47、人・物・金



確かめようのない事をあたかも自明な事として論理の前提とするのは、経済学の悪しき伝統である。
需要、供給と言っても何を前提とし、どの様な事を指して言っているのか判然としていない。何を需要と言い、何を供給とするのか、その数学的根拠を明確にし、定義すべきなのである。
物理学は、直接計測しようのない事は、自明な事とはしない。経済学において直接計測できるのは、統計である。ゆえに、経済数学は、統計を基礎としたものにならざるを得ないのである。

経済空間は、人、物、金を座標軸とする事で物理的空間と類似した空間を構成する事が可能である。
人と物には制約がかかり、お金は、人と物との関係から相対的に定まる。ただし、数値は上に開かれている。
例えば、人の制約とは人口による制約であり、物の制約は、生産量といった物理的制約を言う。しかし、貨幣価値には上限がない。人と物の数の体系は閉じられているが、貨幣価値の数の体系は上に開かれているのである。

人、物、金の三次元に時間軸を加えた四次元を想定する事で経済空間は形作られる。即ち、人的な距離、物的な距離、貨幣的距離、時間的距離の集合が経済空間を構成するのである。
人、物、金が作り出す三角形、空間が経済の基礎を構成する。
仕事の量、必要とされる物量、そして、所得によって構成されるベクトルが経済変動の方向を定める。

そして、人・物・金が作り出す空間は、生産から消費に至る過程で個々独立した次元を構成する。例えば、生産による空間は、生産量、雇用、所得によって成り立つ。消費による空間は、消費量、消費人口、費用によって成り立っている。

経済的な問題は、全体と部分の不整合によって引き起こされる。
人と、物と、金の歪が経済を狂わせるのである。

経済の実体は、人と物にある。
お金は、分配のために人と物を媒介している道具に過ぎない。
実体である人や物にはも限りがあるが、媒体である「お金」には、上限がない。
経済現象の根底には、人と物がある。必要な物を必要な人に分配する機構が経済の仕組みである。経済の基本を構成するのは、人と物である。
貨幣現象は、その表層に現れる。しかし、最終的に経済の実体を動かしているのは、人と物である。経済の本質は、生産財をいかに人々に分配するかであり、経済の仕組みは、分配の仕組みである。
分配するためには、必要とする人と必要とする物とが均衡する事が求められる。人としての資源から生み出された価値と生産された物とをお金を仲介して交換するのが市場である。

確かに、景気は、貨幣的現象として市場の表面に現れてくる。しかし、経済を貨幣的な現象、貨幣的な局面からだけ見ていても解明することは不可能である。
経済の根本は、人が生きるための活動である。何らかの対価として所得を得て、生きるために必要な資源を市場から得る事で経済は成り立ているのである。お金がすべてなのではない。表に現れる貨幣的現象の背後には、実物経済が潜んでいる。消費量と人口が価格の方向を定める。

結局、経済は、消費者が何をどれくらい必要としているか、消費者が必要としている物をどの様にしてどれだけ生産をし、必要としている人に必要としているだけ配分するためにどうしたらいいのかの問題なのである。
それがいつの間にかお金の問題にすり替わってしまった。すり替わってから経済の本質は見失われ、「お金」に振り回されることになったのである。

経済で用いられる単位は、物理的単位と違って一意的に求めらる事ではない。なぜならば、経済単位には質があり、経済単位では密度が問題となるからである。

カギを握っているのが平均単位消費量と分散である。
生きていくために必要な絶対量が確保できれば、本来経済は成り立っていけるはずである。問題は分配にある。
所得の平均と分散と消費量の平均と分散が均衡がとれているかどうかの問題なのである。所得と消費の均衡が保てなくなった時、経済は制御不能に陥るのである。

貨幣は、交換価値を一元化するための媒体である。交換価値は、貨幣によって一元化される。
ただ単位時間、単位人数、単価、単位生産量は一意的に定まるのではなく、平均値や中央値のような代表値に基づいているし、偏りや分散にも左右される。

