経済数学

1 経済と数学

1−14 時間の関数

時は過ぎゆく。



 人は、一つ一つ歳をとっていく。普段、何でもないことだが、考えてみれば不思議なことである。歳を遡ることはできない。二度と若くなることはできないのである。過ぎ去った日々は取り返せない。若返ることはできないのだ。ただ、想い出として記憶されるだけである。一寸先に闇。未来は、混沌とした深い霧に包まれている。過去は、不確かな記憶と残された痕跡を辿って憶測するしかなく、未来は、過去、現在の延長線上で推測するしかない。古きを温めて新しきを知る。確かなる存在、確かなる価値は、今、現在にしかない。
 それが時間。それが神の意志である。

 諸行無常、万物は流転する。
 確かなる事象、確かなる価値は、今、現れている価値だけである。貨幣価値で言えば現金だけである。

 一生。
 一期一会。

 季節の移ろいは、時の流れを我々に感じさせる。人の一生は、人生の時を刻む。想い出は過去の記憶の中で息づいている。幼い時の想い出は、遙か遠い時の在処を確信させる。老いは残酷である。残された時間のみを思い知らせる。目の前を過ぎていく瞬間、時を確かに実感させられる。熱中すると、時を忘れる。しかし、確かに時はあったのである。孔子は、河の流れをみて時の流れの無常を認識したのである。

 一瞬。

 一分60秒。一時間、60分。一日は、24時間。一週間は、7日。一月は、30日。一年は、12ヶ月。
 時間は、60進法であり、十二進法でもある。

 時は、一瞬一瞬の連続。時は、今、現在の連続である。

 一日、一月、時は、宇宙、天文と関わりがある。
 天体と関わることで、時は数学を生み出した。数学の根源には暦がある。そして、暦は、日常生活と非日常的現象とを結び付ける。そこに数学の本質が隠されている。数学は、生活に深く結びついていると同時に神秘的な世界への扉でもある。
 時間は、宇宙と関わると同時に人生にも深く関わっている。
 行く河の流れは絶えずして止まることを知らない。時は無情である。
 若い時は、瞬く間の内に過ぎ去り、老い衰えていく。
 時は、目に見えない変化である。
 時間は、変化の単位である。

 変化は、時間の関数である。時間は、運動の源である。

 現在の時間の単位は、60進法と12進法である。
 この様な時間の単位は、天体運行と物理的現象から求められる。時間に対する考え方は、天体との関わりから求める思想と物理的現象から求める思想とに分かれる。
 時間は、周期と速度に関わる。そして、これらの運動は、回転運動に収斂される。

 時間は、空間において実在である。

 時間は目に見えないと思い込んでいる人が多い。しかし、それは、目に見えないのではなく、気がつかないのである。要するに、時間とは変化なのである。目に見える変化こそ時間なのである。我々の住む世界に、変化がない世界はない。仮に変化がないとしても、それを認識する事はできない。例えば静止している物を認識したとしたら、対象は静止していたとしても自分が変化しているのである。つまり、変化は、自己と対象との関係から生じる認識上の問題なのである。そして、変化こそが時間なのである。だから、時間は空間において実在しているのである。それが時空間である。

 経済とは、時間との勝負であり、時間というのは、速度だけではなく、いつの時点で取引を認識し、決済するのかの問題でもある。

 時間とは、不可逆的現象である。
 小説や映画の上では、タイムマシーンとか、時間を止めるとかの話がよくでてくる。しかし、それは、やはり物語り上のことである。現実は、実現不可能である。それは、時間と空間は一体だからである。仮に時間を遡ることができたとしても、行った場所は異空間である。

 老いは、残酷である。若い頃には戻れない。

 本来、不可逆な時間を映像空間では、可逆的な変化に見せ掛けることができる。即ち、録画した映像を逆回転で再生することである。しかし、これは、空想上の現象である。実際には、あり得ない。
 映像というのは、映像上に現象を再現することができる。再現された映像を実際の空間に生起している現象と錯覚させることで成り立っている。しかし、それは錯覚である。
 このような時間を遡るようなことは、空想上においては可能である。観念の所産である会計も時間を可逆的な変化に置き換えることが可能である。しかし、それはあくまでも想定上の問題である。

 時間とは、変化の単位である。

 時間の単位は、太陽と月の運行を基に設定された単位である。
 時間の単位の根拠とは、宇宙、天文という壮大な物なのである。

 不可逆的変化に順序が加わると時間が成立する。つまり、時間の単位において順序が重要な役割を果たしているのである。時間の概念において、順序、順番が大切なのである。

 音楽は、時間の芸術だと言われる。旋律、調子、和音の構成を見ると時間の構造が見えてくる。時間には、旋律があり、調子があり、和音がある。仕事には、旋律があり、調子があり、和音がある。人生には、旋律があり、和音がある。仕事も人生も時間の関数である。



段    階


 時は金なり。

 貨幣価値と時間は深い関わりがある。時間は貨幣価値の源泉でもある。
 貨幣価値は、時間が経過することによって生じる価値がある。この様にして生じる貨幣価値には、静止した位置の働きから生じる価値と貨幣が流れることによって生じる価値がある。静止した位置によって生じる価値は、例えば会計上では貸借上に表され、流れることによって生じる価値は、損益上、あるいは、キャッシュフロー上に表れる。

 現代経済の事象は、総ては、時間が関係している。

 現代人は、変化に生活の基盤を置いている。それでありながら、今の状況が永遠に続く事を前提にして生きている。そこに現代人の危うさがある。
 土地が高騰している時は、更なる土地の高騰を前提して、土地を買いあさり、株が高騰している時は、株の取引に狂奔する。それが一度反転し、下落し始めると周章狼狽して、将来に悲観的になる。時流に逆らって将来を見通すことは、極めて困難である。
 現代の経済は、変化に基礎を置いている。基礎とする変化も定型的変化ではなく、不定型な変化である。
 不定型な変化は、不確実な要素が多く、変化の先を読み通すことができない。予測がつかない変化を基とする判断は、当然、投機的、博打的な判断にならざるをえない。その為に、堅実で、計画的な経済運営が困難になるのである。
 変化をどう捉えるかが、現代では運命の分かれ目なのである。そして、変化は、時間の関数として表現される。

 物事には手順、段取りがある。変化には段階がある。

 第一に、物事には、始まりと終わりがある。ただ、何を始まりとし、何を終わりとするか、任意の問題、認識の問題である。故に、人は、現象を認識する時、始点と終点を定める。そこに物事がある。

 変化には過程がある。
 過程は、色々な形として現れる。序盤、中盤、終盤という形で顕れたり、起承転結と言った形で顕れたり、成長、発展、停滞、衰退と言う形で顕れたりする。

 計画にも、概念計画、基本計画、実施詳細計画の段階がある。
 仕事にも、準備、実施、後始末の段階がある。
 この様な段階を認めるのは人間である。

 事業における時間的な仕組みは、単に、計画の変化だけに止まらない。人、即ち、組織、権限、役割の変化、会計処理の変化、作業、段取りの変化、意思決定の変化、事務管理の変化、これらの変化が事業では、体系的、複合的に起こる。故に、構成する要素の時系列的組み立てが重要となる。それが事業の仕組みである。

