争を含む災害復興資金、政府開発支援(ODA)等がある。

 戦争賠償は、第一次世界大戦後にドイツ人せられた過大な賠償金がドイツのハイパーインフレの引き金を引き、ひいては、ナチスの台頭を許し、第二次世界体制を準備したと言われている。
 復興支援金としては、欧州復興計画マーシャルプランが有名で、第一次大戦後のドイツに対する戦時賠償とは逆に、戦後ヨーロッパの復興の基礎を築いた。

 この様な無償の資金援助も単に消費に向けられている限り、相手国の経済成長に一時的な効果を出す事はできても、持続的に寄与するところは、少ない。生産手段に対する投資に向けられる事で、継続的な経済の拡大を触発することが可能なのである。

 ただ、お金を無償で与えるとか、受けるという行為はきわめて稀で、通常は、経済の大きなお金の流れは、お金を借りて買うか、お金を貸して売るかである。
 この関係は表裏をなしている。そして、経済主体間に赤字と黒字の関係を生み出す。赤字の経済主体があれば、黒字の経済主体があるという事を意味する。

 通常の流れは、お金を貸して売るか、お金を借りて買うという事である。

 経済の仕組みは、いったってシンプルである。
 経済を動かしている働きは、売買と貸借しかかない。
 売買によって資金が不足した主体は、売買によって余剰資金を得た主体から金を借りる必要がある。そうしないと双方が成り立たなくなるからである。故に、現金収支と貸借とはゼロ和になる。
 ゼロ和と言う事は、構造的にどこかが赤字を背負う。全ての主体が黒字になると言う事は構造的に出来ない。
 問題は、赤字にせよ、黒字にせよ、一方的に累積する事である。それは、経済に偏りを生じさせるからである。

 市場取引は、対価と反対給付から成り立っている。対価も反対給付もなく、ただ、無償でお金を転移するというのはきわめて稀な取引である。

 行政費用を支払うだけの目的ならば、税を徴収する必要はない。必要なだけお札を刷ればいいのである。
 しかし、その様な事をしたら貨幣価値は維持できない。第一に、貨幣は、循環する事で機能を発揮するからである。第二に、貨幣の働きは分配の手段だからである。第三に、貨幣価値は、流通する貨幣の量と貨幣と財双方の需要と供給によって成り立っているからである。第四に、貨幣は、閉じた空間でしか機能しないのである。つまり、市場に流通する財の総量も貨幣の流量も有限である。第五に、取引は等価を前提に成り立っているから、市場全体では、貨幣価値の総和は零になる。
 これらの事を前提とした結果、三面等価が成り立つのである。
 つまり、財政というのは、資金を循環させる為の機関なのである。だから税は制度を土台として働いているのである。税は制度でなければ機能しない。

 市場経済は等価交換を前提として成り立っている。
 ではなぜ、利益が生じるのか。それは時間価値と付加価値によってである。この時間価値と付加価値を測定するのが期間損益である。

 総所得の基礎は、個人所得にある。個人所得の総量は、労働人口と平均所得の積によって導き出される。
 総所得を増やす為には、労働人口を増やすか、平均所得を上げるさせるかのいずれか、あるいは双方が必要がある。
 支出から見た場合、市場規模が基礎となる。市場規模は、消費者人口と単位消費量の積で表される。
 問題は、労働人口と消費者人口、平均所得と単位消費量の均衡である。所得を貨幣的側面だけから見ていたら総所得は改善されない。  労働人口と消費者人口、平均所得と単位消費量の不均衡が景気を悪化させるのである。そして、人口も、単位消費量も「お金」の問題ではない。人や物の量の問題である。
 労働人口と消費者人口の問題は、少子高齢化や失業率と深く関わっている。平均所得を向上させても労働人口が減少し、消費者人口が拡大していたら総所得の増加にはつながらない。また、生産量が伴わなければ単位消費量の改善にはならない。
 総所得は、お金の問題だけに還元する事はできないのである。人や物こそが経済の根底をなしているのである。
 いくら所得を増やしても国民の厚生が改善されないと経済は豊かになれない。そこに求められるのは量だけでなく、質なのである。



数字の背後に実際の世界が隠されている。


 数学の文章題が重要なのは、数学の持つ質的な部分を表しているからである。量というのは抽象的な世界であり、現実の世界は、質的な世界である。価格的に等しいというのは、この質的な部分を削ぎ落とすことによって成り立っていることを忘れてはならない。

 物は、連続量であり、貨幣は、分離量である。

 代数というのは、記号を用いて数学の計算を方程式にする方法である。

 二つの代数式を等号で結んだものを等式という。等号を挟んで左辺、右辺が等しくなる等式を方程式という。

 等号は右辺と左辺の関係を表した記号であり、同様の記号には、”<”、”>”等がある。等号が右辺と左辺の関係とは、右辺と左辺が等しいという事と右辺から左辺をひくと0になるという事である。
 右辺と左辺が等しいとはどういうことか。それは、右辺と左辺が同じ値と言う事、右辺と左辺の状態が均衡していると言う事、右辺と左辺が同じ操作だと言う事などである。

 等号は、正と負の働きを逆転する働きがある。
 等号は、均衡点であり、即ち、ゼロであり、境界点をも意味する。

 数学的に等しいという意味を理解するためには、方程式を理解する必要がある。

 関数や写像は、集合間の一対一の関係を表している。
 また、写像元の元に対応する写像相手の元との関係、集合を構成する元と元との関係の背後にどの様な関係があり、その関係の背後にどのような働きが隠されているかが、重要となる。

 等しいとは、右辺の指し示す集合と左辺の指し示す集合が等号で結ばれているという事を意味する。

 複式簿記では、右辺と左辺は、それぞれ独立した空間を有している。それが会計空間の前提となる。

 等しいという概念では、交換法則、結合法則、分配法則が重要となる。

 数学の重要な特性の一つが視覚性と操作性にある。つまり、目に見えて操作できる点にある。それを端的に表しているのが方程式である。

 経済では、方程式の構造と操作が重要になる。
 学校の数学では答のみを重視するが、経済や経営では、解答よりも過程や数式の構造が問題となる場合が多い。
 経営分析では、何を分母とし、何を分子とするのかが、要諦となる。

 総資本経常利益率(ROA)は、経営分析をする上での代表的な指標である。
 総資本経常利益率=経常利益÷総資本(総資産)×100%
    =(経常利益÷売上高)×(売上高÷総資本)×100%
    =売上高経常利益率×総資本回転率。
 総資本経常利益率は、売上経常利益率と総資本回転率を掛け合わせた指標である。
 この事は、利益をあげるためには、回転数を増すか、利益率をよくするかだと言うことを意味している。
 また、売上高経常利益率は、経常利益÷売上高と表現できる。売上高経常利益率は、売上と経常利益からなる。そして、どちらも上昇か下降かしかない。という事は、売上高利益率の変化の形は、一つは上昇と下降の組み合わせか、上昇、下降の速度の問題となる。そして、一つ一つの形の背後にある関係や働きを読みとることが重要となるのである。
 総資本回転率も同様である。
 総資本回転率は、売上高÷総資本である。
 総資本回転率を上げるためには、売上高を上げるか、総資本を小さくするかしかない。
 この様に個々の方程式の形に秘められた要素を解析した上で、率が意味するところと回転が意味するところを理解する必要がある。

 経済の指標を考える上では、総量と配分を見極める必要がある。経済には、朝三暮四的な事象が多くある。微視的な観点から見ると朝三暮四的な事は、見分けがつく。しかし、国家的次元になると朝三暮四的な事象は見えなくなる。
 ゆえに、方程式の構造が重要となるのである。問題となるのは、絶対額なのか、相対比率なのか、その点を見極めないと経済の本質には近づけない。
 時間で言えば、負債と現在価値、或いは、将来価値とキャッシュフローの均衡が重要となる。

 市場の規模に応じた流通する貨幣残高の総量とその貨幣の働きの構成比率の均衡が決定的なのである。それが、三面等価を形成するのである。
 貨幣の働きが一点の均衡点に収束、或いは平衡するか仕組みになっているか、或いは発散する仕組みになっているかによって財政状態の安定度は測られる。

 資産や負債というのは、貨幣の循環運動が生み出した値であり、貨幣の運動がなければ、成立しない。あくまでも、市場経済においては、貨幣の循環量と残高の量が経済活動を決定するのである。

 市場経済とは、終わりのない映画のようなものである。市場経済というのは、残像、即ち、影によって動かされているようなものである。実体を見失うと仮想的現実に入り込んでしまう。

 資産、負債、資本は、残存価値である。貨幣価値として表示されていても貨幣としての実体があるわけではない。

 本来、貨幣の働きは、取引が成立した時点で解消される。しかし、長期的な資金の働きを計算すると、取引によって発生した貨幣価値は、残存して債権と債務を形成する。

 資産、負債、資本には、貨幣としての実体はないが、貨幣の流れに対して、長期的な影響を及ぼしている。そして、資産と負債、資本は、対極に位置し一対で形成される。つまり、資産が形成されれば、同時に、対極に負債か、資本が形成される。つまり、資産があれば、負債、或いは、資本も存在するのである。

 資産の本は債権であり、負債、資本の本は、債務である。債務と債権は、一組、一対で成り立っている。それを解消するのは貨幣の流れである。

 現金、及び、現金同等物を除き、資産には、貨幣としての実体はない。貨幣としての実体がないという事は、貨幣としての働きはない。

 現金、及び、現金同等物が総資産に占める割合や現金、及び、現金同等物以外の資産と負債の割合が重要な意味を持ってくる。

 企業も、家計も、財政も、資金が廻っている限り破綻することはない。逆に言えば、資金が廻らなくなれば、企業も、家計も、財政も、成り立たなくなる。

 企業の赤字、経常赤字、財政赤字、家計の赤字、赤字の直接的な原因は違うが、同じ仕組みの上に成り立っている。

 赤字になることが予測された場合、企業にせよ、家計にせよ、財政にせよ、どこからか資金を調達してこなければ破産する。
 資金調達には、資産や将来の収益を担保する場合と収益による場合の二種類の手段がある。資産や将来の収益を担保するとは、長期的資金、即ち、資産の残存価値を基としている。それに対して、収益によって資金を調達するのは、現在的価値を基としている。

 収入から消費を引いた残りが貯蓄に廻るとしたら、収支という視点から見て利益に相当するのは、貯蓄だと言える。

 可処分収入から消費を除いた部分が貯蓄となる。期間損益で貯蓄に該当する部分は、収益から費用を除いた利益の部分である。つまり、利益には、貯蓄と共通した働きがある。逆に、貯蓄には、利益と共通した働きがある。
 消費の基礎となる部分は生活費である。基礎となるとは、必需品をさす。
 可処分所得は、固定的な支出を除いた部分であり、住宅ローン、自動車ローンの支払いのような長期借入金の返済額が含まれる。この点が、企業会計との決定的な違いである。

 負債と預金は、表裏の関係にある。
 例えば、住宅ローンを組んで住宅を買うのと定期預金を積み立ててお金を貯めて住宅を買う様な場合を想定する。ある一定額の資金が、払われる事は同じである。違うのは、ローンを組んで家を買った場合は、住宅をしよう、運用することが可能となる。それに対して、定期預金を積み立てた場合は、お金が貯まるまで、住宅をしよう、運用することは出来ない。反面に、預金を他の使い道に転用することがいつでも可能である。それに対して、住宅ローンを組むと他に転用することが出来ない上、支払が滞ると状況によっては、住宅を差し押さえられたり、最悪の場合、破産する。

 問題なのは、本来収支、損益という短期的な資金の問題のはずなのが、資産の下落と言った事態が発生すると長期的な資金の問題にすり替わることである。
 担保価値が下がったからと言って不良債権だと決め付けて一時的に返済が滞った場合でも、ひどい場合は、一度も返済が滞っていなくても資金を回収しようとすることである。

 企業会計では、長期借入金の返済は、費用とは見なされず、それに代わって減価償却費が計上される。しかし、減価償却費は、長期借入金の返済額とは独立して設定される上に、減価償却費の基となる減価償却資産の中には、不動産は含まれていない。

 結局、経済成長を促進するのは、負の部分である。
 負の部分とは、貨幣経済の部分である。
 家計や企業は、収入の一部を貯蓄に廻す。貯蓄は、金融機関の借入、即ち、負債に転化し、金融機関の負の部分が企業や家計、政府に投資される。企業や家計、政府に対する投資は、企業や家計、政府の借入、即ち、負債、或いは、収入に転化される。
 この様に貨幣は、負の部分を形成しながら巡り巡って経済を動かしているのである。この貨幣の循環運動が物流を起こし、財の交換・分配を促す。そして、負の部分が貨幣の供給と循環を司るのである。それが経済の仕組みである。

 貨幣経済を基盤とした経済体制では、価格、即ち、物価と収入、即ち、所得の関係が基礎となる。適正な価格と安定した所得をいかに保証していくかが、自由主義経済は、根本的な課題となる。
 日常生活においては、所得に占める可処分所得の割合と生活必需品の費用との関係が基本となる。
 又、非可処分所得に占める借入金の返済額、つまり、固定費の構成が基礎となる。

 市場経済では均衡点が重要なのである。どこで均衡するかが、重要なのである。

 財政を考える上では、政府の負債残高対GDP比率が重要になる。また、対外資産・負債のGDP比率も重要となる。(「世界経済は、通貨が動かす。」行天富雄編PHP、「2012年大恐慌に沈む世界、甦る日本」三橋貴明著 徳間書店)
 財政赤字は、国家収入を国家支出が上回ることで生じる。解決策は、収入の拡大を計るか、支出を削減するかしかない。
 この方程式は、総資本回転率の式に似ている。つまり、財政は、資本の回転の問題でもあるのである。
 収入の拡大を計るというのは、拡大均衡型であり、支出の削減は、縮小均衡型である。
 国家収入の拡大を計るのならば、経済成長、即ち、GDPの拡大を画策すべきであり、支出の削減ならば、公共投資の見直しや行政改革を行うべきなのである。拡大均衡にせよ、縮小均衡にせよ、いずれにしても、採るべき施策やタイミングを誤るとインフレーションやデフレーションを引き起こす危険性がある。
 拡大均衡型の解決策を採るのか、縮小均衡型の解決策を採るのかは、問題の原因が長期的な構造に基づくのか、短期的な変動に基づくのかによって選択されなければならない。
 状況を見ずに一律の施策を採る為政者は、診断もせずに処方を決めるような藪医者である。

 この点は、経常収支も同じである。
 ただし、経常収支は、基本的にゼロサムだと言う事である。ゼロサムというのは、黒字があれば、赤字もあるという事であり、この歪みは時間的にも物理的空間にもある。
 この様な歪みを単年度に均衡させようと言うのは、最初から無理がある。予算の単年度均衡というのは、不可能なのである。
 歪みは時間的空間的構造によって起こる。故に、解消は、中期的、長期的、また、全体的に計る必要がある。

 財政は、現金主義であるために、資金の長期的働きと短期的働きが未分化な事である。その為に、投資や融資と費用との区分がされないという事である。公共投資、支出と言ってもそれが、単なる費用なのか、それとも貸付なのかが明確に区分されない。費用を減らして貸付を増やすと言った操作が出来ないのである。

