63、景気対策



経済政策の根源は、都市計画にあると私は考えている。
都市計画の根底にあるの思想である。
何を都市の中心に置くか。都市の機能を何に求めるか、それによって都市計画の在り様は違ってくる。
何を都市に中心に置くか、都市の機能を何に求めるかを決めるのは、思想である。
だから都市計画の根底にあるのは思想である。都市計画の在り様は、都市の政治体制をも外形的に左右する。ゆえに、都市計画は、市民にとって死活問題なのである。
住環境は、人々の生活をも規制する。市民は、自分の生まれた環境に制約をうけ、生きそして、死んでいく。それを当たり前だと受け止めるうちは、自分が環境の在り様に支配されている事に気が付いていな
だからこそ、人は知らず知らずのうちに都市計画に支配されるのである。

現代の東京は、皇居を中心に据えている。明治維新前は、お城が中心にあった。教会やお寺を中心にしている都市もある。議事堂を中心においている都市もある。広場を中心においている都市もある。都市は政治体制を象徴しているのである。

都市計画というのは、古来、百年の計と言われるくらい超長期わたるものである。
無計画に建設された都市は、規模の拡大すると規模の拡大を支え切れなくなって自壊する。
都市は、道路、交通、通信、港湾、水道、排水といった基礎、骨格となる設備の上に公共施設のような公共的な部分を中核にして計画的に構築されていかなければならない。

市場経済は、人、物、金の過不足を原動力として成り立っている。
「お金」過剰な部分から不足している部分に融通され。その「お金」の流れによって生産物を流通させ分配する仕組みが市場なのである。
故に、市場には常に、人、物、金が過剰な部分と不足している部分が混在していなければならない。
この様な、人、物、金の過不足は、差によって生じる。差が均衡している時は、人、物、金は円滑に循環するが、差が不均衡になり、市場に偏りが生じると市場は傾き、構造を維持的なくなる。
経済の根本は本来必要性に置くべきなのである。市場の過不足は、必ずしも、人々の必要性を反映したものではない。
故に、過不足だけに市場の動きを任せていると市場には歪が生じる。その歪みが市場経済にさまざまに障害を引き起こすのである。
これらの障害を抑制する為には計画の働きが必要とされるのである。
計画性というのは、生産や分配に直接介入する事を意味するのではなく。仕組みを計画的に動かす、あるいは変化させることで市場の均衡を保つ事を意味する。

市場は、過剰な部分を認識する事ができなくなると歪が生じ、暴走する。
過不足は、「お金」だけでなく、物や人にも生じる。
経済の基本は、「お金」ではなく、物と人である。
故に、本来は、物や人の過不足が経済の中心でなければならない。

飽食に明け暮れる社会がある一方で飢餓に苦しみ人がいるとしたら、明らかに経済の仕組みに欠陥があるのである。
豊かさを否定しはしない。しかし、その豊かさの反面にどうしようもない貧困が拡大しているとしたら、それは真の豊かさではない。
豊かさも貧困も分配の問題でもあるのである。

我々は、成長や拡大といった表面に現れた変化に目を奪われがちだが、実際に全体を動かしているのは、表面には現れてこない仕組みの働きである。
例えば、市場の働きは、成長や拡大にあるわけではない。成長や拡大をしなくても必要な資源を生産し分配しているのならば、本来問題はないのである。
ところが、現代人は、成長や拡大にしか経済の意義を見出さない。そのため無理な成長や拡大を促す事で市場の本来の機能を損ない、経済を衰退させてしまっている。

単年度・単年度の経済の動きは、長期全体的な構想の上に形成されるものであり、表に現れた現象は、その下部にある構造に基づいてると考えられるべきなのである。
資金の過不足は長期的な動きを勘案しながら根底の構想、計画を基準にして調整すべき事なのである。
表面に現れた現象だけに囚われるとその現象の背後にある実体が見えなくなる。
景気は、対処療法的な施策では改善できないのである。