 変化には形のある変化と形のない変化がある。
 形のある変化は、予測が可能である。予測が可能な変化は、制御しうる可能性がある。
 変化を予測し、それに備えるの様にできれば、変化を制御できるようになる。自然の変化を予測し、それに備えることができれば、災害を防ぐことができるようになる。

 人の一生のように、一定の形式を持った変化がある。

 人の一生には、幾つかの段階がある。幼年期、成長期、成熟期、老衰期と言うように、人の一生には一定の変化の形、段階がある。

 この様に一定の形式を持った変化は予測可能な変化である。
 また、料理のように制御できる変化がある。予測可能な変化や制御可能な変化は、その変化を引き起こしている仕組みを理解することが重要となる。

 予測可能な変化、制御可能な変化は、仕組みが明らかだからである。又、機械や組織のように人為的に作られた仕組みは、変化を予め想定し、変化から力を引き出すことで、能動的に変化を活用しているのである。
 経済は、人為的な仕組みなのである。故に、経済は、予測が可能な事象、制御が可能な事象なのであり、経済の仕組みの有り様では積極的に経済的変化を活用することが可能となる。

 スポーツは、変化の形を積極的に活用した好例である。だからこそ、スポーツは、人間の能力を最大限、短時間に効率よく引き出すことが可能なのである。つまり、スポーツは、経済的なのである。スポーツの本質は過程にある。経済の本質も又、過程にある。
 野球やラグビー、サッカーは、時々刻々、守護の形も攻撃の形も変わる。そして、その形の変化によってゲームは進行するのである。変化する前の形が変化する以前の状態において最善でも、次の瞬間には、最悪になる場合もある。時々刻々変化する状況に、いかに対応する形が取れるかによって、勝負は決するのである。

 変化の形には、第一に直線的なものと周期的なものがある。第二に、発散的なものと収束的なものがある。第一の周期的な変化の根源は、回転や循環運動である。

 経済現象には、周期的な現象がある。経済の周期的な現象の根本は、生活による周期である。例えば、食欲と言った生理的周期である。この生理的周期が生活のや経済の調子となる。

 時間の単位を定義することで、回転や周期の計算が可能となる。

 時間の経過を考える時、変化は、回転と比率に分解できる。
 企業の成長は、総資産回転率と利益率の積である。
 経済の効率は時間によって測られ、効率の良し、悪しは、回転と速度によって定まる。

 物体の変化は、運動として認識される。変化は、時間の関数である。故に、運動は、時間の関数である。

 多くの人為的仕組みは変化を制御するもの的で作られる。だからこそ段階が重要となるのである。

 段階とは、一つの過程における状態の変化である。状態の変化を確認するためには、その状態の変化を引き起こした前提条件を明らかにすることである。

 例えば、飛行機は、離陸、上昇、巡航、下降、着陸と言った運動を繰り返す。運動の変化と、状態の変化は相関関係にある。運動の変化は、状態の変化を引き起こし、状態の変化は、運動の変化をもたらす。離陸から上昇へ、上昇から水平飛行へ、水平飛行から下降へ、そして着陸と飛行機の運動の変化によって飛行機の状態は変化する。つまり、状態を変化させることで、運動を制御することが可能となる。

 科学技術は、変化を予測し、変化を制御する事で、変化を積極的に活用する為の技術だと言える。経済学が、科学に脱皮するためには、経済的変化の仕組みを探り、経済を動かす力を明らかにする必要がある。そして、その仕組みや力を積極的に活用した時、人間は、科学の恩恵を受けることができるようになるのである。

 現象を何等かの原因に基づいて引き起こされた結果だと考え、現象を原因から説明しようとする考え方が科学の根本である。つまり、科学は因果関係を解明する学問だというる。

 因果関係に時間軸を加えると変化の法則が見えてくる。法則が解明できれば、変化を活用することが可能となるのである。
 因果関係を、観察と実験によって発見し、立証しようとする試みが科学である。

 時間は、不可逆である。結果は、原因に先立たない。物事には、順序がある。原因と結果は逆転しない。

 お米を炊く時、状況に合わせて火加減を調節するように、経済も又、状況に合わせて調節する必要があるのである。
 経済に対する施策も、一様ではない。前提条件や状況が違えば変わるのである。
 熱が上がったら、何でも熱冷ましを飲ませばいい式では、全ての病気に対処することはできない。
 同様に、不景気になったら、何が何でも公共投資をすれば良いというのでもなければ、規制を緩和すればいいと言うのでもない。競争は原理ではない。手段である。
 公共投資が功を奏したからと言って次ぎも必ずうまくいくとはかぎらない。何が何でも規制を緩和すればいいと言うわけではないし、全ての公共事業を民営化すれば経済の効率が良くなるとはかぎらない。
 同じ状況、同じ要因でも、産業が違えば、とるべき施策も変わる。円高と言って全ての産業の問題が一律の政策によって解消できるわけではない。円高の恩恵を受ける産業もあれば、損害を被る産業もあるのである。個々の産業が置かれている状況や前提条件を確認することが肝心なのである。
 前提条件や状況によってとるべき施策は違うのである。

 経済には、発展段階がある。発展段階は、産業によっても違う。
 産業が違えば前提条件が変わる。前提条件が違えば、採るべき施策も変わるのである。
 段階によって状況も変わる。状況が変われば、採るべき施策も変わるのである。根本にある仕組みの有り様こそが重要な要因なのである。

時間には前後、順序がある。


 物事には、順序がある。物事には筋がある。その順序や筋が社会の秩序の礎となり、仕事に規律をもたらす。礼儀作法は、世の中の順序、順番、筋を形式化したものである。その順序、順番、筋が護られなくなったから、世の中は乱れ、仕事にけじめがなくなったのである。
 最近は、物事の順序や筋を軽んじる風潮が強い。だから、世の中は乱れるのである。自分で世の中を乱しておきながら、今の若い者はと嘆くのはお門違いである。天に唾した結果は、自分が被らなければならない。

 全ての置換は、一対一の互換に置き換えられる。故に、全ての置換は、巡回置換に還元されるのである。(「数学的センス」野崎昭弘著 ちくま学芸文庫)この事は会計においてもいえる。なぜならば、会計の文法となる簿記は、置換によって成り立っているからである。

 どんな置換も幾つかの巡回置換の重ね合わせ、合成に表現できる。
 どんな置換も幾つかの互換の重ね合わせとして表現できる。(「数学的センス」野崎昭弘著 ちくま学芸文庫)
 個々の要素は連結されている。これらの要件を会計は満たしている。故に、会計は、巡回置換として表現することが可能である。

 故に又、会計的現象は、追跡可能が保証されなければならないのである。

 市場取引は、不連続で、不可逆である。

 会計というのは、物理学的と言うよりも数学的である。物理学というのは、現実の現象を前提とするが、数学や会計は、任意の一連の命題を前提としているのである。
 そして、会計は、論理である。つまり、会計において重視されるのは論理的展開、過程である。論理的過程で重要となるのは、論理的順序である。故に、会計で肝腎なのは時間である。