 財政や経常収支を赤字か、否かだけで判断するのは危険なのである。
 経常収支は、黒字国があれば赤字国がある。ゼロサム関係上に成り立っている。その前提を忘れたら経常収支の適正な位置は決められない。
 正の働きがあれば、必ず対極に負の働きが生じる。それが貨幣経済の鉄則なのである。肝腎なのは、正の働きと負の働きの均衡であり、幅である。
 問題は、負の持つ働きである。

 負や赤字を悪い事と決め付けることが間違いなのである。負や赤字というのは、損益の相対的な位置を示しているのにすぎない。
 重要なのは、その相対的な位置を形成している働きであって、その位置が恒久的な位置なのか、一時的な位置なのかによって解釈の仕方も違ってくる。また、損益の構造に偏りがあったり、大きくすぎたり、固定的な部分があったりした場合が問題なのである。

 貧困は、極端な偏りや格差が最大の原因である。そして、市場経済が公平な分配を目的としているならば、貧困は、市場経済が破綻した結果なのである。
 過度の競争は換えって市場経済を破綻させる。ただだからといって、一律均等は、市場経済の活力を失わせる。適度な競争があって市場経済は成り立っている。競争がなくなれば市場は機能しなくなる。

 数学の操作の基本は、四則の演算である。四則の演算とは、足し算、引き算、掛け算、わり算を言う。即ち、足し算、引き算、掛け算、わり算が演算の基本である。
 数学の基本は四則の演算である。つまり、四則の演算さえできれば数学の基礎を習得できる。逆に言えば、四則の演算は奥深く、難しい局面を持っているのである。釣りは鮒に始まり、鮒に終わると言うが、数学も四則の演算に始まり、四則の演算に終わるという側面を持っていることを忘れてはならない。

 四則の演算を理解するためには、順序を理解する必要がある。順序が数の量的な位置を示すからである。そして、この位置は貨幣価値を理解する上で重要な鍵となる。

 経済では、価値が等しいという事が意味する事が重要である。価値が等しければ交換が可能だと言うことになるからである。そして、この価値が等しいというのを等価と言い。貨幣経済ではどう価格の財を等しいとするのである。

 価値が等しいという事は重要な意味を持つ。しかし、価値が等しいという事は、何を意味するのであろうか。価値が等しいという事は、等号によって表現される。故に、等号には零という意味が隠されている。

 経済では、負に相当する部分も重要な役割を果たしている。負債や費用、損失というのを多くの人は、悪い物、或いは有害な事象という捉え方をしている。その為に、負債や費用、損失という物を一方的に否定し、直視しようとしない。

 正と負とは言い換えると陽と陰である。

 失敗は、成功の母という格言があるが、負債や費用、損失は、利益の前提でもある。負の働きがあって正の働きも有効になるのである。
 そして、等しいという意味には、ゼロサム、即ち、ゼロによって均衡するという意味がある。

 その典型が、為替の均衡である。市場がゼロサムならば、負の働きを肯定しない限り、市場の働きを解明することはできない。そこに等しいという意味の重要性があるのである。

 敗者がいなければ勝者は成立しない。一人の優勝者の影には、何十人、何百人、、何千人もの敗者がいる。その敗者に目を向けない限り、勝者は勝者たりえないのである。

同一性



 同一視と言う行為は、数学の淵源となる。

 同一視というのは、幾つかの対象、事象を同じ事、或いは、物と見なすという事である。この事が数を考える場合の根本である。
 つまり、数の性格の背後には、共通の要素や性格が隠されていることを意味している。
 そして、この同一性は、共通性に繋がり、そして、その共通性から抽象化が始まり数の概念を構成していくのである。
 この抽象化は、象徴化を派生され、貨幣概念の核心部分を形成する。つまり、貨幣は、交換価値を象徴化した物なのである。
 そして、同一性が貨幣の働きを性格付けている。

 二つの事象、対象を一対一の関係に於いて同じ物、同じ事と見なす。それを敷衍することに於いて、同じ要素の集合を構成する。その集合が数の概念の根源となる。
 数学の根幹をなす重要な概念である。
 この同一性という概念が数学の根幹をなしているのである。
 つまり、同一という概念が数の概念の根底に暗黙に存在することを忘れてはならない。
 そして、この同じという概念は存在に対する認識に基づいている。

 同一性は、等しいという概念に結びつく。等しいというのは、二つの対象や事象を同一の事象、対象と見なすのである。この様な場合の等しいは、等しくなると言うよりも等しいとすると言う意味の方が強いのである。
 なぜなら、等しくなると言うのは結果であって前提ではないからである。数学では何を前提とするかが、根本でなければならない。故に、何と何を等しくするのかが、数学の始まりになるのである。
 一とは何かは、何を一とするのか。何を一と見なすのか。何の何処を同じと見なすのか。それが始まりなのである。

 一軒の家と一人の人間を一という概念で同じ物と見なす事は可能である。しかし、実際には余り意味がない。なぜならば一軒の家と一人の人間を同じ物と見なす必要性が認められないからです。
 一軒の家と一人の人間を等しいとする必然性がないのである。故に、一軒の家と一人の人間を等しいとする意味がない。では、何をどの様に考えれば等しいとする二つの事象や対象を蓋然性が生じるのか。そこに、経済では交換という概念を導入する事になる。それが貨幣価値である。

 貨幣単位と掛け合わせることで、交換価値に還元し、一定の値に基づいて等しいとするのである。それが、貨幣経済における経済計算の基本となる。それ故に、貨幣経済は市場取引を前提とせざるを得なくなるのである。

 同一性を表す記号は、等号である。等号は、右辺と左辺を同じと見なす記号である。
 等号以外に右辺と左辺の関係を表す記号には、>、<等があるが、しかし、等号の働きは、数学では特別の役割を果たしている。

 重要な事は同じと見なす事で、数の体系を閉じる事が可能となるのである。閉じるというのは、要素と要素を一対一の関係に特定できる事を意味する。
 この関係が貨幣経済の根拠となる。物と金、物と物、金と物の関係を一対一に結びつける事が可能とするのが等しいと言う関係である。
 その意味に於いて同一性というのは経済の基本的概念の一つと言える。

 等号によって変数も未知数も働き出す。
 交換の法則や分配の法則、結合の法則も成り立つ。
 四則の演算も成立するのである。

 等号は、対称、非対称を判定する。
 等号は、解を導く。

 等号は、複数の事象を接続する。
 等号は、複数の事象を結合する。
 等号は、等式を構成する個々の要素の交換を可能とする。
 等号は、特定の要素を分配する。

 又、等号は正の数と負の数の境界を設定する。負の数とは足して零になる数である。
 等号は、零の意味を設定する。正と負を画するのである。

 等号というのは、ある意味で原点であり、零以上に基点という働きをしている。
 等号と零とが一対になった時、数の体系は閉じるのである。
 等号は、数の体系の開閉を司っている。

 等号は、ゼロ和を成立させる。
 ゼロ和を成立させる事象は、一つの事象を完結させる。
 ゼロ和は、正と負の関係を成り立たせる。
 即ち、足すと零の関係である。
 この足すと零の関係は、対称非対称の関係を判定する。

 ゼロ和は、ゼロ均衡である。
 ゼロ和において平均はゼロである。
 総和がゼロとなった時、市場は単一になる。
 ゼロは一になる。

 市場はゼロ和である。市場取引もゼロ和である。
 故に、市場はゼロにおいて均衡する。市場がゼロにおいて均衡するという事は、黒字があれば赤字が存在する事を意味する。
 ゼロ和という事は黒字がいいか、赤字がいいかと言うのではなく。如何に全体的に、時間的に均衡させるかが問題であり。最初から黒字が是か赤字が否かという議論は成り立たないのである。

 均衡によって静止し、不均衡によって動く。
 市場は、均衡によって安定し、不均衡に流動になる。

 市場取引をゼロ和に設定する事で市場は常に均衡に向かう力が働くようになる。均衡とはゼロである。ゼロに至ると経済は静止する。故に、経済を動かすためには不均衡を継続的に引き起こす仕組みを人為的に作り出す必要がある。

 市場、経済を動かすのは、基本的には差である。差には、時間的差と距離差、量的差がある。
 期間損益は、時間価値を生み出す事によって成り立っている。即ち、如何に生み出させるかによって市場は成り立っているのである。
 即ち、期間損益は、単位期間に区切る事で時間的不均衡を生み出し、その不均衡を原動力として市場を動かす仕組みなのである。

 貸し借り、売り買いは、ゼロ和である。
 支出と貯蓄は収入に対してゼロ均衡である。
 現金収支は、経済の本質の働きを実現する。即ち、生産、分配、消費を直接制御するのは現金収支である。

 現金収支によって生じた差は、貸し借りで補う。
 貸し借りの元は、預金と借金である。
 貸し借りは、通貨のフローとストックを制御する。

 取引は、ゼロ和である。故に、放置すれば市場取引によって生じる経済的価値の総和は、ゼロに収束する。
 ゼロになれば一となる。つまり一で均衡する。それが独占市場である。

 運動の基本は、回転運動と直線運動の二つである。
 循環運動の根本も周期運動の根本も波動の根本も回転運動である。

 故に、経済事象で問題なのは、正と負の関係が継続的な事象なのか、一過性の事象かである。
 それは、事象が回転運動に基づく事象か、直線運動に基ずくかを判定する。

 その上で規則性の有無が問題となる。
 規則は、周期性の根拠となる。

 同一性は、周期性の根拠となる。同じ事を繰り返す事によって周期は定まる。

 この周期性を人為的に設定し、経済的運動を測定しているのが期間損益である。
 期間損益は、現金収支に結びつく事で意味を持つ。

 複式簿記に基づく経済的価値、零に対して均衡している。均衡するとは等しい事を意味する。
 零に基づいて均衡する事によって複式簿記によって成立する正の空間と負の空間は、常に、零に対して均衡する。

 複式簿記によって構成される勘定は、自然数の集合であり、足し算、掛け算、引き算に対して閉じている。

 等号によって正と負が生じる。
 等号に結ばれた正と負の勘定は、足して零になる勘定である。
 正は、+、負は-。
 正は、左、負は右。
 正は、借方、負は貸方。
 正は、実質勘定、負は名目勘定。
 正は債権、負は債務。
 正は、生産物や資産、負は、金融と収益。
 金融と収益は収入と支出を構成する。

 収入は支出の上限を画定する。収入とは、視点を変えると資金の調達である。
 故に、収入は、資金の調達手段によって制約を受ける。
 資金の調達手段は、生産手段と金融手段、資本的手段に基づく。
 資金の流通量は支出と資金の回転によって決まる。
 収入は負に基づき、支出は負を正に転化する。

 支出には時間が関係する。支出と時間が掛け合わさる事で長期負債が成立する。
 長期負債は、固定的支出となる。

 収入は最大値を求められ、支出は最小値を求められる。
 拡大と抑制、両極への働きが経済効率を高める。

 経済の作用の本質は分配であり、原則は、正と負の均衡である。
 正の均衡の基礎は、費用と資産の比率によって形成される。
 負の均衡の基礎は、負債と収益の比率によって形成される。

 費用と負債が連動し、収益と資産が連動する。
 資本と利益が連動している。
 費用の増加が負債の増加に結びつく場合がある。
 費用は、所得に転換される。所得は収益の根拠となる。
 所得の上昇は、物価と収益の上昇を招く。
 所得の上昇は、費用を押し上げる。
 費用の削減は、所得の低下に結びつく。

 現金残高は、利益に連動している。
 現金収支の残高を、常に、一定、かつ、正の値に保つ。

 部分の働きと全体の働き、常に同じ方向を向いているとは限らない。

 社会全体の金利負担は、個々の企業の金利の水準ではなく、社会全体の負債の総和の水準を基としている。

 現金は、負債によって供給される。故に、現金を供給すると社会全体の負債の水準は上昇する。
 即ち、社会全体の負債水準が上昇すると資金の流量が増加する。資金の流量が上昇すると資産、収益、費用の水準が資産水準、収益水準、費用水準の順で順次、上昇する。収益の上昇は、生産力を高める。生産力が高くなると生産物の供給が過剰になる。生産財が過剰に市場に供給されると市場は飽和状態に陥る。飽和状態になると市場は、拡大局面から縮小局面に転換する。
 市場は、飽和状態となると、収益の上昇にブレーキがかかる。収益の上昇が停滞は、費用と負債の比率を高める。費用と負債の比率が上昇し、収益と資産の比率が下降すると結果に資金の調達能力が低下する。

 この様な市場の変化を償却費と税の働きが増幅する。

 労働には、正の労働と、負の労働がある。
 正は、生産的労働、負は、非生産的労働である。
 非生産的労働には、金融労働と消費的労働がある。

 黒字を生み出すのは、正の労働であり、赤字を補填のは負の労働である。
 現金収支は、正と負の労働の均衡によって安定する。
 故に、経済全体は、現金の動きと損益の動きを調和させる事によって完結する。

 経常収支を考えた場合、一定期間で黒字と赤字を振幅する運動と見るのか、短期的に均衡する運動としてみるのか、直線的に蓄積する運動と見るのかでとるべき施策は変わる。その点を見極めないで黒字が是か、否かを論じるのは愚かである。




対称性について


 対称性は、認識の作用反作用から生じる。
 自己というのは、認識主体であると同時に、間接的認識対象である。
 見る自分と見られる自分がある。人が、見える範囲は、自分の視野に限られているのに対し、人は、直接自分を見ることは出来ない。
 つまり、何等かの対象に反映させることによって自己を認識する。これが認識において、作用反作用の関係を生み出す。
 見る自分と見られる自分は、媒体を通すことによって等しくなるのである。
 つまり、等しいという概念は認識上において成立するのである。存在それ自体を意味するわけではなく、故に相対的なのである。

 等しいというのは、量的な対称性を意味する。等号によって表される方程式の構成、即ち、質は、必ずしも対象ではない。価値の質とは、価値の持つ性質であり、性質は変化の方向性を意味する。

 順序づける基準は、高低、大小、多寡、時間、速度といった多様な特性がある。ここにも、数の特性である質と量との分離がある。

 経済の仕組みも会計の仕組みも、何かしらのフラクタルな構造を持っている。

 四則の演算を理解するためには、引くとか、足すとか、等しいという事が実際にはどの様な事象を指して言うのかを明らかにする必要がある。

 引くというのは、取り去る、出る、抜く、奪い取る。減る、減少する、消去する、除去する、さがる、抽出する、掘り下げる、割り引く、また、時間的に言うと遡る、戻るといった事象を指す。
 足すというのは、加える、入れる、与える、増やす、増大する、上げる、生産する、追加する、載せる、盛り上げる、注入する、割増す、進めると言う事象を言う。

 等しいとは、均衡する、同じ数量である、同じ結果になる、元に戻る、ゼロになると言った事象で意味する。

 +、-は何を意味するのか。
 -(マイナス)と言うのには、二つの意味がある。一つは、負という位置を示す意味である。もう一つは、引くという演算である。つまり、+とマイナスには、位置と運動の働きがあるのである。
 +と-の量が一致することが等しいことである。

