1.経済数学

1-10 集合

集まり



 全体は一から始まり、部分も一から始まる。一つ一つが集まって、一つの全体を作る。それが集合である。故に確率も集計されると一となる。百%は一である。

 集合というのは、複数の要素や物の集まりを言う。ただし、今日では、必ずしも複数でなければならないと限定されているわけではない。何等かの全体、集まりが形成される可能性を意味している場合がある。

 集合は、共通した前提条件、共通項によって成立する。この共通項が集合の性格を制約する。故に、何を前提条件、共通項に設定するかによって集合の性格は定まるのである。

 例えば、皿に盛ったリンゴの集まりといった場合、「皿」、「盛られている」、「リンゴ」が前提条件になる。こういった条件というのは、至極当たり前な事、明白な事、疑る余地のない事、誰でも合意できる事である。故に、わかりにくいのである。

 前提というのは、性質や状態、形態、運動、定義と言った分類の為の基準となる事象でもある。

 国民国家は、国民の集合である。国民がいなければ、国民国家という集合は形成されない。しかし、一度、国民国家が成立し、国民が定義されれば、たとえ、国民がいなくとも国家という概念は成立する。

 対象を一つの塊、全体として、その全体を複数の要素の集まりだとするのが集合の考え方である。要素は、物であったり、点であったり、変数であたり、作用であったり、操作であったりする。

 最初に対象を幾つかの塊、集合に分けるというのが、対象を認識、識別するための基本である。その上で、数を抽象する。それが数の概念の原点であり、数の体系の下地となる。幾つかの塊、集合に分ける為の任意の前提がに認識の根本になる。認識は意識を形成する本となる。
 対象を幾つかの塊、集合に分ける。あるいは、対象を何らかの共通点基づいて集める。このような発想から生まれるのが集合である。ここで重要なのは、何らかの共通点を割り出すという点と、分ける、そして集めるという点である。
 この共通点を前提として、分け、集める事によって集合の考え方は、形成される。

 この様な集合の考え方は、現代、あらゆる数学の基礎に位置付けられるようになってきた。

 数の世界の本には、本来、実体的な空間や事象が前提としてある。経済と数との関係を知る上ではこの点が重要となる。
 貨幣経済では、数値だけが踊っている場合があるが、経済活動の本質を知るためには、数値の背後にある実体を明らかにする必要がある。

 まず第一に言えば、数を集合で表すことが基本となってきたことである。その上で関数の概念を集合の概念で表すことが一般的になってきた。

 集合を構成する部分や要素を元という。

 集合や数の本質を突き詰めると存在に行き着く。そして、存在は、貨幣価値の根源でもある。

 ある一定の条件に合致する幾つかの要素の集まりを集合とする。その一定の条件を概念の内包という。その集合の要素、全てを外延という。(「数と計算のはなし1(代数編)」武藤 徹著 日本評論社)

 ある条件を満たす要素だけを全て集めた塊をその条件を満たす集合とする。(「数と計算のはなし1(代数編)」武藤 徹著 日本評論社)

 共通の性格を抜き出すことを抽象という。共通の性格をもつ要素をひとまとめにすることを概括という。概括によって得られた観念が概念である。概念の意味、内容を概念の内包といい、その概念に含まれる要素の全てを外延という。(「数と計算のはなし1(代数編)」武藤 徹著 日本評論社)

 数とは、抽象である。貨幣とは抽象である。言葉とは抽象である。

 自然界には、数も、言葉も、貨幣もない。数も、言葉も、貨幣も抽象である。
 言葉は、何等かの集合を象徴している。ただし、言葉だけでは、数学的な意味での集合の範囲を特定できない。言葉だけでは抽象的すぎるのである。故に、命題によって一定の条件を定義することによって言葉が意味する集合の範囲を画定するのである。

 貨幣は、自然界に存在しない。貨幣は、貨幣価値の単位を象徴している物である。貨幣は、それ自体ではその働きを発揮することは出来ない。貨幣が指し示す対象があって貨幣は、その働きを発揮する。

 数とは、一つ二つと数えられる物を前提として成り立っている。
 量は、単位を決めて測定できるものを総称して量とする。(「数と計算のはなし1(代数編)」武藤 徹著 日本評論社)
 貨幣価値、この数と量から構成される。貨幣は、貨幣価値の単位を抽象する物である。貨幣価値は、交換価値である。

 集合というのは、言い替えると分類することである。つまり、何等かの要素を同一の基準で集めることである。同一の基準とは、一定の条件と言い替えることも出来る。同一というのは、相違を認めることである。つまり、分類するとは、択一的な操作を繰り返すことである。
 また、同一には、共通という要素がある。

 同一と共通、この二つの要素は、会計を考える上で重要な意味がある。

 会計上の分類という操作は、仕訳である。個々の取引の内容を所定の基準に基づいて分解し、仕分けることである。仕分ける基準は、一つは時間的要素、つまり、損益勘定か、貸借勘定か、二つ目は、借方勘定か、貸方勘定か。三つ目は、名目勘定か、実物勘定か。四つ目は、資産勘定か、負債勘定か、資本勘定か、費用勘定か、収益勘定かである。
 名目勘定というのは、貨幣的な勘定であり、実物勘定とは、何等かの実態に基づく勘定である。例えば、借入というのは、貨幣的な概念であるのに対し、現金というのは貨幣という実体を持つ勘定である。
 この仕訳の構造が複式簿記の基礎を形成するのである。

 視点を変えると集合の様相はがらりと変わる。
 例えば、今、両親と男の子、雄犬と雌犬のつがい、雄の子猫、が同居する家族を想定する。この家族を性別で分類すれば男性が4、女性が2である。人間と動物分類すれば、人間が3で、犬が2で猫が1。足が2本の存在は、3で4本の存在は3である。大人と子供で分類すると大人が4で、子供が2。夫婦は2組というように、集合の構成は変化する。
 つまり、集合の構造というのは単一ではない。
 集合の構成を区分する基準は性質である。つまり、集合の構成要素、元は質と量からなる。

 数と量をかけて数量とする。量に数を重ね合わせて数量に変換する。それが価格であり、貨幣価値の量である。

 「お金」は、数であり、人、物、時間は、量である。
 「お金」もつい最近まで物としての実体を持っていた。その頃は、お金も量としての働きをしていたのである。
 貨幣制度が表象貨幣を基軸とするようになってから「お金」は純粋の数として働きをするようになったのである。

 本の価値の本質は、本の内容にあるのであり、本の価格にあるわけではない。
 本は、値段で売れるわけではない。だからこそ、本の定価は、一定の幅の範囲内に収まっているのである。

 貨幣経済は、人、物、金の三つの集合からなる。それぞれが数値的属性をもって独立した部分を構成する。特に、金、即ち、貨幣は、純粋に数学的概念である。

 人と物は所与の空間なのに対し、金は、任意、即ち、人為的空間なのである。

 貨幣は、自然数の順序集合である。
 故に、貨幣経済、中でも会計制度は、数学的文脈の上に形成され、数学的操作によって成り立っている。

 四則の演算が可能な集合を体とする。

 貨幣価値は、自然数の集合である。
 貨幣価値は、群である。

 幾何学的、物理学的、貨幣的な量は全て、スカラーか、ベクトルか、テンソルのいずれかに該当する。この事は、数学と物理学と貨幣経済の融合の可能性を示唆する。

 貨幣経済は、市場取引によって発生し、形成される。市場取引の集合とみなすことが可能である。
 会計制度は、市場取引を前提として成り立っている。

 会計は論理的である。
 手続も、コンピューターのプログラムも、言語の一種である。会計の基礎は、手続によって構成されている。又、会計の手続きは、コンピューターのプログラムに置き換えることが出来る。
 故に、会計は、論理的になりうるし、又、電算化、即ち、コンピューターによる自動処理も可能なのである。

 取引が成立することによって形成される場が市場である。

 貨幣経済は、市場取引を貨幣空間に写像する事によって成立する。

 貨幣価値は、一次式として表すことが可能である。故に、貨幣価値は、線形空間を形成する。

 会計空間はベクトル空間である。

 会計は、自然数の集合である。
 会計は、群である。
 自然数の集合である会計は、体ではない。

 無限の自然数の集合である貨幣価値を有限な価値に置き換える過程で会計は成立する。

 会計の元は、勘定である。勘定は、取引の結果、生じる。
 勘定は、類(class)を構成する。
 勘定は、資産、費用、負債、資本、収益のいずれかに属する。
 言い換えると、個々の勘定は、資産、費用、負債、資本、収益の類を形成し、いずれかに属する。
 又、勘定は、貸方、借方いずれかの領域に属する。
 資産、費用、負債、資本、収益は、会計の部分集合である。

 会計は、資産、費用、負債、資本、収益の集合である。

 資金と会計の関係は、収支と損益として表れる。
 負債、資本、収益の増加は、収入を意味し、資産と費用の増加は、支出を意味する。
 負債、資本、収益の減少は、支出を意味し、資産と費用の減少は収入を意味する。

 現金の出納から見ると社会全体では、収入=支出となる。
 また、借入金=貸出金。これが前提となる。

 収入は、負債と資本、収益に振り分けられ、その上で一旦、相手勘定として資産に集められ、その後、資産の相手勘定として費用と負債に仕分けられる。
 簿記では、借方、資産。貸方、負債、あるいは、資本、又は、収益となる。次に、借方、費用、あるいは、負債。貸方、資産という様に計上される。
 貸方に資産が計上された場合は、資産の減算を意味する。貸方の残高がマイナスになる事はない。というより、マイナスにならないように調整する。借方に、負債が計上された場合は、負債の減算処理を意味する。


 

全体と部分


 数には、一つ、二つと数え上げていく数と、全体を一とし、又、部分を一とし、その比によって成り立つ数がある。数え上げていく数には、際限がなく、全体を一つとする数には限界がある。

