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 現在の経済体制に対する議論の課題は、市場の存在が、是か、非かに収斂するきらいがある。それは、経済において市場問題が、全てであるかの如き捉え方に起因する。しかし、市場は、経済の一部にすぎない。経済問題の全てを市場に帰するのは、市場に気の毒であるし、かといって、市場が何でもかんでも解決してくれると期待するのは、荷が重いだろう。市場の役割は、重要だけれど、市場は、万能でもない。

 貧富の格差の増大は、道義的な意味だけでなく、経済的に見ても、問題がある。

 市場経済は、階級を生じさせるから悪いという論法である。しかし、階級的社会は、市場経済だけが生み出すのではない。その証拠に、市場経済が発展していない時代にも身分制度、即ち、階級制度は、存在していたのである。

 市場は、本来、余剰生産財の捌け口だった。つまり、市場経済は、外部経済であり、内部経済というのは、共同体内部の経済である。共同体は、本来、自給自足体制が基本であり、生産財内部の分配は、共同体内部の序列に基づいてなされていた。共同体内部の序列は、主に、共同体内の力関係と文化的規範に基づいて成立する。共同体は、現在でも生活の基盤である。経済は、生活活動の延長線上にある。故に、経済単位は、この共同体単位に依拠すべきなのである。

 身分制度は、共同体内、共同体間の序列に基づいて形成された。身分制度は内部経済内で発生したのである。故に、階級差別というのは、市場経済が生み出したものではなく、社会構造の必然なのである。問題は、格差が、生きているうちに、超えられない格差であるか否かである。つまり、程度の問題である。

 共同体が、巨大になると分配に齟齬をきたす。公平、公正な分配ができにくくなる。この様な、共同体の逼塞した状況を回避する機能が市場経済にはある。つまり、市場経済には、社会の硬直化を緩和し、より柔軟な体制にする作用がある。身分社会を打破し、自由を実現する機能が、市場にはあるのである。市場は、共同体の限界点で発生する。

 内部経済内で全てが賄えなくなると外部経済への依存が始まる。それが、進むと外部経済が内部経済の内部に侵入して、内在化し、更に依存的になる。最後には、内部経済が外部経済に支配されるようになる。

 共同体内部の問題の多くは、外部経済の内在化によって引き起こされている。つまり、共同体が抱える、代表的なのが家庭であるが、問題は、外部経済が内在化する事によって共同体が崩壊することに起因するのである。家庭の崩壊である。金でわりきれない割り切きらざるもをえないじょうき

 外部収入に依存的な家計構造が、一度、形成されると共同体内の収穫や生産が一定量を割り込むと共同体は崩壊し、外部経済の支配下にはいる。それは、経済単位(共同体、地域コミニィティ、国家、企業、一族、家族)が、他の経済単位に隷属することを意味する。こうして、身分制度や階級制度は、発生し、定着する。故に、市場経済は、身分制度や階級制度の一因とはなるが、決定的な要因ではない。そして、それは、市場の在り方によっては、ある程度防げる問題であり、市場に問題があるとしたら、それは、当該市場の構造的欠陥の問題に帰すべき問題である。

