人間は、市場に対し冷たい。
 市場には、神が、宿っていて、市場は万能であり、市場に全てを委ねれば、全て解決してくれるという、市場万能主義、市場原理主義にせよ。諸悪の根元は、市場であり、市場には悪魔が潜んでいるという、市場否定派にせよ。いずれにせよ。結果的には、市場に冷淡になる。つまりは、何もしないか、全てを否定する。どっちにしても、人力の及ぶ処でなくなってしまう。

 特に、最近は、市場万能主義的な思想が、横行している。何でもかんでも、市場経済に委ねてしまえばいい。問題は解決する。民営化論争がその典型である。極端な話、警察も軍隊も民営化してしまえばいいと言わんばかりである。

 この様な暴論の背後には、市場を経済の全てだという錯覚がある。しかし、市場は、経済構造の一部にすぎない。しかし、重要な働きをもった一部である。だから、市場の働きや動きを無視して良いとは言わない。しかし、市場が全体だとも言わないのである。オール・オア・ナッシング的な発想を戒めるのである。
 そうかと思えば、一昔前は、規制、規制と市場はがんじがらめされた。酷い時は、左翼思想によって諸悪の根元は、市場にあると否定された。なにも、市場を否定したのは、共産主義者ばかりではない。多くの宗教家だって、全体主義者や共同体主義者だって否定している。

 市場がなぜ必要なのかというのは、経済的価値は、相対的かつ、変動的基準だと言う事である。絶対的で固定的基準が当てはまらない。故に、経済的価値基準は、絶えず、調整し続けなければならず。そのための場が、恒久的に必要とされているという点である。
 市場を否定するのは、この経済的価値の本質を見落としているからである。そして、だからこそ、市場に求められるのは、この働き、機能なのである。つまり、市場は機能的なのである。

 産業は、生産と消費の過程に生じる。故に、産業は、過程である。その過程の節目に市場は介在する。市場が介在しない産業を非市場型産業と言い、その典型が行政サービスである。しかし、それは、市場が介在しないだけで経済的本質は、同じである。
 過程は、構造によって支えられている。つまり、構造的に産業は維持されているのである。故に、産業は構造的存在である。

 市場は安定を好まない。産業は、安定を望んでいる。この関係は、機能と構造の関係から来る。市場は、働きが重要な要素であり、産業は、構造が重要な要素だからである。
 機能は、安定を望まない。構造は、安定を求める。なぜなら、機能は、働きであり、構造は、関係だからである。そのうえ、機能と構造は、補完的関係にある。相反しながら、お互いを必要としている関係が、機能と構造である。
 このことは、経済政策に重要な要素である。つまり、市場を重視する政策をとるか、産業を重視する政策をとるか、その方針によってとるべく施策は、百八十度違うものになるからである。
 また、市場は、現象に現れ、産業は、構造に現れる。市場を重視すれば、経済は、現象的なものに移り、産業を重視すれば、経済は、構造的なものに見える。しかし、経済の実相は、働きと関係の均衡の上に成り立っている。故に、大切なのは、バランスである。
 
 市場が、なぜ必要なのか。このことを考える時、重要なのは、市場の働きである。
 そして、市場の働きを知るためには、市場に働く法則を明らかにし、経済構造の中における市場の働きを分析し、その上で、市場の構造を明らかにして、それらに基づく市場の位置付けをする事なのである。
 市場の働きが解れば、市場を神のように崇めたり、悪魔のように怖れることはなくなる。市場一つの機構なのである。経済という仕組みの部品にすぎないのである。



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