 つまり、等しいという意味を明らかにする前提は、何が起点なのか、何が基点なのか、何が、原点なのか、何が始点なのか、何が中心なのかによるのである。基点が明らかでなければ等しいという意味も確定できない。

 良い例がゴルフである。ゴルフはハンディがあって始めて対等に建てることを前提としている。
 生まれたばかりの赤ん坊と成人とを等しく扱うことはできない。経験や技能のある者と未経験、未熟な者とを対等にするのは不平等である。
 何を基点とするかが、経済的に等しいとする場合、重要な要素となる。しかし、それは定性的な要素であって、定量的な要素ではない。等しいという概念は、最終的に個別、特殊な要素に還元されなければ有効ではない。それが経済の実相である。

 ゼロサム関係では赤字と黒字は、空間的、時間的に対極する部分が存在している。故に、赤字の部分だけ見ても赤字の真因は解明できない。その場合、赤字の部分と黒字の部分は、同時に解析しないと真の原因を明らかに出来ないのである。

 預金者からみると預金でも、金融機関から見ると借金である。預けるというのは、視点を変えると借りることを意味する。貸しも借りも根本は同一なのである。同一の資金が認識する位置によって貸しとなり、借りとなるのである。資金は、この貸し借りの関係と同質の関係によって流れている。言い替えると資金が流れる事で貸し借りの関係が生じるのである。資金が流れることで貸し借りの関係が生じるような事象を取引というのである。
 不換紙幣に基づく貨幣制度は、誰かが、借金をすることで成り立っている。貨幣経済は、本質的に借金経済である。
 借金をする経済主体は、第一に、財政主体である。第二に、経営主体である。第三に、家計主体である。第四に、個人である。
 不換紙幣は、国家が、発券機関から借金をすることで資金が循環する仕組みである。
 貸し借りは、表裏の関係にある。貸し借りの関係によって貨幣は循環する仕組みなのである。そして、貸し借りは表裏の関係ある。貸し借りは、鏡像対称なのである。

 表裏の関係は、その根本において同一なのである。表裏関係は、鏡像対称である。

 借金がなければ、貨幣経済は、成り立たない。故に、中央銀行の独立性がある。中央銀行は、貨幣的な働きにおいて財政の鏡なのである。政府が直接、貨幣を発行するとこの貸し借りの関係が生じない。逆に考えると負債がなくなることは通貨が消滅する人をも意味している。借金の存在が悪いのではない、要は、借金の量が適切であるか否かである。借金の量と流れる方向を管理することによって貨幣経済は制御される仕組みなのである。

 収入と支出は表裏の関係にあることを忘れてはならない。収入と支出の対称的な局面と非対称的な局面がどの部分なのかを明らかにする事が重要なのである。基本的には、収支の均衡を保つことである。
 社会全体で見れば、支出が減少すれば、収入も減少するし、支出が増えれば収入も増える。
 収入が減れば、支出が減る。収入が増えれば支出が増えるという方が解りやすい。しかし、現実は、収入が増えても支出が増えるとは限らないし、収入が減っても支出が減るとは限らない。むしろ、社会全体では支出が減れば、収入が減り、支出が増えれば収入が増えると考えるべきなのである。
 支出は、裏返すと企業収益や税収である。故に、支出が減れば収益が減少することになる。収益が減少すれば、経費も削減せざるをえなくなる。つまり、支出の減少は縮小均衡への転換を意味するのである。
 安売り業者の横行は、家計面で、節約に結びつくように思われるが、雇用の減少や経費の削減によって社会全体からみると収入の減少に結びつくことを見落としてはならない。

 市場取引は表裏の関係にある。市場取引は、基本的にゼロサム関係にあるのである。即ち、市場取引は、同値取引なのである。

 市場取引は、借りるは貸す、貸すは借りる。売るは買う。買うは売るというように、鏡像対称にある。売掛は買掛、支払は受取となる。

 取引とは、運動である。

 個々の市場取引は、鏡像対称である。つまり、取引当事者と取引相手とでは、同型、同量である。
 例えば、10,000円の売買取引は、取引当事者は、借方、売掛金、
10,000円で貸方、売上、10,000円となる。それに対して、取引相手では借方、仕入、10,000円で、貸方、買掛金、10,000円となる。
 この様に、市場取引は、取引当事者と取引相手との関係は、簿記上において反転対称の関係にある。

 為替取引も市場取引の一種である。
 為替取引は、基本的にゼロサムなのである。経常黒字な国があれば、経常赤字の国が生じる。外貨の準備を蓄える場合は、その外貨を拠出する国があって成り立つ。問題は全体としての均衡、調和であって赤字の是々非々ではない。仕組みの問題なのである。

 金融は負の経済であり、実業は正の経済と言える。経常黒字の国があれば、経常赤字の国がある。陰陽、経済赤字と黒字は表裏の関係にあるのである。経常黒字が善で経常赤字が悪だと単純に考えたら、世界経済の均衡は保てなく。なぜならば、経常収支は国際社会全体から見るとゼロサムだからである。
 金融が負で、実業が正だとすれば、経常収支で赤字の国は、金融、即ち、負に頼らざるを得なくなる。金融を陰とすれば、実業は陽である。陰陽一体となって市場全体を作る。陰の国と陽の国とでは、産業の有り様が違う。

 借方と貸方、総資本と総資産、収益と費用の非対称性によって損益構造は成り立っている。

 会計は、取引の対称性を破ることによって成立する。

 市場取引は、対称性が高いのに対し、組織的取引は対称性が低い。つまり、市場取引の対称性は、組織の内部取引によって破れる。それが利益の根源である。即ち、利益は内部取引によって生じる。

 貨幣は貨幣価値を保存する。それに対して財の貨幣価値は一定しない。財の貨幣価値は常に揺らいでいる。貨幣の貨幣価値を基礎とした名目的価値は一定であり、財の貨幣価値を基礎とした実物価値は常に変動している。故に、会計上の対称性は常に破られている。
 故に、実物価値と名目的価値は非対称性である。実物価値の揺らぎが利益を生み出すのである。

 この様な変位は、傾きとして表すことができる。即ち、微分的な処理によって表すことができる。
 又、変位の総量は積分的な処理によって表すことができる。

 会計は、時間的にも非対称である。財の貨幣価値は、時間的にも一定ではない。それに対して、負債の価値は普遍である。
 貨幣に時間価値を付与するのは金利である。しかし、金利は費用であり、負債には含まれない。負債は、時間に対して不変である。
 将来的価値をどの様に考えるかによって現在的価値が決まる。
 財の将来の貨幣価値が上がると思えば、貨幣を財に交換しようと言う動機が働くようになるし、財の将来の価値が下がると思えば、財を貨幣に交換しようという動機が働く事になる。

 昔、ごく一部の人間しか買えなかった高級品が一般に普及したのは、皆が、金持ちになったのか、高級品が普及品に変わったのかの何れかである。
 貨幣価値というのは、認識上に成立する相対的な値であり、時間や立ち位置によって変化するものなのである。

 又、貨幣価値は、供給者の側と消費者の側との間でも非対称である。取引が整理することで取引の対称性は失われる。

 市場取引から組織取引、内部取引に相転移する事によって取引の対称性は破れる。

 取引の対称性が破れた時、利益や経済活動が生じる。取引の対称性を破るのは内部取引である。

 市場取引の要素は、資産の増加、負債の減少、資本の減少、費用の発生という群と資産の現象、負債の増加、資本の増加、収益の発生、即ち、借方と貸方を構成する要素の組み合わせである。

 市場取引の形は、第一に、資産の増加と資産の減少。第二に、資産の増加と負債の増加。第三に、資産の増加と資本の増加。第四に、資産の増加と収益の発生。第五に、負債の減少と資産の減少。第六に、負債の減少と負債の増加。第七に、負債の減少と資本の増加。第八に、負債の減少と収益の発生。第九に、資本の減少と資産の減少。第十に、資本の減少と負債の増加。第十一に、資本の減少と収益の発生。第十二に、費用の発生と資産の減少。第十三に、費用の発生と負債の増加。第十五に、費用の発生と資本の増加。第十六に、収益の発生と資産の増加。第十七に、収益の発生と負債の減少。第十八に、収益の発生と資本の減少の十八である。

 そして、取引の組み合わせの中には資金の移動を伴う取引と資金の移動を伴わない取引がある。又、資金の移動を伴う取引にも貸方から借方、借方から貸方へと資金が移動する取引がある。この資金の移動の方向と量が経済活動の有り様を決めている。

 資金の働きは、資金の供給量、流通量、貯蓄量、回転数が鍵を握っている。

 貨幣経済下における経済現象は、貨幣、即ち、資金の循環によって引き起こされる。そして、市場経済では、資産、負債、資本、費用、収益の増減運動として表現される。
 故に、資金の動きと資産、負債、資本、費用、収益の増減との間にどの様な因果関係があるかを解明できれば、経済現象を制御することが可能となるのである。

 資金循環を悪くする要因として考えられるのは、分配構造にある事が考えられる。分配構造とは、第一に、所得と富の偏り、次ぎに、需要と供給の不均衡と貨幣の流通量の過不足である。

 資金は、利益を求めて流れる。利益が上がらないところには、資金は流れていかない。つまり、利益を生み出す構造がなければ資金は循環しないのである。
 利益を生み出す構造は、収益構造である。適正な収益が維持されてはじめて利益は確保される。逆に、不当な利益は資金の流れを歪めてしまう。

 競争の原理と言うが、公正な競争を成立させるのは前提条件である。前提条件によって公正な競争か否かが決まる。
 保護主義というのは、関税や規制を不公平なほどに過剰にすることを意味する。では、前提となる条件、人件費や物価に極端な格差があるのに、同じ条件で競わせることを自由競争というのはおかしな事である。プロの野球選手と小学生とを競わせてそれを自由競争とは言わないのである。

 この様に公正か否かは、前提条件によって決まるのである。
 所得の偏りも又前提条件によって生じる。
 その前提条件を調節するのが制度なのである。

 独裁的であるか、民主的であるかは、考え方で決まるのではなく。仕組みで決まるのである。自由市場というのも考え方によって決まるのではなく、仕組みによって決まる。理念ばかりが先行したら、自由は実現されない。
 過剰な関税や規制も問題だが、全ての関税や規制は悪だと最初から決め付けるのも問題なのである。



貨幣価値は自然数の集合である。


 貨幣単位とは、自然数の集合である。
 貨幣を表象化した物が紙幣である。自然数は、無次元数である。故に、紙幣は無次元の数である。紙幣は紙片であり、紙幣のような表象貨幣は、貨幣自体に物的価値はない。財の貨幣価値への転換とは、無次元化を意味する。
 紙幣には交換価値があると人々に信用されている間は効能を発揮することができる。ただの紙切れだと思い始めたら紙幣は、価値を失う。

 数字とは、無意味である。故に、貨幣も無意味である。無意味だかにこそ、数という働き、貨幣という機能が作用するのである。数字や貨幣にとって大切なのは関わりである。数字や貨幣は何等かの対象と関わることで価値を持つのである。故に、数や貨幣で重要になるのは数や貨幣の働きである。

 数学は形式だと言う事である。故に、貨幣経済も形式である。

 経済的に等しいという意味は、貨幣価値が実現した時、財と実現した貨幣価値とが等しいことを意味する。貨幣価値を実現する行為は取引である。即ち、取引によって生じた価値が均衡していることを意味する。それが会計上の大前提となる。

 しかし、取引によって何が価値として実現するのかである。例えば、物と物との交換、物と貨幣との交換である。また、労働と貨幣との交換である。労働を測る基準は、時間か、成果である。この様な基準は絶対的な尺度ではない。即ち、相対的であり、尚かつ、その時点、時点での取引によって確定する。それが経済を不安定にしているのである。

 我々は、例えば、野菜や肉と労働は、異質な物であることを認識している。しかし、それが一度、貨幣価値に還元されると貨幣として指し示された経済的価値は、等しいという事になる。等しいからこそ交換が可能なのである。それが貨幣経済の前提である。同時に、貨幣価値は、演算が可能となるのである。時間と労働というまったく異質な物を掛け合わせることも可能となる。

 又、等号による堺を超えることによって正と負が入れ替わる。等しいという事は、入れ替わることによって価値が零に還ることをも意味するのである。
 等号の間を移動することで価値が裏返ることを意味するのである。

 貨幣価値に実体があるわけではない。経済的価値が等しいというのは、貨幣が仲介する対象の対称性を意味するのである。

 貨幣価値は、自然数の集合である。
 故に、貨幣価値には、マイナスはない。つまり、整数ではない。貨幣価値は有理数ではない。また、無理数もない。
 貨幣価値では、余りが重要となる。又、残高が重要となる。端数が重要となる。四捨五入と言った切り捨て条件が重要となる。

 貨幣価値において演算の基礎は、和と積になる。

 貨幣価値は、有限な自然数の集合である。それを実現するのは貨幣であり、現金とは、その時点における貨幣価値を実現した物、或いは、値である。

 問題は貨幣価値の根源にある。つまり、貨幣価値の根拠である。それを知るためには貨幣の生い立ちを明らかにする必要がある。

 経済は、生きる為の活動である。経済の始まりは、自給自足にある。つまり、生きる為に必要な物の全てを自分達で調達し、或いは生産する事である。この時点で行われるのは、分かち合う事、即ち、分配であり、まだ、貨幣は必要とされていない。そして、必要とされるのは使用価値である。
 貨幣が発生するのは、交換という行為が成立することによってである。交換という行為は、余剰生産物や不足な物が発生した時、余剰な生産物と不足な物とを交換する必要が生じることによって成立する。その端緒は物々交換である。この時点で物、財には、使用価値の他に交換価値が生じることになる。そして、物々交換が更に発展すると交換価値だけが特化されて貨幣が生じる。ただ、この時点でも貨幣は物としての価値を持ち、尚かつ使用価値も併せ持っている。
 初期の物々交換は、物自体に使用価値がある。

 貨幣としての働きは、交換の媒体である。この貨幣の交換という働きから貨幣の性格が形成される。その第一は、お互いが貨幣、即ち、交換の媒体としての価値を認識し、合意している事。第二に、単位化できる事。第三に計量化できる事。第四に価値を保存できる事。第五に、持ち運び、或いは、移動できる事。

 今日の不換紙幣が成立する前提条件は、第一に、貨幣が市場に浸透していて、貨幣が循環するのに必要な一体量、流通している事。第二に、貨幣の働きや価値が社会的に承認されている事。第三に、貨幣の通貨量が制御できる仕組みを持つ事である。

 まず第一の要件を満たすためには、貨幣が何等かの形で事前に市場に供給されている必要がある。その役割を果たしたのが、金貨、銀貨、銅貨と言った鋳造貨幣、或いは、秤量貨幣である。鋳造貨幣や秤量貨幣は、物としての価値、貨幣の素材の貨幣価値が貨幣価値と同量の価値を併せ持っている事を前提としている。そして、回収を前提とせず単に決済手段として一方的に権力機関から市場に放出される。
 しかし、この様な貨幣は、貨幣の製造力による限界があり、貨幣の素材を調達することが困難になると財政は逼迫する。
 この様な財政状態を補う形で信用貨幣が流通するようになる。
 又、一方的に貨幣を供給し続けると貨幣の流通量を制御できなくなる。

