1.経済数学

1-2 数とは

全一なる存在と唯一の存在。神と自己。

 全一なる存在と唯一の存在。
 一には、二つの意味がある。
 己(こ、個)としての一と全体としての一である。この二つの一が認識の始まりとなる。
 己としての一は、自己の一である。自分の命は一つである。自分の肉体も一である。自分は、唯一で絶対的な存在である。自分の人生も一つである。
 全体としての一は、存在の一である。対象の一である。唯一無二。唯一の存在として一である。世界全体としての一である。そして、唯一絶対なる神の一である。
 全体としての一と自己の一は、本来、存在するものとして一体である。
 そして、全てはこの存在者としての一から始まる。
 そこから、全一なる一から、自己が個としての一を識別する。その時、全体から部分が生じ、一が二を生む。二が三となる。
 この一の持つ二つの意味が二を生み出す。一が二となるのである。そして、二が三となる。
 唯一無二なる一に対して個となる一が対峙した時、二を生み出す一が生じる。それが単位である。二から先は意識が生み出す。それが分別の始まりである。

 ∀「全て」の一(for all of x)と∃「ある」一(there exists x)。(「やわらか頭になる数学」桜井 進著 三笠書店)

 唯一なる存在は、全知全能なる存在である。全知全能は、一となる。全知は、絶対値で絶対値は無分別である。全てを知ることは何も知らないことと同じである。全知を極めれば無に転じる。一は無に通じる。無はゼロである。

 ゼロは、無であり、虚であり、空間である。全ては、存在であり、無限である。個としての一は、自己によって生じ、自己は一である。自己は。、対象に投影されて単位となり、対象は、単位を切り取られて一となる。単位は、自己に反映されて二を生む。二は、自己に還元されて三となる。神は、ゼロであり、全てであり、無限である。意識は、ゼロと一と無限の間に生じる。

 自己と全体、自己と対象とは一対一の関係にある。自己と全体が統一されて絶対的存在となる。それが全ての認識の前提である。

 物の本質と、物を指し示す言葉とは、別々に存在する。物の本質とその物を意味する言葉は、離れて存在する。(「科学哲学講義」森田邦久著 ちくま新書)
 数は、言葉である。故に、数は、対象となる物の本質と離れて存在する。
 貨幣価値は、物の本質とは別のである。貨幣価値は、物の本質と離れている。
 「在る」と「知る」、あるいは、「認める」と言う事は同じ事を意味しているわけではない。
 「知る」、あるいは、「認める」ことに対して「在る」は、必要条件だが十分条件ではない。

 人が生まれて初めての認識は、直観に基づく絶対的認識である。それは、存在に対する認識である。
 最初は、全体を一つの塊として認識する。その段階では、まだ、意識は、無分別である。全体が一つの時点には、存在は絶対で完全無欠である。全体を一つの塊として捉えていたら個々の対象を識別することはできない。
 故に、最初の認識をした直後に分別が始まる。分別が始まった瞬間から全ての認識は、相対的となり、絶対的認識は終了し、意識が活動をはじめる。
 故に、意識による活動は、全体を分かつことから始まる。

 一を一とするのは、自分であって、本来、一という実体はない。
 即ち、一を一として認識するのは、自己の意識であり、一という対象は本来存在しない。
 一という概念は、自己の側にあるのである。

 人は、生まれてからかなり早い時期に数を識別できると考えられるようになった。数を識別できると言っても、一般に考えられているように一つ、二つと数えられる数ではなく。一つ、二つと識別できるという事のようである。
 つまり、二つある。一つあった物が二つに増えたとか。二つあった物が一つに減ったというような物と物との関係や操作によって数を識別するのである。
 この事からも解るように、数の概念は、関係や操作から形成される。分ける。合わせる。足す。引くといった事象から数を認識するのである。
 そして、言葉を覚えるよりも早く数を使うようになる。
 この事は、数学とは何かという根源的問題を示唆していると思われる。更に言うと、静止する背景と動く部分を認識する事から数を識別するのである。基礎となる状況や環境と注目すべき対象を切り分ける行為そのものが数を形成する。(「数学する本能」キース・デフリン著 富永 星訳 日本評論社)

 二は、識別の始まり。

 存在か無か。一かゼロか。善か悪か。真か偽か。美か醜か。成か、否か。是か、非か。正か、負か。
  二進法は、始まりである。

 数の始まりは、対象を分かつことである。一つの全体は、幾つかの部分に分かつことによって数に対する認識が形成される。

 数は、最初は、数える事と測る事から生じた。数える事から数が生まれ、測る事から量が成立した。

 数は、物を数える事によって生じた。量は、長さや大きさ、重さを比べることから生じた。

 その上で数と量を体系化することによって数学の基礎は築かれたのである。

 故に、数学には、数的な要素と量的な要素があるのである。
 数学を、現代の学校教育では、代数を基礎として教える。数学の基礎は、むしろ幾何学的な概念である。ところが、代数を中心に教えるために、幾何学的な要素が抜け落ちてしまうことが多い。これが後々重大に欠陥となるのである。

 経済的行為の端緒は、数える、測る、分けるである。つまり、経済的行為の始まりは、数学的行為なのである。

 最初の数は一般に自然数とされる。自然数を定義する場合、第一に、数の基準となる集合を定めてそれを自然数とするか、第二に、基準となる集合と対等な集合の同値類を自然数と名付けるのかの二つの考え方がある。(「数とは何か」足立恒雄著 共立出版)
 貨幣価値は、後者の考え方の延長にある。

 近代数学の祖となるギリシアでは、数学の道具は、専ら、定規とコンパスであった。その定規も現代みたいの様に長さを計測する目的の物ではなく。直線を引く目的の物であった。コンパスの目的は、円を描くことと、線分の長さを他の直線上に移し換えること、角度を別の場所へ移動させることでしかない。(「無限を読み解く数学入門」小島寛之著 角川ソフィア文庫)

 幾何学的に言うと数とは、一定の線分である。それは、一という長さの量を決める。その一と決められた線分に対して、二の線分、三の線分が成立するのである。
 そして、足し算は、一の線分の延長線上によって計測される。それが計算の始まりなのである。

 このようにして成立した量が数に変換されることによって数学は形成されたのである。

 数の概念は、数単独に成り立つ概念ではなく。自己と対象との関係や認識上の操作から派生する構造的概念である。これは言語も同様である。故に、数も言語も操作によって成り立っている体系なのである。
 主観的数の観念と対象のもつ形式的属性が結びついた時、数の概念が確立される。

 数の性格を表す尺度の中に,統計で言う名義尺度、順序尺度、間隔尺度、比例尺度がある。これらの尺度は数の働きをよく表している。(「意味のわかる統計解析」涌井貞美著 ペレ出版)
 統計では、データの尺度として、データを区分するだけの尺度を名義尺度とする。数値自体には、意味はないがその順序に意味があるのが順序尺度、間隔,即ち、距離のみに意味があるのを間隔尺度、差と比の両方に意味があるのが比例尺度とする。
 これは数の性格に由来する。

 数字は象徴である。
 数とは、影である。
 近代社会は、事象を数値化する事によって成立したと言える。ただし、数値化であって数学化ではない。数値化と数学化とを混同する人が沢山いるが、数値化と数学化は違う。
 数値化とは、事象を単に数値に置き換えることを言っている。その後の処理については別である。数値化された事象を論理的に処理する手段を与えるのが数学である。数値化されただけでは、数学的に処理されたわけではない。
 やたらと物知り顔に数値によって説明する者がいるが、ただ、数値を羅列するだけでは、数学的だとは言えないのである。しかし、数値化は、数学化の入口でもある。つまり、数値化は、数学化の前提ではあるが、数学化ではない。
 近代は、事象を数値化する事によって成立したと言える。例えば、成績も、スポーツも、数値化された結果によって成り立っている。そして、数値を構成する数とは影である。

 床の上に積み上げられた紙は、壁に映すと一つの塊にしか見えない。しかし、風が吹いて紙を飛ばすと、それは、一枚一枚が独立して影を映す。

数は認識の問題である。


 一般に、数というのは、唯一の存在であり、絶対的な物だという錯覚がある。また、数学というのは、厳密のものであって解答は一つしかないという思い込みがある。今の学校教育でその錯誤が強化される傾向がある。しかし、数というのは、抽象的な事で、手段であり道具である。抽象的で、手段、道具である数は、その基となる対象、目的、扱い方や処理の仕方で、いくらでも姿形を変え、性質にも違いが生じる。故に、自然数、整数、実数等の差が生じたのである。
我々が数値を扱う時は、前提条件や目的を確認すべきなのである。

 自己は、主体であり、又同時に、間接的認識対象である。この自己の有り様は、認識の有り様に決定的に作用する。
 この事は、数の認識にも言える。
 事象の認識においては、自・他の分別が鍵となる。なぜならば、認識は、自己と他者との関係において成り立っているからである。数も又、例外ではない。
 一は、自己の一と自己以外の他の一とを一対一に対応させることで成り立つ。つまり、内的な一と外的な一である。

 近代的個人主義の根本は、自他の分別である。自己を確立し、他を受け容れる。それが認識の基本である。数に対する認識も、又、自他の分別によって始まる。

 基本的には経済は認識の問題の問題である。
 例えば、労働、資源、取引、いずれも認識の問題である。
 そして、認識の問題で重要なのはいつ認識するかである。

 全体を認識する自己は一である。故に、全体を分かつ自己は一である。しかし、自己は間接的認識対象である。故に、対象を分かつことによって、自己の存在を認識する。対象を通じて間接的に自己を認識する事によって、対象を認識する前の自己と、対象を認識した後の自己との間に意識の差が生じる。それが二となり、三となる契機となる。

 自己を対象に投げ出し、投影することによって自己を客体化する。その時、対象の絶対性、完全性は破れ、相対的な対象になる。それによって対象間の一対一の関係が成立する。

 数には、一つ、二つと数え上げていく数と、全体を一とし、又、更に全体を分割して幾つかの部分にした上で、任意の部分を一とし、その比によって成り立つ数がある。数え上げていく数には、際限がなく、全体を一つとする数には限界がある。この二つの数に対する認識の仕方は、明確に区別がされているわけではなく、設定される条件によって使い分けされている。問題なのは、前提とされる設定が常に、いい加減だという事である。

 貨幣は、数を物化した物である。
 物化した事で、貨幣は数という属性だけでなく、物としての属性を付加される事となる。貨幣は、物化した事によって物としての属性が獲得されたのと同時に物としての制約も受けるようになる。
 物としての属性には、所有する、持つ、運ぶ、見る、触れる、交換する、配る、貸す、借りる、預ける、預かる、あげる、貯める、蓄える、保管する、渡す、受け取る、譲る、捨てる、廃棄する、捨てる、隠す、変える等がある。
物としての属性は、負の値をとれない、小数を表せない、虚数、無理数を使えない。離散数となる、残高を基本とせざる得ない、有限である、数単体では機能しないという事である。
 そして、数と物との属性が貨幣の働きを規定している。又、貨幣価値の土台となる。

 貨幣価値と貨幣は違う。それが前提である。
 貨幣価値は、自然数の集合であるために、貨幣価値は、一つ一つ数え上げていく数、即ち、前者である。
 ところが貨幣は、本来、物として貨幣の量には限りがあり、また、貨幣は、有限な対象を扱っている物でもある。故に、一つの全体を持つ数、即ち、後者である。
 貨幣は、有限な対象を扱っているのに、貨幣価値そのものには、制限がない。何等かの制限を加えないと貨幣価値は無限に拡散していく。
 今日の経済は、有限な世界を前提として成り立っている。ところが、貨幣経済は、際限なく拡大を続けている。それが、現代社会の矛盾の一つである。

 情報というのは、無形である。貨幣価値は、情報の一種である。無形である情報、貨幣価値を有形にしたのが貨幣である。貨幣は、貨幣価値の数値単位を表す物である。

 貨幣価値は、通貨圏という閉ざされた空間の中で効果が発揮される。自然界には貨幣は存在しない。貨幣は、人為的な物であり、人為的空間の内部でしか通用しない。

 人、物、金に関わる数値データは一次的なデータであり、貨幣価値は二次的データである。例えば、人(人口や人口構成、年齢、身長)、物(生産量、消費量)金(マネーサプライ)は、一次データであるが、地価のような資産価値は二次データである。
 数は、抽象的概念であるが、数が成立するためには、数の下には、何等かの実体的な物がなければならない。
 リンゴが二つ、木が二本、人が二人という事象から二という共通した要素を一朝一夕に抽象化したわけではない。
 二という数を確立するだけで長い年月がかかっているのである。その上に例えば二百円と言った貨幣価値を附加するの更に長い年月がかかっているのである。
 しかも、貨幣価値は、一個、二百円のリンゴというように実体的数字と貨幣単位による数字が掛け合わされる事によって成立したのである。

 数とは、実在の物ではなく、働きを抽象化する事によって成立した概念である。
 数を成立させた働きとは、数える、測る、確かめるという働きであり、その働きを数に発展させるための働きとして、対象から共通した等しい部分を抽出し、それを他と識別するという働きがある。また、数えるや測るという働きから、並べる、集める、合わせる、分ける、示す、印す、知らせると言った働きが生じ、さらに、揃える。順序づける。足す。引く。掛ける。割ると言った働きが成立した。
 確かめるという事から示す、印すという働きが生じる。それは数字という表象の基となる。数の概念において数字という表象は、不離不可分の関係にある。そして、数字という表象は、貨幣という物に置き換えられることによって貨幣価値を構成するようになる。

 数の始まりは、0を含まない自然数である。0やマイナスという概念は、極めて近代的な概念である。有理数や無理数よりも新しい概念と言っていい。

 数を数えるという働きは、代数の素となり、数を測るという働きは幾何の素となった。いずれにしても数の始まりは0を含まない自然数である。

 数には性格がある。偶数、奇数、約数、倍数、素数といった数を構成する性格は数の性格の基礎となる。
 二進法の二、三進法の三と言った位取り記数法の底となる数の性格が数の体系を性格付けるのである。
 例えば、二進法では、二の倍数を三進法では三の倍数が基本単位となる。十二進法は、二と三と四と六で割り切れる。つまり、二と、三と、四と六の倍数が一塊になる。
 なぜ、この様な数の性格が経済において重要になるのか。それは経済はの根本は、分配だからである。分配だから約数や倍数が経済のおいて重要な意味を持つのである。
 数は組みあわせにも影響を与える。例えば足して十になる組みあわせの数は、状態を表すことができる。七三、六四、五分五分といった具合である。
 この様な底を為す数は経済にも重要な働きを及ぼす。

 スポーツの基本単位は、野球は九人。サッカーはイレブン。バレーは六人である。バスケットボールは、五人である。
 この様なスポーツの数の基本単位は、一見、無意味であるようだが、スポーツの有り様を形作っている。スポーツの、形式、外形を構成する要素だからである。
 同様に、経済の基本単位は、経済の有り様に潜在的な部分で働いている。数の性格は、経済の底辺で働いている。
 特に、素数は、経済現象の意外なところで働いてる可能性がある。双子素数やメルセンヌ素数が好例である。

 数は、数を数えて分ける。数を数えて合わせる。或いは、測って分ける。測って比べるといった個々の働きを組み合わせることで、数の働きは、発展した。
 更に、測って分けて比べる。数を数えて分けて、揃えて、集める。数を数えて分けて合わせると言う操作が、足す、引く、掛ける、割るという基本的な演算を生み出していくのである。
 数える。測る。分ける。比べる。合わせる、揃えるといった基本動作が演算のアルゴリズムを構成していく。これらは、会計制度にも受け継がれている。

