プロローグ


今日、経済という言葉は至る所に氾濫している。経済という言葉を聞かない日はないくらいである。
しかし、改めて経済とは何かと聞いてみると明確に答えられる人は少ない。少ないはずである。経済という言葉の定義は、未だに明確にされていないのである。
ただ、人々は、意味もわからないままに、解ったつもりになって経済という言葉を使っているのである。

経済の話とは金儲けの話ではない。

例えば、何らかの商売をしていたと仮定して、お客に経営の目的を聞かれたとする。その際、金儲けですと言ったらお客を納得させる事ができるであろうか。経済価値の本質は、消費者、即ち、顧客が何に価値を見いだすかによって決まる。確かに、消費者が何に価値を見いだすかは、その時の経済状況に左右される。だからといって価格だけに価値を見いだすという前提に立ったら、経済の本質を理解する事はできない。経済的というのは、兎に角、安ければいいというのではない。

経済的とは、効率だけを意味するのではない。節約や、倹約という意味もあるのである。

経済とは、生きる為の活動である。故に、経済政策の目的は、人々を生き生きと生きる為の施策を行う事である。
経済の目的は金儲けであるわけではない。
ところが我々は、いつの間にか金に支配され、経済は、金儲けの手段だと思い込むようになってしまった。
挙げ句に、金儲けの為ならばどんな事をしても許されるという風潮に支配されてしまった。今では、金儲けが総てであり、道徳心まで売り渡すような事まで平然とするようになってしまった。
そして、お金儲けが上手な者を成功者と讃えるようになり、金儲けの為ならば手段を選ばないようにさえなってきた。
オレオレ詐欺のように、金を儲ける為には、年寄りのなけなしの金をだまし取っても痛痒とも感じない若者を生み出すのである。
又、金の為に平然の人を殺す人間もいる。
金の為に戦争を起こす国も出る。
金は総ての不幸、悪の根源のようにすら見える。そして、その金に纏わる事を話す事が経済の問題を語る事のように現代人は錯覚している。
経済とは金儲けの事であるかの如くである。

しかし、経済本来の目的は、人を生かす事にある。
人を人として生き生きと生かす事に経済本来の目的はある。

人は人である。木石ではない。
人それぞれに夢や希望がある。
生きるというのは、ただ単に生物学的な意味で生きるという事だけを意味しているわけではない。
生きるというのは、人として生きるという意味がある。
だからこそ、経済の話が重要となる。

人の集団は、生きられない状況に追い込まれると争いになる。
それは生物として必然的な行動である。
争いを避けたければ、生物学的に生きられないような状況環境にしない事である。
それが経済の話である。

同じ物を食べ、同じ服を着て、同じ家に住めば、人々は納得するのか。
物事はそう単純ではない。だから経済の話は単純な話ではない。
第一に、人は皆、違うと言う事が前提である。第二に、同じ環境の中で生きているのではないという事も前提である。
人は皆違うという前提は、第一に、身体的に差があるという事。第二に、年齢的な差があるという事。第三に性別的な差があるという事。第四に、能力的な差があるという事。これら物理的な差の他に、思想信条や人種、民族、国籍と言って文化的な差がある。
又、環境的な差がある。熱帯すむ人と寒冷地に住む人では、食べる物にも着る服にも住む家や光熱費に差が生じるのは当然である。

人間一人ひとりの固有の差に応じて如何に公平で公正な資源の配分を実現する社会を建設していくのか。それが経済の最大の課題である。

人の経済は、人として生かす事を実現させる事を目的としている。ただ生きればいいというのだけでは済まされないのである。
だから、人の経済は、人の持つ欲望や情念と言った生々しい現実に基づいて考えなければならない。だからこそ、経済は現在を直視する勇気がなければ研究する事はできないのである。人間の持つ暗部、汚いところを無視しては経済は成り立たない。それが経済を汚い問題を扱う事のように錯覚をさせる。
それがお金に結びついて、お金はあたかも人間の暗い部分を作り出しているかの如く思い込んでいる人達が沢山いる。
しかし、お金は道具である。お金は交換の手段に過ぎないのである。仮にお金に汚い部分があったとしても、それを作り出しているのは人である。金が汚いわけではない。
お金を片一方で、万能の力があるかの如く崇めながら、もう一方で薄汚い物として蔑む。しかし、お金には、そんな力はない。お金に執着するのも、お金を蔑むのも人なのである。人の情念なのである。お金によって身を滅ぼすのも人故なのである。
人が金に感情移入しているだけなのである。
人を不幸にしているのは人である。しかし、経済本来の目的は人を不幸にする事ではない。