 会計現象は、不可逆的な現象である。

 仕事も会計同様、巡回置換の重ね合わせができ、互換性がある。現代経済体制は、仕事と会計のこの巡回置換の組み合わせ、連結の上に成り立っている。

 だから、仕事や組織には、構想が必要であり、設計をする必要があるのである。そして、仕事や組織は構造物なのである。

 物事には、順番があり、筋があり、組み合わせがあり、そして、タイミングがある。物事というのは、人間関係の基礎である。物事の基本が上手く機能しなければ必然的に人間関係も悪くなる。順番とタイミングが組み合わされれば、始末になる。始末とは、物事の始まりと終わりである。つまり、物事には始まりと終わりがある。始まりの時に終わりの話をしたら本末が転倒してしまう。終わりの時に始めてしまえば切りがなくなる。始まりと終わりがあって過程が生じる。過程があれば通り道が生じる。それが筋である。筋を違えれば、道に迷う。また、過程に筋があれば段取りが大切になる。だから、世の中には、順序が有り、筋があり、組み合わせがありタイミングがあるのである。そして、それらが人間関係を築くための礎石となるのである。
 順序や筋、段取り、タイミングを無視してしまえば世の中は規律や秩序は崩壊する。その秩序を、戦後世代は、通すべき順序や筋、段取り、タイミングを壊して乱してしまったのである。それが今の世の乱れの原因となっている。我々は深く反省し、悔い改めるべき時なのである。

 時間は一様である。

 時の流れは、誰にも公平である。生まれた、成長して、成熟し、老い衰えて死んでいく。程度の差はあれ、人の生きていく過程は、大差がない。
 時の流れは一様なのである。

 時間は論理的である。
 時間には、前後、順序がある。
 数は、論理の原形であり、数に順序をつけるのは、論理の始源である。時間には、前後、順番があり故に、時間の関数である変化は論理的である。人間は産まれて、成長し、老いて、死ぬのである。

 時間は、不可逆な流れである。そして、時間には順番がある。人は生まれて、乳児期、幼児期、思春期、青年期、壮年期を経て老齢化し、そして死ぬのである。そこに人生の一歩筋の道が見えてくる。だから、分かれ道、分岐点が大事になるのである。戻ることのできない、道筋を人は歩んでいるのである。
 時間は、不可逆で順番があるから、因果関係が成り立つ。原因の前に結果は立たないのである。
 よく卵が先か、鶏が先かを議論している光景に出会す。しかし、それは個体の識別ができないからである。個体差が明確な人間に対して親が先か、子が先かなどという議論はしない。

 時間では、前後、順序が決定的な働きをする。後悔先に立たずである。

 経済は、生き物である。故に、生物から模倣できる部分が経済には沢山含まれている。経済学は、生物学や遺伝子学から多くのことを学ぶべきなのである。
 多くの仕事や計画は、フラクタルな構造を持っている。
 仕事や組織にもフラクタルな部分がある。

 時間には、主観的な時間と客観的な時間がある。
 主観的な時間とは、自分の内にある時間であり、客観的時間とは、自分の外にある時間である。つまり、主観的時間とは、自分の内なる変化の単位であり、客観的時間とは、自分の外の変化の単位である。
 主観的時間とは、外の変化に囚われなない予定に反映される。客観的時間は、自分の変化に関わらずに外の変化を予測する基となる。
 それを統合する事によって計画が成立する。計画を貨幣的価値に換算したものが世村である。故に、計画経済と一口に言うが、予定を重視するか、予測を重視するかによってまったく異質なものになる。

 変化を外形的要因で捉えるべきなのか、内生的要因に求めるのかによって、採るべき施策も違ってくる。
 つまり、経済現象を確立統計的な現象と見るか、関数的な現象と捉えるかの違いである。確立統計的な現象としてみれば、外部からの働きかけが主となり、関数的な現象と見れば、内部の働きを重視することとなる。

 人生、自分の思い通りにはならないという。この思い通りにはならないという考えには二つの意味が隠されている。一つの意味は、自分の想いである。もう一つの意味は、実際の事象である。つまり、自分の思いと現実の事象である。自分の思っている事象に関わるのが主体的時間であり、現実に生起した事象に関わるのが客観的時間である。計画とは、この二つが複合されることによって成立する。即ち、主観的事象と客観的事象の相互作用によって計画は、実現する。
 その結果、計画と言っても、主観的な事象を基盤とした計画と客観的な事象を基盤とした計画の二つに分かれる。
 予算とは、計画を貨幣的に表現した物である。予算主義といっても、主観的事象に重きを置いた予算主義と客観的事象に重きを置いた予算主義とでは根本が違う。
 前者は、先決主義で管理・統制を重んじ、後者は、結果主義で監視・監督を重んじる。

 変化は、時間の関数である。変化を基とする経済現象は、時間の関数である。
 時間の関数は、計画に反映される。

 確実な事象を基礎としすべきなのか、不確実な事象を基礎とすべきなのか。何を確実とし、何を不確実とするのか。
 計画を帰納的なものとして捉えるか、演繹的なものとして捉えるかで計画の様相はまったく違ったものになる。

 計画経済は、結果を重視するか、働きや作業、操作などを重視するかによって有り様が違ってくる。予測を基礎とした計画か。統制を基礎とした計画か。故に、計画経済と言っても必ずしも統制経済を指すわけではない。

 物事には、順序、順番がある。それを形式化したのが作法、礼儀である。故に、礼儀作法は論理的な行為である。
 礼儀作法は、作業、操作の手順を様式化、形式化した一連の動作である。礼儀作法は数学的である。
 人間は、様式に美を見出す。それは、様式は図形的なものであり、様式が直観に訴えるからである。

 食事を作ってから食べるのであり、食べてから作るわけではない。

 決めてからやるのか。やってから決めるのか。意思決定は手順、段取りが重要となる。

 料理の仕方を例にとると、先ず、その日の献立を決め。材料を揃え。下拵えをする。料理を作って、器に盛りつける。

 変化、即ち、時間の関数を考える上で重要となるのは、前提条件と操作手順、順序である。

 最初の設定条件、前提が最後まで決定的な働きをする。

 麻雀や将棋のようなゲームを考えてみよう。麻雀や将棋には手順がある。麻雀や将棋のようなゲームは、手順の争いだと言える。どの手が先が、後かを争うのである。
 将棋や麻雀、囲碁は、手続や手順を競うゲームなのである。

 時間的序列のある単位作業は、幾つかの定型的な組み合わせにまとめて整理することが可能である。また、個々の部分には、互換性があるものも含まれる。部分を構成する単位作業の互換性が計画や業務の多様性の要因なのである。
 単位作業は、単位動作の集合である。単位動作は、順序置換が可能であり、礼儀作法、手続、段取り、工程、計画、プログラム等の基礎となる。この様な順序を持つ動作や文節の集合がアルゴリズムを構成するのである。
 又、幾つかの単位作業をまとめた一連の手続が事務を構成するである。
 また、この様な組み合わせを作るための法や規則が文法を構成する。
 組織は、一連の作業と人や役割、権限を結び合わせることによって形成される。
 また、定型的な組み合わせは、式典や演劇、小説等の演出、構成の基礎ともなる。