 数は、順序づけられることによって量を表現できるようになる。数に順序がつけられることで、数によって位置を表現することが可能となる。位置は距離を表す。その結果、位置関係が確立されれば、量を表すことが可能となる。
 距離は、長さと言う概念を生む。そして、位置を比較することによって長短、大小、軽重などの概念が確立される。
 そして、距離と等しいと言う概念が結びつくことによって単位が成立する。これらは、対象と数が順序によって関連付けられることで成立する。

 我々は、物を数える時、十個ずつの塊を作り、その塊を更に十個ずつ集め。後の残り、余りを数えて全体の数を集計する事がある。このときの塊を一つの単位として考えてもいい。逆に言うと塊は、塊として捉え、それを順序よく並べる必要はない。しかし、それでは計算がしにくい。順序という概念と数とが結び付けられることによって演算が可能となるのである。

 数の性質の中に数えようとする対象や測ろうとする対象に添えられる、即ち、関連付けられるという性質が数の働きに決定的な役割を果たしている。

 数がその効用を発揮するのは、数の体系が成立した後、他の対象に関連付けられたときである。
 つまり、数は、他との関連において普遍化され、一般化される。普遍化され、一般化されることによって数は、その効力を発揮するのである。

 鍵を握るのは等しいという概念である。等しいとは、同じとか、共通しているという概念にも通じる。肝腎なのは、何を等しいとし、何を同じとし、何を共通していると見なすかである。それによって対象の性格が確定する。
 更に、等しいという事を時間に結び付けると一定しているとか、固定的、静止という概念が生まれる。

 任意の対象に数は関連付けられると言う点、又、数によって対象を均等化できるという事、しかも、それは任意な手続によるという事が数学の発展において重要な要素なのである。(「数とは何か」C.ランツォス著 米田桂三訳 講談社 ブルーバックス)

 数で重要なのは、視覚性と操作性である。目に見えてこそ、数は確立され、操作できるから数は発展する。
 数えるとか、測るという目に見えない働きを目に見える形に置き換える。それが数の始まりでもある。
 目に見える形に置き換えることによって数の背後にある対象の等しさが明らかになる。又、目に見えるようにすることによって数を操作することが可能となる。
 その等しさは単位の素となる。
 又、目に見える形に置き換えることによって他と関連付けることが可能となる。
 他と関連付けられることによって関連付けられたことを数を媒介にして比較することが可能となる。比較は、数に順序づけをもたらす。順序づけられることによって数は位置を測ることが可能となるのである。それはやがて経済的価値へと結びついていく。経済的価値に結びつくことによって数の概念は、更に発展していく。

 注意すべきなのは、数の体系は、測る対象の体系とは別の独立した体系だと言う事である。

 数が、価値に結び付いたときに、貨幣価値は成立する。
 最初から貨幣価値は数と結びついているわけではない。貨幣価値は、貨幣という物を媒体として対象と数とが結びつくことによって成立したのである。

 貨幣価値は、認識主体と貨幣が指し示す対象と貨幣の三つの要素からなる。この三つの要素は、人・物・金である。
 貨幣は、貨幣は、貨幣価値の指標である。貨幣が指し示す対象に対して貨幣価値は中立的働きをする。それが貨幣価値の客観性を裏付ける。
 質の違う対象、例えば、物と労働、時間といった対象も貨幣価値に換算することによって演算することが可能となる。それは、貨幣が対象に対して中立的だからである。

 数字や貨幣が指し示す対象が何かは数学的には意味がない。数値や貨幣単位のみが抽象化されるのである。

 数は、数が指し示す対象の属性に対して必ずしも中立的とは言えず。数が指し示す対象によって拘束される場合がある。
 例えば、リンゴが五個と言った場合、数は、リンゴという対象を特定することを意味する。

 それに対して、貨幣価値は、貨幣が指し示す対象に対して中立的である。リンゴ一個二百円、蜜柑一個、百円としたら、リンゴ三個と蜜柑に個合わせていく等と言った演算が可能となる。それが貨幣価値の効用である。

 数自体には、匂いも、重さも、色も、味もない。又、数は、数えたり測ったりする対象自体でも、また、対象の一部でもない。数は、添加されている印である。そこに数の発展性が隠されている。だから対象を数値化したとしても対象の性格や働きに何ら影響を与えない。
 そして、数の性格は、貨幣の性格にも転じていく。


自己と対象




 世界は、対象と自己との関係が作り出す。

 対象とは、存在するものである。
 物とは、物質的実体をのみ指すわけではない。世界や空間、神のような抽象的概念、現象や観念的事柄も含めて言う。あると言えばあるものであり。ないといえばないものである。
 対象は、認識によって成立するものである。
 対象の存在は絶対である。あると言えば確かにあるのであり、ないと言えば確かにないのである。
 あるという者にとって対象の存在は絶対であり、ないという者にとって対象は存在しないのである。
 この様な対象に対する最初の認識は、直感によって為される。

 存在するものは、自己が認識しようが、しまいが存在する。しかし、自己が認識することのできない対象は、自己にとって存在しない。

 遠くへ去った人が亡くなったとしても、知らなければ、自分にとっては生きているのである。

 指示されたことで、指示者に報告されていない事は、指示者にとってやっていないのと同じである。やってありますということ自体、言い訳になる。

 幽霊だの、超自然現象だの、空飛ぶ円盤などは、信じる者にとっては存在する。しかし、信じない者にとっては、そのような概念があることは承知できても存在しないことなのである。

 貨幣価値は、あると言えばあり。ないと言えばないものである。

 猫に小判、豚に真珠と言うが、猫や豚は、小判や真珠のために、自分達の仲間を殺したりはしない。ならば、真の価値を知っているのは、人なのだろうか、猫や豚なのだろうか。
 人にとって「お金」は価値があるものである。それは、「お金」を他の物に交換できると信じているからである。つまり、「お金」が使えるからである。しかし、「お金」を使うためには、相手も同様に「お金」の価値を認識していなければならない。「お金」の価値を認識していない者にとっては、「お金」には何の価値もないのである。

 経済取引の前提は、認識にある。何をどのように、認識するかによって経済的価値は違ってくる。そして、それによって景気が左右されることもある。
 現在の会計は、発生主義、実現主義、原価主義に基づいている。
 資産価値を測定するのに、原価主義に基づくか、時価主義に基づくかで、会計のあり方、期間損益のあり方に重大な差が生じる。そして、それによって企業実績に重大な差が生じ、場合によっては、倒産する企業も出てくるのである。しかし、その根本的な違いは、認識の違いである。

 対象には、意味はない。対象それ自体は、無意味なものである。
 対象には、分別はない。対象それ自体は、無分別なものである。

 この様な対象に意味を持たせるのは、自己である。
 この様な対象に分別を持たせるのは、自己である。

 自己は、対象に意味や分別を持たせることによって、対象から情報を引き出し、意識によって対象を再構築して知識に変換するのである。

 自己は、主体である。
 自己は、唯一の存在である。
 自己は、認識主体である。
 自己は、自己の肉体によって体現される。
 自己の存在は、自分はいると直感した時、認識される。
 自己の存在は、自分は生きていると直感した時、認識される。
 この様な自己に対する最初の認識は直感によって為される。
 自己も対象の一つである。故に、自己は存在するとした時、自己は、絶対となる。
 自己の存在は、認識された時に絶対となる。

 自己は、一である。ゼロではない。

 対象と自己とは、唯一絶対な存在である。
 これが大前提である。

 分別とは、対象を分かつことである。
 絶対な対象を分別した時、対象は、相対的となる。
 対象は、分別された瞬間に絶対性が破れ、相対的なものになる。

 この世には、本来、不完全な対象はない。対象は、完全なものである。
 しかし、絶対で完全な対象を識別することはできない。対象を識別するためには、対象を分けて捉える必要がある。対象を分けるという事は、対象を不完全なものとして対象の絶対性を破ることである。
 不完全な対象は、対象を識別する必要性から生じる。対象を識別した瞬間から対象は不完全なものになる。
 故に、自己が意識の上にとらえる対象は、全て不完全である。
 なぜならば、意識の本となる識別は、対象を分かつことによって成り立っており、対象を分かつことは、対象の絶対性を破ることだからである。

 対象を分けた時、数の概念は生まれる。
 数は、対象を分けることによって生じるのである。

 故に、分配は数から生じる。
 経済の働きの根本は分配である。故、経済の働きは数から生じる。
 対象を分けるという事は、経済の割り算が基本にある事を意味する。

 対象を認識すると自己は、対象を識別する。
 意味や分別は、意識が生み出す基準である。

 対象は、自己に認識されると意味を持つ。
 対象は、自己に認識されると分別を持つ。
 意味を持った対象は絶対性を失い相対的なものになる。
 分別を持った対象は絶対性が破れ相対的なものになる。

 無限は、絶対を表す。有限は、相対的になる。
 対象の存在は無限であり、自己の認識は有限である。
 なぜならば、対象の存在は絶対であり、自己の認識は、対象の存在の絶対性を破るからである。

 自己は、間接的認識対象である。
 自己の肉体は、何らかの対象を通してしか見ることはできない。
 自分の顔を直接見ることはできない。自分の顔を見たければ、鏡を見るか、水面に映った自分の姿を見るいがいにない。この世で唯一直接見ることのできない顔が自分の顔である。

 自己の内面の意識は、一度、自己以外の対象に映し出し、映し出された対象を認識することによってのみ、自己は、その存在を知ることができるのである。
 自己の内側に向かう認識は、自己の外への働きによって生じる。
 自己の意識は、この自己の外部へと内部への相互の働きよって形成される。つまり、認識は、外部への働きと内部への働きの双方向の働きによって為される。

 この自己と対象との関係によって認識の作用反作用が生じるのである。

 認識の作用反作用の働きは、自己や対象に対する認識の過程で、自己と対象との関係によって派生する仮想的関係である。

 数を生み出すのもこの自己と対象の関係である。
 自己は対象の中から数を見いだす。
 数は、分別によって生じるのである。故に、数は、相対的である。

 対象の一、全一から自己が部分の一を分別するのである。
 全体には意味はない。全体には分別はない。
 全体が意味を持つのは、自己が一を分別した時である。

 対象の全一を分別することによって自己の一は成立する。
 それが一である。
 そして、一は自己と対象との関係によって二となり、二は三となる。
 二進数の原型もここにある。

 識別は、二進法的に行われる。
 最初の認識は、絶対値であり、無分別に為される。
 その時、全ては、総てでもあり、無でもある。
 全ては、一であり、ゼロである。
 分別は、対象をその物自体と他と分かつことから分別は始まる。
 故に、二である。
 二は、一とゼロで構成される。
 それが分別の始まりである。

 あなたに、与える一は、あなたが得る一である。
 私があなたから買う一は、あなたが私に売る一である。
 あなたが私に貸す一は、私があなたから借りる一である。

 全一は、無に通じる。
 全一は、無でもある。
 色即是空。空即是色。
 一か、ゼロか。始まりは、一か、ゼロか。
 それは意識によって定まる。
 自己の認識が決める。
 不二にして二。二にして不二。

 対象の存在も自己の存在も、今、しかない。
 この存在は、直感によってしか認識できない。
 時間は今という瞬間の連続性の上に成り立っている。
 連続性は運動によってもたらされる。
 故に、万物は運動する。万物は流転するのである。

 諸行無常。

 幾つかの物による塊があり。その塊を何らかの前提によって一つの集合と定義する。その一つの集合を幾つかの部分に分割する際、数の概念が生じる。
 例えば、一つのリンゴがあり、五つのミカンがあるとする。一つのリンゴ、五つのミカン、六つの果物という三つの集合が成立する。一つは、一つのリンゴという集合。もう一つは、五つのミカンという集合、そして、もう一つは、六つの果物という集合である。
 ここに、一と五と六という数が生じる。それが数の始まり。

 一つの机という場合、一つという数字の概念を抽象しているだけでなく、机という概念も合わせて画定しているのである。
 数は、他の属性と結びついて、その属性の範囲を画定する。

 最初は、数の概念があっても数えるという行為はない。
 数えるという行為は、順序という概念と数の概念が結びついた時に成立する。
 その前提は対象を分かつという行為である。

 順序と結びつくことによって数の概念は飛躍する。

 数は、無限である。無限は、絶対を表す。人間の認識は、有限であり、故に、相対的である。

 数の無限性は、連続性によって生じる。不連続なるものは、相対的である。
 連続性は、運動によって導き出される。

 実数は、数の実在を表す。実数は連続している。

 故に、実数の認識には、直感的な飛躍が求められる。

 直線を切断するとしか言いようがないのである。

 数の体系は、他の数の体系と交差することによって次元を形成する。価値は、次元の中で形成される。

 貨幣単位も貨幣価値も数の体系である。

 現代人は、貨幣価値を自明な物として認識している。しかし、貨幣価値は、所与の価値ではない。任意な価値である。
 貨幣価値は、数を象徴している。実体は数の背後に隠されている。それは、直感でしか認識できないものである。

 存在は、自己を超越したところに成立している。
 絶対的存在を限りある自己の認識は超えられない。完全な対象を不完全な自己の認識は、超えられない。超えられないからこそ、自己は、独立し、自己の認識は、独創的なのである。対象も一、自己も一。神も唯一であり、自己も唯一なのである。神と自己とは一対一の関係しか築けない。

 神の存在は、永遠に無限であり、完全であり、絶対である。
 自己の認識は有限であり、不完全であり、相対的である。

 あらゆる科学も数学も神の存在証明に過ぎない。
 それを神の存在の否定と捉えたり、神と対立したものと捉えているから、科学者は、神を怖れぬ所業を繰り返すのである。
 信仰心なき者は、永遠に孤立する。

 人間は、釈迦の掌から飛び出せない孫悟空のような存在なのかもしれない。
 人間の一生は、限りあるものなのに、今という一瞬は、無限や永遠、普遍に結びついているのである。



数は、経済と伴にある。


 数は、極めて経済的で合理的なのである。第一に数には、無駄がない。余分な要素が総て削ぎ落とされている。その分、数は節約的で合理的なのである。数は実に経済的である。

 古来、数学は、権力者の支配の手段の一つであった。すなわち、数学は、当初、支配者の側にあったのである。その数学が人民のものとなった時、民主主義は深化したともいえる。
 民主主義は数によって立つ体制だといえる。

 数学こそ歴史である。歴史の産物である。故に、数学を学ぼうと志すならば、数学の歴史は必須である。そして、数学は、歴史と伴に発展してきた。歴史の根底には経済である。故に、数学は人類の歴史に重大に影響を与えてきたし、逆に、数学は歴史によって形作られてきたのである。

 そして、経済は数学と伴に発展してきた。

 数は、本来、現実に実在するものと結びつく事によって成立した。故に、数の体系や働きは、何に結びついて成立したかが、重要な意味を持っていた。そして、その重要性は今日でも変わりないのである。

 数は、家畜や獲物を数える目的によって成立したといえるし、数の単位や長さの単位を多くの民族は、指や腕といった体の一部と結びつけていた。さらに言えば、税と単位とは不可分の関係にあった。