要するに、経済というのは、絶対的多数を如何に幸せにするかの施策や技術を話し合う事なのである。
この事を理解せずに経済とは何かを検討するのは、意味のない事である。

どんな生き方をするのか、どんな街や環境にすみたいのか。それを明確にしていかないと経済の話は成り立たないという事を我々は理解しておく必要がある。

人の諍いの本には、資源の配分の問題が隠されている。獲物を獲得する時には、人々は一致協力するが、分け前の取り分では誰も納得しない。誰だって自分の取り分は、他の者に比べて少ないと感じる。経済の大本は、分け前に対する不満にある。皆が納得する様に獲物や収穫物を分け与える為にはどうしたらいいのか。それが経済である。そして、数学も又同じ動機で生まれた。
それ故に、経済と数学は分かちがたく結びついているのである。

経済は金儲けの事ではない。
経済の問題は、如何に生きるべきかの問題なのである。
その根本から離れたら、経済を正しく理解する事はできない。

東京では、新しい街作りが進んでいる。
古くからの街は、打ち壊され、破壊されていく。
超高層ビルが建ち並び、超高層マンションに人々の人気は集まっている。

私が気になるのは、新しい街に人々の息吹や生活の臭いがしない事である。
朝は、街の人達は玄関前で打ち水をし、通り過ぎる人に「おはようございます」と声を掛ける。
夕方には、カラカラと街を散策して小粋な店を見つけたら、一杯ひっかける。
先頭は、街の社交場であってその日の出来事はいつの間にか人々の間に伝わってしまう。
隣に困っている人がいたら助け合う。
義理と人情が絡み合った世界。
「儲かりまっか」と言い、「あきまへんな」と答える。
鬱陶しいけれど、そこには人々の絆があった。
向こう三軒のおつきあいが成立していた。

確かに安くて効率的かもしれないが、店員は警備しかいない大きな倉庫のような店が古くからの商店街を枯らしている。
店員が誰もいない大きな倉庫のような店の周りを失業者が取り囲むような町を誰が望むのだろう。
そこには、人と人との繋がりがない。人間関係が生じないのである。
街作りに思想が欠如しているのである。

生まれて、結婚をして、子供を産み育て、住む家を建て、そして、老いていく。
それが経済なのである。

それが今では、高層マンションでは、隣に誰が住んでいようと無関心である。
高層ビルにある店は画一化された空間でしかない。

その一方で、年寄りの孤独死が話題になる。
一人住まいの高齢者が増えるばかりである。

高齢者問題と言ってもそれは制度を整える話と設備の話でしかない。
老いの時間をどう生きて、どう過ごすかの問題ではない。
歳をとると言う事は、人生の問題ではなく、お金の問題になってしまったのである。
経済は家族の事であり、男と女の問題であり、欲望や情念に問題なのである。
本音の問題なのである。

経済は、元々、生々しい事なのである。
人間の生き死にに関わる問題なのである。
斬れば血の出るような問題なのである。
経済の話は世間の話なのである。

一体どんな生き方をし、どんな街に、どんな人々と生活していくのか。
経済の話とは、お金の問題を議論する以前に、人生を語る事なのである。

人は、猫に小判、豚に真珠と猫や豚を侮るけれど、猫や豚は、小判や真珠の為に仲間を殺めたりはしない。ならば、小判や真珠の本当の価値を知っているのはどちらなのだろうか。
現代人は経済について語っているつもりになっているけれど、本当に経済について語っていると言えるのだろうか。



       

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