景気というのは、二義的な指標である。
つまり、物の生産とそれを必要としている人がいる。生産された物をそれを必要とする人達にいかに公平に分配するかその仕組みが経済なのである。そして生産物を必要な人に分配するための手段の一つが「お金」なのである。金儲けというのは、手段に過ぎないのであって経済の本質は、生産と分配にある。
そして、分配の根本は、人口と分布である。
「お金」が主なのではなく、「お金」は本来脇役であって従なのである。従であるべき「お金」が主となった事によって経済の本質は見失われたのである。
経済の主役は人であり、物である。「お金」はあくまでも従なのである。
ところが、従であるべき「お金」によって主たる人や物が振り回されているのである。
私は、「お金」が大切なのではないと言っているわけではない。「お金」は大切である。
ただし、それは「お金」を正しく使っていればという前提によってである。「お金」の使い方を間違えば、「お金」は人にとって災いをもたらすのである。

物や人の節約と「お金」の節約は、意味や働きが違う。物や人の節約が即「お金」の節約と結びつくわけではないし、「お金」の節約が物や人の節約になるわけではない。

貨幣経済の要は、借金と費用である。借金は悪い事と決めつけ、費用を削減するから経済は、活力を失うのである。
景気を維持しようとしたら費用を生み出す事である。なぜなら、費用が所得を形成する源だからである。、費用を削減すれば、所得が削減される。当然総所得が低下するのである。総所得を向上させようと思ったら、費用を創出し維持する事である。
費用を過剰に削減化する事は、経済の無人化を促進する事になるのである。費用の本質は個人所得である。費用を削減する事は間接的に個人所得を削減する事に結び付くのである。

価格は、安いか高いかが問題なのではない。適正な価格か否かが問題なのである。適正な価格か否かが問題なのである。適正な価格より高ければ競争を促して価格に下げ圧力をかければいい。しかし、過当競争によって価格が下げ過ぎたら、競争を抑制する政策をとる必要がある。
価格が適正か否かは、費用対効果の問題である。適正な費用を確保できなければ、景気は良くならない。なぜならば費用と所得、収益は表裏の関係にあるからである。

現代の市場経済は利益至上主義的なところがある。
利益のみを追い求めて経営の実態は理解できない。
増益と言っても何によって利益が向上したのか、それを解明しないと利益が景気にどのような影響を与えているかは解明できない。
利益を生み出している構造を見なければ利益の意味は理解できにないのである。
問題は、利益の元となっている実体である。利益は差額勘定である。
何と何の差なのか、それが重要なのである。
第一に、利益は、収益から費用を引いた差額である。
何によって利益が計上されたのか。収益が増加したのか、それとも、費用が削減されたのか。
増収に基づいて利益が上がっているとは限らない。収益は横ばいで費用が削減された場合、収益は下がっているがそれ以上に費用が削減された場合でも利益は上がる。また、収益が向上しても費用が削減されている場合もあるのである。
費用削減は、人件費すなわち個人所得の減少を意味するのである。
いくら企業氏の利益が増えても個人所得が減少したら、消費は上向かず。
景気は回復しない。
収益構造が問題なのである。

経済は金儲けが主なのではないと言う点に気が付かない限り、景気は良くならない。

経済というのは、生きるための活動である。
生きるために何が必要なのか、それが十分に行渡っているのかが、本来経済を表す指標なのである。
そうなると単に市場の動向だけでは、景気の実体を判断することはできない。

例えば住宅でいえば、快適に生活できる住宅をすべての人が住めるようにしているかが、経済の仕組みを測る基準であるべきなのである。
いくら金があっても快適な住宅に住めないのでは意味がない。

少子高齢化が叫ばれ、空き家、空室率の上昇が懸念される一方で高層マンションの建設が進んでいたり。
住む家がなくて公園住まいしている人がいる反面、高価な家が売れないで空き家が増えている。
家のローンが払えずに住み慣れた家を手放さなければならない人がいる。
こんな状態では、景気は良くならない。
本当に住む家を必要としている人に家を提供するのが経済の仕組みでなければならない。

家を建てるというのは、一生のうちに一度か二度しかない大事である。
目先の事で家を建てたり、壊したりするのではなく。
一生という長期的な展望に基づいて計画的に立てる事である。
そして、子供の成長や冠婚葬祭といった環境の変化に応じて改築していくのである。