 又、農耕が始まると数の体系は、束や粒といった大麦や小麦、米といった収穫物を測る基準や升とった収穫物を測る道具を体系づける事によって成立したと考えられる。

 このような、数の体系は、必ずしも十進法と決まっていたわけではない。その時代その時代の社会体制や生活環境によっていたと考えるのが妥当である。

 我々は、面積というと形から思い浮かべる。面積は、長さを掛け合わせたものという認識である。しかし、面積は、古代社会では、長さを掛け合わせた値と言うよりも、収穫量や労働量を基にした量として導き出されていた。また、重量によって面積を求める事もあった。例えば日本では、段、束、升といった収穫量を基に面積は考えられていた。また、朝鮮では、一頭の牛が四日かがりで耕す広さを一結とした。イギリスのエーカーは、二頭の牛が犂をつけて一日に耕す広さを言う。(「面積の発見」武藤徹著 岩波書店)
 バビロニアでは、大麦、百八十粒の体積を一シュケルと言い、大麦百八十粒を蒔いた畑の広さを一シュケルとした。
 また、ヘブライ語聖書では、目方一シュケルの銀の価格が一シュケルだったとある。このように、一シュケルは、目方の単位でもあり、貨幣の単位でもあった。(「面積の発見」武藤徹著 岩波書店)
 このように、面積や重量、貨幣単位は、複雑に絡み合っているのである。このことは、数学と経済との関係をも暗示している。
 何と何を結びつけて単位は作られたのか。それは、数学と経済との関係を考える上で重要な示唆を与えてくれる。
 ただ、気をつけなければならないのは、面積は、必ずしも、長さの積として導き出されるとはかぎらないのである。それは、数学が生活の知恵として発達してきた証でもある。

 元々、数学は、生活の必要性から生じた。経済は、生きるための活動である。故に、数学と経済は、切っても切れない関係にある。

 今日、数学は、実物から離れ、抽象的な概念だと思われているが、本来、数学は、生活の実態に基づいた学問なのである。それ故に、数が象徴している実体が何かを明らかにする事は、数学を考える上で重要な鍵を握っているといえる。何と何が結びつく事によって数学が成立したかに重要な意義が隠されているのである。そしてそれは、今日の経済の根本に関わる事でもある。

 経済にとって数学は合目的的な事である。合目的的なことだから目的によって数学の在り方も影響を受ける。合目的的だから、恣意的であり、人間の意志が重要なのである。

 経済は、人為的な仕組みの上に成り立つ現象である。経済は、自然現象のように所与の法則の上に成り立っている現象ではない。当然、数学に対する考え方の前提も自然科学と経済とでは違ってくる。

 経済制度は、仕組みとして完結している。故に、制御できなくなって暴走することがあるのである。
 経済現象が任意の仕組みの上に成り立っているとしたら、経済現象を制御するためには、仕組みを構成している前提を明らかにする必要がある。
 経済現象は自然現象のように成るものではなく。起こるべきして起こっている現象なのである。
 飛行機が飛ぶのと鳥が飛ぶのとでは、同じ飛ぶのでも本質が違う。鳥は、卵を暖めれば生まれるが、飛行機は卵から生まれない。鳥は、生まれれば、自身の力で飛び方を学ぶが、飛行機を飛ばすためには、飛行機を設計する必要があるのである。

 会計上の対称性は人為的に作られて対称性である。

 数学の根本は、抽象化にある。自然や社会の現象を、一旦、数や図形に抽象化し、そこから、方程式に置き換え、法則や原則を導き出し、それを、一般化し、再度、具現化することによって実証する。その過程が数学となるのである。(「考える力をつける数学の本」岡部恒治著 日経ビジネス文庫)
 そして、この過程は、正(まさ)に経済そのものなのである。だからこそ経済と数学は、一体といえるのである。
 ただ、我々が一般に数学という場合、自然現象、物質的現象を対象とした事象を発端とした対象に限定して言う場合が多い。
 この様な自然現象や物質的現象を対象とした数学に対して経済における数学は、社会的現象を対象としているという事にある。故に、抽象化でも前提とする対象や条件が違ってくるのである。当然、発展の過程、歴史にも微妙な差がある。

 自然現象と社会現象の違いは、前者は、所与の対象を前提としているのに対し、後者は、任意な対象を前提しているという点にある。所与の対象というのは、客観的実在を意味するが、任意な対象とは、主観的、観念的対象を意味する。故に、自然現象を対象とする数学は、定義に基づくが社会現象を対象とした数学は合意に基づかなければならない。即ち、前者は仮定に基づき、後者は契約に基づく。
 貨幣経済というのは、経済的価値を一旦交換価値に還元し、貨幣価値に変換した上で、それを市場を通じて生きる為の活動に活用する経済体制を言う。経済体制というのは、経済の仕組みである。
 つまり、貨幣経済は、自分が所有する資源を活用して自分の社会に対する効用を数量化し、それを、所得という形で貨幣価値に変換し、所得として獲得した貨幣と生きる為に必要な財や用役を市場において交換する事によって成り立っている。 

 100万円の服は高いというのと、100万人は多いというのでは意味が違う。
 100万人というのは実体があるが、100万人というのは名目的で実体はないのである。

 数学は高尚な哲学的動機によって始まったわけではない。
 生きる為の必要性から数と量は生じたのである。数学は、本来生活の一部なのである。生活の一部だから、数学は抽象化された時、人生や宇宙の出来事、神秘と言った高遠な思索に結びつくことができたのである。

 数学は、もともと人間の役に立つために生まれたのである。だからこそ、数学は、人々の生活と共にあったし、今でも、人々の生活に不可欠な事として役立っている。
 ところが、数学が純粋数学としての分野を確立し、抽象化されるに従って数学は、世の中に役に立たない、あるいは、役に立たないからいいのだと言った誤った認識が蔓延したりのである。
 しかし、経済は、数学だと言えるぐらい、経済と数学は一体な事である。そして、数学は経済に役立ってこそ存在意義が発揮されるのである。特に、純粋数学においてである。経済数学の基礎は、数論と集合論、群論にある。

 人間は、純粋な数学的動機や深遠な哲学的思索から数を生みだしたのではない。家畜の数を確認するために、棒に刻んだ印や収穫物を公平に分けるため、或いは、畑の面積を測ると言った実利、実用的な動機が数が生まれた根本にある。つまり、数を生み出したのは学問的動機と言うよりも経済的動機なのである。そして、その延長線上に貨幣価値は生じたのである。

 貨幣単位というのは自然数の集合である。故に、自然数の性格を色濃く反映している。この事は、貨幣経済を考える上では数論が重要な役割を果たしている事を意味しているのである。
 例えば、基数と序数の持つ性格は、貨幣単位の根本的性格を構成している。
 貨幣と数との関係を考える上で、先ず鍵を握っているのが、数と対象との一対一の対応である。そして、一対一の対応を前提とした貨幣と物との交換である。

 貨幣価値は、自然数の無限集合である。故に、貨幣価値の濃度は等しい。

 自然数の集合は加算について閉じている。(「素数入門」芹沢正三著 講談社ブルーバックス)
 貨幣価値は、加算について閉じている。

 人が観念で生み出した経済的価値を貨幣と言う物に置き換える事によって普遍化し、また、数値化する。そして、貨幣と貨幣以外の物との交換によって発効するのが貨幣価値である。そして、その貨幣価値を土台として成り立っているのが貨幣経済である。

 経済を金勘定だと思ったら経済の本質を見失うこととなる。経済は、生きる為の活動である。生活である。経済の根本は、金の関係ではなく、人間関係であり、人と物との関係である。
 それは数の本質も同じである。
 数というのは、合目的的に設定された基準である。数という体系を定義する場合、数という体系の基準となる要素の集合を自然数とするのか、数という体系の基準となる要素の集合と対等となる集合の同値類を自然数とするのかの二通りがある。(「数とは何か」足立恒雄著 共立出版)貨幣価値というのは、基本的後者である。数、即ち、貨幣価値は、基準となる集合と同値類の集合を言うのである。
 貨幣価値は、自然数の集合である。しかし、その自然数の集合である貨幣価値を成り立たせているのは、人間の日々の営みなのである。その日々の営みが経済から失われたら経済は本質をも失うのである。貨幣価値が、経済の実体ではない。経済とは、人々の生き様や日々の営みを言うのである。
 故に、経済について考える事とは、即ち、人生や生活について考えることなのである。故に、経済とは、哲学であり、思想なのである。

 金儲けは、手段であって目的ではない。金を儲けるのは、生活をするためである。金のために、生活が破綻したのでは本末転倒である。ところが現代の経済では、金儲けを目的化しているようにさえ見える。経済の本質には、人間の尊厳がある事を忘れてはならない。人間らしく生きる。それをなくしたら人間の経済など土台から崩れ去ってしまう。ところが、今の経済は金に纏わる問題しか扱わない。だから、経済の問題は解決できないのである。ハイパーインフレ下でも、大恐慌下でも、戦時下でも大地震や津波のような災害の後も人々の日々の営みは欠かすことなく継続されたのである。

 その点から言うと経済破綻というのは、本来、物理的に生存活動、生活が成り立たなくなる状態、即ち、旱魃や飢饉、戦争を指して言うのである。

 経済を金勘定だと思ったら経済の本質を見失うこととなる。経済は、生きる為の活動である。生活である。経済の根本は、金の関係ではなく、人間関係であり、人と物との関係である。
 それは数の本質も同じである。
 数というのは、合目的的に設定された基準である。数という体系を定義する場合、数という体系の基準となる要素の集合を自然数とするのか、数という体系の基準となる要素の集合と対等となる集合の同値類を自然数とするのかの二通りがある。貨幣価値というのは、基本的後者である。数、即ち、貨幣価値は、基準となる集合と同値類の集合を言うのである。
 貨幣価値は、自然数の集合である。しかし、その自然数の集合である貨幣価値を成り立たせているのは、人間の日々の営みなのである。その日々の営みが経済から失われたら経済は本質をも失うのである。貨幣価値が、経済の実体ではない。経済とは、人々の生き様や日々の営みを言うのである。
 故に、経済について考える事とは、即ち、人生や生活について考えることなのである。故に、経済とは、哲学であり、思想なのである。

 元々数は、生活、即ち、経済に直結していた。数は、数を数えるという行為に発展し、やがて足し算、引き算、掛け算、割り算というように計算へと発展していった。
 また、土地の測量、即ち、測るという行為は、図形、幾何学へと発展していった。それが今日の数学の始まりである。

 故に、原始的な段階では、数学の形成に農耕は、決定的な役割を果たしてきた。その原点は、収穫物の計算や獲物の分配を決めると言う経済的行為である。そして、分配という行為は、経済の根本的意義でもあるのである。
 ここに数学と経済の本質が隠されている。

 足す、増やすとか、引く、減じるとか、かける、割るというのは、数学的な概念である。そして、足すとか、増える、引く、減じる、かける、割るというのは、経済の根本の概念である生産や消費、分配にも繋がるのである。
 計算は、経済的行為から始まったのである。

 古代社会においても統一的王朝が成立すると単位の統一が求められるようになる。この様な単位の統一を度量衡という。
 度というのは、物差しであり。長さを表す。量は、枡を意味する。分量、体積を表す。衡とは、秤であり、目方、重りを表している。
 そして、単位は、等しいと言う概念を前提として成り立つ。その等しさを本にして成り立つのが単位だからである。
 つまり、数の体系は、数えるとか、測るとかといった、何等かの実体的行為を前提として成り立っているのである。一枡、いくらとか、幾つとかが基礎となって単位は構成される。
 その為に、単位の基礎は、家族の数とか、腕の長さとか、足の大きさ、指の数、枡の大きさと言った置かれている環境や前提条件、行為の目的などによって、その場、その時点によって決まったのである。つまり、単位は、時間や場所、場合によって違ったものだったのである。

 この様にして成立した数の体系は、今日、我々が普遍的だと考えているような数の体系といささか趣が違う。
 この時代の数の体系は、より現実的、より実体的な体系だったのである。
 例えば、我々は、十進法的世界をあたかも自明のことのように受け容れている。しかし、十進法的世界が確立されたのも決して遠い昔ではない。その証拠に、時間の単位は、六十進法や十二進法の名残があるし、又、角度は三百六十度を一つの単位としている。

 数の体系を考える上でも例えば貨幣単位は、十進法と四進法が混在していたり、又、併用されていたりもする。十進法的な世界が確立されるまでは、結構複雑な数の体系の世界に人間は住んでいたのである。
 又、今日でも情報通信の世界では二進法的空間が一般的であり、二進法は、あらゆる分野に浸透しつつある。

 更に、数の体系の延長線上に貨幣価値の体系が成立している。貨幣価値は、数の体系の一つだからである。

 経済は、認識上の問題である。経済は、働きであって実在ではない。貨幣価値の本質は、数値である。

 経済学では、よく競争の原理等と言われるが、自然界の法則と社会の法や規則とは本質がちがう。自然法則というのは、自然現象を観察や実験に発見され確立される命題であるが、社会の法や制度、規則というのは、合意や契約に基づく定義を本にして成り立っている。自然法則が所与や自明を前提としているのに対し、社会の法や、制度、規則は、任意や合意を前提として成り立っているのである。

 数が成立するためには、物や事象の存在が前提となる。
 数を数えると為には、数える動機が必要であり、数える動機は、必要性から生じる。大勢の家族に獲物を公平に分配するためには、獲物と家族とを一対一に対応させる必要があるのである。数を数える事の始まりである。

 貨幣価値の前提は、貨幣の存在であり、貨幣の前提は、交換という行為であり、交換という行為の前提は、交換する物の存在である。貨幣経済において根本にあらなければならないのは、交換する財の実在である。
 貨幣の働きは数の働きであり、それは交換をする場合の基準を意味している。それが貨幣の特殊性である。ゆえに、貨幣価値を貨幣という物によって実在化したのが貨幣である。その窮極の形式が不換紙幣である。そして、それ故に、貨幣経済は数学なのである。

 数学こそ、生きていく上に必要な事、実用性から生じた技術である。それが抽象性を深化させるに従って哲学的な域にまで達したのである。
 我々は数学の始まり、本質を忘れてはならない。数学は、本来人々の生活と共にあり、人々の生活と伴に発展してきたのである。
 数学は、超俗的な学問ではなく。最も世俗的な学問だと言える。

 数えるという行為は、経済と不可分な関係にある。数を数えるという行為は、文化的な行為である。

 学校では、算数や数学を教えようとする。算数や数学の成り立ち、どの様な動機で成立したのか、或いは、数学によって何を表そうとしたのか、何を解明しようとしたのかについて教えようとはしない。だから、数学が上っ面の解釈に終わってしまうのである。
 経済も同様である。数字として現れた事象ばかりを追いかけて数字の背後にある人々の生活が見落としてしまったら経済は成り立たなくなる。それが道理である。

 数や数式で重要なのは、視覚性と操作性である。
 数は、本来、目に見える物ではない。しかし、目に見える形に置き換えることは可能である。目に見える形に置き換えて足したり引いたり、掛けたり、割ったりという演算、則ち、操作することが可能なのである。この目に見える形に置き換え、操作することが可能だと言うことが数学の発展の基礎にはある。その延長線上にあるのが、数式であり、図形、グラフである。

 対象である物の数を目に見えるようにし、それを操作することで、対象を管理したり、分けたり、交換したり、比較したりする。そこから経済感覚の基本が目覚めたのである。

 数学は、数える数と測る量の二つから発達した。数は、数を数えるという行為から派生した、概念である。数を数えるという行為は、第一に、管理する、第二に、分配する、第三に、交換すると言う三つの行為を前提として成立した。つまり、数えるという行為は、生きる為に必要な行為、経済的行為である。
 測る量というのは、第一に、時間を測る暦、第二に、長さや高さ、幅、厚みを測る尺度、第三に、体積、容積を量る分量、第四に、重さを量る重量、第五に、熱さを測る熱量等がある。
 測る量も、生活の必要性から派生している。測るという言葉には、測る、量る、計る、図ると言う意味がある。即ち、測るという行為、量るという行為、計るという行為、図るという行為から数学は発展したのである。
 数える数と測る量は、任意に単位を設定することによって本来、不連続な数と連続した量とを結び付けることによって数学の基礎は成立した。
 単位が設定されることで不連続な数に連続性が、連続した量に不連続性が付け加えられた。それが数量である。