 仕事は、単位作業の順序集合である。単位作業には、順番がある。故に、仕事は論理的である。
 組織は、人の集合と権限の集合からなる。権限は、対極に責任を派生させる。組織は、指示、命令で動く。
 指示命令とは、操作の集合である。操作には、順番がある。順番は、優先順位から導き出される。故に、操作は、論理的である。組織も論理的である。
 指示命令を成り立たせているのは、権限である。権限の根源は、規則である。規則の本質は権力である。つまり、組織を動かす力は、権力であり、それを具現化したのが規則である。規則は体系である。故に、組織は、規則の集合によって成り立っている。

 単位作業には、順番がある。組織権限には、序列、優先順位がある。仕事とは、単位作業と組織とを、順番に組み合わせ全体である。つまり、単位作業と人と時間との関数である。

 単位作業は、単位動作の順序集合である。単位動作には順番がある。単位動作には、始点と終点がある。並行作業がある場合は、分岐点と結合点がある。

 会計の過程は、時間の関数である。会計は、手続によって成り立っている。会計手続きとは、会計操作、演算を形式化した順番である。
 会計は、先ず、取引の認識、仕訳、記帳、転記、集計、試算、精算、期間損益の計算、決算というように流れる。この手続に沿わないと期間損益は割り出せない。会計概念は、数学的な概念である。

 これらの手続を成り立たせているのは、規則である。規則とは関係を維持する力である。

 数学は、形式である。大切なのは、手順、アルゴリズムである。つまり、順序、順番である。
 文字は、順番があって単語となり、単語は順番があって文節となる。文節は、順番があって文章となる。文章は、文字の集合である。文節は文字の集合である。単語は、文字の集合である。文字に順番がなければ、文字は意味のない記号に過ぎない。

 数学は、数値情報ではない。数値情報は、数学の資源である。数学というのは、数値を操って数値として現れる現象の背後にある、何等かの働きを探り当てることにある。
 故に、予測が重要になる。
 
 時間の経過に基づく現象を分析するのに、時系列分析がある。
 時系列分析の手段には、季節変動分析、回帰分析、現在価値分析、偏微分などがある。

 時系列の変化を考える場合、時間の変化に順な働きと逆の働き、平衡した働きがある。

 最近の傾向として、短期的な業績だけ見て、投資や融資の判断をし資金を動かそうとする傾向がある。それが景気の変動を大きく揺るがし、不安定なものにしている。
 資金は、絶え間なく循環していることで効用を発揮する媒体に過ぎない。常に、企業が資金を蓄えているわけではないのである。又、資金にも長期的な資金と短期的な資金があり、長期か、短期かで資金の動きや働きにも違いが出るのである。重要なのは、流動性である。

 経済的価値に時間軸が加わったことで、経済の在り方が劇的に変わったのである。それが近代経済の幕開けとなった。

 蝶が幼虫から蛹へ。蛹から成虫へと変態するように、事業の組織も企画から準備へ、準備から実施へ、実施から後始末へと段階が進む毎に姿を変える。
 構造の時系列的変化を円滑にできるかが、事業の成否を決するのである。
 この様な時間と構造との関係こそ、世の中の仕組みを支える要素なのである。
 重要なのは順序である。何事にも順番がある。順序、順番を忘れた時、人の世は乱れるのである。

時間と関数



 何と何が均衡し、何の量が変化し、何の比率が変化し、何と何が連動としてどの様に変化するのか。

 数字とは、無意味である。故に、貨幣も無意味である。無意味だかにこそ、数という働き、貨幣という機能が作用するのである。数字や貨幣にとって大切なのは関わりである。数字や貨幣は何等かの対象と関わることで価値を持つのである。故に、数や貨幣で重要になるのは数や貨幣の働きである。

 数学は形式だと言う事である。故に、貨幣経済も形式である。

 現在は代数的な価値観が支配的であるが、幾何学的な価値観の重要性も薄れたわけではない。
 幾何学的な考え方の代表的なのは写像(mapping)の概念である。関数(fanction)は、機能や働きという意味がある。
 この二つの考え方は、要素間の関係をとらえていく上で重要な意味がある。

 関数にせよ、写像にせよ、二つの集合体に存在する要素間の相互関係をどの様に認識するかの問題である。集合体間の要素に一対一の関係が成立する時、関数関係、或いは写像関係が成り立つとされる。

 一対一の関係の基本は、相関関係であるが、相関関係の中の一つに因果関係がある。因果関係とは、相関関係に時間軸が加わることで成立する関係である。
 結果は、原因を伴い、原因は結果を導き出す。原因と結果には順番がある。因果関係の順番は時間的関係であり、後先がある。結果は、原因に先立つことはない。因果関係は、不可逆的関係である。

 ネットワークというのは、点と線を結び事によって成り立っている。点と線というのは、一次元、二次元の空間を意味する。又、二進法的な空間でもある。

 仏教では、この世は、因果応報だと教えてきた。悪い事をすれば必ず罰が当たり、良い事をすれば何時か報われるという。
 仏教の根本にあるのは、因果関係である。結果には、何等かの原因がある。悪因をたてば、良い結果が得られる。そして、その様な関係を縁という。良縁を求めて日々の行いを正して生きていく。変化の元にはこの様な因と縁が関係している。

 因果関係は、相関関係の一種である。因果関係は、時間的相関関係である。故に、因果関係では前後、順番が重要となる。

 変化にもいろいろな変化がある。広い意味で言えば、変化がないのも変化の一つだと言える。
 現実の変化は、不規則で予測が困難な変化がほとんどである。特に、経済的変化は、規則的で、予測が出来る変化の方が稀である。
 例えば、直線的変化、指数的変化、断続的な変化。拡散的な変化に、収束的な変化。連続的変化と不連続な変化。

 経済には、面積算が成り立つ事象が多くある。
 経済においては面積と速度の計算が重要となる。
 そこに微分と積分の必要性がある。

 空間は、点と線、面と体積を生み出す。この点と線、面と体積が作り出す変化を計算するのが微分と積分である。
 変化は、傾きと量に還元される。微分は、傾きを計算し、積分は量を計算する。

 経済的な変化は、音楽的でもある。経済には、拍子のような変化があり、又、旋律的な変化があり、和音のような変化がある。これらの変化が複雑に組み合わさって一つの経済現象を引き起こしている。

 変化にもいろいろな変化があるとしたら、変化にも形があることになる。変化にも形相と構造がある。
 変化の形が重要になる。
 変化の形を決める要素がある。推移であり、季節変動等がある。
 変化の形にも周期的変化と一時的変化がある。
 人口構成のように統計にも時間の変化は表れる。

 変動には、定常的変動、確率的変動がある。

 一般に景気には波がある。市場は、一方的に拡大したり収縮する事は稀である。

 良い時には、楽観的に、悪い時には悲観的になりやすい。 

 貨幣は貨幣価値を保存する。貨幣というのは、その表記されている貨幣価値を保存する性格がある。現金価値には、時間は作用していない。
 時間的価値では、歴史的価値と現在価値と将来価値が重要となる。歴史的価値とは過去価値である。過去、現在、未来が時間的価値の源泉となる。そして、貨幣価値では、時間的価値が経済活動の原動力となる。