 全体は、全体を構成する部分、要素を関連付けられることによって成り立っている。部分や要素を関連付けるのは個々の部分や要素の働きである。全体の働きは、場の力として個々の部分や要素に働く。部分や要素は関連付けられる事によって全体に対する位置と運動が定まる。

 団体生活、集団生活から規律は生じる。

 統計には、記述統計と推測統計がある。記述統計というのは、収集したデータを整理するための統計であり、推測統計というのは、限られたデータ、あるいは、部分から全体を推測するための統計である。

 集合にはいろいろな種類がある。集団も集合の一種である。組織も集合である。牛の群も集合である。

 魚や鳥の群を見るように集合を捉えるといい。魚や鳥の群には形があり、状況に合わせて絶え間なく変化している。その一匹、一匹の位置や運動が全体の形を形成しているのである。その形の平均や分散を求めることで集合の在り方を明らかにしていくのが統計である。

 確率分布には形がある。

 魚の群といっても一つの決まった形があるわけではなく、状況や環境に合わせて絶え間なく変化している。絶え間なくなく変化していながらも群としての構造は何とか保ち続けているのである。この群としての構造を保つためにはどの様な働きが必要なのか。又、群としての構造を維持できなくなったらどうなるのか、そこに集合の働きが隠されている。

 集合は最初は、物の集まりとして捉える。リンゴと牛とか、しかし、物の集まりだけでなく事の集まりとしても集合は捉えることが出来る。そして、それが発展すれば、働きや運動、法則、空間の集まりとしても捉えることが出来る。
 つまり、集合を成り立たせる前提は、何を共通としているか、あるいは、何を共有しているかである。

 集合を定義するためには、対象を特定し、範囲を設定する必要がある。対象を特定とするとは、何を元とした集まりかを明らかにすることである。

 例えば、机の上にあるリンゴとか、日本中のリンゴというように、集合を定義するためには、範囲と対象を、特定する必要がある。

 集合の元とは、集合の全体に対し他とは明確に区分できる部分である。この様な元は、一つ二つと数えられる。この様に数えられる元から数を抽象化する事によって数は形成される。抽象化された数を順序づけることによって数は量化される。

 机の上にあるリンゴを、例えば、リンゴ一つ一つ、白紙一枚一枚に置き換える。その時、リンゴ一つと白紙一枚に必ず対応させる。この様な対応を一対一対応という。白紙を点に置き換えれば、リンゴは点の集合になる。
 次ぎに、白紙だけを集めて一つ一つ別々の数字を重複することなく書き込んでいく。そして、白紙に書いた数字に順序をつける。この様にしてリンゴの数量は、明らかになる。

 明らかになった数量に対し、リンゴ一つの価格、即ち、単価を対応させる。この操作によってリンゴは貨幣価値に換算され、経済的価値を数量化させられる。
 数量化された経済的価値は、演算が可能となる。例えば、リンゴの数量に単価を掛け合わせたり、また、足したり、引いたりすることが可能となる。
 貨幣的価値は、取引によって実現する。取引は認識によって現実化される。即ち、リンゴの単価、或いは、価格は、取引によって決定される値である。
 この様にして抽象化された経済的価値は、リンゴという実体から離れて一つの体系を構成することが゜可能となる。この様な操作によって成立したのが会計的空間である。

 経済とは、経済的な価値のある物や行為の集合だといえる。経済的価値とは、生きる為に必要な物や行為を言う。経済的価値の一部に貨幣価値や市場価値が含まれる。即ち、貨幣価値や市場価値は、経済的価値の部分集合である。

 経済を構成する部分を一つ、二つと数えていくことが経済的全体から数を抽象化することである。そして、数を抽象化した物に順序をつけることによって経済的対象を量として認識する。それが経済の順序集合である。

 会計的集合全体は、財の集合、取引の集合、貨幣価値の集合の三つの部分集合から成る。

 ブルバキは、数学的構造を位相的構造、順序の構造、代数的構造の三つの構造に分類した。(「代数的構造」遠山 啓著 ちくま学芸文庫)

 会計が形成する集合は、対称律、反射律、推移律が成立する。これらの関係を成立させる関数は、取引である。つまり、取引は、操作、働きの集合である。即ち、取引の集合は群を形成する。また、取引の集合は、勘定の集合を形成する。

 会計的空間は、例えば、リンゴや蜜柑と言った財を形成する集合と現金売買と言った取引の形態の集合、そして、リンゴ一個の50円と言った貨幣価値の集合といった部分集合から成る。
 この財と貨幣価値とは、取引を経由して貨幣によって位置付けられ、順序付けられる。また、加法、乗法と言った演算、操作によって代数的構造を与えられる。
 これらの代数的構造は、財と取引と貨幣価値の間に、対称律と反射律、推移律を形成する。
 故に、財と取引と貨幣価値は同値関係にある。

 貨幣価値は、名目的価値をリンゴや蜜柑と言った財の集合は、実物的価値を形成する。

 名目的価値や時間価値は、幾何級数的に変化するのに対し、実物価値には、物理的な制約があり、物理的な制約による限界がある。つまり、実物価値には、臨界点があるのである。その為に、実物価値は、どこかに算術的価値に変質する。それが景気の揺らぎをもたらすのである。例えば、人間が活用できる土地には限りがある。その限界を超えて開発を推し進めれば必然的に環境問題を引き起こすのである。

 この様な会計を構成する集合は、複合構造を有し、要素は、幾つかの次元に分解できる。たとえば、取引は、時間、働き、空間、貨幣価値、財、取引関係と言った部分に分解できる。
 さらに、個々の取引は、対称的な反対取引と一組になって成立し、その関係は同値である。

 正負の概念は、順序と言うよりも方向性が基本にあると言える。(「数とは何か」足立恒雄著 共立出版社)

 負を否定的にのみ捉えていたら、経済問題は解決できない。
 正の世界の混乱は、負の世界を制御できないことに原因があり、負の世界を制御できない要因は、正の世界の出来事にある場合が多い。正の世界と負の世界は構造的に一体なのである。そして、正の世界と負の世界が統制できない原因の一つに正の世界が有限なのに対して負の世界は、無限を基盤にしているという点がある。
 更に、負の世界は指数的、即ち、幾何級数的に変化するのに対して正の世界は、何等かの制約があり、多くの変化は、線形的、即ち、算術級数的に変化する。正の世界は、幾何級数的な変化だとしても、何等かの制約によって限界がある。

 負の世界は、貨幣的な世界であり、名目的な世界である。正の世界は、実物的、実体的世界である。

 貨幣というのは、借用書が変化したものである。つまり、借用書を裏付ける物、借金を保証する物が貨幣価値を保証しているのである。借入の担保は土地であるから、実質的に土地本位制度なのである。

 名目的価値や時間価値は、幾何級数的に変化するのに対し、実物価値には、物理的な制約があり、物理的な制約による限界がある。つまり、実物価値には、臨界点があるのである。その為に、実物価値は、どこかに算術的価値に変質する。それが景気の揺らぎをもたらすのである。例えば、人間が活用できる土地には限りがある。その限界を超えて開発を推し進めれば必然的に環境問題を引き起こすのである。

 また、正の世界は一元的なのに対して、負の世界は、二元的で且つゼロサムを基本としている点である。

 為替はゼロサムであり、相対的だと言うことである。上がる通貨もあれば、下がる通貨もある。
 ゼロサムと言う事は、為替は、正と負が均衡しているという事を意味している。経常赤字の国があれば、対極に経常黒字の国があることを意味している。そして、国際市場全体では常に、総和は0になる事が前提である。
 経常収支と財政の関係は、例えば、財政赤字で、経常収支も赤字という場合と財政は黒字なのに、経常赤字という場合とでは、意味が違ってくる。また、財政も経常収支も赤字だとしても基軸通貨国と非基軸通貨国とでは訳が違ってくる。
 財政が赤字でも経常収支が黒字の国は、交易上に支障をきたすことはない。しかし経常収支が赤字で財政が赤字の国は、物資の輸入に支障が生じる。財政が赤字で物が不足すれば、ハイパーインフレの原因となる。しかし、基軸通貨国は、例え、財政や経常収支が赤字だとしても紙幣をすればその赤字を補填することが出来る。問題は、外貨準備高なのである。外貨がなくなれば、決済に支障が生じるからである。決済に支障が生じれば、海外からの物資の流入が滞ることになり、生活に必要な物資を海外に依存している国は、経済が破綻するリスクが高まることになる。




貨幣価値は、自然数の集合である。


 貨幣価値は、自然数の集合である。
 故に、貨幣価値の性格を知るためには、自然数を定義する必要がある。

 自然数を定義するためには、帰納的集合を定義する必要がある。
 (1)φ∈A
 (2)全てのx∈Aに対してx∪{x}∈Aの二つを満たす集合Aを帰納集合と定義する。(「数学入門」小島寛之著 ちくま新書)

 そして、帰納的集合の中で包含関係において最小のものを自然数とする。(「数学入門」小島寛之著 ちくま新書)
 この事は、貨幣価値の性格を考える上で大変に含蓄がある。

 経済的価値から数字的属性を抽出し、量化した上で、単価と掛け合わせることで貨幣価値は合成される。経済的価値を有する物を財とする。財は、貨幣価値に還元されることによって演算する事が可能となる。
 貨幣価値は、経済的価値を等質化するための手段である。貨幣は、財を貨幣価値に還元するための媒体である。

 経済を構成する要素には、人と物、金がある。故に、経済は、人と物と金を元とした集合である。即ち、経済は、人の集合と物の集合と、貨幣の集合からなる。

 貨幣経済は、貨幣価値の集合である。

 貨幣価値は、極言すると自然数である。故に、貨幣経済は、自然数の集合である。貨幣単位は、数列である。自然数は無限に拡散する。故に、貨幣価値も無限に拡散する。貨幣価値を抑制するのは、人と物の経済である。

