88、高齢化社会


利益ばかりを追求して豊かさを追求する事を忘れてしまっのです。だから、貧しくなるのです。
豊かさを追求すれば、おのずと技術は進歩します。技術の進歩ばかりを求めても虚しい。技術だけを進歩させても豊かさには結びつかないからです。
安さばかりを追求しても品質の向上には結びつかない。安さを求める動機は、量販だからである。品質の向上を目指すならば、それなりの価格を求める必要がある。価格の維持が出来なければ、品質やサービスの向上には結びつかないからです。

どんな仕事でも、この国をよくしたいと言う志さえあれば、挫折などしない。資本主義精神で間違いがあるとしたら、合理的利己心で人間は、経済活動をするという点です。利己心で行動するわけではない。自己実現を求めて生活するのです。私利私欲だけで人は生きているわけではないし、それは神の意志でもない。

事業は、人が求めるところに成り立つ。金儲けのために、誰も住むあてのない家を建てても、誰も行かないところに道を通しても事業は成り立たなくなり、結局、虚業になってしまうのである。
高齢者社会と言いながら、なぜ、高齢者市場が整備されないのだろうか。高齢者を相手に金儲けをしようと言うのではない。高齢者が安心して取引のできる市場を整備する事で、より豊かな老後を生きてもらおうというのが本旨だ。
高齢者の蓄えや年金目当ての詐欺や犯罪が後を絶たないのは、高齢者市場が確立されていないからである。

財政も家計も現金主義、即ち、単式簿記の世界です。

経済単位は、相対的単位であり、収益と費用、資産と負債、所得と支出、借金と利息、需要と供給、生産と消費、全体と部分、前期と当期といった様に相対的な関係から導き出されるものです。

経済は、本来、相対的単位によって測られるものです。それが、財政や家計は、単式簿記です。単式では支出は支出、収入は、収入でしか測れない。つまり、現金主義、単式簿記では一方向の働きしか測れない。
年金も、支出だけを問題としているから解決できないのです。年金機構は、金融機関の一種です。年金は、預り金です。金融機関で預り金によって利息分まで支払うのは違法です。つまり、犯罪です。だから、金融機関では、元本と運用益とを明確に区分している。利息分を元本で支払つつけたら、枯渇するのは、時間の問題です。だから法的に禁じている。
利息は、運用益から賄うのが規則だからです。年金事業と言うのは、ある意味で恵まれている。超長期の積立定期預金みたいなものだからです。
運用益は、収益であり、預り金ではなく、資本に蓄積する事もできる。

負債や資本として調達した資金を生産手段である資産に投資して、収益に転換し、収益から費用を引き出して分配を実現したうえ、収益から費用を除いた余剰収益である利益を資本に畜帰して長期負債や資本の返済原資とする。この一連の過程によって資金の還流と分配、生産を促すのが、経済主体の役割なのです。

ところが現金主義でしか評価できない年金は、支出を支出としか考えられず。収益を測る事が禁じられている。民間では、違法なのにです。
収益を支出の対極としてとらえれば、高齢者向け事業によって年金を回収する事だって許される。そうすれば、預り金は、収益に変換される。そうすれば、資金が循環し、年金が破綻する事はない。
また、年金を支出しっ放しにすれば、それを狙ってオレオレ詐欺ややくざのよう悪党が暗躍するようになる。年金の目的は、働けなくなった高齢者の生活を保護する事にあるのに、利益ばかりを追求したら、その目的は失われてしまう。

日本は、成熟化し、高齢化社会に突入しつつあります。なにか、少子高齢化は、悪い事と決めつけている風潮がありますが、本当に、少子高齢化は悪い事なのでしょうか。
貧乏人の子沢山と言う言葉があるように、少子高齢化は、社会が豊かで成熟した証拠でもあります。

かつては、人口爆発が危惧され、だからこそ、我が国でも人口抑制策が採られ、中国でも一人っ子政策が採られたのです。今だって人間が多すぎるのです。
人口が減少するというのは、決して悪い事ではない。ただでさえ人口密度が高いと言われてきた日本です。狭い家を広くしたり、子供たちが自立していったら家を改築して広く使えるようにする。