現実に少子高齢化に伴い、人口は、特に生産年齢人口を中心に減少し、着工件数も減っている。その分、経済的にゆとりが出なければならないのだが、逆に、ゆとりが発生した分、市場が縮小し、経済が縮小する。
経済は、環境状況の変化に伴って変態すべきところを規制を目の仇にした結果、経済の基礎となる市場構造が経済の置かれている状況に適合せずに景気の状態が悪くなっているのである。
経済は、成熟するにしたがって量から質の経済へと変貌しなければならない。ところが質的な変化を促すべき時に、量を重視した施策をとったことが経済に決定的なダメージを与えてしまった。
終戦後、焼け跡の廃墟となった日本は、圧倒的に住宅が不足した。とにかく住む家を確保するために、バラックのような家を建てた。やがて、高度成長の時代に移り、人口の急激な増加と所得の増加に従って住宅の着工件数も右肩上がりに上昇し、分譲マンションのような集合住宅も普及し、土地神話も生まれた。また、雇用も安定し、終身雇用年功序列型賃金体系も定着し、それに伴って住宅ローン、生命保険のような金融制度の深化した。
それがオイルショックを境に低成長時代に移行し、それまでの終身雇用年功序列型賃金体系が通用しなくなり、リストラ、人事制度の変革を促した。やがてそれは、非正規雇用労働者の労働人口に占める比率を高める事になる。
そして、円高ショックが高度成長経済にとどめを刺し、バブルを引き起こすのである。バブル崩壊後、総所得は減少に向かい、景気は長期低迷へと移行する。これは、環境の変化、状況の変化、構造の変化を無視して小手先の施策をとり続けた結果である。

バラックから一般住宅が普及する段階では、とりあえずは住めればいいと粗製乱造の家が多くあった。公団住宅が売り出されたのもそのころである。住宅専門金融機関が生まれ、順調に規模を拡大したのも時代の必要性によってである。
住宅がある程度行渡り、成長に陰りが見えた時は、価格競争から質の競争へと市場環境を変化させる必要があったのである。
大量生産、大量消費型経済から少品種多様生産型経済への移行が必要だったのである。
バブル崩壊後、規制緩和・規制緩和と強引に価格競争に引き戻し、量の経済に固執した。その結果、健全な住宅市場の形成が妨げられたのである。

円高ショック後、本業において収益の向上が見込めなくなった企業は、財テクと称して金融へと重点を移していった。それがバブルを引き起こしたのである。バブルは、結局、実需を市場から排除してしまった。その結果健全な住宅市場の育成ができなかったのである。バブル崩壊後、住宅の着工件数は減少の一途をたどり、空き室・空き家は増加する事となる。
高齢社会を想定した住環境、グレードアップを前提としたリフォーム、中古住宅市場の整備など住協環境をよくするような施策は後手後手に回っている。
住宅市場は、バブル以前よりも荒廃していると言える。工務店の多くは、バブル崩壊、リーマンショックの後遺症からいまだに抜けきらないでいる。この様な状況では景気は向上しない。

バブル時代、地価は異常に高騰し、値上がりによる金儲けが目的となった。
そのために、実際に家を必要としている人が家を手に入れる事が困難になってしまったのである。この様な現象は本末転倒である。

一体全体、豊かな住環境とは何を指すのか。
人口の動向と、所得、そして、家の軒数の均衡が住環境を決定づけていると言える。

私の子供の頃、大工と言われた町の工務店は、家を建てた後も定期的に立てた家を見回り、家の補修や修繕をしてくれたものである。だから、大工さん大工さんと大工の棟梁は、親しまれてきた。仕事がなくても仕事がないなりに稼ぎ口を作り暮らしてきたのである。

現在、戸建ての着工件数が減少し、高層マンションが増えている。それは、少子高齢化社会の到来によって生活環境の変化が影響している事に起因している。人口が減少し、着工件数が減少したら一戸一戸の工事単価を上げる事を測るべきなのである。
その時に安売りを奨励し、価格競争を強いれば良心的業者から淘汰されてしまう。
また、単価を引き下げようとして労働環境を悪化させる結果を招く。

住宅に対する経済施策の原点は、どんな街、どんな家に住みたいか。それが根本的な問題でなければならない。

経済が本来求めるべきなのは、生活の質なのである。
必要な物を必要なだけ、必要な時に、必要としている人に分配するそれが経済の目指しているところである。
お金儲けは目的とはならない。

現代は、消費のために生産があるのではなくて、生産のために消費があるような歪んだ体制である。
必要もないのに、家を建てる。しかし、本当に家を必要としている人は、家を買う「お金」がないのである。