 数の礎である管理、分配、交換。量の礎である測る、量る、計る、図ると言う行為こそ経済の基礎でもある。また、時間、長さ、高さ、重さ、熱さの単位が経済を成り立たせている要素である。これらの外延的量から、速度や濃度と言った内包的量が導かれ、経済と数学は形成されていったのである。

 数には、限りがないが量には限りがある。数量とは、限りのない数と限りのある量が組み合わさって構成される。経済的単位、経済的価値は、数と量、即ち、数量によって表される。

 経済の話しと言うと金儲けの話しかと思う者が多い。経済数学というと金勘定だと思いこんでいるものも多い。しかし、経済は金儲けではない。金の問題だけが経済の問題なのではない。
 環境問題が良い例である。金銭的利益のみを追求したら、環境問題は、解決できるどころか悪化するのみである。
 環境問題を解決するためには、先ず、どの様な環境にするのかを明確にする必要がある。そして、どの様な環境にするのかを明確にした上で、構想を立てる必要がある。構想に基づいてどこに、どの様な費用を掛けるかを明らかにするのである。その上で、基礎となる構想が実現できるような仕組みを、それは社会の仕組みだけでなく、経済の仕組みも含めて構築するのである。
 金は、手段であって目的ではない。金だけが経済を成り立たせているわけではないのである。
 経済数学も数字として現れた背後にある経済の実体を、数字を通して知るためにあるのである。

 経済とは、生きる為の活動である。生きていく為には、生きていく為に必要な物がある。人間が生きていくために必要とする物には限りがある。
 人間が生活するための住空間は有限である。しかし、地価に限りがあるわけではない。地価は、上昇しはじめると際限がなくなる。経済的価値は、この二つの要素の調和によって成り立っている。
 それに対して貨幣価値には限りがない。貨幣価値は、限りなく上昇させることが可能である。物の量と貨幣価値が示す数によって経済価値は構成される。

 経済とは、生きる為の活動である。生きる為の活動の根本は食べることである。人間は生き物であり、食べ物を食べなければ生きていけない。そして、人間は、一人では生きていけないのである。少なくとも、生まれたばかりの赤ん坊は、誰かが世話をしなければ食べることどころか、移動することすらできないのである。親に迷惑をかけない子供はいないのである。
 人間は、生きていく為には、自分を支える人間関係を前提としなければならないのである。つまり、人間は、自分が生きる為には、食料を得る事と他の人間との関わりを前提としているのである。
 先ず生きる事が前提となる。故に、生きる為の活動が全てに先立つ行為である。

 昔、人々は、獲ってきた獲物や収穫物を分け合って生きてきた。いかに公平に分け合うか、それが経済の始まりである。故に、数と経済は、最初から切っても切れない関係にあるのである。

 公平に獲物や収穫物を分かつためには、幾つに分かつのかという数と幾つあるのかという二つの数を数えなければならない。幾つに分かたなければならないのかは、主体的数であり、幾つあるのかは、客観的数である。数の成立には、この主体的数と客観的数の双方が必要なのである。
 なぜならば、数は認識上に於いて派生した概念だという点である。又、数は、抽象的概念だと言う事である。認識上に於いて派生したという事は、相対的だと言うことである。抽象的概念だと言う事は、何等かの実体を前提とし、合意を前提としているという事である。

 生きる為には、獲物や収穫物を分け与えなければならない。即ち、数と量は、公平な分配をする必要性から発展した。

 物を分配するする必要性から数と量とが成立し、そして、数と量は、位置付けられ体系化された。やがて、足し算、引き算、掛け算、わり算の四則の演算が確立され、数学の基礎は築かれたのである。
 物と物とを交換する必要性から貨幣が生じた。貨幣は、故に、純粋に数学的な物である。

 近代の純粋数学には、無限という概念が欠かせない。しかし、経済に関わる事象は、基本的に有限である。有限であり、相対的であり、配分的なのである。その点を忘れたら、経済数学は成り立たない。故に、経済の基礎となる貨幣価値は、自然数の集合であり、マイナスという概念も用いられるようになったのは、近年である。マイナスという概念は、現代人は何の不思議もなく受け容れているが、数学史的には、極めて新しい概念であり、なかなか、認知されなかった概念なのである。それは経済の世界に色濃く反映している。
 いずれにしても経済数学は、純粋数学とは異質で、前提となるのが、有限であり、相対であり、配分的な体系なのである。
 特に、経済で大切なのは、比率である。なぜならば、経済の根本は配分だからである。


内なる数と外にある数。


 主体的数とは、自分の数、内なる数を意味し、客観的数とは、対象の数、外なる数をも意味する。
 その対象が物なのか、主体的存在なのかによって数の働きにも違いが生じる。対象が物である場合は、物理的単位を形成し、主体的存在である場合は、経済的単位、即ち、貨幣単位を形成する。

 即ち、数は、対象を認識する行為と対象を再構成する行為の二つの行為によって成り立っている。それは、帰納的な論理と演繹的な論理に引き継がれていくことになる。数には、数えると言う要素と数えられるという二つの要素があるのである。

 客観的数字は、在る数字であり、主体的数字は、位置付けられる数字である。そして、在る数字は、基数となり、位置付けられる数字は、序数となる。

 計算という行為が経済的行為を発展させる。捉えた獲物や収穫物を分解し、それを再構築して分配する。それが数を数えるという行為の根底を成す。
 ある全体を一とし、それを分割した部分をも一とする。全体の一と部分の一とを比較する事によって単位を設定する。それが一の始まりである。そして、数は一より始まる。

 故に、分かつという行為が、経済と数の概念の前提となる。そして、分かつと言う事は、対象の認識の始まりをも意味する。なぜならば、認識は識別を意味するからである。

 数の始まりは対象を分かつことである。なぜならば、数は対象を認識することを端緒とするからである。認識は、対象を識別することである。識別すると言う事は、対象を分割することである。故に、数は、対象を分かつことによって生じるのである。

 分かつと言う事は、比である。数えると言う事は量である。比は主体的数字である。量は、客観的数字である。

 対象は連続的な物であり、数は分離的な認識である。

 物としての対象は、質量と形相からなる。物は、質と量からなり、質とは、対象の持つ固有の性格を言う。数とは、対象の形相で量的な部分を抽象化した概念である。
 物には、素材と外見がある。素材とは質料であり、外見とは、形相である。
 人間は、魂と肉体からなる。魂とは質であり、肉体とは形である。人間とって精神と姿勢が大切なのである。精神とは、質であり、姿勢とは形である。
 数は形から導き出される。

 数を数えるとき、ただ、一、二、三とばかり数えるわけではない。一匹、二匹とか、一冊、二冊、或いは、一個、二個と最初は、数字だけでなく、背後にある何物かを想定して数を数える。質と量は未分化である。数は数としてのみでは成立していないのである。数の概念は、物から離れることによって抽象化される。

 対象は、本来連続的な世界である。分別は、認識によって生じる。つまり、全体を部分に分割することによって対象は識別され、認識される。認識によって対象は相対化される。対象を相対化するのは、自己であり、対象が最初から相対的なのではない。自己が対象を認識するために相対化するのである。それが識別である。そして、対象が識別されることによって分別が生じる。

 数える対象というのは、本来、連続した物である。それを数えるために分割するのである。そこから量の概念が形成される。量は、連続と分割の中間に存在するが年である。
 故に、量には連続量と分離量がある。
 飲み物を考えれば解る。飲み物は、液体としての全体がある。それをコップに飲む量に分けて一人一人の配る。飲み物は、連続体なのである。それが器に分けられる行為によって一つの単位を形成し、分離量に変換される。

 数は、認識の過程で生じる。認識は、認識する主体としての自己と認識される対象である物という二つの要素の相互作用の結果として成立する。
 主体の内部の事と主体の外の物によって数は成立する。

 確率は、事の世界の事象であり、統計は、物の世界の事象である。

 物の世界は有限であり、事の世界は無限である。

 任意の対象、事象、塊、集合から数という属性を抽出する。任意の対象というのは、何らかの集合体であるとは限らない。
 例えば、一人の人間の属性からも複数の数を抽出する事はできる。例えば指や目、耳の数である。これらの数に動作や行為を結びつけることで違う数を付け足すこともできる。

 抽出した数の集合に、数と数との関係によって幾つかの性格を付加する。性格を付加することによって数を分類する。
 数と対象との結びつきが数の性格を形付けていることを忘れてはならない。

 数の体系は、一つの数の体系によって構成されているわけではなく、複数の数の体系が組み合わさってできあがっている。

 貨幣的事象は、きわめて数学的な事象なのである。人や物ならば、実体がある。無限とか、極まりのない数字というものは、基本的に扱わない。
 物を分けると言っても、物理的な限界がある。しかし、貨幣には限界がない。なぜならば、貨幣は数学的な事だからである。
 そして、貨幣経済の問題は、本質的に数学の問題なのである。

 実体があるという事は、量的側面だけでなく、質的側面を持つという事を意味する。
 つまり、経済的数は、一般に質を伴っている。
 例えば、お肉を四等分に切って四人に分けると言ってもお肉の切片はそれぞれ違うし、また、分ける四人にも個性の違いがある。四という数字以外に質的な差や違いがついて回るものである。
 しかし、一旦貨幣価値に換算されてしまうとこの様な差は失われてしまう。四百円の物は四百円の価値しかない。
 本来、数は、内面の数と外界の数とが結びついて成り立っているものだが、貨幣価値に換算されてしまうと、量という特性しかなくなってしまうのである。
 それが貨幣経済の特徴である。

 故に、貨幣的現象というのは、極めて、数学的な現象なのである。


数と集合


 最初、幾つかの物があり、数は、数の集合と物とを一対一に対応させることによって成立した。
 例えば、リンゴが三つ合った場合、リンゴ、一つ一つと一、二、三と言う数を対応させる事によって、数の概念は形成された。それも、いきなり、数字とか言葉というのではなく、小石とか、刻みといった象徴的物と対象とを一対一に対応させることによって数の概念は、形成されたのである。
 多くの場合、文字よりも早く数字が出現したとも言われる。
 この様な数は、数えるという目的で生じる。

 対象は、最初は一塊りでしかない。それを一つ一つ、あるいは、幾つかの塊に分割することによって数の集合の前提は出来る。

 つまり、物の集合と数の集合があって、その物の集合と数の集合を一対一に対応させる事によって数の原始的な概念は確立されたのである。

 則ち、数を成立する要素は、物の集合と数の集合と認識主体の三つである。この三つの要素は、貨幣を成立させる要素でもある。

 対象の数を数えるためには、先ず、数の概念、数の集合を予め認識しておく必要がある。
 その上で、対象を認識する必要がある。
 次ぎに、対象を個々の部分に分割する必要がある。
 そして、個々の対象と数とを一対一に結び付けるのである。
 この段階では、順序は問題とならない。

 それが基数である。

 数に順序の概念が結び付けられた物を序数という。日本語では、基数と序数の区別は明確ではないが、英語では、基数と序数は明確に区別されている。

 数は、位置を表す表象でもある。数とは、場所や何等かの空間内の位置を示す基準でもある。

 対象を認識し、測り、そして分かつ。それを集め、数え、配る。その過程で一対一の関係が生じるのである。それが数の始まりである。
 つまり、最初、対象は連続的な物で在る。それを分離する事によって対象の性格付けがされるのである。それが意味である。数も対象から抽出された性格の一つである。

 そして、分割された部分を幾つかの塊に集めて、数の体系を再構築するのである。

 幾つかの数を集めて一つの塊を作り、それを一として、一つの単位とする。同じ量だけの数を集めて塊を作り、それを二とする。集めた数と同じだけの塊ができたら、それを集めて新たな単位を作る。この様にして単位に階層を作ることを位取りという。そして、一つの階層を桁という。集めた数が、二つならば二進法と言い、三つならば三進法という。現代一般に使われているのは、十進法、即ち、十を一つの塊としている。n桁の数は、塊の最小単位の数のn乗を意味する。例えば、百の位は、十の二乗を掛けることを意味する。 
 又、この様な数の体系は、ゼロを意味する集合と単位を意味する集合を設定する事によって成り立っている。

 数の体系は、単位となる塊と余りからなる。単位となる塊が桁であり、進法を決めるのである。十の塊を単位とすれば、十進法となり、二つの塊を単位とすれば二進法となる。六十の塊を単位とすれば、六十進法になる。

 数の体系が再構築された上で、集められた塊に普遍的な性質だけが抽象化され、名前が付けられて数が数えられるようになるのである。それが数詞である。数詞には、基数詞と序数詞とがある。数と数詞は一対一に対応している。

 全体を一つの塊としてその塊が開かれていて際限がない対象を無限とする。閉じていて限界が設定されている対象を有限な対象とする。
 対象を無限とするか、有限とするかによって対象に対する捉え方、認識は、まったく違ったものになる。
 例えば、経済を無限な対象と見るか、有限な対象としてみるかによって経済施策は百八十度違ったものになる。

 数字には、人的な数字と物的数字、指標的数字がある。指標的数字とは、尺度的数字であり、貨幣的数字である。
 人的な数字とは、主体的数字である。即ち、認識主体が一とする数字である。それに対し、物的数字とは、客観的な数字であり、一となる数字である。そして、尺度的な数字、指標的数字とは、仲介的数字であり、一を指し示す数字である。

 豊臣秀吉は、立木を数えるときに、立木一本一本に紐を結び、その紐を集めて立木の数を数えたという。主体的数字とは、豊臣秀吉が数えようとする数字であり、客観的数字とは、立木の数であり、指標的数字とは紐の数である。(「数学入門」(上・下)遠山 啓著 岩波新書)

 そこで使われた紐が数字の素(もと)であり、やがては貨幣へと発展するのである。数の素(もと)は、素(そ)である。即ち、名はない。石や紐と言った単一的な物である。貨幣では貝の様な物である。つまり、数という性格を象徴した物であれば何でもいい。数という性格を象徴するには、できれば、何の装飾もない素の物がいい。
 数は最初は一でしかない。

 通常、何等かの対象に一対一に結び付けられて数の素(もと)は、名付けられる。数の素を名付けた表現が数詞である。例えば船は一艘、二艘であり、飛行機は一機、二機、動物は一匹、二匹、鳥は一羽、二羽である。
 一般には、自分の身体の一部に結び付け一対一の関係によって数字は識別される。それも全体を部分に分かつことによって成り立っている。
 最初、数は、一塊りの物に対応していた。

 数の素となる対象には、何等かの共通項がある。逆に、数は対象の性格を特定する。
 類は友を呼ぶである。
 貨幣価値は、数の素を一元化し、違う性格の対象間の演算を可能とするのである。

 幾つかの塊と余り、それが、数字の基本的構造を作り上げた。一定の一塊りが、一桁になる。それが自然数の元である。

 数の素が十個集まった集合を一つの塊とするのが十進法である。現代、我々は、十進法を基本として考えるが、最初から十進法によって統一されていたわけではない。現に、時間は、現在でも十二進法と六十進法の混合したものである。

 中国では、十二支十干によって年月を数えた。干支は、十二進法で、十干は十進法である。十二支十干は、干支と組み合わせて六十進法にもなるである。この様な数の構造によってその年の運勢を占うのである。
 十二支十干も数の体系の一つと言える。数は幾つかの数の体系を組み合わせると構造を形成する。これは、後の貨幣制度にも影響を与えた。