 貨幣は、価値の尺度、即ち、価値を表す尺度である。
 貨幣価値の根本は数える数である。

 貨幣価値は、数の構造は、重要となる。
 貨幣価値は、0を含んだ自然数の集合であり、負の数も、小数も、有理数も、無理数も、虚数も含まれていない。その為に、経済数学は、市場経済では、純粋数学とは違う形、体系で数学が発達してきた。それが複式簿記を基盤として会計学である。そして、集合や行列代数、ブール代数が経済数学では重要な意味を持つ。

 会計学は数学である。
 自然数を基礎とした数学だから、四捨五入の様に操作が重要な意味を持つのである。
 貨幣価値は、最終的には、自然数に還元される。それを前提として貨幣価値の演算はされる。それが会計制度の基礎を規制しているのである。
 自然数の順序集合である貨幣価値は、稠密ではなく疎の数列である。

 数の体系は、自然数に負の整数を加えて整数、そして、有理数、有理数に無理数を加えて実数に、そして、虚数を足すことによって複素数というように整備される。しかし、必ずしも自然数、整数、有理数、実数、複素数というように歴史的に発達してきたわけではない。有理数や無理数の存在はかなり古くからあった。それに対して、ゼロや負の数が欧米において認知されたのは、16世紀に入ってからである。

 この事は、経済の歴史を考える上で重要な意味を持っている。又、経済に果たしてきた数学の役割を考える上でも含蓄がある。

 経済は、0や負の数の存在を認知することによって飛躍的に変化した。ただ、0と負の数に対する認知の仕方には大きな差がある。

 0の概念を受け容れる事によって位取り記数法が確立されたのに対し、結局、負の数というのは、簿記や会計には取り入れなれなかった。

 その為に、簿記の基本は残高法であり、加算主義である。つまり、負の実体という物を認めていないのである。
 故に、資産に対して負債を対極に位置させると同時に、その総和を0とするように設定するのである。
 これが今日の経済の原理となっている。
 そこから、勘定や仕訳による計算という簿記独特の算法が考案されたのである。この様な簿記にとって集合や群論の概念は重要な意味を持つ。

 経済に不可欠であり、尚かつ、経済を救うのは群論である。

 負の概念の扱いは、現在の経済でも曖昧であり、禁忌ですらある。負というイメージからくるのは、損失であり、不足である。その為に、負のイメージが伴う負債や費用、損は、悪だとする考え方が支配的である。そして、なるべくなくしてしまおうという発想になる。その為に、負の概念の持つ働きが否定的な扱いしか受けないでいる。それが健全な経済を構築することを阻んでいるのである。

 会計上、右辺と左辺を入れ替えることが可能であろうか。会計上、取引における借方、貸方の総和は等しいことになっている。この貸方、借方の値を入れ替える事が、可能であろうか。基本的には、会計上、負の数は存在しないことになっている。厳密に言えば、負の数が存在しないわけではない。しかし、その場合、その値が存在する位置が問題なのであって負としての働きをしているわけではない。
 会計上では、負の働きは、負の数として表現されるのではなく。正の数として表現される。負としての働きは、その勘定が表記される位置に関係するのである。故に、その勘定が属する族が重要となる。
 故に、会計では、基本的に加算主義であり、残高主義になる。残高も、差額を基とした残高を純額主義、総計を基とした残高を総額主義という。試算表で言うと前者を残高試算表、後者を合計試算表という。

 経済における負の部分を有効に活用としたら、負の部分、即ち、マイナス面ばかり考えるのではなく、プラス面も考えるべきなのである。なぜならば、会計上、経済現象は全てプラス、マイナスゼロだからである。
 企業経営では一般に資産を活用して、収益を伸ばすことを考える。そうしなければ企業の成長は見込めない。費用や借入金をただ、削減することばかりを考えていたら、未来への投資は縮小し、社会的責任も果たせなくなる。
 この事は国家財政も同じである。国家資産を活用して国家収益を計るべきなのである。単に費用や借金を削減することばかりしていたら、資産は死蔵され、市場は、縮小し、経済の成長は停滞して、借金の負担は増すばかりである。
 国家収益という観点から国家財政は捉え直す必要がある。国家も儲けるべき時は儲けるべきなのである。

 貨幣価値は、人的要素の集合、或いは、物的要素の集合と単価の集合(財の単位価格)との積である。即ち、貨幣経済は、人的要素、物的要素と貨幣価値要素の依る線形関数に還元できる。それが貨幣経済の最大の特徴であり、長所である。

 経済とは、余程のことがない限り無限な対象を扱うことはない。だからといって経済を対象とする数学は下等だと決め付けるのは過ちである。

 国家予算と比べれば、我々が日頃扱っているお金など微々たるものである。しかし、それでも限りはある。有限なのである。かつて、石油は、無尽蔵にあると信じられてきた。しかし、実際は、有限なのである。ただ、限界が未知数なのである。

 身近に感じる金銭と貨幣経済全体とが、かけ離れていることによってあたかも貨幣は、無限の対象のように錯覚する。
 人生には限りがあり、自分が使える貨幣の総量にも限界がある。
 その為に、資源にも、お金も無限にあると錯覚しがちである。その為に、貨幣は、本来、比を基礎とした相対的基準であることを忘れ、無限に数え上げられる数値だと思い込んでしまう。そこに、過ちがある。


経済と集合


 貨幣経済下にある我々は、経済というと、即、貨幣と結び付けて捉えがちだが、経済は、貨幣だけで成り立っているわけではない。貨幣経済は、貨幣の集合と人の集合と蓑の集合を掛け合わせることによって成り立っている。
 物には、物の経済がある。物の経済では、物の持つ属性が重要となる。例えば、その物の重量、長さ、体積、属性、状態(固体、液体、気体等)である。

 基本的には、経済的対象は、有限である。ただし、時間軸が経済的基軸に加わると話は別である。経済的対象も無限な要素が入り込んでくる事になる。

 現代数学では無限集合が注目されがちだが、実用からすれば有限集合の方が活用範囲は広い。
 実用性という点からすると有限でコンパクトに纏まった集合の方が使い勝手が良い。閉じた集合の方が始末が良い。

 事業会社は、最初、当座事業を対象としてきた。当座事業は、一回一回、事業の成果を清算してきた。しかし、一回、一回、事業を清算していたのでは、効率が悪いので、事業を継続的なものに置き換える仕組みが作られた。それが株式会社である。その結果として期間損益が成立したのである。
 期間損益が成立することによって事業は、継続的なものに変換され、期間損益は、基本的に無限を前提とすることになる。そこに利益の概念が確立される動機がある。

 指数的な事象や変化は、解析しにくい。故に、変化や事象を線形的な事象に置き換えて対象を分析する。
 それが、会計であり、算術である。抽象数学を重んじる者は、算術を軽んじる傾向があるが、数学と算術は表裏一体となって効果、機能を発揮する。
 実用性ばかりを重んじて、数学の基礎を軽んずるのは間違いだが、純粋な数学をばかりを追究して、算術を軽んじるのも誤りである。

 元々、当座事業というのは、一回限りで清算していたのであるから、利益が累積されることはない。つまり、収支は、線形的な数値である。事業が継続される事によって事業の成果が指数的な数値に置き換わったのである。ここに本質的な差がある。
 指数的な収支は、そのまま活用することが困難であるので、時間を単位期間に区切って会計の対象を線形的に事象に置き換える操作、或いは、仕組みが必要となる。その操作、又は、仕組みが、会計制度なのである。

 経済は、全体と変化する部分と固定的な部分から成る。固定的な部分と変化する部分は、定数と変数、或いは、既知数と未知数といえる。
 固定的な部分は、変化する部分の元となり、変化する部分は、固定的部分に働きを実現する。

 例えば借入金で言えば、元本と金利である。
 元本部分は、金利を成立させるための基礎としての働きがあり、金利は時間価値を付加する働きがある。この双方の働きが機能することによって経済に時間的価値が付加されると同時に、固定的部分と変動的部分の働きによって時間的が保証されることになる。即ち、固定的部分が、変動する部分の変動幅を制限することによって過剰な変化を抑制する働きがある。又、固定的部分は、実体的価値に直接的に結びつくことによって実体以上の貨幣の変動を抑制する働きがある。

 変化する部分を固定的な部分に置き換えることによってレバレッジ効果は、発揮される、その結果、本来、固定的な部分も変動的なものに変質してしまうのである。
 その結果、実体経済と貨幣経済とが乖離する現象が起こり、本来、影であるべき貨幣が、貨幣自体で価値を形成するようになる。貨幣価値は、財と線形的関係にあるべき、一対一の関係にあるべきなのが、累積されることによって指数的に価値を増大させる結果を招く。実体経済の影であるべき対象、本来線形的であるべき対象が、指数的に増大し、それに比例して危険性も増大する事になるのである。そして、貨幣は、一方で、実物市場から閉め出され、他方で、予測不可能な動きをするようになる。又、固定的な部分が流動化されることになる。その結果、余剰の貨幣が市場に流通する結果を招く。

 貨幣は、単位貨幣毎に範囲が特定され、通貨圏を形成する。単位貨幣間の価値の差は、貨幣間の交換取引によって裁定され、決済される。
 貨幣の濃度は一様である。ドル、円、元、ユーロの濃度は同一である。
 貨幣単位は、順序集合であり、可算集合である。

 貨幣価値は、単価と数量に分解できる。単価とは、単位あたりの価格であり、数量とは、人的、物的量を言う。つまり、貨幣価値とは、貨幣と物的、人的価値の積である。

 経済の数学は、抽象的な数学ではなく、現実的な数学である。又、普遍的な数学ではなく。特別性を求める数学である。一般的な数学ではなく。個別的な数学である。

 貨幣の集合とは、作用の集合である。作用とは、働きである。貨幣の働きとは、人や物を陽の働きとすると陰の働きである。陽の働きとは、表に現れ、実際的な働きであり、正の働きである。それに対し、貨幣の働きは、経済の裏で働く、いわば影の働きであり、負の働きである。即ち、人や物の働きを貨幣が作り出す空間に写像する事によって貨幣経済は、成り立っている。貨幣経済が拡大するのに従って正の部分も負の部分も比例して拡大する。