 その為に、過剰流動性が起こり、イインフレーションが昂進する怖れがある。それを制御するためには、行政機関の外に中央銀行を設定し、紙幣の発行権を行政から切り離す。行政は、借入を起こすことを前提とし、貨幣の回収と供給という機能によって貨幣を市場に循環させる仕組みを構築する。
 この時点で貨幣は、基本的に負債の部分を形成するようになるのである。
 最終的に兌換紙幣から不換紙幣へと変換し、最終的には貨幣価値を情報化する。その前提は、国家が借金をし、且つ、その借金の保証をして、中央銀行が発券する事なのである。

 一般に貨幣制度が導入された当初は、貨幣その物が持つ価値に基ずく必要がある。その場合は、貨幣その物に価値があるから貨幣に発行益が生じる。それがシニョレジである。
 市場が飽和状態なるまでは、通貨発行益(シニョレッジ)が生じる。ただし、シニョレッジの効果は貨幣が市場に浸透するまでの間である。市場が過飽和な状態になると過剰流動性となりインフレーションが発生する。
 行政費用は、シニョレッジが成立する段階ではシニョレジに依存することは可能であるが、一旦、貨幣が飽和状態に達したらその後は、貨幣を回収循環することによって行政費用を賄わなければならなくなる。
 その段階になると貨幣は、行政に対して負の働きを持つようになるのである。この負の働きが下部構造となって正の働き、即ち、実物経済が機能するようになる。

 負の経済は、今日の経済の半分を形成している。故に、負の経済の確立も重要であり、不可欠なことである。
 そして、正の経済に基づく社会と負の経済に基づく経済とは、まったく異質の経済社会なのである。

 通貨が一定方向に流れると通貨が流れた量と同量の債権と債務が生じ、逆方向に流れると債権と債務は消滅する。
 通貨が負(負債、資本、収益)の方向から正(資産、費用)の方向へ流れる時、債権と債務が発生し、正から負の方向に流れる時、債権と債務は清算される。

 国も、企業も、家計も、更に、中央銀行も借金を前提として成り立っているのである。国が借金をし投資をすることで、企業も収益をあげることが可能となり、尚かつ、人件費として所得を分配できる。その様にして、企業が借金をして資金を廻すのである。家計も借金をすることによって家を建て、自動車を買うことが可能となる。
 この様な経済の仕組みから見て借金をすることが、悪いと断定してしまうと、経済は廻らなくなるのである。借金が悪いのではなく、貨幣の流量を制御できなくなるのが障害なのである。

 国は、家計や企業から借金をし、家計や企業は、金融機関から借金をし、金融機関は、中央銀行から借金をする。金融機関が中央銀行から借金をすることによって貨幣は市中に流通するのである。
 では、中央銀行は、どこから借金をするのか。それは市場信認、言い替えると、国民から借金をするのである。この最後の部分が肝腎なのである。つまり、中央銀行はどこから、どの様な名目によって借金をするのか。それが貨幣経済の本源を明らかにすることなのである。
 中央銀行が貨幣を生み出す絡繰り(からくり)、仕組みこそ今日の経済を制御する装置が隠されている。銀行の会計の仕組みこそ、又、複式簿記の構造こそ貨幣経済を制御する装置なのであり、また、財政を動かす鍵が隠されているのである。

 貨幣とは、負の価値なのである。貨幣価値は、財の価値を貨幣価値に写像する事によって成立する。即ち、貨幣価値とは影であり、貨幣価値を表象する貨幣は、負の存在なのである。この前提を理解しないと財政を理解することは出来ない。

 EUの問題点は、国家と中央銀行と金融機関とを制御する仕組みにある。全ての機関が一つの枠組みの中で機能できないことが市場の制御を妨げているのである。むろん集権的な構造を持つ必要はなく。分権的な仕組みでも充分に機能することは出来る。ただ、いずれにしても一つの設計思想に基づかなければならないのである。

経済的に等しいとは何を意味するのか。


 我々は、貨幣価値が等しいという意味を正しく理解しているであろうか。貨幣価値が等しいという事が成立するためには、時間の制約があることを忘れてはならない。

 一定の期間、継続的に与えられた値が等しいというのは、変化がないという事を意味する。
 変化は時間の関数であるから、等しいという事は、ある意味で時間が陰に作用していることを意味する。つまり、等しいと言う事を裏返せば、不変的という事であり、時間の影響を受けていないという事を意味するのである。
 それは、会計原則で言えば、原価主義である。即ち、取引を介さない価値は一定であるという思想である。これに対し、時価主義というのは、取引による価値の実現がなくても潜在的な価値が等しければ、その価値は実現したと見なす思想である。ただ、その場合、価値は未実現であるから、必ず実現するという確証はないのである。その点を充分に留意しなければ、経済的に等しいという意味を実現する事はできない。それは時間をどう経済的価値に反映するかの問題なのである。

 もう一つ重要なことは、会計上、取引によって実現した経済的価値は等しいとするという事である。あくまでも、等しいとするのである。実際に取引された物と物の価値が等しいという事を意味しているわけではない。等しいと認識するのである。そして、等しいと認識する事によって会計制度は成立しているのである。何ら客観的な事実に基づいているわけではない。あくまでも取引上の結果に基づいているだけである。つまり、主観的な行為の結果なのである。

 期間損益では、負の価値を前提としている。それが負債である。それに対し、現金主義は、負の価値は、認めていない。借金はあくまでも借金である。借金の対極にある正の価値を前提としてはいない。つまり、資産と負債の総和は零ではないのである。

 期間損益では、負の価値を前提としている。それが負債である。それに対し、現金主義は、負の価値は、認めていない。取引によって生じるのは、現金主義は、収入と支出の差にすぎない。借金はあくまでも借金である。借金の対極にある正の価値を前提としてはいない。つまり、資産と負債の総和は零ではないのである。

 現金主義には、負の経済的価値は存在しない。借金は、借金である。負債とは違う。返さなければならないお金であることは確かだが、負の資産だとは考えない。だいたい、マイナスと言う思想がないのである。つまり、負の対極にある正という概念がないのである。

 家計について考えれば解る。家を買った場合、ローンの支払いは支払である。家計上は、収支が問題になるのであり、家の償却がどれくらい進んだかは関係ない。家は、あくまでもすむための物でしかない。
 家計で問題となるのは、収入と支出の差である。そして、収入を支出が上回り、蓄えがなければ破産するだけである。つまり、お終いである。

 財政が問題なのは、国家が利益をあげているかいないかが解らないからである。つまり、経済的均衡が測られているか、いないかの基準がない。基準がないから借金の額だけが問題になるのである。借金の対極にある財産が問題とならない。収益と費用の発想もない。国家の収益なんて考えようがないからである。最初から収益や費用という思想がないのである。費用ではなくて支出なのである。正と負は、一対の概念である。負だけがあるわけではない。負だけでは成り立たないのである。しかし、現金主義には、負という概念がないのである。だから、国家財政が正と負の均衡がとれているかどうかの判断ができない。

 しかも、利益という概念そのものを否定している。財政上、利益という概念は倫理的に負、マイナスなだけなのである。

 現金主義と期間損益主義の決定的な違いは、現金主義は、取引の結果を元としているのに対し、期間損益主義は、取引そのものを元としていると言うことである。結果として現れている物を対象としているのだから、負というものは想定外なのである。

 自由主義経済は、現金主義と期間損益主義が混在した体制である。過渡期と言ってもいい。しかし、自由主義体制内で暮らす人達の多くは無自覚である。
 現金主義は結果を元とした経済思想であり、期間損益主義は原因を元とした経済思想である。この違いは、予想外に大きいのである。

 現金主義は、結果として現れた現象を基とし、期間損益は、結果の原因となる要因の構造を基とする。

 つまり、現金主義は結果を問題とし、期間損益主義は原因を問題としているのである。言い換えると現金主義は結果主義であり、期間損益は、原因主義である。認識の根底、前提が違うのである。

 現金主義と期間損益主義と根本思想が違う。そして、財政と会計は、現金主義を企業は期間損益主義をとっている。つまり、制度的には断絶しているのである。この点を前提として現在生起する経済現象は、分析する必要がある。

 江戸時代以前では、日本では、所得税という税はなかった。なかったと言うより存在し得ないのである。なぜならば、利益や所得という思想がなかったからである。思想がなければ、利益や所得を課税対象にしようがなかったのである。
 故に、江戸時代より以前では、課税対象は、生産物と言った実物や使役のような存在といった実体のある物に限られていたのである。

 財産と資産の違いである。財産はそれ自体で独自に成立しているが、資産は必ず反対取引を伴って成立している。資産の対極には、負債や資本がある。負の財産というのは存在しないのである。

 財産そのものに価値があるから、貨幣よりも何等かの財産を所有した方が実用性がある。交換する必要が出た時、必要なだけ換金すればいいのである。
 余分なお金があったら、金製品や土地のような財産を購入し、蓄えにしたのである。現代は、単純に、負の資産があるから、蓄えというわけにはいかない。それは、財産は財産として独立した価値を持っていたからである。しかし、資産には対極に負の資産がある。故に、財産のようにはいかないのである。生産した時は、正と負が相殺されて基本的には価値は、零になる。

複式簿記の根本は等しさにある。


 等しいという事は、ゼロサムと言う事である。ゼロサムと言う事は、均衡していることを意味する。ゼロサムを前提とする複式簿記上の取引は表裏を為す取引だとも言える。

 複式簿記が成立する以前には、負の経済的価値は存在しなかった。

 現在の市場経済の問題点は、現金主義と期間損益主義が混在している点にある。例えば、収入と収益の違い、支出と費用の違い、現金残高と利益の違い、借金と負債の違いなどが経済の歪みを引き起こしているのである。更に、税法との違い、即ち、収入、収益と益金の違い、支出、費用と損益の違い、現金残高、利益と課税対象との違いによって生じる経済の歪みを正しく理解しておく必要がある。その上で経済政策や税制を組み立てないと深刻な問題を引き起こしておきながら原因が特定できなくなる危険性が生じる。

 市場経済の基本的な規範は、第一に、現金の残高の範囲内に支出を収める。
 第二に、収入の最大化を計る。
 第三に、支出の最小化を計る。
 第四に、現金残高を規定する要素は、償却、借金の返済、金利、納税額。そして、収入と支出、利益、費用の関係である。
 第五に、借金を固定資産の範囲内に収める。
 第六に、償却と金利は費用に還元される。
 第七に、借入金の返済額、納税額は支出に反映される。
 この様に基本的に現金の流れが経済主体を規制している。
 しかし、経済効果を測定する基準は、収益、費用、利益という複式簿記の原理に期間損益の概念に基づいている。

 収入、支出と収益、費用とは意味が違う。収入と支出は貨幣の動きを意味し、収益と費用は、働きを意味する。故に、収入と支出は、一つの動きを表しているのに対して収益と費用は、働きによって勘定科目が細分化されている。
 費用は、段階や働きによって名称を変えるが、最終的には人件費に還元される。費用は物的要素から人的要素に変換される過程で生じる働きである。言い換えると、費用は人件費の塊でもある。

 問題となるのは、現金主義による概念は、期間損益主義に基づく計算書には現れないという事である。逆に現金の裏付けのない収益や費用が存在するという事である。又、税制上そのどちらにも属さない勘定が存在する。
 例えば、借入金の返済は、決算書には表されないのに対して、減価償却費は現金の裏付けのない費用である。又、一部の費用は税制上、損金と見なされていない。
 この歪みが場合によって資金繰りを危うくする。
 ただこの違いによって市場経済は成り立っていることも現実である。故に、問題となるのは、為政者はこの違いを正しく理解しておく必要があるという事である。

 利益と所得は違う。

 現代社会には余剰利益や借金を罪悪視する風潮がある。しかし、余剰利益や借金には自由経済の根幹をなす働きがある事を忘れてはならない。
 繰越金や内部留保は、悪であるとするから税に苦しめられ。
 借金は、悪であるとするから借金に苦しめられる。
 利益の働きの意味を正しく理解しておく必要がある。
 借金の働きの意味を正しく知っておく必要がある。
 借入金の返済の原資は、償却費と利益の和にある。余剰利益は、繰越金となって資本に組み込まれる。余剰利益を否定すれば借入金の返済原資を失うことになる。
 余剰利益を課税対象としているかぎり、企業は慢性的な資金不足に陥る。それが企業の正常な働きを阻害するのである。
 法人税と所得税とはその性格が違うのである。税制を考える場合はこの点を留意しておく必要がある。

 物を中心とした時代では、象徴的価値を中心とした世界であって、他の価値と言ってもせいぜい使用価値であった。交換という働きによって成立した交換価値は貨幣が成立し、確立する過程で形成されていったものと思われる。
 物中心の時代とは、物々交換、租税の物納時代を言う。物の時代では、価値とは、物その物の持つ価値を言ったのである。

 租税も金納の働きによって費用という概念も形成されていく。それが近代市場経済の成立を促したのである。現代では租税と言うよりも税金といった方が通りが言い。

 物納の時代は、生産量をそのものから税率は決められた。金納になる事によって価値は、即物的価値から離れ、交換という働きから測れるようになった。そこから費用という概念も派生するのである。
 物納時代では、税は、分配と言うよりも権力による収奪である。経済的意味でも分配という働きの基づく概念は確立されていないからである。
 収益、費用、利益というのは、会計的概念である。即ち、貨幣的概念であり、貨幣から派生した働きに基づく概念である。

 現金は、貨幣の流れによる物の動きしか捉えられない。物と金の動きによる人に対する働きを表す事ができなかったのである。

 現金主義が一般だった時代は、貨幣その物に実物的価値があった。当然、貨幣にも相場があったのである。貨幣の持つ実物的価値が、貨幣の実際の価値を決めていたのである。不兌換紙幣には、実物的な価値はない。つまり、金貨や銀貨と不兌換紙幣とでは、貨幣価値の質が違うのである。
 貨幣が実物的価値を持っている時代では、一回一回の取引が完結していた。だから負の資産というのは、想定する必要がなかったのである。現金の授受で決済はすんでしまう。それが実物貨幣による現金主義である。それに対し、不兌換紙幣というのは、国家保証のついた借用証書のようなものに過ぎない。

 期間損益が確立される以前の世界は、実物の世界である。それが期間損益が確立されることによって仮想的な空間が経済の中に入り込んだのである。そして、正と負の均衡という思想によって貨幣経済の基盤が作られることになる。

 現金主義で問題となるのは、現金出納である。現金収入と現金支出の差である。つまりは余りである。この余りがあってはならないというのが現在の財政思想である。この点は、民間企業と正反対である。

 つまり、財政と会計とは基本的思想が違うのである。思想が違う以上、財政と会計とを同じ基準で比較することはできない。単位が違うからである。そもそも、財政には、利益という単位が存在しないのである。

 経済は基本的に残高主義である。だから問題になるのは、余剰が出るか、出ないかである。

 経済は現実である。実際に用にならない物は価値がないのである。つまり、抽象的な物は入り込む余地がない。何等かの実体が余っていなければならない。割り切れなければ余すのである。問題なのは、どれだけ残っているか、残高である。