 日本では、四進法と十進法を組み合わせた体系を貨幣制度としていた。

 イギリスの貨幣単位は長いこと十二進法を基本としていた。

 コンピューターは、二進法を基礎とした体系の上に構築されている。情報産業の発達は、二進法的世界を拡大する結果を招いている。

 数には、数えるという側面と測るという二つの側面がある。数えると言う事と、測ると言う事の違いは、分離量と連続量の違いであり、数の本となる対象が連続した対象か、不連続な対象化の違いでもある。
 数値とは、量と比を表している。数えると言う事は、対象を一個の全体として先ず認識する事にある。次ぎ、それを自己と対象との間で一対一として認識する事である。そして、其の後、最初に認識した対象と他とを比較することである。故に、数の最初の認識は、他との比較に基づく。

 量の始まりは、長さである。数の概念を生み出したのは視覚である。つまり、目に見える物である。数の重要な性格の一つに操作性がある。
 則ち、数の働きは、視覚性と操作性に依拠している。それは、数学にも言える。数学で重要な働きは、視覚性と操作性である。
 そして、視覚性と操作性を存分に発揮するのが測量と演算である。

 長さは連続量である。長さは、単位を設定することによって量化される。

 数と量が連続量から分離量への変換の過程で生じるのであるから、数と量の本質は比である。

一と単位



 単位は一である。
 一とは、掛けても相手を変えない値である。
 始まりは何を一とするか決める事である。
 ゼロは基点である。
 ゼロとは、掛けた相手をゼロとしてしまう値である。
 単位は、何を基点とするかによって定まる。
 負とは足して零になる値。足して零を作るという事が大切。例えば、酸にアルカリを混ぜて中和する。(「数学は世界をこう見る。」小島寛之著 PHP新書)借金を返済して残高を零にする。即ち、清算すると言うのは零に戻すという意味が含まれる。
 負の概念には対称性が隠されている。
 倍数、約数というのは等分という概念と関係している。等分という概念、分配、即ち、経済と深く関わった概念である。

 先ず、一という事、一の成り立ち、一の持つ意味が重要である。一は単位になる。何を一とするのかが重要となる。そして、それを何と比較するかである。比較する対象は、相似的対象である。

 数と数以外の対象との区分は任意なものである。(「現代数学の考え方」イアン・スチュアート著 芹沢正三訳 ちくま学芸文庫)数と数以外との結びつきは、任意なものであって所与のものではない。

 単位は数である。(「数学という学問Ⅰ」志賀浩二著 ちくま学芸文庫)

 我々は、単位という1メートルとか、1キログラムと言った最初から決められた、所与の値と思いがちである。しかし、それは普遍単位を言うのであって、単位の原初的形態は、その時点その時点に任意に定める個別単位である。その時その時に一と決めたものが個別単位なのである。

 任意に決められた一定の線分があって一メートルと言う単位が決められる。一メートルという単位が先に、所与としてあるわけではない。

 単位は、本来、主体的、任意な基準である。単位の設定は、合意に基づくのである。

 主体とは、自己を拡大、延長したところに成立する概念である。例えば、家族であり、会社であり、地域共同体であり、国家であり、人類である。

 経済主体には、個人、家計、経営主体、国家等がある。経済主体は、経済単位でもある。

 経済を考察する上で、重要なのは、何を一とするかである。

 単価というのは、単位価格を言う。単価は、個別単位である。また、単価は、取引条件によって決まる未知数でもある。それが経済現象と自然現象の決定的な違いである。

 単位というのは、一となる値である。

 何を一と定めるかは、変数の持つ意味とは何か、定数の持つ意味は何かの前提となる。
 何を独立変数とするか。何を従属変数とするかも同様である。そして、いずれも任意なのである。

 何を一塊りの数とするのか。五を一塊りとするのか、十を一塊り、十二を一塊りとするのか。
 塊や余りが桁を決めた。

 多くの人は、単位というと科学的な単位を思い浮かべるが、単位を設定する動機の多くは、経済的動機である。特に、税務上の動機である。なぜならば、数学や科学自体、経済的動機に基づいて形成された体系であるからである。最初から抽象的な観念によって数学は形成されたものではない。
 物を測る単位の根源は、枡である。つまり、単位の設定は、経済的動機に基ずく行為なのである。

 会計制度で一番の問題は、会計空間は、一様ではなく、多様だと言う事である。極端な話し、経営主体の数だけ会計空間があると言っても過言ではない。
 会計空間の多様さが企業の多様さを可能としたのも事実だが、反対に、市場の統一性を阻んでいるのも確かである。

 景気の動向を予測するためには、在庫は重要な指標である。在庫も在庫の物理的量、実体的量と名目的量、貨幣量(単価)の両面から捉える必要がある。物理的量は、示量性の量であり、単価は、示強性の量である。
 金利は、何によって期間を一と定めるかによって複利となるか、単利となるかが決まる。即ち、複利と、単利の違いは、一年間と言った一定の期間を一とするか、借入期間全体を一とするかによる違いである。これも単位の取り方の違いである。

 為替相場では、例えばドルを一とするか。円を一とするか。

 一から二が生じ。二から、三が生じる。一と、二と、三が生じると、一と二と三に順序が生じる。それが数である。数は、何等かの指標に結び付けられて認識されるようになる。

 一対一の関係が成立しただけでは、数の概念が確立したわけではない。数は、量という概念に結びつくことによって始めて数の概念は成立する。全体を分割しただけでは、量の概念は確立されないのである。量の概念は比によって確立される。そして、分割された部分が、数詞、例えば一、二、三という言葉に、一対一に対応することが必要なのである。

 単位というと多くの人は、所与で、自明な値のように錯覚している。しかし、単位は、本来、任意で目的に応じて定義、設定される値であることを忘れてはならない。
 そして、定義や設定の仕方によって二進法、十進法、或いは、十二進法、六十進法などの位取りも選択されてきた事も忘れてはならない。
 その名残として一ダース、十二個と言った単位が現在でも使われているのである。

 現在、単位は、十進法を基本としている。しかし全てが十進法を基本としているとは限らない。中には例外もある。典型が時間の単位である。
 時間は、60進法、12進法、10進法を構造的に組み合わせることで成り立っている。130分は、2時間10分である。3030分は、50時間30分で、2日と2時間30分であると言うようにである。時間の計算は十進法に基づいてそれを60進法、12進法に変換しているのである。
 また、情報の単位は二進数で表記は十進法に基づいて為される。

 今日の貨幣単位は、十進法に基づいているが、近年まで、十進法以外に基づいていた体系もある。

 貨幣は、市場や財や目的によって独立した物、区分された物であった時代すらある。
 一律に単一貨幣だけで貨幣価値を測ることが効果的だとは限らない。目的に応じて、あるいは、財に応じて貨幣を使い分けるのも一つの手段である。
 また、貨幣も今日のように十進法に限ったものではない。四進法の時代や十二進法の時代や地域もあったのである。

 時間の単位を決めるのは、天体の運行である。太陽を基準とするか、月を基準とするか、何を基準とするかによって時間の在り方は様々に変化した。

 時は、連続量である。貨幣は、分離量である。
 経済は、時という連続量と貨幣という分離量の関数である。この点を忘れてはならない。

 連続量である時を一定の長さで区切り、分離量に変換する。時を分離量に変換することによって時間の単位は設定され、時間が定まる。時間の性格は、時の長さをいかに区切るのかの仕方によって決まる。

 会計では、単位期間を定め、それを一とする。それが期間損益の大前提である。一般に単位期間は一年とする。しかし、必ずしも一年とは限らない。
 当座企業を基とした原初的交易事業は、一航海を単位期間とした。
 この単位期間の取り方によって事業や会計に本質的な差が生じることに注意しなければならない。

 現代人は、数学が数学として確立された後に生まれた。故に、数学という学問は、独自の閉ざされた空間の中で成立しているかの如く錯覚している。しかし、数学は程、全ての分野に通じる学問はない。
 数は本来数だけで単独に成立するのではなく。複数の要素が関係し合うことによって形成される概念なのである。

 数に属性を加えられた物が量である。属性には、長さ(L)、質(M)量、時間(T)などがある。(「使える数理リテラシー」杉本大一郎著 勁草書房 )
 数の属性は次元を形成する。次元とは数の属性である。故に、量には次元がある。

 長さとは、距離を表す基準である。距離は位置の概念の一つである。故に、数は位置の概念である。

 全体を一として見なしていたら、全体の構成が見えてこない。故に、全体の働きを明らかにするためには、全体を幾つかの部分に区分けする必要がある。
 全体を幾つかの集まりや空間、要素に区分するためには、一定の前提条件に基づいて範囲を画定する必要がある。
 その前提条件や範囲が単位を形成する。

 集合には、全体と部分があり、全体に共通した要素と部分固有の要素がある。例えば、組織には、組織全体に共通した働きと組織を構成する部門固有の働きがある。

 組織でも、市場でも、全体を一としていたら識別は出来ない。組織も、市場も幾つかの部分に分けて認識する必要がある。全体は、部分から成るのではなく。全体を部分に分割する事で認識するのである。

 全体は部分から成る。全体を統御するためには、適切な部分に分割する必要がある。それは、組織の伝達経路や意思決定の過程は時間と費用の関数だからである。

 組織は、生き物である。組織は、人の集合である。人は主体的存在であり、自己完結的な存在である。この様な人は、情報がフィードバックされる事によって自分の位置と働きと関係を知る。
 この様な組織の全体を一つの部分で構成するのは、非効率であり、不合理である。組織は、適正な単位によって分割すべきなのである。
 人によって構成される組織全体も組織単位も主体的存在である。この様な組織単位には、境界線によって内と外に分かたれる。
 そして、組織は、他の組織を敵と味方に識別する。
 この組織関係は、フラクタクルであり、組織を細分化しても同じように表れてくる。
 例えば、国家単位でも、地域単位でも、企業単位でも、家族単位でも表れてくる。全体を一つの単位で制御することは出来ないのである。

 組織効率を考えるのは、経済である。組織効率は、情報の伝達速度、伝達範囲、情報の精度、情報の量から求められる。
 組織上、一人が直接管理できる人数の範囲は、七人が限界で、大凡、五人から七人と言われている。
 また、情報の効率よく伝達できる範囲は、三階層と考えられている。組織の人数は、累乗される。
 情報の効率は、経済の効率にも転化される。

 2010年、日本は、GDP世界2位の座を中国に譲り渡した事が話題になった。
 しかし、一人当たり名目GDP(USドル)ランキング(対象国:181ヶ国、比較年度:2010年)を見ると日本は、19位で中国は、93位である。1位は、ルクセンブルグで2位がノルウェー、3位は、中東のカタールである。(出典:IMF - World Economic Outlook(2011年9月版))
 多くの人は、国別のGDPの順位を気にする。しかし、国民一人当たりGDPの順位を見るとまた違った考えも生まれてくる。何を基準、つまり、単位にするか、それが認識において重要な働きをしている解る。

 貨幣は価値の一元化をする働きがある。

 貨幣価値は、対象の価値があって貨幣基準を当て嵌めるのか。貨幣価値の基準があって対象の価値が決まるのか。つまり、貨幣価値は、独立変数なのか、従属変数なのか。
 
 貨幣価値があって物やサービスの価値があるわけではない。物やサービスの価値があって貨幣価値があるのである。即ち、貨幣は、従属変数なのである。

 貨幣経済や市場経済を考える時、何と何が等しいかが鍵を握っている。それは、どの様な事象がゼロサムかを意味している。

 計算上の鍵は、何を前提としているかにある。中でも、同じと言う事、等しいという事である。同じと等しいとは微妙に意味が違う。
 同じというのは、質や量を意味する。等しいというのは量だけを意味する。

 数学は形式である。数学の本質とは、全体の中に隠された共通の型を見出すことである。それが抽象である。

 財政問題を語る時、一人当たりの国債残高が問題とされる。現在の国民一人当たりの借金は、538万円(2012/1/23現在)だそうである。つまり、一人当たりの借金としてである。しかし、一人当たりの国債残高だけでなく。一人当たりの預金残高も見なければ片手落ちである。
 総務省が2011年5月17日発表した2010年の家計調査(速報)によると、1世帯(2人以上)あたりの平均貯蓄残高は前年比1・2%増の1657万円で、5年ぶりに前年を上回ったそうである。
 この数値は、一年以上の開きがあり、単純には比較できない。しかし、借金ばかりではなく、預金も沢山ありそうである。
 しかし、ここにも落とし穴がある。預金の平均残高が1657万円と言われても、そんなに皆が預金があるという実感を持っている人は少ないと思う。実際は、ごく少数の資産家が、巨額の預金をしており、平均してみると1657万円になると言うだけなのである。ここには、預金のバラツキ、偏りの問題が隠されている。
 中央値(メディアン)や最頻値(モード)の方がより実感に近い値になることがある。

 数学には、言葉の定義よりも形が重要な意味や働きを持つことがある。それが構造である。この様な相互関係の形によって意味や働きを表現する対象を無定義語という(「代数的構造」遠山 啓著 ちくま学芸文庫)。
 情報の形が重要なのである。つまり、情報の全体像を掴む事が重要なのである。また、情報のバラツキが情報の性格を現している。情報の全体像と情報のバラツキからいろいろな予測や推測をする技術が確率や統計なのである。

経済と単位



 経済と単位は密接な関係がある。

 経済と数学は、数の概念が形成された当初から不離不可分の関係にある。

 数学というのは、生活に密着している。その端的な部分が計算である。獲ってきた獲物や収穫物を数えたり分けたりする事が始まりである。それは、集団生活
をしていく上で不可欠な行為である。

 貨幣価値は、貨幣価値を認識する主体と貨幣価値が指し示す対象、そして、貨幣単位を規定する指標の三つの要素からなる。
 そして、それが人、物、金を形成するのである。金、即ち、貨幣は、貨幣価値の単位、尺度、指標である。

 貨幣の働きを考察する上で、一対一という関係づけは重要である。貨幣は、この一対一の関係を土台にして、多対一、一対多、多対多の関係を作り出していく。

 貨幣は、貨幣単位と対象とを一対一に還元する働きがある。この様な貨幣と対象とを一対一に結びつけるのは、自己という認識主体である。ここに対象と貨幣と自己が、各々一対一に結びつく。元々は、対象を構成する要素は、一つではない。多くの中から自己が選択することによって貨幣価値は成立する。これは多対一の関係から、一対一の関係を作ることになる。一対一によって価格が形成されると次に、価値観の違う主体と対象との関係が生じる。これは,一対多の関係を成立させる。この一対多の関係は、多対多の関係に発展させることが可能である。この関係は組み合わせの問題を派生させる。

 対象を貨幣価値に還元することよって性格の違う対象を演算することが可能となる。労働と時間を掛けたり、労働と物の価値を足したり引いたする事が、貨幣価値に還元するとできるようになる。

 単位は、数に意味を持たせる。単位というのは、名札みたいな性格を持つ。貨幣価値を総額で表されると貨幣価値の背後にある定性的な部分が見失われる危険性がある。
 例えば、単位の値を構成する要素が立方なのか、平方なのか、重量なのか、形状なのか、時間なのかによって単位の背後にある対象の性格付けがされる。
 現実の数値には背後に意味がある。意味を与えるのが単位である。

 その意味では数字は、数の単位だとも言える。

 一と対象とが一対一に結びつくことで単位は確定する。
 つまり、単位の始まりは、一なのである。一という基準が単位なのである。一という基準は、二という基準が意識されることで定まる。
 一は、一とする対象と結びつくことで抽象化される。二は、一との共通する部分を意識することで抽象化される。