なくなった父も庭付きの家を生涯の夢にしていました。人口が減少しているのに、敷地面積が狭くなるようでは、何かおかしい。
住宅の質を上げる事が重要で、量を増やすのはかえって無駄になる。

老後の生活を充実したものにする事が目的なのです。単に、制度や設備を整えればいいという問題ではない。
最近の年寄りは元気なのです。働かなくていいと言われた方が酷である。

日本人は、豊かさの基準を単にGDPだけで測ろうとしています。しかし、ただ規模だけを求めるのは、空疎です。本来、人口が減少して来たら、全体ではなく。一人当たりのGDPをこそ見るべきであり、その内容や密度を高める事を考えるべきです。名目的なGDPばかりが伸びても実質的なGDPは、伸びないので意味がありません。

成熟社会では、インフラの老朽化が進みます。そうなると新規、新設よりも、保守保全が重視される社会へと変化していきます。つまり、量から質への転換です。
いえも人口の減少に伴って空き家、空室が増加するのは明白です。しかし、高齢者にとって建て替えや新築は、財政的にも肉体的にも無理です。だとしたら、高齢者が住みやすいように改築していく事が重要になります。
人口減少が前提だというのに、超高層マンション等を煽るのはただ、空室を増やすだけでバブルの二の舞になるだけです。中古住宅市場の整備こそが求められることです。

成長型経済から成熟型経済の変化は、生産効率から消費効率への変化でもあります。
金融機関も企業向け金融から消費金融へとシフトし、もっと消費者金融に力を入れるべきなのです。消費者金融は、無規制だったために、悪徳金融がはびこり、一般の印象をひどく悪いものにしてしまいました。しかし、本来の消費者金融は、もっと身近で、もっとでかるなもの、安心して利用できるものであらねばなりません。特に高齢者社会になれば、認知症の恐れや、収入に限りがありますから、高齢者のためになる金融でなければならない。貯蓄は、高齢者の方が持っているのです。それがタンス預金にならないように社会を整備していく必要があります。投資も高額投資ではなく、身の丈に合った投資を親身になってする事です。
心無い金融が金融を腐らせるのです。

高齢者の行動半径は限られ、一定の範囲に買い物や公園、病院などがまとまったコンパクトな中堅都市を整備する事です。
その為には、商店街の活性化が鍵です。それには定年後のサラリーマンが趣味と実益を兼ねてできるような市場を作る事です。
外人観光客が求めるのは、京都か、東京か。
癒しがあり、潤いのある街づくり。無味乾燥な街ではなく。散策や散歩がしたくなる街づくりが求められていると思います。

大学を集約して効率よくする必要があります。今の大学は、学問をする場所ではなくなりつつある。要するに、専門学校みたいなものです。ただ、大学の数を増やすだけでは、質の低下を招くだけです。量より質です。今日、都市には学園都市が重要な役割を果たしています。地方の中核都市として学園都市を計画的に配置するの事が重要です。その為には、大学の統廃合が求められます。欧米における学園都市の働きを軽視すべきではなく。地球的なネットワークのなかで核心的な役割を果たせるようにすべきです。

街づくりは、思想です。どんな街を作るか、都市計画こそ国家構想の原点です。そして、都市計画こそ哲学を具現化したものなのです。
日本の都市が無味乾燥で、無秩序なのは、日本人に思想がない。あるいは、無政府主義的だからです。
都市建設こそ、市民が担い、コミュニティのインフラストラクチャーを作り上げてきました。広場核にして教会や学校、市役所、裁判所、警察などを造り、それが国家制度の基盤となる。それが市民社会です。今の日本人、秩序や規律を真っ向から否定している。それこそが今の日本の現状なのです。

人々集まり、憩い、そして、助け合って生きていける場、生きがいのある場を築く事にこそ豊かさの本質が隠されていると私は、思います。



       

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