 負債と預金は、表裏の関係にある。
 借金をして土地や株を買うのは、裏返してみると定期預金をしてお金が貯まったら土地や資産を買う事との代替行為ともとれる。

 資金調達は、資産や将来の収益を担保する場合と収益による場合の二種類の手段がある。

 長期資金の働きは、基本的には投資よって生じる。なかでも、社会資本にたいする投資には重要な意義がある。
 短期資金は、運転資金として現れる。短期資金の需要は、基本的に市場の収縮、拡大によって発生する。
 例えば、季節変動のように季節による市場の収縮や拡大である。又、市場の成長や衰退による市場の拡大、収縮である。
 その他には、一時的資金の過不足が原因となって運転資金の必要性は生じる。

 重要なのは、いかに、市場に資金を循環させるかである。土建屋が潤うだけでは、市場に資金は循環しないのである。公共事業頼りの地方の経済事例を考えれば歴然としている。



今の経済は、変化を前提として成り立っている。


 現代経済は、変化を前提としている。変化とは動きである。動きによって個の位置を絶えず調整することによって現代経済は、成立している。変化がなくなれば、社会全体が硬直化し、環境や状況の変化に対応できなくなる。そして、現代の市場経済は、市場の拡大、成長、発展、上昇を前提としている。なぜならば、費用が下方硬直的だからである。
 現代の日本はゼロ金利時代が長く続いている。ゼロ金利時代が長く続くと、時間価値が作用しなくなる。金利はゼロでも、生活にかかる経費は、上昇する。人件費も上昇する。それは、家計や企業利益を圧迫し、景気の頭を抑える。財政赤字における一番の問題は、国債の残高が蓄積されは、金利を硬直的にすることにある。

 時間価値には、現在価値と将来価値がある。

 変動には、定常的変動と確率的変動がある。定常的変動とは、時間に比例した変動であり、確率的変動とは、時間に連動しない確率的な変動である。(「数学で未来を予測する」野崎昭弘著 PHPサイエンスワールド新書)
 つまり、何等かの一定の法則に従って変動するのが定常的変動であり、でたらめと言うより確率的に変動するのが確率的変動という。

 定常的変動は、何等かの規則に従った変動と言えなくもない。
 しかし、定常的変動を規則的というと厳密には語弊がある。なぜならば、確率的な事象でも何等かの規則、つまり、確率的な規則があると見なされてきたからである。
 それで一定の関係に従って変動する事象を定常的変動とする。言い替えると定常的変動とは、関数的変動である。それに対して、賽子を振った結果に従うような変動を確率的変動という。

 また、変化には、不確定要素と確定要素がある。つまり、変化には不確実な事象と確実な事象がある。例えば、死は確実に来るが、いつ死ぬかは不確実なのである。
 経済、即ち、生活は、確実な要素の上に立って不確実な要素に対処することによって成り立っている。
 そして、基本的に確実な要素が強いのが負債や資本、費用と言った名目的勘定であるのに対し、不確実な要素の度合いが高いのが資産価値や収益と言った実物勘定である。
 つまり、経済変動を不確実にしているのは、資産価値や収益と言った実物勘定なのである。

 言い替えると確実性の度合いが高い変動が定常的変動であり、不確実性の度合いが高い変動が確率的変動と言えるのである。
 定常的変動には、線形的変動と周期的変動がある。

 実物価値は、確率的変動をするのに対し、名目的価値は、定常的変動をする。負債は、名目的価値である。金融商品は、負債を基礎としている。故に、定常的変動をする。それに対し、実物価値である資産は確率的変動をする。

 経済は拡大均衡と縮小均衡を繰り返す。拡大均衡だけを前提とすれば財政が破綻するのは必然的な帰結である。
 拡大均衡と縮小均衡は、一定の波動となる。波動には、短期の周期の波動と中期、長期の波動がある。

 経済変動、即ち、インフレーションやデフレーションは、時間価値の変動によって引き起こされる。時間価値を構成する要素は、金利、所得、物価、地価等がある。時間価値の働き、長期、短期によって差がある。また、社会全体に一様に働く作用と社会を構成する要素に個別に働く作用がある。
 例えば金利は、社会全般に一様にかかる。それに対して、所得は、個人所得に及ぼす影響以外に、雇用等及ぼす影響がある。また、物価は、財によって時間価値の変動に差が生じる。
 時間価値がどの様な作用を社会や個々の要素に及ぼすかを考慮して経済政策は立てられる必要がある。

 重要なのは、長期資金と短期資金の比率と均衡を保つことである。長期資金で鍵を握るのは、量と方向であり、短期資金で鍵を握るのは、資金が流れる部分と資金の流れる速度、即ち回転数である。
 為替問題を見ても資本収支は、長期資金であり、経常収支は短期資金である。一般に為替の変動の要因を経常収支に求めがちだが、実際には、長期資金の流れである資本収支の作用が、経常収支を制約しているとも言える。

 期間損益は、長期資金の働きと短期資金の働きを単位期間で明確に区分した。

 長期資金は、通貨の流量の水準を決め。短期資金は、消費の水準、即ち、所得や物価の水準を決める。

 長期的資金は、固定的部分であり、位置、水準が重要となる。それに対して、短期的資金は、変動的部分、流動的部分を形成する。
 家計で言えば、住宅ローンの返済は、長期的資金を意味する。それに対して、可処分所得とは、長期的資金を除いた短期的資金、即ち、流動的資金の持ち分を意味する。

 長期資金の働きは、基本的には投資よって生じる。なかでも、社会資本にたいする投資には重要な意義がある。
 短期資金は、運転資金として現れる。短期資金の需要は、基本的に市場の収縮、拡大によって発生する。
 例えば、季節変動のように季節による市場の収縮や拡大である。又、市場の成長や衰退による市場の拡大、収縮である。
 その他には、一時的資金の過不足が原因となって運転資金の必要性は生じる。
 長期的資金が資金の供給量を表し、短期的資金が資金の流量の増減を表す。

 経済が破綻したとき、企業収益の悪化、消費の低迷、所得の減少、資産価値の下落、株式相場の暴落、デフレーション、貸し渋りなどが同時に起こっているように思われる。しかし、実際は、これらの現象には順番があり、どの様な順序で起こったかが、原因を特定する上で重要となる。

 現代社会は、変化を前提としている。しかし、現代以前の社会は、この様に変化を前提とする社会ではなかった。変化よりも不変な事を重視していたのである。
 真理は、不変なところにあった。しかし、現代は、変化こそ全ての原動力であるように考えるようになった。その典型が進化論である。つまり、新しい物に善を求めるのである。

 しかし、基本的に新旧・老若・男女と是非・善悪、正邪の別は無縁である。次元が違うのである。

 人は変わるのである。世の中も変わるのである。それが、よく変わるか、悪く変わるかは、人や世の中が時間とどう関わってきたかによって決まる。よくするも悪くするも自分次第である。

時間価値と経済


 経済を考察する上で重要なのは、時間的価値である。

 資源は有限な存在である。経済的価値が無限と関わるのは、時間的な価値が加わるからである。

 価値とは差である。時間価値とは、時間差によって生じる価値である。時間差とは、過去、現在、将来の時点間の差を意味する。時間的価値の差とは、過去価値、現在価値、将来価値の差である。