 数の働きは、数える、測る、比べる、分けるにある。これは、集団で生きる為に不可欠な活動による。故に、数は経済的動機から始まる。

 獲物を獲ってそれを家族に分ける。
 稲を収穫して、村人に分け、それを消費して、残りを貯蔵する。
 牛を飼って牛乳を搾り、肉を食べる。
 物と物とを交換する。
 物と金とを交換し、金を貯める。
 貯めたお金を貸し、あるいは、お金を借りる。
 この様な行為が経済の元となり、また、数の元となる。
 何と何が対応するのか。

 一の獲物と二の獲物、一の塊と二の塊。一の獲物を父親が取り、二の獲物を母親が取り、三の獲物を長男が取る。四の獲物を長女が取り、五の獲物を次男が取る。分け前を分配する人間との数を数えて、獲物の数を切り分けて、数を合わせる。これは経済である。そして、その過程で計算が成立するのである。
 また、個々の獲物や塊は、ある程度、均一であることが求められる。そこに公平の概念が生まれる。
 数は、人と獲物とを一対一に結び付けることから生じるのである。そして、これは経済行為の端緒でもある。

 抽出し、分けて、結び付け、数えて、合わせる。それが経済の本質である。経済は数学である。数学は、生きる為の活動、即ち、経済から生じる。

 数は、対象を共通の要素を持った集まりに分類する働きがある。例えば、リンゴ五個、蜜柑三個というようにである。

 この様に分類された物に、貨幣は、個々の財に貨幣価値を付与する。貨幣価値を付与すると同時に、数を表象する貨幣には、貨幣価値を一元化する働きがある。

 単位というのは、測ることを目的として設定されるものである。対象の属性を測るために、数え、或いは、量るのである。
 経済的単位も然りである。経済的価値を測るために設定された基準が貨幣制度である。経済的価値を測る為の単位が貨幣単位であり、その手段が、貨幣である。

 物理的必然性と経済的必然性は違う。

 貨幣単位が、物理的単位と違うのは、目に見える実体を測るのではなく。経済という目に見えない事象を測る単位だという点である。
 目に見える対象、物質的対象の属性を測るのではなく、経済のような目に見えない観念的対象を測る場合、絶対的な基準を設定することは困難である。故に、何等かの媒介物を活用した相対的基準を設ける必要がある。その典型が貨幣価値である。

 貨幣は、価値を一元化する作用がある。
 例えば、リンゴ一個100円、蜜柑一個50円でリンゴ五個と蜜柑三個を合わせると650円というようにである。

 貨幣価値は、数量と単位価格の積として表現される。
 そして、市場取引は、利益によって促される。利益の元は、売上から仕入を引いた値を言う。この差が、取引を成立させるための、前提条件となる。利益を生み出すのは、時間差である。
 つまり、差が市場経済を動かす原動力(エネルギー)なのである。差は空間的、あるいは時間的、位置関係によって成立する。

 単位とは、一となる対象によって決まる。つまり、何を一とするかによって定まる任意の値である。所与の値でも、自明の値でもない。任意の値である。

 経済的単位は、一律一様に定まっているわけではない。
 経済的単位は、物理的単位とは異質な単位である。それを同一に語ることが間違いの本なのである。

 経済単位の基本は単価であり、単位当たりの値である。即ち、一人当たり、一所帯当たり、一個あたりの値が経済単位を構成する。作業や労務費で言えば単位時間当たりの工数、人工である。

 経済現象と単価とは、因果関係によって結ばれている。
 現代の自然科学は、客観的事実から原因を導き出す。しかし、社会は、主観によって成り立っている。自然科学が対象としている事象と社会科学が対象としている事象とは、本質が違うのである。本質が違えば前提も違う。

 かつて、アリストテレスは、物事の原因には、質料因、動力因、目的因、形相因の四つがあるとした。自然科学は、この四つの原因の内、動力因以外の三つを否定する事によって成り立っていると竹内啓は、その著書(「偶然とは何か」岩谷新書)の中で述べている。
 客観的事象である自然科学は、それで成り立つが、主観的事象である政治や経済は、動力因だけでは説明が付かない事象が多く含まれている。
 経済や政治においては、アリストテレスが提唱した四つの原因、即ち、質料因、動力因、目的因、形相因、それぞれが成り立ち、それが経済単位を形成しているのである。

 経済的単位は、主観的な単位である。単価も経済的単位の一つである。故に、単価を決定する要因には、質料因、動力因、目的因、形相因がある。
 単価を構成する五つの要因は、経済的事象に対して決定的な要因として関わってくるのである。

 会計は、論理的必然によって成り立っている。故に、会計で重要なのは、根本にある論理である。

 手続も、コンピューターのプログラムも、言語の一種である。会計の基礎は、手続によって構成されている。又、会計の手続きは、コンピューターのプログラムに置き換えることが出来る。
 故に、会計は、論理的になりうるし、又、電算化、即ち、コンピューターによる自動処理も可能なのである。

 経済単位は、必ずしも、貨幣価値と貨幣価値が指し示す対象との関係は、一対一の関係にあるわけではない。
 経済問題を複雑にしているのは、その点にある。
 つまり、要因と結果か単一の関係で結ばれているわけではないのである。単価は、前提条件や取引条件によって絶え間なく変化している。つまり、単価は、時間の関数なのである。

 経済現象は、任意の前提条件によって単位が変化し続けるのであるから、物理的必然性と経済的必然性とは性質が異なるのである。

 土地は、一物六価といわれる。つまり、土地の単価の基準は六種類あるのである。かつては、一物五価と言われたこともある。いずれにしても、単価の基準となるのは、六種類ある。具体的に上げると第一に、実勢価格。第二に、公示価格。第三に、基準価格。第四に、路線価。第五に、固定資産税価格。第六に、鑑定評価額の六種類である。実勢価格とは、取引による市場地価であり、公示価格と基準価格は、鑑定地価であり、国土法価格は、規制地価、相続税路線価と固定資産税価格は、納税地価である。

 ビックマック指数と言うのがある。世界各国で売られているマクドナルドのハンバーガーの価格を比較することで各国の物価の実勢を比較するための指標である。
 本来、物の単価は、一物一価でなければならないとされる。しかし、実際には、単価は相対的であり、一律一様に定めることは不可能なのである。

 単価は、市場経済の本である。また、会計の根底をなす要因の一つである。単価は、要因であり、取引は結果である。市場経済は、取引によって成り立っている。会計も、又、然りである。

 経済的単位というのは、単一の要素によって定まる値ではなく。複数の要素によって定まる相対的な値である。それが経済的価値の測定を難しくしている。

 経済単位の基本は、物的、人的単位である。更に、これに時間の単位が加わることで貨幣単位は形成される。

 貨幣単位は、物の供給と人の欲求、需要の均衡によって成り立っている相対的単位である。故に、貨幣価値は市場取引に関係なく一定な固定的単位ではなく、市場取引によって変動する変動的単位である。

 耐久消費財市場では、商品の市場における浸透率や占有率、所有率、所有数が重要となる。そして、物の単価は、商品の浸透率や占有率、又は、人の嗜好や人口と言った前提条件によって変動する。
 この様に相対的な単位を基とする経済現象を測るには、何を単位とするかによって経済に対する見方が変わってくる。何を単位とするかは任意なのである。
 故に、物的単位が客観的単位であるのに対して経済的単位は、主観的単位だといえる。

 単価に占める費用の比率は、生産量、及び、販売量、消費量、そして、時間の関数である。
 単価は、数量×価格によって表される。即ち、単価は、数量と価格に分解される。故に、単価を構成する要素には、数量要因と価格要因がある。

 市場競争、市場競争と言うが、市場競争を制する決定的な要素は単価だけではない。
 市場競争に関わる者は、価格要因か、数量要因かの選択を常に迫られている。単価に占める固定費は、設備ならば稼働率、人件費や土地ならば回転率によって決まる。設備の稼働率、人件費や土地の回転率は、生産数量や販売数量に左右される。販売量は、消費量に制約される。そして、生産量、販売量、消費量は時間の関数でもある。
 販売数量を増やせば、単位当たりの固定費を下げることが出来る。固定費を下げれば単価を引き下げることも可能である。
 固定費と減価償却費の関係は、費用に影響する。費用は、収益に対応して利益に影響する。
 又、固定費と減価償却費の関係は、初期投資と減価償却費の関係でも言える。肝腎なのは、資金が、市場の側か、回収の側か、どちらの方向に流れているかなのである。
 大量生産は、大量販売を前提とし、大量販売は、大量消費を前提とする。一度、消費社会が停滞すると大量生産型社会は、破綻する運命にある。
 大量生産を全体とした社会では、一定の売上、即ち、販売数量、損益分岐点を上回る売上を確保することが絶対的条件となる。ここで重要なのは、収入ではなくて売上である。つまり、減価償却や在庫をどうするかによって見かけ上の利益に操作する事がでるからである。
 同じ条件で資本力のない者と資本力がある者が競争すれば、生産の公式によって見かけ上の費用を設備投資した者が大幅に、下げることは出来る。
 その為に、資本力のない者が、同じ条件で競えば先ず淘汰されてしまう。更に、競争が進めば、固定費の性格上、結局、乱売合戦になって収益力を悪化させる結果を招く。乱売合戦を放置すればそれぞれが占有率を争うことによって、悪循環が起こりデフレーションを引き起こすのである。固定費は稼働率と密接に繋がっているからである。
 結局、大量生産をした者の方が価格的には有利な立場に立つことが出来る。つまり、市場競争では、設備投資をする事の出来る資本力のある者に圧倒的に有利なのである。この点を前提として市場競争の在り方を考察する必要がある。
 設備投資は、長期的な資金の働きによるからである。しかも長期的な資金は、操作が可能である。問題は、一定の需要、即ち、消費を維持し続けることが困難な事なのである。

 期間損益が景気に与える影響を明らかにする為には、何が赤字の原因となったのか。それに対して何に対してどの様な対策をしたのかが大切になる。
 原因と結果が必ずしも結びついているとは限らない。例えば、石油価格の高騰によって赤字に陥ったとしても、対策として採られるのは、人件費の削減であったりする。
 この場合、経費の増加を人件費で補うことになる。それを社会的に見ると輸入代金の増加を所得の削減で補うことになる。それが経済構造に重大な歪みをもたらす。

 期間損益主義に基づけば、貨幣の働きによって生じる要素は資産、負債、資本、費用、収益の五つに分類される。

 これら五つの要素は要因でもある。資産、負債、資本、費用、収益が原因で経済現象は引き起こされるのである。

 民間では、借入金、資本、利益によって調達した資金を資産を介して収益によって回収し、費用で分配する。
 収益の内訳は、仕入れ原価、労務費、経費、償却費、そして、利益である。
 償却費と利益で借入金の元本を返済する。利益と償却費が不足すると借入金は増加する。

 利益は、税と配当、長期借入金の元本、報酬に分解される。費用の中の償却費は借入金の元本の返済に充てられる。

 貨幣経済とは、生産財を貨幣を媒介として人々に分配する仕組みである。又、経済量は、人数、物量、貨幣量の三つである。故に、経済単位というのは、対象に対して何を一とするかによって決まる相対的単位である。

 そして、所得と供給の均衡が経済の安定を担っているのである。所得の分布の適正なバラツキと平均が重要であり、それを測るための単位が経済単位なのである。

 つまり、経済単位は、一人当たり収益、一人当たり生産量、一人当たり消費量、一人当たり供給量等である。
 そして、基本は、生産財と労働と分配である。総生産と総所得、総消費である。それに対応する通貨量である。
 適正な規模と平均値、バラツキ、メディアンといった統計的な形が重要さなる。
 人当たりの所得が維持されているかが、経済において重要なのである。それは、一人当たりの所得を均一化せよというのではない。かといって極端な偏りは、財の分配や貨幣の流通に齟齬をきたすことになる。

 経済の状態というのは、所得の有り様と供給の有り様で決まるのである。所得の偏りやバラツキ、平均、規模、格差によって国民生活の有り様が定まる。生産財の供給の構成や絶対量の確保等によって経済の状態は決まる。そして、それらを交換によって結び付けている貨幣の量が経済の状態を決めるのである。
 そして、その根底は収益に求められる。収益が低下すれば、必要な費用や利益が確保されなくなるのである。

 例えば、産業のコモディティ化に伴う収益の低下が好例である。産業は、成熟するにつれて技術革新の余地が少なくなりコモディティ化していく。コモディティ化しているのに、無原則な競争を続けると収益力の低下や寡占、独占化を招く。それを防ぐためには何等かの規制が必要とされるのである。

 国債や通貨量についても適正な量を明らかにしないで多いとか少ないと騒いでも解決には結びつかない。

 経営という事象を測る場合、総売上を一と設定することもできる。その場合は、総売上が単位である。そこから粗利益率や営業利益率が導き出される。この場合、総売上を一つの単位と見なす事ができる。

 貨幣単位は、経済現象を測る基本的な単位である。貨幣単位は、貨幣と物と人の認識を組み合わせることで成り立っている。貨幣に対する認識は、人の物に対する欲求から生じる。貨幣基準は交換価値を基としている。

 何を一とするかによって貨幣価値に対する認識や意識に差が生じる。それは、経済に対する価値観に微妙な影響を与える。

 又、江戸時代の貨幣制度では、商品の種類毎に使われる金種、即ち、金、銀、銭の違いがあり、決済に何を用いるかによって「金極(きんぎめ)」「銀極(ぎんきめ)」「銭極(ぜにぎめ)」の別があった。
 更に、金、銀、銭で貨幣単位も異なっていた。金は、「両」「分」「朱」、銀が「貫」「匁」銭は、「貫」「文」と言う具合である。(「江戸のお金の物語」鈴木浩三著 日経プレミアム)
 金貨は、一両以上は十進法で一両以下は、四進法になる。それに対し、銀貨は、原則的に重さで量る、「秤量貨幣」である。後には、金貨の補助貨幣として一分銀や二朱銀、一朱銀が発行される。銭は、十進法である。

 江戸時代の貨幣制度というのは、非常に特徴的で複雑な仕組みだった。第一に、金、銀、銭の三貨制の上、金、銀、銭が地域や商品、階層によって使い分けられていたという点である。それを象徴しているのが「東の金遣い、西の金遣い」と言われる様に大阪や京都といった上方、日本海沿岸、中国、九州地方では、主に銀貨が流通し、江戸を中心とした関東、東国は金貨が流通していたという事実である。又、銭は全国共通に流通していた。(「江戸のお金の物語」鈴木浩三著 日経プレミアム)
 しかも金貨と銭が「計数貨幣」「定数貨幣」だったのに対し、銀貨は、「秤量貨幣」だった。
 しかも、武家の建前は米本位制である。
 なぜ、西国で銀が使われ、東国で金が使われたかというと西国では大陸との貿易が盛んで、その時の決済として銀が使われた上、石見銀山という銀山があったのに対し、東国は、幕府の権力を強化する都合で金を重視し、又、佐渡や甲州をはじめ有力な金山があったことに起因すると言われる。
 この為に、金額表示も東西で違い。上方では、「米一石につき銀○匁○分」と物を一、即ち、単位として表示され、江戸では、「金一両につき米○石○斗」とお金を単位として表示された。
 物を基とした場合、実体的価値観に重きを置き、金に依った場合は、名目的な価値観を重視する価値観を形成する。