 期間損益も基本的には残高主義である。ただ、期間損益と現金主義との違いは、期間損益には、負の残高があるという事である。そして、負の残高が正の残高を上回れば、損が出るのである。損も、また、思想の一つである。

 残高主義というのは、元があって、それに、増加した部分と減少した部分を足し引きし、残った残高を基本とする考え方である。そして、残高がなくなったらそれでお終いである。
 残高主義の構造は、算盤の仕組みそのものである。だからこそ、商売上の計算器の仕組みは、どこでも、算盤と似たような仕組みだったのである。
 残高主義という考え方では、ある物はある、ない物はないのである。又、残高主義は、実物主義であり、又、加算主義でもある。つまり、ある物を基本とする考え方である。
 そして、現金主義は、現金の残高だけを基準とする思想である。
 この様な現金主義の考え方では、所得税など成り立ちようがない。現金主義的な発想では、ないものはない。つまり、現金がなければ払えないのである。現金残高がないのに、税金が課せられ借金をしてでも払わなければならない。その辺が割り切れない経営者も多く見受けられる。
 現金主義的な発想は今日でも経営者の間には残っている。だから、経営者の多くは釈然としないのである。手持ち現金がないのに、なぜ、借金をしてまで、税金を払わなければならないか理解できないからである。それは、期間損益では負の資産が認識されるようになったからである。

 会計では、正と負の価値は常に均衡していることが前提となる。故に、貸借、損益の総和の差は零なのである。
 しかし、これは、会計上、貸借、損益が均衡するよう予めに設定しているからなのである。また、会計上の価値の総和が零になるの様な仕組みに、最初からなっている結果なのである。そして、それが、又、歪みや偏りを生む原因でもあるのである。

 経済の数学は、実用の数学である。又、合目的的な数学である。故に、単純明快さ、わかりやすさが要求されてきた。それは今日でも変わりないのである。


三面等価が意味する事



 貨幣は、流れることによって流れた量と同量の債権と債務を生み出す。つまり、貨幣は、貨幣の流量と債権、債務の三つの要素からなる。この三つの要素は、必然的に三つの働きを生み出す。
 貨幣には、支出、所得、生産の三つの働きがある。貨幣の三つの働きは、取引を通じて流れることによって発揮される。故に、貨幣は、通貨とも言う。通貨が流れる事によってこの三つの働きは、各々、需要、付加価値の創造、分配の三つの側面、次元を形成する。そして、この三つの働きは等価になる。
 働きが等価と言う事は、全体の働きの総和は0になる。

 我々は、資本金とか、預金、税金などと言うとそこにあたかも現金が蓄えられている様に錯覚する。しかし、実際は、現金が実際にあるとは限らないのである。資本金も、預金も、貸付金も、税金も現金が流れた痕跡に他ならない。言い替えると現金が通過したことによって派生した働きに過ぎない。この点を忘れてはならない。貨幣価値とは、貨幣が流れることによって生じた働きを言うのである。

 通貨は、常に流れているのである。又、常に流れていることを前提として市場経済は成り立っている。通貨が流れなくなると市場は機能しなくなる。これが、市場経済の前提である。
 通貨が流れると言うことは、循環していることを意味する。循環すると言う事は通貨が循環する周期、サイクルが問題となる。

 市場価値は取引によって成立する。取引は、貨幣と財との交換を意味する。取引が成立する、即ち、財と貨幣とが交換されることによって付加価値が認識されるのである。先ず、それが生産と言う局面を形成させる。次ぎに、貨幣を出して、財を受け取ると言う行為から支出が成立する。そして、貨幣を受け取って、財を渡すという行為から所得が成立する。支出は、重要を形成し、所得は分配を形成する。

 恒等式とは、等号で結ばれた左右二つ数式の変数が、どの様な値でも常に成り立つ式を言います。
 方程式とは、ある条件を満たす変数しか成立しない等式です。
 経済では、与えられた式が方程式か、恒等式かが重要な意味を持つ事がある。
 経済公式の多くは、恒等式の一種である。

 特に、ゼロサムになる組み合わせが重要な意味を持つ。

 経済の三面等価や貸借の均衡と言った概念の基礎は等しいという事である。数学のみならず、現代社会において等しいという概念は、重要な概念である。しかし、等しいという概念の意味、働きについて、漠然と、或いは、画一的に多くの人は捉えてそれで良しとする傾向がある。特に経済的事象において等しいという事に意味は蔑ろにされてきた。しかし、経済的な事象、経済的価値において等しいという意味は重要な意味を持ってくる。
 経済的な意味で何をもって等しいとするのか。経済的に、等しいと言う意味は、一様ではない。故に、何がどう等しいのかが重要になるのである。経済においては、何を等しいとするのか、その前提が決定的な働きをする。
 経済的に等しいとは、第一に、位置が等しいと言う意味がある。第二に、方向が等しい。第三に、働きが等しい。第四に、量が等しい。第五に、状態が等しい。(均衡)第六に、関係が等しい。第七に、前提、初期条件が等しい。第八に、形式が等しいと言う意味ががある。
 何を等しいとするかによって経済的な意味は微妙に違ってくる。それは、何を基準とするか、即ち、前提条件の差に依って生じるのである。

 等しいというのは、同一の実体を視点を変えてみるという事を意味する場合もある。なぜ視点を変えてみる必要があるのかという事である。
 貸借均衡や三面等価である。

 貸借均衡を例にすると、貸方は、資金の調達を意味し、借方は、資金の運用を意味する。
 資金調達は、基本的に三つに区分される。一つは、借入、即ち、負債である。二つ目は、投資、即ち、資本である。もう一つは、収益である。資金調達の手段に占める負債、資本、収益の割合の変化を見ると資金の流れは見える。そして、これらの資金の働きは、資金の運用の周期、即ち、長期資金か、短期資金かによって差が出る。 
 また、資金の流れる方向は、資金の運用の内容によっても違ってくる。
 資金の運用は、第一に、投資、第二に、資金の過不足(運転資金)の調整である。そして、第三に、費用、即ち、消費である。又、運用された結果は、流動資産、固定資産、費用に集計される。
 この調達と運用の均衡が保たれなくなると経営の継続は危うくなる。
 最終的には、債務、債権の均衡と資金の流れによって経営は継続される。企業経営において決定的な働きをするのは、資金の流れ、働きである。だから、資金の運用の内容が経営上の鍵を握るのである。
 経営の動き、変化を知るためには、負債、資本、収益の構成比と投資、運転資金、費用の構成比を割り出し、調達と運用を構成する要素間の関係を明らかにする必要がある。

 例えば、市場環境が厳しくなると収益が圧縮されて、相対的に負債の占める割合が増大する傾向があり、その時、費用が抑制できないと運転資金が圧迫を受ける。この様な場合、単に、運転資金を供給しただけでは、経営の状態が改善されるわけではない。収益の拡大を測るか、費用の圧縮をするかしなければ、事態は好転しない。その場合、重要になるのは、収益の悪化の原因が内部要因か
外部要因か、或いは、一時的な現象なのか、構造的欠陥なのかである。それによって対応の仕方に違いが生じる。

 また、対策を立てる時に鍵を握るのは、資金の働きである。資金の働きは、長期資金か、短期資金か、又、現金かによって違いがある。長期資金は、主として設備投資に向けられ、短期資金は、運転資金に使われる。費用は、現金によって支払われる。この違いが、資金の調達に影響する。この様な資金の動きが、企業の債権債務構造を形成していくのである。

 企業経営における債権、債務、資金の働きは、国民経済の三面等価にも共通に見られる。

 三面等価とは、生産と、所得と、支出の三つが等しくなることを言う。生産と所得と支出が等しくなるという事が何を意味するのか、又、経済の変化に対して生産と支出と所得がどの様に関連して動くのかに経済現象の秘密を解くカギが隠されている。
 生産を言い換えると付加価値を意味する。所得とは、分配を意味し、支出とは、民間消費、設備投資、財政支出などを意味する。そして、三面等価の意義を知るための鍵を握っているのは、三面等価が資金の流れにどの様な影響を及ぼすかである。
 ここで問題になるのは、生産とは何を意味する。即ち、どの様な要素によって構成されているか。同様に、所得や支出は、何を意味し、どの様な要素によって構成されているかである。そして、生産や所得、支出を構成する各要素がどの様な働きをし、個々の要素はどの様な関係によって結ばれているかである。

 三面等価から何が判明するのか。
 国内総生産、国内総所得、国内総支出を構成する要素や全体の前年対比、或いは、三年から五年の水位によって傾向の変化を捉える。
 生産、分配、支出の構成比によって構造的変化を捉える。
 また、貨幣の流れる段階、過程、手順に依って制約される働きや量がある。

 構成比を比較することによって個々の要素の相関関係を分析し、方向性を確認する。
 時間的構造と空間的構造の双方から経済の実体を推し量るのである。

 この様にして経済を構成する要素の位置や運動、関係を明らかにする事よって経済の実態を解析するのである。

 例えば、三面等価上において税と政府支出が財政を形成する。そして、税と財政支出のバランスはどうか、国債の発行残高と貨幣の発行残高との関係はどうか。民間投資と、公共投資の比率の変化はと言ったことが、貨幣の流れる経路や量にどの様な作用を及ぼしているのか。それを明らかにすることが財政の健全化を計る端緒となる。

 三面等価で言う、等しいとは、雇用者報酬と営業余剰、税収の和と消費と投資と、貯蓄の和、そして、人件費、地代・家賃、利潤、利子、減価償却費の和が等しいという事を意味する。
 そして、それを期間損益に結び付けると人件費は、雇用者報酬に、利子は、金融費用と負債に、地代・家賃は、固定資産に、減価償却費は、費用性資産に、利潤は、収益に対応する。
 なぜ、三面等価が成り立つのか。それは、市場に流れる一定期間の貨幣の量を生産、分配、支出の三つの局面で計測した値だからである。又、三面等価は、資金の流れる経路を示している。
 故に、三面等価を解析する場合は、資金の流れに及ぼす影響を読みとる必要がある。そして、市場に及ぼす影響と働きに応じて市場に流れる貨幣の適正な量と方向を調整するのが、経済政策の目的である。

 生産経済があれば、消費経済もある。生産性ばかり問題にして、消費を疎かにするから、経済が沈滞するのである。豊かな消費こそ経済を活性化する源なのである。
 家計、企業にも三面等価はある。
 三面等価とは、経済主体の働きの生産、分配、支出の三つの働きが均衡しているという前提によって成り立っている。

 負債と収益は、会計上、同じ側にある。
 問題は収入にある。収入は、収益に全て含まれているわけではない。
 税収が見込めないのに、行政支出を抑えられないのは、売上が下がっているのに、安売りをして、尚かつ、経費の削減に着手しないようなことである。
 財政が問題になるのは、収益部分を持たないことが悪いからである。
 問題は、価格と単価にある。税金という物を価格として捉えれば、単位当たりの費用、又、価格をどう設定するかである。そこに対価という思想の働きが重要さなるのである。労働とその成果をどう結び付け、どう評価するかそこに税の難しさがある。

 税金を物で納めるか、金で納めるかでは、本質的な差がある。本質的な差が生じる理由は、貨幣の持つ性格によるのである。
 税の負担率は物納と金納とでは一律に語れないのである。
 物納というのは、あくまでも生産物を基礎にしている。それに対して、税金の金納は、生産物の商品価値を前提としている。商品価値は、相場によって左右される。つまり、金納は、市場を介さなければ決まらないのである。また、金納は、取引があって成り立つ。



等しさが指し示す意味。


 経済現象を理解するためには、財の生産と、人の働きが、貨幣の流れにどの様に関わっているかを知る事にある。
 人の働きは、分配に関わることであり、国内経済計算では、雇用者報酬、営業余剰、そして、税収、それと経常収支からなる。国内経済計算は、支出は、消費と投資と貯蓄、それと対外資本収支からなる。国内経済計算上、財の生産は、産業別に付加価値の合計である。付加価値とは、最終生産総額から中間投入額を引いた値である。或いは、付加価値とは、人件費、地代・家賃、利潤、利子、減価償却費からなる。即ち、付加価値というのは支出である。
 現金主義に基づいて計算される。国内経済計算は、貨幣の動きを解析することを目的としている事による。その点で費用は、基盤とはできない。費用には、支出を伴わないものも含まれているからである。
 現金主義上で言う付加価値と期間損益上で言う付加価値とでは、その範囲や対象に違いがあることを留意する必要がある。

 等しいという事がどの様な関係や働きを意味しているのか。それが、重要なのである。つまり、生産と所得が等しいというのは、生産と所得が均衡した状態を意味するのか、いずれかの時点で静止した状況を意味するのか。生産と所得が同一な物だと言うことを意味するのか。それが重要なのである。

 生産は物的経済に属し、所得は、貨幣的経済に属し、支出は、人的経済に属する。生産は、物的な制約があり、所得は金銭的制約があり、支出は、人的な制約がある。

 核にあるのは、所得の問題であり、生産量の問題であり、人間の欲望の問題である。

 税の問題は、反対給付のない所得だという点である。貨幣の流れに反対方向の物の流れが結びつかない。貨幣の流れが一方通行になりやすい。その為に、フィードバック効果、情報の交換効果、学習効果が働かない。結果、費用対効果の判定が直接的に結びつかないという事である。だから収支の調節が付かなくなるのである。

 経済の異常現象の原因は、物質的な要因として、過剰生産と物不足の二つがあり、その裏側には、過剰消費と買い控え対応している。貨幣的観点から見た要因は、貨幣の過剰供給と貨幣不足。人的要因から見ると私的収入と公的収入である。
 人、物、金の動きが一方に偏った時、経済は抑制を失うのである。

 貨幣の流れは、生産、分配、消費へと流れる。物の流れも基本的には同じである。ただ時間的には、一段階ずつ遅れて流れる。
 先ず、貨幣が供給されることから始まる。資本主義経済は、貨幣、即ち、資金がなければ始まらないのである。その資金を元手、元金と言う。元手、元金が資本を形成する。
 では、その元で、元金は、どこから調達するかというと借金、即ち、負債である。負債を辿っていくと公的債務になる。公的債務が貨幣の元なのである。
 公的債務も最初からあったわけではない。元々は、実物である。それが発展して実物貨幣となる。実物貨幣が兌換紙幣に転じ、兌換紙幣が不兌換紙幣に発展して今日の貨幣制度の礎が築かれたのである。
 また、所得も最初は生活に必要な物品や田地田畑を支給されたのが、実物に、それから実物貨幣へと変化してきた。
 衣食住のような生活に必要な物資は、現物支給だった。足りないものは自給するか、物々交換によって手に入れた。やがて、貨幣が生まれると必要なものを市場から調達するようになる。それでも、貨幣は補助的な手段だったのである。
 いずれにしても、資本主義体制が確立される前提には、一定の実物貨幣が社会に供給されている必要がある。そして、不兌換制度では、負の部分が貨幣の量を規制する。即ち、一定の水準に公的債務の量を抑えることで、市場に流通する紙幣の量を調整するのである。
 公的債務が増大することは、流通する貨幣の流量を制御する事を難しくする。それが財政問題である。
 貨幣、即ち、資金が、生産的な部分へ供給され、分配、消費へと流れていく過程で資金は、各々の局面において長期的な投資と短期的な消費へと分離する。貨幣の流れる方向の逆方向に物は流れる。