 近代的な貨幣制度が確立される以前は、税は物納だった。そして、市場は現金主義であった。つまり、市場と財政は一体だったのである。この時代の貨幣の働きと現代の貨幣の働きは、本質的に違っている。
 貨幣経済が確立される以前は、租税は、物納、生産財で賄われた。それを市場に供給することで貨幣を獲得し、それによって消費財を手に入れていたのである。この時代の交易は、基本的に物々交換と変わりない。
 この様な物と貨幣の流れをつくるためには、貨幣を市場に予め供給しておく必要がある。即ち、貨幣経済が成り立つためには、貨幣を先ず市場に浸透させる必要がある。

 マーシャルプランの様な所得の転移がなければ、躍動的な物と貨幣の流れは起こらない。

 経済は、配分なのであるから、国内総生産、国内総所得、国内総支出の等式、方程式が重要になる。

 負債の片側には、資産が生じる。これは国家も同じなのである。

自己と対象と集合


 自己は、主体的存在であり、主体は本性である。本性は形相によって表されて対象化される。対象は、客体的存在である。客体的存在は、形相によって認識される。自己は、主体的存在であり、認識主体である。自己は、自己を直接認識できない。故に、自己を外的空間に写像し、投影する事によって自己を客体化して認識する。即ち、自己は間接的認識対象である。

 それが数や関数の根源である。一は、自己の一であると同時、対象の一である。自己と対象とは一対一の関係にあり、この関係が写像されることによって認識は、成立する。そこから数が生まれる。

 数の概念は、数単独に成り立つ概念ではなく。自己と対象との関係や認識上の操作から派生する構造的概念である。これは言語も同様である。故に、数も言語も操作によって成り立っている体系なのである。
 主観的数の観念と対象のもつ形式的属性が結びついた時、数の概念が確立される。

 独立変数とは、主体的変数であり、従属変数というのは、客観的変数である。
 
 貨幣価値があって物やサービスの価値があるわけではない。物やサービスの価値があって貨幣価値があるのである。即ち、貨幣は、従属変数なのである。

 集合の中でも特異な位置にあるのが、単位集合と空集合である。

 重要なのは、単位集合と空集合の働きである。
 
 単位集合とは、一の集合である。一を掛けても本の集合に変化がなく。一で割っても本の集合に変化がない集合である。この様な性格を持つ集合を一の集合、単位集合とするのである。空集合は無ではない、空なのである。

 空集合というのは、即ち、元を何も持たないの集合である。空集合というのは、無次元の集合を意味する。

 空集合は、ゼロではない。
 空集合は一つである。

 空とは、空間の空である。空間というのは、座標軸によって作られた場所を意味する。空というのは、何も存在しないという事を意味しているわけではない。少なくとも場所は存在するのである。空というのは、場所を占有する何物も存在しない場所を意味するのである。

 野球を例にとると解る。
 野球は、ルールによって成り立っている。つまり、野球はルールの集合である。野球は、二つのチームがなければ成り立たない。野球チームというのは、人の集合である。そして、野球の部分集合である。野球には、守備位置がある。つまり、野球は守備位置の集合である。野球は、攻撃がある。野球の打順は、順序集合である。野球は数の集合である。

 この様な野球チームは、人のいない状態では空集合である。又、誰もいない野球場も空集合である。
 しかし、空でも、野球を成り立たせている要素が働いていないわけではない。又、野球を可能とする空間がないわけでもない。
 例えば、人が揃わずに、チームとして成り立たなくても、働きに応じて練習をすることはできる。それに、人がいなくても野球場は野球場である。

 誰もいない野球場。あるいは、ルール上に規定された野球場。それが空集合である。この様な野球場を想定することが可能であるから野球のルールを設定することができるのである。それが空襲号の重要な湯区割りなのである。

 又、一つのチームの基本的要素は単位集合である。九人集まって各々が守備位置と打順に一対一に対応させられれば、チームは成立する。

 数字以外の意味、属性を取り去る。数字は本来無意味である。無意味だから働く。しかし、現実に当て嵌めようとすれば、数字に意味を持たせる必要がでてくる。

 数から意味を取り去る働きがあるのがゼロと一である。数に意味を持たせるのもゼロか一である。極限も無限も一とゼロの狭間にある。

 トランプや麻雀は、数学的な遊びである。特に、集合を理解するためには格好の好材である。しかも、トランプや麻雀は、金銭的な遣り取り、つまり、博打に結びついている。博打の功罪は別にしても、トランプや麻雀は経済的なゲームだと言える。

 博打は、人を堕落させると言うが、博打で身を持ち崩すのは、その人の生き様の問題である。それは借金や格差にも言える。
 人は皆違う。差があるからこそ個性は成り立つのである。個性を尊重するというのならば、差があることを認めなければならない。
 差があるのが悪いのではない。差が大きすぎて個人の力だけでは超えられなかったり、言われなき差によって待遇が違うことが問題なのである。
 しかし、それはトランプや麻雀に罪があるわけではない。トランプや麻雀と賭を結び付け、常軌を逸する行動に走る者に罪があるのである。
 トランプや麻雀を成り立たせている要素と道徳とは、直接的に結びついているわけではない。また、その結果と金銭的な損得と結び付けたから悪いわけではない。ただ、限度や節度を踏み外した者が悪いのである。
 今の経済で重要なのは、損得勘定、適度な格差と健全な借金なのである。損得勘定や格差や借金を否定したら今日の経済は成り立たないのである。少数の不心得者が出たからと言って損得勘定や格差や借金を全て否定してしまうのは行き過ぎである。
 博打を私は奨励するつもりはない。しかし、市場経済を前提とした場合、投機的要素を全否定したら経済は成り立たなくなるのである。大切なのは、投機的要素を全否定するのではなく。その弊害を取り除くための手立てを講じることなのである。

 野球の基数は、9で、底は3ある。試合に出れる選手の数は、9人である。選手は背番号によって認識される。かつては、背番号にも意味があった。一試合、9回を基本として、9回で決着がつかなかったら延長戦になる。一回は、裏表となり、攻守を交互に行う。攻守は、スリーアウトで入れ替わる。スリーストライクでアウトとなる。
 攻撃、即ち打撃には順序、打順があり、それを順繰りに繰り返す。打順は、打順に応じた役割がある。守備には、位置が9つあり、それぞれ役割が違う。
 フィールドは、スリーベースとホーム、即ち、ゼロベースからなる。
 この様に、野球は数の集合である。

 集合の元が複合的な要素である集合で重要になるのは、集合の階層である。

 純粋数学では、集合を無限化することが重要な意味を持つが、経済数学では、無限な自然数の集合をいかに有限化するかが重要となる。

 数は、一般化、抽象化を突き詰めたところに成り立っている。しかし、現実の世界は、特殊化、個別化、具象化された現実である。

 お金には色がないという。言い換えると数字は数以外の属性を持たないという事である。色がないことでお金はいろいろな働きをする。しかし、色がないだけではお金は何の意味もない。つまり、お金は色がないから便利だけれど、お金は色がないだけでは役に立たないのである。
 つまり、最初に色をなくして使うときだけ色づけをする。それが、お金の特徴である。

 貨幣というのは、無意味な物である。要するに、数を表象しただけの意味しかない。図柄や形式に芸術的価値や希少価値を見出す者がいたとしてもごく限られている。

 貨幣的価値と貨幣とを同一視すべきではない。貨幣とは、貨幣価値の尺度に過ぎない。尺度が価値を持つのではなく。
 貨幣的価値とは、貨幣その物を指すのではなく、貨幣が指し示す対象にあるのである。しかも、貨幣価値は、固定的なものでも絶対的基準でもない。貨幣価値は、その時、その時の条件によって変化する。即ち、相対的価値である。貨幣価値は、取引によってその時点その時点で決まる数値である。

 事業とは、いろいろな要素や働きの集合である。
 又、事業は、要素の集合と働きの集合に分けることができる。
 今日のような貨幣経済下における事業を構成する要素の集合は、人の集合、物の集合、貨幣の集合からなるのである。
 働きの集合には、第一に、組織を成立させるための働きの集合、即ち、権限と責任の順序集合、第二に、作業、動作の順序集合、貨幣取引、市場取引による働きの集合がある。

 又、働きを構成する順序集合には、階層がある。



仕事は作業の集合である


 試合の結果は、試合をしてみなければ解らない。
 試合の前に考えなければならないのは、試合に至る過程や道筋であり、試合が始まるまでにしておかなければならないことなのである。
 例えば、練習計画を立て、練習を実行することである。作業には前後の順番があり、順序を間違うと全てをやり直さなければならなくなることもある。又、試合のための準備をすることである。
 会議の結果は、会議をしてみなければ分からない。
 仕事は、幾つかの要素作業の集合である。試合は、試合だけで成り立っているわけではない。会議は会議だけで成り立っているわけではない。事前、事後の処理が大事なのである。

 試合結果はやってみなければ解らないと言うのに、何もしない内から結果ばかりを問題にする。結果を問題にするならまだましであって、捕らぬ狸の皮算用よろしく、自分の都合の良い方に解釈をしがちである。
 しかし、仕事を成功させたいと思ったら、先ずやるべき作業を考えるべきなのである。つまり、作業の洗い直しが大切である。なぜならば、仕事は作業の集合体だからである。

 部分は一つ一つは独立してはいるが、単独では機能を発揮することはできない。
 人は皆、一人一人自立した存在だが、社会では一人では生きていけない。
 野球選手は一己の人間だが、一人では野球はできない。少なくとも九人いなければチームは成立しないし、野球をする相手チームがなければ試合はできない。