 表象貨幣には、貨幣その物に属性はない。つまり、数が価値を象徴しているだけなのである。それ故に、経済現象は数の持つ性格が濃厚に反映される。経済現象を解き明かすためには、数の論理、即ち数学が重要な役割を果たしているのである。
 物理学では、質量の増減に比例して増減する量を示量性の量といい、質量の増減に関わらない量を示強性の量という。(「物理を楽しむ本」井田屋文夫著 PHP文庫)
 経済的な量には、この示強性の量が多くあり、それが重要な機能と意味を持っている。例えば、金利、為替レート、単価である。
 単価が好例だが、単位量は、示強性の量である。

 時間の単位が良い例であるが、昔は、人の生活に時間の単位を合わせていた。今は、時間の単位に人の生活を合わせている。それに伴って人々は、時間に追われるようになったのである。本来、単位を定めるのは人間である。それを誤ると科学から人間性が失われてしまうのである。



順   序


 数は、量的な位置に結び付けられ、順位が付けられる。

 秩序は、順序、位置付けに始まる。順序、位置付けは、決め事である。秩序は決め事である。数は、順序づけられ、位置付けられることによって秩序が与えられる。

 順序づけられる事で、大小、多少、長短、高低、早い遅い、濃淡、遠近等の識別が可能となる。

 話には、順序がある。順序に従った位置がある。話には、文脈があるのである。ただ、言葉を羅列しても相手に話の意味は伝わらない。言葉を文法に従って言葉の位置を決め、順序よく並べて、即ち、順序立てて始めて話は相手に伝わるのである。
 話には、筋がある。筋が通らなければ、相手に自分が伝えたい真意は伝わらない。物事を筋立てて始めて、自分の真意は相手に伝わるのである。その筋立てがアルゴリズムである。
 この様な文法に従った順序をアルゴリズムという。

 現象、事象には、順序がある。この現象、事象の持つ順序が時間の基となる。

 物事には、筋と順番と順序がある。
 論理には、順序がある。経済や会計は、この順序が重要な役割を果たしている。そして、順序は時間的なものでもある。この様な順序をアルゴリズムという。
 アルゴリズムが威力を発揮するのは、コンピューターのプログラムを組み際である。コンピューターのプログラムは、コンピューターの操作の集合である。つまり、群である。

 アルゴリズムとは、一定の順序に連結された操作の連鎖という。(「代数的構造」遠山 啓著 ちくま学芸文庫)

 手順。段取り。順番。

 アルゴリズムというのは、数学では、計算手順を言う。
 数学の問題を解く場合、個々の問題を数式に分解する。
 数式を解く為には、過程、流れがある。その過程、流れの順序に沿って数式を並べる。後は、個々の数式、一対一に対応させながら機械的に問題を解いていくのである。この様な流れを手順という。
 そして、数学は、直線的な繋がりを前提としている。
 アルゴリズムは、計算手順だけに活用されるわけではない。操作手順や作業手順にも活用することが可能である。
 個々の操作や作業は、は、必ずしも直列的に繋がっているとは、限らない。並列的な繋がりもある。その為に、分業が生じ、組織が派生するのである。そして、計画や予算が立つのである。
 物事には、順番があるのである。その順番に従って大枠を決め、枠組みをして、段取りをとるのである。これも又、順序である。
 将棋や麻雀は、順序、手順を競うことなのである。つまり、ゲームには、アルゴリズムがある。

 何事も筋を通すことが肝腎である。そして、順序を護ることが肝要である。

 話し合わなければ独断になる。話し合えば決められなくなる。だから、組織の基本はアルゴリズムにある。組織のアルゴリズムとは事務、手続き、業務フローである。

 仕事は、作業の順番が重要である。手順や段取りを間違うと全てがやり直しになる。
 優先順位という順番もある。優先順位を間違うと失敗する。
 コンピューターを動かすプログラムも、また、話の論理も計算も順番によって決まる。プログラムの命令の順番を間違えればシステムは正常に作動しない。又、論理の組み立てを間違えれば意味不明な話しになる。計算の順番を間違えば正解には辿り着けない。
 機械も部品の位置、つまり、順番が重要である。機械を動かす時も操作の順番を間違えると機械は動かない。動かないどころか重大な事故を引き起こす。
 組織にも、人間関係にも順番がある。指示、命令にも順番がある。指示、命令も出しべき順番や伝える順序を間違うと組織は動かなくなるか、解体する。
 組織や制度にとって手続や事務といった作業や書類の順番が管理上の意味を持つことがある。ところが、多くの人は、手続や事務、つまり、順番は無意味だと思っている。しかも、無意味だから無用、不必要なことだと決め付けている。だから、仕事が滞り、組織が機能しなくなるのである。
 それでも、指示、命令は、公式的な体系だから、予め規則が設定されている。人間関係は、そうはいかない、情報を伝達する順番や筋、経路を誤ると人間関係が悪化する。感情がもつれて、成る話しも成らなくなる。非公式な情報を伝達するための規則が礼儀であり、作法である。礼儀や作法の意味を知らない日本の戦後の知識人達が、礼儀や作法を封建的だと否定した。その結果、人間関係が円滑に機能しなくなったのである。確かに、戦前の礼儀作法の順番は、封建的な意味を持っていたかも知れない。しかし、だからといって礼儀作法そのものを否定したら、情報は正確に伝わらなくなるのである。

 戦前は、親が結婚相手を決め、見合いをし、結婚をして、子供を産んだ。それが戦前の手順である。戦後は、自分達で相手を決め、親の承諾を得て、結婚し、子供を産んだ。今は、子供を作ってから、相手の承諾をえて、結婚し、親の承諾を得る。順序が真逆である。

 社会生活に置いて順番は重要な意味を持つ。だから、仕事においては、数が重要な意味を持つ。

 遊びの世界でも順番は大切である。
 将棋やチェス、麻雀は、手順を競うゲームだと言える。
 スポーツのルールでも順番は大切である。
 その典型は、野球の打順である。打順が決まらなければ、野球は始まらない。

 大体、ゲームというのは数学的なものだ。囲碁は、数学的位置が問題となる。ビリヤードは幾何学的構想が必要とされる。トランプでは、統計的判断が要求される。
 いずれにしても順位、順番が意味を持つ。

 中でも情報伝達における順位というのは重要である。順位が伝達する事の意味を構成することもある。
 例えば、遺伝子情報である。DNAは、四つの塩基(アデニン、グアニン、シトシン、チミン)の配列によって遺伝子情報を伝達するのである。

 主語、述語、目的語。英語、日本語、中国語、言葉によって順番が違う。文法も違う。文法で大切なのは、言葉の順序だ。日本語は、最後まで聞かないと解らない。語尾が違えば、言ってることがまったく違ったことになりかねない。
 言葉の意味も、語や音声の順番で決まる。

 数が意味を持つというのは、暦や時間を見れば解る。暦や時間で重要なのは、順番である。

 量の種類には、長さ、時間、質量などがある。
 貨幣単位の基準は、距離や重さのような何等かの物理的な実体の裏付けがあるわけではない。その時点、時点の取引の結果として定まる相対的な基準である。

 数は部分である。故に、一対一の対応、分割、順序の変更に対して不変、即ち、総量は同じである。(「数学入門」(上・下)遠山 啓著 岩波新書)

 貨幣単位は、物理的単位とは違う。貨幣単位は、主体的単位である。メートルやグラム、リットルと言った単位と円やドルという単位は、異質な単位である。それは、単位の設定手段を見ても解る。物理的単位というのは、予め合意に基づき設定された定義による。それに対して貨幣単位は、取引に基づくのである。貨幣は、量的な単位ではなく、操作的な単位である。

 貨幣は、分離量として表現されるが、量的に定義化されるわけではない。量的定義とは、何等かの対象に結び付けられた定義である。貨幣は、それ自体で何等かの質量を持っているわけではない。ただ量のみを示しているのである。即ち、貨幣は、固有の性質を持っていないのである。貨幣は、他の対象と掛け合わせることによってはじめて成立する単位なのである。つまり、貨幣単位は、他の対象と掛け合わせることによって価値が成立する。
 貨幣は、対象の交換価値を数えることによって本来連続量である交換価値を分離量に置き換えるのである。そして、分離量に置き換えることによって計算を可能とする。

 即ち、貨幣価値とは、財の単位量と財の単価とを掛け合わせることによって出された解であり、その操作によって個々の特殊な価値が汎用的価値に置き換えられるのである。そのことによって異質の財の間の演算かが可能となる。財が汎用的価値に置き換わる事によって成り立っているのが市場である。

 物理的数学と、経済的数学の違いは、物理的数学では物理的に異質な物、例えば、牛と自動車とか、労働と電気とは演算できないが、経済的数学の上では可能なのである。
 それを可能とするのが、貨幣単位と単位量とを掛け合わせる操作であり、貨幣単位は、財の単位量と掛け合わせるという操作を前提としたの単位なのである。

 経済では、数とその持つ意味が重要なのである。数学とは、抽象化の過程であるが、経済はその最後に現実に結び付けられなければならない。故に、経済では、最終段階において、数を現実の対象に還元することが要求されるのである。

 貨幣単位は、自然数の順序集合である。一つの貨幣単位は、一本の数直線として表現される。貨幣単位の基礎となる数直線は無限である。貨幣の単位は、複数の貨幣単位均衡によって保たれている。

 単位貨幣間の交換は、通貨圏を跨いだ取引において財を通じて行われる場合と、支払準備として直接単位貨幣間で行われる場合がある。

 貨幣価値は、自然数によって表現される。自然数は無限の広がりを持つ。故に、貨幣価値は、抑制を失うと際限なく膨張するのである。
 それに対し、物は有限である。物には、物質的な制約がある。人の力にも限界がある。人間が与えられた時間は、限りがあるのである。人は、必ず死ぬのである。これも仮定である。しかし、誰もがそれを自明だと信じている。それが重要であり、大前提となるのである。

 対象持つ意味や属性を数値に置き換えることは可能である。例えば、時間や場所、対象、仕事と言った意味を数字で表すことは可能である。逆の操作で言えば、数値に時間、場所、対象、作業と言った意味を持たせることも可能となる。この様に意味や属性を数値化する事によって意味や属性の働きだけを取り出すことも可能である。
 この様に対象の属性や意味を数値化し、集合とする事ができれば、複雑な概念も集合や群を構成する事が可能となる。

 この様な働きの中で重要なのは、数の位置と順位である。それが数の大小、前後などを表す。又、数は、数えることを事を可能とする。数えることが可能だと言うことは、計算を可能にすることを意味する。

 数とは、対象の属性を数的なものに特定し、他の属性を削ぎ落とすことで成立する。対象から数を抽出することによって数学は成り立っている。そして、数学が成立することによって近代という時代の礎は形成された。しかし、それは同時に、対象から、数字以外の意味を喪失させる結果も招いている。

 注意しなければならないのは、対象自体に一という属性はない。一という性格は、他との関係から生じる。即ち、一という数は、何等かの他の存在との比較の上に成りたっているのである。
 数が単独では意味をなさないという事は、数は、数量であることを意味している。

 数量は、キログラム、リットル、時間と言った連続した量と一個、一艘、一頭と言った個々独立した物として数えられる数(かず)からなる。一つ一つ数を記号と結び付けて数字を作る。
 財と数とを一対一に対応させた上で、財の数と単位あたりの貨幣価値、即ち価格とを一対一に対応させる事によって取引は成立する。

 先ず一という長さがあり、それを例えば、十個繋げると十という長さになる。その一の長さを一メートルとしたときはじめて十メートルが測れるのである。
 一という数があり、そこから、十という数やメートルという単位が派生しているという事である。

数と貨幣価値


 ユークリッドの幾何原論では、複数の対象を想定し、その内を一つに点と名付け、別の一つを線とし、もう一つを面とするところから始まり、その後、点と線と面の定義をする。数も同様である。つまり、認識、或いは想定を前提とし、その認識した対象を命名し、定義する。それが始まりである。貨幣価値も同様である。ある対象を貨幣とし、貨幣価値を定義する。

 非ユークリッド空間が成立したことによって幾何学的命題に基づいて作られた思想的空間と実際の物理的空間は違うと言う事が明らかになった。(「数学の文化史」モリス・クライン著 中山茂訳 河出書房新社)数学的空間と物理的空間にも違いがある。そして、会計的空間によって作られる思想的空間と現実の経済空間も違うのである。

 幾何学というのは、現実の三次元空間を基礎として構築されている。しかし、それは、現実の三次元空間から幾何学的な概念の根拠となる部分を抽象化した事を意味する。厳密に言えば、抽象化した段階で根拠となった三次元空間の対象とは別の事になっているのである。

 貨幣価値も同様である。貨幣価値の元となる対象、例えば、リンゴは、貨幣と一対一に結び付けられた時点で商品化され、元のリンゴの価値とは別の価値を持つのである。それが貨幣価値である。リンゴは最初から貨幣価値を持っているのではない。貨幣価値は、後から附加された価値である。貨幣と結び付けられない対象は、貨幣価値は持ち得ないのである。言い替えると、この世の全てに貨幣価値があるわけではない。

 経済的数学は、数える、測る、そして、分けるに端を発する。

 貨幣価値は、デジタル数であるが、現実の事象は、アナログの量なのである。
 現代の経済思想は、単位要素×数=量を基本としている。そして、単位要素に分解できない事象は、経済行為として認識できなくなりつつある。つまり、経済行為として認識されない。
 家族への愛とか、友情、郷土愛、神への献身など何の経済的価値もないのである。そして、経済的価値に支配されてしまうと、経済的価値がない事象は何の価値もない事象だと言う事になる。
 神への献身は、お布施の多寡によって測られるようになるのである。

 利益と現金残高とは別である。利益というのは、会計の規則に従って計算された値である。それに対して、現金残高というのは、実際の現金の残高を表す。

 お金を数えるというのは、数に番号をつけるという行為に似ている。貨幣価値は、自然数の集合だと言う事を具体的に示している。この事で判るのは、貨幣というのは、元々、数えられる物であると言うことである。又、貨幣は、数えられる数でもある。
 お金、即ち、貨幣が表す価値、貨幣価値は自然数の集合だと言う事である。そして、貨幣は、現金でもある。現金とは、現在の貨幣価値を表象する物である。故に、現金残高によって示される貨幣価値とは、正の自然数、離散数という性格を持つのである。その結果、会計で表される貨幣価値は、正の自然数であり、その働きは、表示される位置によって定まるのである。
 又、簿記の基本は加算主義であり、残高主義なのである。

 数の本質を突き詰めると存在に行き着く。そして、存在は、貨幣価値の根源でもある。

 しかし、貨幣的空間において貨幣価値は、独自の働きをする。貨幣価値はあくまでも数値情報に過ぎないのである。つまり、貨幣空間において重要なのは、数値としての働きだけである。貨幣価値は、無次元の量なのである。
 その為に、貨幣価値と貨幣価値の元となった物の価値とは乖離してしまう。その結果、貨幣価値が一人歩きをはじめるのである。

 貨幣価値というのは、仮想的価値であることを忘れてはならない。ただ、仮想的と言っても一度貨幣が価値を発揮しだすと圧倒的な力を持ってしまう。そして、あたかも貨幣価値が全ての価値であるようにまでになってしまう。主たる価値が貨幣価値、交換価値に取って代わられてしまうのである。

 貨幣価値は、数値的価値だという事は、貨幣価値の性格を象徴している。数は、抽象的概念である。同様に貨幣価値も抽象的な概念である。数は、数としての体系を持っているが、実体と結びつくことによって現実的な意味を実現する。貨幣も何等かの財に結びつくことによってその効力を発揮できるのである。紙幣は、使用されなければただの印刷物に過ぎない。貨幣価値も電子計算機の中にあるだけでは単なる信号や記号に過ぎないのである。