 経済的価値に於いては、認識が重要な意味を持つ。なぜならば、認識した時点に依って経済行為が確定するからである。例えば収益の認識する時点には、成約、出荷、納品、検収等がある。
 株価の時価評価にしても、いつの時点を基準とするかが重要な意味を持つ。つまり、時間差の認識差が価値を決めるのである。

 時間価値で重要なのは、過去、現在、未来の価値の変化である。即ち、過去の価値、現在価値、将来価値を明らかにすることが一つの目標となる。結果的に予測によって未来は左右される傾向がある。
 現在価値と将来価値との関係が資金の流れる方向を決める。又、過去価値と現代価値の関係が資金の調達量を決める。
 世間の大勢が現在価値より将来価値の方が上がると考えるようになると資金は、運用の側に流れる。下がると思えば回収の側に資金は流れる。

 債権債務の関係を見る時、重要となるのは、現在価値と資金の流れる方向である。
 資金計画のグラフには、錯覚を起こさせてしまうようなものがある。
 資金の流れで重要なのは、資金の量だけではなく、資金の流れる方向が重要なのである。つまり、債権と債務の均衡状態が表されるグラフでないと資金の実体は表せない。
 先ず投資として資金の流れが借方の方向に生じ、投資が完了した後は、反対方向、貸方の方向に返済額の流れが現れる。

 時間的価値には、金利、配当、物価上昇率、所得の上昇率、地価の上昇率などがある。

 時間価値の代表的なものに金利がある。金利には変動金利と固定金利がある。そして、短期金利と長期金利がある。又、金利の種類には、複利と単利がある。
 市場経済は、時間価値を前提として成り立っている。
 時間価値は、単位期間を元に幾何級数的な変化、複利的な変化をする。この様な幾何級数的変化は、時間価値が生み出す価値の規模に依っている。

 時間価値の問題は、変化の早さの問題でもある。その証拠に、速度の単位は時速によって表現される。早さとは速度である。速度の問題は微分の問題でもある。

 変化の速度、拡大の速度が重要となる。
 注意しなければならないのは、経済を構成する時間的要素の基礎は、幾何級数、即ち、複利的な変化をするという点である。
 最初は緩やかでもある時点を境にして爆発的な変化をする。或いは、次元を越えるような変化をするのである。

 時速の単位を距離/時間とするならば、時間価値の速度の単位は、貨幣価値/時間で表すことが可能である。

 速度は、微分によって解析される。
 微分は、変化、積分は総量、蓄積を表している。

 資本勘定は利益の蓄積である。
 利益や収益の変化や累積は、面積や体積によって表すことができる。

 累積は、面積や体積によって表現できる。面積は平方であり、体積は、立方である。
 経済的な意味での体積とは、単価、数量、時間の関数である。

 金利は時間価値である。
 時間価値を形成する要素には、金利以外に所得の上昇率、物価上昇率、利益、配当、市場の成長率、人口の変動率などがある。これらの要素が作り出す市場の規模、範囲、比率、変化、構成の均衡が重要となる。要素間の相関関係が経済の基礎的変動を構成する。
 例えば、物価の上昇率と金利の変動との相関関係である。そして、これらの要素が経済規模と相関関係にあるかが、経済政策の鍵を握っているのである。

 価値とは、位置である。位置とは差である。故に、価値は、差によって生み出される。時間価値とは、時間によって作り出される差である。この様な時間価値の水準を決める指標は、金利である。

 金利と利益の違い。利益は、一定の時間価値を形成しない。なぜならば利益は、分け前だからであり、予定される確実な値ではないからである。つまり、利益は、結果であって名目的価値に対して一定の債務を構成しているわけではないからである。

 キリスト教やイスラム教、ユダヤ教では、金利は、時間によって貨幣が価値を生むとされ不当な行為だとされてきた。しかし、利益を出すことは許されてきた。

 故に、元々、投資は、配当が目的だったのである。近代化されるに従ってキリスト教社会において金利を取ることが解除される。金利が課せられることによって時間に経済的な価値が生じるようになる。

 金融機関の収益は、金利によって構成されることを忘れてはならない。

 配当が金利を上回れば投資に資金は向かうし、配当が金利を下回れば返済に資金は向かう。

 利益を保証するのは金利である。

 期間損益や借金の技術は、収入や支出、費用の平準化を目的として編み出された技術だとも言える。
 そして、この平準化の技術にこそ近代化を推進させた鍵が隠されていると言ってもいい。それ故に、経済は、時間の科学だとも言える。

 生活を苦しくさせる景気は何かというと、経済の急激な変動である。その意味では、経済現象で問題となるのは、位置より変動である。位置というのは、固定的な部分、運動というのは変動的な部分と言い換えることもできる。そして、変動で問題となるのは、変動の幅であり、変動の性格であり、変動の原因である。変動の性格とは、一時的な変動か、慢性的な変動か、周期的な変動なのかを意味する。
 高いなら、高いなりに安定された方が、将来に対する見通しも計画も立てやすい。収入も博打の一時収入に頼っていたら生活は成り立たなくなる。社会全体で言えば、為替の変動や原油価格の高騰、ハイパーインフレのように、経済基盤が大きく揺らぐような変動が一番困るのである。
 何よりも先の見通しが立たないことが、生活にとっては打撃が大きい。
 ところが、現代経済は、変化を経済の原動力としている。それが経済状況を絶えず不安定にする要因なのである。つまり、現代経済を動かす要因は不安なのである。

期間損益と時間



 経済を考える上で重要なことは、第一に経済主体の活動の原動力は、資金の流れによって作られていると言う事。第二に、資金の働きには、長期短期の別があるという二点である。

 経済の重要な指標の一つに流動性がある。流動性とは、短期間に現金化し得るかどうかの尺度である。現金化というのは、即ち、単位期間を一つの基準とする。つまり、単位期間を基準にして短期か、長期かを定めるのである。それは、変動性と固定性の尺度でもある。

 固定資産の多くは、流動性が低いのである。中には、売って現金化できない資産もある。又、売ると価値が下がる資産もあるのである。
 この様な観点からすると負債というのは、必ずしも返済を前提としているとは限らないという事が言える。負債が、ある意味で時間的価値の下支えをしているとも言えるのである。
 この点から金利の重要な働きが垣間見えてくる。すなわち、金利は時間価値の源泉なのである。

 この観点からするアメリカの市場や会計制度は、自国の実業、とりわけ、製造業に厳しい仕組みである。アメリカの産業は市場や会計制度を抜本的に見直さない限り、確実に衰退してしまう。一番問題なのは、市場も会計も非現実的な前提の基に構築されていると言う事である。つまり根本思想に無理があるのである。

 アメリカではアメリカ企業の利益に占める製造業の利益の割合は三割をきってきている。反対に金融業が占める利益の割合は三割強にまで上昇してきている。

 アメリカでは、物づくりができなくなったのではなく。アメリカ自体が物づくりでは利益が上がらない仕組みしたのである。

 会計は本来、長期的資金と短期的資金の働きを調節することが目的である。
 しかし、アメリカでは、会計が短期的な利益のみを追求するような仕組みになったことによって短期に資金を廻す事のみを目的とするようになったのである。その為に、資金が実業に廻らなくなり、金融市場において見かけ上の利益をあげることに汲々とするようになったのである。