いろいろな経済政策が打たれていて、表面に現れる指標のいくつかは、景気が好転しているように見えるが、一向に景気が上向いているという実感がなかなか持てない。
それは、景気を金銭的な指標だけで判断しようとしているからである。
一般大衆が問題とするのは、問題なのは、実質的に自分たちの生活が向上したかどうかなのである。

現在の日本経済の景気状態を考えるうえで、バブルとバブル崩壊が決定的な要因となっている。
故に、現在の日本の景気を考察するためには、何が、バブルを崩壊させ。何が、バブル崩壊後の景気低迷を招いたのかを明らかにすることは不可欠である。

バブル崩壊とその後の状態を明らかにするためには、バブル崩壊前後にどのような施策がとられたかを知ることである。

景気は、収益、費用、借金がカギを握っていると言える。バブル崩壊前後において収益、費用、借金に対してどのような施策がとられ、その結果、どの様な状態に市場がなったのかを検証する必要がある。

一つひとつの施策は個々独立して見えるが、実際は、相互に影響をしながら、複合的に作用したと考えられる。
問題は、思索の整合性が、誰によって、どの様な考えの基、どの様にとられたかである。

バブルが崩壊した後とられた象徴的な施策は、規制緩和、高金利、金融マニュアルである。
これらはすべて収益を圧迫する施策である。そして、利益を重視した経営を促せば確実に景気は停滞する。
そして、これらの政策の反動でゼロ金利政策、金融緩和、マイナス金利政策がとられるようになっているのである。

何かというと規制緩和、規制緩和、規制緩和は経済の万能薬のように言われている。
規制緩和は、過当競争を招き、結局価格競争へと追いやるのである。
安売り、安ければいいというのは市場を頽廃化させてしまう。
しかし、規制を緩和し競争を促せば景気は良くなると決めつけるのは短絡的である。
規制を緩和する事によって市場にどのような影響が出るのか。それをしっかり見極める事が大切なのである。
過当競争は、収益を圧迫し、市場を収縮する働きがある。
単に利益だけを見ていたら規制緩和の市場に対する働きは理解できない。

現に規制を緩和し、自由競争に委ねられた石油業界は、寡占状態に陥った。
利益だけでなく収益を確保できる体制を維持する事も、景気においては大切な要素なのである。

私は、規制課緩和が正しとか、悪いとか言っているのではない。何でもかんでも規制を緩和すればいい、規制は悪いという風潮に反発を覚えるだけである。今の議論は、始めに規制緩和ありきだから問題なのである。

また、景気を左右するのは、利益だけではない。キャッシュフローも重要な働きをしている。

景気は、市場の表面に現れる資金の流れすなわちフローの働きによって成り立っている。
資金の流れが物の流れを作り出しているのである。
この資金の流れを生み出しているのが、資産、そして、負債、すなわち、ストックである。
資金の流れによる働きは所得と費用である。所得と費用は資金の働きを言う。資金の入りと出が収入と支出である。
所得と費用と、収入と支出は必ずしも重ならない。

経済は、成長だけがすべてではない。停滞する事も衰退する事もある。しかし、停滞したり、衰退する事は悪い事と決めつけるのは短絡的である。それは一つの状態を表しているのに過ぎない。成長を前提とした経済体制では、停滞した時や衰退期に対処できなくなり、経済の仕組みそのものを破綻させてしまうから悪いのである。
成長産業だけが経済ではない。新興産業だけに景気の動向をかけるから経済がうまく機能しなくなるのである。
景気を支えているのは、むしろ伝統的産業であり、伝統的産業の在り様こそカギを握っているのである。

金融を緩和して資金の流通を増やし、金利を低くしているというのに、なぜ、貸付金が増えないのか。
それは、お金を集められても使い道がないからであり、使えば、回収できなくなるからである。

2000年を境にして外部資金調達から内部資金調達に移行した。この事は実物市場に資金の供給がされなくなったことを意味する。
そして、市場の収縮が始まったのである

都市計画は、その都市に住む人の生活設計、人生設計の基盤である。
つまり、都市計画は、生活を設計し、人生を設計する事なのである。

経済の仕組みは、必要な資源、生産財を必要なだけ調達・生産し、必要な個所、人、部分に供給分配する仕組みであり、「お金」はそのための手段である。
故に、金儲けは目的ではない。人々が豊かで幸せな生活を送るための手段である。