 働きの集合は、場と構造を形成し、場や構造を構成する要素、部分を関係によって結び付ける。

 組織は、職務の集合体である。
 職務には、内包的な定義と外延的な定義がある。内包的定義とは、概念的定義であり、外延的定義とは、要件定義である。概念的定義とは、機能的定義、働きによる定義でもあり、要件的定義とは事による定義とも言える。

 多くの人は、一つしか組織はなくて、一度、組織を決めると組織は、固定的なもの、静的なものと思いこんで、硬直的な捉え方をしている。しかし、組織は、状況や環境、段階に合わせて何度も姿を変えるのである。例えば、アメリカンフットボールで言えば、準備段階の組織と試合時の組織は違う。試合中も攻撃の組織体制と守備の組織体制は違う。マネージメントの組織も違うし、管理組織も違う。リーグ全体の管理組織も違う。審判団の組織も違う。いくつもの組織体制が組み合わさって組織全体は機能するのである。

 仕事は、作業の集合であり、作業は、動作の集合である。仕事には、始点と終点がある。仕事は、作業の連鎖であり、作業は動作の連鎖である。故に、動作を辿っていけば、仕事の始点に戻る事ができる。
 仕事は、作業の連鎖だとすれば、作業には、一定の並びがある。作業が動作の連鎖だとすれば、動作にも一定の並びがある。一連の作業の並びは、一つだとは限らない。一連の動作の並びは、一つとは限らない。一連の作業の並びが一つだと限らないという事は、作業の並びは、直列的なものとは限らず、並列的作業の並びがある可能性を示唆している。一連の動作の並びが一つだと限らないと、動作の並びは、直列的なものとは限らず、並列的な並びがあることを示唆している。作業に一定の並びがあるとすれば、作業には、一定の順序がある。動作に一定の並びがあるとすれば、動作には一定の順序がある。作業に一定の順序があるという事は、作業の並びには、一定の規則がある。動作の並びに一定の順序があるとしたら、動作の並びには一定の規則がある。
 作業が全体の仕事の部分だとすれば、作業の集合は、仕事の部分集合である。動作が作業全体の部分だとすれば、動作の集合は、作業の部分集合である。作業が、仕事の部分を構成する要素すると、個々の作業は独立した行為である。動作が作業の部分を構成する要素だとすると、動作は、個々の独立した行為だと見なす事ができる。作業は、仕事の単位であり、動作は作業の単位と見なす事ができる。個々の作業が独立した行為であるとすれば、作業には、始点と終点がある。個々の動作が独立した行為の単位だとしたら、動作には、始点と終点がある。作業が部分であるとすれば、一つの作業には、前後の作業がある。動作が、作業の部分だとしたら、一つの動作には、前後の動作がある。即ち、仕事は、作業の時系列的順序集合であり、作業は、動作の時系列的順序集合である。これが仕事のアルゴリズムである。この様な、仕事の集合体は、自己相似的な性格を有する集合であり、フラクタルな対象である。

 事業は、系統だった仕事である。大規模な事業、系統だった仕事は、組織を背景として成立する。
 組織は、部門の集合である。部門は、人の集合である。組織は、人の集合である。組織を一つの全体とすれば、部門は、組織の部分集合である。部門を一つの全体とすると人は、部門の部分である。部門は、組織の単位であり、人は、部門の単位である。
 組織は、個々の部門が関連して一つの全体としての意思決定をする仕組みである。部門は、部門を構成する一人一人の働きを関連つけて統一された意思決定をする仕組みである。
 組織は、部門が結びつくことによって成立している。部門は、人が結びついて成立している。結びつくとは関連付けられることであり、関連つける力は、働きである。即ち、組織は、仕事の働きの集合である。働きは、権限の集合である。
 組織は、部門の働きの結びつきによって成り立っている。部門の働きは、権限の結びつきによって成り立っている。組織が部門の結びつきによって成り立っているとしたら、部門には、一定の関係がある。部門が、人の関係によって成り立っている。
 部門を構成する単位は、人である。組織を構成する単位は、部門である。個々の人間の能力には、限界がある。個々の部門の働きには限界がある。個々の権限には、境界がある。個々の部門には、境界がある。個々の権限には、範囲がある。個々の部門には範囲がある。部門の決定権には、優劣がある。権限には、優劣がある。部門間には序列がある。権限には、序列がある。個々の部門は階層的な構造を持つ。部門を構成する人には、上下の関係が生じる。組織を構成する部門には、働きに優先権が生じる。これが組織のアルゴリズムである。

 個々の場は、独立しており、場の働きは、一様である。

 全体の方向を左右するのは、個々の要素間の働く力と個々の要素の働き、場に働く力である。組織には、全体の行動規範からくる力と個々の個人の倫理観、人間関係からの力が働いている。この様に組織に働く力が時には、熱狂や恐慌、暴走を引き起こすのである。


会計は取引の集合である。


 会計は、観念的装置であり、数学的装置である。

 収益と費用は、損益分岐構造に、総資産と総資本は貸借構造に反映される。
 収益は、流動資産に、転化される。
 費用は、効用がその期の内に発揮され、資産は、効用が長く持続する。

 負債や資本によって調達した資金を資産に投資して、それを収益によって回収した上で費用を通じて分配をする。
 大事なのは、資産、負債、資本、収益、費用、五つの要素の調和である。例えば、資産が劣化する事で負債との調和が崩れ、その結果、収益が圧迫されて費用に廻す資金が滞り、慌てて、資産を売却したり、或いは、長期資金の調達が困難になると途端に経済は破綻するのである。
 企業経営では一般に資産を活用して、収益を伸ばすことを考える。そうしなければ企業の成長は見込めない。費用や借入金をただ、削減することばかりを考えていたら、未来への投資は縮小し、社会的責任も果たせなくなる。

 商売と経済が結びついていないことが問題なのである。
 世の中には、金を儲けることは賤しい行為だという価値観が根強くある。
 商売は、どこの国でも卑しめられてきた。まるで、取引をすることは犯罪行為であるかの如く見られてきた。士農工商と日本では、商売人は最下層に位置付けられたのである。

 利益をあげることが悪いとされたら、経済道徳など確立しようがない。
 権力者は、金儲けが悪いと言うより、ただ頭を下げて金儲けをするのが厭なだけだ。だから、脅したり、力尽くで金を奪い取ろうとするのだ。
 それでは財政が良くなるはずがない。

 負債、資本、収益によって調達された資金は、一度、流動資産に転換され、集められて、その後、資産、費用、そして、長期借入金の返済に振り分けられる。

 長期借入金の元本は、資産を担保している以上、償却部分以外は、返済を前提としていないと見なすべきなのである。さもないと、利益処分において配当と報酬、税の配分しなければならないという根拠がなくなる。特に税に対する配分は、問題となる。

 取引は、複式簿記上において回転対称である。
 つまり、取引は、取引相手に表れる簿記処理と回転対称にある。例えば、貸方、売上。借方、現金という取引は、相手先には、貸方、現金。借方、仕入として表される。この様に、取引の会計処理と取引の相手との会計処理は、鏡像と関係として表れる。この様な関係を回転対称という。

 会計は、取引の集合である。取引は、勘定の集合である。

 事業は、仕事と組織、会計の積である。

 会計とは、経済的価値を取引という操作を通じて会計的空間に写像する為の仕組みである。

 Aの運動や働きに連動してBの運動や働きが変化する場合、AとBとは関係しているという。AとBが集合である場合は関数という。

 市場経済は、取引の集合である。取引は、物的取引、人的取引、貨幣的取引に類別される。

 取引を分解すると単価×数量、或いは、単価×時間の単位に二つの型になる。

 この事は、物的取引の集合と貨幣的取引の集合の積、物的取引の集合と貨幣的取引の集合の積を意味する。

 この事は市場経済が、単純な貨幣取引上に成り立っているのではなく、人的取引や物的取引と掛け合わせた結果であることを意味している。

 会計現象も、また、取引の集合体である。

 集合において重要なのは、何を対象とし、何を全体としているかである。
 会計を例に挙げると、先ず、会計は、何を対象とし、何を全体とするのかを明らかにする必要がある。それは、何を目的としているのかによって導き出される。

 対象や全体は、範囲と働きによって定義される。範囲と働きは、目的によって規定される。即ち、合目的的なものである。

 会計の目的は、単位期間における費用対効果の測定と評価にある。費用対効果は、労働と分配(報酬)を調和させる目的で測られる。

 会計は、取引の集合である。故に、会計の対象は、取引である。取引は、勘定によって分解され要素化される。故に、会計が直接対象とするのは勘定の集合である。

 故に、会計の元は、勘定である。勘定は、勘定の持つ性質、即ち、属性に基づいて分類される。

 会計上の数値には、物の単位としての数と貨幣単位としての数がある。

 会計上の取引とは、一方に物の集合があって、もう一方に貨幣価値の集合があるとし、その上で、物と貨幣とを交換する過程で物と貨幣価値とを一対一に結び付ける行為を言うのである。

 二項関係が同値関係である時は、二項関係は、類似性を意味している。(「数学入門」小島寛之著 ちくま新書)
 経済では、同値関係を使って集合を類別する操作が基本となる。同値関係によって類別された集合を同値類という。会計の勘定などが典型である。

 取引を類別する為の基準を設定する要素の一つは時間であり、もう一つは、名目か、実質かである。
 故に四分割される。しかし、根本は現金の働きであるから、最終的には現金の流れに至る。

 要素の性質とは、色や、形などがある。又、性質は、要素の位置や運動からも形成される。位置や働きは、関係を生じる。

 勘定は、性格に応じて任意に分類された位置と働きがある。

 勘定の性格は、現金との関わり方や時間価値との関係、利益との関係によって形成される。現金とは、実現された貨幣価値である。利益とは、会計の原則に従って測定された費用対効果の結果である。

