市場の根源は、市場(いちば)である。いちばは、本来は、物々交換の場であった。物々交換では、物と物との比較によって価値は決まる。価値は、絶対的なものではなく、相対的なものである。そして、相対取引が基本である。
 貨幣による価値の抽出。貨幣によって物理的空間から解放され、観念的空間に置き換わった。取引の形態も変化をして。
 価値が貨幣価値に還元されるようになる。

 市場は、自然発生するものではない。市場が発生するには、必然性と必要性がある。市場は、自生的に発達するといった間違った観念があるが、市場は、あくまでも観念的な場、人工的な空間である。何らかの人間の意思が働かなければ成立しない。それは、市場をその働きによって効率よく活用しようと思ったら、人間の意志の力が要求されるのである。

 市場は、自給自足の共同体の限界点で派生する。
 人の集合体が発生し、何らかの目的を共有する事によって共同体が成立すると分業が派生する。分業が一つの体系となって人と結びつくと、組織へと発展する。つまり、共同体の形態が、組織である。本来は、共同体が、所得の分配の担い手である。自給自足体制下では、分配は組織的に行われる。この組織的な分配は、組織の規模に関係する。組織の規模が拡大すると、この分配機構に齟齬が生じる。それが組織の限界点である。
 組織の限界が、共同体の限界である。そして、共同体の限界点で市場は、派生する。言い換えると組織の分配機能の限界点で市場は、派生する。

 分配という働きは、市場経済だけで作用するものではない。共同体内部でも行われている。共同体内部の分配の方が直接的なものである。市場の分配は、間接的な分配である。共同体内部での分配は、共同体内部の力関係によって為される。共同体内部の力関係は、共同体が作り出す場に働く力の法則によって形成される。共同体内部の力関係を具現化したのが組織である。

 市場は、平等である。又は、市場は平等を求める。不平等は、市場の外部にある。市場の機能が最も有効なのは、市場が平等な場である時である。野球選手の能力差の責任は、野球場に帰すことができないように、貧富の格差は、場に責任が、あるわけではない。ただ、場は、格差を正直に反映するだけである。実力の差を反映できる場は、機能的に優れている場合が多い。格差を是正するのは、場ではなく、構造である。つまり、市場を取り囲む社会構造であり、共同体の内部構造である。

 貧富の極端な格差は、市場の活力を停滞させる。貧富の格差が広がると市場は急速に冷え込む。貧富の格差は、市場の規模や密度を小さくする。市場のボリュームを小さくする。つまり、貧困は、消費者の購買力を奪い、市場が生み出す価値を収縮させる。富裕層は、少数であるために、需要は抑制され、同様に、市場が生み出す価値を収縮させる。市場は、本来平等を前提とし、平等を求める。市場の機能を引き出すためには、市場を成立させている社会構造を平等にする必要がある。

 経済の基本単位は、共同体である。市場経済を構成する基本単位は、家計、会計、財政であり、それぞれが、一個の共同体を為している。つまり、家計は、家族を、会計は、企業体を財政は、国家体制という実体、共同体を背後にもっている。この共同体内部の経済を内部経済、外部の経済を外部経済という。故に、市場経済は、外部経済である。
 この個々の共同体の境界線に市場は成立するのである。故に、経済現象を解明するには、共同体内部の構造と市場の働きの、双方を明らかにする必要がある。

 会計制度や税法の改正が経済に重大な影響を与えるというのに、経済学では、全くといって問題にしない。せいぜい言って、増税か、減税かであり、具体的な話には、経済学は無力である。たとえば、立派な市役所を建てる事が、どのような経済効果をもたらすのかについて、市民に納得のいく説明がされた事がない。そのくせ、財政が、破綻する、破綻すると騒いでいる。それでは、問題の解決には、結びつかない。

 現在の経済学の中に市場の外部に存在する経済を外部経済と見なす見方があるが、これは、本末転倒である。

 市場は、生産者と消費者の間に成立する。
 市場は、生産財を媒体として成立する。故に、生産と消費が一対、相対になって市場は本来、成立する場である。どちらか一方が欠けても市場は成立しない。ただ、貨幣経済下では、生産者と消費者の間に貨幣制度が介在するのである。

 生産者と消費者の間で成り立つという事は、市場は、需要と供給によって成り立っている事を意味する。

 市場は、産業に従属している。付随的に派生する。生産財がなければ市場は成立しない。故に、市場は、何らかの産業に付随して派生する。そして、市場は、母胎となった産業の特性を土台にして形成される。

 生産者の評価基準の土台は、費用対効果、原価である。それに対し、消費者の基準は、需要と供給である。そこに、生産者と消費者の意識のズレがある。

 市場価値は、消費者が決める。市場は、プレーヤー(取引の参加者)に場を提供しているだけである。結果に対しては、プレーヤーに責任があるのである。
 生産財があっても、それを欲する者が、要求する者が、いなければ市場は成立しない。市場は、売り手と買い手の取引の場である。市場が、価値を決めるわけではない。

 市場を形成する場には、次のような場がある。第一に、価値の形成の場である。第二に、商品の選別の場である。第三に物資の交換の場である。第四に流通の場である。第五に分配の場である。第六に、決済の場である。

 この様な場にたいし、市場には、次のような、はたらきがある。。
 第一に、価値の裁定である。第二に、需給の調整である。第三に、物流の調整である。第四に、物資の交換である。第五に、物資の集散である。第六に物資の分配である。第七に、貨幣の循環がある。

 貨幣の流れは、逆方向の生産財の流れを生み出す。市場に貨幣が供給されると、貨幣の流れは、逆方向の生産財の流れを生み出し、その流れが、生産財を社会に環流させる働きを持つ。故に、貨幣経済の発展が市場経済の成長を促すのである。

 市場価値は、エントロピーの増大によって平均化、均質化、標準化の方向に向かい、活力は、冷却していく。それは、市場の不活性化につながる。この様な平均化や均質化、標準化を防ぐのは、構造である。

 市場では、時として、必要性よりも、希少性の方が価値を持つことがある。結果的に、必要な物が市場で淘汰され、希少的な物だけが鄭重に取り扱われるという現象が起こる。更に、元々希少的な物資であるために、急速に浪費され、希少的な物も市場から姿を消していくという現象も起こる。これらは、流行に左右されるファッションや食料品業界に往々にして現れ、時には、経済を大混乱に陥れたりもする。俗に、バブルという現象は、この希少価値が以上に高まったことに起因するケースも多く見受けられるのである。

 市場の働きによって確定する価値は、需要と供給によって決まる。故に、そのものが持つ実質的価値と市場価値とが乖離する場合が多くある。むしろ、実質的価値を反映していない場合の方が多いと考えた方がいい。良い例が空気である。空気は、なくてはならない物質であるが、市場価値はない。市場では、使用価値とか必要性よりも、希少性の方が重視される。日常生活や生きていく上で、何の役にも立たない物でも、例えば、高価な宝石や芸術品でも希少的な物となると高価な値が付く。それが、市場である。

 市場には、投機的な力や動きも働く。この投機的な働きが、価値の均質化や標準化をある程度、防いで、市場を活性化する働きがある。

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D 市場の成立と働き