 特許や著作権に護られた産業だけが繁栄している。それが意味することを忘れてはならない。つまり、何の規制もない市場は無法地帯なのである。

 現代の市場経済は、変化の上に成り立っている。変化は、成長や進歩だという見方がある。しかし、反面において目まぐるしい変化は、時に暴虐だとも言える。過激な変化は、全てを破壊し尽くしてしまいかねない。
 確かに、何世代にもわたる極端な富の累積や偏りは是正すべきである。しかし、産業を地味で退屈だが堅実で安定した場に戻すべきなのである。

 経済的効果を測定する基準には、現金主義と期間損益主義がある。現金主義というのは、一定期間の収入と収支の関係から経済的効果を測る考え方であり、財政と家計が現金主義に則っている。それに対し、期間損益は、単位期間の経済的効果を費用対効果によって測定する手法である。効果は、収益に置き換えることが出きる。即ち、収益と費用の差額によって単位期間の経済的効果を測定するのが期間損益である。期間損益は、利益に集約される。

 期間損益主義でないと費用対効果を測定し、収益に還元することはできない。現金収支だけでは、現金の動きを認識する事はできても収益と費用とを結び付けて適正な分配に結び付けることが困難なのである。そこに、財政問題の本質がある。財政は、現金主義なのである。故に、費用対効果を測定し、所得と結び付けて判断することができないのである。

 期間損益は、期間と費用、或いは、期間と収益を掛け合わせることに形成される面積が重要な意味を持つ。

 時間と数量、単価によって作られる面積に占める分配の在り方、構造、特に、費用と収益の構造、利益処分構造、税制との影響が産業の成長や景気の変動に決定的な作用を及ぼすのである。

 費用の時間的構造が重要なのである。
 例えば、人件費である。

 人件費は、費用という側面だけではなく、所得という側面がある。所得というのは、生活費の原資であり、所得の上昇が消費の拡大を、言い替えると市場の成長を担っていると言える。又、生活の原資という観点からすると下方硬直的な傾向を持つ。即ち、固定的な部分と変動的な部分を併せ持っているという事である。この様な費用は、複利的に上昇する傾向がある。
 人件費は、需要と供給という観点だけで捉えることは、甚だしく危険なことである。

 減価償却費というのは、費用を一定の期間に按分することによって単位期間における収益と費用の関係、費用対効果を測定する事を目的として設定された会計上の費用である。つまり、時間が重要な意味を持っている。しかも、どの様に費用を按分するかは任意なのである。ここに会計思想の重大な思想が隠されている。

 費用と時間構造は、市場における生産量と費用と利益の関係に影響を及ぼす。また、この関係は、キャッシュフロー、即ち、資金の流れ、収支との関係に還元されなければならない。
 つまり、単年度の損益だけでは、判断しきれない問題なのである。

 人件費のように複利で上昇し続ける費用がある。また、減価償却費のように固定的だが、操作可能な費用がある。これが費用や収益の値に重大な影響をもたらす。

 費用に対応するのが収益である。収益は、収入に反映する。

 経営者は、費用の上昇に見合う収益を常に確保しようとする。それに対して収益は、常に一定しているというわけではない。
 収益を構成する要素には、単価的な要素と数量的な要素がある。そのいずれもが一定しているわけではないのである。
 単価的要素は、市場の需給環境に左右される。また、数量的要素は、生産力に左右される。むろん、生産力は生産量となって需給に影響を及ぼす。

 単価は、下方圧力が働く。費用には、上昇圧力が加わる。
 人件費のように下方硬直的で、常に、上昇圧力がかかる費用がある一方で単価は一定、或いは低下する。しかも、人件費は、費用の根幹をなす要素である上に、所得、即ち、消費の素でもある。人件費が停滞、或いは、下降すれば、景気に直接的な影響がでる。
 単価に下方圧力が働けば、数量の増加に期待せざるを得なくなる。大量に生産することによって操業率を高め、単価当たりの費用を抑制するのである。必然的に占有率を高めようとする行動をとることになる。
 量で補う経済になる。それが大量生産型経済である。大量生産型経済というのは、大量生産をしなければ生産体制を維持できないと言う供給側の都合によって成立した体制なのである。
 それは、ディズニー映画の「魔法使いの弟子」のように無制限に奔出する生産物に自らが溺れてしまうような体制なのである。

 費用、利益、生産量の時間的関係を見直し、調和のとれた生産を促す仕組みを構築することが経済本来の在り方なのである。

 更に、産業の育成という点からすると減価償却と利益と税の関係が極めて重要となる。

 税制が期間損益に与える影響も無視できない。為政者やマスメディアは、税の在り方が景気や産業に与える影響を軽視しすぎる傾向がある。
 長期借入金の元金の返済は、税引き後利益を原資としていることを忘れてはならない。即ち、税は経営主体の負債の水準を左右する要素なのである。

 期間損益における納税額は、どの様な会計政策を経営主体がとろうと、長期的には一致していると考えられている。単年度の利益に与える影響は、あっても、結局、それは納税の先送りか、先払いの違いであり、長期的には差がないと見なされる処理が多分に含まれている。固定資産の圧縮処理のように繰延処理であったり、経営主体が整理される時点で清算される場合もある。つまり、一見優遇しているように見える税制も要するに朝三暮四なのである。本当に、税を軽減するための施策かどうか注意する必要がある。

 この様になると経営主体は、事業によって利益をあげるのではなく。会計によって利益をあげようとするようになる。

 長期的な資金の働きという点からすると時間と負債と資産の関係が重要となる。

 時間と負債と資産の関係は、相続の時に如実に現れる。

 相続というのは、借金がなければ税金がかかり、借金が在れば、税金に対する負担はないが、借金に対する債務は当然かかる。

時系列



 時間は変化の単位である。そして、経済にとってこの時間が重要な役割を果たしている。つまり、経済にとって変化の原因が大切なのである。変化が大事と言っても変化しない要素も重要である。生きていく上で、時間の経過に伴って、変化する部分と変化しない部分が、生活にどの様に関わっているのか、それが経済現象を解明する鍵なのである。

 変動の形には、第一に、基礎的変動。第二に、周期的変動。第三の不規則変動の三つからなる。
 基礎的変動というのは、傾向変動とも言う。つまり、変動の基軸となる変化である。
 周期的変動とは、一定の周期、上下動を持った変化である。周期的変動には、長期、短期の機関が関係する。季節変動は、周期的変動の一種である。
 不規則変動というのは、規則性のない変動を言う。

 春夏秋冬といった自然現象にも時間の経過に対して規則的で周期的な変化をする事象がある。同様に、経済のも季節性のある事象や会計のように一定の期間を周期とした仕事の流れがある。

 因果は時系列的な関係を表している。結果が原因の前に現れることはない。卵が先か、鶏が先かというのは、よく、遊び心に問い掛けられたものである。しかし、これは、時間と仕事との関係認識の一つの本質を現している。

 時間的な順序、並びが、決定的な意味を持つ事象は結構ある。
 経済的事象において、特に、時系列は特別な意味を持つことが多々ある。経済を理解し、未来を予測するためには、時系列的な分析は不可欠である。