 全体の構造を明らかにするためには、全体を幾つかの塊に分類する必要がある。更に、部分に分解していく。分類するための基準は、前提となる条件や目的に応じて決まる。

 更に、目的に応じ勘定は、幾つかの塊に分類することが可能である。例えば、資産を貨幣性資産と非貨幣性資産に分類したり、費用性資産と非費用性資産、流動資産と固定資産に分類したり、費用を固定費、変動費に分類することも可能である。

 会計は、関数である。

 先ず、数量、或いは、単位時間を単価に掛け合わせ、経済的価値を貨幣価値に還元、統一する。その後、勘定(類、class)に仕訳し、同じ類の勘定を加算、合計する。その後、単位期間に配分し、借方、貸方の差によって損益、貸借の残高を計算する。

 会計取引は、認識、記帳、仕訳、転記、集計、決算仕訳と操作されて変換される。

 会計では、先ず、取引を勘定に分解し、分解した勘定を、借方、貸方に仕訳する。次ぎに、仕訳された勘定を資産、費用、負債、資本、収益に分類し、総勘定元帳に転記する。

 会計は群である。会計は、勘定を元とした集合である。勘定は、単価と数量の積によって構成される。会計は、加法、乗法に関して群である。故に、会計は環である。

 数学というのは、対象を抽象化する事によって成立する。集合が数学の基礎として重視されるようになってきたのは、この具象的な対象と抽象化された対象との中間、接点に集合という概念が介在するからである。逆に言うと、集合は、抽象的な概念を具象化する際にも重要な役割を果たしていると言える。

 その典型が会計である。しかし、会計を集合や群という概念で捉えようという試みはまだされていない。それが、会計が数学としての発達を妨げている。しかし、会計が数学的事象であることは紛れもない事実である。

 しかも、会計が現代の経済の根幹をなす部分に位置することも厳然たる事実である。会計を数学として確立しない限り、現代経済、特に、資本主義の実体は明らかにできない。なぜならば、資本主義は会計制度の上に確立されている思想だからである。

 会計は、純粋数学と違い、現実の事象と深く関わっている。つまり、何の力もない数字の塊ではない。会計の数字には、現実の生活に働きかける力が宿っている。
 権利とは、何等かの強制力である。故に、債権というのは単なる数値ではない。債権には、対極に、同量の債務が発生する。この様な債権や債務には、経済を動かす力がある。債権や債務は、数字として表されているだけではない。強制力を持った、場合によっては、人の一生や社会を変えてしまうほどの力を持った数字なのである。

 日常、我々が生きていく為に必要な身近で起こっている細々な事と経済全体という現象とを結び付けて考えるのは困難なことである。しかし、経済というのは、我々の暮らしの延長線上にあることは確かなことなのである。
 集合というのは、経済というのを一つの全体として捉え、その中から、身近で細々とした出来事、事象を再認識していこうという試みなのである。

同型と群



 会計は、代数の一種だと言える。

 数学とは形式である。

 データを分析する時、データが作り出す形にも注目する必要がある。個々のデータの値ばかりに気を付けているとデータの持つ働きを見落としてしまう危険性がある。データ分析をする場合、データの形が重要なのである。
 統計的データの形で有名なのは、正規分布であるが、全てのデータが正規分布として表せるわけではない。データの形が意味することをどう解釈するかは、データ分析をする際の大前提となる。

 数学には、形式不易の原理がある。

 数学には、言葉の定義よりも形が重要な意味や働きを持つことがある。それが構造である。構造は、会計にもある。この様な相互関係の形によって意味や働きを表現する対象を無定義語という(「代数的構造」遠山 啓著 ちくま学芸文庫)。

 第一に、加法の交換法則。第二に、加法の結合法則。第三に、乗法の交換法則。第四に、乗法の結合法則。第五に、分配法則。これらを加法、乗法の公理とする。又、これらは、形式不易の原理とも言う。数の範囲が拡大しても、これらの公理は不変だからである。(「数と計算のはなし(代数篇)」武藤 徹著 日本評論社)

 結合の法則、分配の法則、交換の法則は、群論の前提となる。

 一は、かけた時にかけられた数の値を変えない。(「数と計算のはなし(代数編)」武藤 徹著 日本評論社)故に、乗法の単位元となる。また、0は、足した時に数の値を変えない。故に、加法の単位元となる。
 会計ではこの乗法の単位元、加法の単位元が重要な役割を持つ。

 会計は、自然数の集合に加法と情報を加えた群である。

 会計は、加法と乗法を基盤として成立している。加法と乗法を基礎として減法と除法が成り立っているのである。
 その結果、会計は、基本的に残高主義にならざるをえないのである。自然数を基本とする事で個々の勘定は残高がマイナスになることは、許されない。必ず、個々の勘定は、0か自然数の値がなければ、会計は成立しなくなる。そして、最終的に現金残高に収斂する。
 勘定は、残高が、0を含む自然数であることを前提とした関数なのである。

 構造が内包する構成的方法は、現実の中に対応物を有しない空想的な構成物を作り出した。(「代数的構造」遠山 啓著 ちくま学芸文庫)
 会計は、貨幣の流れが生み出した虚構である。この点が重要なのである。
 なぜ、会計のような虚構が生み出されたのか、と言うよりもなぜ、会計の様な虚構が必要とされたのか。つまり、人間は会計に対してどの様な働きを期待しているのか、その点を明らかにすることが会計現象を理解するためには不可欠なのである。

 会計制度を土台とした市場経済は、虚構である会計と実物経済との間に、名目的価値と実物的価値を生み出す。

 会計制度は、貨幣の流通を通じて金や物を人に分配する仕組みである。
 インフレーションやデフレーションといった貨幣価値を前提にした生じる経済現象は、貨幣が過剰に供給されたり、貨幣の供給が不足したりする事によって生じる。
 市場が会計制度を基盤としている場合、インフレーションやデフレーションの一因には、会計制度が正常に機能しない事も考え得る。

 貨幣経済下では、経済主体は、資金が廻っている間は維持できる。資金が廻らなくなると経営に必要な資源を市場から調達することが出来なくなり、自律性を保たなくなる。最悪の場合、破産する。
 究極的には、会計は、資金を循環させるための仕組みだと言える。経営主体は、調達した資金を循環させる過程で、必要な財の分配を行う組織なのである。
 資産と費用、及び、負債、資本、収益の違いは、資金の効用が作用する時間の差に還元される。最終的には、調達した資金は、消費されるのである。そして、その資源は、収益に還元され、最終的に現金残高によって測られるのである。
 会計上において資金、即ち、貨幣の調達は、負債、資本、収益による。収益が圧迫されれば、経済主体は、負債や資本によって資金を調達しようとする。
 収益の裏付けがない資金調達は経済の循環をおかしくしてしまうのである。

 この様な、貨幣経済を理解するためには、貨幣価値の蓄積性と変動性が重要な鍵を握っている。

 貨幣価値は、錯覚である。貨幣価値は、価値があると思うから価値があるのである。貨幣価値を認めなければ貨幣価値はない。貨幣価値は、無意味なのである。
 貨幣価値は、何等かの対象に結び付けられることによって価値を持つ。
 貨幣と貨幣価値を結び付けることによって貨幣は貨幣価値を持つのである。紙幣は、貨幣価値に結び付けられなければただの紙である。

 貨幣価値があって物やサービスの価値があるわけではない。物やサービスの価値があって貨幣価値があるのである。即ち、貨幣は、従属変数なのである。

 貨幣は価値の一元化をする働きがある。

 貨幣価値は、上に開かれている。国家は、望めば、紙幣を無制限に市場に供給することが出来る。故に、貨幣価値は、上限に限りがないのである。この場合の貨幣価値は、自然数を言う。つまり、貨幣価値は、上に開かれた自然数である。
 貨幣価値は、通事的ではなく共時的である。

 貨幣経済や市場経済を考える時、何と何が等しいかが鍵を握っている。それは、どの様な事象がゼロサムかを意味している。

 群とは、要素の間に何等かの相互関係がある集合である。構造とは、ある仕組みを持った集合である。(「代数的構造」遠山 啓著 ちくま学芸文庫)

 要素間に何等かの関係がある場合を相関関係が成立するという。構造においては、相関関係が重要な意味を持っている。要素間にどの様な関係があるのか、その様な関係は、要素間にどの様な力が働くことによって生じたのかなどを明らかにする必要がある。

 つまり、構造において重要なのは、要素間の関係であり、又、関係付け、関連づけである。
 財政では、この関連づけが制度的に為されていない。それが財政破綻の最大の原因である。

 故に、働きと集合が構造にとって重要となる。
 例えば、野球で言えば、まず、選手の数が九人。守備位置が九カ所。打順が九つ。それ以外に、個々の選手のデータが、選手の数だけ各々ある。その中には、選手の年収も含まれる。それに基づいてチームは経営されていく。
 これらは静的構造である。

 要するに、構造を考える場合、要素間の関係や働きを明らかにすることが大切なのである。逆に言うと構造化する場合は、要素間の関係付けをどの様にするかが、鍵を握っている。
 会計で言えば、数値間の背後にある勘定間の関係や機能をどの様に設定するかによって会計の働きは決定する。
 収益対費用、収益対資産、収益対負債、収益対資本、費用対資産、費用対負債、費用対資本、資産対負債、資産対資本、負債対資本の関係をどの様に構築するのか。それが会計の基本である。そして、その指標となるのが利益である。この関係を理解しなければ、市場の構造や現象を理解することは出来ない。
 そして、これらの関係を前提とした上で、資金の流れる方向と働きを解明するのである。
 その上で、市場の仕組みを構築し、市場に供給する資金の量と方向、金利(時間価値)を操作するのが政府の役割である。

 群とは、操作の集まりである。(「代数的構造」遠山 啓著 ちくま学芸文庫)