市場規模を制約するのは、貨幣ではなく、人と物である。
なぜならば、貨幣は、数値であり、実体を持たず、無限だからである。それに対して、人と物は、実体を持ち有限である。故に、市場規模を制約する実質条件は、人と物によって形成される。

貨幣単位は量でしかない。それに対して、人や物は、量と質からなる。故に、実体的経済には、質量、密度がある。

経済の実体を理解する上では、この密度を理解する必要がある。

第一に、物や人は有限であり、上に閉じているのに、貨幣は、上限に限りがない。貨幣に上限がないという事が、景気が通貨の動きに振り回される原因の一つである。
第二には、全体と部分の不整合にある。個々の産業によって価値の尺度に差があるという事である。
部分の不均衡が全体の構造を不安定にするのである。不合理な格差が拡大すると消費が不当に歪められる。その結果フローとストックの均衡が破られることがある。
芸能人やスポーツ選手が他の労働と比べて高い報酬を得るのは、産業構造の違いによる。低い単価でも集客力が高ければ、高収入が得られる。この様な格差の偏りが異常に高くなれば、消費構造も歪める。
第三には、生産手段、所得構造、消費構造に質的な差があると言う点である。一人ひとりの所得は、個人の生活の必要性と一致しているわけではない。
お金が必要としている時に必要なだけの資金があるとは限らない。この様な不均衡によって景気は、影響を受けるのである。所得格差が以上に広がると消費構造を歪めてしまう事になる。その典型が、バブルという現象である。金余りが嵩じると必要以上にお金がストック市場に流れ込み資産価格の高騰を招き、投機が実需を押しのけてしまう事態が起こる。
第四に、市場の競争に依存すぎている点がある。重要なのは、適正な価格であって、安ければいいとか、競争力だけを追求するのは間違いである。つまり、制度的不整合によって景気の変化が増幅される例である。
逆に寡占独占状態になると適正価格の形成ができなくなる。
経済は、合目的的行為であり、目的を失った競争は有害なだけである。経済の目的は分配である。
第五に、局所的な変動が全体的変動を増幅する。オイルショックのように一部の財が極端に品薄になったり、高騰した場合、物価全体が抑制を失って高騰してしまう現象である。

所得、生産、消費、人口、金融(負債と資本、収益、貯蓄)の構造と分散と偏り、平均が経済の動きを決めている。

必要な財を分配する手段として用いらわれるのは、今日では貨幣である。貨幣は、何らかの対価によって個々の個人に配られる。自分の手持ちの貨幣によって人々は、市場から必要な資源を調達するのである。

問題なのは、貨幣を手に入れる為の手段も、財も、生活も均一ではないという事。また、生産手段も均一に分布しているわけではない。また、生産手段の質も均一ではないという事である。

労働の質は均一ではない。労働の質が均一でないから、対価としての報酬、所得も均一にはならない。
労働の質には差がある。労働の質は、職種によつても違いが生じる。例えば、単純肉体労働と技能労働、知的作業、管理作業とは質的な差がある。均一、一律に扱う事はできない。
また、労働を何によってどの様に評価するかによっても、労働にの質には違いが生じる。労働の成果、品質や労働時間によっても差が生じる。

「お金」は、観念の所産であり際限がないが人や物は物理的な制約を受けている。故に、確かな存在としての人や物を元にし、それに貨幣単位を重ね合わせる事で変化の実体をとらえるようにしないと経済の核となる部分を見誤ることになる。
人が食べられる量には限りがあり、食料の生産にも限りがあるが、人が食べ物に払う「お金」には限りがない。
だから、「お金」で食べ物の価値を計れば際限がなくなり、不確かである。しかし、人間が必要とする量は有限であり、確かである。限りがなくて不確かな事を基礎にして予測を立てても確証は得られない。



       

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