 時系列的変化には、第一に定常的変化と非定常的変化がある。第二に、構造的変化と非構造的変化がある。一般に時系列的変化は、数列として表すことが可能である。
 定常的な変化とは、例えば、資金で言えば、季節変動による変化である。代表的なのは、賞与資金による資金の流れである。また、季節物の売上なども季節変動による変化を受ける。それに対して、季節変動による影響を受けないのが基本給による資金の流れである。
 非定常的変化とは、一時的変化や臨時的変化である。例えば、石油価格の高騰による変化や為替の変動による変化などである。
 構造的変化というのは、市場の拡大や企業の成長による変動である。

 資金の流れは、資金の必要瀬や活用によって左右される。例えば、人の一生に関わる資金の流れには、教育、結婚、住宅、老後の資金等といった一時的、或いは、一定期間必要とされる資金がある。また、生活費のように毎日一定量を必要とする資金もある。

 資産価値も時間の経過と伴に変化する。資産価値の時間的な変化とその原因が時として経済に決定的な働きをすることがある。何によって、なぜ、資産価値の変化が起こるのか、それを知る事は経済の動きを予測するためには不可欠な要因である。
 資産価値というのは、絶対的な値ではなく、相対的、構造的な値である。即ち、前提条件や設定条件によって変わる認識上の値なのである。この点を理解しておかないと資産価値の意味や働きを見間違うことになる。
 不良債権、不良債権と昨今問題視するが、何を基準にして不良債権とするのか、その根拠を明らかにしないで、問題視している場合が多い。
 資産価値を測る尺度としては、取得時の価値を根拠とする考え方(所得原価主義)、取引相場(時価主義)を根拠とする考えた、収益水準を基準とする考え方(収益還元方式)等がある。又、その他に、清算価値を根拠とする考え方などもある。
 この様に、資産価値というのは一律には断定できないのである。土地は一物五価などとも言われている。

 資産価値の水準、負債の水準、収益の水準をよく観察し、市場の仕組みを調節することによって景気を制御すべきなのである。

 変化には、規則性のある変化と規則性のない変化がある。。
 規則性のある変化には、周期性のある変化と周期性のない変化がある。
 また、変化を構成する要素が重要となる。例えば、売上の推移を構成する要素には、価格と数量がある。一見、売上が乱高下するように見えても価格と数量に分解してみると規則性が現れたりする。

 変化には、内部構造、内部要因による変化と外部環境や状況、要因による変化がある。例えば、売掛債権と買掛債権の構造に基づく運転資金の変化は、内部構造の変化であり、為替の変動や原油価格による変化は、外部要因に依る変化である。
 
 経済は、状態である。個体、液体、気体と物資は、状態は転移する。経済状態にも時系列的変化がある。市場は、経済の状態を制御する仕組みである。

 ボイラーを制御する。ボイラーを過熱し続けたら水が臨界点に達し沸騰してその状態を放置すれば、爆発してしまう。
 ボイラーも空焚き状態を放置すれば危険な状態になる様に市場も過熱し続ければ危険な状態に陥るのは当然である。

 市場にも成長拡大している状態と成熟し、飽和状態がある。その市場の状態に併せて市場の仕組みを変化させる必要があるのである。
 市場は、拡大発展という状態から飽和停滞という状態に至るのである。飽和状態に至ると市場は均衡し、停滞する。しかし、飽和状態いたって均衡した市場が悪いと決め付けるわけにはいかないのである。むしろ、飽和状態で均衡した市場こそ常態なのである。又、財の性格によっても、例えば、生鮮食品のように消費財と自動車のような耐久消費財でも市場の状況判断には、違いがある。

 進化論は、過去の物は全て劣っていて、未来の物は、全て優れている事が前提であるかの様な錯覚を起こさせる。それは、革新や革命神話を生み出し、進歩を絶対視する原因でもある。
 成長発展ばかりが良いというわけではない。現状を維持することが大切な市場状況もあるのである。

 江戸時代には、大火災が経済を活性化させたという説もある。(「江戸のお金の物語」鈴木 浩三 著 日経プレミアシリーズ)復興特需という現象もある。戦争は、経済を立て直す好機だと考える経済学者も多くいるのである。

 地震や、津波、戦争と言った災害が起こると負の方面ばかりに目が向けられる傾向がある。しかし、負の要素があるという事は、正の要素もあるという事を意味する。破壊は、創造の始まり、創造は、常に破壊を伴っている。ヒンズーのシバ神のように、破壊と創造は一体なのである。

 しかし、人の不幸や災難が景気を良くするための手段だとしたら、その様な社会、体制は明らかにおかしいのである。なぜならば、経済というのは、人々を活かし、幸福にするための手段だからである。

 大いなる災難の後、災難を、新たなる世界を築くために天が与えた試練だと前向きに考え直せた時、真の復興は、始まる。被災地の中から希望の光を作り出す事こそ経済の本道なのである。

 失った価値は、新たに生み出される価値の源となるのである。それは資源である。
 復興に一兆円の費用がかかるとしたら、一兆円の需要が、即ち、市場が新たに産まれたと言うことを意味するのである。それが冷徹なる経済的事実である。ただ、災難を災難としてのみ受け止めていたら、未来への希望の本を見失ってしまい。二度と立ち上がれなくなるのである。

 何事も、認識の仕方で変わってくる。物事を後ろ向きに捉えるばかりでなく。前向きに捉えた時、経済は、有効に機能するようになるのである。

 そして、その時何が必要なのか。金なのか、物なのか、雇用なのか。それを冷静に見極めることが新たな一歩となるのである。

 変化や発展のみを善として変化や発展の余地がなくなったら破壊し尽くしてもその余地を作らなければならないと言う考え方がおかしいのである。
 変化のない社会でいかに貨幣を循環させ、また、財の分配を適正なものにするのかも経済学の重要な役割の一つである。

 市場の置かれている状況を見極め、その状況に応じて何等かの処置を施す必要がある。また、主体的に為政者が何等かの処置を講じたいというのならば、市場の仕組みを構築しておく必要がある。市場が何等かの装置でなければ、景気を制御する事は不可能なのである。

 市場の状態は変移する。市場が成長、発展している状態にある時は、市場を活性化する方策を採る必要がある。
 市場を活性化する手段として競争力を活用するのは有効な手段である。しかし、競争力を活用するのは、一手段であって絶対的手段ではない。競争を活性化する手段として規制を緩和するのも有効な手段だが、全てではない。競争を活性化するために、規制を強化する場合もあり得るのである。
 市場の状況というのは、相対的なものであり、絶対的なものではない。必然的に、方策、手段も相対的であり、絶対的な法則など前提とすべきではない。

 開かれた経済空間では、場の状態を一様にしようとする力が働く。その力が経済を動かす原動力となるのである。

 市場が規律を保てるのは、規制に基づく競争によってである。競争から規制が失われれば、市場の規律は保てなくなるのである。

 景気を制御するためには、市場をどの様な状態に保つ、或いは、転移するのかを明らかにしたうえで、それに基づいて市場の仕組みや規制を操作する必要がある。






       

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