 貨幣経済において、決定的な働きをするのは、貨幣の流れと貨幣の働きである。貨幣の流れは、貨幣の流れる方向と量が重要である。貨幣の働きは、働きが長期的に持続する働きか短期的に解消される働きかによって決まる。

 経済単位は、家計、企業、政府である。言い換えると消費主体、生産主体、分配主体である。資金が、これらの主体をどの様な経路で流れ、各々の主体に対してどの様な働きをするかが問題なのである。

 重要なのは、生産と分配と消費の相関関係である。その相関関係を知るためには、貨幣の流れの経路、生産、分配、消費、各局面におけ家計、企業、政府の構成比の変化と絶対額の推移が鍵を握っている。

 生産は、供給量を基礎とし、支出は、需要を意味する。つまり、生産や支出は、数量の問題であり、そして、所得は、分配であるから比率が重要となる。

 消費は、収益、投資は、資本、貯蓄は負債への資金の流れをつくる。又、減価償却費は、長期借入金に対応する。

 貨幣の適正な流量は、所得と生産量、消費量の均衡の問題である。
 市場の拡大は、生産量と消費量に依存し、所得の上昇は、分配率に影響を与える。

 量なのか、率なのか。差か、比か。量的な変化にのか、それとも配分上の変化なのか。市場の規模の問題なのか、生産物の配分の問題なのか、その点を見極める必要がある。
 市場の拡大は、生産量の増大と所得の上昇は、分配率に還元される。いくら生産量が増えても所得の上昇がなければ吸収されず、いくら所得が増えても生産量が増えなければ価格の上昇を招く。

 市場の拡大は、生産力に依るが所得によって裏付けられる必要がある。所得は基本的に分配であり、取り分の問題である。
 企業で言うと生産力と収益力と分配である。
 そして、企業の成長は、市場の規模と占有率によって決まる。しかも前提となるのは、市場は有限だと言うことである。
 企業は、順調に拡大している間は、労働者の所得を上げても、収益によって吸収できる。企業の成長は、市場の規模と占有率によって制約を受ける。市場の規模に限界がある以上、成長には自ずと限界がある。成長の限界に達すると所得の上昇は、労働分配率を相対的に引き上げ、企業の収益を圧迫するようになる。

 また、為替取引は、貨幣が双方向に流れる取引である。

 経済規模と構成比率の変化、移動をさせる要因が国内経済現象の根底に働いている。その要因と構造を解明しなければ、経済対策は立てられない。病根が解らなければ、診断できないのと同じである。その為には、肉体の仕組みを知る必要があるのと同様、経済の仕組みを知る必要があるのである。一見同じ症状でも、病因は違うことがままある。病因が違えば、処方はまったく違うものなのである。


関数と根



 一個、二個と言った個数を数える。一回、二回と言った回数を数える。一番、二番と言った順序付ける。一階、二階と言った、高さや位置と言うふうに位置付ける。一時、二時と言った時間の単位を表す。
 経済では、数の持つ性格が重要となる。数の性格は本にある。本とは根本である。

 方程式を成り立たせている値を根という。全ての根の集まりを解という。(「数と計算のはなし1(代数編)」武藤 徹著 日本評論社)

 根とは、解である。つまり、解答には、根っ子という意味が含まれる。解とは、根源であり、根本と言う事である。

 根というのは、根本の根であるし、根源の根でもある。普段は、地中にあって表からは見えない。未知数だけれども地表に現れている全ての源でもある。
 会計にとって根は、現金にある。

 現金主義というのは。基本的に現金の動き、出納を基本とした会計思想である。会計の根っ子にあるのは、現金の動きである。しかし、現金出納の結果としての現金残高だけでは、水面下の現金の動きの意味を明らかにするのは難しい。
 現金残高の推移を追跡しただけでは、水面下の未知数である根を導き出すことは難しいのである。
 故に、現金が流れた結果として生じる債権・債務から経済の働きを表面に表したのが期間損益に基づく会計である。
 債権は、現金の働きの正の部分を債務は、負の部分を表す。正の部分は、実体的価値、実物による価値を意味し、負の部分は名目的価値、貨幣による価値を意味する。

 物事には、順序がある。その物事の順序を辿っていった処に、根があり。その根が解となる。解の一部は数値として表される。
 解は、数と数の素となる意味とがある。ただ、数学では数値のみが残される。貨幣経済は、数値的価値が貨幣価値として残される。

 幾何学の重要性は、写像という概念に象徴的に顕れる。個々の集合を構成する要素が一対一の関係にある時、その関係を関数、又は、写像という。代数的な一対一の関係は関数となる。幾何学な一対一の関係は、写像となる。
 現実の対象は、数値的な対象ではない。物的対象である。だからこそ、写像という概念が重要となる。
 貨幣価値が最初にあるわけではない。物としての価値、用役としての価値があって貨幣価値が成立する。

 一対一の関係の基本は、相関関係である。相関関係の中に因果関係がある。因果関係とは、相関関係に時間軸が加味された関係である。
 結果には、原因がある。結果は、原因を伴い、原因は結果を導き出す。原因と結果には順番がある。因果関係の順番は時間的関係であり、後先がある。因果関係は、不可逆的関係である。結果は、原因に先立つことはない。

 因果関係は、論理構造の基礎となる。論理的構造は、因果関係の順序に従う。経済構造も論理的な構造を土台として成り立っている。重要なのは、論理の順番である。
 それは手続である。故に、貨幣経済は、手続によって成り立っている。手続の解は根本にある。

 根という言葉は、平方根とか、立方根と言うというようにも使われている。又、方程式の解も根という。
 この事に解の意味が隠されている。つまり、解とは根でもあるのである。解は、根源でもあるのである。解は、到達点でもあり、始点でもある。根を張ると言うように、根っ子は、大地に隠されているが、地上に現れている部分を支えている。解も又、その様な働きがある。

 ずいぶん前に『ルーツ』(Roots)というテレビドラマがあった。それは、アフリカ系アメリカ人が自分の祖先を捜し求め、自分の存在意義を確かめるというドラマだったが、それは、自分のルーツが何等かの解答だと言う事も意味している。解と根にはこの様な因果関係が往々にして隠されている。

 平方、立方というのは積を素とした概念でもある。

 平方は面積を表し、立方は体積を表す。平方の解は平方根であり、立方の解は立方根である。
 面積図は、二つの量が比例関係にある場合、面積図によって解が求められる。この様な珪素か方法を面積図という。
 経済的事象は、面積算として表せる事象が多くある。

 面積と速度の捉え方が経済を解明する鍵を握っている。
 面積は積分によって、速度は、微分によって解明される。

 根とは、根っ子である。根は、平方根の根であり、立方根の根である。根は解でもあり、解は根でもある。根は根っ子である。根は、地価に隠されていて表に現れているのは一部である。解を求めるというのは隠されている部分を明らかにすると言う意味である。しかし、表に現れている幹や枝葉も重要なのである。
 数学で表に顕れている部分とは数式である。学校の数学では、解を得ることばかり求められるが、現実では数式の方が重要な意味を持つことがある。
 特に、経済や経営においては、数式が持つ意味が重要になる。
 例えば、分配率は、何を、なぜ、分母とし、何を、なぜ、分子とするのか。それにどんな意味があるのかである。利益率は、何を分母とし、何を分子とするのか。回転率は、何を分母とし、何を分子とするのか。
 労働分配率は、売上利益を分母とし、人件費を分子とするが、その場合、人件費をどの様に定義するか、また、分配率とは何を表しているのかによって求める意味も違ってくるのである。

 方程式、関数の根、根っ子にあるのが解なのである。

 関数を英語読ではファンクションという。ファンクションとは、即ち、機能、働きを意味する。ここで言う働きとは、一対一に関連付ける働きと言ってもいい。一対一に関連付ける働きを一対一対応という。一対一に関連付けられた関係を相関関係という。
 即ち、一方が決まるとそれに対応したもう一方の要素も決まる関係を関数関係という。
 一方の値が決まるともう一方利要素にどの様な変化をもたらすかが、関数関係では重要となる。

 コンピューター上における関数とは、一つの情報を受け取った上で、何等かの操作を加えてその結果を返すことを言う。
 この事は、関数の働きをより簡潔に示している。

 関数を言い替えると写像とも言える。
 写像というのは、二つの集合間の要素が一対一に結びついている、即ち、何等かの対応関係にある状態を写像関係という。
 写像関係は、関数関係を言い替えた関係と言える。

 貨幣経済では、貨幣が仲介することで成立する関数関係が基礎となる。
 この様な関係は、取引によって生じる。故に、貨幣経済は、取引によって成り立っている。
 貨幣経済では、物の価値と現金の流れが取引によって一対一に関連付けられている。取引の形態によって経済の有り様も定まる。
 物の価値と現金の流れの対応関係は時間によって変化する。
 故に、会計は、時間と物の価値と現金の流れの関数である。
 取引の有り様を形式化した体系が会計である。
 取引には、相対取引と市場取引がある。

 市場経済で重要なのは、規模であり、範囲であり、比率であり、変化である。
 会計は、市場経済上に成り立っている。会計は、市場取引を前提として成り立っている。
 故に、会計は、規模、範囲、比率、変化を前提条件、制約条件として成り立っている。
 会計は、規模、範囲、比率、変化のいずれかを制約条件として、或いは、変数として成り立っている。変化は、時間の関数である。

 経済は、生きる為の活動であるから、経済の基礎は、消費活動にある。消費活動は、生産と分配に基づく。貨幣経済においては分配は、所得に基づくのである。

 以上のことを鑑みると、経済の基本は、労働力と生産力である。また、経済の根本は人口となる。

 大切なのは、消費規模と生産規模の整合性をいかにとるかである。そして、消費と生産の整合性をとるのが分配構造である。分配構造を動かすのが通貨である。故に、分配構造を制御するために通貨の流量を調節する必要が生じるのである。

 総所得は、人口数×一人当たりの平均所得である。
 そして、重要なのは分配構造である。貨幣経済体制下では、分配構造は、所得のバラツキに現れる。分配構造で重要となるのは、所得格差の幅と所得のバラツキ傾向である。
 そして、この分配構造の規模、範囲、比率、変化に基づいて適正な通貨の流量を算出する。なぜならば、通貨の流量は、分配構造と生産構造に従属、或いは依存すべき変数だからである。

 又、経済活動は、変化によって活性化される。市場経済では、変化の速度、拡大の速度が重要となる。
 変化は、時間に伴って生じる差だと言える。
 近年、平等という概念が不当に拡大され、現る差を否定しようと言う傾向がある。しかし、平等というのは、存在に関わる概念であり、差は認識から生まれる。自己を他者と区別し、位置付けるためには、何等かの認識上における距離、即ち、差が必要となる。格差そのものを否定し、差がなくしてしまうと人間は、識別という能力を著しく低下させてしまう。差は、対象を識別する上で不可欠な要素なのである。

 格差は、質の細分化する作用がある。格差が悪いというわけではない。
 格差が悪いとしたら極端な格差や何世代にもわたる固定的な格差である。極端な格差や固定的な格差は、社会に恒久的な階層をもたらすからである。
 格差は、拡大しすぎても、又、小さすぎても社会的分配が効率よく行われなくなる。

 所得の最低線の基礎となるのは、その社会や国を構成する人達が最低限の生活を維持するために必要な資源である。つまり、所得の最低限度額の総額は、一人の人間生存するのに必要な資源を獲得するための最低必要源の所得×人口数である。
 最高数は、調達する可能な資源の最大量が基礎となる。調達する事が可能な量とは、生産量と外部からの輸入量である。生産量の最大限というのは、国内の存在する生産設備の全てをフル操業したときの生産量である。

 大家族制度下では、一所帯としいて均衡していた。それが核家族化するに従って個人的な均衡が求められるようになった。
 例えば、主人が、基礎となる現金収入を外部から獲得し、子供や主婦は無収入で、老人は、過去の蓄積を基礎とし、所帯全体で収支を合算し均衡させていた。この場合、子供や主婦、高齢者の収入をあてにしなくてもいい仕組みを前提として成り立っている。

 家計を構成する要素は、労働力、所得、消費、貯蓄である。

 異質の対象も貨幣価値に還元することによって演算する事が可能となる。
 例えば、労働力と野菜、調味料、燃料というのは、次元の違う対象であり、直接足したり掛けたりする事は出来ない。労働時間と野菜の足し算は、そのままでは成立しない。しかし、労働力や野菜を貨幣価値に換算することが出来れば、労働時間や野菜を足したり引いたり、掛けたりすることが可能となる。そこに貨幣の効能、働きの本質がある。
 労働力と野菜と調味料、燃料という異質の要素も手数料、野菜の単価×数量、調味料の単価×数量、燃費の和として計算することが出来る。
 この様な異質の対象を貨幣価値に還元する際には、合同の概念が重要な働きをする。

 会計の概念の背後には、「合同の取引」を結び付ける変換の概念が隠されている。

 合同の概念は、等しいという概念の一種である。
 合同とは、複数の対象に共通した要素の集合を意味する。
 例えば、同一価格の商品のその時点における貨幣価値などである。

 合同式では、反射性、対称性、推移性の三つの性質が成り立つ。

 貨幣価値は自然数の集合であるから自然数x、yの差がある自然数mで割り切れる時、x、yは「mを法として(moudulo m)合同である」という。
 x≡y(mod m)と書く。これを合同式という。

 会計では、取引と置換が重要な鍵を握っている。そして又、取引では、置換が重要な操作となる。(「なっとくする群、環、体」野崎昭弘著 講談社)

 会計は、記帳、仕訳(分類)、転記、集計、分割という一連の操作によって成り立っている。

 集合が幾つかの部分集合の和集合として表され、どの部分集合も共通元を持たないとする。この様な集合の元を部分集合に分類する操作を類別といい、部分集合を類とする。
 資産、負債、資本、費用、収益は、会計の類である。故に、仕訳という操作は類別を意味する。
 また、損益と貸借に区分する操作も類別である。

 同値関係とは、何等かの基準によって同じ、即ち、共通と見なされる要素を結び付ける関係を言う。
 同値関係にある集合を同値類という。

 特定の自然数で割った余りが同じ数である自然数を集めた集合を剰余類とする。

 会計では、余りも残りも自然数に丸められる。故に、端数や残高が重要となるのである。

 自然数の集合は、割っても、引いても自然数になることを前提とする。故に、割り切れなければ余りが生じるし、差し引く時は、残高があることを前提とする。
 分数も小数も負数も想定していない。

 貨幣経済では、余りが、大事になる。余りをどう計算し、どう取り扱うかが鍵となるのである。

 因果関係と論理関係を一体としたのが科学である。故に、経済を科学とするのは会計制度である。

 説明ができると言うことと真理が解明されたという事は違う。しかし、科学万能主義者は、説明が出来れば真理が解明されたという負に曲解する。そして、何事も説明が出来れば、よしとしてしまう。そして、あたかも現実を克服し、この世の全てを支配したかの如く思い上がる。
 例えば、人は死すべき運命にあるという事が説明できたとしても死という現実を克服したことにはならない。