 群とは、構造的な集合。群とは、働きの集合である。

 仕事は、作業の集合である。作業は、働きである。故に、仕事は群である。仕事の定義は作業によって為される。
 仕事の定義は、概念的定義、内包的定義ではなく、外延的定義であり、要件定義で為される。故に、仕事を構成する要素は、漏れなく、重複なく、全てあげる必要がある。

 取引を記帳、起票する。仕訳帳に仕訳する。総勘定元帳に転記する。帳簿を締める。試算表に集計する。精算表を作成する。決算書を作成する。納税申告書を作成する。納税申告書を税務署に提出する。これらの会計処理上の一連の作業は、順番と位置と働きがある。このような作業の集合は群である。
 
 操作を施すとき前後の順序を交換することは、一般的に許されない。つまり、可換ではない、つまり、非可換なのである。(「代数的構造」遠山 啓著 ちくま学芸文庫)

 取引は、{貸方|空取引、資産の減少、負債の増加、資本の減少、収益の発生}の集合と{貸方|空集合、資産の増加、負債の減少、資本の減少、費用の発生}を掛け合わせたものである。故に、取引は群である。

 取引は、反対取引を0、空取引、即ち、単位元になる。

 取引は、巡回群である。

 会計上で言うと、貸方は名目勘定で、借方は、実物勘定と言える。
 又、貸方は、資金の調達手段で借方は、運用先だと言える。
 貸方は貨幣的な勘定で借方は実物的勘定。
 貸方は、借金と元金と売上を意味し、借方は投資と費用を意味する。
 貸借は、残高であり、損益は、総量である。
 これらの働きが組み合わさって貨幣経済を機能させているのが会計制度である。

 経済と会計との関係を考える時、勘定の持つ性格や働き、即ち、名目か実物か、或いは、調達か、投資か、又は、損益か、貸借かと言ったことが経済に、特に、資金の流れにどの様に作用するかが鍵になる。
 名目か実物かは、経済価値の均衡に作用し、調達か投資かは、資金の流れる方向を示し、損益か貸借かは資金の回転に影響を与える。

 資本主義国においては、貨幣価値の持つプラスの働きは清算され、マイナスの働きは蓄積される傾向がある。

 貨幣経済や市場経済を考える時、何と何が等しいかが鍵を握っている。それは、どの様な事象がゼロサムかを意味している。

 会計の根本は同型にある。

 数量×単価=貨幣価値
 支払い賃率×実際就業時間=基本賃金
 売上数量×売価=売上
 仕入数量×仕入単価=費用
 これらの数式は同型である。

 収益-費用=利益
 収入-支出=現金残高
 総資産-負債=純資産
 これらの式も同型である。
 
 借入元本+金利=返済金総額
 費用+利益=収益
 これ等も同型である。

 会計を構成する取引は、自己同形群を形成する。

 勘定は、取引によって取引主体と取引相手との境を軸にして回転する。その結果、取引主体と取引相手との勘定は、線対称となる。

 計画や工程、日程、機械の構造や操作、意思決定、スポーツ、これらは、群論として表すことができる。そして、数値化する事も可能である。

 例えば、野球は、回数、アウトカウント、ストライクとボールの数、打順、背番号、塁、守備位置、試合時間、試合数、選手数、審判数、試合数、点数、勝敗、打率、打点、勝率等、ほとんどの事象を数で表すことができる。そして、最後は点数で勝敗が決まる。
 そして、多くが一対一の関係にあり、また、幾つかの集合に区分することが可能なのである。

 機械の仕組みや操作も群論として表現が出来る。その場合、主として個々の部分の位置と運動と関係が、全体の形に及ぼす力が問題となる。

 組織というのは、意思決定の構造である。そして、意思決定を集団で行う際の体系が組織であり、群として表現できる。そして、それは葬式を構成する者の位置と運動と関係が重要なのであり、組織全体の形をどの様にするかによって決まる。

 全体は部分から成る。全体を統御するためには、適切な部分に分割する必要がある。それは、組織の伝達経路や意思決定の過程は時間と費用の関数だからである。
 組織は、生き物である。組織は、人の集合である。人は主体的存在であり、自己完結的な存在である。この様な人は、情報がフィードバックされる事によって自分の位置と働きと関係を知る。
 この様な組織の全体を一つの部分で構成するのは、非効率であり、不合理である。組織は、適正な単位によって分割すべきなのである。
 人によって構成される組織全体も組織単位も主体的存在である。この様な組織単位には、境界線によって内と外に分かたれる。
 そして、組織は、他の組織を敵と味方に識別する。
 この組織関係は、フラクタクルであり、組織を細分化しても同じように表れてくる。
 例えば、国家単位でも、地域単位でも、企業単位でも、家族単位でも表れてくる。全体を一つの単位で制御することは出来ないのである。

 組織上、一人が直接管理できる人数の範囲は、七人が限界で、大凡、五人から七人と言われている。
 また、情報の効率よく伝達できる範囲は、三階層と考えられている。組織の人数は、累乗される。

 税制を設計するためには、個々の税制度の仕組みが経済にどの様な働き、影響があるのか。又、どの様な目的があるのかを明確にしておく必要がある。
 消費税は、所得の再分配には適さない。
 また、税を回転にかけるべきなのか、それとも比率にかけるのか。それによって税の効果や形態が違ってくる。

 組織や予算も群である。

 部分は、全体からなり、全体によって部分は制御される。それが構造である。
 組織の構造も又然りである。

 ブルバキは、数学的構造には、の構造には、位相構造、順序の構造、代数構造の三つがあるとする。(「代数的構造」遠山 啓著 ちくま学芸文庫)

 群の構造で重要なのは、形、形式である。群の中に潜む同じ型、同型をあぶり出すことが数学の基本である。
 会計の内に潜む同型こそが市場経済の構造である。

 手続や礼儀を構成する個々の行為や動作は、本来、無意味である。行為や動作の、手順や位置によって手続や礼儀は意味をもたらされるのである。
 手続や礼儀は、要素間の関連づけをする事に重大な役割がある。
 これは言葉も同じである。言葉を構成する個々の語や音声は意味を持たない。それが、幾つかの語が一定の規則によって組み合わせられ、一定の順序に並べられて、更に、特定の事象に結び付けられることによって意味を持つのである。この様な語の集合が言葉の群を構成するのである。
 職務権限や職務責任は、組織における位置と役割を結び付ける働きがある。

 組織的な仕事の作業にも順番がある。立案する。提案書を作って提案する。決定権者が決済する。執行担当責任者に通知する。指示する。報告すると言った一連の作業の塊によってなる。この様な組織的な仕事も群である。

 組織的な作業は、個々の作業、即ち、時間(日時と期間)、人(担当者や管理者)、金(予算)、物的空間(場所)、働き(作業)、権限、責任といった要素によって構成される。
 これらの要素を関連付け順序付けることによって組織的な仕事は成り立っている。

 組織を構成する個々の要素には、共通の働きと固有の働きがある。組織を構成する部分、要素は、単独では、機能を発揮することは出来ない。
 野球で言えば、一人一人の選手は、ボールを投げる、捕球する、球を打つ、走るという運動は、個人個人で出来るが、ゲームとしての意味は持てないのである。ただ、ボールを投げたり、捕球するだけでは、何の意味もないのである。ところが、試合時間内、フィールド内において守備位置が決められていれば、ボールを投げたり、捕球することには特別の意味が生じる。
 守備位置や打順には意味はない。守備位置や打順にあるのは、働きがあるだけである。
 ただ単純に九人の人間が集まっているだけでは、単なる集団にすぎないが、決められたルールに従って行動すれば、一つのチームが編成される。群とはそう言う集合である。

 そして、個々のチームや試合は同型なのである。

 予算は幾つかの前提によって成り立っている。この前提が違えば、予算の本質が違ってくる。予算というのは、名称にすぎない。
 故に、予算に対する定義は要件定義によって為されなければならない。
 例えば、企業予算と財政予算では前提が違う。ゆえに、企業予算と財政予算とでは本質が違う。企業予算と財政予算とでは前提条件も目的も違うのである。ところが、多くの人は、予算という名称に誤魔化されて企業予算も財政予算も同型な群として捉えている。それが間違いの始まりなのである。
 予算の前提は、支出と収入である。支出と収入をどう均衡させるかが、予算を立てる目的である。予算の前提は、予算を立てる目的によって拘束されている。
 予算で重要なのは、過程である。予算の手続である。
 財政予算も、企業予算も支出と収入を前提してとしている。問題は、財政予算は、支出と収入を結び付けて測る仕組みになっていないのに対して、企業予算は、常に収入と支出を関連付けて計るような仕組みになっている事である。
 企業予算には、支出予算と収入予算がある。財政にも支出予算と収入予算がある。企業予算と財政予算の決定的な差は、財政の支出予算は、前決め確定、法定予算なのに対し、企業の支出予算は、目安、基準だと言う事である。
 支出予算は、投資予算と費用予算とから成る。
 また、企業予算は、期間損益に結び付けられる。
 企業予算は、経費予算と収益予算とは関連付けられそれが評価に結び付けられているのに対し、財政予算は、支出予算と収入予算と評価制度との結びつきがなく、個々独立しているという点である。

 予算は、期待する効果と費用とを結び付ける事によって意味を持つ。
 企業予算においては、費用は、それを費やす目的と効果によって測られる。
 財政は、この関連づけが為されていない。その為に、財政は、全体として部分を制御する仕組みが成り立たない。

 比は思想を表す。同じ所得でも何に、どの程度、お金を使うかこそ、その人の本当の思想を表している。自分の趣味や遊びに金を使うのか、子供の教育に金を使うのか、家を建てる資金を貯めるのか、貯金をするのか、家族で旅行をするのかはその人の思想や哲学を最も反映している。
 自分の稼ぎと使い道とを結び付けて考えられない者は、生活を破綻させてしまう。それ自体、その人の人生観、或いは人格、生き様を表しているのである。何に金を替えるかこそ、思想であり、哲学なのである。