価格は、売り手と買い手双方に利益をもたらす事でなければ意義がないのである。
我々は、安物買いの銭失いとか、安ければいいというものではないと躾けられてきた。大切なのは、品質を見抜く目利きなのである。
また、スーパーが下町で長い間はやらなかったのは、スーパーは自分の商売の客にならないという思いである。商売はお互いさまで、どちらか一方だけに利益になるような商売は長続きしないという認識を下町の人間が共有してきたからである。
お互いさま、助け合い。それを根本に義理だ人情だという関係が形作られてきた。
町全体でいいものや大切な技術は守ってきたのである。そこでいう利益は、公共の利益でもあった。
そういう関係の中では、安いというのは、二義的な基準に過ぎない。絶対的基準ではなく、相対的基準なのである。
根本にある人間関係、規範が失われた結果、安ければいいという考えに支配されるのである。
商売の根底にあるのは、必要な物を必要としている人に必要なだけ供給する事であり。必要性は量だけでなく質の問題でもあるのである。
根本にあるのは経済の本質である。それは必要なものを必要なだけ必要としている人に配る事である。所得はそのためにある。「お金」はそのための道具である。

借金や費用はいいか悪いかが問題なのではなく、正常に機能しているかいないかの問題なのである。

かつて、同じ服を着て、同じものを食べ、同じ家に住む事を平等だとした国がある。その国の末路は歴史が証明している。
人は皆違う。それが平等の前提なのである。
人が皆違うのならば、その差をどのように認識し、それを経済の仕組みにどのように取り組んでいくかが平等本来の問題なのである。
何を根拠に差をつけるか、それが平等とは何かの根本なのである。

料理だって工場生産すれば均一で、均質な料理を低価格で一様に提供する事は可能である。
しかし、それを市民は望んでいるか。それが問題なのである。そこは思想哲学の問題である。しかし、私は、全てを均一均等均質にすることが豊かさの基準、幸福の基準、平等の基準にはならないないと考えている。私は人々の趣味嗜好、好き、嫌いは一人一人違うという事を前提としている考えているからである。

経済を動かしているのは、差である。経済を停滞させ、あるいは破たんさせるのも差である。
経済を動かす仕組みが差だからこそ、差のつけ方を間違えれば逆効果になる。仕組みを破綻させもするのである。
だからと言って差をつけること自体が悪いというのは乱暴である。

差をつける事は悪い事ではない。差をつけるから資金は市場に循環するのである。差がなくなれば資金は市場に循環しなくなる。
給与に差がつけられるからやる気が出るのである。やってもやらなくても同じならやる気なんてなくなる。

反面、何の努力もしない者が高額の財産をもっていて努力したものが報われないと思ったら、やる気は失せてしまう。汗水流して働いている者が報われず、ただ親の残した財産で遊びまわっている者ばかり報われていたら、汗水流して働いている者のやる気はなくなる。働く者からやる気がうせたら景気は良くならない。

いくら頑張っても超えられない格差があったらやはりやる気はなくなるだろう。
やってもやらなくても同じならやる気もなくなるが、反対にいくら努力しても超えられない壁があったら「やる気」がなくなる。

さらに言えば、何に基づいて差をつけるか、それが問題なのである。
差のつけ方を間違うと、差は累積する。
差をつける根拠は、その人が持っている本来の実力に限る。
実力以上の差がつけられれば当人にとっても負担になる。

格差というが、格差にも二種類ある。一つは、フローが生み出す格差である。もう一つはストックが生み出す格差である。
フローによる格差というのは、消費に反映される。しかし、ストックによる格差は、負債と資産に反映される。
この二つの差の働きが景気に決定的な差を生じさせるのである。
ストックによる差は、支払い準備の差である。フローとストックの差の均衡は大事である。
しかし、ストック面で極端な差が生じるとフローは乱れる。それが問題なのである。

今日、根拠ある基準として考えられているのが第一に、能力。第二に、功績。第三に、仕事の性格や内容。第四に必要性である。この四つの根拠として適正な差をつけ評価する。それが、経済の仕組みを健全に機能させる要因なのである。

差は、所得に反映される。給与に差をつけるからやる気は保たれる。努力していい結果を出した者と適当にやって大した結果を出さなかった者を同じに扱ったらやる気はなくなる。

どんな生き方をしたいのか、それが経済の根本なのである。




       

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