 極端な富の偏在も極端な平等も、市場の働きを低下させ、市場の活力をうばう。

 極端な所得格差は、低所得者の購買力を奪い、結果に、市場の分配機能を働かなくする。
つまり、低所得者の可処分所得の幅を狭め、購買行動の選択肢の幅をなくし、中間財の消費を減退し、結果的に需要が細る事によって、中間財の市場を小さくする。また、富裕層の消費行動には、偏りがある上に絶対量には、限界がある。
 その結果、景気が後退すると低所得者層を増加させ、中間財の市場が狭まる。この悪循環によって市場は、活力を失っていく。
 よい例が、教育産業であり、医療である。教育も、医療も、現在日本では、公立、私立が混在する産業である。国が貧しくなってくると主たる教育は公立に頼るようになる。それに対し、富裕層は、私立学校を作って、独自の教育をする。江戸時代では、それが顕著に現れ、庶民は、寺子屋で読み書きソロバンと言った実利的な技術主体に学び、支配階級の武士は、藩校や昌平校で、歴史と儒教を学んだ。貧富の格差が拡大すると、低所得者層は、最低限の教育も受けられなくなる。貧富の格差が拡大しすぎると、教育そのものが成り立たなくなる。結果的に、教育は、二分され、中間の学校は淘汰される。そして、富裕層や特権階級と低所得者層とは、受ける教育の内容も違ってくる。これは、医療にも端的に現れる。これでは、健全な教育環境や医療環境は、構築できない。また、教育も医療も特殊なものを除いてい成立しなくなる。

 また、富の偏在は、資金の一方向への流れを生み出し、通貨の循環を阻害する。貨幣は、富の集積を促す。貨幣の一方向の流れは、富の一方的な蓄積を促進してしまう。富の一方通行的蓄積は、市場における価値の形成の障害となる。結果的に市場そのものを収縮させ、貨幣と物流の循環的活動を阻害することになる。
しかも、貨幣の流れは、物流と逆方向の流れである。貨幣の循環がうまくいかなくなると、物流も潤滑に流れなくなる。

 金利、地代は、富が生み出す価値である。金利、地代も市場が正常に機能している時は、価値の増殖的機能、市場の補完的機能、補助的機能として有効に機能するが、富の偏在によって市場の機能が損なわれると、それ自体が価値を増幅することになる。また、この様な現象は、富が、富を呼ぶことにより、生産活動を阻害する。

 人間は、社会の中に自分を位置付けることによって、社会における自分の存在を確認する。位置というのは、相対的位置であり、差である。それは、経済的な位置づけだけでなく、社会的、政治的、文化的位置付けもある。しかし、生活という面から見ると経済的位置づけの比重は大きい。

 極端な平等も、財の均質化を招き、購買意欲を低下させる。財の均質化は、人間としても個人差を否定する事である。それは、人間性そのものの否定である。

 市場経済の根本は、個人の購買力である。購買力を支えているのは、消費者一人一人の心理である。人々の心の動きが読めなければ、経済は理解できない。所詮、人間の社会は、人間の集まりなのだ。この様な個人の購買力を支えているのは、個人の好み、好き嫌いの問題である。個人の好みを満たす為には、個体差が必要である。

 社会構造は、個体差を前提としないかぎり組み立てられない。なぜなら、人間は、自分を相対的な差から判断するからである。差がなくなったら、自己と他者とを区別することができなくなる。それは、自己の存在意義を見失うことである。自己は、その他大勢、統計的存在にすぎなくなる。自分の存在は、自分にとってあくまでも特殊な存在なのである。

 所得差、個人差、地域差、商品差(品質、性能、特性、デザイン等)、生産量や収穫量の差が、需要を生み出す。貨幣を循環する力は、位相差(モーターのように)である。需給が、市場の活力である。極端な平等は、通貨の流通を阻害する。

 供給側からも、生産力を低下させる。生産財の均質化は、生産財の相対的評価を喪失させるからである。生産財の必要性を計る基準を喪失し、結局、生産工程に対する消費者のフィードバック機能が働くなる。結果、我慢、我慢の世界になってしまう。つまり、生産財の優先順位が定まらなくなるのである。それは、供給側に生産効率の低下をまねき。結果的に、生産力の低下を起こすのである。

 国家体制というのは、実は、この共同体の在り方に対する考え方に端を発している。市場経済がどうかではなく。国家理念の問題である。それは、自由主義か、全体主義化の問題であると同時に、構造の問題である。厳密に言うと、無政府主義も全体主義も極論であって、最終的には、構造の問題に帰結する。それが、構造経済である。市場の外部経済としての機能を正しく評価した上に、経済構造の中に組み込んでいくこと、以外に解決策はないのである。
 

市場経済