 予算は、比である。即ち、予算は思想である。
 国家収入を何に使うのか、誰が、どの様に決めるのか。それが思想である。
 税制度をどうするのか。社会保障制度にどれくらいの予算を割くのか。軍事費の予算は、どれくらいが適当か。それこそが思想なのである。


集合と構造



 経済を制御する為には、経済現象の変動を正確に予測する必要がある。経済現象を正確に予測するためには、経済現象を引き起こしている仕組み、下部構造を明らかにする必要がある。

 現在の経済予測の使用される数値は、演繹的に導き出された数値ではない。帰納法的に導き出された数値である。それが経済予測は、ひいては、施策を不確実なものにしているのである。
 仮に、飛行機や自動車のメーターが不確実な数値に基づいていたら、運転は危険な行為である。我々は、メーターに示される値が信用できるからこそ、安心して自動車を運転し、また、飛行機を操縦することができるのである。

 経済変動を正しく予測するためには、経済の仕組みの状態が重要となる。つまり、変化を引き起こす要因は何かが問題となるのである。

 集合の構造を規定するのは、前提と関係である。
 前提とは、当該の集合を成り立たせている必要条件を言う。関係とは、集合を構成している要素を結びつけている働きを言う。
 このような集合の構造には、位相構造、代数構造、順序構造などがある。

 中でも、経済現象においては、位相構造は特別な意味をもっており。特に、近傍の概念が重要となる。

 順序関係には、前後、左右、上下がある。時間的な関係が加わるたものが因果、先後である。このような関係によって結びつけられている集合の構造を順序構造という。因果関係も順序構造の一種である。因果関係は、時間的順序構造を制約する。時間の順序構造を性格づけているのが原因と結果である。
 因果関係は、順序構造に時間軸が加わった関係であり、自然現象や経済現象の運動や変化を分析する上には、特に重要となる。
 また、因果関係は、相関関係とも関係してくる。

 現象の多くは、因果関係の連鎖である。因果関係を解き明かすことは、経済の仕組みを明らかにすることでもある。

 時間の関数である因果関係は、時間が陰に作用しているか、陽に作用しているかによっても差が生じる。

 現代の経済学は、結果ばかりを追いかけている。そのために、経済現象の背後に隠されている法則や仕組みが見えてこないのである。その結果、統計や確率ばかりが活用される事になる。

 しかし、工学の分野を見ても解るように、幾何学や代数的な構造を土台として、その検証のために確率統計を活用するのが本来の筋道である。
 確率や統計の重要性を否定する分けてはないが、経済を動かしている機能は、経済の法則や仕組みに起因している。現象の原因に統計的データが結びつかないかぎり、経済を制御する事はできない。
 大体、経済の仕組みは、人工的な仕組みである。つまり、人間の合意に基づく法や規則、規制に基づいているのである。自分達が定めた法や規則、規制の働きや意味を知らなければ、仕組みが有効に機能するはずがないのである。

 計画や組織、仕事には、この順序構造がはたいている。典型は会計である。
 そして、計画や組織、仕事は、因果関係によっても制約を受けている。
 会計では、取引の順序、会計処理の順序が重要な働きをしている。しかも、会計は、循環的順序構造を持っている。この循環的順序構造こそ経済の本質を形作っているのである。

 財政や企業の活動を分析する際、結果として表れた決算数値ばかりを問題としている。しかし、決算として現れる数値は、結果でしかない。重要なのは、結果として表れたとのようなことに起因しているか、すなわち、原因である。その原因と照らし合わせて決算数値を分析した時、はじめて、対策が立てられるのである。そのためには、経営や経済の組織や計画の因果関係を理解する必要がある。

 確率統計というのは、帰納法的な論理によるが、現象は、演繹的な論理と帰納法的な論理の両面から検証されるべき対象なのである。
 帰納法的な検証だけでは、経済を制御する事はできない。

 会計は、本来、法や規則と言った定義や合意に基づく体系であり演繹的な論理によるのである。
 経済現象や経営現象は、演繹的な体系に基づき、帰納法的な分析によって検証するのが本来のあり方なのである。

 :計画や組織は、限られた時間の中で予め決められた作業を順序よくこなすことが求められる。このような計画や組織は、因果関係の連鎖によって成り立っているといえる。

 計画や組織は、動きは、指示・命令に起因している。指示、命令は動機に起因する。
 重要なのは、動機は、投資と事業計画として現れる。根本的に分析しなければならないのは、投資と事業計画に対する結果、それに伴う資金の流れの因果関係である。

 企業経営は、投資が基礎にある。投資の基礎には、資金の流れ、資金をどこから、どのように調達し、何に投入したかが土台にある。

 変数には、原因変数と結果変数がある。
 例えば、経済や会計では、資金の流れは原因変数を形成し、財政や会計数値は、結果変数を表している。

 資金の流れの働きを見る時、資金の働きが何に影響し、影響されるかである。例えば、資金の働きの強さは、資金の流れの速さや加速度の影響を受ける。資金の流れの速さは、資金の流動性や財の鮮度に影響を受ける。資金の流れの加速度は、資金や財の回転周期に影響される。

 経済の変動の要因は、管理が可能な要因か、管理が不可能な要因かが決定的となる。そして、管理が可能な要因は、さらに、直接的に管理が可能なのか、間接的な管理なのかによって分類される。

 規制を整備することと保護主義は違う。規制を整備するというのは、関税障壁を設けたり、罰則を設けることではない。仕組みを整えることを意味しているのである。労働条件を悪くしたりや低賃金で競争力を維持するのは、邪道である。
 規制を整備するのは、不公正な競争をなくすことを意味しているのである。
 スポーツのルールが、特定の選手に利するようなものであってはならないのと同じである。特定の国や人種を差別するようなルールは認められないのと同じ事である。
 ただ、男と女が同じ条件で競うことは公平といえるであろうか。何に差をつけ、何を同等に扱うか、それが問題なのである。

 労働条件のような前提条件が統一されていなければ、公正な競争を保証することはできないし、実現することもできない。
 自動車と人間を同じ条件で競争させてもそれを公正とは言わない。

 スポーツは、表に現れてくるゲームの内容は、単純でも、根底にあるルール、構造は複雑なのである。上っ面に現れる結果を持ってルールをなくしてしまうと言うのは暴論である。それは、スポーツの原則を無視して喧嘩、闘争にしてしまえと言うのに等しい。
 経済における競争至上主義、競争原理主義者には、同様の傾向がある。

 勝者が利益を独占してしまうようなゲームは成り立たない。スポーツは、一人でも、一チームでもできないのである。
 経済の仕組みとは、構造的なのである。そして、その根底をなしているのが会計である。会計の構造は、今日の市場経済、貨幣経済、自由経済の基礎となっているのである。

 会計の構造にも位相構造や代数構造、順序構造がある。

 経済的変化は、変化を構成する複数の要素に分解することが可能である。

 会計上、経済現象は、五つの数値の塊、すなわち、五つの部分集合によって引き起こされる。五つの塊が作り出す形、すなわち、構造が経済現象を生み出している。
 この五つの形を解析すれば、経済現象の謎は解明できる。
 経済現象では、この五つの塊の構造、集合の構造が重要な働きをしている。

 経済現象を理解しようとした場合、会計を構成する五つの塊の働きと、それぞれの関係、また、それぞれの塊が全体に占める比率のもつ意味を知る必要がある。
 そのためには、それぞれの塊が表す量と変化の有り様を知る必要がある。

 会計は、取引の結果の数値の集合である。会計には、代数的構造がある。
 その好例が、損益分岐点分析である。損益分岐点は、収益構造を変動費と、固定費と収益の直線によって表したものである。すなわち、費用を変動費と固定費に分解し、一次方程式に表す。それと、収益も一次方程式として表し、三つの直線を組み合わせることによって収益構造を表すのである。
 このような収益構造は、線形代数的構造を持っているといえる。

 このように、会計現象には、代数構造が隠されている。

 経済で重要なのは、変化の方向と強さ、そして期間である。
 経済の変動によって経営主体や経済は一律の反応をするわけではない。経済の変動の因子、経営主体の置かれている位置や働き、構造といった物で、個々の経済主体の反応は、違ってくる。
 例えば、為替の変動や原油価格の高騰は、一律に全ての経営主体、すなわち、企業や産業に影響を及ぼすわけではない。個々の企業や産業の構造や状態によって違いが出る。その違いによって採るべき施策も対策にも違いが生じるのである。

 変化において重要な働きをしているのは、時間である。変化は、時間の関数だといえる。

 利益の変化は、収益の関数と費用の関数の差として表すことができる。利益も収益も費用も時間の関数である。

 経済的変化で重要なのは、増減である。増減を計る基準は、差と比率である。差は、引き算によって求められ、基本的に整数によって表される。それに対して、比率は、割り算であり、有理数で表される。

 変化は比率によって表す場合と実数によって表す場合がある。
 瞬間の変化は、方向と量を直線によって表すことができる。それがベクトルであり、線形代数である。

 変化は、最終的には、点と線に還元される。なぜならば、方向と量と位置が問題だからである。

 方向は、直線によって表すことが可能である。
 座標空間上、方向を示すのは、座標軸に対する傾きと長さである。

 経済的な変化は、直線的だとは限らない。むしろ、直線的な変化の方が少なく、一定の期間の変化をグラフにすると曲線である場合が多い。

 経済の変化の方向や量を解析するためには、微分や積分は有効であるが、その前に、経済の変化を図形化、すなわち、視覚化する必要がある。その時に、有効なのが、座標とグラフ、関数である。

 微分や積分は、変化や図形に深く関わっている。変化や図形は、座標軸によって形成された空間上に表現する事できる。
 微分や積分は、関数としての表現を前提としている。関数は写像でもある。


       

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