 貨幣価値の端緒は取引の認識である。市場取引をいつ、どこで、どの様に認識するかが、貨幣価値を確定する上で重要な要素となる。
 つまり、貨幣経済の本質は認識の問題である。

 貨幣価値は、認識の延長線上にある仮想的価値である。つまり、交換価値を表象した数値である。貨幣価値は数値的価値である。
値としての効力を発揮できるのである。

 認識の前提は、存在である。つまりは、取引の実在である。取引実体を前提としない貨幣価値は、未実現価値である。

 人と物は所与の空間なのに対し、金は、任意、即ち、人為的空間なのである。

 金は、数であり、人、物、時間は、量である。

 数と量をかけて数量とする。量に数を重ね合わせて数量に変換する。それが価格であり、貨幣価値の量である。

 貨幣価値は、離散数、自然数の数列である。
 貨幣価値は、自然数に還元される。

 自然数の集合は、+と×に対して閉じているから、自然数の集合である貨幣価値も+と×に対して閉じている。

 我々は、経済現象を認識する際、物理的量であろうと、貨幣的量であろうと、時間的量であろうと数に依る場合が多い。しかし、経済の総てが数値に表せるわけではない。むしろ経済という目に見えない事象を目に見えるようにする過程で数が使われているのである。経済の実体は、数字で現れない部分があることを忘れてはならない。
 それは、経済は、人間の営みであり、文化だからである。経済の実体は、数値ではなく。生きる為の活動なのである。経済に実体が伴っているから、数値は数
 貨幣の働きは、交換にある。交換のために、数の属性が重要となるのである。

 貨幣価値は交換によって生じる。市場における交換は取引である。即ち、貨幣価値は、市場取引によって成立する。

 交換を前提とするという事は、貨幣と貨幣価値。貨幣が指し示す対象と貨幣価値とは、一対一の関係にあることを意味する。その一対一の関係が普遍化することによって貨幣単位は、収束するのである。

 一つの物があり、その物を仮にテレビとしよう。その一を一台とする。台というのは数詞であり、テレビの数量を表す単位である。そのテレビを十集めると十台のテレビの集まりになる。その一台のテレビの単価を十万円とする。そうすると十台のテレビの集まりの価格は百万円になる。そして、そのテレビを百万円と交換することでテレビ十台の貨幣価値は実現する。この様な交換行為を取引という。取引は、貨幣価値を実現するための操作、演算と言っていい。故に、取引は、貨幣価値と数量の関数である。
 このようにして一という数があり、十という数や円という単位が成立している。

 ここでは、一という数と一台という単位と十万円という複数の単位が集合して一つの貨幣価値の単位を構成しているのである。この単位集合に十台という数量を掛け合わせることで売上という集合が成立する。
 この様な集合を群という。

 数と貨幣との関係は代数的な関係である。

 物の数量が貨幣価値なのではない。物の数量と単価が掛け合わされることによって貨幣価値は生じるのである。その意味では貨幣価値は、外延量ではなく、内包量であり、比を原則とする。

 貨幣価値は、数への変換を二重にすることによって成立する。第一段階で物や労働の量への変換であり、次ぎに、物や労働の量を貨幣価値に変換するのである。

 会計は、元々数値化できない対象を取り扱っているわけではない。ただ、物自体に、最初から貨幣価値があるわけではない。そこで、市場取引を経由することで数値化するのである。一度、市場取引が成立すれば、取引の結果としての数値が実績として記録される。それが会計数値の根拠となるのである。

 貨幣価値は、信用によって成り立っていることを忘れてはならない。信用が失われた時、貨幣経済は土台から崩壊してしまうのである。

 貨幣空間は、数値的(デジタル)な空間である。それに対して物質空間は、図形的(アナログ)空間である。
 この違いは、貨幣的空間と物質的空間の決定的な違いであり、貨幣経済の本質に関わる問題である。

 貨幣経済と会計は、数学なのである。


数と世界



 全ての国や民族は、十進法の世界で住んでいると思い込んでいる。
 しかし、江戸時代では、日本の貨幣制度は、十進法と四進法が混在していたし、英国では、1971年に十進法が採用されるまでファージング、ペニー、シリング、クラウン、ポンド、等々があり、4ファージングが1ペニー、12ペンスが1シリング、5シリングは1クラウン、20シリングは1ポンド(ソブリン)となり、ペニーは複数になると、ペニーとは言わず、ペンスとなる、だから、2ペニーとは言わず、2ペンスと言う。我々が馴染んでいる十進法とはまったく異質な世界だと言える。
 また、時間は、今でも六十進法、十二進法、十進法が混在しているし、情報通信空間は二進法が支配している。

 数値的世界は、絶対的な世界ではない。数値的空間は、観念が生み出した、相対的空間なのである。その相対性は、認識によってもたらされたものであり、存在によってもたらされたものではない。
 しかし、現代社会は、人間が生み出した数値が勝手に一人歩きし、あたかも絶対的であるかの如く振る舞う。そのくせ、都合が悪くなると相対的だと言って人を煙に巻くのである。

 数字も科学も万能でも、絶対でもない。
 十進法的な世界は、尚更である。

 人は、どの国でも計算の答は同じだと何の疑いもなく信じている。
 数学という共通の言語が確立されてからまだまだ日が浅いのである。それまでは、0のない国やマイナスのない国があったのである。
 当然、0のない国やマイナスのない国では、計算の答が違ってくる。

 数値的世界は、いわば、虚構の世界である。その最たる世界が貨幣社会である。

 貨幣は、自然界には存在しない。

 貨幣によって価値は数値化される。

 市場が秤量貨幣、計量貨幣を基礎とした空間になっていたら貨幣価値は自然数ではなく、連続量になっていたかもしれない。

 貨幣制度で重要なのは数の働きである。

 貨幣空間では、数の働きをどう認識するかが、重要になるのである。なぜならば、貨幣の働きは、認識によって生じるからである。そして、貨幣価値は貨幣の働きによって決まるのである。

 貨幣制度は、財を分配するための巨大な装置なのである。数値に誤魔化されてはならない。大切なのは、働きであって、貨幣制度にどの様な機能を期待するかが肝腎なのである。それに対して数値は結果である。機能を発揮できるような数字を出せる仕組みにかえればいいのである。

 資本主義では、正の価値は清算され、負の価値は蓄積される傾向がある。しかも、負の価値を生産し、形成する要素は貨幣なのである。負の価値は貨幣の源なのである。
 それ故に、マイナスは、貨幣的空間であり、金融機関によって制御される。即ち、負の空間は貨幣流通を支配する。故に、蓄積された負の価値をどの様に処
理するかが重要となるのである。

 経済を制御するためには、景気変動のメカニズムを明らかにする必要がある。さもないと、恐慌やバブルと言った現象は防げない。又、財政を健全に運営することも出来ない。

 自由主義経済は、市場経済と貨幣制度から成り立ち。今日の市場経済は、会計制度、複式簿記を土台にしている。
 会計制度を成り立たせている前提は、現金収支である。
 故に、個々の取引が成立した時点では、収入と収支、現金の流れを前提としている。最初から期間損益に仕分けられているわけではない。取引が会計帳憑に記入された時点で期間損益に仕分けられるのである。
 その場合、収入は借方に、支出は貸方に仕分けられ、そしてその対極に収入の要因、支出の要因が振り分けられるのである。
 また、帳憑に記入された時点、長期的に決済される収入は、総資本に、短期的に決済される収入は、収益に仕分けられ、それに対応する要因、即ち、長期的要因は総資産に、短期的要因は、費用に振り分けられるのである。
 それが前提である。その上で利益によって期間損益の均衡が測られるのである。注意しなければならないのは、利益は指標であり、目的ではないという点である。
 目的は、事業の継続であり、事業を継続することで社会に必要な財を生産し、所得を分配することである。

 利益を目的化してしまうと利益の持つ本来の働きや財の生産、所得の分配といった経営主体本来の働きが見失われてしまう。

 経営主体というのは、整流器のような役割をしているという事を前提とする。つまり、変動する収入を平準化して固定的支出に変換していく役割を経営主体は担っている。経営主体は、この働きによって経済の長期的な安定を保っているのである。
 資金変動を整流する為に、現金収支を資産、負債、収益、費用に変換したうえで、利益と資本によって調節をする。それが資本主義の基本的原理なのである。
 つまり、資金が不足した時は、外部から資金を調達し、余剰の資金が派生した時は、それを外部で運用する。その実務をになっているのが金融や証券なのである。金融や証券、政策を担う者は、短期的周期と長期的傾向を前提として突発的な事態に対処すべきなのである。
 収入には、一般に波があり、一定していない。その波は、定常的な波と非定常的な波、そして、突発的な波の三種類がある。いずれにしても収入は一定していないのが常である。
 問題なのは、長期負債の清算は、費用計上されずに、直接、資産を減少させることによって行われるという点である。また、納税、役員報酬、株主配当も利益処分の中からされるという事が前提となっている。
 その上で、長期資金の返済原資は、減価償却費と利益処分の中からされる。ただし、長期借入金の返済は、会計では利益処分にも、費用にも表れない。つまり、事実上、決算情報には表れない。唯一、計上されるのは、キャッシュフロー上であるが、キャッシュフロー上表れたとしても返済金額は、利益に反映されない。
 そうなると、長期負債を清算しようとしても直接、費用として収益から差し引くことが出来ない。つまり、余剰利益が計上され、それに課税されることになる上、資産、特に流動性の高い資産を減少させることになり、資金繰りが厳しくなる。最悪の場合倒産する。
 また、納税額や資金のことを考えると資産価値が高騰している時に資産を手放し、負債を清算しようと言う動機が働きにくいのである。
 そこで、一般に経営主体は、短期的資金の調達は、資産を売らずに、資産を担保として借入を行う傾向がある。又、利益が上がっり資金に余力が出来たとき、多くの経営主体は、資産を購入して資金不足の時に備えようとする。それが含み資産である。
 その為に、負債は蓄積されていく傾向がある。
 これらの点を前提として税制、会計基準、経済政策を立てていく必要がある。
 長期負債は、その性格上、一括的に処理をするという事が難しい性格がある。第一に返済条件は、約定によって決められていて、勝手に変更することが出来ない。つまり、負債条件には制約がある。又、利益が上がったから返済しようとしても費用計上されずに資産から直接減額され、その上に、課税されてしまうために、返済した途端に資金が廻らなくなる。利益が上がっているのに経営に行き詰まるといった事態を引き起こす。
 それが収益が悪化しているときに行われたら、尚更である。
 故に、経済の大きな変動の時に、一気に負債を清算させようとすると景気の底が割れてしまうのである。金融や政策をになう当事者は資金、資産、負債、収益、費用の動きと相互作用をよく理解した上で対策を講じる必要がある。

 なぜ、日本が長期的停滞期に入ったか。それは、強引に不良債権を処理させ、市場の競争を促す政策をとったからである。とるべき政策は資産の下落を抑制し、収益の向上を計るような施策である。

 金本位制から変動為替制に移行した時点で、実質的に金本位制から土地本位制へと移行したのである。資本を担保する物は土地しかないからである。ただ、金本位制と違って土地本位制というのは、無自覚である。

 貨幣というのは、借用書が変化したものである。つまり、借用書を裏付ける物、借金を保証する物が貨幣価値を保証しているのである。借入の担保は土地であるから、実質的に土地本位制度なのである。

 土地本位制では、土地を担保とした負債によって市場の基礎が形成される。また、主要貨幣である紙幣の源は、国家の負債なのである。
 紙幣の動きや働きが、債権と債務の均衡、ゼロサム関係を生み出すのである。つまり、債権に裏付けられた債務が貨幣を供給し、供給された貨幣によって財の分配を実現する。それが土地本位制度の根本的仕組みである。
 土地本位制と言っても土地は、通貨圏間の決済に用いることは出来ない。故に、通貨圏間の決済では、外貨準備が重要な役割を果たしている。

 土地本位制度というのは、日本に限ったことではない。アメリカでも土地本位制度が市場経済の底辺で働いていると思われる。今の世界が、土地本位制を基礎としている事はサブプライム問題が表面化した時に期せずして顕れた。
 ただ、土地本位制度は、不動産価値を基礎とした経済だと言う事に対して無自覚なのである。その無自覚なことがいろいろな弊害をもたらしている。

 土地本位制では、地価の相場が資金の流れる方向を左右する。資金の流れる方向によって景気の動向が定まるのである。

 地価の上昇は、表に表れない経営主体の資金の調達力を増加させる。逆に、地価が下降すると資金の調達力の低下を招く。資金の調達力が上昇すれば資金は投資に回るようになり、資金の調達力が低下すれば資金は回収される。それが、通貨の流通量を増減させる要因となるのである。通貨の流通量は、市場の景気を左右させる働きがある。
 この地価と景気との絡繰りが解らないと今の市場経済は解明できない。

 土地本位制では、地価の高騰は、景気の過熱を招き、地価の下落は、不況をもたらす。地価の動きの周期は、長いために、地価の上昇は、持続的な経済成長を源となる反面、地価の下落は、長期的な経済の停滞をもたらす。その点を充分に考慮して経済運営をしなければならない。地価の安定こそ土地本位制度下における経済政策の根幹となるのである。

 地価の相場が経済変動の基調を形成するからである。

 土地本位制度では、国有地と国債の活用が鍵となる。

 土地本位制度では、道路の様な土地に絡んだ社会資本の持つ意味が重要である。土地が生み出す付加価値が重要なのである。効果的に道路を作れば、地価の上昇を招く。ただ、闇雲に道路を建設すれば、環境破壊といった国土の荒廃を招き、また、利権の巣窟となって権力の腐敗を生じさせる要因となる。
 土地の有効活用がなければ、異常な地価の高騰や長期的な地価の低下を招く。地価の安定は、国家構想なくしては成り立たない。

 人間は数学的動物である。良きに付け悪しきに付け、数に囚われ、数に惑わされる。

 人は、猫に小判。豚に真珠と猫や豚を侮るが、豚や猫は、真珠や小判で身を誤ったりはしない。ならば、人と豚や猫、真珠や小判の真実の価値を知っているのはどちらなのか。
 数値は、前提を変えればまったく違った物になる。
 それが経済を時として幻惑するのである。
 実体は、その数値の背後にある。数値の背後にある実体を見極めないと数の魔法に取り憑かれてしまう。

 数は不思議な存在である。その不思議さは、ともすると人を怪しい世界に引き込んでしまう。

 もともと資本主義は、短期的に均衡させる部分と長期的に均衡させる部分を区分することによって成り立っているのである。その為には、黒字は是で赤字は非といった議論ではなく、正の部分と負の部分を正の部分と負の部分をいかに時間的に又空間的に均衡させるかを議論させるべきなのである。それは根本的に経済の仕組み、構造の問題に帰着する。






参考
 「数学入門」(上・下)遠山 啓著 岩波新書
 「零の発見」吉田洋一著 岩波新書
 「物語 数学の歴史」加藤文元著 中公新書
 「古代ギリシアの数理哲学への旅」河田直樹著 現代数学社
 「はじめて読む数学の歴史」上垣 渉著 ベレ出版
 「空間・時間・物質」上下 ヘルマン・ワイル著 内山龍雄訳 ちくま学芸文庫




       

このホームページはリンク・フリーです
ページの著作権は全て制作者の小谷野敬一郎に属しますので、一切の無断転載を禁じます。
The Copyright of these webpages including all the tables, figures and pictures belongs the author, Keiichirou Koyano.Don't reproduce any copyright withiout permission of the author.Thanks.

Copyright(C) 2009.12.20 Keiichirou Koyano