対     価


 市場経済を成り立たせているのは、対価という概念である。
 対価というのは、取引相手に財や用役を提供し、その反対給付として貨幣を受け取るという思想である。これは暗黙の契約であり、前提である。そして、この対価という概念が前提となって取引は商取引、市場取引は成立している。また、対価は、交換の前提となる。
 この対価の概念が前提となって顧客の概念も成立する。
 客というのは、本来、訪ね人、旅人と言う意味がある。それから、自分と相対する人、又、対象というと言う意味がある。そこから顧客という概念が発達した。つまり、顧客とは、自分と相対する対象と言う事が前提となるのである。相対する相手という意味にされに対価を支払う者という意味が生じたのである。
 客が支払う対価に値する価値を相手に提供できるか否かが、取引が成立するための必要条件となる。つまり、顧客をどの程度満足度が対価の基準となる。そして、対価は、取引の因果関係を成立させる演算子でもある。

 対価とは、反対給付を伴う行為を前提としている。

 例えば、労働と所得とを労働の対価として報酬を結び付けることで労働と所得との一対一の関係を結び付けている。また、商品と顧客とを商品の代金の支払という行為を通して対価が結び付けている。
 この事は、収益と費用を対価が結び付けていることを意味する。そして、対価という関係によって費用対効果を測定することが可能となる。つまり、対価が利益を生み出す源泉なのである。

 現金主義と期間損益主義の違いの一つに対価という概念である。
 期間損益主義では、収益と費用は、対価という概念によって結び付けられている。この対価という概念によって単位期間内における費用対効果が測られるのである。そして、費用対効果を測る指標が利益なのである。

 この対価という思想が、現金主義に基づいている財政には欠けている。

 財政再建が喫緊の問題となってから民営化が流行である。
 国鉄に始まり、電話、煙草と次々と民営化されてきた。それまで赤字を垂れ流していた公営企業の多くが民営化される事で再建されてきた。
 民営化と規制緩和は、財政再建の特効薬のように喧伝されながら、しかし、不思議な事に国営と民営化のどこが違うのかは、明らかにされていない。これでは、医学の発達する以前の魔術、呪術の類と変わりがない。

 財政と民間企業との決定的な違いは、現金主義か、期間損益主義かの違いである。そして、それを決定付けているのが対価という概念、思想である。

 対価という思想によって資金の長期的働きと短期的働きが区分され、その上で、収益と費用が対価という概念によって結び付けられるのである。そして、対価という概念で収益と費用の効用が関連付けられ、費用対効果の測定が可能となる。期間損益は、この費用対効果の測定を基に成り立っている。
 財政には、この対価という思想がない。

 資金の長期的働き、短期的働きは、時間の関数である。

 報酬は、労働の対価として支払われる。つまり、人件費、所得は、労働の質量を根拠として支払われる。お金は商品の対価として支払われる。つまり、貨幣価値は、何等かの財と貨幣の交換によって決まる。それが対価という思想である。そして、その根底を成すのは取引という行為である。

 対価を基礎とした場合、交換される対象の貨幣価値以上の貨幣は流通しないことが前提とされる。

 現金主義は、この対価という概念が稀薄である。故に、費用対効果の測定が難しいのである。

 現金主義では、収入から支出を引いた残高が問題となるのである。つまり、基本的に現金残高主義である。言い替えると、その時点時点で現金残高があれば良しとする傾向がある。

 対価という概念が稀薄だと、労働と成果を報酬によって結び付け、収益と費用を均衡させることが困難になる。それは、生産と分配とを調節する機能にも欠け。或いは、働きによる外部環境の変化が主体に還元(フィードバック)されないことをも意味する事になる。

 公務員の多くは、自分の働きと社会的効用とを結び付けることが困難な状況におかれやすい。自分達は、決められた事、指示されたことを忠実にやっているのに、それが社会に適正に評価されていないと言う疎外感に陥りやすい環境にある。

 貨幣の供給量は、対価という働きがあって抑制されるのである。ただ、その場合、貨幣の供給量と需要量とを適切に調整される必要がある。なぜならば、貨幣の供給は、貨幣価値における負の部分を形成するからである。つまり、貨幣の調達量の多寡は、負債の多寡を決める要素だからである。

 収入は、収入、支出は支出として別々に考えると言う発想が成り立たないと言うのではない。今日、期間損益だけでなく、キャッシュフローから経営状態を分析しようと言う手法が流行であるように資金収支から経済状態を掌握するというのも妥当性がないわけではない。それは、収入の働きと支出の働きに必ずしも連携していないからである。収入は、収入、支出は支出として個別に捉え、それぞれの働きに応じた金額を算出すればいいのである。その上で総枠を通貨の働きに基づいて調節すると言う考え方である。
 ただその場合、収支の均衡が失われ、相互牽制が効かなくなる危険性がある事は留意しなければならない。それが財政の欠陥なのである。
 現金主義である財政を考える上ではこの点が重要な鍵を握っている。財政の均衡を現金主義に求めるか、期間損益主義に求めるかで財政の在り方、考え方の本質に関わる問題なのである。
 またそれは、財政上、収支を単年度で必ず均衡させなければならないのかという問題でもある。
 単年度で収支の帳尻を合わせようとすればするほど、財政の均衡は失われる危険性がある。なぜならば、投資の効用は、単年度で発揮されるとは限らないからである。
 いずれにしても対価という思想がなければ、財政は、抑制を失う危険性が高いのである。
 要するに、何と何を単位期間内に均衡させるかが一番の課題なのである。

 費用対効果、収益の問題は、最終的には、価格問題に収斂する。対価としての働きが財にない場合、絶対的な単価、価格になりやすい。費用は。対価という働きによって測られるからこそ相対的な価格となるのである。貨幣価値は、その本来の働きから見て相対的な基準なのである。

 基本的に経済主体は、生産者であり、消費者である。又、支払い手であり、受取手である。労働者であり、生活者である。
 高齢者や未成年、そして、特権階級のような消費するだけの主体の存在が経済にどの様な影響を及ぼすかが重要な鍵を握っている。いかに消費するだけの存在を位置付けるかによって所得の再配分の仕組みの目的が決まるのである。それこそが思想の働きである。

 個人主義的な在り方が浸透する以前は、家族のような共同体が養育をしてきた。しかし、今日の国民国家では、国家が、養育をすることになる。

 人口密度が低く、生産手段が乏しい地域は、相対的に生産力が低くなる。結果的に収益力も低く、費用も割高になる。この様な状態を放置すれば地域間格差が拡大し、市場に偏りが生じる。
 逆に人口密度が異常に高く、生産手段が乏しい場合でも貧困は生じる。
 この様な場合には、対価という観点からだけでは、経済効率を測ることはできない。
 構造的な市場の偏りを所得の再分配によって是正するのは、政府機関の役割であり、その時の手段が税制や財政である。ただ、その場合でも対価という思想抜きでは、財政の均衡を保つのは難しい。
 だからこそ根本に国家観が必要とされるのである。






同値類




 経済学、特に、会計学は、数学である。経済学は、物理学と伴に、数学の一分野を形成していた。しかし、物理学が学問の内部、礎石に数学を取り込んだのに対し、経済学は、数学の理解が上っ面だけに止まった。その結果、物理学は大きく飛躍したのに、経済学は、科学には程遠い状態に甘んじている。
 等号、置換、互換、変換、写像という概念が会計や経済では、重要となる。
 会計学では、等号、置換、互換、変換、写像という概念は、重要な役割を果たしている。
 中でも等号の意味するところは大きい。

 借方と、貸方は等号で結ぶことができる。つまり、借方=貸方、左右が均衡しているのである。均衡しているのに非対称である。均衡と非対称、それが会計に命を吹き込んでいるのである。そして、その均衡と非対称を繋いでいるのが等号である。

 イコール、等号は、同類、同じ仲間を仕分ける作用子でもある。
 等号によって、同じ仲間、即ち、同値類を集めて集合を作る。
 重要なのは、何をもって等しいとするのか、その基準である。その基準が集合の基礎的な性格を表すこととなる。逆に言うと、一定の基準に基づいて集合体を形成すれば、一定の性格付けができることにもなる。

 会計の勘定を等しいという概念で分類し、集合体として分析すると以下のようになる。

 先ず、次のことが前提となる。会計は、勘定の集合体である。会計は、取引の集合である。 

 尚、現在使用されている勘定の分類は、歴史的、即ち、経験則に基づいて為されたものである。つまり、絶対的なものではなく。相対的なものである。

 勘定は、取引によって成立する。取引は、物や権利の受け渡しに伴って貨幣価値の増減が生じる事象である。会計上の取引の範囲は、一般通念で考えられている取引の範囲と若干相違している部分がある。例えば、盗難や家事は、一般には取引の内に含まれないが会計上は、物の喪失と貨幣価値の減少を伴うため会計上は取引と見なされる。反面、ただ、契約を結んだだけでは、物の受払も貨幣価値の増減も生じないので、取引とは、認識されない。

 取引には、内部取引と外部取引がある。内部取引というのは、経営主体内部の取引を言う。内部取引は、外部との間で権利や物の受け渡し、また、貨幣価値の増減による現金の外部との受払は発生しない。それに対し、外部取引は、外部との物や権利の受け渡し、金銭の受払を前提とした取引である。
 内部取引の典型は、振替勘定である。

 振替勘定は、決算処理の際に内部処理のために生じる勘定である。振替勘定は、名目勘定である。

 取引は、認識によって成立する。いつ、何をもって取引が成立したかの判定は認識の問題である。故に、勘定は、認識の問題である。簿記は勘定によって成立し、会計は簿記によって成立する。故に、会計を成立させているのは認識である。

 市場経済は、取引によって成り立っている。会計は、取引を集計した計算書である。取引との関わり合いによって勘定の性格は、形成される。
 取引には、同じ仲間の勘定同士の取引と違う仲間の勘定同士の取引がある。
 同じ仲間の勘定とは、第一に、借方に属す仲間と貸方に属す仲間がある。第二に、貸借に属す仲間と損益に属す仲間がある。第三に、資産、負債、資本、費用、収益、各々に属す仲間がある。

 資産の増加は、資産の減少、負債の増加、資本の増加、費用の発生との組み合わせを形成する。
 資産の減少は、資産の増加、負債の減少、資本の減少、収益の発生と組み合わせられる。
 負債の増加は、資産の増加、負債の減少、資本の減少、費用の発生との組み合わせを形成する。
 負債の減少は、資産の減少、負債の増加、資本の増加、収益の発生と結びつく。
 資本の増加は、資産の増加、負債の減少、資本の減少、費用の発生と結びつく。
 資本の減少は、資産の減少、負債の増加、資本の増加、収益の発生と結びつく。
 収益の発生は、資産の増加、負債の減少、資本の増加に結びついた取引である。
 費用の発生は、資産の減少、負債の増加、資本の増加に結びついた取引である。

 これらの組み合わせによって取引の性格は形成される。
 取引との関わり方によって勘定の性格や働きも規制される。

 簿記上の取引には、現金取引、振替取引、交換取引、損益取引、混合取引がある。

 現金の動きと直接結びついているのが現金取引である。
 振替取引とは、直接、現金の動きと結びつかない取引である。
 交換取引とは、資産、負債、資本の増減に直接結びついている取引である。
 損益取引とは、収益や費用の発生に関係する取引である。
 混合取引は、交換取引と損益取引が混合した取引である。

 取引には、物や権利の受け渡しと言う事実を前提とする。故に、何等かの所有権の移転の認識によって取引は実現する。そして、所有権と結びついた勘定を実物勘定とする。それに対して貨幣価値の増減を表す勘定を名目勘定とする。
 原則は、取引の事実、履歴である。土地ならば、実際に土地を取得した際に発生した貨幣価値の増減を根拠とする。それが原価主義である。
 しかし、今日では、実績を伴わない貨幣価値の増減も取引として認識する例がある。例えば、実際の取引の実績と関係なく、ある一定の時点での相場を資産価値とする考え方が時価主義である。取引実体を持たない損益を未実現損益という。

 取引は、貨幣価値の増減に基づいて現金の流れが生じる。

 貨幣価値の増減が実現した時点を取引が成立した時点として認識する基準が実現主義である。貨幣価値の増減させる行為が発生した時点を取引が成立した時点とするのが発生主義である。

 会計上、最終的に問題となるのは、経済的価値が、費消されたか否かなのである。それが消費を形成する。消費の形態が長期的な物が資産を形成し、短期的な物が費用を形成する。
 その消費する物を市場から手に入れる為の資金を調達する手段によって負債、資本、収益の別が生じるのである。

 複式簿記は、二者択一的操作によって成り立っている。そして、それは、二律背反を前提とした基準に基づく仕訳操作である。つまり、例えば借方に属する勘定科目は、非貸方というような操作である。この事は、一つの勘定科目が立てられた場合、もう一方の側に立てられた勘定科目と背反する勘定科目、対称勘定が同時に立てられることを意味する。

 先ず勘定には、第一に、借方勘定と貸方勘定がある。第二に、貸借勘定と損益勘定がある。第三に、流動性勘定と非流動性勘定の三つの分類がある。この三つの分類が勘定の基本構造を構成する。この三つの要素を組み合わせることで、勘定の体系を形成されていく。そして、この三つの要素が勘定の性格を決定付ける。

 第一の分類基準は、借方勘定と貸方勘定である。言い替えると借方勘定は、非貸方勘定であり、貸方勘定は、非借方勘定というように分類される。
 借方勘定は、支出を前提とした勘定である。それに対し、貸方勘定は、収入を前提とした勘定である。それは、借方を運用、貸方を調達という様に分類することも可能としている。

 勘定にとって重要なのは、位置である。

 借方に属する勘定は、借方の残高が必ず正である勘定をいう。この様な勘定は、貸方に出現したときは、負の働きをする。
 借方に属する勘定は、貸方の残高が必ず正となる勘定である。この様な勘定は、借方に出現した場合は、負の働きをする。
 この借方、貸方の働きが、複式簿記の根幹を形成する。

 借方、貸方の働きの総和は、均衡、即ち、零である。

 また、負債、資産、収益、費用、現金の勘定残高はマイナスすることはない。現金というのは、収支残高である。つまり、現金勘定はキャッシュフローを意味するのである。
 経済的価値を問題とするとき、大きな誤解がある。貨幣価値があるからと言ってそこに現金があるわけではない。一億円の土地と言っても一億円の価値のある土地と言うだけであっそれを裏付ける現金を併せて所有しているわけではない。企業が有する現金というのは、その規模に比して微々たる額であり、逆に、現金を保有していることの方がおかしいのである。現金というのは、流れているからこそ効用を発揮できる物なのである。その現金の流れが滞るから経済がおかしくなるのである。

 会計を構成する個々の取引には、借方勘定と貸方勘定、双方が必ず計上され、その総和は零となるように設定される。

 第二の分類基準である、貸借勘定と損益勘定とを分類する基準は、単位期間である。この事は、期間損益の性格を決定付けている。又、何を単位期間とするかによって勘定が貸借と損益のどちらに所属するか、或いは、取引をどの勘定に仕分けるかを規定する基準ともなる。
 通常、単位期間は、一年を原則とする。しかし、営業期間や生産期間を単位期間とする場合もある。

 つまり、時間が重要な鍵を握っている。

 単位時間は、流動性勘定と固定勘定を区分する基準とも成る。
 第三の基準は、流動(変動)勘定と固定勘定である。流動性勘定は、単位期間内において計上されることを前提とし、計上された時点で清算される勘定をいう。ただ、流動性というのは、任意な区分に属し、単位期間内に計上されることを前提とするという程度の認識に基づいている。

 総資本とは、調達した資金の名目的残高を言い。費用とは、費消した資金の流量を言う。
 つまり、重要なのは残高と流量である。それを表しているのが貸借と損益である。
 国家財政で言えば、貸借にあたる部分が貨幣の残高、有り高を意味し、損益の部分が貨幣の流量を示している。

 貸方と借方、貸借と損益、流動性し固定性の基準に従って勘定を仕訳すると以下のようになる。

 貸方勘定は、総資本勘定と収益勘定に仕分けられる。 
 借方勘定は、総資産勘定と費用勘定に仕分けられる。
 貸借勘定は、総資産勘定と総資本勘定に仕分けられる。
 総資本勘定は、負債勘定と純資産勘定(資本勘定)に仕分けられる。
 損益勘定は、収益勘定と費用勘定に仕分けられる。
 これら一連の仕訳によって資産、負債、資本、収益、費用の性格が形成される。

 総資産勘定は、実物勘定と言う性格を持つ。それに対して、総資本勘定は、名目勘定と言う性格を持つ。総資産勘定は、債権としての属性を持ち、総資本勘定は債務としての属性を持つ。この事は、所有権は、総資本勘定に属し、請求権の根底を成していることを意味している。総資本は、借入を前提とし、返済義務を負っていることを意味している。
 総資産勘定は、流動資産勘定と非流動資産勘定に仕訳される。
 流動性資産は、貨幣性資産と非貨幣性資産に仕分けられる。
 非貨幣性資産とは、商品、在庫といった物的資産を指す。在庫や商品は、短い周期で回転する性格を持つ。
 非流動資産勘定は、固定資産勘定と非固定資産勘定に仕分けられる。また、償却資産勘定と非償却資産勘定にも区分される。
 償却資産とは、設備や建物を言う。償却資産勘定は、費用性勘定とも言い、将来費用化することを前提とした勘定である。償却資産は、物的債務を意味する。償却資産の相手勘定は、負債、又は、資本である。
 非償却資産は、土地のように減価しないと見なされる資産を表す勘定である。非償却資産は、売買が可能であり、相場が成り立つ性格を持つ。
 償却資産も非償却資産も長い周期で回転する性格がある。

 回転というのは、資産が資金化されるまでの期間をいい、一般に収益を基準にして考えられる。

 流動性と言うが、個々の経済主体の流動性と、市場全体の流動性とは背反的な性格を持つことを忘れてはならない。個々の経営主体が流動性を高めようとすると社会全体の流動性は低下する。逆に、市場全体の流動性が高まると個々の経済主体の流動性は低くなる。

 負債と言うが、会計上では、借金を負の数とは見なしていない。それが重要なのである。

 会計において借金というのは、マイナスの働きをするものと言う様には捉えていない。借金には、借金との果たす能動的な役割があるのである。それは、貨幣経済においては、貨幣を生み出すための前提としての役割でもある。
 貨幣経済において借金の果たす積極的な役割を認めない限り、負債を前向きな働きに変えることはできない。それでは、負債は、ただ単なる経済的負荷に過ぎなくなる。負債を前向きで捉えると、貨幣経済は、借金経済だと言っても過言ではないのである。

 借金経済というのは、何が、借入金の増減に影響を与える要因なのかを見極めることが重要なのである。しかし、考え違いをしてはならないのは、ただ、借入金を減らせばいいと言うのではなく。借入金の働きをよく理解し、負債の水準を制御する事が肝要なのである。
 負債の水準は、基本的に収支、即ち、収入と支出によって決まる。この点を忘れないことである。
 先ず、何が借入金を増加させる原因なのかを明らかにする。
 第一に、収益の悪化に伴う、収入の減少である。注意すべきなのは、収益がよくなっても、収入が減る場合があることである。収益、即、収入ではない。例えば、収益がよくなっても掛け売りや手形の期日が延びれば一時的に資金か不足する場合がある。
 第二に、資金流失を伴う費用の増加である。
 資金流出を伴う費用というのは、裏返して考えると判る。つまり、資金流出を伴わない費用とは何かである。資金流出を伴わない費用とは、例えば、減価償却費である。
 資金流出を伴う費用の中には、為替の変動や原材料価格の高騰などが含まれる。
 第三に、新規投資や設備の更新投資などが該当する。
 第四に、企業規模や市場の拡大、或いは、取引条件の変更、為替の変動や原材料価格の変動に伴う運転資金の増加である。運転資金の増加は、一部、第一の問題と重複している。
 第五に、一時的、或いは臨時的支出である。何等かの災害や事故、犯罪による損失などが相当する。
 そして、第六に、納税資金である。特に、法人税は、利益処分から捻出されるために、借入金の返済原資を圧迫する要因となる。
借入金を減らす要因は、借入金を増やす原因の対極にある。
 第一に、収益の向上である。第二に、資金流失を伴う費用の削減である。第三に、設備の償却である。第四に、企業規模や市場の縮小に伴う運転資金の減少である。第五に、一時的、臨時的収入である。第六に、補助金である。ただし、補助金は、収益には貢献しない。

 損益勘定は、収益と費用に分類される事によって費用対効果を測定する事を可能とする。
 収益は、貸方に属する。貸方に属すると言う事は、収入、即ち、資金の調達という性格を持つことを意味する。
 そして、単位期間内に計上され清算されるという性格を持つ。

 費用勘定は、付加価値勘定である。費用は支出を表す勘定である。又、費用勘定は分配を表す勘定である。

 なぜ、減価償却費を設定したのか。減価償却費が成立したのは、歴史的な結果である。会社が継続を前提とされるようになったことで減価償却費は成立した。当座会計である場合は、一回一回、清算されたから償却費は必要とされなかったのである。継続を前提としたとき、期間損益という思想が発生し、それに基づいて減価償却という思想が生まれたのである。

 付加価値の中でも人件費の上昇率や利益、金利、地代、家賃などは、時間価値を形成するのに対し、減価償却費は、返済、回収、即ち、負の時間価値を意味する。故に、減価償却費の働きを理解するためには、付加価値の中に減価償却費が占める割合が重要となるのである。付加価値を構成する要素がどの様な働きをしているかが問題となるのである。故に、付加価値を分析する場合。構成比率の変化が鍵を握ることになる。

 会計基準というのは、大体、本来からして投資家や融資家の承諾が得られればいいのである。
 それが日本では、確定決算主義をとることによって実質的に税制の規制を受けることとなった。その為に、減価償却のみならず、会計に対する根本思想が見失われたのである。
 減価償却費の対極にあるのは、本来負債の元本の返済だが、実際の減価償却は、資産の側の要請に基づいて設定された勘定である。
 それに対し、借入金の元本の返済額を費用計上しないのは、負債の側、つまり、貸方側の都合に基づいている。これが現金主義的な発想によっているのならば、話は分かりやすいし、手っ取り早いのである。ただ、減価償却費が費用として計上されるから費用対効果が測定できるのであり、借入金の返済に結び付けると正確な費用対効果が測定できなくなる。
 負債は、借入実績を基としている勘定であり、個々の資産の価値や効用に直接的に結びついた勘定ではない。

 償却資産は、費用性資産であり、費用と資産の双方の性格を持っている。
 減価償却費は任意に設定できる。つまり、減価償却費の設定の仕方によって利益の値は変化する。言い替えると減価償却費によって利益は操作できる。操作されてきたのである。
 又、この様な事が会計の仕掛けでもある。
 だからこそ、借入金の元本の返済と結びついていないのである。

 収益は、収入を意味する勘定である。収益は、名目勘定である。営業上、収益は売上を意味する勘定であるが、売上は、実物的な意味を表してはいない。売上が表しているのは、財を売ることによって発生する貨幣価値の増加である。それが収益勘定の性格としても現れている。

 資本勘定は、第一に、出資金と利益を加算した値である。第二に、資産と負債の差額である。第三に、収益と費用の差額である。
 又、資本勘定は名目勘定である。

 利益を表す勘定は、収益の側に表れる。利益は、名目勘定であり、差額勘定である。
 利益には、粗利益、営業利益、経常利益、特別利益、純利益がある。粗利益、営業利益、経常利益は、収益から費用を引いた値である。特別利益は、特別収益から特別損失を引いた値である。

 利益とは、差額勘定である。利益は、収益から費用を引いた差額である。

 利益が差額だと言う事は、利益を生み出す差が必要となる。その差を生み出す要素こそ、時間価値なのである。

 利益を生み出す、即ち、不均衡を生み出す市場や会計の仕掛けは、時間に関わる仕掛けである。例えば、金利や減価償却である。

 会計上、個々の取引は、借方、貸方は均衡している。つまり、ゼロサムである。
 借方、貸方の値が均衡に向かうと限りなく利益は零に近づくことになる。

 利益は、故意、即ち、人為的に作り出される値なのである。つまり、利益は、人為的に作り出される不均衡によって生じるのである。
 その不均衡を生み出すのは、会計や市場の仕組みである。つまり、利益を生み出しているのは、市場や会計の仕組みなのである。
 市場や会計の働きを野放しにする、即ち、無策であれば利益は限りなく零に近づくことになる。
 市場は、失敗などしたりはしない。失敗をするのは、人間である。車が事故を起こすのではない。人間が事故を起こすのである。人間の設計ミスや整備不良、不注意な運転が事故を起こすのである。
 熱機関は、装置によって熱量を制御するから機能するのである。自然状態に委せても仕組みは機能しない。市場は仕組みによって機能しているのである。市場の仕組みとは規制である。
 自由放任主義者は、一種の魔法を信じているようなものである。規制を全て撤廃すれば、市場が自動的に経済を制御するという発想は、第一種永久機関を作り出すことよりも奇抜な発想である。

 勘定は、一般に、日本では、貸方も借方も流動性が高い勘定から順番に上から配列される。ただ、電力会社のように初期投資が巨額にのぼる産業の中には、例外的に、資産勘定は、流動性の低い固定資産を上にした配列をとる。

 会計は、期間損益を計算する仕組みである。
 会計は数学である。

 会計制度は経済に重大な影響を与えている。会計制度が経済に与えている影響を為替の変動を例にとってみる。

 為替の変動が国家経済、産業の動向、企業経営にどの様な作用を及ぼすかは、個々の勘定の為替に対する感応度を調べる必要がある。
 個々の勘定に対する為替の影響を調べる前に、貸借勘定と損益勘定にどの様な影響があるかを明らかにする必要がある。

 通貨圏を基準とすると内的市場と外的市場がある。そして、為替の変動が影響するのは、内的市場と外的市場の接点においてである。財が内的市場と外的市場を交流しなければ、基本的に為替の影響には影響されない。即ち、陰に作用するのである。

 その意味では、貸借勘定と付加価値は、為替の変動が陰に作用するのに対し、収益と原価は陽に作用する。なぜならば、貸借勘定もを構成する勘定である資産勘定、負債勘定、資本勘定、又、付加価値を構成する勘定である。金利、地代、減価償却費、人件費は、内的市場と外的市場との交流を前提としていないからである。

 付加価値は、外部要因と連動していない。この点が重要な意味がある。
 為替や石油など輸入原材料の変動の直接的な影響を付加価値は受けないという事に市場構造の問題の本質が隠されている。

 この事は、、原価は、短期的な経済変動の核となる。付加価値は、長期的な経済変動の要因となるの事を意味する。

 また、為替や原材料の変動で問題となるのは、粗利益である。為替や原材料の急激な変動は、粗利益に作用し、圧迫したり、伸長したりするのである。
 つまり、収益と原価の部分が為替の影響を受けやすいのである。

 逆に言うと、付加価値を維持するためには、粗利益が肝腎だと言う事でもある。

 粗利益は、利益の基盤となる部分である。その意味では、率より額が大事となる。

 付加価値を集計した部分が総生産、総所得(総分配)、総支出を形成する。

 付加価値を上手く活用するという観点からすると地産地消型産業が重要な意義を持ってくる。地産地消型産業というのはその土地で生産された物をその土地で消費する産業である。それは純粋に内部産業であるから付加価値の水準の目安となるのである。

 次ぎに、費用、収益のどの部分に為替相場の変動が影響するかを明らかにしなければ、判断できない。

 収益勘定というのは、収益をあげる場に規制される。つまり、収益を計上する場が内的市場か、外的市場かによって決まる。

 自国通貨が強くなると貸借と損益の比率では、貸借の占める比率を高め、損益を圧迫するような圧力が働く事になる。

 輸出産業は、外的な市場において収益を計上するために、自国の通貨が上昇すれば外的な場で財の価格の上昇を招くことになる。これは、収益の圧迫要因である。また、輸入産業は、仕入価格が低下することによって費用、ひいては、収益の下げ要因となる。
 どちらにしても収益は圧縮される方向に圧力がかかるのである。

 費用が上昇し、収益が圧縮されれば、必然的に償却を抑制する働きが生じる。収益が圧縮されることで、費用を抑制しようとする動きが表面化するからである。

 その結果、償却は抑制され、その為に、借入金の元本の返済が滞ることになる。それが長期負債の返済圧力として働く事になる。

 費用勘定の中にも為替の変動に同調する勘定科目と同調しない勘定科目がある。
 更に、同調する勘定科目には、為替の変動が伝達される、或いは感応するのに要する時間差の問題がある。

 費用で重要となるのは、率か、額かである。為替に同調する部分は、率で変化するために、費用でも原価に吸収することが可能である。それに対して、為替の変動の働きが陰に作用する勘定は、為替の変動を原価によって吸収することができず。費用の上昇要因として働く事になる。
 輸入原材料は、為替が変動しても費用構造を構成する比率に変化はない。それに対して、人件費のような為替の働きに陰な働きをする勘定は、収益に対して固定的な働きをするからである。収益に対し下げ圧力がかかっている場合は、相対的に費用を押し上げる様に働くのである。

 その場合、重要なのは、個々の勘定に構成する要素が支配されているのが通貨圏の内的要因か外的要因かである。

 例えば、国内で働く労働者の人件費は、内的な要素に属するために、為替の変動の影響は、直接的には受けない。
 又、国内で調達できる原材料も同じである。ただ、国内で生産される部品に関しては、部品に使われている素材が輸入に頼っている場合は、原材料に関わる部分に為替の変動の影響が及ぶ。

 勘違いしてはならないのは、根本的問題は収益の悪化だと言う事である。生起する問題間根本的原因は、収益の悪化であり、如何にして外的要因による収益の悪化をくい止め、或いは改善するかが鍵をにぎっているという事である。

 また、資産、負債、費用、収益の均衡が重要なのである。資産や負債、費用との均衡に収益がどう関わっているか。それが肝心なのである。




       

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